第1話:皇帝陛下に呼ばれました
朝、目を覚ました私の頭の中に、最初に浮かんだのは一つの言葉だった。
……お父さん。
昨日、カトレアが私をそう呼んでくれた。
まだ少し信じられない。
異世界へ来たときは、誰にも気兼ねせず、のんびり過ごすつもりだったのに。
それが、気づけば娘ができているんだから、人生は分からない。
「……ふふ」
思わず笑ってしまった。
いや、別に悪いことじゃないんだけど。
むしろ、嬉しすぎて困るくらいだ。
私は寝台から起き上がり、窓を開けた。
涼しい風が入ってくる。
庭の花が朝日を浴びて、ゆっくり揺れていた。
……よし。
今日もいい一日になりそうだ。
そう思って部屋を出たところで、廊下の向こうから声が聞こえた。
「……お父さん!」
……あ。
まだ慣れないなぁ、その呼び方。
でも、返事が遅れるのも嫌だ。
「おはよう、カトレア!」
階段のところに、小さな女の子が立っていた。
水色のおかっぱ頭を揺らし、嬉しそうにこちらへ歩いてくる。
後ろには橙色の髪の楓。
いつもの無表情だけど、私を見つけると、ほんの少し目元が緩んだ。
「……おはよう、リアリス様」
「おはよう、楓」
「ねえ、お父さん。今日はお花、いっしょに見られる?」
「うん。朝ご飯のあとなら少し時間があるよ」
「……やった!」
……ああ。
呼ばれるたびに、頬が緩む。
これはしばらく治りそうにないね。
私が二人の頭を撫でていると、階段の下から静かな足音が近づいてきた。
「リアリス様。おはようございます」
桜花だ。
相変わらず、姿勢のいい朝の挨拶。
「おはよう、桜花」
「本日はローズ帝国へご出発の予定でございますね」
「あ、そうだった」
……危ない。
娘に呼ばれて舞い上がって、今日の予定を一瞬忘れてた。
カバディ王から預かった、各国の君主へ宛てた書状。
あれを持って、今日から他の国を訪ねていくんだった。
最初の目的地は、ローズ帝国。
武闘派の皇帝が治める国だと聞いている。
……うん。
何だか、ちょっと楽しみだ。
「ローズ帝国に行くの?」
カトレアが首を傾げた。
「うん。カバディ王から預かったお手紙を、向こうの皇帝に渡してくるんだ」
「……皇帝?」
「王様みたいな人、かな」
「お父さん、お仕事?」
「そうだよ。でも遠くへ行くだけだから、移動は魔法であっという間さ」
「……そっか。いってらっしゃい!」
「うん。行ってくるね」
……まだ出発しないけど。
私は笑いながら、もう一度カトレアの頭を撫でた。
そのとき、楓が私の袖を引いた。
「……リアリス様」
「どうしたの?」
「……モフ太」
「モフ太?」
「……お話、したい」
……おお。
昨日からすっかり気に入ったみたいだ。
「そうだね。出かける前に、様子を見に行こうか」
桜花も静かに頷く。
「ちょうどよいかと存じます。昨夜は落ち着いて眠っておりましたので」
「それなら安心だ」
私たちは廊下を進んだ。
モフ太は、昨夜のうちに桜花が用意してくれた敷物で休んでいた。
階段を二階へ上がったところで、先に歩いていた楓が足を止める。
その先には、ちょこんと丸まった茶色の塊。
……ああ。
いたいた。
「……モフ太」
楓が小声で呼ぶ。
熊の耳が、ぴくりと動いた。
続いて、丸い頭がゆっくり持ち上がる。
――くぅ。
「おはよう、モフ太」
私が声をかけると、モフ太は立ち上がってこちらへ近づいた。
てくてく。
そして私の足元で、ぴたりと座る。
……うん。
今日も可愛いね。
カトレアがしゃがみ込んだ。
「……おはよう、モフ太!」
モフ太は、彼女の方へ顔を向けて鼻を鳴らした。
昨日より、ずいぶん自然な挨拶になっている。
……ところで。
私は、あることを思い出した。
昨日、《縮小》をモフ太に付与したときのことだ。
私が頷いてみてと言ったら、本当に頷いた。
しかも、二回。
あれは、どう考えても偶然じゃない気がするんだよなぁ。
「ねえ、モフ太」
私は足元にしゃがんだ。
「ちょっと聞いてもいい?」
モフ太は私を見上げる。
「昨日、私が言ったこと、全部分かってた?」
――くぅ。
……うん。
返事のようには聞こえる。
でも、『はい』なのか『お腹が空いた』なのか、今のままじゃ分からない。
「分かってるなら、右の前脚を上げてみて」
すっ。
モフ太が、迷わず右の前脚を持ち上げた。
「……おお」
すぐに上がった。
しかも、右だ。
「じゃあ、次は左」
すっ。
今度は左。
「……すごい」
カトレアが目を輝かせた。
楓は、ほんの少しだけ首を傾げている。
「……頭、いい」
「うん。これ、絶対に分かってるよね?」
私が桜花を見ると、桜花は静かに頷いた。
「少なくとも、指示の内容は正確に理解しているようでございます」
……だよね。
《テイム》で命令は伝わると考えていたけど、どうもそれだけじゃない気がする。
だったら。
いっそのこと、返事ができた方がいいんじゃないかな?
「……よし。試してみよう」
私はモフ太へ手を伸ばした。
声にして言葉を伝えられるようにする。
難しい文法や知識を無理やり詰め込むんじゃなくて、モフ太がもう理解していることを、人間の言葉として話せるようにする。
相手の声を聞き、考え、自分の意思を伝える。
喉の形や身体の大きさに左右されず、ちゃんと会話が成立する能力。
……うん。
名前も、分かりやすい方がいい。
「〔会話できる君〕」
私はそう名づけた能力を想像し、モフ太へ付与した。
いつもの声が、頭の中に響く。
『《想像魔法》にて《会話できる君》が完成しました。』
……よし。
今度はどうかな。
「モフ太。私の言ってること、分かる?」
モフ太は、私の目をじっと見た。
そして――。
「……はい。分かっております」
……。
…………。
「……しゃべったぁ!?」
思わず、廊下に声が響いた。
いや、私がしゃべれるようにしたんだけどね!?
それは分かってる。
分かってるけど!
昨日まで『くぅ』しか言わなかった熊が、急に丁寧な言葉で返事をしたら、そりゃ驚くでしょう!
「……お父さん!」
カトレアが、私の袖を掴んだ。
「モフ太が、お話した!」
「う、うん。したね!」
楓はじっとモフ太を見つめていた。
表情はほとんど変わらない。
でも、指先がほんの少し動いている。
「……もう一回」
モフ太が楓へ顔を向けた。
「おはようございます、楓様」
「…………」
楓は、ゆっくり私を見上げた。
「……しゃべった」
「うん。今度は私もちゃんと聞いた」
……いやぁ。
思っていた以上に普通に話すね、この子。
私の中では『おはようクマ!』みたいな声が出る可能性も考えていたんだけど。
ちゃんと落ち着いた、少し低めの声だ。
しかも、丁寧。
「リアリス様。成功のようでございますね」
桜花が、微笑んだ。
「そうだね。でも、ちょっとびっくりした」
「……ご主人様」
モフ太が私を見上げる。
「はい?」
「昨日は、お助けいただきありがとうございました」
「……えっ」
私は思わず、動きを止めた。
モフ太はゆっくり頭を下げた。
「森で命を奪われても仕方のないところを、こうして迎えていただきました」
……おお。
ちゃんと、そのことを覚えてるんだ。
「……そっか」
私はモフ太の頭を撫でた。
「もう誰かを襲わないなら、それでいいよ」
「はい。ご主人様のお言葉は理解しております」
……あ。
やっぱり。
元から言葉が通じてたんだね。
「じゃあ、昨日二回頷いてたのも?」
「はい。ご主人様が確認なさったので」
「……そうだったんだ」
私は苦笑した。
……だったら、もっと早く会話できるようにしてあげればよかったな。
でも、まあ。
今からでも遅くないよね。
「……ところで、モフ太」
「はい」
「話せるようになったなら、ちゃんと確認しておきたいことがあるんだ」
私はカトレアの方へ目を向けた。
彼女は、まだモフ太の声を聞けたことが嬉しいらしく、口元を緩めている。
「この子がカトレア。私の娘だよ」
「存じております。昨日、名前をつけていただきました」
「そうだったね」
私は頷いた。
「今までにも守るように言ってあるけど、ここで改めて命令するよ」
モフ太の目が、まっすぐ私を見つめた。
「カトレアの安全を、何よりも最優先で守ること。」
私は一言ずつ、はっきり伝えた。
「私が出かけているときも、ここにいるときも同じ。カトレアが危ない目に遭ったら、他の仕事よりも先に守ってほしい」
「承知いたしました」
「それから、誰かに言われたからって、勝手にカトレアを危険な場所へ連れていかないこと。迷ったときは、巴さんか桜花に相談してね」
「はい。カトレア様の安全を最優先といたします」
……うん。
今まで命令に反応していただけのときとは、安心感が違うなぁ。
こんなふうに言葉で確認できるなら、勘違いも減りそうだ。
カトレアが目を丸くした。
「……モフ太、わたしのこと、守ってくれるの?」
「もちろんです、カトレア様」
「……様?」
彼女が困ったように私を見る。
……ああ。
モフ太、丁寧すぎるね。
「モフ太。カトレアは普通にカトレアって呼んでもいいよ」
「承知いたしました。……カトレア」
「……うん!」
カトレアは嬉しそうに笑った。
……うん。
いい感じだ。
私はモフ太の前へしゃがみ、もう一つだけ確認した。
「ただし、カトレアが普通に遊びたいときは、危険じゃなければ自由にさせてあげてね。ずっと止めてばかりじゃ、楽しくないから」
「かしこまりました」
……よし。
これなら、過保護な見張り役じゃなくて、頼れる護衛になってくれるかな。
「とはいえ、モフ太自身の安全も考えないとね」
私がそう言うと、モフ太は首を傾げた。
「私の、ですか?」
「そう。守る役目をお願いしたからって、怪我をしていいわけじゃないんだ」
私は魔法の効果を考える。
モフ太はSランクの魔獣だ。
元の姿なら、大抵の相手には負けないのかもしれない。
でも、絶対なんてない。
守りたい子のために、危険を引き受けるなら。
この子自身にも、できるだけ安全でいてほしい。
「じゃあ、少しだけ強化しておこうか」
私はモフ太へ《絶対防御》と《不老不死》を、解除されない永続効果として付与した。
その上で、《結界》《全能力強化》《完全回復》を、魔力の消費なしで使えるように整える。
昨日付与した《縮小》も、もちろんそのまま。
……うん。
これなら、かなり安心できそうだ。
「モフ太。今使えるようにした魔法、分かる?」
「はい。使い方も理解できております」
「おお。便利だね、それ」
……いや、私がそうしたんだけど。
モフ太は落ち着いた声で続けた。
「この力で、カトレアを守ります」
「うん。頼んだよ」
カトレアは私たちのやり取りを聞きながら、モフ太の頭をそっと撫でていた。
「……モフ太、強いの?」
「元の姿なら、かなり強いよ」
「……そうなんだ」
「でも、今はこの小さい姿がいいよね?」
カトレアが頷く。
「うん! 抱っこできるから!」
モフ太が、ほんの少し耳を動かした。
「……ご希望でしたら、いつでも」
「ほんと!?」
「はい」
……何だろう。
もうすっかり、娘専属の優しい熊になってる。
昨日の森で、あんなに怖がられていたのが嘘みたいだ。
……シルベスターさんには見せないでおこうかな。
また頭を抱えそうだから。
「そういえば、モフ太の寝る場所も決めないと」
私は周囲を見回した。
ここは二階へ上がってすぐのホール。
廊下が左右へ伸び、家族やメイドたちが行き来する場所だ。
広さには十分余裕がある。
モフ太が昨夜休んでいた敷物も、階段から少し離れた壁際に置かれていた。
……うん。
ここがいいかもしれない。
「桜花。このホールの端、モフ太の住処にしてもいいかな?」
「よろしいかと存じます。どなたのお部屋へ向かうにも、ここを通りますので」
「そうだよね。カトレアの部屋も近いし」
モフ太にとっても、人の出入りが分かりやすそうだ。
「モフ太、ここで暮らすのはどう?」
「私としては異存ございません。カトレアの様子も分かります」
「よし。じゃあ決まり!」
私は《建築》を使い、ホールの壁際へ小さな専用スペースを整えた。
柔らかく大きめの寝床。
水を飲める器と、食事を置く台。
身体を拭くための布や、手入れ道具をしまう棚。
それから、通路を塞がないよう低い仕切りを一つ。
……うん。
小さな熊の部屋、って感じだ。
いわゆる檻じゃない。
誰かに会いたくなったら、いつでも外へ出られる。
もちろん、カトレアを守るときもね。
「わあ……!」
カトレアが声を上げた。
「モフ太のお部屋だ!」
「気に入った?」
「うん! すごい!」
楓も、寝床を指先で押して確かめていた。
「……ふかふか」
「寝心地、どう?」
私が尋ねると、モフ太はちょこんと寝床に入った。
くるりと一周。
それから、腰を下ろす。
「……素晴らしいです」
……おお。
満足してくれたみたいだ。
カトレアが、急に何かを思いついたように手を叩く。
「ねえ、お父さん。ここにお名前、書いてもいい?」
「もちろん!」
小さな木の札を作って渡すと、カトレアは張り切って『モフ太』と書き始めた。
……うん。
これで、本当に家の一員になったね。
木の札が完成すると、カトレアは両手で掲げた。
「できた!」
少しだけ文字が傾いている。
でも、一生懸命書いたことが伝わってくる。
「いいね。どこに飾ろうか」
「ここ!」
カトレアが寝床の上の壁を指さす。
私は札が落ちないように、しっかり固定した。
モフ太がそれを見上げる。
「……ありがとうございます」
「ふふ。気に入ってくれた?」
「はい。自分の名がある場所というのは、嬉しいものです」
……うわ。
そんなこと言われたら、私まで嬉しくなるじゃないか。
カトレアも、ちょっと照れくさそうに笑った。
「……よかった」
楓は完成した札を見て、ほんの少し目を細めた。
「……上手」
「ありがとう、楓ちゃん!」
……いいなぁ。
こういう朝。
モフ太を迎えて、また一つ日常が増えた感じがする。
「リアリスちゃん、みんな。朝ご飯ができたわよ」
階段の下から、巴さんの声がした。
「はーい!」
私が答える。
カトレアがモフ太の頭を撫でた。
「モフ太、あとでね!」
「はい。いってらっしゃいませ」
……熊に見送られる朝。
なかなか新鮮だ。
そのとき、巴さんが二階まで上がってきた。
「……あら。綺麗なお部屋ができたのね」
「はい。ここをモフ太の住処にしようと思って」
「ふふ。ちょうどいい場所ね」
巴さんは札を見て微笑む。
……そして。
「……ところで、リアリスちゃん」
「はい?」
「いま、その熊がお話ししなかった?」
……あっ。
そうだった。
巴さんに説明するの、忘れてた。
「はい。今朝、しゃべれるようにしてみました」
「……そうなの」
巴さんは、しばらく私とモフ太を見比べた。
「……リアリスちゃん、本当に何でもできるのね」
「……あはは」
困ったように笑うと、モフ太が丁寧に頭を下げた。
「これからお世話になります、巴様」
「……こちらこそ。よろしくね、モフ太ちゃん」
……うん。
巴さん、対応が早いなぁ。
さすが、我が家のお母さんだ。
いや、そういう問題なのかは分からないけど。
◇
朝食を終えた私は、部屋で今日の持ち物を確かめていた。
カバディ王から預かった書状。
身分を示すための冒険者カード。
それから、念のための着替え。
……まあ、どれも《収納》に入っているんだけどね。
こうして確認しておけば、いざというとき慌てずに済む。
「リアリス様」
桜花が扉を叩いた。
「準備が整いました」
「うん。私も大丈夫」
桜花は今日も、いつもの落ち着いた装いだ。
腰には愛刀。
皇帝に会うからといって、武器を置いていく気はないらしい。
……まあ、桜花らしいね。
「ところで桜花。帝国って、どんなところなんだろう」
「武を重んじる国と聞いております」
「やっぱり、戦うのが好きな人が多いのかな」
「その可能性はございます」
「……うん。なるべく平和に済ませたいね」
「はい」
桜花が静かに微笑んだ。
……あれ。
今の『はい』、どうしてちょっと楽しそうなんだろう。
私は深く考えないことにした。
階段を下りると、巴さんとカトレア、楓が玄関にいた。
「リアリスちゃん、気をつけて行ってらっしゃい」
「はい。行ってきます!」
「……いってらっしゃい」
楓が小さく手を上げる。
「お父さん、行ってらっしゃい!」
カトレアも元気よく手を振った。
……ああ。
何度呼ばれても、嬉しいなぁ。
「ありがとう。お土産、何か面白いものがあったら見てくるね」
「……おみやげ!」
楓の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
……食べ物を想像してる顔だね、これ。
カトレアはくすくす笑いながら、隣の楓を見た。
「楓ちゃん、何がいい?」
「……おいしいもの」
……やっぱり。
私は笑って手を振った。
それから、二階の方を見上げる。
「モフ太、カトレアをよろしくね!」
奥から、落ち着いた声が返ってきた。
「お任せください、ご主人様!」
……うん。
頼もしいね。
私は桜花と顔を見合わせた。
「よし。行こうか!」
「はい、リアリス様」
屋敷の外へ出ると、見慣れたシルク王国の草原が広がっていた。
ここから帝国まで、普通に旅をすればどのくらいかかるんだろう。
……数日?
いや、もっと?
地図で見る限り、決して近い距離じゃない。
でも、今の私には《転移》がある。
行き先さえ分かれば、一瞬だ。
「では、帝都トリテアへ向かおうか」
「かしこまりました」
私は頭の中に、転生したときから見えている地図を浮かべた。
シルク王国の王都クーラルから、さらに離れた場所。
ローズ帝国の中心に、帝都トリテアの表示がある。
……うん。
ちゃんと分かるね。
さすがに、いきなり帝城の中へ出るのは非常識だろう。
王都でも、知らない人が突然城内に現れたら大騒ぎになる。
私は帝都の城壁から少し離れた、街道沿いの安全そうな場所を思い浮かべた。
「《転移》」
視界が、ふっと変わる。
次の瞬間、足元はよく踏み固められた街道になっていた。
遠くには、巨大な城壁。
その向こうから、高い尖塔がいくつも覗いている。
……おお。
着いた!
「……すごいなぁ」
思わず声が漏れた。
シルク王国とは、町の雰囲気がまるで違う。
外から見ただけでも、壁の造りが頑丈そうだ。
門の上には、大きな旗が風にはためいている。
……うん。
何だか、武闘派の国って感じ。
「リアリス様。街道の向こうから馬車が参ります」
桜花が小声で知らせてくれた。
「……あ、ほんとだ」
荷物を積んだ馬車が一台、ゆっくりこちらへ向かってくる。
私は道の端へ避け、御者に軽く会釈した。
……うん。
いきなり《転移》で現れたところを見られなくてよかった。
余計な騒ぎを起こすのは、なるべく避けたいからね。
「じゃあ、まずは入国からだ」
「はい」
私は桜花と並んで、帝都の門へ歩き出した。
こうして、私の初めての帝国訪問が始まった。
帝都トリテアの門前は、朝から賑わっていた。
行商人の荷車。
旅装束の人々。
鎧を着た冒険者たち。
誰もが大きな門をくぐり、あるいは外へ向かって歩いている。
……おお。
さすが帝国の首都だね。
門兵たちの装備も、シルク王国で見かけたものより少し重厚に見える。
兜には飾りが少なく、代わりに実用的な補強が入っていた。
……何だか、鎧だけで性格が分かりそうだ。
「次!」
順番が来たので、私は前へ進んだ。
「おはようございます」
「おう。商人か、冒険者か?」
「ええと。冒険者ですけど、今日は皇帝陛下にお会いしたくて」
門兵が手を止めた。
「……皇帝陛下に?」
「はい」
「お前が?」
「……はい」
……うん。
怪しいよね、自分でも分かる。
Fランクの冒険者が突然現れて、皇帝に会いたいと言い出すんだから。
私は慌てて《収納》から書状を取り出した。
「シルク王国のカバディ王から、こちらを預かってきました。お渡しするように言われていて」
「……シルク王国?」
門兵が封書を受け取り、封印を確認する。
立派な印章が押されている。
……うん。
こういうとき、ちゃんとした書状があってよかった。
門兵は同僚を呼び、何やら短く相談した。
しばらくして、年上らしい兵士が私たちの前へ来る。
「確認する。そちらが、リアリス殿か?」
「はい。私がリアリスです」
「同行者は?」
「桜花と申します。リアリス様の護衛兼相棒でございます」
桜花が静かに一礼した。
兵士は私たちを交互に見てから、頷いた。
「お話は聞いている。城へ連絡を入れるので、しばらくこちらで待ってくれ」
「分かりました」
……おお。
話が通ってるみたいだ。
さすが国王の書状だね。
私たちは門の脇の待合所へ案内され、そこで少しだけ待つことになった。
待合所の窓からは、帝都の通りがよく見えた。
大きな荷車が往来し、職人らしい人たちが道具を運んでいく。
石畳の上には、しっかりした車輪の跡が残っていた。
……うん。
人が多いわりに、秩序があるね。
「リアリス様」
桜花が隣に立った。
「何か、お気づきになりましたか」
「いや。活気のある町だなと思って」
「そうですね。兵たちの動きにも無駄が少ないようでございます」
「……そっちを見てたんだ」
さすが、桜花。
同じ景色でも、見るところが違うんだなぁ。
「でも、こういう町を歩くのは楽しそうだよね」
「はい。お時間がございましたら、ぜひご一緒に歩いてみましょう」
「うん。ぜひ!」
……帝都の食べ物も気になるしね。
王都と違うものが売っていたら、楓へのお土産にもできる。
カトレアには、何か可愛いものがいいかな。
そんなことを考えていると、扉が開いた。
「お待たせいたしました、リアリス殿」
先ほどの兵士が戻ってきた。
「城から迎えが来ました。ご案内いたします」
「ありがとうございます!」
外へ出ると、装飾の整った馬車が一台停まっている。
側面には、見覚えのない紋章。
……おお。
これ、もしかして皇帝のところの馬車?
「こちらへどうぞ」
御者が扉を開けてくれた。
私は桜花と顔を見合わせる。
「……何だか、急にすごい待遇になったね」
「国王の紹介状をお持ちですので」
「……それはそうか」
私たちは馬車へ乗り込んだ。
座席には柔らかな布が張られ、窓からは町の様子がよく見える。
馬車が静かに動き出した。
……ああ。
こうして知らない国を訪ねるの、結構好きかもしれない。
行ったことのない町へ行って、知らない人と会う。
私が異世界へ来たとき、何となく想像していた旅の楽しさが、ここにある。
……ただし。
今回は相手が皇帝だから、失礼のないようにしないとね。
……できるかなぁ。
馬車は帝都の大通りを進んでいった。
窓の外には、赤茶色の屋根が並ぶ。
店先では職人が金属を打ち、露店にはパンや果物が並んでいた。
広場の一角では、小さな子供たちが木剣で遊んでいる。
……おお。
こんなところにも、武の国らしさが出るんだね。
ふと、通りの向こうから大きな笑い声が響いた。
鎧姿の男たちが、昼前だというのに何かの勝負の話で盛り上がっているらしい。
「昨日のあいつの一撃、見たか!」
「見た見た! あれを受け止めるとは思わなかったな!」
……ああ。
こういうの、嫌いじゃない。
ただし、私自身が巻き込まれないなら、だけど。
「リアリス様。あちらをご覧ください」
桜花が窓の向こうを指した。
城へ続く道の途中に、立派な訓練場が見えた。
何人もの兵士が、整列して剣を振っている。
遠くからでも、動きが揃っているのが分かる。
「……おお。すごいね」
「よく鍛えられております」
「うん。あの人たち、毎日こうして訓練してるのかな」
「おそらく」
……うん。
こういう積み重ねが国を守っているんだろうね。
私の魔法は、思いついただけで何でもできてしまうことがある。
だからこそ、汗を流して鍛えている人を見ると、素直に尊敬してしまう。
「……私も、少しは運動しようかな」
桜花が私を見た。
「本日のお帰り後、組手をなさいますか?」
「……えっ」
「よろしければ、お相手いたします」
……あれ。
そういう意味で言ったんじゃないんだけど!
「……また今度、お願い」
「かしこまりました」
桜花が静かに微笑んだ。
……うん。
何だか、逃げられない約束をしてしまった気がする。
やがて、馬車の速度が落ちた。
窓の外に、大きな城門が見える。
それまでの町並みとは明らかに違う、分厚い石壁。
その上には見張りの兵士が立ち、旗がはためいていた。
「到着いたしました」
御者の声とともに、馬車が停まる。
「ありがとうございます」
外へ降りると、目の前には広い中庭があった。
綺麗に整えられた石畳。
左右には背の高い建物。
そして、奥には威圧感のある大きな扉。
……ああ。
これが帝城か。
シルク王国の王城は、どこか落ち着いた上品さがあった。
こっちは、見るからに堅牢だ。
守るためというより、ここから出て戦うための城にも見える。
……まあ、素人の感想だけどね。
「リアリス殿、桜花殿」
迎えに来たのは、落ち着いた雰囲気の文官だった。
「皇帝陛下は、お二人のお越しをお待ちです。こちらへ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
私は軽く頭を下げる。
文官は一瞬だけ私を見つめ、微かに笑った。
「噂に聞いた方とは、ずいぶん印象が違いますね」
「……噂?」
「いえ。失礼しました」
……おっと。
私、帝国でも何か噂になってるの?
ちょっと不安になったけれど、聞き返す前に文官は歩き出した。
仕方ない。
あとで機会があったら聞いてみよう。
長い廊下を進みながら、壁に飾られた剣や盾を眺める。
どれも手入れが行き届いている。
ただの飾りというより、かつて誰かが実際に使ったものに見えた。
「桜花。こういうの、好き?」
小声で尋ねる。
「武器は持ち主の技量と扱いが大切かと存じます」
「……うん。それはそうだけど」
桜花は真面目な顔で続けた。
「展示品としては、興味深いものでございますね」
……おお。
今、ちょっと褒めたね。
私は一人で頷いてしまった。
その間にも廊下は続き、やがて大きな扉の前へ辿り着いた。
大きな扉の前で、文官が足を止めた。
「お二人は、ここで少々お待ちください」
「はい」
扉の向こうから、低い声が響いてくる。
何やら話し合っているようだ。
……うん。
さすがに、ちょっと緊張するね。
国王にはもう会っているし、神様にも会ったことはある。
でも、それはそれ。
初対面の皇帝に会うのは、やっぱり少し緊張する。
「リアリス様」
桜花が小声で呼んだ。
「はい?」
「肩に、力が入っております」
「……あ、分かる?」
「はい」
「……ちょっとだけね」
桜花はそっと微笑んだ。
「どうぞ、いつもどおりになさってください」
「……うん。ありがとう」
……そうだね。
無理して偉そうに振る舞うより、普通にしていた方がいい。
私にできるのは、カバディ王から預かった手紙を渡して、ちゃんと話をすること。
それだけだ。
……うん。
何とかなるでしょう。
「シルク王国からの使者、リアリス殿と桜花殿をお連れしました!」
文官が扉の向こうへ声をかけた。
「入れ!」
力強い返事。
……うわ。
声だけで迫力がある。
扉が開く。
私は一つ息を吸い、桜花と並んで中へ足を踏み入れた。
広い部屋だった。
高い天井。
大きな柱。
窓から差し込む明るい日差し。
左右には何人かの兵士や文官が控えている。
そして、奥に置かれた大きな椅子。
そこに座っていたのは、灰色の短髪をした、がっしりした男だった。
……おお。
見るからに強そう。
……というか。
これ、本当に皇帝陛下?
装飾の多い服を着ているのに、体格だけ見ると歴戦の冒険者みたいだ。
男が立ち上がった。
私より少し背が高い。
腕も太いし、立ち方に妙な隙がない。
……うん。
間違いなく、ただの偉い人じゃないね。
「よく来たな、リアリス!」
男の声が、部屋いっぱいに響いた。
……おっと。
初対面なのに、随分気さくだね。
「シルク王国より参りました、リアリスと申します。こちらは相棒の桜花です」
「桜花と申します。お目にかかれて光栄でございます」
私たちはそれぞれ挨拶した。
男は満足そうに笑う。
「俺がヴァリロッサ・ローズ。このローズ帝国の皇帝だ」
「よろしくお願いします、皇帝陛下」
「ははは! そう堅くなるな!」
……いやいや。
相手が皇帝なんだから、堅くもなるでしょう!
その隣に立っていた男が、軽く咳払いした。
短い黒髪。
筋肉質の体格。
片眼鏡を掛けていて、皇帝より少し若く見える。
「陛下。まずは正式な挨拶を」
「分かっている、ガラント。そう急かすな」
「急かしているのではありません。順序のお話です」
……ああ。
この人が、皇帝を支える宰相かな。
私が小さく頭を下げると、その人はこちらへ向き直った。
「ローズ帝国宰相、ガラントと申します。政務を預かっております」
「リアリスです。よろしくお願いします」
「桜花でございます」
ガラントさんは私たちを見た。
その目は、皇帝と違ってかなり慎重だ。
「シルク王国からのお使いと伺っています。ご持参の書状を拝見しても?」
「もちろんです」
私は《収納》から封書を取り出した。
ガラントさんの視線が、私の手元でぴたりと止まる。
……あれ。
まだ何か疑われてる?
「……今、どこから出されましたか」
「《収納》という魔法ですけど」
「……魔法で?」
「はい。便利ですよ」
ガラントさんはしばらく黙った。
「……なるほど。少々、聞いていた以上の方のようですね」
……おお。
ちゃんと理解してくれたのかな。
と思ったけれど。
その目は、ますます真剣になっていた。
ガラントさんは、差し出された書状を受け取る前に口を開いた。
「リアリス殿。一つ、確かめさせていただいても?」
「はい。何でしょう」
「あなたが、噂に聞くあのリアリス殿ご本人であると、どう証明なさいますか」
……ああ。
そういうことか。
「書状と、名前だけじゃ足りませんか?」
「封印は本物に見えます。しかし、盗まれた書状である可能性もあります」
……なるほど。
それは確かにそうだ。
私は素直に頷いた。
「そう言われれば、そうですね」
「加えて、あなたは今、私の知らない魔法を何のためらいもなく使った」
「……はい」
「皇帝陛下の御前での魔法使用は、警戒すべき行為です」
……おっと。
それは、うっかりしてたかもしれない。
《収納》って普段から使ってるから、つい。
「すみません。次からは気をつけます」
私は頭を下げた。
でも、ガラントさんはまだ表情を緩めない。
「陛下に害をなす意思がないと、確認させてください」
「ありませんよ。今日はお手紙を渡しに来ただけですから」
「……ならば、しばらく魔法を使わず、こちらの指示に従っていただく」
ガラントさんが、私の方へ一歩踏み出した。
その手が、腰の武器へ近づく。
……あれ。
これは、ちょっとまずいかもしれない。
私は桜花をちらりと見た。
桜花の表情はいつもどおりだ。
でも、いつでも動ける姿勢になっている。
……ああ。
このままだと、桜花が先に動いちゃう。
「……桜花。大丈夫だから」
「……はい」
桜花が静かに頷いた。
ガラントさんは眉をひそめる。
「何を……」
「《完全拘束》」
私は、先に魔法を発動した。
ガラントさんの身体が、ぴたりと止まる。
「……っ!?」
目を見開いたまま、一歩も動けなくなった。
……うん。
これで、とりあえず誰も怪我をしないね。
……いや。
外交の場で、いきなり宰相を拘束するのはどうなんだろう。
……今さら気づいたけど。
しん、と謁見室が静まり返った。
護衛の兵士が一斉にこちらを見る。
……あ。
これは、怒られる流れかな。
「ガラントさん、怪我はしていませんよね?」
「……何を、した……!」
「《完全拘束》です。身体が動かないだけで、痛くはないと思います」
「……そういう話では……!」
……うん。
ごもっともです。
兵士たちの手が、武器へ伸びた。
私は慌てて両手を上げる。
「待ってください! 傷つけるつもりはありません!」
桜花が、私の横へ一歩出た。
……桜花、お願いだから今は刀を抜かないでね。
そのとき。
「……はっはっはっは!」
豪快な笑い声が響いた。
……えっ。
皇帝陛下?
ヴァリロッサ皇帝は、椅子の前で腹を抱えて笑っていた。
「見たか、ガラント! お前が一歩踏み出したと思ったら、もう動けんとはな!」
「……陛下! 笑い事ではありません!」
「いや、笑うだろう! お前がこんな目に遭うなど滅多にないぞ!」
……あれ。
怒られないの?
私は桜花を見る。
桜花も、少しだけ首を傾げていた。
……この国、やっぱりちょっと独特なのかもしれない。
「リアリス!」
「は、はい!」
「その魔法で、お前は今、ガラントを完全に封じているのだな?」
「はい。こちらから解除するまでは、動けません」
「痛めつけずに、か?」
「もちろんです」
「……素晴らしい!」
皇帝は、満足そうに頷いた。
……素晴らしい?
何だか、褒められてしまった。
「陛下、まずは解いていただくよう――!」
「あ、そうですね」
私は慌てて《完全拘束》を解除した。
ガラントさんの身体が、すっと動く。
彼は姿勢を立て直すと、深く息を吐いた。
「……最初から、こうしていただければよかったのですが」
「すみません……」
私は素直に謝った。
「ただ、桜花が動く前に止めた方が安全かなと思いまして」
ガラントさんが桜花を見る。
桜花は静かに一礼した。
「リアリス様の判断は、適切だったと存じます」
……うん。
ほら。
この子の基準だと、きっとそうなんだろうね。
ガラントさんは、もう一度長いため息をついた。
「……さて、そろそろ本題に戻ろうか」
ガラントさんが、片眼鏡を直した。
……おお。
切り替えが早い。
さっきまで動けなくなっていたのに、もういつもの表情だ。
やっぱり、こういう立場の人はすごいなぁ。
「リアリス殿。書状をお預かりします」
「はい。どうぞ」
私は封書を差し出した。
今度は《収納》から取り出さなくて済んだ。
……よかった。
ガラントさんは封印を確認し、皇帝へ手渡す。
ヴァリロッサ皇帝は受け取ると、豪快な笑みを浮かべたまま封を切った。
「ほう。カバディからか」
「はい。お預かりしてきました」
皇帝は書状へ目を通す。
途中で、少しだけ眉を上げた。
……あれ。
何かまずいことでも書いてある?
「……なるほどな」
皇帝がつぶやく。
「シルク王国は、お前に随分と自由を与えているようだな」
「そうですね。ありがたい話だと思ってます」
「国を滅ぼせるような力を持つ男を、よくそこまで信用したものだ」
……えっ。
そんな物騒な説明になってるの?
私は思わず、桜花を見た。
桜花は変わらず、静かな表情で立っている。
……いや、そこは少し驚こうよ!
皇帝は書状をガラントさんへ渡した。
「お前も読め」
「承知しました」
ガラントさんが真剣な顔で文字を追う。
……うん。
初対面で拘束してしまった相手に、自分の力の説明書みたいなものを読まれるのは、何だか落ち着かない。
「……なるほど」
読み終えたガラントさんは、小さく頷いた。
「陛下。内容は確認できました」
「どう思う?」
「……シルク王国が、これだけ慎重に友好を求める理由は理解できます」
……おお。
ちゃんと、話が通じてる。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
……でも、どうやら私の知らないところで、すごい紹介をされている気がするなぁ。
「リアリス」
ヴァリロッサ皇帝が、まっすぐ私を見た。
「お前は、これから他の国も訪ねるつもりなのだな」
「はい。カバディ王から書状を預かっていますし、世界のいろいろな場所を見てみたいので」
「……なるほど。旅が好きか」
「そうですね。知らない町を歩いたり、そこにしかない食べ物を食べたりするのが楽しみです」
「はっはっは! いい理由だ!」
……おお。
食べ歩きに理解のある皇帝でよかった。
ガラントさんは、少しだけ困ったような顔になった。
「陛下。まずは条件を」
「分かっている。そう急くな」
……このやり取り、さっきも見た気がする。
皇帝は大きく頷き、私へ向き直った。
「帝国として、お前との友好を望む」
「……ありがとうございます」
「そして、お前の行動へ不必要な干渉はしない。帝国内でどこに住むかも、お前が自由に決めてよい」
……おお。
思ったより、ずっと話が早い。
「住む場所も、ですか?」
「ああ。帝都でも、遠くの町でも、好きな場所を選べ」
「それは、ありがたいですね」
……だって、この世界に来てから、家を作る楽しさに目覚めちゃったんだよね。
帝国にも、いつか拠点を作ってみたい。
そう考えていたところだった。
「さらに、帝国はお前の完全な自由を保証する」
皇帝が言葉を続けた。
「無理やり働かせることも、軍へ入れと命じることもない。俺のために戦えと言って、縛りつけるつもりもない」
……おお。
それは、本当にありがたい。
私は少し考えてから尋ねた。
「では、私は好きなときに帝国へ来て、好きなときに別の国へ行ってもいいんですね?」
「もちろんだ」
「帝都以外の町で、店を作ったりするのも?」
「それも構わん。ガラント、問題はないな?」
「はい。必要な事務手続きは整えられます」
ガラントさんが落ち着いて答えた。
……うん。
これなら、安心して帝国を見て回れるね。
「……それなら、一つだけ確認させてください」
私は手を上げた。
「何だ?」
「帝国の方から、何か代わりにしてほしいことはありますか?」
皇帝が首を傾げる。
「代わり?」
「はい。そんなに自由にしていいと言ってもらえるなら、何か条件があるのかなと思いまして」
……だってね。
この世界でも、ただより高いものはないって言うのかは知らないけど。
何も要求されないのは、逆にちょっと気になる。
すると、皇帝は豪快に笑った。
「ははは! ない!」
「……ないんですか?」
「ない。お前が帝国を敵としない。それだけで十分だ」
……おお。
ずいぶん、はっきりしてるなぁ。
ガラントさんが言葉を補った。
「正確には、こちらがあなたを利用しようとしなければ、敵対する理由もないと判断しています」
「……なるほど」
「国として、わざわざ危険を招く理由はありません。むしろ、友好的な関係を維持した方が双方に利益があります」
……うん。
それなら、分かりやすいね。
「私も、誰かと争うために旅をしているわけではありません。のんびり暮らせれば、それで十分なので」
「……のんびり?」
皇帝が、私を見た。
「はい。家を作って、おいしいものを食べて、たまに冒険者の仕事をして」
「……それがお前の望みなのか?」
「そうですね。あとは娘と一緒に過ごす時間があれば、言うことなしです」
……あ。
言ってしまった。
娘ができたばかりなのに、もう親馬鹿みたいだな。
「娘?」
ガラントさんが少し驚いた。
「お子様がいらっしゃるのですか」
「はい。昨日、正式に娘になったんです」
「……昨日?」
「はい」
皇帝と宰相が、揃って私を見た。
……あれ。
そこ、そんなに驚くところ?
皇帝はしばらく黙ったあと、急に大きく笑い出した。
「……はっはっは! お前は、本当に面白い男だな!」
……うん。
よく言われます。
「……ともかく」
ガラントさんが、深く息を吐いた。
「これで条件に相違はありませんね。帝国はリアリス殿との友好を正式に望み、行動への不干渉、居住地の自由、完全な自由を保証いたします」
「はい。私もそれでお願いします」
私は頷いた。
「お約束します。こちらから帝国へ争いを仕掛けたりはしません」
ガラントさんの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「ありがとうございます」
……おお。
ようやく、初対面で拘束した件を許してもらえたかな。
皇帝も満足そうに頷いた。
「よし! 決まりだな!」
「はい。よろしくお願いします、皇帝陛下」
「そう畏まるな。『皇帝』でいいぞ」
「……それでも、十分畏まると思いますけど」
「はっはっは! たしかにな!」
……よかった。
話の分かる人みたいだね。
隣のガラントさんは、何か言いたそうだったけど。
……今は聞こえないふりをしておこう。
「それで、リアリス」
皇帝が、ぐっと身を乗り出した。
「……はい?」
「お前の魔法も面白いが、そちらの桜花という娘も、ただ者ではないのだろう?」
……あ。
来た。
何だか、ちょっと嫌な予感。
私は桜花を見る。
桜花は静かに頭を下げた。
「リアリス様の相棒を務めております」
「……ふむ。いい目をしている」
皇帝の表情が、さっきまでとは少し変わった。
……おお。
何だか、嬉しそうだ。
「皇帝陛下」
ガラントさんが、素早く声をかけた。
「……まだ、正式な会談の場です」
「分かっている」
皇帝は答えた。
……うん。
この『分かっている』、何となく信用できないなぁ。
私は、少しだけ空を見上げたい気持ちになった。
……そういえば、シルベスターさんもこんな気分になることがあるんだろうか。
ガラントさんが、話をまとめるように書類を揃えた。
「では、取り決めの内容は後ほど文書にいたします。陛下、よろしいですね」
「ああ。任せた」
「リアリス殿にも、お渡しできるよう手配いたします」
「ありがとうございます」
……おお。
これで、正式な話し合いは終わりかな。
私はようやく胸を撫で下ろした。
帝国へ来るまでは、どんな人が皇帝なんだろうと思っていたけれど。
話してみれば、随分と豪快で分かりやすい人だった。
宰相のガラントさんも、慎重だけど悪い人じゃない。
……最初に拘束しちゃったのは、ちょっと申し訳なかったけど。
「それでは、今日はありがとうございました」
私は立ち上がり、頭を下げた。
「桜花、行こうか」
「はい、リアリス様」
……よし。
帝都の観光に行けるぞ。
おいしいもの、見つかるかな。
そう思った、そのとき。
「……待て、リアリス」
皇帝が、私を呼び止めた。
「はい?」
振り向くと、皇帝は椅子から立ち上がっていた。
口元には、大きな笑み。
さっきまでの外交の話とは、明らかに違う顔だ。
「せっかくここまで来たのだ。一つ、俺の頼みを聞いてくれないか?」
……あれ。
嫌な予感が、急に強くなった。
ガラントさんが、目を閉じる。
「……陛下」
「分かっている、ガラント」
……いや。
今度こそ、本当に分かっているのかな。
私は隣の桜花を見た。
桜花は、静かな表情のまま。
でも、ほんの少しだけ楽しそうに見えた。
……ちょっと待って。
何で桜花まで楽しそうなの?
皇帝が笑った。
「実はな――」
……うん。
どうやら、帝国でのんびり観光できるのは、もう少し先になりそうだ。




