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第8話:家族で過ごす湖畔の休日

 翌朝。


「お父さーん!」


 朝食を食べようと食堂へ向かっていたら、廊下の向こうから元気な声が聞こえてきた。


 ……おお。


 朝から元気だねぇ。


「おはよう、カトレア!」


「おはよう!」


 カトレアが、とことこと駆け寄ってくる。


 淡い青色の髪には、昨日買った花の髪留め。


 ……あっ。


 つけてくれたんだ。


「その髪留め、似合ってるね」


「……えへへ。お父さんが買ってくれたの」


「うん。覚えてるよ」


 カトレアは嬉しそうに笑った。


 ……ああ。


 やっぱり、買ってよかったなぁ。


 …………。


 ……いや。


 昨日はそのせいで、巴さんに怒られたんだった。


 私は食堂の扉を見る。


 向こうから、焼きたてのパンのいい匂いがした。


 そして。


「あら、リアリスちゃん。カトレア。おはよう」


 巴さんの声。


 …………。


 ……おはようございます!


「お、おはよう、巴さん!」


「ふふ。どうしたの、そんなにかしこまって」


「……いえ。何でも!」


 ……うん。


 まだ昨日のお説教が耳に残ってるんだよね。


 席に着くと、巴さんが温かいスープとパンを並べてくれた。


 桜花も、すでに食堂にいる。


「おはようございます、リアリス様」


「おはよう、桜花!」


「おはよう、桜花ちゃん!」


「おはようございます、カトレア。髪留めがよくお似合いですよ」


「……えへへ!」


 カトレアが、また嬉しそうに笑う。


 ……うん。


 今日も、いい一日になりそうだ。


「カトレア、よく眠れた?」


「うん! でもね、早く起きちゃった!」


「楽しみだったもんね」


「うん! 馬車に乗るの!」


 今日は、湖畔の町ルビドへ行く日だ。


 法都から馬車で一時間。


 森の向こうに大きな湖があって、ご飯もとってもおいしいらしい。


 ……ああ。


 考えただけで、お腹が空いてくるなぁ。


 いや、今朝食を食べてるところだけど。


「リアリスちゃん」


「……はいっ!」


 ……あっ。


 思わず背筋を伸ばしちゃった。


 巴さんが、にこっと笑った。


「今日も、三人で楽しんでいらっしゃいね」


「はい!」


「それから……」


 …………。


 ……来た。


「お買い物は、ほどほどにね?」


「……はい!」


「昨日みたいに、カトレアが欲しがったものを全部買ったりしないのよ?」


「……はいっ!」


 ……うん。


 よく分かっています。


 理解はしているんです。


 でも。


 私はカトレアを見る。


 カトレアは、パンを両手で持って、幸せそうにかじっていた。


 …………。


 ……ああ。


 可愛いなぁ。


「……リアリスちゃん?」


「……はい!」


「今、何を考えたのかしら?」


「……今日もいい天気だなぁって!」


 巴さんは、少しだけ目を細めた。


「……そう」


 ……うっ。


 絶対、見抜かれてる。


 桜花が紅茶を口に運びながら、小さく微笑んだ。


 ……桜花。


 今日は味方してね?


 何も言っていないのに、桜花はさらに微笑んだ。


 ……ああ。


 これは、駄目かもしれない。


     ◇


 朝食を終え、三人で魔法国邸へ移動した。


 巴さんが設定してくれた《簡易転移》の扉を通れば、王国邸から魔法国邸まではあっという間だ。


 ……うん。


 便利だねぇ。


 今日はそこから馬車で出かけるんだけど。


 それは、また別のお楽しみだ。


「……おはようございます」


 魔法国邸では、藤が玄関で出迎えてくれた。


「おはよう、藤!」


「藤ちゃん、おはよう!」


「……カトレア。おはよう」


 藤の目が、カトレアの髪留めで止まる。


「……お花」


「うん! 昨日の!」


「……似合ってる」


「ありがとう!」


 ……ああ。


 いいねぇ。


 こうして仲良くしているのを見ると、何だか嬉しくなる。


「じゃあ、行ってくるね」


「……はい。お気をつけて」


「お土産も買ってくるよ!」


 そう言った瞬間。


 桜花が、そっとこちらを見た。


 …………。


 ……あっ。


 今のは、買い物するって意味じゃなくて。


 いや、お土産だから、買い物で合ってるか。


「……リアリス様」


「……はい」


「巴様のお言葉を、お忘れなく」


「……覚えてるよ!」


 藤が、少し首を傾げた。


「……何か、ございましたか」


「……いやぁ。昨日、ちょっとね」


「……ああ」


 …………。


 ……藤。


 その「ああ」は、何を理解したの?


 藤は、静かに一礼した。


「……いってらっしゃいませ」


「いってきまーす!」


 カトレアが手を振る。


 私も桜花も、それに続いた。


 ……うん。


 今日は仕事なし。


 事件もなし。


 ただ、湖を眺めておいしいものを食べる。


 そういう一日にしよう。


     ◇


 法都の馬車乗り場には、昨日お願いしておいた馬車が待っていた。


 落ち着いた色の幌がついた、三人で座るには十分な大きさの馬車だ。


 御者さんは、にこやかな中年の男性だった。


「おはようございます。ルビドまでのお客様ですね?」


「はい。よろしくお願いします!」


「お嬢ちゃんも、おはよう」


「おはようございます!」


 カトレアが、ぺこりと頭を下げる。


 ……おお。


 ちゃんとご挨拶できたね。


「湖を見に行くのかい?」


「うん!」


「今日は晴れてるから、きっときれいだよ」


「……ほんと?」


「本当さ」


 カトレアの顔が、ぱっと明るくなった。


 ……うん。


 もう、この時点で来てよかった気がする。


 桜花が先に馬車へ乗り込み、私がカトレアを抱き上げて座席に乗せた。


「よいしょっと」


「……お父さん、ありがとう!」


「どういたしまして」


 私も隣へ座る。


 カトレアは真ん中。


 反対側には桜花。


 ……うん。


 三人で、ちょうどいいね。


「それでは、出発しますよ」


「はい!」


 馬車が、ゆっくり動き出した。


 ごとごと。


 車輪が石畳を踏み、法都の街並みが少しずつ後ろへ流れていく。


 カトレアは窓から外を見つめていた。


「……お父さん。うごいてる!」


「うん。出発したね!」


「……おうち、ちいさくなる」


「遠くなってきたからね」


 ……おお。


 新鮮な反応だなぁ。


 《転移》だったら、一瞬で到着して終わり。


 それは便利だけど。


 こうやって、少しずつ景色が変わっていくのもいいね。


 法都の門を抜けると、街道の両側に畑が広がった。


 低い石垣。


 風に揺れる草。


 道の向こうには、緑の濃い森が見える。


「……わぁ」


 カトレアが、小さく声を漏らした。


「どうしたの?」


「……お空、ひろい」


 ……ああ。


 建物の多い法都とは、全然違う景色だもんね。


「本当だね」


「……雲、ふわふわ」


「うん。いいお天気だ」


 桜花も窓の外を眺めている。


「とても穏やかな道でございますね」


「うん。こういう道なら、ずっと乗っててもいいかも」


 ……いや。


 ずっと、は言いすぎかな。


 腰が痛くなりそうだし。


 でも、今日は片道一時間。


 ちょうどいいくらいだ。


 しばらくすると、カトレアが私の袖を引いた。


「……お父さん」


「ん?」


「……あれ、なあに?」


 道の向こうに、木の棒を組んだようなものがいくつも並んでいた。


 その間には、薄い布が張られている。


 ……おお。


 何だろう。


「桜花、分かる?」


「……おそらく、布を乾かしているのでしょうか」


 御者さんが前から声をかけてくれた。


「ああ、あれはこの辺りで作った布だよ。ルビドの方は絹織物も盛んだからね」


「絹ですか!」


「そうさ。湖の町には、布を扱う店も多いよ」


 ……おお。


 養蚕かぁ。


 湖だけじゃなくて、そういう産業もあるんだね。


「カトレア、きれいな布のお店もあるんだって」


「……見たい!」


「うん。見に行こうね」


 ……あ。


 お店。


 …………。


 ……いや。


 見るだけなら問題ない。


 見るだけならね!


「リアリス様」


「……はい」


 桜花が、穏やかな声で言った。


「お買い物は、ほどほどに」


「……分かってるよ!」


 ……あれぇ。


 今日、何回目だろう。


 そもそも、まだ一つも買ってないんだけどなぁ。


 馬車は森の脇の道へ入った。


 木々の間から、明るい光がちらちら差し込んでくる。


 涼しい風が窓を通り抜けた。


「……きもちいい」


 カトレアが、小さく目を細めた。


「そうだね」


 私はカトレアの頭を撫でる。


 ……ああ。


 こんな普通の旅が、こんなに楽しいとは。


 強い魔法を使わなくても、何かを倒さなくても。


 ただ家族と一緒に馬車に揺られているだけで、十分幸せなんだね。


 ……うん。


 今日は、当たりの日だ。


     ◇


 出発してから、ちょうど一時間ほど。


 森の向こうが、急に明るくなった。


「まもなくルビドですよ」


 御者さんが声をかけてくれる。


「……お父さん!」


「うん?」


「……あおい!」


 カトレアが窓の向こうを指差した。


 ……おお。


 見えた!


 木々の間から、広い青色が覗いている。


 空の色とは、少し違う。


 それは、太陽の光を受けてきらきら光る、大きな湖だった。


 ……おおお。


 これは。


 思ってた以上に、きれいだ!


「……すごい」


 カトレアが、ぽつりと呟いた。


「大きいねぇ」


「……うん」


 カトレアは、窓に顔を近づけている。


「……お父さん。あれ、ぜんぶお水?」


「うん。全部、湖のお水だよ」


「……すごい!」


 ……うん。


 まったく、その通りだね。


 湖の手前には、赤茶色の屋根がいくつも見えた。


 その間を細い道が通り、家の向こうには緑の森が続いている。


 法都に比べたら、ずっと静かな町だ。


 でも、その落ち着いた雰囲気が、何だかいい。


「……リアリス様」


 桜花も窓の外を見ていた。


「うん?」


「素敵な場所でございますね」


「うん! 来てよかったね!」


 ……いや。


 まだ着いてないのに、もう満足しそうになってる。


 危ない、危ない。


 おいしいご飯も待ってるんだった!


 馬車が町の乗り場へ入り、ゆっくり止まった。


「到着です。帰りもこちらでお待ちしておりますので、約束のお時間にどうぞ」


「ありがとうございます!」


 私は御者さんに礼を言い、カトレアの手を取った。


「さあ、カトレア。湖、見に行こうか」


「うん!」


 カトレアが、ぴょんと一歩跳ねた。


 ……ああ。


 本当に、楽しそうだね。


     ◇


 ルビドの町は、歩いているだけで気持ちがよかった。


 大通りには小さなお店が並び、その先には湖へ続く道がある。


 家々の窓辺には花が飾られ、風が吹くと店先の布飾りがそよそよ揺れた。


 ……うん。


 いいなぁ。


 こういう町、大好きだ。


「……お父さん」


「ん?」


「……おみず、近い?」


「うん。もう少し歩けば、すぐそこだよ」


 私たちは道を抜け、湖畔へ出た。


 …………。


 ……おお。


 これは、すごい。


 目の前いっぱいに、青い湖が広がっていた。


 遠くの岸は緑に包まれ、湖面には白い雲がゆっくり映っている。


 風が吹くたび、小さな波がきらきら光った。


 近くには木の桟橋があり、その隣に腰掛けられるベンチが並んでいる。


 ……ああ。


 何もしないで一日ここにいても、十分楽しめそうだ。


「……きれい」


 カトレアが、小さな声で言った。


 さっきまで元気いっぱいだったのに、今は湖をじっと見つめている。


「……お父さん。お空が、お水にいる」


 ……あっ。


 水面に雲が映ってるんだね。


「本当だね。空がもう一つあるみたい」


「……うん!」


 カトレアは私の手をぎゅっと握った。


「……お父さんも、いる?」


「ん?」


「……お水の中」


 言われて、水際から少し離れたところで湖面を覗いてみる。


 光の当たり方で、私たちの影がぼんやり揺れていた。


「……あ。本当だ」


「……桜花ちゃんも!」


「ふふ。私もおりますね」


 ……うん。


 三人一緒だ。


 私はカトレアの隣にしゃがんだ。


「カトレア。水に近づきすぎないようにね」


「……うん」


「私と桜花の手を離さないでね」


「はーい!」


 ……よし。


 こんなきれいな場所で、怪我なんてさせたくないもんね。


 カトレアは安全なところから水面を眺めていた。


 ときどき、小さな波が寄せては引いていく。


「……お魚、いるかな」


「どうだろうね」


 しばらく一緒に見ていると、水の下を小さな影がすっと動いた。


「……あっ!」


 カトレアが声を上げる。


「……いま、いた!」


「うん。見えたね!」


「……お魚!」


 ……おお。


 昨日から楽しみにしてたもんね。


 見られてよかった!


 カトレアは、何度も湖面を覗いている。


 その横顔を眺めていたら、私まで嬉しくなってきた。


 ……うん。


 今日は、本当に来てよかったなぁ。


     ◇


 湖畔をゆっくり歩いたあと、私たちはベンチに腰を下ろした。


 ちょうど木陰になっていて、風が気持ちいい。


「カトレア、疲れてない?」


「……だいじょうぶ!」


「そっか。喉は渇いてない?」


「……ちょっと」


「じゃあ、お水を飲もうか」


 私は《収納》から飲み物を出した。


 カトレアには飲みやすい器を渡す。


「はい、どうぞ」


「ありがとう!」


 桜花にも渡すと、彼女は丁寧に一礼した。


「ありがとうございます、リアリス様」


「桜花も今日は、のんびりしてね」


「はい。そうさせていただきます」


 ……うん。


 護衛だからって、ずっと緊張してたら疲れちゃうよね。


 とはいえ、桜花が油断するところなんて想像できないけど。


 私が湖を眺めていると、カトレアが肩にこてんと頭を預けてきた。


「……お父さん」


「ん?」


「……しあわせ」


 …………。


 ……ああ。


 それは、ずるいなぁ。


「私もだよ」


「……ほんと?」


「本当」


 私はカトレアの頭をそっと撫でた。


「カトレアと桜花と、こんなきれいな場所に来られて。すごく嬉しいよ」


 カトレアが、少しだけ笑った。


「……えへへ」


 桜花は隣で、穏やかな笑顔を浮かべている。


 ……うん。


 異世界に来て、家族ができて。


 まさか、こんな日を過ごせるようになるなんて。


 前の人生では、想像もしていなかった。


 ……いや。


 《想像魔法》っていう能力をもらったんだから、想像は得意になったはずなんだけど。


 こういう幸せばかりは、想像しただけじゃ作れないんだよね。


 実際に、こうして隣にいてくれる人がいるから。


 ……うん。


 大切にしたいな。


 ……さて。


 ちょっと感傷に浸りすぎたかな。


 そろそろ、お昼ご飯を探さないと。


 昨日の屋台の店主さんが言ってた、例のお店。


 ……どこにあるんだろう?


「カトレア、そろそろご飯にしようか」


「……うん! おなかすいた!」


「私も!」


 ……おお。


 気が合うね!


     ◇


 湖から町の通りへ戻り、近くの人に聞いてみた。


「すみません。湖の近くに、ご飯がおいしいお店があるって聞いたんですけど」


「ああ、湖畔の食堂かい?」


「そうです! たぶん、そこです!」


「ここをまっすぐ行って、角を曲がったところさ」


「ありがとうございます!」


 ……おお。


 本当に、すぐ分かった。


 昨日の店主さん。


 疑ってごめんなさい!


 教えてもらった道を歩いていくと、木造の小さな食堂が見えてきた。


 入口には、今日の料理が書かれた板が立っている。


 その向こうから、何ともいい匂いが漂ってきた。


 ……っ!


 おおお!


 この匂いは……!


「……お父さん」


「うん」


「……おいしそう」


「うん! 絶対おいしいと思う!」


 桜花が、小さく微笑んだ。


「では、入りましょうか」


「そうだね!」


 扉を開けると、温かい空気が迎えてくれた。


 店内には木のテーブルがいくつか並び、窓から湖の光が差し込んでいる。


 奥の調理場では、年配の女性が忙しそうに鍋を動かしていた。


「いらっしゃい!」


 女性が、こちらに気づいて声を上げた。


「三人だね。好きな席に座っておくれ!」


「ありがとうございます!」


 私たちは窓際の席に座った。


 ……おお。


 ここからも湖が見える!


 何という贅沢。


 食事をしながら湖を眺められるなんて、最高じゃない?


「……お父さん、あっち、おみず!」


「うん。きれいだね」


「……ごはん、何かな」


「そうだね。楽しみだね」


 私たちが料理の板を眺めていると、女性が水を運んできてくれた。


「旅のお客さんかい?」


「はい。法都から来ました」


「そうかい。今日はいい天気でよかったねぇ」


「本当ですね! 湖がすごくきれいで」


「はっはっは。そりゃ嬉しいね!」


 ……あれ。


 この笑い方。


 誰かに似てるような。


「そういえば、昨日、法都の焼肉串の屋台で、この町を勧められたんです」


 女性の手が、ぴたりと止まった。


「……焼肉串?」


「はい。店主さんが、ルビドにお母さんのやってる食堂があるって」


 …………。


 女性が、じっと私を見た。


「……あんたたち、ひょっとして、あの子の客かい?」


「……あの子?」


「法都で串焼きやってる、あたしの息子だよ!」


 …………。


 ……おおお!


 本当に、お母さんだった!


「そうです! その息子さんに教えてもらいました!」


「はっはっは! あの子ったら、また余計な宣伝をしてるんだねぇ!」


 女性が、豪快に笑う。


 ……うん。


 やっぱり、そっくりだ。


「あの、お店の名前を聞いたんですけど、教えてもらえなくて」


「……は?」


 女性が、目を丸くした。


「名前も教えずに、客だけ寄こしたのかい?」


「……はい」


「まったく、あの子は昔っからそうなんだから!」


 ……あっ。


 怒ってる?


 いや。


 口元は笑ってるね。


「でも、無事に見つけられてよかったです」


「そりゃよかった。せっかく来たんだ、うんと食べていっておくれ!」


「はい!」


 ……よし。


 これは、期待できそうだ。


「おすすめって、ありますか?」


「そりゃもちろん、湖の魚を使った料理さ。あとは野菜の煮込みも人気だねぇ」


「……お魚!」


 カトレアが、ぱっと顔を上げた。


「お嬢ちゃん、魚が好きかい?」


「……うん! 見たの!」


「湖で?」


「……うん! お水の中にいた!」


「はっはっは! そうかい。それはよかったねぇ」


 女性が、楽しそうに笑った。


 ……うん。


 いいお母さんだなぁ。


「じゃあ、お魚料理と煮込み、それからパンもお願いします」


「はいよ!」


「……あと、ほかのおすすめも少しずつ!」


 私は思わず付け加えた。


 ……いや。


 せっかくだし、色々食べたいじゃない?


「リアリス様」


 桜花が静かに言った。


「……はい」


「お食事も、お買い物も、ほどほどにお願いいたします」


 …………。


 ……あっ。


 食べる方も、止められちゃった。


「……でも、おいしいものなら桜花も食べたいでしょ?」


「もちろんでございます」


「……じゃあ!」


「ですが、食べきれる量にいたしましょう」


 ……うん。


 それは正論です。


 女性が、楽しそうに笑った。


「大丈夫さ。三人で分けられるよう、小皿も出すからね」


「ありがとうございます!」


 ……おお。


 助かる!


 桜花も、穏やかに頭を下げた。


「お心遣い、ありがとうございます」


 ……うん。


 ますます楽しみになってきた。


     ◇


 しばらくすると、料理が運ばれてきた。


 まずは、温かいスープ。


 透き通った汁の中に、野菜がたっぷり入っている。


「……おお」


 いい香りだ。


 私は一口飲んでみた。


 …………。


 ……っ!


 うまい!


 野菜の甘みと、優しい塩気。


 口に入れると、体がほっと温かくなるような味だ。


 ……ああ。


 このスープ、ずっと飲んでいたい。


「……お父さん」


「うん?」


「……おいしい!」


「うん! おいしいね!」


 カトレアが、嬉しそうに笑った。


 続いて、焼きたてのパン。


 表面はぱりっとしていて、中はふわふわ。


 スープにつけると、これがまたおいしい。


 ……おお。


 大当たりだね。


 そして。


「はい、お待ちどう! 湖の魚の香草焼きだよ!」


 大きな皿が運ばれてきた。


 皮がこんがり焼けた魚。


 周りには野菜が添えられ、香りのいい葉が散らされている。


 湯気と一緒に、焼きたての香りがふわっと広がった。


 ……おおお。


 これは、絶対においしいやつだ。


「お魚だ!」


 カトレアが目を輝かせた。


「そうだね。さっき湖で見たのと、同じお魚の仲間かもしれないね」


「……うん!」


 ……あっ。


 食べるの、平気なんだ。


 まあ、そうだよね。


 ご飯はご飯だもんね。


 女性が、食べやすいように身を分けてくれた。


「お嬢ちゃんの分は、骨をよく確かめてから食べておくれよ」


「はい!」


「ありがとうございます」


 私は念のためもう一度骨がないか確認して、カトレアのお皿へ。


「はい。どうぞ」


「いただきます!」


 カトレアが、ぱくっと食べた。


 …………。


「……っ!」


 目が、まん丸になった。


「……お父さん! おいしい!」


「本当?」


「うん! すっごく!」


 ……おお!


 そんなにおいしいの?


 私も一口。


 …………。


 …………おおおお!


 表面は香ばしくて、中の身はふっくら。


 噛むほどに旨みが広がって、香草の香りがすっと抜けていく。


 ……何これ。


 すっごくおいしい!


「桜花!」


「はい。驚くほど美味しゅうございます」


 ……うん!


 そうだよね!


 昨日の店主さんが自慢するのも分かる。


 いや、むしろもっと自慢していいと思う!


 続いて運ばれてきたのは、根菜と肉の煮込み。


 じっくり火を通したらしく、肉はほろほろと崩れるほど柔らかかった。


 野菜には味がしっかり染み込んでいる。


 ……ああ。


 こっちもおいしい。


 どうしよう。


 もう全部おいしい。


「……お父さん」


「ん?」


「……しあわせ」


 カトレアが、頬を緩ませていた。


 …………。


 ……ああ。


 私もだよ!


「おいしいご飯って、幸せだよね」


「……うん!」


 桜花が、嬉しそうに微笑む。


「皆でいただくと、なおさらでございますね」


「……うん!」


 ……ああ。


 それもそうだ。


 一人でおいしいものを食べるのもいいけど。


 誰かと「おいしいね」って言いながら食べるのは、もっといい。


 ……うん。


 今日のお昼ご飯、満点!


 食事が終わるころ、女性がまた席へやってきた。


「どうだい。口に合ったかい?」


「すごくおいしかったです!」


「……おいしかった!」


「ごちそうさまでございました」


 三人でお礼を言うと、女性は目尻を下げた。


「そりゃよかった。あの子にも、礼を言っといておくれ」


「はい! また法都へ行ったら寄りますね」


「それにしても」


 女性が私たちを見て、少し笑う。


「仲のいい家族だねぇ」


 …………。


 ……あっ。


 家族。


 何だか、そう言われると嬉しいな。


「はい。大切な家族です」


 私はカトレアの頭を撫でた。


 カトレアが、にこっと笑う。


「……お父さん、大好き!」


 …………。


 ……あああ。


 もう、可愛い!


「私も大好きだよ!」


「はっはっは! いいねぇ!」


 女性が、楽しそうに笑った。


 桜花も笑っている。


 ……うん。


 ここへ連れてきてもらえて、本当によかった。


「また来ます!」


「ああ、いつでもおいで!」


 店を出るとき、女性が手を振ってくれた。


 カトレアも大きく手を振り返した。


「またねー!」


 ……うん。


 絶対に、また来よう。


     ◇


 食後は、湖の周りをゆっくり散歩した。


 お腹もいっぱい。


 風も気持ちいい。


 ……ああ。


 最高の休日だね。


 湖畔の道には、ベンチがいくつも並び、ところどころに小さな花壇があった。


 カトレアは、花壇を見つけるたびに立ち止まっている。


「……お父さん。これ、昨日のお花とちがう」


「そうだね。こっちは花びらが細いね」


「……こっちは、白い」


「うん。きれいだね」


 桜花も、隣で一緒に花を眺めていた。


「こちらの花も、可愛らしいですね」


「……桜花ちゃんも、好き?」


「はい。カトレアと一緒に眺められるので、なおさらです」


「……えへへ」


 ……ああ。


 いいなぁ。


 こうしていると、昨日の花屋さんのことを思い出す。


 ……いや。


 正確には、そのあとの巴さんのお説教まで思い出す。


 …………。


 ……うん。


 今日は、大丈夫。


 まだお買い物はしてない。


 …………。


 そう思った、次の瞬間だった。


「……お父さん、あれ!」


 カトレアが、道の向こうを指差した。


 ……ん?


 そこには、小さなお店が並んでいた。


 布製品や木工品。


 湖を模した飾り。


 色とりどりの糸で織られた小物。


 ……おお。


 お土産屋さんだ!


 …………。


 ……あっ。


 これは。


 危険だ!


「……リアリス様」


 桜花の声が、少しだけ低くなった。


「……はい」


「巴様のお言葉を」


「……覚えてる!」


 ……うん。


 分かっています。


 でも。


 あの青い布。


 カトレアに似合いそうだなぁ。


 あの木の小箱も、可愛いなぁ。


 ……いや。


 まだ買うとは言ってないんだけどね!


     ◇


 最初のお店には、ルビドの絹を使った小物が並んでいた。


 細い糸で丁寧に織られた布。


 淡い色の巾着。


 小さな花の刺繍がついたハンカチ。


 ……おお。


 手触りがよさそう。


「……お父さん」


「ん?」


「……これ、きれい」


 カトレアが見ていたのは、青と白の糸で織られた小さなリボンだった。


 湖の色みたいな青。


 白い部分は、波の泡みたいに見える。


 ……うん。


 すごく似合いそうだ。


「つけてみる?」


「……うん」


 店の女性にお願いして、鏡の前で合わせてもらった。


 カトレアの淡い青色の髪に、深い湖色のリボン。


 …………。


 ……ああ。


 可愛い。


 可愛すぎる。


「カトレア。すっごく似合ってる!」


「……ほんと?」


「本当!」


 カトレアは鏡を見て、小さく笑った。


「……えへへ」


 …………。


 ……よし。


 買おう。


「リアリス様」


 …………。


 ……早い!


「……桜花。まだ何も言ってないよ?」


「お顔に書いてございます」


 ……あれぇ。


 私、そんなに分かりやすい?


「昨日、巴様から何とお叱りを受けましたか?」


「……欲しがるものを何でも買い与えちゃ駄目、って」


「はい」


 ……うん。


 分かってる。


 分かってるんだけど。


「……でも、桜花」


「はい」


「昨日、もう怒られたじゃない?」


「……はい?」


「三個買って怒られるのも、百個買って怒られるのも、どっちも怒られることには変わりないんじゃないかな?」


 …………。


 桜花が、静かに私を見た。


「……リアリス様」


「……はい」


「お叱りを受ける時間と、その内容は変わるかと存じます」


 …………。


 ……あっ。


 確かに!


「それに、昨日のお説教をお忘れになってはいけません」


「……うん。覚えてるよ」


 私はカトレアを見た。


 カトレアは、リボンを鏡に合わせたまま、嬉しそうにしている。


 ……ああ。


 でも。


 この子の笑顔を見ていると。


「……桜花」


「はい」


「怒られる時間が長くなるのも、覚悟しようかな」


 桜花が、目を細めた。


「……本当に、よろしいのでございますか?」


「うん!」


 ……よし!


 決めた!


 ここまで来たら、親バカとして堂々と生きよう!


 ……いや。


 親バカって、堂々とするものだったっけ?


「すみません! このリボン、いただけますか?」


「はい、ありがとうございます!」


 ……おお。


 買っちゃった!


 桜花が、小さく息をついた。


「……巴様には、私からもお伝えしておきます」


「……それは、ぜひともお手柔らかに!」


「ふふ」


 ……ああ。


 やっぱり、楽しんでるよね?


 でも、今日のカトレアは、また別のものを見つけた。


「……お父さん。これ、藤ちゃんに似合いそう」


 カトレアが指差したのは、淡い紫色の糸飾りだった。


 ……おっ。


 確かに、藤に似合いそうだね。


「うん。いいね!」


「……おみやげ、あげたい」


 …………。


 ……ああ。


 自分のことばかりじゃなくて、藤のことも考えてるんだ。


「じゃあ、藤の分も買おうか」


「……いいの?」


「もちろん!」


 ……うん。


 これは甘やかしじゃなくて、お土産だ。


 そうだよね?


 桜花を見る。


 桜花は、穏やかに微笑んでいる。


 ……あれ。


 止めない。


「カトレアが藤に贈りたいと思ったのでしたら、素敵なことでございますね」


「……そうだよね!」


 ……よし。


 これは、ちゃんと認められた!


 私が喜んでいると、カトレアが今度は白い小さな布を手に取った。


「……これ、巴ちゃんに」


 …………。


 ……おお。


 巴さんに!


「うん! きっと喜ぶよ!」


「……怒ってたから、にこにこしてほしい」


 …………。


 ……ああ。


 カトレア。


 そんなこと、考えてたんだね。


「巴さんは、カトレアに怒ってたわけじゃないよ?」


「……うん」


「でも、お土産はきっと喜んでくれると思う」


 カトレアが、小さく頷いた。


「……じゃあ、これ」


「うん。買おうか」


 ……よし。


 これも、家族のお土産だ。


 ……あ。


 そういえば。


 王国邸にも、帝国邸にも、魔法国邸にも、みんながいるんだよね。


 …………。


 ……みんなの分も、買いたいな。


 これは、何というか。


 私の中の親バカとは、ちょっと違う感情だ。


 せっかくの旅行だから、皆にもこの町のことを少しだけ分けたい。


 ……うん。


 じゃあ、みんなに買おう!


「店主さん。すみません、もう少し見せてもらってもいいですか?」


「どうぞどうぞ!」


 ……おお。


 ここからが本番だね!


 私は布小物を一つずつ見て回った。


 巴さんには、カトレアが選んだ白い布。


 藤には、紫色の糸飾り。


 ほかのみんなにも、それぞれ似合いそうなものを考えていく。


 お店の人は、にこにこしながら包んでくれた。


「ずいぶんたくさんお土産を買うんですね」


「家族が多いものですから!」


「それは賑やかでいいですねぇ」


「はい!」


 ……うん。


 本当に、賑やかだよ。


 …………。


 ……あっ。


 気づいたら、包みが随分増えてる。


 《収納》がなかったら、持ち帰るのも大変だっただろうなぁ。


「……リアリス様」


 桜花が、小声で言った。


「……はい」


「百個には、まだ届いておりませんが」


「……うん」


「それを目標になさらないでくださいね」


 …………。


 ……あっ。


 考えてたこと、ばれてる!


「……わ、分かってるよ!」


「ふふ」


 ……うん。


 百個も買わなくていい。


 みんなが喜んでくれる分だけで、十分なんだ。


 ……十分、だよね?


 私は、もう一度包みの数を見た。


 …………。


 ……うん。


 巴さんには、素直に謝ろう。


     ◇


 お土産屋さんを出たあと、カトレアが私の手を握った。


「……お父さん」


「ん?」


「……いっぱい買ってくれた」


「うん。気に入ったものがあった?」


「……うん。でもね」


 カトレアが、少し考える。


「……わたし、もうじゅうぶん」


 …………。


 ……おお。


「そう?」


「……うん。お父さんと桜花ちゃんと、湖見たし。おいしいごはん食べたし」


 カトレアは湖の方を見た。


「……それが、一番好き」


 …………。


 ……ああ。


 何ということだろう。


 私が張り切って色々買っていたのに。


 この子は、そんなものより、一緒に過ごした時間が一番だって言うんだ。


 ……うん。


 そうだよね。


 昨日、巴さんが言ってたのも、きっとこういうことなんだよね。


 私は、カトレアの頭を撫でた。


「うん。私も、カトレアと一緒にいられるのが一番嬉しいよ」


「……えへへ」


 カトレアが、にこっと笑った。


 ……ああ。


 この笑顔。


 お金を払って買えるものじゃないね。


 ……うん。


 今の時間を、ちゃんと大切にしよう。


「リアリス様」


 桜花が隣から声をかけた。


「ん?」


「今のお言葉、巴様にもお伝えになってはいかがでしょうか」


「……うっ」


 ……あれ。


 そうすると、買いすぎたことまで思い出されちゃうんじゃ。


「……ねえ、桜花」


「はい」


「巴さんには、買い物のことも、ちゃんと話すんだよね?」


「もちろんでございます」


 …………。


 ……ですよねぇ!


 桜花が、くすっと笑った。


 ……まあ、仕方ない。


 怒られる覚悟は、もうしてるし!


     ◇


 午後の湖は、朝とは少し違った色をしていた。


 光が斜めに差し込み、水面が銀色に輝いている。


 私たちは湖畔のベンチで、もう一度休憩することにした。


「カトレア、疲れてない?」


「……ちょっと」


「そっか。じゃあ、少し座ろうね」


「うん」


 私はカトレアを隣へ座らせた。


 桜花も向かいのベンチではなく、私たちの隣へ腰を下ろす。


 ……うん。


 今日は三人一緒がいいもんね。


 風に乗って、湖の匂いがふわりと流れてきた。


 遠くには、小さな舟が浮かんでいる。


 漕ぐ人の動きに合わせて、水面に細い線が伸びていた。


 ……ああ。


 静かだなぁ。


「……お父さん」


「ん?」


「……あしたも、ここ来たい」


 …………。


 ……ああ。


 そうだよね。


 こんな場所だったら、毎日来たくなる。


「また来ようね」


「……ほんと?」


「うん。今度は、みんなも一緒に」


「……みんな?」


「そう。巴さんも、藤も、楓も、杏子も。都合のいい日に、みんなでさ」


 カトレアが、ぱっと顔を上げた。


「……モフ太も?」


「もちろん!」


「……やったぁ!」


 ……うん。


 みんなで来たら、もっと賑やかになりそうだ。


 ただ。


 あの食堂へ大人数で押しかけたら、お母さんも驚くかな。


 ……あっ。


 先に人数を伝えればいいのか。


 それに、みんなで湖を眺めながらご飯を食べるの、楽しそうだよね。


「桜花も、また来たい?」


「もちろんでございます」


「どこが気に入った?」


「そうですね」


 桜花は、少し考えてから湖を眺めた。


「景色も、お食事も素晴らしゅうございましたが……」


「うん?」


「リアリス様とカトレアが、とても楽しそうになさっていたことでしょうか」


 …………。


 ……桜花。


 そういうこと言うの、ずるいよ。


「……私も、桜花が一緒で嬉しかったよ」


「……ありがとうございます」


 桜花の笑顔が、いつもより少し柔らかくなった。


 ……うん。


 よかった。


「……桜花ちゃん!」


 カトレアが、反対側から桜花に抱きついた。


「……わたしも!」


「ふふ。ありがとうございます、カトレア」


 ……ああ。


 本当に、いい家族になったね。


 私は二人を見ながら、何となく笑ってしまった。


 今日、一番いい景色は湖じゃなくて、これかもしれない。


     ◇


 帰りの馬車の時間が近づいた。


 名残惜しいけれど、そろそろ乗り場へ戻らないと。


「カトレア。そろそろ帰ろうか」


「……うん」


 カトレアは湖を振り返った。


「……また来るね」


 小さく手を振る。


 ……うん。


 湖に向かって挨拶してるんだ。


 私は隣で、同じように手を振った。


「またね、ルビド!」


 桜花も、静かに頭を下げた。


 ……おお。


 三人とも、何だか似たことをしてるね。


 乗り場へ戻る途中、私はふと思い出した。


 あっ。


 あの食堂のお母さんに、お土産用の焼き菓子があるか聞くのを忘れてた。


 …………。


 ……でも。


 もう結構買ったしなぁ。


 ……うん。


 今日は、ここで終わりにしよう。


 ……えらい!


 私は心の中で自分を褒めた。


「リアリス様」


「……はい?」


「よく、お買い物を思いとどまられましたね」


 …………。


 ……あれっ。


 桜花、心の中まで読めるの?


「……えへへ」


「ふふ」


 桜花が、嬉しそうに笑った。


 ……うん。


 ちょっとは成長したってことかな。


 ……いや。


 買った後で言うことじゃないか。


     ◇


 帰りの馬車も、片道一時間。


 朝と同じ御者さんが、乗り場で待っていてくれた。


「お帰りなさい。どうでした、ルビドは?」


「すっごくよかったです!」


「……お魚、おいしかった!」


「そりゃよかった!」


 御者さんが、笑った。


「じゃあ、法都へ戻りますよ」


「お願いします!」


 私たちは馬車に乗り込んだ。


 行きと同じように、真ん中にカトレア。


 私と桜花が両側へ座る。


 ごとごとと馬車が揺れ始めた。


 窓の外では、ルビドの町が少しずつ遠ざかっていく。


「……お父さん」


「ん?」


「……楽しかった」


「うん。私も楽しかったよ」


「……また、行きたい」


「もちろん!」


 カトレアは満足そうに笑った。


 そして。


 ……こてん。


 私の肩に、小さな頭が乗った。


「……カトレア?」


「……ん……」


 ……ああ。


 眠くなっちゃったんだね。


 朝からいっぱい歩いて、いっぱい食べて。


 楽しかったけど、疲れたんだろうなぁ。


 私は、カトレアが楽な姿勢になるよう、そっと支えた。


 桜花が薄い膝掛けを用意してくれる。


「ありがとう、桜花」


「いいえ。今日は本当によく歩かれましたから」


「うん。頑張ったね」


 カトレアの寝息が、小さく聞こえてくる。


 ……すぅ。


 ……すぅ。


 ……ああ。


 可愛い。


 ……いや。


 もう、こればっかりだなぁ。


 でも、しょうがない。


 可愛いものは可愛いんだから。


 私は窓の外を見た。


 森の向こうに、夕方の光が差し込んでいる。


 今日見た湖の青さ。


 食堂のお母さんの豪快な笑い声。


 カトレアの「おいしい」。


 桜花の柔らかな笑顔。


 ……うん。


 全部、いい思い出だ。


 魔法があれば、どこへでも一瞬で行ける。


 でも、今日の一時間は、一瞬じゃ味わえなかった。


 この子の寝顔も、馬車の揺れも、ゆっくり変わっていく景色も。


 ……ああ。


 便利な魔法を持ってるからこそ、たまには使わない時間があってもいいんだね。


 私は、そっとカトレアの髪を撫でた。


 ……うん。


 また、みんなで行こう。


     ◇


 法都へ戻ったのは、夕方だった。


 御者さんにお礼を言い、三人で魔法国邸へ帰る。


 カトレアは馬車の中で少し眠ったおかげか、すっかり元気を取り戻していた。


「……藤ちゃんにも、おみやげ!」


「うん。渡そうね!」


 魔法国邸の玄関では、今日も藤が待っていてくれた。


「……おかえりなさいませ」


「ただいま、藤!」


「藤ちゃん、ただいま!」


「……楽しかった?」


「うん! 湖がね、すっごくきれいだった!」


 ……ああ。


 その顔を見るだけで、どれだけ楽しかったか分かるね。


 藤が、小さく頷いた。


「……よかった」


「それでね、お魚のお料理が、おいしかったの!」


「……お魚」


「あと、おみやげ!」


 カトレアが、私を見上げる。


「お父さん、あれ!」


「うん。ちょっと待ってね」


 私は《収納》から、紫色の糸飾りを取り出した。


「カトレアが、藤に似合いそうだって選んだんだよ」


「……わたしから!」


 カトレアが、両手で差し出す。


 藤は、目を見開いた。


「……わたしに?」


「うん!」


 藤は、しばらく飾りを見つめていた。


 そして、そっと受け取る。


「……ありがとう」


 ……ああ。


 藤の目元が、いつもより柔らかくなった。


「……大切にします」


「……えへへ!」


 カトレアも嬉しそうに笑った。


 ……うん。


 こういうお土産、いいねぇ。


 誰かを思って選んだものだから、きっと嬉しいんだ。


「ほかのメイドたちへのお土産もあるから、あとで配ってくれる?」


「……承知しました」


 藤が、こくりと頷いた。


 そして。


「……リアリス様」


「はい?」


「……お荷物、多いですね」


 …………。


 ……あっ。


 気づいちゃった?


「……まあ、少しね」


「……少し?」


 藤が、《収納》から次々に出てくる包みを見た。


 …………。


「……巴様は?」


 …………。


 ……藤ぃ!


 昨日と同じこと、聞かないで!


「……うん。これから、会ってくるよ」


「……がんばってください」


 …………。


 ……ありがとう。


 本当に。


     ◇


 王国邸に戻ると、玄関ホールには巴さんがいた。


「あら、おかえりなさい。どうだった?」


「ただいま、巴さん!」


「ただいま! 巴ちゃん!」


 カトレアが駆け寄る。


「……湖ね、すっごくきれいだった!」


「あらあら。よかったわねぇ」


「お魚も、おいしかった!」


「そう。いい一日だったみたいね」


 巴さんが、カトレアの髪を撫でた。


 ……うん。


 平和だ。


 昨日も、最初はこうだったんだよね。


 ……いやいや。


 今日は、お土産を買っただけだし。


 大丈夫。


 たぶん。


「それでね、巴ちゃん!」


「なあに?」


「おみやげ!」


 カトレアが、私を振り返る。


「お父さん、白いの!」


「うん。これだね」


 私は《収納》から、白い布小物を取り出した。


 カトレアがそれを受け取り、巴さんへ差し出す。


「……これ、巴ちゃんに!」


 巴さんが、ぱちぱちと瞬きをした。


「……私に?」


「うん! 喜んでほしくて!」


 …………。


 ……ああ。


 巴さんの表情が、ふっと和らいだ。


「ありがとう、カトレア。とっても嬉しいわ」


「……えへへ!」


「大切にするわね」


 ……うん。


 いい光景だなぁ。


 ……よし。


 ここは、平和に終わるんじゃない?


 そう思った、そのとき。


「ところで、リアリスちゃん」


 …………。


 ……あっ。


「お土産は、これだけじゃないわよね?」


「……は、はい」


「どのくらい買ったの?」


 …………。


 ……うん。


 来たね。


 私は、覚悟を決めた。


「……あの、巴さん」


「なあに?」


「三個買って怒られるのも、百個買って怒られるのも、どっちも怒られることには変わりないと思いまして……」


 …………。


 …………。


 ……あれ。


 何だか、空気が変わったような。


「……リアリスちゃん?」


「……はい」


「それ、本気で言ってるの?」


 …………。


 ……あっ。


 この声。


 昨日より、少し低い気がする。


「……ええと。その……」


「昨日、私が何て言ったか覚えてる?」


「……はい。何でも買い与えちゃ駄目、って」


「それなのに、また買ったの?」


「……はい」


「しかも、三個も百個も同じ?」


「……はいっ!」


 ……ああ。


 ついに認めちゃった!


 巴さんが、深くため息をついた。


「リアリスちゃん!」


「は、はいっ!」


「同じなわけないでしょう!」


「……ごもっともです!」


「怒られたくないからじゃなくて、カトレアのために考えなくちゃ駄目なの! 分かった?」


「……はい!」


 ……うん。


 正論!


 完全に正論!


 私は、思わず背筋を伸ばした。


 隣で、桜花が口元を押さえている。


「……桜花」


「……はい」


「……助けて」


「申し訳ございません。今回は、リアリス様に申し上げる言葉がございません」


 ……ああ。


 知ってた!


 ……うん。


 今日も味方はいません!


 ただ、巴さんはそこで、カトレアの持っている白い布を見た。


「……でも、これを選んでくれたのは、カトレアなのね?」


「……うん! 巴ちゃんに、にこにこしてほしくて!」


 巴さんが、少しだけ笑った。


「……ありがとう。本当に嬉しいわ」


 ……ああ。


 よかった。


 怒ってても、カトレアには優しいんだね。


「それに、皆へのお土産も買ってきたんでしょう?」


「……はい」


「そういう気持ちは、悪いことじゃないわ。でも、カトレアに何でも与えるのとは、別の話よ」


「……はい」


 ……うん。


 確かに。


 私も、ちゃんと分かってるつもりだったけど。


 買い物を始めると、つい楽しくなっちゃうんだよね。


「今度からは、カトレアと一緒に、何を選ぶか考えてあげなさい」


「……分かりました」


 巴さんが、ようやく頷いた。


「……よろしい」


 ……ああ。


 助かった。


 ……いや。


 助かってないか。


 ちゃんと怒られたもんね。


 カトレアが、私の袖をそっと引いた。


「……お父さん」


「ん?」


「……怒られちゃったね」


「……うん。怒られちゃった」


「……でも、今日、楽しかった」


 …………。


 ……ああ。


 そうだね。


「私も、すっごく楽しかったよ」


「……えへへ」


 カトレアが笑った。


 その顔を見ていたら、私は思わず抱きしめたくなって。


 …………。


 ……あ。


 待てよ。


 昨日も、ここで抱きしめて、もう一回怒られたんだった。


 私は、そっと巴さんを見る。


 巴さんは、何か言いたそうにこちらを見ている。


 …………。


 ……うん。


 ここは、我慢!


「……リアリスちゃん」


「……はい!」


「抱きしめるくらい、我慢しなくてもいいのよ?」


 …………。


 ……あっ。


 そうなの!?


 巴さんが、くすっと笑った。


「甘やかすのと、大事にするのは違うでしょう?」


 …………。


 ……ああ。


 なるほど。


 そういうことか。


 私はカトレアをそっと抱きしめた。


「おかえり、カトレア」


「……ただいま、お父さん!」


 ……うん。


 こういうのは、何度だっていいよね。


 桜花も、ほっとしたように微笑んでいた。


     ◇


 夜。


 王国邸の食堂では、ルビドで買ったお土産の話で盛り上がっていた。


 カトレアは、買ってもらったリボンをみんなに見せている。


 藤への飾りも、喜んでもらえたらしい。


 ……うん。


 よかった。


 私は温かいお茶を飲みながら、今日のことを思い返した。


 湖の青さ。


 馬車の揺れ。


 おいしい魚料理。


 カトレアの笑顔。


 そして、巴さんのお説教。


 …………。


 ……最後だけ、ちょっと余計だったかな。


 ……いや。


 私が原因なんだけどね。


「リアリスちゃん」


「はい?」


 巴さんが、向かいに腰を下ろした。


「ルビドは、本当にいいところだったみたいね」


「はい! 湖もきれいで、ご飯もおいしくて」


「そう。カトレアも、ずっと楽しそうに話してるわ」


 私はカトレアの方を見た。


 楽しそうに笑っている。


 ……うん。


 本当に、いい一日だったね。


「今度は、みんなで行きたいなと思ってるんです」


「あら。いいわね」


「お店のみんなもいますし、すぐには難しいかもしれないけど」


「予定を合わせれば、行けるわよ」


「……そうですね!」


 ……おお。


 それは、嬉しいな。


「巴さんにも、あの魚料理を食べてもらいたいんですよ」


「ふふ。楽しみにしてるわ」


 ……うん。


 きっと、気に入ってもらえると思う。


 それから、私はふと思った。


 異世界に来てから、国を渡り歩いて、色々な人に会った。


 王様にも会ったし、皇帝にも会った。


 勇者とも、友達になった。


 ……いや。


 弟子ができたんだっけ。


 でも。


 今日一番嬉しかったのは、カトレアが「しあわせ」って言ってくれたことだ。


 ……ああ。


 やっぱり、私が欲しかったのは、こういう暮らしなんだなぁ。


「……お父さん!」


 カトレアが、こちらへ駆け寄ってきた。


「ん?」


「……また、湖、行こうね!」


「うん。今度は、みんなでね!」


「……やったぁ!」


 カトレアが、ぱっと笑う。


 巴さんも、桜花も、優しく笑っていた。


 ……うん。


 まだまだ、行ってみたい国も場所もある。


 これから先も、色々なことが起こるんだろう。


 でも、どんなに遠くまで行っても。


 こうして帰ってこられる家と、一緒に笑ってくれる家族がいる。


 それが、何より嬉しい。


 ……さて。


 次の旅へ出る前に、今日はぐっすり眠ろうかな。


 明日も、いい日になるといいな。


 ――いつかきっと、家族みんなで、あの青い湖へもう一度。

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