第5話:番外編:聖国の枢機卿たち
――時は少し遡る。
リアリス殿と桜花殿が聖庁を後にした、その日の夕刻。
私は、聖都オリミシアにある神殿の一室で、一枚の書類を見つめていた。
……。
…………。
何も、頭に入ってこない。
いつもなら、こうした報告書を読むのに苦労することなどない。
私はオリミス聖国を担当する枢機卿、ケラー。書類の整理も、神殿に関わる仕事も、長く続けてきた。
それなのに。
今日ばかりは、何度同じ行を読んでも、内容が頭に残らなかった。
代わりに浮かんでくるのは、あの光景だ。
宙に現れた、四角く光る不思議な板。
その向こうに映った、神様のお姿。
『皆の者、息災かの?』
……っ!
私は、反射的に背筋を伸ばした。
……落ち着け。
今は、神様とお話ししているわけではない。
あの画面は、もう消えている。
リアリス殿も、お帰りになられた。
……そう。
全て、終わったことなのだ。
だが。
私は今日、オリミス神様をこの目で拝してしまった。
……。
…………。
どう考えても、落ち着けそうになかった。
◇
「……ケラー殿」
呼びかけられて、私は顔を上げた。
「はい、グレン殿」
神殿の奥にある小さな会議室。
そこには、私を含めた四人の枢機卿が集まっていた。
シルク王国担当のグレン殿。
フォーサイド魔法国担当のセドリック殿。
ローズ帝国担当のシーリン殿。
そして、聖国担当の私。
教皇パーシー猊下は、まだお務めがあるとのことで席を外しておられる。
本来は、今日の謁見で交わされた取り決めについて、四人で確認する予定だった。
……しかし。
誰も、書類の話を始めようとしない。
グレン殿は両手を組んだまま遠くを見つめ、セドリック殿はいつになく口数が少ない。
シーリン殿に至っては、時折目元を押さえている。
……ああ。
皆、同じなのだろう。
長年、祈りを捧げてきた。
時折授かる神託に感謝し、神のお姿を思い描いてきた。
だが、それはあくまで信仰の中でのこと。
神様を直接拝し、そのお声を聞き、しかも会話ができるなど。
……考えたこともなかった。
「……その」
私は、ようやく口を開いた。
「皆様、今日のことを、少しお話ししませんか」
すると、三人が同時にこちらを見た。
……おお。
やはり、考えていたことは同じらしい。
「ぜひ、そういたしましょう」
シーリン殿が、静かに頷いた。
「私も、気持ちの整理がつかなくてな」
グレン殿が、困ったように笑う。
セドリック殿も、ゆっくり頷いた。
「……ええ。私にも、必要な時間かもしれません」
……よし。
では、まず。
……。
…………。
何から聞けばよいのだろうか。
神様と対面した感想。
……それだけで、一晩かかりそうだ。
◇
「……グレン殿から、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「私からですかな?」
「はい。あのとき、どのようなお気持ちでしたか」
グレン殿は、静かに目を閉じた。
「……ああ」
しばらくして、ゆっくり口を開く。
「長い間、私は神様に祈り続けてまいりました」
……うん。
この方は、私たちの中でも特に穏やかで、信仰の厚い人だ。
人々へ祈りの意味を説くときも、決して声を荒らげない。
「神託を授かるだけでも、身に余る光栄だと思っていました。お姿を拝することなど、夢にも思わなかった」
「……はい」
「ところが、あの方は……」
グレン殿が、少しだけ笑った。
「使徒様は、まるで隣の部屋にいる知人を呼ぶように、神様へ連絡なさった」
……。
…………。
ああ。
そうだった。
『ご本人に、聞いてみればいいかなって』
……あの言葉。
私は、一生忘れないだろう。
「そして、神様がお姿を現された」
グレン殿の声が、わずかに震える。
「お声まで聞こえたのです。私たちへ、直接……」
胸の前で組んだ手に、力がこもった。
「……ただ」
「……ただ?」
私が聞き返すと、グレン殿は恥ずかしそうに笑った。
「その後のことを、ほとんど覚えておらんのですよ」
……。
…………。
あっ。
そうだった。
グレン殿は、感激のあまり意識を失ってしまわれたのだ。
「誠に情けない。神様を拝せる、千載一遇の機会だったというのに」
「……いえ」
私は、慌てて首を振った。
「無理もありません。私も、立っているのが精一杯でした」
「ふふ。そう言っていただけると、少し救われます」
グレン殿は、静かに息をついた。
「気づけば、椅子で横になっておりました。使徒様が私を案じてくださり、桜花殿が水を運んでくださって」
「……そうでしたね」
「あの方々は、何とお優しいのでしょう」
……うん。
それは、私も感じたことだ。
神とお話しできるほどのお方なのに、使徒様は私たちへ何度も声をかけてくださった。
何かを誇る様子など、少しもなかった。
「……もし、もう一度神様を拝する機会があるなら」
グレン殿は、そこで一度言葉を止めた。
……。
…………。
もう一度。
私は、思わず身を乗り出した。
「……今度こそ、最後まで意識を保ちたいものですな」
グレン殿が、真剣な顔で言う。
……。
…………。
そうか。
まずは、そこなのですね。
「……私も、次こそはしっかりしたいと思います」
つい、そう答えてしまった。
グレン殿が、少し嬉しそうに笑った。
◇
「……セドリック殿は、いかがでしたか」
今度は、白い長髪の枢機卿へ目を向けた。
「……私ですか」
セドリック殿は、しばらく黙っていた。
そして、静かに頭を下げる。
「……私は、恥じております」
「……ああ」
その理由は、聞かずとも分かった。
使徒様が、神様と会ったことがあるとおっしゃったとき。
セドリック殿は、それを偽りではないかと疑った。
神の御名を軽々しく扱うな、と厳しく言われたのだ。
「私は、神の御名を騙る者を許せなかった」
セドリック殿が、ゆっくり続けた。
「信仰を守ることこそ、我々の務め。そう信じていました」
「……はい」
「ですが、信仰を守ることと、相手の言葉を確かめもせずに否定することは、違ったのです」
……。
…………。
ああ。
そのとおりかもしれない。
正直に言えば、私も使徒様のお話を信じ切れてはいなかった。
何しろ、あまりにも常識から外れた話だったからだ。
しかし。
あの方は、何一つ偽っておられなかった。
それどころか。
本当に神様へ連絡してしまわれたのだ。
「……使徒様へ謝罪したときのことが、頭から離れません」
セドリック殿が、顔を上げた。
「普通なら信じられない、とおっしゃったのです」
……ああ。
私も聞いていた。
『もう分かってもらえたなら、それで十分ですよ』
……あのお言葉だ。
「私は許しを請いました。ですが、使徒様は最初から、私を責めるつもりなどなかった」
セドリック殿は、苦笑した。
「……己の未熟さを、思い知らされました」
「そのようなことは……」
私は言いかけて、口を閉じた。
……いや。
ここで軽々しく慰めるのは、違う気がする。
セドリック殿は、真剣にご自身を見つめ直しておられるのだ。
「……次にお会いすることがあれば」
セドリック殿が、小さく呟いた。
「今度こそ、失礼のないようにしたいものです」
……はい。
私も、そう思います。
ただ。
使徒様は、あまり大げさに扱われるのを望んでおられなかった。
……それが、少々難しいところなのだが。
◇
「……では、シーリン殿」
「……私ですか?」
「はい。あのとき、涙を流しておられましたね」
シーリン殿は、少し照れたように微笑んだ。
「お恥ずかしいところをお見せしました」
「とんでもありません」
……本当に。
恥ずかしいことなど、何もない。
あの場にいた全員が、同じように胸を揺さぶられたのだ。
ただ、表れ方が違っただけで。
「……私は、少し意外だったのです」
シーリン殿が、静かに言った。
「意外、ですか?」
「ええ。神様は、もっと遠いお方だと思っていました」
……ああ。
その気持ちは、分かる。
祈りを捧げるとき、私たちは神様を尊い存在として思い描く。
世界を見守り、時折神託をくださる、偉大なる御方。
だが。
「……神様は、笑っておられました」
シーリン殿の口元が緩んだ。
「使徒様と、楽しそうにお話しされていたのです」
「……ええ」
「あんなに優しいお顔で、笑われるなんて」
……ああ。
そうだった。
使徒様が、ご家族と湖へ行ったお話をされたときも。
聖都の人々が神様を大切にしていると伝えられたときも。
神様は、本当に楽しそうだった。
……しかも。
使徒様は、神様を『神様』と、まるで親しい知人のように呼んでいた。
……。
…………。
思い返すほど、不思議な会話だ。
「神様にも、あんな笑顔があるのですね」
シーリン殿が、ぽつりと呟く。
「……ええ。そうですね」
私が答えると、彼女は、ふふっと笑った。
「私ったら。笑われるのは当たり前でしょうに」
……いや。
当たり前なのだろうか。
神様の笑顔を、この目で見られるなど。
これまで、考えたこともなかった。
「嬉しかったのです」
シーリン殿が、胸の前で手を合わせた。
「私たちが大切にしてきた聖国の暮らしを、神様も喜んでくださった。それが嬉しくて、涙が止まらなくなりました」
……。
…………。
ああ。
そういうことだったのか。
私は、ようやくシーリン殿の涙の理由が分かったような気がした。
◇
「……ケラー殿は、どうでしたかな」
今度は、グレン殿に尋ねられた。
「……私、ですか」
……うーむ。
何と答えればよいものか。
私は、しばらく考えた。
神様のお姿。
神様のお声。
そして。
床へ落ちていった、私の書類。
……。
…………。
ああ。
思い出しただけで、恥ずかしい。
「……正直に申し上げれば、私は何もできませんでした」
「……ほう」
「神様のお姿を拝した瞬間、全身が動かなくなったのです」
私は、静かに続けた。
「祈ることも、頭を下げることもできませんでした。最後には、持っていた書類まで落としてしまって」
……。
…………。
聖国を担当する枢機卿として、落ち着いていることには自信があった。
だが、あの日の私は。
いや。
ほんの数時間前の私は。
神様の前で、一言も口を開けなかった。
「……ただ、一つだけ」
私は、ゆっくり顔を上げた。
「神様が本当にいらっしゃるのだと、改めて実感できました」
……もちろん。
私は、以前から神様の存在を信じていた。
神託をいただくこともある。
それでも。
ご自身の声で教皇猊下へ話しかけ、使徒様と笑い合うお姿を拝したとき。
信じていたものが、確かな現実になった気がした。
「……それだけで、もう十分なのかもしれません」
私は、そう言って微笑んだ。
……本当は。
もう一度、お声を聞いてみたい。
次は、もう少し落ち着いて。
できれば、落とす書類など持たずに。
……いや。
そこまで願うのは、欲張りなのだろうか。
「皆、似たようなものですな」
グレン殿が、穏やかに笑った。
「神様にお会いできて、嬉しかった。しかし、何をしたらよいか分からなかった」
「……そうですね」
私は、小さく頷いた。
……ああ。
同じ思いを抱えている人たちがいて、少し安心した。
◇
四人が、それぞれの胸の内を話し終えた。
神殿の外から、夕刻を知らせる鐘の音が聞こえてくる。
……ああ。
もう、こんな時間か。
何もかもが変わってしまったような気がしていた。
だが、聖都の人々の暮らしは、いつもと変わらず続いている。
神殿では祈りを捧げる人々がいて、街には仕事を終えた人たちが歩いている。
……うん。
私たちも、いつもの務めへ戻らなければ。
そう思ったのだが。
「……それにしても」
グレン殿が、ぽつりと呟いた。
「……はい?」
「使徒様は、また神様とお話しになるのでしょうかな」
……。
…………。
また。
あの御方と。
私は、思わず息をのんだ。
「……どうでしょうか」
慎重に答える。
「使徒様は、神様と親しくお話しされていましたから……そういう機会も、あるのかもしれません」
「……そうですね」
シーリン殿が、静かに頷く。
「ただ、こちらからお願いするのは、慎むべきでしょう」
……うん。
使徒様は、自由に暮らしたいとおっしゃっていた。
私たちの願いのために、あの方のお時間を奪うわけにはいかない。
「……それに」
セドリック殿が、少し困った顔で口を開いた。
「もし、もう一度神様がお姿を見せてくださったとして……我々は、今度こそ落ち着いていられるのでしょうか」
……。
…………。
誰も、答えられなかった。
……ああ。
それは、なかなか難しい問題だ。
「……少なくとも、私は先に座っておくとしましょう」
グレン殿が、真剣な顔で言った。
……。
…………。
あっ。
「……よいお考えかもしれませんね」
私が答えると、シーリン殿が、小さく笑った。
セドリック殿も、珍しく口元を緩める。
「まずは、最後まで意識を保つところからですな」
「はっはっは。皆、手厳しい!」
……ああ。
こんな話を笑ってできるようになるとはね。
少し前まで、全員が言葉を失っていたというのに。
◇
そのときだった。
「……いや、待ってください」
グレン殿が、急に顔を上げた。
……ん?
「どうなさいました?」
「……一つ、気づいたことがあるのです」
その表情は、真剣だった。
私たちは、自然と身を乗り出す。
「これまで、神託は神様から授かるものと考えてきました」
「……ええ」
「しかし、使徒様は、ご自身から神様へ連絡を取ることができる」
……ああ。
確かに。
それこそが、今日の一番の衝撃だった。
「……ということは」
グレン殿が、胸の前で手を組んだ。
「今後、もしかすると……この聖国の神殿にいながら、神の気配を感じられる日が来るのではありませんかな!」
……。
…………。
……神殿で、神様の気配を。
私は、思わず奥の祭壇へ目を向けた。
そこには、いつもと変わらぬ神像が祀られている。
……まさか。
そんなことが、起こるのだろうか。
「……グレン殿」
セドリック殿が、少しだけ笑った。
「それは、いささか期待が過ぎるのではありませんか」
「そうですな! はっはっは!」
グレン殿が、ご自身でもおかしそうに笑う。
「しかし、今日の出来事を思えば、何が起きても不思議ではないような気がしましてな」
……。
…………。
ああ。
そこは、少し分かる。
使徒様が、神様に連絡してしまわれたのだ。
しかも神様は、旧知の友人から呼び出されたかのように、楽しそうに笑っておられた。
……あれを見てしまった以上。
これまでの常識だけで物事を考えるのは、難しいのかもしれない。
「……まさか、そのようなことが起こるなど」
私は、笑いながら首を振った。
「ふふ。本当に、夢のようなお話ですね」
シーリン殿が微笑む。
セドリック殿も、小さく笑った。
「もし実現したら、そのときは皆で落ち着いてお迎えしましょう」
「はっはっはっ! そうですな!」
私たちは、顔を見合わせて笑った。
……ああ。
まさか。
そんなことが起こるなど。
……。
…………。
だが。
笑い声が収まってからも、グレン殿の言葉が頭から離れなかった。
もし、ある日この神殿で。
いつもとは違う、何かを感じることができたなら。
……。
…………。
いやいや。
期待しすぎだ。
そんなこと、起こるはずがない。
……たぶん。
ふと顔を上げると、ほかの三人も神像の方を見つめていた。
……ああ。
みんな、同じことを考えているんだろうな。
口には出さない。
でも、ほんの少しだけ。
何かを期待してしまっている。
……私も、同じだった。
◇
そのとき、静かに扉が叩かれた。
「……入ってもよいかな」
……!
この声は。
私たちは、一斉に立ち上がる。
「教皇猊下!」
入ってこられたのは、パーシー教皇猊下だった。
あれほど取り乱しておられたのに、今はいつもの穏やかな表情へ戻っている。
……ただし。
その目元には、まだ少し赤みが残っていた。
「皆、ここにおったのか」
「はい。今日の出来事を振り返っておりました」
私が答えると、教皇猊下は静かに頷いた。
「……そうか」
そして、優しく微笑まれた。
「忘れられぬ一日になったな」
「……はい」
誰ともなく、返事が重なった。
「私も、生涯忘れぬだろう」
……ああ。
教皇猊下は、オリミス神様から直接お声をかけられたのだ。
あの喜びは、私たちの想像以上に違いない。
「……ところで、皆に一つお願いがある」
「はい。何なりと」
教皇猊下が、私たちをゆっくり見回された。
「今回、使徒様とオリミス様が交わされた会話は、ほかの者に話さぬようにな」
……。
…………。
私は、すぐに頷いた。
「承知いたしました」
「使徒様は、静かに暮らすことを望んでおられる。あの方が神様と気軽に話せると知られれば、きっと多くの者が押しかけてしまうだろう」
……ああ。
そのとおりだ。
私たちでさえ、また神様を拝めるかもしれないと期待してしまったのだから。
もし聖都の人々が知ったら、どうなるか。
……想像するまでもない。
「御意にございます」
セドリック殿が、深く頭を下げた。
「使徒様のお気持ちを、第一に考えるべきでしょう」
「私も、決して口外いたしません」
シーリン殿が続いた。
「もちろん、私もです」
グレン殿が、胸の前で手を組んだ。
「次に神様を拝したいという願いは、胸の内にとどめておきましょう」
……。
…………。
あっ。
グレン殿。
そこまで言ってしまわれるのですね。
教皇猊下は、一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから、優しく笑われた。
「……ふふ。皆、同じ気持ちのようだな」
……。
…………。
ああ。
教皇猊下も、もう一度お会いしたいのだろう。
私は、そう思った。
「それでも、その願いを使徒様に押しつけてはならぬ。私たちは、これまでどおり日々の務めを果たそう」
「はい!」
四人の声が、綺麗に揃った。
……うん。
これでいい。
神様との会話については、決して漏らさない。
使徒様の自由を守る。
そして私たちは、聖国の人々のために、変わらず務めを果たしていく。
……ただ。
ほんの少しだけ。
これまでよりも、神殿へ足を運ぶのが楽しみになってしまいそうだ。
「……ケラー」
「はい、教皇猊下」
「皆で話せて、少しは落ち着いたかね」
私は、思わず微笑んだ。
「……はい。おかげさまで」
「それは、よかった」
教皇猊下も、にっこり笑われた。
グレン殿も、セドリック殿も、シーリン殿も。
皆、同じように微笑んでいる。
……ああ。
神様と直接お話しできた日。
驚きと喜びに満ちた、忘れられない一日。
そして、きっと。
これからも、何かを期待せずにはいられない一日として、心に残り続けるのだろう。
……もちろん、その期待は、今は胸の内だけに。
私たちは笑顔のまま、教皇猊下へ静かに頭を下げた。




