第5話:人と魔族が握手する日
……ははははっ!
シルク王国邸の会談室に、笑い声が響いていた。
国王さんも、皇帝も、法師長さんも、教皇さんも。
魔王ドルステンとグリンヒルダさんまで笑っている。
……うん。
さっきまでの、あの重苦しい空気が嘘みたいだね。
二千年にわたる人間と魔族の争い。
その始まりが、当時の人間の国王が魔王のケーキに乗っていたイチゴを勝手に食べたことだったなんて。
……いやぁ。
何度考えても、すごい話だよね。
……でも。
私は、卓の上へ目を向けた。
笑顔の人たちの前には、まだ書類が広がっている。
宣戦布告。
軍の配置。
過去の被害。
国境や航路の安全。
……そうだ。
真相が分かって、みんなで笑えた。
それは、とても嬉しいことだけど。
まだ、和平が成立したわけじゃない。
私は、飲みかけのお茶をそっと置いた。
「……皆さん」
呼びかけると、笑い声が少しずつ収まっていく。
「そろそろ、話し合いの続きをしませんか?」
カバディ王が、ゆっくり頷いた。
「……そうだな。ここからが、我々の仕事だ」
皇帝も、背筋を伸ばす。
「はっはっは! 確かに。笑って終わりでは、民に顔向けできん」
魔王が、重々しく腕を組んだ。
「うむ。吾輩も同じ考えだ」
……おお。
みんな、ちゃんと切り替わった。
……いや。
今、魔王がちらっと自分の皿を見た気がするけど。
…………。
……うん。
イチゴは、もう食べ終わってるからね。
大丈夫だよ!
◇
会談が再開すると、最初に口を開いたのはミキサーさんだった。
「では、先ほどまでの議論を整理いたします」
ミキサーさんが、一枚の紙を卓の中央へ置く。
「本日、我々が目指すのは、過去の被害をすべて解決することではありません。まず、今後の戦争を防ぐための取り決めを成立させることです」
……うん。
そうだね。
過去の悲しみを、この場で全部消すことはできない。
でも、これから新しく悲しむ人を増やさないための約束なら、できるはずだ。
グリンヒルダさんが、静かに頷いた。
「魔国としても、その整理に異存はない」
魔王も、低い声で続けた。
「……うむ。吾輩は民を守りたい。そのために必要なら、過去への怒りと、これからの判断は分けて考えよう」
……ああ。
何だか、魔王らしい言葉だね。
力が強くて、豪快で。
でも、国を守る責任をちゃんと考えている。
私は、昨日魔王城で話したことを思い出した。
……うん。
あのとき会いに行って、本当によかった。
「まずは、すべての当事国が、互いに武力で攻撃しないこと」
キリアさんが、指を一本立てた。
「そして、宣戦布告を撤回すること。この二つは、同時に行うべきでしょう」
魔王が、ゆっくり頷いた。
「……同時、か」
「はい。魔王国が先に宣戦布告を撤回しても、その間に人間側が兵を進めれば意味がありません」
皇帝が、口を開いた。
「逆も同じだな。こちらが警戒を解いた途端に魔国が攻めてきては、国が守れん」
……うん。
これまでと違って、相手を責める言い方じゃない。
お互いに、不安を一つずつ確かめているんだね。
ガラントさんが、手元の書類に書き加えた。
「では、五か国が同じ時点から新たな攻撃行動を停止し、魔王国の宣戦布告も同時に撤回する、という文言ではどうでしょう」
「防衛のための警戒態勢まで禁じるものではない、ということも明記したい」
グリンヒルダさんが続ける。
「兵を引き下げることと、自国を無防備にすることは違う」
……うん。
それは、大事だね。
「その点は王国も同意する」
カバディ王が答えた。
「民を守る備えは残す。ただし、相手を攻めるための進軍は行わぬ」
魔王も、短く頷いた。
「……よかろう」
…………。
……おお。
さっきまで何度も平行線になっていた話が、前へ進んだ。
私は、思わず桜花を見た。
桜花も静かに微笑んでいる。
……うん。
まず、一つ目だね。
◇
「ただし、攻撃された場合の対応は必要だ」
皇帝が、卓の上へ手を置いた。
「兵士が襲われているのに、命令が来るまで何もするなとは言えん」
魔王が、ゆっくり頷いた。
「当然であろう。吾輩も、民を見捨てる約束などできぬ」
……うん。
そこは、共通してるんだ。
「では、自衛のために必要な行動は認める。ただし、相手の国へ報復のために攻め込むこととは区別する」
モースさんが提案する。
「さらに、小さな衝突が起きた場合は、すぐに国同士で事実を確認する。そうした方がよいと思います」
教皇さんが、静かに頷いた。
「誤解で争いが大きくなることは、避けねばなりません」
……ああ。
そうだよね。
二千年前のイチゴの件だって。
最初に当事者たちがちゃんと謝って、周囲が話を聞いていたら、あんなことにはならなかったのかもしれない。
……うん。
同じことを、繰り返してほしくないな。
「問題は、どうやって素早く確認するかですな」
キリアさんが、私へ目を向けた。
「リアリス殿。昨日話した連絡手段について、お力を借りられますか」
「《映像通話》のことですね?」
「はい」
私は少し考えた。
……うん。
連絡できる仕組みを作るのは、難しくない。
でも、毎回私が間に入るのは、違うと思うんだ。
「方法は用意できますよ。ただ、皆さんが私を通さず、直接連絡できるようにしたいです」
魔王が、少し身を乗り出した。
「……吾輩と、人間の王が直接話せるのか?」
「はい。誰がどの相手に連絡できるかは、各国で決めてもらえばいいと思います」
グリンヒルダさんが、三つの目を細めた。
「……なるほど。何か起きるたびに、そなたを呼び出す必要はないわけだな」
「そういうことです!」
……うん。
ずっと会談の電話番になっちゃったら、カトレアとお花を見る時間がなくなっちゃうもんね。
……いや。
そんな理由だけじゃないけど!
「連絡が途絶えたときのために、書面での伝達方法も残すべきでしょう」
ミキサーさんが言った。
「魔法一つに頼り切りにならぬように」
「……同意する」
グリンヒルダさんが頷く。
……おお。
さすが宰相さんたち。
便利なものがあっても、それだけに頼るわけじゃないんだね。
◇
次の議題は、民間の人たちの安全だった。
「軍が止まっても、商人が海を渡れなければ、暮らしは苦しくなる」
ガラントさんが、資料を指差した。
「いずれは、交易の再開についても話す必要があります」
魔王が、ゆっくり頷いた。
「魔都にも商人はおる。畑で働く者も、港で荷を運ぶ者もな」
……うん。
私も、魔族領で見たよ。
荷車を引いていた男性。
畑で働く人たち。
お母さんと一緒にいた子ども。
あの人たちだって、争いが始まれば困るんだ。
「ただ、すぐにすべての往来を自由にすることは難しいでしょう」
モースさんが、慎重に言った。
「今は、お互いに相手を怖がる民も多いはずです」
カバディ王が頷いた。
「王国にも、魔族を見たことがない者は多い。いきなり大勢が行き来すれば、混乱するかもしれぬ」
……ああ。
それは、確かにそうだね。
いくら国同士が和平に合意しても、人の気持ちまで一瞬で変わるわけじゃない。
私は、魔族領で出会った人たちを思い出した。
人間だと分かった途端、子どもを家に入れた女性。
……うん。
あの人が、明日から急に人間を歓迎してくれるとは思えない。
「まずは使節や商人の安全な往来を、少しずつ認めていくのはどうでしょう」
キリアさんが提案した。
「必要な手続きと、立ち入りを認める場所を双方で定める。問題が起きれば見直せるようにする」
「……それなら、魔国も検討できる」
グリンヒルダさんが答えた。
教皇さんも続ける。
「負傷者の救護と、避難した民が故郷へ戻るための協力も、今後の議題に加えましょう」
……ああ。
それは、いいと思う。
失ったものをすぐ取り戻せなくても。
これからの暮らしを少しずつ良くすることは、できるかもしれない。
「まず、人を傷つけないこと。その次に、人が安心して暮らせるようにすること」
私は、思わず口にした。
すると、国王さんが微笑んだ。
「……うむ。順序としては、そのとおりだろう」
……おお。
何だか、褒めてもらえた?
いやいや。
今日は、私が褒められるための会談じゃない。
みんなが安心して暮らすための話し合いだからね。
◇
シルベスターさんが、手を挙げた。
「……ひとつ、よろしいでしょうか」
国王さんが頷く。
「申してみよ」
「冒険者ギルドとしては、ひとつ確認しておきたいことがあります」
……おっ。
シルベスターさんの出番だね。
「今後、魔族の商人や使節が人間の国を訪れたとき、魔族であるという理由だけで魔獣として扱われることがないようにしたいのです」
…………。
……ああ。
そこは、大事。
この世界では、魔族と魔獣は違う。
意思を持って暮らす人たちと、危険な魔獣を混同しちゃいけないよね。
「もちろん、魔族だから必ず安全という意味ではありません。人間にも犯罪を犯す者はいます。行為によって判断するべきだと思うのです」
魔王の目が、少しだけ細くなった。
「……その言葉、よくぞ申した」
シルベスターさんが、静かに頭を下げる。
「我々の依頼や討伐の判断にも、関わることですので」
グリンヒルダさんが、書類に何かを書き加えた。
「魔国でも、人間を見たというだけで危険な敵と判断することは、改めて見直す必要があろう」
……うん。
いいね。
これは、私が魔族領へ行ったときのことにもつながる。
あの兵士さんたちも、私が人間だから警戒したんだ。
もちろん、国を守る仕事だから警戒するのは当然。
でも、いきなり剣を向ける以外の方法だってあるはずだ。
「勇者殿にも、聞いてみたい」
魔王が、雪彦君へ目を向けた。
雪彦君は、姿勢を正した。
「……はい」
「これから先、魔族を見ても、そなたは剣を抜かずにいられるか」
…………。
会談室が、静かになった。
雪彦君は少し考えてから、答えた。
「……相手が誰かを傷つけようとしているなら、守るために剣を抜くことはあると思います」
「……うむ」
「でも、魔族だというだけで斬ることはしません」
……おお。
雪彦君。
いい答えだね。
「相手が話してくれるなら、まず話したいです」
魔王が、ゆっくり頷いた。
「……よい。吾輩も、勇者だからという理由だけでそなたを敵にはせぬ」
…………。
……ああ。
何だか、嬉しいな。
魔王と勇者が、同じ卓でそんな約束をする日が来るなんて。
……うん。
これも、和平への大きな一歩だね。
◇
残っていたのは、過去の被害をどう扱うかという問題だった。
……うん。
これが、一番難しいんだよね。
二千年前の真相は、分かった。
人間側の当時の国王が、魔王のイチゴを勝手に食べた。
そこから誤解と衝突が積み重なり、長い争いになった。
でも。
その後の二千年間に起きたことは、それだけでは片づかない。
「……我が国にも、過去の被害を記した記録がある」
カバディ王が、静かに言った。
「民の中には、今も魔族への怒りを抱く者がいるだろう」
魔王が、頷く。
「……魔国にも同じような者がおる」
教皇さんは、しばらく考え込んでいた。
「失った人を取り戻すことはできません。だからこそ、これからの責任を考えねばならぬのでしょう」
……うん。
そのとおりだと思う。
ミキサーさんが、ゆっくり口を開いた。
「では、過去の被害については、国ごとに記録を持ち寄り、別の協議の場で確認することにしてはどうでしょう」
グリンヒルダさんが、頷いた。
「……ただし、最初からどちらか一方にすべての責任を押しつけることは認められぬ」
「それは王国も同じ考えだ」
カバディ王が答えた。
ガラントさんが、補足する。
「何が起きたのかを確認し、補償や支援が必要な場合には、個別に協議する。そういう形が現実的でしょう」
「よかろう」
魔王が、低い声で答えた。
……おお。
ここも、まとまったみたい。
もちろん、今すぐ全部解決したわけじゃない。
でも、過去の責任の話で再び戦争になるのは、避けたいもんね。
そのための話し合いを続ける。
……うん。
それなら、私も賛成だ。
◇
「……それから」
ガラントさんが、もう一枚の紙を取り出した。
「国民への説明についても、文言を揃えておく必要があります」
…………。
……あっ。
そうだった。
二千年前のイチゴ事件は、出席者だけの秘密にすることになったんだ。
でも、和平が成立したなら、民にはちゃんと知らせないといけない。
「何と説明するべきでしょうか」
キリアさんが、静かに言った。
「過去の歴史を検証した結果、今後も戦争を続ける正当な理由はないと判断した。そう伝えるのがよいかもしれません」
グリンヒルダさんが、頷いた。
「魔国としても、その説明に異存はない」
皇帝が、腕を組む。
「ただ、『双方が悪かった』と雑に片づけるのは避けたい。実際に失われたものがあるからな」
「……そうですね」
モースさんが答えた。
「争いの歴史を否定するのではなく、これから新しい争いを始めないという意思を示すべきでしょう」
……うん。
何だか、みんなの言葉が少しずつ一つになってきた。
私は、ふと魔王を見る。
魔王は、真剣な顔で資料を見つめていた。
……ああ。
昨日、魔王城で見せてくれたあの顔だ。
民を守ることを考えている、王の顔。
その人が、今は人間の国の代表と同じ卓で、戦争を終わらせるための言葉を探している。
……うん。
やっぱり、ここまで来てよかったなぁ。
シルベスターさんが、静かに口を開いた。
「民は、難しい外交文書だけでは安心できません。自分たちの家族が明日も無事に暮らせると分かる言葉が必要だと思います」
魔王が、頷いた。
「……うむ。まったくだ」
国王さんも、穏やかに答えた。
「では、各国が同じ内容を、自分たちの民に分かる言葉で伝えよう」
…………。
……おお。
それなら、いいね。
◇
しばらくして、卓の上には一枚の新しい文書が置かれた。
ミキサーさんとグリンヒルダさんを中心に、ほかの宰相さんたちも確認したものだ。
……いやぁ。
さすがだね。
さっきまで、難しい話が山ほどあったのに。
今は、ちゃんと文章になってる。
「最終確認をお願いいたします」
ミキサーさんが、静かに言った。
カバディ王が、文書を手に取る。
魔王も、隣のグリンヒルダさんから同じ内容の写しを受け取った。
……うん。
いよいよだね。
文書に記された内容は、大きく分けていくつか。
五か国は、互いへの新たな攻撃を行わないこと。
ドルステン魔国は、宣戦布告を撤回すること。
その二つは、合意が発効する時点で同時に適用すること。
防衛のために必要な行動は認めるが、報復を理由に新たな侵攻を始めないこと。
衝突や事件が起きた場合には、各国が速やかに連絡を取り合い、事実を確認すること。
使節や商人の往来、民間人の安全、過去の被害への対応については、継続して協議すること。
……うん。
どれも、さっきまでみんなが真剣に考えたことだ。
そして、最後には。
今後、種族の違いだけを理由に相手を敵として扱わず、平和的な関係を築くよう努めること。
……ああ。
何だか、いい言葉だね。
もちろん、これだけで二千年のわだかまりが消えるわけじゃない。
でも。
今日、ここから始める。
そういう約束なんだ。
「リアリス殿」
カバディ王が、私を見た。
「これで、よいと思うか」
…………。
……あっ。
私に聞くんだ。
「……はい。とてもいいと思います」
私は、ゆっくり答えた。
「ただし、これは皆さんが決めたことです。私が決めたわけじゃありません」
国王さんが、少しだけ微笑んだ。
「……うむ。だからこそ、我々が責任を持つのだ」
……ああ。
そうだね。
この人たちは、ちゃんと覚悟を持ってるんだ。
◇
「……では」
カバディ王が、立ち上がった。
それに続いて、皇帝が席を立つ。
キリアさんも。
教皇さんも。
そして。
ドルステン魔王も、ゆっくり立ち上がった。
…………。
……うん。
すごい光景だなぁ。
五つの国の代表が、同じ卓の前に立っている。
さっきまで、二千年の争いについて話し合っていた人たち。
今は、これからの平和のために立っている。
「シルク王国として、合意する」
カバディ王が、静かに言った。
「ローズ帝国も、合意する」
皇帝が、堂々と答えた。
「フォーサイド魔法国として、合意いたします」
キリアさんが、深く頭を下げた。
「オリミス聖国も、合意いたします」
教皇さんが、穏やかに続ける。
最後に、魔王が口を開いた。
「……ドルステン魔国も、この合意を受け入れよう」
…………。
……おお。
……おおおお!
今、本当に。
五か国が、同じ約束をした!
私は、思わず息を止めていたことに気づいた。
……ああ。
よかった。
まだ、手続きは残ってるけど。
でも、ここまで来たんだね。
各国の代表が、一人ずつ文書へ署名する。
カバディ王。
ヴァリロッサ皇帝。
キリア法師長。
パーシー教皇。
そして、ドルステン魔王。
五つの署名が、同じ紙の上に並んだ。
ミキサーさんとグリンヒルダさんが、内容に相違がないか最終確認する。
……うん。
そこは、きっちり。
やっぱり宰相さんたちの仕事だね。
「……相違ありません」
「魔国側も確認した」
…………。
ミキサーさんが、ゆっくり顔を上げた。
「それでは、合意はここに成立いたしました」
……っ。
…………。
……本当に?
……本当に、成立したんだ?
魔王が、深く息を吸った。
「……吾輩は、ドルステン魔国の宣戦布告を撤回する」
カバディ王が、まっすぐ魔王を見る。
「シルク王国も、魔国への新たな攻撃を行わぬことを誓おう」
ほかの代表たちも、同じ意思を示した。
…………。
……ああ。
終わったんだね。
いや。
終わった、というより。
今、終わらせることを決めたんだ。
長かった争いを。
これから、終わらせていくんだね。
◇
「……魔王」
カバディ王が、卓の向こうへ歩み出た。
「……うむ」
魔王も、一歩前へ出る。
二人の間には、少し距離があった。
……ああ。
昨日までなら、こんなふうに近づくことさえ難しかったかもしれないね。
「過去の争いが、今日一日で消えるとは思わぬ」
国王さんが、静かに言った。
「……吾輩もだ」
「だが、我々がこれからの世代へ、同じ争いを残す必要はない」
魔王が、頷いた。
「……うむ。そのとおりだ」
そして。
カバディ王が、右手を差し出した。
…………。
……おお。
魔王が、その手を見つめた。
ほんの少しの沈黙。
次の瞬間。
魔王の大きな手が、国王さんの手を包み込んだ。
……ああ。
握手だ。
人間の国王と、魔族の魔王。
その二人が、今、同じ場所で握手をしている。
皇帝も、キリアさんも、教皇さんも。
みんなが、静かにその光景を見つめていた。
……うん。
こういうの、いいなぁ。
誰も武器を持ってない。
誰かを倒そうともしていない。
ただ、お互いの手を握っている。
……ああ。
こういう光景を見たかったんだ。
「……リアリス様」
桜花が、小さく声をかけた。
「……うん」
「よかったですね」
…………。
……うん。
「……本当に、よかった」
私は、ゆっくり頷いた。
……何だか、ちょっと泣きそうだね。
◇
握手が終わると、皇帝が魔王へ近づいた。
「……ドルステン魔王」
「……何だ、皇帝よ」
「次に会うときは、もう少し気楽な話をしたいものだな」
…………。
……おお。
皇帝が、そんなことを言うなんて!
「がっはっは! 吾輩も同じ気持ちだ!」
魔王が、大きく笑った。
「ただし、剣の話ならいつでも歓迎するぞ」
…………。
……あっ。
魔王まで、そういうこと言うんだ。
皇帝の目が、少しだけ輝いた。
「……ほう?」
…………。
……いやいやいや!
待って!
今、和平が成立したばかりなんですけど!?
「……皇帝」
ガラントさんが、低い声で言った。
「今日は、剣の話は後にしてください」
…………。
……ああ。
やっぱり、宰相さんって大変だね。
グリンヒルダさんも、静かに頷いている。
「魔王様も、どうか会談の趣旨をお忘れなく」
「……む」
…………。
……あっ。
魔王、注意されちゃった。
私は、思わず笑ってしまった。
「……あはは」
……うん。
何だか、いつもの空気が戻ってきたね。
でも。
こうして笑えるのも、ちゃんと話し合いができたからなんだ。
◇
「……少し、よろしいでしょうか」
シルベスターさんが、頭を下げた。
国王さんが頷く。
「申してみよ」
「私は、国を代表して署名する立場ではありません。ただ、今回の会談に立ち会えたことを、ありがたく思います」
……うん。
シルベスターさんらしいね。
「戦争の噂が広がっただけで、冒険者も商人も不安を感じていました。正式な合意が成立したことを、早く伝えたいと思います」
魔王が、静かに頷いた。
「……魔国の民にも、同じように知らせねばならぬな」
……ああ。
そうだね。
魔族の国の人たちも、きっと不安だったはずだ。
「各国への発表は、同じ時期に行うのがよいでしょう」
ミキサーさんが言った。
「先に一国だけが発表すれば、別の国の民が誤解するかもしれません」
グリンヒルダさんも同意する。
「魔国側も、同時に知らせよう」
……うん。
そこまで、ちゃんと決めるんだね。
あとは、各国が自分たちの民へ説明する。
私がそこまで引き受ける必要はない。
……ああ。
そう思うと、少し肩の力が抜けた。
「リアリス殿」
雪彦君が、小さな声で話しかけてきた。
「……はい?」
「……俺、今日ここに来られてよかったです」
…………。
……おっ。
「何で?」
「魔王を倒すことばかり考えてたら、こういう日が来るなんて思わなかったからです」
雪彦君は、魔王の方を見た。
「……俺が勇者でも、戦わずにできることがあるんですね」
…………。
……ああ。
そうだよね。
勇者だから、魔王を倒す。
そんなお約束ばかりじゃなくてもいいんだ。
「うん。むしろ、戦わずに済むなら、その方がいいと思うよ」
「……はい」
雪彦君が、力強く頷いた。
……うん。
この子も、少しずつ成長してるんだね。
……いや。
私が師匠っぽいことを言えたかは、分からないけど。
でも、何だか嬉しかった。
◇
会談の正式な記録をまとめる間、皆さんには少し休んでもらうことになった。
……うん。
さすがに、長い話し合いだったからね。
私も、お茶を一口飲んだ。
……ああ。
落ち着くなぁ。
さっきまで、ものすごく緊張してた気がする。
でも。
和平が成立した。
五つの国が、同じ約束をした。
……うん。
何度考えても、嬉しい。
そこへ。
「リアリス殿!」
魔王が、こちらへ歩いてきた。
……おっ。
何だろう。
「はい、魔王!」
「そなたには、礼を言わねばならん!」
…………。
……あっ。
急にどうしたの?
「今日の和平会談は、そなたがいなければ実現しなかったであろう!」
「……いやぁ。皆さんが話し合ってくれたからですよ」
私は、少し照れながら答えた。
「私は、場所を用意して、ちょっとお手伝いしただけです」
「がっはっは! それを、ただの手伝いとは言わぬ!」
…………。
……おお。
すごく褒められてる。
嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいな。
国王さんも、こちらへ来た。
「リアリス殿。王国としても、深く感謝している」
皇帝も、大きく頷いた。
「お前のおかげで、魔王と同じ卓につくことができたからな」
キリアさんと教皇さんも、静かに頭を下げる。
…………。
……ああ。
何だか、すごいことになっちゃった。
「……あ、あの」
私は、慌てて手を振った。
「本当に、皆さんが頑張った結果ですから!」
……うん。
私は、そう思う。
過去を確かめる魔法は使った。
でも、和平を決めたのは、ここにいる人たちだ。
……あっ。
ただ。
一人だけ、忘れちゃいけない人がいる気がする。
「……それに」
私は、小さく笑った。
「今回、私よりもすごい人がいたかもしれません」
…………。
全員の視線が、私へ向いた。
「……誰だ?」
魔王が、聞いてきた。
私は、会談室の扉を見る。
「……巴さんです」
…………。
…………。
「……誰だ、それは」
皇帝が、真顔で聞いてきた。
「……さっき、お茶を運んできてくれた人です」
…………。
……うん。
そう。
あの絶妙なタイミングで。
イチゴのショートケーキを持ってきた、巴さん!
魔王が、少し考えた。
「……ああ。あの菓子を用意した者か!」
「はい!」
…………。
魔王の表情が、ゆっくり変わった。
「……なるほど」
…………。
……あっ。
何か、納得した!
グリンヒルダさんが、静かに目を閉じる。
「……確かに、あの場の緊張が和らいだのは事実ですな」
…………。
……おお。
宰相さんまで認めた!
「……あれは、絶妙なタイミングでしたからね」
ミキサーさんも、静かに頷いている。
……うん。
何だか、妙な流れになってきたね。
でも。
巴さん、本当にいい仕事をしてくれたんだよなぁ。
◇
「……ところで、リアリス殿」
魔王が、ふと思い出したように口を開いた。
「はい?」
「先ほどから、少し気になっておったことがある」
……おっ。
今度は何だろう。
「人間諸国の王たちは、そなたと随分親しいようだな」
…………。
……ああ。
そういうことか。
「……そうですね。皆さんには、いつもお世話になっています」
魔王が、国王さんを見た。
「そなたらは、リアリス殿とどのような関係を結んでおるのだ?」
カバディ王が、少し考えた。
「……我が国は、リアリス殿との間に、友好的な取り決めを結んでおる」
「……取り決め?」
魔王の目が、少し細くなった。
皇帝が、腕を組んで答える。
「帝国も同じだ。互いに敵対せず、リアリスの暮らしへ不当に干渉しないというものだ」
キリアさんが続く。
「魔法国でも、リアリス殿が自由に暮らせるよう取り決めています」
教皇さんも、穏やかに頷く。
「聖国も同様でございます」
…………。
魔王が、ゆっくり瞬きをした。
「……人間の四か国、すべてが?」
「……はい」
私は、頷いた。
「友好と不干渉を基本に、それぞれの国で自由に暮らせるようにしてもらってます」
……うん。
私は国を動かしたいわけじゃない。
ただ、家族とのんびり暮らしたい。
そのために、どの国でも無理な命令や干渉を受けず、住む場所を自由に選べるようにしてもらったんだ。
魔王が、しばらく考え込んでいた。
そして。
「……待て」
…………。
……あっ。
何だろう。
「……人間の国には、あるのだな」
「……はい?」
「吾輩の国には、まだないではないか!」
…………。
…………。
……あっ。
そう言われれば、そうだね。
「……うちも!」
…………。
…………。
……えっ!?
今。
魔王が。
「……魔王?」
「魔国も、リアリス殿とその取り決めを結びたい!」
…………。
……おおお。
急に来た!
◇
「……魔王様」
グリンヒルダさんが、静かに声をかけた。
「……何だ」
「どうか、落ち着いてくださいませ」
…………。
……あっ。
やっぱり、宰相さんは大変だね。
「吾輩は落ち着いておる!」
……うん。
声は、全然落ち着いてないけど。
「ただ、リアリス殿がほかの四か国と友好関係を結んでいるのなら、魔国だけが何も持たぬのは不自然ではないか!」
…………。
……ああ。
なるほど。
そういう考えなんだね。
グリンヒルダさんは、少し考えてから私を見た。
「……リアリス殿。その取り決めについて、もう少し詳しく聞かせていただけるか」
「もちろんです」
……うん。
こういう話は、ちゃんと説明しないとね。
「私は、どこかの国の家臣になるつもりはありません。特定の国のために戦う義務を負うつもりもないんです」
魔王が、ゆっくり頷いた。
「……うむ」
「ただ、好きな場所に住んで、家族と暮らして、ときどき冒険したり、お店を開いたりしたいんです」
……うん。
それが、私の希望。
最初から、ずっと変わってない。
「ですから、私や家族に不当に干渉しないことと、国の中で居住地を自由に選べること。それから、安心して暮らせる自由を保証してもらう取り決めなんです」
グリンヒルダさんが、静かに頷いた。
「……なるほど。国家への服従や軍事協力を約束するものではないのだな」
「はい。そういうものではありません」
「……ふむ」
魔王が、腕を組む。
「それなら、吾輩にも異存はない!」
…………。
……おお。
話が早い!
でも、一応大事なことを言っておかないと。
「私の方も、皆さんの国の暮らしを邪魔したり、理由もなく誰かを傷つけたりはしません」
私は、はっきり答えた。
「魔王国の人たちが普通に暮らしている場所へ、勝手に押しかけて困らせるつもりもありません」
……うん。
自由だからって、何でも好き勝手にしていいわけじゃないからね。
「それは当然であろう!」
魔王が、大きく笑った。
「吾輩が求めるのも、魔国に来たそなたが安心して暮らせることだ!」
……ああ。
それなら、嬉しいな。
私は、桜花を見た。
「桜花。どう思う?」
「リアリス様がお望みなら、私は賛成でございます」
……うん。
ありがとう。
私も、魔族の国で暮らしてみたいと思ってたんだ。
あの街には、まだ見ていない場所がいっぱいある。
おいしいものも、きっとあるだろうし。
……あっ。
イチゴのショートケーキもね!
◇
魔王国との取り決めについては、グリンヒルダさんが具体的な文書を用意してくれた。
……おお。
仕事が早い!
でも、その内容は慎重に確かめることにした。
今日の和平条約とは、別の約束だからね。
魔王国と私個人の関係。
ほかの国々は、その内容を見守るだけ。
……うん。
そこは、混ぜちゃいけない。
グリンヒルダさんが、文書を読み上げる。
「まず、ドルステン魔国は、リアリス殿およびその家族・関係者に対し、友好的な関係を保つ」
私は、頷いた。
「はい」
「次に、魔国はリアリス殿の行動や生活に不当に干渉せず、国家の命令による拘束や軍事協力の強制を行わない」
「……うん。そこは、大事です」
「また、魔国内において、リアリス殿は居住地を自由に選ぶことができる。住まいを設け、生活するための自由を保証する」
……おお。
これなら、安心して家を作れそうだね。
グリンヒルダさんが、さらに続ける。
「そして、魔国は、リアリス殿とその家族・関係者の完全な自由を保証し、正当な理由なく妨げない」
…………。
……うん。
これは、大切な約束だね。
私は、文書をもう一度見た。
「魔王国の皆さんに迷惑をかけないことは、私も守ります」
「……当然だ。互いに尊重するための取り決めであるからな」
グリンヒルダさんが、静かに答えた。
魔王も、力強く頷いた。
「うむ!」
……うん。
それなら、私も安心だ。
「魔王。ありがとうございます」
「がっはっは! 礼を言うのはこちらだ!」
…………。
……おっ。
「そなたが魔国にも来てくれるなら、これほど嬉しいことはない!」
……ああ。
この人、本当に友好的なんだね。
私は、少しだけ笑った。
「それなら、魔国にもお家を作ってみようかな」
…………。
魔王の目が、ぱっと輝いた。
「……ほう! 魔都にか?」
「まだ場所は決めてませんけど、魔都の近くがいいですね」
「よいぞ! 好きな場所を選ぶがよい!」
……おお。
即答!
グリンヒルダさんが、ゆっくり目を閉じた。
「……魔王様。住民の生活区域や土地の利用状況は、後ほど確認いたしましょう」
「……む。そうであったな」
…………。
……あっ。
やっぱり、宰相さんがいてよかった。
私も、誰かのお家の真ん中に新しい家を作るつもりはないからね。
「はい。場所はあとで一緒に確認しましょう」
「承知した」
……うん。
これなら、問題なさそうだ。
◇
書類の内容を確認し終えると、魔王が私へ向き直った。
「……リアリス殿」
「はい」
「吾輩は、そなたと友好の取り決めを結ぶことを、正式に望む」
…………。
……うん。
今度は、さっきみたいな勢いだけの言葉じゃない。
魔王として、ちゃんと考えたうえでの言葉だね。
「私も、喜んでお受けします」
私は、まっすぐ答えた。
魔王が、大きく頷いた。
「……では、決まりだ!」
グリンヒルダさんが、文書を卓へ置く。
魔王が、署名した。
続いて、私も名前を書いた。
……うん。
これで。
ドルステン魔国との、友好・不干渉・居住地自由・完全な自由の保証についての取り決めが成立した。
……おお。
魔族の国にも、安心して暮らせる場所ができたんだね。
国王さんが、穏やかに笑った。
「これで、リアリス殿は魔国とも友人になったわけだな」
「……そうですね!」
皇帝が、大きく頷く。
「はっはっは! お前らしい!」
キリアさんも、静かに微笑んだ。
「どの国でも、同じように暮らしたいという考えが貫かれていますな」
教皇さんも、嬉しそうに頷いている。
…………。
……ああ。
何だか、また大きな話になっちゃった。
でも、私の希望は変わらない。
ただ、家族と自由に暮らすこと。
それだけなんだけどね。
「……リアリス殿」
魔王が、こちらへ手を差し出した。
……おお。
握手だね。
私は、その大きな手を握った。
「これからも、よろしくお願いします。魔王」
「うむ! こちらこそ、よろしく頼む!」
…………。
……ああ。
今日は、何度も握手をする日だね。
でも。
こういう握手なら、何度でもいいな。
◇
そのあと、会談の締めくくりとして、もう一度全員が同じ卓を囲んだ。
正式な和平条約の写しは、それぞれの国が持ち帰ることになっている。
魔王国との個人的な取り決めも、別の書類としてまとめてもらった。
……うん。
これなら、混ざらないね。
私は、ようやく深く息をついた。
……ああ。
長い一日だったなぁ。
でも、よかった。
本当によかった。
「……リアリス殿」
魔王が、少し声を落とした。
「……何でしょう?」
「吾輩は、今日のことを忘れぬ」
…………。
……おお。
急に真剣な顔だ。
「二千年の争いを終わらせると決めた日。そして、そなたと友好を結んだ日だ」
私は、ゆっくり頷いた。
「……私も、忘れないと思います」
……うん。
そうだよね。
何だか、すごいことに立ち会っちゃった。
魔王が、少しだけ笑った。
「……ただし、リアリス殿」
「……はい?」
「次に会うときは、菓子を持参してもよいか?」
…………。
……あっ。
……あああ。
また、お菓子の話!
「もちろんです!」
私は、思わず笑ってしまった。
「巴さんの作ったものも、ぜひ食べてもらいたいですし」
魔王が、満足そうに頷いた。
「うむ! 楽しみにしておる!」
……うん。
この人、絶対に甘いものが好きだね。
グリンヒルダさんが、小さく息を吐いた。
……あっ。
また、宰相さんの苦労が増えたかもしれない。
◇
会談が終わると、私は参加者たちを順番にそれぞれの国へ送り届けた。
もちろん、行きも帰りも《転移》で。
……うん。
すっかり、移動係だね。
でも、今日は何だか足取りが軽い。
国王さんも、皇帝も、キリアさんも、教皇さんも。
みんな、少しだけ穏やかな顔をしていた。
雪彦君は、帰り際に深く頭を下げてくれた。
「……リオンさん。今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。来てくれてありがとう」
「俺、もっと勉強します。強くなることだけじゃなくて、ちゃんと人の話を聞けるように」
……うん。
いいね。
「それなら、きっといい勇者になれるよ」
雪彦君が、嬉しそうに笑った。
「……はい!」
……ああ。
やっぱり、素直な子だね。
シルベスターさんも、王国のギルドへ戻る前に足を止めた。
「……リアリス」
「はい?」
「お前が和平の仲介を引き受けてくれて、よかった」
…………。
……おお。
そんなこと言われると、ちょっと照れる。
「……ありがとうございます」
「ただ、しばらくは各国への連絡や住民への説明で忙しくなるだろう」
「……そうですね」
「お前も、しっかり休めよ」
……あっ。
そこは、巴さんと同じこと言うんだね。
「……はい!」
シルベスターさんは、少しだけ笑った。
「それから……あのケーキを作った巴さんに、礼を伝えておいてくれ」
…………。
……あはは!
やっぱり、巴さんなんだね!
「もちろんです!」
◇
そして、いよいよ魔王とグリンヒルダさんをお送りする番になった。
「魔王。それじゃ、魔王城へお送りしますね」
「うむ! 頼むぞ、リアリス殿!」
……おお。
今日も最後まで元気だね。
そう思って《転移》の準備をしようとした、そのとき。
「……あっ、リアリス殿」
「はい?」
「……出発する前に、ひとつお願いがあるのだが」
…………。
……おっ。
何だろう。
さっき友好の取り決めも結んだばかりだし、何か確認したいことでもあるのかな。
「何ですか?」
「……あの菓子を作った方は、まだ屋敷におられるか?」
…………。
……あの菓子。
……あっ。
「巴さんのことですか? もちろん、いますよ」
「……そうか! では、少しお目にかかりたい」
…………。
……おお。
直接お礼を言いたいのかな。
私は、桜花と顔を見合わせた。
「分かりました。ご案内しますね」
◇
巴さんは、食堂の隣でメイドたちと後片づけをしていた。
「巴さん。ちょっといいですか?」
「あら、リアリスちゃん。どうしたの?」
「魔王がお話ししたいそうで」
「……まあ、魔王様が?」
巴さんが、手を止めて振り返る。
その前へ、ドルステン魔王が進み出た。
……うん。
こうして並ぶと、すごい身長差だね。
いつも堂々としている、身長二メートル半ほどの魔王。
だけど。
…………。
……あれ?
魔王が、翼を小さく畳んだ。
それから、大きな体をぐぐっと前へ倒す。
…………。
……えっ。
お辞儀!?
しかも、ものすごく深い!
「あ、あの……本日は、大変おいしいお菓子を、ありがとうございました」
…………。
……おおお!?
魔王!?
さっきまで「吾輩は魔王である!」って堂々としていた人だよね!?
巴さんも、少し驚いた顔になった。
「あら。お口に合いましたか?」
「は、はい! それはもう! たいそう、おいしゅうございました!」
…………。
……ああ。
声まで低姿勢だ!
魔王、こんな話し方もできたんだね!
グリンヒルダさんが、そっと額に手を当てている。
……うん。
いつもの魔王を知っている人には、なかなか衝撃的な光景なんだろうなぁ。
「それは嬉しいです。ありがとうございます」
巴さんが、いつもの優しい笑顔で答えた。
すると、魔王は一度だけ大きく息を吸った。
「……それで、その……大変厚かましいお願いなのですが……」
…………。
……えっ。
何だろう。
魔王が、さらに頭を下げる。
……いやいや!
もう十分低いですよ!?
そして。
「……さっきのケーキ、お持ち帰りできませんか?」
…………。
…………。
…………。
……えええええっ!?
お、お持ち帰り!?
まさか、そのために!?
私は、思わず桜花を見た。
桜花は口元に手を添えて、静かに微笑んでいる。
……あっ。
笑うのを我慢してるね!?
巴さんだけは、何でもないことのように頷いた。
「もちろんですよ。気に入っていただけて、嬉しいです」
…………。
魔王の顔が、ぱっと明るくなった。
「……ほ、本当でございますか!?」
「ええ。少し多めに作ってありますから、お持ち帰り用にお包みしますね」
……おお。
さすが巴さん。
こんなときでも、いつもどおりだね。
巴さんはメイドたちに声をかけ、ケーキを崩れないよう一つずつ箱へ詰めてもらった。
「こちらは魔王様に。こちらは宰相様の分です」
「……吾の分まで」
グリンヒルダさんが、三つの目を少し見開いた。
「恐れ入ります。ありがたく頂戴いたします」
「ふふ。お帰りになってから、ゆっくり召し上がってくださいね」
……ああ。
お母さんだ。
国王でも魔王でも、巴さんにとっては、おいしく食べてくれるお客さんなんだね。
魔王は、箱を両手で大切そうに受け取った。
「……か、かたじけない! このご恩は忘れませぬ!」
…………。
……いやいやいや!
ケーキですよ!?
昨日、魔王城で会ったときより、ずっと丁寧にお礼を言ってない!?
私は、とうとう我慢できずに笑ってしまった。
「……あはははっ!」
「……何だ、リアリス殿」
…………。
……あっ。
急にいつもの話し方へ戻った!
「いえ……魔王、ケーキが本当に好きなんだなぁと思って」
「う、うむ! 好きなものは好きだからな!」
…………。
……おお。
開き直った!
巴さんは、私たちを見て楽しそうに微笑んでいる。
……ああ。
やっぱり、この人には敵わないなぁ。
そうして魔王は、和平条約の写しと同じくらい、いや、それ以上に大切そうにケーキの箱を抱えた。
……うん。
今日一番いい顔をしてるかもしれないね。
◇
最後に魔王とグリンヒルダさんを魔王城へ送り届けると、二人は改めて頭を下げてくれた。
「リアリス殿。今日は、世話になった」
「いえいえ。こちらこそ、ありがとうございました」
グリンヒルダさんが、静かに言った。
「魔国側でも、和平の合意を速やかに伝えます。今後の実務については、各国の担当者と協議を続けましょう」
「はい。お願いします」
……うん。
これからが、本当の意味での始まりだね。
「それと」
魔王が、少し身を乗り出した。
「魔国に屋敷を作る話、忘れるでないぞ!」
…………。
……あっ。
そうだったね。
「もちろんです。近いうちに、場所を見に来ますよ」
「うむ! 楽しみにしておる!」
……おお。
魔王、すっかり笑顔だ。
……うん。
この人が笑っている方が、ずっといいね。
私は、桜花と一緒に頭を下げた。
「それでは、また」
「うむ。また会おう、リアリス殿!」
……よし。
帰ろうか。
◇
王国邸へ戻ったころには、夕方の光が庭を照らしていた。
……ああ。
帰ってきた。
「ただいまー!」
玄関を開けると、楓が出迎えてくれた。
「……おかえりなさいませ、リアリス様」
「ただいま、楓!」
その奥から、巴さんが顔を出した。
「リアリスちゃん。お帰りなさい」
「ただいま、巴さん!」
私は、思わず笑ってしまった。
「……あの、巴さん」
「……あら。どうしたの?」
「今日は、ありがとうございます!」
…………。
巴さんが、少し首を傾げた。
「……何のことかしら?」
……うん。
そりゃ、分からないよね。
だって、巴さんは何も知らずにケーキを運んでくれただけなんだから。
「実は……今日、正式に和平が成立したんです!」
…………。
巴さんの目が、少し大きくなった。
「……まあ!」
「人間の四か国と、魔王国です!」
巴さんは、しばらく私を見つめた。
そして、にっこり笑った。
「……それは、よかったわね」
…………。
……ああ。
その笑顔。
本当に、いつもどおりだね。
「でも、巴さんのおかげでもあるんですよ」
「……私の?」
「はい。あのイチゴのショートケーキが……」
…………。
……あっ。
そうだった。
真相は、出席者だけの秘密なんだった!
私は、慌てて口を閉じた。
巴さんが、不思議そうに私を見る。
「……イチゴのショートケーキが、どうしたの?」
…………。
……ええと。
これは、どう説明したらいいんだろう。
私は、少し考えた。
「……みんな、すごく喜んでくれたんです」
……うん。
間違ってない。
嘘は言ってない!
巴さんは、嬉しそうに微笑んだ。
「あら。それなら、作ってよかったわ」
…………。
……ああ。
本当に。
巴さんって、すごいなぁ。
私は、心の中でそっと頭を下げた。
……二千年の争いを終わらせるきっかけを作った、最強のお母さん。
……うん。
何だか、そんな称号が似合いそうだね。
……いや。
本人には、絶対に言わないでおこう。
◇
「お父さーん!」
奥から、カトレアの声が聞こえてきた。
……あっ。
カトレア!
「ただいま!」
「おかえり!」
カトレアが、嬉しそうに抱きついてくる。
……ああ。
やっぱり、こういう時間が一番だなぁ。
「……お父さん、お仕事終わった?」
「うん。今日は、ちゃんと終わったよ」
「……よかった!」
私は、カトレアの頭を撫でた。
「ねえ、カトレア」
「ん?」
「今日ね、人間の国と魔族の国が、仲良くしようって約束したんだ」
カトレアが、ぱっと顔を上げた。
「……ほんと!?」
「うん。本当だよ」
「……じゃあ、けんかしない?」
「……うん。これから、そうできるように頑張るんだ」
……そう。
明日から世界中のみんなが急に仲良くなるわけじゃない。
でも、少なくとも国の代表たちは、戦わない道を選んだ。
それが、今日の一番大切なことだと思う。
「……お父さん」
「ん?」
「……すごいね!」
…………。
……あっ。
……ああ。
カトレアに褒められると、何だか一番嬉しいかも。
「ありがとう。でも、みんなで頑張ったんだよ」
「……うん!」
私は、カトレアをぎゅっと抱きしめた。
……ああ。
やっぱり、この子が笑ってくれるなら、頑張ってよかったと思うね。
◇
夕食のころ。
いつもの食堂には、巴さんの作った温かい料理が並んでいた。
桜花も、カトレアも、楓も。
いつもの家族が、いつものように過ごしている。
……うん。
今日は、本当にいろいろあった。
二千年続いた争いの真相が分かって。
みんなで笑って。
正式な和平が成立して。
魔王国とも、友好的な取り決めを結んだ。
……ああ。
何だか、盛りだくさんすぎたね。
でも。
こうして帰ってきて、みんなとご飯を食べられる。
そのことが、何より嬉しい。
「リアリスちゃん」
巴さんが、温かいお茶を注いでくれた。
「……はい」
「今日は、よく頑張ったわね」
…………。
……ああ。
巴さん。
本当に、いつもありがとう。
「……はい。でも、巴さんもですよ」
「……ふふ。私は、いつもどおりお茶とお菓子を用意しただけよ」
…………。
……うん。
そこが、すごいんだけどね。
「お父さん!」
カトレアが、私の袖を引いた。
「ん?」
「……あした、お花見る?」
…………。
……あっ。
そうだったね。
「うん! 明日は、少しのんびりしようか」
「……やった!」
……ああ。
可愛いなぁ。
……うん。
明日は、カトレアとお花を見よう。
魔王国のお家の場所を考えるのは、そのあとでもいいよね。
……いや。
それはそれで、ちょっと楽しみなんだけど。
私は、窓の外を見た。
夕方の空が、ゆっくり夜へ変わっていく。
この空の向こうには、魔族の国がある。
きっと、あの国でも今ごろ、誰かが家族とご飯を食べているんだろうね。
……うん。
そういう日常が、これからも続いてほしい。
私は、温かい料理を一口食べた。
……ああ。
おいしい。
……それにしても。
巴さんの料理って、本当に世界を平和にできるんだね。
…………。
……いや。
ちょっと、大げさかな?
でも。
少なくとも今日は、そうだったと思うよ。
――人と魔族が握手した日。その陰には、誰も知らない一皿のショートケーキがあった。




