第7話:番外編:この二人じゃ笑えない
私は、この獣王国で文官として働いております。
ノーフと申します。
種族は虎種。生まれも育ちもジーラット国でございます。
王城に仕えるようになってから、それなりの年月が経ちました。
主な仕事は、ラビリンス宰相様から指示された資料を集め、内容を整理し、文書にまとめること。
仕事は、さほど忙しくありません。
同僚にも恵まれ、毎日とても充実しております。
我らが獣王ライオネス陛下は、豪快で懐の深いお方です。
そして、陛下をお支えするラビリンス宰相様は、冷静沈着で、どのような仕事もそつなくこなされるお方。
……実に、頼もしいお二人でございます。
私は、この国で働けることを誇りに思っております。
思って、おりました。
……いえ。
今でも、そう思っております。
ただ。
先日、私は一つ、身の毛もよだつ経験をいたしました。
あれから何日か経った今でも、時折思い出しては、何とも言えない気持ちになるのです。
……。
…………。
何が、いけなかったのでしょうか。
私には、いまだに分かりません。
少し、当日の出来事を振り返ってみたいと思います。
◇
その日も、いつもどおりの朝でございました。
私は書類をまとめ、必要な資料を確認し、上司へ報告する内容に間違いがないか目を通しておりました。
特に問題はありません。
午前中のお仕事は順調に進みました。
昼食も、おいしくいただきました。
……ああ。
何とも、平和な一日だったのです。
午後になりますと、王城が少し賑やかになりました。
どうやら、シルク王国からお客様がお見えになったようです。
リアリス様、というお名前だと聞きました。
私は直接お会いしたことがありません。
しかし、近頃いくつかの国を訪問されているというお話は耳にしておりました。
ライオネス陛下との謁見も、あらかじめ予定されていたようです。
……重要なお客様なのでしょう。
私たち文官は、邪魔にならないよう、いつもどおり仕事を続けておりました。
ただ、一つだけ。
廊下の向こうから、陛下の大きな笑い声が聞こえてきたのです。
「がっはっはっは!」
……おや。
何やら、楽しそうです。
陛下は、普段からよくお笑いになります。
しかし、その日の笑い声は、いつもより一段と大きく聞こえました。
お客様と、よほど気が合われたのでしょうか。
……それは、何よりでございます。
私は、手元の書類へ視線を戻しました。
あのときは、まだ。
まさか、その笑い声が後の惨事につながるなど、想像もしておりませんでした。
◇
それから、しばらく経った頃です。
「ノーフ殿」
同僚が、私の机へやってまいりました。
「はい。何でしょう」
「ラビリンス宰相様から、文官を数名、謁見の間へ集めるようにとのお話がありました」
……おや。
これは、珍しい。
謁見の間へ呼ばれるのは、通常、何か重要な案件があるときです。
文書の確認でしょうか。
新たな取り決めについて、記録を残す必要があるのでしょうか。
ちょうど、シルク王国からのお客様もいらっしゃっております。
……なるほど。
きっと、何か大切なお仕事なのでしょう。
「承知いたしました。すぐに参ります」
私は、書類を机へ置き、身なりを整えました。
同僚たちも、同じように準備を始めております。
皆、真面目で働き者ばかりです。
私も、見習わなければなりません。
……さあ。
今日も、しっかりと務めを果たしましょう。
◇
謁見の間へ通されると、少し不思議なことがございました。
玉座に、陛下がいらっしゃらないのです。
いつも玉座の近くに立っておられる、ラビリンス宰相様のお姿もありません。
……おや?
私たちが、少し早く来てしまったのでしょうか。
案内してくださった兵士の方は、特に何もおっしゃいませんでした。
ということは、このまま待っていてよいのでしょう。
私たち数名の文官は、横一列に並びました。
そして、陛下がお見えになるまで、その場で片膝をついて待つことにしたのです。
……。
…………。
静かです。
広い謁見の間には、衣服がわずかに擦れる音さえ響きそうでした。
隣の文官が、背筋を正します。
私も、それに倣いました。
……うん。
大丈夫です。
王城で働く者として、礼儀に不備があってはなりません。
やがて、奥の扉が開く音がいたしました。
……!
いらっしゃいました。
私は、さらに深く頭を下げました。
足音が、二つ。
どうやら、陛下と宰相様がご一緒のようです。
……さあ。
どのようなお仕事を申しつけられるのでしょうか。
私は、少し緊張しながら、そのときを待っておりました。
◇
「どうも~! 獣王国の王、ライオネスでーす!」
……。
…………。
……はい?
私は、思わず顔を上げてしまいました。
そこには、ライオネス陛下が立っておられました。
間違いありません。
あの立派なたてがみ。
堂々とした体格。
我らが獣王、ライオネス陛下です。
……ですが。
陛下は、片方の手を小さく挙げておられました。
手のひらを、ひらひらと揺らしておられます。
……。
…………。
……なぜ、そのようなご挨拶を?
私は、一瞬、礼を返すべきか迷いました。
しかし、陛下のお言葉は続きません。
代わりに。
「どうも~! 獣王国でライオネス様の非常食をしてます、ラビリンスで~す!」
……。
…………。
……え?
今、何と?
非常食?
……非常食、とおっしゃいましたか?
顔を上げると、ラビリンス宰相様が陛下の隣に立っておられました。
いつもどおりの、あの落ち着いたお顔。
長い兎の耳。
小柄なお身体。
間違いなく、ラビリンス宰相様です。
……。
…………。
……いや、待ってください。
先ほど、ラビリンス様は何とおっしゃいました?
獣王国で。
ライオネス様の。
非常食を。
している。
……。
…………。
何を、おっしゃっているのでしょうか。
私たちが意味を理解できないでいると、さらに驚くべきことが起こりました。
「食べちゃうぞ~! ガオー!」
ライオネス陛下が、両手を軽く持ち上げました。
そして、ラビリンス様へ向かって、爪を立てるような仕草をなさったのです。
……っ!?
「きゃー!」
ラビリンス様が、両手を頬へ添えて小さく身を引かれました。
……。
…………。
……。
何でしょう。
この光景は。
獣王陛下が。
宰相様を。
食べる真似を?
……。
…………。
助けを呼ぶべきなのでしょうか。
ですが、ラビリンス様は悲鳴を上げられたというのに、まったく慌てておられません。
陛下も、笑顔です。
……。
…………。
そして、お二人は私たちへ向かって、声を揃えられました。
「「どうもありがとうございました~!」」
ぺこり。
陛下とラビリンス様が、そろって頭を下げられました。
……。
…………。
………………。
……終わった、のでしょうか。
◇
静寂。
ただ、静寂だけが広がっておりました。
私は、目の前のお二人を見つめました。
ライオネス陛下は、何やら満足そうです。
ラビリンス様も、少しだけ口元を緩めておられます。
……。
…………。
……何が起きたのでしょうか。
少し、整理してみましょう。
まず、陛下がご自身のお名前を名乗られました。
……うん。
それは、分かります。
すでに存じ上げておりますが、改めて自己紹介なさったのでしょう。
少々、愉快な言い方ではありましたけれど。
……まあ、よいでしょう。
問題は、次です。
ラビリンス様が、ご自分を非常食とおっしゃったのです。
……。
…………。
非常食。
……非常食、です。
王国の宰相を務めておられる、あのラビリンス様が。
自らを。
非常食と。
……。
…………。
……洒落になりません。
私は、虎種です。
陛下は、獅子種。
そして、ラビリンス様は、兎種。
……。
…………。
お分かりでしょうか。
こうして並べると、どうしても。
……いえ。
考えてはなりません。
絶対に。
同じ国で、共に暮らす獣人なのです。
種族が違っても、我々は仲間です。
それを。
食べる。
食べちゃうぞ。
ガオー。
……。
…………。
……ああ。
私が恐れていること、お分かりいただけるでしょうか。
もちろん、陛下が本気で宰相様を召し上がるなど、あり得ません。
あり得ないはずです。
……ない、ですよね?
私は、急に自信がなくなりました。
視線を横へ向けます。
隣の文官は、顔を引きつらせておりました。
その隣も。
さらに、その隣も。
全員、見事に固まっております。
……ああ。
よかった。
私一人がおかしいわけではないようです。
……いえ。
よくありません。
若い者の言い方を借りるなら。
……ドン引き。
まさしく、それでした。
◇
「……ふむ」
ライオネス陛下が、腕を組まれました。
……っ。
何か、お考えでしょうか。
私は、さらに背筋を伸ばしました。
「やはり、これではあまり笑ってくれぬか」
……。
…………。
……笑う?
……ああ。
そういうこと、でしたか。
今のは、笑ってよいものだったのですね。
……。
…………。
いやいや。
それは、無理ではありませんか!?
獣王陛下と宰相様が、そろってお出ましになったのです。
我々は、何か大切な命を受けるものと考えておりました。
それが。
まさか、いきなりお二人で演劇を始められるとは。
しかも、内容が非常食。
……。
…………。
この状況で笑える文官が、果たして何人いるでしょうか。
「……はい」
ラビリンス様が、小さく頷かれました。
「獣人国では、あまり笑いとして受け取られないのかもしれませんね」
……。
…………。
ラビリンス様。
恐れながら。
たぶん、違うと思います。
問題は、国ではないのです。
……ラビリンス様。
ラビリンス様が兎種だからです!
それなのに、陛下が食べる真似をなさったからなのです!
しかも、私は虎種です!
この冗談が面白いと笑ってしまったら、私まで何か恐ろしいことを考えているように思われかねません!
……。
…………。
……言えません。
絶対に、言えません。
私は、膝の上に置いた両手をぎゅっと握り締めました。
せめて、表情だけは平静に。
そう思ったのですが。
……。
…………。
無理でした。
頬が、引きつって仕方ありません。
◇
「……うむ」
陛下は、少し考え込まれたあと、私たちへ向き直られました。
「文官の諸君、すまなかったな。もうよいぞ。それぞれの仕事へ戻ってくれ」
……。
…………。
……はい?
お仕事は?
新たなご指示は?
私たちが呼ばれた理由は?
……。
…………。
もしや。
今の、あの……。
演劇を見せるためだけに、呼ばれたのでしょうか。
「……か、かしこまりました!」
私は、慌てて頭を下げました。
ほかの文官たちも、一斉に礼をします。
「失礼いたします!」
そして、私たちは謁見の間を後にしました。
……。
…………。
廊下へ出ても、誰も口を開きません。
私は、隣の文官を見ました。
彼も、こちらを見ています。
……目が、合いました。
……。
…………。
……何と言えばよいのでしょう。
お疲れさまでした。
……違います。
面白かったですね。
……絶対に違います。
……いや、面白いと申し上げるべきだったのでしょうか。
……それはそれで、恐ろしい。
全員、引きつった顔のまま、無言で廊下を歩きました。
王城の窓から差し込む午後の日差しは、相変わらず穏やかです。
遠くからは、いつもどおりの仕事の音が聞こえてきます。
……。
…………。
何も変わっていないのです。
変わったのは、私たちの心だけなのでしょうか。
◇
その後、私は自分の席へ戻りました。
机の上には、さきほどまでまとめていた書類がございます。
何事もなかったかのように、綺麗に並んでおります。
……ああ。
仕事です。
仕事へ戻りましょう。
私は一枚目を手に取りました。
……。
…………。
文字が、頭に入ってきません。
目を閉じると、あの光景が浮かぶのです。
「食べちゃうぞ~! ガオー!」
「きゃー!」
……。
…………。
……どうしてでしょう。
いつも尊敬しているお二人の声なのに。
何とも言えない、背筋の冷たさを感じるのです。
私は、何度か深呼吸をしました。
……落ち着きましょう。
今までどおり、働けばよいのです。
陛下は豪快なお方。
ラビリンス様は優秀なお方。
それは、何一つ変わっておりません。
ただ、お二人が少々変わったことをなさった。
……それだけです。
それだけ、なのですが。
……。
…………。
やはり、分かりません。
何だったのでしょうか。
私たちは、どうすればよかったのでしょうか。
笑うべきだったのでしょうか。
笑わない方が、正しかったのでしょうか。
……。
…………。
今になっても、答えは出ません。
これが、先日私の体験した、身の毛もよだつ出来事でございます。
どうか皆様にも、想像していただきたい。
獣王陛下と宰相様が、真剣なお顔で目の前に現れたかと思えば。
突然、あのような演劇を始められるのです。
……。
…………。
私には、とても笑えませんでした。
◇
――その頃、獣王城の謁見の間では。
呼び出した文官たちが去ったあとも、ライオネスとラビリンスの二人が残っていた。
ライオネスは、立派なたてがみを揺らしながら、腕を組む。
「……う~む。何がいけなかったのか……」




