第9話:お父さんって呼んでいい?
屋敷の門をくぐったところで、私は足を止めた。
夕暮れの光が、庭の石畳を柔らかく照らしている。
花壇には小さな花がいくつも咲き、風に揺れていた。遠くからは、夕食の支度をしているのだろう、食欲をそそる匂いが流れてくる。
……ああ。
帰ってきたなぁ。
今日一日、馬車に揺られて、森を歩いて、依頼を受けて。
最後はシルベスターさんにお説教までされたけど。
それでも、この景色を見たら全部楽しかったように思えてくるから不思議だ。
「リアリス様」
隣の桜花が、静かに声をかけた。
「ただいま戻りましたね」
「うん。無事に帰れた」
私は小さく笑った。
「……一人、増えてるけど」
桜花の腕の中で、小さな熊が鼻を鳴らす。
――くぅ。
……ああ、そうだ。
君のこと、みんなに紹介しないとね。
私は熊の頭をそっと撫でた。
「ここでは人を驚かせないこと。勝手に走り回らないこと。分かった?」
熊は、つぶらな目で私を見上げた。
うん。何度見ても、さっきの大きな魔獣とは思えない。
「桜花、行こうか」
「はい」
玄関へ向かおうとすると、庭の向こうから小さな足音が聞こえてきた。
「……リアリス様」
……ん?
振り向く。
そこには、橙色の短い髪を揺らした楓が立っていた。
その後ろから、水色のおかっぱ頭のカトレアも顔を覗かせている。
「……おかえり」
「ただいま、楓。カトレアも」
「……おかえりなさい、リアリスさん!」
二人とも、花壇の手入れをしていたらしい。
楓の手には小さなじょうろ。
カトレアは、摘んだ花を入れた籠を抱えていた。
……うん。
家に帰ってきて、こうして出迎えてもらえるのは嬉しいね。
そのとき、楓がじょうろをそっと地面へ置いた。
そして、私の前まで歩いてくる。
「……リアリス様」
「うん?」
「……約束」
……あ。
そうだった!
出かける前に、帰ってきたらぎゅっとするって約束したんだった。
「もちろん。覚えてるよ」
私はしゃがんで両手を広げた。
楓は、ほんの一瞬だけ私を見つめた。
それから。
「……ん」
とことこ、と近づいてきて、そのまま胸元へ飛び込んでくる。
「おっと」
私は小さな身体を受け止め、そっと抱きしめた。
橙色の髪が頬に触れる。
楓の腕が、ぎゅっと私の背中へ回った。
「……おかえり」
さっきより、小さな声。
「ただいま、楓」
私はもう一度、同じ言葉を返した。
楓は、なかなか離れようとしなかった。
……うん。
それなら、もう少しこのままでいようか。
私は背中を撫でながら、ゆっくり数を数える。
一、二、三。
……別に、数える必要はないんだけどね。
何となく。
「……寂しかった?」
小さく尋ねると、楓は胸元へ顔を埋めたまま首を横に振った。
「……待ってた」
「そっか」
「……帰ってきた」
「うん。ちゃんと帰ってきたよ」
……ああ、もう。
可愛いなぁ。
こういうとき、私の語彙が急激に減るのはどうにかならないだろうか。
「……楓ちゃん、よかったね」
カトレアの優しい声がした。
顔を上げると、彼女が籠を抱えたまま笑っている。
その笑顔を見て、私は自然と手を伸ばした。
「カトレアも、おいで」
「……えっ」
「一緒に、ぎゅってしよう」
カトレアは少し戸惑ったように楓を見た。
楓が胸元から顔を上げ、こくりとうなずく。
「……一緒」
「……う、うん!」
カトレアは花の籠をそっと置いて、私の空いた腕の中へ入ってきた。
水色の髪が、楓の橙色の髪と並ぶ。
……何これ。
両手に可愛い子が二人。
もう、このまま夕飯を食べなくてもお腹いっぱいになりそうだ。
……いや、それは巴さんに怒られるから、ちゃんと食べるけど。
「二人とも、今日はどうしてた?」
「……お花に、お水」
楓が答える。
「あとね、巴さんのおてつだいもしたの!」
カトレアが嬉しそうに続けた。
「お野菜を洗ったんだよ。楓ちゃんと一緒に」
「おお。二人とも偉いね!」
「……うん」
「……えへへ」
褒めると、二人の表情がほんの少し明るくなる。
それだけで、私まで嬉しくなった。
……ああ。
本当に、いい家に帰ってきたなぁ。
私は二人の頭を順番に撫でた。
その後ろで、桜花が静かに微笑んでいる。
……あれ。
そういえば、もう一人、帰ってきた子がいるんだった。
「そうだ。二人に紹介したい子がいるんだ」
私が言うと、楓が顔を上げた。
「……子?」
「うん。今日、森で会ってね」
カトレアは不思議そうに首を傾げる。
「……おともだち?」
「そうだね。新しいお友達、って言っていいのかな」
私は桜花を振り返った。
「桜花、おいで」
「はい」
桜花が歩み寄ると、その腕の中から小さな茶色い頭が覗いた。
最初に反応したのは、楓だった。
「……くま」
……おお。
的確。
次にカトレアが目を丸くした。
「……えっ」
大きな瞳が、桜花の腕から離れない。
熊はというと、二人の存在に気づいて小さく鼻を動かした。
――くぅ。
「……鳴いた!」
カトレアが目を輝かせる。
「うん。なかなか可愛い声でしょ?」
「……ちっちゃい、くまさん……」
そっとつぶやく声が、少しだけ弾んでいる。
……よかった。
怖がられたらどうしようかと思っていたけど。
もちろん、近づける前にちゃんと説明は必要だ。
「この子はね、森で会った魔獣なんだ。私の魔法で仲良くなって、今はおとなしくしてくれる」
「……まじゅう?」
カトレアの表情が、ほんの少し曇った。
……あ。
そうだった。
彼女にとって、魔獣という言葉は決して楽しいものじゃない。
あの日の記憶を思い出させてしまったかもしれない。
「……カトレア」
私は声を柔らかくした。
「怖かったら、無理に近づかなくていいよ」
カトレアは少し俯いた。
桜花は、腕の中の熊を落ち着かせるように撫でる。
その間、誰も急かさなかった。
やがてカトレアが、そっと顔を上げた。
「……この子、こわくないの?」
「うん。勝手に人を襲わないようにしてある。私の言うことをちゃんと聞いてくれるよ」
「……ほんと?」
「本当」
私は目を合わせて頷いた。
「でも、カトレアが安心できるまで、抱っこはしなくても大丈夫だからね」
……そうだ。
可愛いと思う気持ちは、誰かに押しつけるものじゃない。
この子が自分で近づきたいと思うまで、待ってあげよう。
カトレアは熊を見つめた。
熊も、静かに彼女を見返していた。
先に動いたのは、楓だった。
私の腕からするりと抜け出し、桜花の前へ歩いていく。
「……さわって、いい?」
「もちろんでございます。ただし、ゆっくりと」
桜花が熊を抱える位置を少し下げた。
楓は慎重に手を伸ばす。
短い指が、茶色い頭へそっと触れた。
……ふわっ。
毛が指先に押され、元の形へ戻る。
「……もふ」
楓がつぶやいた。
「……もふもふ」
……ああ。
その感想は分かる。
見た目も、手触りも、かなりもふもふしてるんだよね。
「どう?」
私が尋ねると、楓は顔を上げた。
「……好き」
……即答!
これはもう、楓のお気に入り入りだね。
熊は楓に撫でられながら、気持ちよさそうに目を細めた。
「……くぅ」
その様子を見ていたカトレアが、少しずつ近づいてくる。
「……楓ちゃん、だいじょうぶ?」
「……うん。やさしい」
楓が小さく頷く。
「……あったかい」
「……そう、なんだ」
カトレアは、もう一度熊を見た。
さっきまで曇っていた顔に、ほんの少し好奇心が戻っている。
私はしゃがんで、彼女へ手を差し出した。
「カトレアも、指先だけ触ってみる?」
「……いいの?」
「もちろん。でも、嫌だったらやめていいよ」
カトレアは小さく深呼吸をした。
「……やって、みたい」
「うん」
桜花が腰を落とし、熊を抱えたまま動かず待った。
カトレアは、恐る恐る人差し指を伸ばす。
茶色い耳の端へ、ちょん、と触れた。
「……あっ」
熊の耳が、ぴくりと動く。
カトレアは驚いて指を引いた。
でも、熊が何もしないと分かると、今度は自分からもう一度触った。
そっと。
今度は頭の上を、ゆっくり撫でる。
「……ふわふわ」
その声は、さっきよりずっと明るかった。
私は思わず頬を緩めた。
「でしょ?」
カトレアはこくりと頷いた。
そして、ほんの小さな笑みを浮かべた。
……ああ。
この表情が見られただけでも、連れて帰ってよかったな。
「……あら?」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り向くと、玄関から巴さんが出てきたところだった。
いつものエプロン姿。
夕食の支度をしていたのだろう、袖が少しだけまくってある。
「リアリスちゃん、桜花ちゃん。おかえりなさい」
「ただいま、巴さん」
「ただいま戻りました」
「二人とも無事で何より……」
巴さんは、そこで言葉を止めた。
視線が桜花の腕へ移る。
茶色い毛。
丸い耳。
そして、鼻をひくひく動かしている小さな熊。
「…………」
……あ。
この反応、今日何回目だろう。
私が口を開こうとすると、巴さんが一歩近づいてきた。
「……リアリスちゃん」
「は、はい」
「……その子は?」
「ええと、熊です」
「そうね。見れば分かるわ」
……あれ。
今日、何回これを言われるんだろう。
「森で会って、魔法で仲良くなったので、連れて帰ってきました」
「……そう」
巴さんは小さく息を吐いた。
怒っている、というより。
どう話を切り出そうか考えている顔だ。
「リアリスちゃん。ひとつ聞いていいかしら」
「はい」
「今日のお仕事は、薬草採取の護衛だったのよね?」
「……はい」
「……熊を連れてくるお仕事ではなかったのよね?」
「……はい」
「ふふ。そうでしょうね」
……笑ってる。
でも、何だか逆に怖い!
桜花はその隣で、涼しい顔のまま熊を抱いている。
……相棒。
ちょっとは助けてくれないかな。
「巴さん。この熊はもう人を襲いませんし、屋敷でも安全に暮らせるようにします」
私は慌てて続けた。
「食事も私が用意します。責任を持って世話をしますから!」
……あれ。
これ、さっきシルベスターさんにも言った気がする。
巴さんは私をじっと見つめた。
それから、ふっと表情を和らげた。
「……分かったわ」
「……えっ」
「リアリスちゃんが、ちゃんと考えて連れてきたのなら、まずは話を聞かなくちゃね」
……おお。
助かった?
「ただし」
……あ。
まだ続きがあるらしい。
「新しい家族が増えるなら、みんなが安心できるようにしてちょうだい」
巴さんは、楓とカトレアへ優しく目を向けた。
「この子たちだって、最初はびっくりするでしょう?」
「……そうですね」
「それに、魔獣なら食事のことも知らないといけないわ。何が好きで、何を食べちゃいけないのか」
……うん。
そこは、私もちょうど考えていたところだ。
「森では知らない実を食べさせないようにしました。あとで、食べられるものを調べます」
「それならいいわ。私も、分かる範囲でお手伝いするから」
「ありがとうございます!」
……ああ。
やっぱり巴さん、頼りになるなぁ。
「ただし、リアリスちゃん」
「はい?」
「知らない生き物を連れてきたら、次からは先に相談してね」
「……はい」
……やっぱり言われた!
頭の中で想像した台詞と、ほとんど同じだ。
その横で桜花が、ほんの少し口元を緩めている。
……あ。
笑ってるでしょ、今。
「桜花。そう思ってたなら、言ってよ」
「リアリス様なら、きっとお分かりになると思っておりました」
「……もう!」
巴さんが笑った。
楓も、熊を撫でながらほんの少しだけ目を細めている。
カトレアは、私たちのやり取りを見てくすくす笑った。
……うん。
こんな時間が、結構好きだ。
「とりあえず、玄関の前にずっと立っているのも何だし、お庭で少し様子を見ましょうか」
巴さんが提案した。
「夕食までは、まだ少し時間があるから」
「そうですね」
私は頷く。
熊を屋敷に迎えるなら、最初にみんなの前で落ち着いていられるか確かめておきたい。
桜花は小さな熊を抱いたまま、庭の芝生へ向かった。
楓がとことこと後を追う。
カトレアも花の籠を大切そうに持ち直し、二人の後ろへついた。
私は巴さんと並んで、その様子を見守った。
「……リアリスちゃん」
「はい?」
「今日の冒険者のお仕事、楽しかった?」
巴さんは穏やかに微笑んでいる。
「はい。トラストの皆さんが、すごくいい人たちで」
「ふふ、それはよかったわ。今度、ゆっくり聞かせてちょうだい」
「もちろんです」
……うん。
こうして帰ってきたときに、一日の出来事を話せる相手がいる。
それが、何だか嬉しかった。
◇
庭の芝生の上へ、桜花がそっと熊を下ろした。
小さな前脚が草を踏む。
熊は二、三歩歩いたあと、辺りの匂いを確かめるように鼻を動かした。
「……おお」
私はしゃがみ込んだ。
「ちゃんと、歩けてるね」
森ではまだ少しぎこちなかったけれど、今は自分の小さな身体に慣れたらしい。
すたすたと歩いて、私の前でちょこんと座る。
……うん。
可愛い。
「この子、魔法で小さくなってるんですか?」
カトレアが尋ねた。
「そうだよ。本当はもっと大きいんだ」
「……どのくらい?」
……あ。
正直に言っていいのかな。
私は桜花をちらりと見る。
桜花は小さくうなずいた。
「……森の木よりは低いけど、私たちよりずっと大きいかな」
「……そんなに?」
カトレアが目を丸くした。
楓は、熊をじっと見つめている。
「……大きいの、見たい」
「……えっ」
……いやいや。
今はやめておこう。
「楓。今はこのままがいいと思うな。庭が大変なことになっちゃうかもしれないから」
「……そっか」
「その代わり、小さい姿ならいっぱい撫でられるよ」
「……うん」
楓は、あっさり納得した。
……よかった。
危うく、お屋敷の庭に巨大な熊が出現するところだった。
「じゃあ、少しだけ歩いてもらおうか」
私は熊に声をかけた。
「向こうの木まで行って、戻ってきて」
熊はすぐに立ち上がった。
てくてく。
芝生を横切って、指さした木へ向かう。
ぐるりと幹を回ってから、またこちらへ戻ってくる。
「……わあっ!」
カトレアが声を上げた。
「ちゃんと分かってる!」
「そうなんだ。私の言うことは聞いてくれるよ」
「……すごいね」
カトレアの瞳が、きらきらしている。
楓も、戻ってきた熊の前へしゃがんだ。
「……おかえり」
小さな熊は、楓の足元で鼻を鳴らした。
……ああ。
何だか、もうすっかり馴染んでるな。
私はひそかに胸を撫で下ろした。
「リアリスさん」
カトレアが私の袖を引いた。
「この子、ずっとここにいるの?」
「うん。そのつもりだよ」
「……おうちに?」
「そう。このお屋敷にね」
カトレアは熊を見た。
それから、私を見上げた。
「……じゃあ、わたしたちといっしょ?」
「うん。仲良くしてくれたら嬉しいな」
カトレアは、ほんの少し考えるように口元へ指を当てた。
「……うん!」
その返事に、私は思わず笑った。
……よかった。
この子が嫌がるようなら、少しずつ慣れてもらうつもりだったからね。
「……でも、まずお約束ね」
私は楓とカトレアの目線に合わせてしゃがむ。
「この子がどんなにおとなしくても、魔獣だってことは忘れないでほしいんだ。最初は私か桜花がいるところで遊んでね」
「……うん」
「はい!」
「ありがとう。それから、この子の嫌がることはしない。ご飯も、勝手にあげないこと」
楓がこくりと頷いた。
カトレアも真剣な顔になる。
「……食べちゃだめなもの、あるの?」
「たぶんね。だから、何を食べられるのか調べてからにしよう」
「わかった!」
……いい子だなぁ。
可愛いからって、何でも許していいわけじゃない。
ちゃんと守るためのお約束だからね。
そのとき、熊が私の膝へ短い前脚を掛けた。
「……ん?」
鼻先をぐいぐい押しつけてくる。
……ああ。
撫でてほしいの?
私は頭の後ろをそっと撫でてやった。
熊が、気持ちよさそうに目を細める。
楓が、その隣へちょこんと座った。
「……私も」
「ふふ。どうぞ」
楓は熊の背中をゆっくり撫でる。
カトレアも、少し離れたところから手を伸ばした。
三人……いや、二人と一匹か。
小さな輪が、庭の芝生にできる。
……何だろう。
さっきまで森で恐れられていた熊なのに、今はこの輪の真ん中にいるんだよね。
不思議なものだなぁ。
「……リアリス様」
楓が、ふいに顔を上げた。
「どうしたの?」
「……この子、名前」
「……あっ」
そうだった!
今日はいろいろありすぎて、まだ名前を決めていなかったんだ。
森から王都まで、ずっと『君』とか『熊』って呼んでたもんね。
私は桜花と巴さんを見た。
「どうしようか。名前、決めた方がいいよね」
「そうですね」
桜花が頷く。
「呼びかける際にも、ある方がよろしいかと」
「そうよねぇ」
巴さんも、熊を眺めながら微笑んだ。
「これからここで暮らすなら、素敵な名前をつけてあげたいわね」
……うん。
せっかくだし、みんなで考えようか。
「楓は、何かいい名前ある?」
尋ねると、楓は熊を見た。
熊も楓を見た。
……しばらく沈黙。
「……くま」
「……熊?」
「……くまさん」
……そのままだね!
でも、楓らしい気もする。
「分かりやすくていいね」
私が言うと、楓はほんの少しだけ嬉しそうに頷いた。
「……うん」
私はカトレアへ目を向けた。
「カトレアは、どう思う?」
「……わたし?」
「うん。どんな名前が似合うかな」
カトレアは熊をじっと見つめた。
小さな耳。
まあるい身体。
ふかふかの背中。
熊はちょうど、あくびをしているところだった。
……何だか、すごくのんびりした顔だなぁ。
「……もふもふ」
カトレアが、ぽつりとつぶやいた。
「うん。もふもふしてるね」
「……いっぱい、もふもふ」
小さな手が、熊の背中へ触れる。
その指が、ゆっくり毛並みの上を滑った。
「……モフ……」
カトレアが何かを考え込む。
私も、邪魔しないように黙って待った。
やがて彼女が、ぱっと顔を上げる。
「……モフ太!」
……ん?
「モフ太、ってどうかな?」
カトレアは、少しだけ心配そうに私を見上げた。
「……へん、かな?」
「……いや」
私は熊を見た。
まあるい身体。
短い前脚。
もふもふの毛並み。
そして、この何とも言えない愛嬌。
「……すごくいい名前じゃない?」
素直にそう思った。
私が答えると、カトレアの顔がぱっと明るくなった。
「……ほんと?」
「うん。ぴったりだと思う」
桜花が熊を見つめた。
「モフ太……。呼びやすく、親しみのあるお名前ですね」
巴さんも、にこにこと頷いている。
「ふふ。カトレアちゃんらしくて、可愛いわ」
……ああ。
満場一致だね。
私は楓へ顔を向けた。
「楓はどう?」
楓は、熊の鼻先を指で軽く撫でた。
「……モフ太」
熊が、ぴくりと耳を動かす。
「……うん。いい」
「よし。じゃあ、決まり!」
私は熊の前へしゃがんだ。
「今日から君の名前は、モフ太だよ」
熊は私をじっと見た。
……名前、伝わったかな。
「モフ太」
もう一度呼ぶ。
――くぅ。
「……おおっ!」
今、返事した!
「モフ太!」
カトレアも呼ぶ。
すると熊は、彼女の方へ顔を向けた。
「……わあっ!」
カトレアの笑顔が、ぱっと広がる。
「わたしの声も分かるの?」
「うん。ちゃんと聞いてるみたいだね」
「……モフ太!」
――くぅ。
……ああ、もう。
可愛いやり取りだなぁ。
楓まで横から名前を呼んだ。
「……モフ太」
熊が、また顔を向ける。
今度は楓が、ほんの少しだけ目を細めた。
「……覚えた」
「うん。覚えてくれたね」
気がつけば、私まで笑っていた。
たった一つ、名前がついただけ。
それなのに、さっきまで『森で拾った熊』だった存在が、もう少し身近になった気がする。
……不思議だね。
言葉って、案外すごいものなのかもしれない。
カトレアは何度かモフ太の名前を呼び、それから私へ向き直った。
「……リアリスさん」
「何?」
「モフ太、ここに来てよかったね」
私は、思わず瞬きをした。
……自分が歓迎されているんじゃなくて、モフ太が喜んでいるかを気にしているんだ。
優しい子だなぁ。
「そうだといいね」
私は笑って答えた。
「きっと、みんなと仲良くなれるよ」
モフ太が、ちょうどよく鼻を鳴らした。
……うん。
本人も、そう思ってくれてると嬉しい。
ひとしきり名前を呼んで遊んだところで、私はモフ太へ声をかけた。
「さて、モフ太。少しだけお約束を増やそうか」
モフ太は、私を見上げて首を傾げる。
「まず、庭や屋敷で勝手に暴れないこと。外へ出るときは、私たちと一緒にね」
――くぅ。
「それと、カトレアや楓、巴さん、屋敷のみんなを傷つけないこと。怖がらせるのも駄目だよ」
モフ太はおとなしく座っている。
……うん。
ちゃんと聞いているみたいだ。
「でも、もし誰かが危ない目に遭ったら、守ってあげてほしい」
私の言葉に、桜花が静かに頷いた。
「特にカトレアは、まだ小さな女の子ですから」
「うん。そうだね」
私はカトレアの方を見た。
彼女は何の話か分からない様子で、楓と一緒にモフ太の頭を撫でている。
……この光景を守れるなら、この子が来てくれた意味は大きい。
「モフ太。カトレアを困らせる人がいたら、まずは私たちに知らせてね。危ないときは、カトレアを守ること」
――ふん。
……よし。
頼もしい返事だ。
「それから、大きさのことも考えておこう」
私は自分の作った《縮小》を思い出す。
今は私が魔法を解除しなければ、元の大きさに戻らない。
でも、もし緊急事態に私が近くにいなかったら、モフ太自身が判断できた方がいいかもしれない。
……もちろん、普段から自由に巨大化されたら困るけど。
私は少し考え、モフ太へ《縮小》を魔力なしで扱える形で付与した。
そして、普段は小さな姿を保ち、危険が迫った場合だけ元へ戻って守るように命じておく。
「モフ太。今の話、分かった?」
するとモフ太は、私の顔を見上げてから、こくりと頭を動かした。
……ん?
今の、頷いたよね?
「……もう一度、頷いてみて?」
モフ太は、またこくり。
……えっ。
実はこいつ、私たちの言葉を完全に理解してるんじゃないか……?
いや、《テイム》で命令が伝わっているだけかもしれないけど。
私は首を傾げた。
モフ太も、同じように首を傾げる。
……絶対、分かってやってるでしょ、それ。
まあ、今は深く考えなくてもいいかな。
……うん。
これなら、少しは安心だ。
桜花が私を見た。
「細やかなお心遣いですね」
「……いやぁ。飼うって決めたのは私だからね」
私はモフ太の頭を撫でた。
「この子にも、楽しく暮らしてほしいし」
「はい」
モフ太は鼻先を私の掌へ押しつけた。
……何だろう。
もうすっかり、家の一員みたいだな。
「さあ、みんな。そろそろ夕食の時間よ」
巴さんの声が庭へ響いた。
「今日はカトレアちゃんと楓ちゃんも手伝ってくれたから、きっといつも以上においしいわよ」
「……やった」
楓が、すっと立ち上がる。
……切り替えが早いね。
カトレアも嬉しそうに笑った。
「わたしね、お野菜をいっぱい洗ったんだよ!」
「うん。さっき教えてくれたね」
「……えへへ」
小さく胸を張る姿が、可愛らしい。
「じゃあ、今日は二人の頑張りをいただこうかな」
私が言うと、二人は顔を見合わせた。
楓がこくりとうなずく。
カトレアは照れくさそうに笑う。
……うん。
この空気、好きだなぁ。
「リアリスちゃん」
巴さんが、声を落とした。
「モフ太のお食事は、もう少し調べてからにしましょうね」
「はい。とりあえず、今晩は私が様子を見ます」
「そうね。無理に何かを食べさせない方がいいと思うわ」
……うん。
安全第一。
私がそう頷いていると、桜花がモフ太を抱き上げた。
「それでは、いったんお部屋へ参りましょうか」
モフ太はおとなしく彼女の腕へ収まる。
……本当に、桜花の抱っこが気に入ったらしい。
「……モフ太も、ごはん?」
楓が尋ねた。
「うん。モフ太の食べられるものが分かったら、ちゃんと用意するよ」
「……そっか」
「だから、それまでは私たちのご飯を勝手にあげちゃ駄目だからね」
「……うん」
楓は、少し名残惜しそうにモフ太を見た。
カトレアも、そっと熊の頭を撫でる。
「……またあとでね、モフ太」
――くぅ。
……あれ。
何だか、ちゃんとお別れの挨拶になってる。
私は小さく笑った。
こういう光景を見ると、家族が増えるって楽しいことなんだなぁと思う。
たとえ、それが元Sランクの魔獣だったとしても。
……あ。
巴さんにランクのこと、まだ話してないな。
……うん。
夕食のあとでいいかな。
いや、早めに話した方がいいか。
……あとで、ちゃんと話そう。
◇
食堂へ入ると、温かな匂いが迎えてくれた。
大きな鍋から立ち上る湯気。
焼きたてのパン。
色とりどりの野菜が盛りつけられた皿。
……ああ。
今日はよく歩いたから、お腹が空いてるんだよね。
私は思わず、席へ向かう足を速めた。
「リアリスちゃん、手を洗ってからよ」
「……はい!」
……危ない。
いつもの癖で、そのまま座るところだった。
食堂の脇では、メイドたちが手際よく料理を運んでいる。
桜花はモフ太を連れて、いったん水を飲ませられる場所を整えてくれた。食卓には近づけず、落ち着いて休めるようにしておく。
……うん。
こういう気配り、さすがだなぁ。
洗面を済ませて戻ると、楓がもう椅子へ座っていた。
その隣にはカトレア。
二人とも、料理が並ぶのをじっと見つめている。
「……おかえり、リアリス様」
「ただいま」
……いや、もう家の中だけどね。
でも、こうして言ってもらえるのは悪くない。
「カトレア、今日はどれを洗ったの?」
私は皿を覗き込んだ。
「えっとね、あのお野菜と、こっちの……」
カトレアが指さす。
巴さんの料理は、いつも彩りが綺麗だ。
その中に、二人が手伝った野菜があると思うだけで、何だか特別な一皿に見えてくる。
「そっか。じゃあ、ありがたくいただこう」
「……うん!」
巴さんが手を叩いた。
「さあ、みんな。揃ったかしら?」
部屋の中で、小さな返事がいくつも上がる。
桜花も席へ戻ってきた。
私たちは、いつものように食事を始める。
「さあ、ご飯を食べて明日も元気に!」
巴さんの明るい声に、みんなが笑った。
……うん。
この言葉を聞くと、一日がちゃんと終わる気がする。
私は温かな料理を一口食べた。
「……おいしい」
「ふふ。ありがとう、リアリスちゃん」
……ああ。
やっぱり、家のご飯が一番だね。
食事が始まると、カトレアは今日の出来事を楽しそうに話してくれた。
「それでね、楓ちゃんとお花を見てたら、ちっちゃい虫がいたの」
「……いた」
楓が頷く。
「葉っぱのうらに、かくれてたんだよ」
「へえ。よく見つけたね」
「楓ちゃんが教えてくれたの!」
「……うん。ちいさかった」
……おお。
冒険者の依頼とは違うけど、こっちも立派な発見だね。
「二人で見つけたなら、すごいじゃないか」
私が言うと、カトレアは嬉しそうに笑った。
「……えへへ」
楓も、少しだけ口元を緩める。
……うん。
今日も仲良く過ごしていたんだね。
「リアリスさんは、お外で何してたの?」
カトレアが尋ねた。
「私はね、薬草を集める人のお手伝いをしてきたんだ」
「……おくすりの?」
「そう。薬を作るための草を探して、その人が危ない目に遭わないように守る仕事」
「……すごい!」
「いやぁ。実際には、ほかの冒険者さんたちにいろいろ教えてもらってね」
私は馬車や森でのことを、二人にも分かるように話した。
薬草の葉の裏を見分けること。
根を傷つけないように掘ること。
森の中では、周りの人と協力すること。
……うん。
熊の話は、まあ、もう実物を見てもらったからいいよね。
「……楽しかった?」
楓が尋ねる。
「うん。すごく楽しかったよ」
「……よかった」
楓は、安心したように小さく頷いた。
私は二人を見た。
「でもね。帰ってきて、二人に会えたのが一番嬉しかったかな」
カトレアが目を丸くする。
「……ほんと?」
「本当」
楓が、私の袖をちょんと引いた。
「……私も」
「ん?」
「……帰ってきて、嬉しい」
……ああ。
今日はいったい何回、可愛いと思わせられるんだろう。
私は笑って、楓の頭をそっと撫でた。
カトレアにも手を伸ばすと、彼女は照れくさそうに頭を少し下げた。
……うん。
食事中なので、ほどほどにしておこう。
巴さんにまた叱られちゃうからね。
夕食を終えるころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
食堂の明かりが、テーブルの上を温かく照らしている。
……お腹いっぱい。
よく歩いた日のご飯は、いつも以上においしかったなぁ。
「ごちそうさまでした!」
私が手を合わせると、カトレアも真似をした。
「……ごちそうさまでした!」
楓も、小さな声で続ける。
「……ごちそうさま」
巴さんが、満足そうに頷いた。
「ふふ。みんな、よく食べてくれたわね」
メイドたちが食器を片づけ始める。
私は手伝おうとしたけれど、巴さんに「今日はお仕事で疲れたでしょう」と座っているよう言われてしまった。
……いやぁ。
別に疲れてないんだけどね。
でも、せっかくの気遣いだから、ありがたく受け取っておこう。
しばらくすると、楓が小さくあくびをした。
「……ふあ」
「眠くなった?」
私が尋ねると、楓はこくりと頷いた。
「……ちょっと」
「そっか。今日はお花もお手伝いも、頑張ったもんね」
楓は、眠たそうな目で私を見る。
「……モフ太」
「うん?」
「……明日も、いる?」
「もちろん。これからずっと一緒だよ」
「……よかった」
そう言って、楓は少しだけ笑った。
……ああ。
安心して寝られるなら、何よりだ。
「楓ちゃん、お部屋まで一緒に行こうか?」
カトレアが立ち上がった。
でも楓は首を振る。
「……カトレア、まだ」
「……え?」
「……まだ、起きてる」
……おお。
どうやら、カトレアがもう少し遊びたいことを分かっているらしい。
「楓は先に休んでいいんだよ」
私が言うと、楓はもう一度こくりと頷いた。
「……うん。おやすみ」
「おやすみ、楓」
「……おやすみ、楓ちゃん」
巴さんが楓へ手を差し出す。
二人はゆっくり、食堂を出ていった。
途中で楓が一度だけ振り向き、私へ小さく手を振る。
……うん。
おやすみ。
今日は、ちゃんと約束を守れてよかったよ。
楓を見送ったあと、私は食堂の窓辺へ歩いた。
庭の向こうには、小さな灯りがいくつも見える。
今日は、長い一日だった。
朝は冒険者ギルド。
薬師さんとの出会い。
森での薬草採取。
大きな熊。
……そして、モフ太。
思い返してみると、ずいぶんいろいろあったなぁ。
「……リアリスさん」
後ろから、カトレアの声がした。
「ん?」
「……モフ太、どうしてるかな」
「そうだね。見に行ってみようか」
私は彼女へ手を差し出した。
カトレアは、少しだけ迷ってからその手を取る。
……小さい手だなぁ。
初めて会ったときは、この手がずっと震えていた。
眠るときも、誰かがそばにいないと不安そうにしていたっけ。
今は、こうして自分から私を誘ってくれる。
……嬉しいね。
廊下へ出ると、桜花が待っていた。
「リアリス様。モフ太は、すっかり落ち着いております」
「ありがとう、桜花」
「こちらで休んでおります」
案内された一角には、柔らかな敷物が用意されていた。
その上で、モフ太が丸くなっている。
近くには水の入った器。
寝息に合わせて、小さな背中が上下していた。
「……ねてる」
カトレアが囁いた。
「そうだね。今日は、この子も疲れたのかもしれない」
「……そっか」
私たちは、起こさないように少し離れた場所から眺めた。
モフ太が、寝ぼけたように前脚を動かす。
……何か夢でも見ているのかな。
「……かわいいね」
カトレアが笑った。
「うん。可愛い」
私は彼女の横顔を見た。
最初は怖がっていた魔獣を、今はこんなふうに見守っている。
無理に慣れようとしたわけじゃない。
彼女自身が、少しずつ近づいてきたんだ。
……それが、何より嬉しい。
「リアリス様」
桜花が静かに呼んだ。
「この子のことは、私が見ております。どうぞ、お二人でゆっくりなさってください」
「……うん。ありがとう」
桜花は穏やかに頭を下げた。
私はカトレアへ目を向けた。
「もう少し、一緒にお話ししようか」
「……うん!」
カトレアは、私の手をぎゅっと握り返した。
◇
私たちは、食堂の隣にある小さな居間へ移った。
窓際の棚には、カトレアが今日摘んだ花が飾られている。
淡い色の、小さな花。
大きな花束ではないけれど、白い花瓶によく似合っていた。
「……これ、カトレアが飾ったの?」
私が尋ねると、彼女は嬉しそうに頷いた。
「うん! 巴さんが花瓶を貸してくれたの」
「そっか。綺麗だね」
「……ほんと?」
「本当。部屋が明るくなった気がするよ」
カトレアは、頬を少し赤くした。
「……えへへ」
私はソファへ腰を下ろした。
カトレアも、その隣へちょこんと座る。
足が床につかず、少しだけ宙に浮いていた。
……まだ九歳だもんね。
大きな家具の多い屋敷では、何でも少し大きく見えるのかもしれない。
「……リアリスさん」
「ん?」
「お花、きれいに咲いてるでしょ」
「うん。カトレアと楓がお世話してくれてるからね」
「……あのね」
彼女は膝の上で両手を組んだ。
「さいしょはね、じょうろを持つのも、ちょっとこわかったの」
「……そうだったんだ」
「お水をこぼしたら、しかられるかなって……」
私は、思わず彼女の顔を見た。
……そっか。
今では楽しそうに花壇へ行くけれど、最初からそうだったわけじゃないんだ。
「でも、楓ちゃんが教えてくれたの。こぼしても、だいじょうぶって」
「うん」
「巴さんも、一緒にふいてくれた」
「……そっか」
カトレアが、小さく笑った。
「……だからね。今は、こわくないの」
……ああ。
それは、何だかすごく嬉しいな。
私が作った家だけど、ここを安心できる場所にしてくれているのは、私だけじゃない。
桜花がいて、巴さんがいて、楓がいる。
メイドたちも、毎日見守ってくれている。
みんなで少しずつ、カトレアの居場所を作ってきたんだ。
「……ありがとう、カトレア」
「……えっ?」
「毎日、お花の世話をしてくれて」
彼女は、きょとんとした顔になった。
それから、嬉しそうに笑った。
「……うん!」
カトレアは、窓辺の花をもう一度見た。
「……ねえ、リアリスさん」
「何?」
「明日も、お花のお世話していい?」
「もちろん。好きなだけしていいよ」
「……ほんと?」
「うん。庭の花は、カトレアと楓のおかげで元気だからね」
……まあ、私が手伝うこともあるけど。
最近は二人の方が、どの花がどこに咲いているか詳しい気がする。
「じゃあ、明日は、白いお花を……」
カトレアが言いかけて、少し考え込む。
「……あっ。そうだ」
「うん?」
「あのね、リアリスさんのお部屋にも、お花を飾りたいの」
……おお。
私の部屋にも?
「それは嬉しいな」
「……じゃあ、明日、いっしょに選んでくれる?」
「もちろん」
私は頷いた。
「カトレアのおすすめを教えてほしいな」
「……うん!」
彼女は嬉しそうに笑ってから、窓辺の花瓶へ視線を戻した。
「じゃあ、あっちの花と、こっちの花、どっちがいいかな……」
小さな声で、ひとり言のようにつぶやいている。
……本当に、花が好きなんだね。
私はその横顔を見守った。
あの日、馬車の中で震えていた女の子。
初めて屋敷に来た夜は、何度も怖い夢を見ていた。
そんな彼女が今は、明日の花を楽しみにしている。
……それが、嬉しい。
何か特別なことをしてあげなくてもいい。
朝になったら起きて、花に水をやって、巴さんのご飯を食べる。
楓と笑って、桜花に甘えて。
眠くなったら、この家で眠る。
そういう日々が続いていけば、それでいい。
「……あっ」
カトレアが、ふいに私へ顔を向けた。
何か思いついたらしい。
「お父さん、あの白いお花も、いっしょに――」
……ん?
私は目を瞬かせた。
カトレアも、途中で言葉を止めた。
……今。
何て言った?
部屋の中が、急に静かになった気がした。
カトレアの目が、みるみる大きくなる。
「……あ……」
小さな口が開く。
そして、彼女は慌てて俯いた。
「……ご、ごめんなさい……!」
……えっ。
何で謝るの?
私は驚いて、彼女の顔を覗き込んだ。
「カトレア。大丈夫だよ」
私は、できるだけ優しく声をかけた。
でも、カトレアは俯いたままだ。
「……あの……ちがうの……」
「うん?」
「……リアリスさんって、言おうとしたのに……」
小さな声が震えていた。
「……お父さん、って……」
……ああ。
そういうことか。
私は、彼女を驚かせないように少し姿勢を低くした。
「……そうか」
もう一度、さっきの言葉を思い返す。
お父さん。
……お父さん、か。
何だろう。
ずいぶん久しぶりに聞いた気がする。
前の世界で生きていたときには、こんなふうに誰かから呼ばれることを想像していなかった。
異世界に来てからだって、最初は一人でのんびり暮らすつもりだったし。
それが、今ではこんなに大きな家に、たくさんの人がいる。
……本当に、人生って分からないね。
カトレアは、まだ私の返事を待っている。
私は自然と微笑んだ。
「そうか、お父さんか、いいね」
「……えっ?」
カトレアが、ぱっと顔を上げた。
その瞳には、驚きと、不安が混ざっている。
「……いい、の?」
「うん。嫌じゃないよ」
「……でも……」
カトレアは、膝の上でぎゅっと手を握った。
「……わたし、お父さんも、お母さんも……」
その先の言葉が、なかなか出てこない。
私は、黙って待った。
亡くなった両親のことを、忘れる必要なんてない。
あの二人が、カトレアにとってどれほど大切だったのか。
全部は分からなくても、無理に消していいものじゃないことくらい、分かる。
「……カトレア」
「……うん」
「前のお父さんとお母さんのことは、ずっと大切にしていいんだよ」
彼女の瞳が、小さく揺れた。
「……忘れなくていいの?」
「もちろん」
私は頷いた。
「大好きだった人たちのこと、忘れなくていい。それと、今ここで幸せになっていいことは、別だからね」
カトレアが、ゆっくり私を見た。
その目に、少しずつ涙が浮かんでくる。
「……ほんとに?」
「本当だよ」
私は笑った。
「泣きたい日には泣いていいし、楽しい日には思いっきり笑っていい。ここでは、そうしてほしいんだ」
しばらく、返事はなかった。
カトレアは何度か小さく瞬きをして、それから口を開いた。
「……じゃあ……」
……うん?
「……リアリスさんのこと……お父さん、って呼んでいい?」
その言葉は、とても小さかった。
でも、私には、はっきりと聞こえた。
私は、カトレアの小さな顔を見つめた。
震える声。
涙で潤んだ瞳。
それでも、逃げずに私の返事を待っている。
……ああ。
この子は、こんなにも勇気を出して聞いてくれたんだ。
「もちろんだよ」
私は、ゆっくり頷いた。
「カトレアがそう呼びたいなら、私は嬉しい」
「……ほんとに……?」
「うん。本当に」
カトレアの口元が、少しだけ動いた。
でも、まだ何か言いたそうだ。
私は、その手をそっと取った。
……そうだね。
呼び方だけじゃなくて、ちゃんと言葉にしておこう。
この子が、もう誰かの好意に遠慮しなくていいように。
明日も、明後日も、その先も。
ここで暮らしていいんだと、安心できるように。
「カトレア」
「……うん?」
私は微笑んだ。
「カトレア、私の子供になるかい?」
彼女が、目を大きく見開いた。
「……わたしが……?」
「うん。私の娘になって、一緒に暮らそう」
私は、彼女の手を優しく握った。
「嬉しいことがあったら、一緒に喜ぼう。悲しいことがあったら、ちゃんと話を聞くよ」
カトレアは、じっと私を見つめている。
「もちろん、楓も桜花も巴さんもいる。みんなで、これからも一緒に暮らそう」
「……ずっと……?」
「うん」
私は頷いた。
「ここが、カトレアの家だからね」
カトレアは、少しだけ考え込んだ。
膝の上へ視線を落とし、私の手を握り返す。
……急がなくていい。
大切なことだもんね。
自分で、ゆっくり決めてほしい。
やがてカトレアが、顔を上げた。
その瞳には、まだ少し涙が残っている。
でも。
さっきまでの不安そうな表情は、もうなかった。
「……うん!」
満面の笑みだった。
「……わたし、リアリスさんの子供になりたい!」
……ああ。
その言葉が、胸の奥へじんわりと染み込んできた。
私は微笑みながら、カトレアの頭をそっと撫でた。
「……ありがとう、カトレア」
柔らかな水色の髪が、指の間をすべっていく。
「じゃあ、今日から私の娘だね」
「……うんっ!」
カトレアが、私の胸元へ飛び込んできた。
私は小さな身体を受け止め、そっと抱きしめた。
「……お父さん」
耳元で、か細い声がした。
でも、その声は嬉しそうだった。
「……うん。どうしたの、カトレア」
「……えへへ。呼んでみたかっただけ」
「……そっか」
私は笑った。
……ああ。
もう、何だろう。
今日はいい日だったなぁ。
普通の冒険者になろうとして、またちょっと騒ぎを起こして。
森から熊を連れて帰ってきて。
みんなで名前を考えて。
そして、今。
カトレアが、私の娘になった。
……最初は、一人で気楽に暮らすつもりだったのにね。
思い描いていた生活とは、ずいぶん違う。
でも。
抱きしめた小さな身体は、確かに温かかった。
私は、もう一度カトレアの頭を撫でた。
「……これからも、よろしくね。カトレア」
「うん! お父さん!」
窓辺では、二人で選ぶ約束をした花が、静かに揺れていた。
――今日から、カトレアは私の娘だ。




