↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/160

第9話:お父さんって呼んでいい?

 屋敷の門をくぐったところで、私は足を止めた。


 夕暮れの光が、庭の石畳を柔らかく照らしている。


 花壇には小さな花がいくつも咲き、風に揺れていた。遠くからは、夕食の支度をしているのだろう、食欲をそそる匂いが流れてくる。


 ……ああ。


 帰ってきたなぁ。


 今日一日、馬車に揺られて、森を歩いて、依頼を受けて。


 最後はシルベスターさんにお説教までされたけど。


 それでも、この景色を見たら全部楽しかったように思えてくるから不思議だ。


「リアリス様」


 隣の桜花が、静かに声をかけた。


「ただいま戻りましたね」


「うん。無事に帰れた」


 私は小さく笑った。


「……一人、増えてるけど」


 桜花の腕の中で、小さな熊が鼻を鳴らす。


 ――くぅ。


 ……ああ、そうだ。


 君のこと、みんなに紹介しないとね。


 私は熊の頭をそっと撫でた。


「ここでは人を驚かせないこと。勝手に走り回らないこと。分かった?」


 熊は、つぶらな目で私を見上げた。


 うん。何度見ても、さっきの大きな魔獣とは思えない。


「桜花、行こうか」


「はい」


 玄関へ向かおうとすると、庭の向こうから小さな足音が聞こえてきた。


「……リアリス様」


 ……ん?


 振り向く。


 そこには、橙色の短い髪を揺らした楓が立っていた。


 その後ろから、水色のおかっぱ頭のカトレアも顔を覗かせている。


「……おかえり」


「ただいま、楓。カトレアも」


「……おかえりなさい、リアリスさん!」


 二人とも、花壇の手入れをしていたらしい。


 楓の手には小さなじょうろ。


 カトレアは、摘んだ花を入れた籠を抱えていた。


 ……うん。


 家に帰ってきて、こうして出迎えてもらえるのは嬉しいね。


 そのとき、楓がじょうろをそっと地面へ置いた。


 そして、私の前まで歩いてくる。


「……リアリス様」


「うん?」


「……約束」


 ……あ。


 そうだった!


 出かける前に、帰ってきたらぎゅっとするって約束したんだった。


「もちろん。覚えてるよ」


 私はしゃがんで両手を広げた。


 楓は、ほんの一瞬だけ私を見つめた。


 それから。


「……ん」


 とことこ、と近づいてきて、そのまま胸元へ飛び込んでくる。


「おっと」


 私は小さな身体を受け止め、そっと抱きしめた。


 橙色の髪が頬に触れる。


 楓の腕が、ぎゅっと私の背中へ回った。


「……おかえり」


 さっきより、小さな声。


「ただいま、楓」


 私はもう一度、同じ言葉を返した。


 楓は、なかなか離れようとしなかった。


 ……うん。


 それなら、もう少しこのままでいようか。


 私は背中を撫でながら、ゆっくり数を数える。


 一、二、三。


 ……別に、数える必要はないんだけどね。


 何となく。


「……寂しかった?」


 小さく尋ねると、楓は胸元へ顔を埋めたまま首を横に振った。


「……待ってた」


「そっか」


「……帰ってきた」


「うん。ちゃんと帰ってきたよ」


 ……ああ、もう。


 可愛いなぁ。


 こういうとき、私の語彙が急激に減るのはどうにかならないだろうか。


「……楓ちゃん、よかったね」


 カトレアの優しい声がした。


 顔を上げると、彼女が籠を抱えたまま笑っている。


 その笑顔を見て、私は自然と手を伸ばした。


「カトレアも、おいで」


「……えっ」


「一緒に、ぎゅってしよう」


 カトレアは少し戸惑ったように楓を見た。


 楓が胸元から顔を上げ、こくりとうなずく。


「……一緒」


「……う、うん!」


 カトレアは花の籠をそっと置いて、私の空いた腕の中へ入ってきた。


 水色の髪が、楓の橙色の髪と並ぶ。


 ……何これ。


 両手に可愛い子が二人。


 もう、このまま夕飯を食べなくてもお腹いっぱいになりそうだ。


 ……いや、それは巴さんに怒られるから、ちゃんと食べるけど。


「二人とも、今日はどうしてた?」


「……お花に、お水」


 楓が答える。


「あとね、巴さんのおてつだいもしたの!」


 カトレアが嬉しそうに続けた。


「お野菜を洗ったんだよ。楓ちゃんと一緒に」


「おお。二人とも偉いね!」


「……うん」


「……えへへ」


 褒めると、二人の表情がほんの少し明るくなる。


 それだけで、私まで嬉しくなった。


 ……ああ。


 本当に、いい家に帰ってきたなぁ。


 私は二人の頭を順番に撫でた。


 その後ろで、桜花が静かに微笑んでいる。


 ……あれ。


 そういえば、もう一人、帰ってきた子がいるんだった。


「そうだ。二人に紹介したい子がいるんだ」


 私が言うと、楓が顔を上げた。


「……子?」


「うん。今日、森で会ってね」


 カトレアは不思議そうに首を傾げる。


「……おともだち?」


「そうだね。新しいお友達、って言っていいのかな」


 私は桜花を振り返った。


「桜花、おいで」


「はい」


 桜花が歩み寄ると、その腕の中から小さな茶色い頭が覗いた。


 最初に反応したのは、楓だった。


「……くま」


 ……おお。


 的確。


 次にカトレアが目を丸くした。


「……えっ」


 大きな瞳が、桜花の腕から離れない。


 熊はというと、二人の存在に気づいて小さく鼻を動かした。


 ――くぅ。


「……鳴いた!」


 カトレアが目を輝かせる。


「うん。なかなか可愛い声でしょ?」


「……ちっちゃい、くまさん……」


 そっとつぶやく声が、少しだけ弾んでいる。


 ……よかった。


 怖がられたらどうしようかと思っていたけど。


 もちろん、近づける前にちゃんと説明は必要だ。


「この子はね、森で会った魔獣なんだ。私の魔法で仲良くなって、今はおとなしくしてくれる」


「……まじゅう?」


 カトレアの表情が、ほんの少し曇った。


 ……あ。


 そうだった。


 彼女にとって、魔獣という言葉は決して楽しいものじゃない。


 あの日の記憶を思い出させてしまったかもしれない。


「……カトレア」


 私は声を柔らかくした。


「怖かったら、無理に近づかなくていいよ」


 カトレアは少し俯いた。


 桜花は、腕の中の熊を落ち着かせるように撫でる。


 その間、誰も急かさなかった。


 やがてカトレアが、そっと顔を上げた。


「……この子、こわくないの?」


「うん。勝手に人を襲わないようにしてある。私の言うことをちゃんと聞いてくれるよ」


「……ほんと?」


「本当」


 私は目を合わせて頷いた。


「でも、カトレアが安心できるまで、抱っこはしなくても大丈夫だからね」


 ……そうだ。


 可愛いと思う気持ちは、誰かに押しつけるものじゃない。


 この子が自分で近づきたいと思うまで、待ってあげよう。


 カトレアは熊を見つめた。


 熊も、静かに彼女を見返していた。


 先に動いたのは、楓だった。


 私の腕からするりと抜け出し、桜花の前へ歩いていく。


「……さわって、いい?」


「もちろんでございます。ただし、ゆっくりと」


 桜花が熊を抱える位置を少し下げた。


 楓は慎重に手を伸ばす。


 短い指が、茶色い頭へそっと触れた。


 ……ふわっ。


 毛が指先に押され、元の形へ戻る。


「……もふ」


 楓がつぶやいた。


「……もふもふ」


 ……ああ。


 その感想は分かる。


 見た目も、手触りも、かなりもふもふしてるんだよね。


「どう?」


 私が尋ねると、楓は顔を上げた。


「……好き」


 ……即答!


 これはもう、楓のお気に入り入りだね。


 熊は楓に撫でられながら、気持ちよさそうに目を細めた。


「……くぅ」


 その様子を見ていたカトレアが、少しずつ近づいてくる。


「……楓ちゃん、だいじょうぶ?」


「……うん。やさしい」


 楓が小さく頷く。


「……あったかい」


「……そう、なんだ」


 カトレアは、もう一度熊を見た。


 さっきまで曇っていた顔に、ほんの少し好奇心が戻っている。


 私はしゃがんで、彼女へ手を差し出した。


「カトレアも、指先だけ触ってみる?」


「……いいの?」


「もちろん。でも、嫌だったらやめていいよ」


 カトレアは小さく深呼吸をした。


「……やって、みたい」


「うん」


 桜花が腰を落とし、熊を抱えたまま動かず待った。


 カトレアは、恐る恐る人差し指を伸ばす。


 茶色い耳の端へ、ちょん、と触れた。


「……あっ」


 熊の耳が、ぴくりと動く。


 カトレアは驚いて指を引いた。


 でも、熊が何もしないと分かると、今度は自分からもう一度触った。


 そっと。


 今度は頭の上を、ゆっくり撫でる。


「……ふわふわ」


 その声は、さっきよりずっと明るかった。


 私は思わず頬を緩めた。


「でしょ?」


 カトレアはこくりと頷いた。


 そして、ほんの小さな笑みを浮かべた。


 ……ああ。


 この表情が見られただけでも、連れて帰ってよかったな。


「……あら?」


 背後から、聞き慣れた声がした。


 振り向くと、玄関から巴さんが出てきたところだった。


 いつものエプロン姿。


 夕食の支度をしていたのだろう、袖が少しだけまくってある。


「リアリスちゃん、桜花ちゃん。おかえりなさい」


「ただいま、巴さん」


「ただいま戻りました」


「二人とも無事で何より……」


 巴さんは、そこで言葉を止めた。


 視線が桜花の腕へ移る。


 茶色い毛。


 丸い耳。


 そして、鼻をひくひく動かしている小さな熊。


「…………」


 ……あ。


 この反応、今日何回目だろう。


 私が口を開こうとすると、巴さんが一歩近づいてきた。


「……リアリスちゃん」


「は、はい」


「……その子は?」


「ええと、熊です」


「そうね。見れば分かるわ」


 ……あれ。


 今日、何回これを言われるんだろう。


「森で会って、魔法で仲良くなったので、連れて帰ってきました」


「……そう」


 巴さんは小さく息を吐いた。


 怒っている、というより。


 どう話を切り出そうか考えている顔だ。


「リアリスちゃん。ひとつ聞いていいかしら」


「はい」


「今日のお仕事は、薬草採取の護衛だったのよね?」


「……はい」


「……熊を連れてくるお仕事ではなかったのよね?」


「……はい」


「ふふ。そうでしょうね」


 ……笑ってる。


 でも、何だか逆に怖い!


 桜花はその隣で、涼しい顔のまま熊を抱いている。


 ……相棒。


 ちょっとは助けてくれないかな。


「巴さん。この熊はもう人を襲いませんし、屋敷でも安全に暮らせるようにします」


 私は慌てて続けた。


「食事も私が用意します。責任を持って世話をしますから!」


 ……あれ。


 これ、さっきシルベスターさんにも言った気がする。


 巴さんは私をじっと見つめた。


 それから、ふっと表情を和らげた。


「……分かったわ」


「……えっ」


「リアリスちゃんが、ちゃんと考えて連れてきたのなら、まずは話を聞かなくちゃね」


 ……おお。


 助かった?


「ただし」


 ……あ。


 まだ続きがあるらしい。


「新しい家族が増えるなら、みんなが安心できるようにしてちょうだい」


 巴さんは、楓とカトレアへ優しく目を向けた。


「この子たちだって、最初はびっくりするでしょう?」


「……そうですね」


「それに、魔獣なら食事のことも知らないといけないわ。何が好きで、何を食べちゃいけないのか」


 ……うん。


 そこは、私もちょうど考えていたところだ。


「森では知らない実を食べさせないようにしました。あとで、食べられるものを調べます」


「それならいいわ。私も、分かる範囲でお手伝いするから」


「ありがとうございます!」


 ……ああ。


 やっぱり巴さん、頼りになるなぁ。


「ただし、リアリスちゃん」


「はい?」


「知らない生き物を連れてきたら、次からは先に相談してね」


「……はい」


 ……やっぱり言われた!


 頭の中で想像した台詞と、ほとんど同じだ。


 その横で桜花が、ほんの少し口元を緩めている。


 ……あ。


 笑ってるでしょ、今。


「桜花。そう思ってたなら、言ってよ」


「リアリス様なら、きっとお分かりになると思っておりました」


「……もう!」


 巴さんが笑った。


 楓も、熊を撫でながらほんの少しだけ目を細めている。


 カトレアは、私たちのやり取りを見てくすくす笑った。


 ……うん。


 こんな時間が、結構好きだ。


「とりあえず、玄関の前にずっと立っているのも何だし、お庭で少し様子を見ましょうか」


 巴さんが提案した。


「夕食までは、まだ少し時間があるから」


「そうですね」


 私は頷く。


 熊を屋敷に迎えるなら、最初にみんなの前で落ち着いていられるか確かめておきたい。


 桜花は小さな熊を抱いたまま、庭の芝生へ向かった。


 楓がとことこと後を追う。


 カトレアも花の籠を大切そうに持ち直し、二人の後ろへついた。


 私は巴さんと並んで、その様子を見守った。


「……リアリスちゃん」


「はい?」


「今日の冒険者のお仕事、楽しかった?」


 巴さんは穏やかに微笑んでいる。


「はい。トラストの皆さんが、すごくいい人たちで」


「ふふ、それはよかったわ。今度、ゆっくり聞かせてちょうだい」


「もちろんです」


 ……うん。


 こうして帰ってきたときに、一日の出来事を話せる相手がいる。


 それが、何だか嬉しかった。


     ◇


 庭の芝生の上へ、桜花がそっと熊を下ろした。


 小さな前脚が草を踏む。


 熊は二、三歩歩いたあと、辺りの匂いを確かめるように鼻を動かした。


「……おお」


 私はしゃがみ込んだ。


「ちゃんと、歩けてるね」


 森ではまだ少しぎこちなかったけれど、今は自分の小さな身体に慣れたらしい。


 すたすたと歩いて、私の前でちょこんと座る。


 ……うん。


 可愛い。


「この子、魔法で小さくなってるんですか?」


 カトレアが尋ねた。


「そうだよ。本当はもっと大きいんだ」


「……どのくらい?」


 ……あ。


 正直に言っていいのかな。


 私は桜花をちらりと見る。


 桜花は小さくうなずいた。


「……森の木よりは低いけど、私たちよりずっと大きいかな」


「……そんなに?」


 カトレアが目を丸くした。


 楓は、熊をじっと見つめている。


「……大きいの、見たい」


「……えっ」


 ……いやいや。


 今はやめておこう。


「楓。今はこのままがいいと思うな。庭が大変なことになっちゃうかもしれないから」


「……そっか」


「その代わり、小さい姿ならいっぱい撫でられるよ」


「……うん」


 楓は、あっさり納得した。


 ……よかった。


 危うく、お屋敷の庭に巨大な熊が出現するところだった。


「じゃあ、少しだけ歩いてもらおうか」


 私は熊に声をかけた。


「向こうの木まで行って、戻ってきて」


 熊はすぐに立ち上がった。


 てくてく。


 芝生を横切って、指さした木へ向かう。


 ぐるりと幹を回ってから、またこちらへ戻ってくる。


「……わあっ!」


 カトレアが声を上げた。


「ちゃんと分かってる!」


「そうなんだ。私の言うことは聞いてくれるよ」


「……すごいね」


 カトレアの瞳が、きらきらしている。


 楓も、戻ってきた熊の前へしゃがんだ。


「……おかえり」


 小さな熊は、楓の足元で鼻を鳴らした。


 ……ああ。


 何だか、もうすっかり馴染んでるな。


 私はひそかに胸を撫で下ろした。


「リアリスさん」


 カトレアが私の袖を引いた。


「この子、ずっとここにいるの?」


「うん。そのつもりだよ」


「……おうちに?」


「そう。このお屋敷にね」


 カトレアは熊を見た。


 それから、私を見上げた。


「……じゃあ、わたしたちといっしょ?」


「うん。仲良くしてくれたら嬉しいな」


 カトレアは、ほんの少し考えるように口元へ指を当てた。


「……うん!」


 その返事に、私は思わず笑った。


 ……よかった。


 この子が嫌がるようなら、少しずつ慣れてもらうつもりだったからね。


「……でも、まずお約束ね」


 私は楓とカトレアの目線に合わせてしゃがむ。


「この子がどんなにおとなしくても、魔獣だってことは忘れないでほしいんだ。最初は私か桜花がいるところで遊んでね」


「……うん」


「はい!」


「ありがとう。それから、この子の嫌がることはしない。ご飯も、勝手にあげないこと」


 楓がこくりと頷いた。


 カトレアも真剣な顔になる。


「……食べちゃだめなもの、あるの?」


「たぶんね。だから、何を食べられるのか調べてからにしよう」


「わかった!」


 ……いい子だなぁ。


 可愛いからって、何でも許していいわけじゃない。


 ちゃんと守るためのお約束だからね。


 そのとき、熊が私の膝へ短い前脚を掛けた。


「……ん?」


 鼻先をぐいぐい押しつけてくる。


 ……ああ。


 撫でてほしいの?


 私は頭の後ろをそっと撫でてやった。


 熊が、気持ちよさそうに目を細める。


 楓が、その隣へちょこんと座った。


「……私も」


「ふふ。どうぞ」


 楓は熊の背中をゆっくり撫でる。


 カトレアも、少し離れたところから手を伸ばした。


 三人……いや、二人と一匹か。


 小さな輪が、庭の芝生にできる。


 ……何だろう。


 さっきまで森で恐れられていた熊なのに、今はこの輪の真ん中にいるんだよね。


 不思議なものだなぁ。


「……リアリス様」


 楓が、ふいに顔を上げた。


「どうしたの?」


「……この子、名前」


「……あっ」


 そうだった!


 今日はいろいろありすぎて、まだ名前を決めていなかったんだ。


 森から王都まで、ずっと『君』とか『熊』って呼んでたもんね。


 私は桜花と巴さんを見た。


「どうしようか。名前、決めた方がいいよね」


「そうですね」


 桜花が頷く。


「呼びかける際にも、ある方がよろしいかと」


「そうよねぇ」


 巴さんも、熊を眺めながら微笑んだ。


「これからここで暮らすなら、素敵な名前をつけてあげたいわね」


 ……うん。


 せっかくだし、みんなで考えようか。


「楓は、何かいい名前ある?」


 尋ねると、楓は熊を見た。


 熊も楓を見た。


 ……しばらく沈黙。


「……くま」


「……熊?」


「……くまさん」


 ……そのままだね!


 でも、楓らしい気もする。


「分かりやすくていいね」


 私が言うと、楓はほんの少しだけ嬉しそうに頷いた。


「……うん」


 私はカトレアへ目を向けた。


「カトレアは、どう思う?」


「……わたし?」


「うん。どんな名前が似合うかな」


 カトレアは熊をじっと見つめた。


 小さな耳。


 まあるい身体。


 ふかふかの背中。


 熊はちょうど、あくびをしているところだった。


 ……何だか、すごくのんびりした顔だなぁ。


「……もふもふ」


 カトレアが、ぽつりとつぶやいた。


「うん。もふもふしてるね」


「……いっぱい、もふもふ」


 小さな手が、熊の背中へ触れる。


 その指が、ゆっくり毛並みの上を滑った。


「……モフ……」


 カトレアが何かを考え込む。


 私も、邪魔しないように黙って待った。


 やがて彼女が、ぱっと顔を上げる。


「……モフ太!」


 ……ん?


「モフ太、ってどうかな?」


 カトレアは、少しだけ心配そうに私を見上げた。


「……へん、かな?」


「……いや」


 私は熊を見た。


 まあるい身体。


 短い前脚。


 もふもふの毛並み。


 そして、この何とも言えない愛嬌。


「……すごくいい名前じゃない?」


 素直にそう思った。


 私が答えると、カトレアの顔がぱっと明るくなった。


「……ほんと?」


「うん。ぴったりだと思う」


 桜花が熊を見つめた。


「モフ太……。呼びやすく、親しみのあるお名前ですね」


 巴さんも、にこにこと頷いている。


「ふふ。カトレアちゃんらしくて、可愛いわ」


 ……ああ。


 満場一致だね。


 私は楓へ顔を向けた。


「楓はどう?」


 楓は、熊の鼻先を指で軽く撫でた。


「……モフ太」


 熊が、ぴくりと耳を動かす。


「……うん。いい」


「よし。じゃあ、決まり!」


 私は熊の前へしゃがんだ。


「今日から君の名前は、モフ太だよ」


 熊は私をじっと見た。


 ……名前、伝わったかな。


「モフ太」


 もう一度呼ぶ。


 ――くぅ。


「……おおっ!」


 今、返事した!


「モフ太!」


 カトレアも呼ぶ。


 すると熊は、彼女の方へ顔を向けた。


「……わあっ!」


 カトレアの笑顔が、ぱっと広がる。


「わたしの声も分かるの?」


「うん。ちゃんと聞いてるみたいだね」


「……モフ太!」


 ――くぅ。


 ……ああ、もう。


 可愛いやり取りだなぁ。


 楓まで横から名前を呼んだ。


「……モフ太」


 熊が、また顔を向ける。


 今度は楓が、ほんの少しだけ目を細めた。


「……覚えた」


「うん。覚えてくれたね」


 気がつけば、私まで笑っていた。


 たった一つ、名前がついただけ。


 それなのに、さっきまで『森で拾った熊』だった存在が、もう少し身近になった気がする。


 ……不思議だね。


 言葉って、案外すごいものなのかもしれない。


 カトレアは何度かモフ太の名前を呼び、それから私へ向き直った。


「……リアリスさん」


「何?」


「モフ太、ここに来てよかったね」


 私は、思わず瞬きをした。


 ……自分が歓迎されているんじゃなくて、モフ太が喜んでいるかを気にしているんだ。


 優しい子だなぁ。


「そうだといいね」


 私は笑って答えた。


「きっと、みんなと仲良くなれるよ」


 モフ太が、ちょうどよく鼻を鳴らした。


 ……うん。


 本人も、そう思ってくれてると嬉しい。


 ひとしきり名前を呼んで遊んだところで、私はモフ太へ声をかけた。


「さて、モフ太。少しだけお約束を増やそうか」


 モフ太は、私を見上げて首を傾げる。


「まず、庭や屋敷で勝手に暴れないこと。外へ出るときは、私たちと一緒にね」


 ――くぅ。


「それと、カトレアや楓、巴さん、屋敷のみんなを傷つけないこと。怖がらせるのも駄目だよ」


 モフ太はおとなしく座っている。


 ……うん。


 ちゃんと聞いているみたいだ。


「でも、もし誰かが危ない目に遭ったら、守ってあげてほしい」


 私の言葉に、桜花が静かに頷いた。


「特にカトレアは、まだ小さな女の子ですから」


「うん。そうだね」


 私はカトレアの方を見た。


 彼女は何の話か分からない様子で、楓と一緒にモフ太の頭を撫でている。


 ……この光景を守れるなら、この子が来てくれた意味は大きい。


「モフ太。カトレアを困らせる人がいたら、まずは私たちに知らせてね。危ないときは、カトレアを守ること」


 ――ふん。


 ……よし。


 頼もしい返事だ。


「それから、大きさのことも考えておこう」


 私は自分の作った《縮小》を思い出す。


 今は私が魔法を解除しなければ、元の大きさに戻らない。


 でも、もし緊急事態に私が近くにいなかったら、モフ太自身が判断できた方がいいかもしれない。


 ……もちろん、普段から自由に巨大化されたら困るけど。


 私は少し考え、モフ太へ《縮小》を魔力なしで扱える形で付与した。


 そして、普段は小さな姿を保ち、危険が迫った場合だけ元へ戻って守るように命じておく。


「モフ太。今の話、分かった?」


 するとモフ太は、私の顔を見上げてから、こくりと頭を動かした。


 ……ん?


 今の、頷いたよね?


「……もう一度、頷いてみて?」


 モフ太は、またこくり。


 ……えっ。


 実はこいつ、私たちの言葉を完全に理解してるんじゃないか……?


 いや、《テイム》で命令が伝わっているだけかもしれないけど。


 私は首を傾げた。


 モフ太も、同じように首を傾げる。


 ……絶対、分かってやってるでしょ、それ。


 まあ、今は深く考えなくてもいいかな。


 ……うん。


 これなら、少しは安心だ。


 桜花が私を見た。


「細やかなお心遣いですね」


「……いやぁ。飼うって決めたのは私だからね」


 私はモフ太の頭を撫でた。


「この子にも、楽しく暮らしてほしいし」


「はい」


 モフ太は鼻先を私の掌へ押しつけた。


 ……何だろう。


 もうすっかり、家の一員みたいだな。


「さあ、みんな。そろそろ夕食の時間よ」


 巴さんの声が庭へ響いた。


「今日はカトレアちゃんと楓ちゃんも手伝ってくれたから、きっといつも以上においしいわよ」


「……やった」


 楓が、すっと立ち上がる。


 ……切り替えが早いね。


 カトレアも嬉しそうに笑った。


「わたしね、お野菜をいっぱい洗ったんだよ!」


「うん。さっき教えてくれたね」


「……えへへ」


 小さく胸を張る姿が、可愛らしい。


「じゃあ、今日は二人の頑張りをいただこうかな」


 私が言うと、二人は顔を見合わせた。


 楓がこくりとうなずく。


 カトレアは照れくさそうに笑う。


 ……うん。


 この空気、好きだなぁ。


「リアリスちゃん」


 巴さんが、声を落とした。


「モフ太のお食事は、もう少し調べてからにしましょうね」


「はい。とりあえず、今晩は私が様子を見ます」


「そうね。無理に何かを食べさせない方がいいと思うわ」


 ……うん。


 安全第一。


 私がそう頷いていると、桜花がモフ太を抱き上げた。


「それでは、いったんお部屋へ参りましょうか」


 モフ太はおとなしく彼女の腕へ収まる。


 ……本当に、桜花の抱っこが気に入ったらしい。


「……モフ太も、ごはん?」


 楓が尋ねた。


「うん。モフ太の食べられるものが分かったら、ちゃんと用意するよ」


「……そっか」


「だから、それまでは私たちのご飯を勝手にあげちゃ駄目だからね」


「……うん」


 楓は、少し名残惜しそうにモフ太を見た。


 カトレアも、そっと熊の頭を撫でる。


「……またあとでね、モフ太」


 ――くぅ。


 ……あれ。


 何だか、ちゃんとお別れの挨拶になってる。


 私は小さく笑った。


 こういう光景を見ると、家族が増えるって楽しいことなんだなぁと思う。


 たとえ、それが元Sランクの魔獣だったとしても。


 ……あ。


 巴さんにランクのこと、まだ話してないな。


 ……うん。


 夕食のあとでいいかな。


 いや、早めに話した方がいいか。


 ……あとで、ちゃんと話そう。


     ◇


 食堂へ入ると、温かな匂いが迎えてくれた。


 大きな鍋から立ち上る湯気。


 焼きたてのパン。


 色とりどりの野菜が盛りつけられた皿。


 ……ああ。


 今日はよく歩いたから、お腹が空いてるんだよね。


 私は思わず、席へ向かう足を速めた。


「リアリスちゃん、手を洗ってからよ」


「……はい!」


 ……危ない。


 いつもの癖で、そのまま座るところだった。


 食堂の脇では、メイドたちが手際よく料理を運んでいる。


 桜花はモフ太を連れて、いったん水を飲ませられる場所を整えてくれた。食卓には近づけず、落ち着いて休めるようにしておく。


 ……うん。


 こういう気配り、さすがだなぁ。


 洗面を済ませて戻ると、楓がもう椅子へ座っていた。


 その隣にはカトレア。


 二人とも、料理が並ぶのをじっと見つめている。


「……おかえり、リアリス様」


「ただいま」


 ……いや、もう家の中だけどね。


 でも、こうして言ってもらえるのは悪くない。


「カトレア、今日はどれを洗ったの?」


 私は皿を覗き込んだ。


「えっとね、あのお野菜と、こっちの……」


 カトレアが指さす。


 巴さんの料理は、いつも彩りが綺麗だ。


 その中に、二人が手伝った野菜があると思うだけで、何だか特別な一皿に見えてくる。


「そっか。じゃあ、ありがたくいただこう」


「……うん!」


 巴さんが手を叩いた。


「さあ、みんな。揃ったかしら?」


 部屋の中で、小さな返事がいくつも上がる。


 桜花も席へ戻ってきた。


 私たちは、いつものように食事を始める。


「さあ、ご飯を食べて明日も元気に!」


 巴さんの明るい声に、みんなが笑った。


 ……うん。


 この言葉を聞くと、一日がちゃんと終わる気がする。


 私は温かな料理を一口食べた。


「……おいしい」


「ふふ。ありがとう、リアリスちゃん」


 ……ああ。


 やっぱり、家のご飯が一番だね。


 食事が始まると、カトレアは今日の出来事を楽しそうに話してくれた。


「それでね、楓ちゃんとお花を見てたら、ちっちゃい虫がいたの」


「……いた」


 楓が頷く。


「葉っぱのうらに、かくれてたんだよ」


「へえ。よく見つけたね」


「楓ちゃんが教えてくれたの!」


「……うん。ちいさかった」


 ……おお。


 冒険者の依頼とは違うけど、こっちも立派な発見だね。


「二人で見つけたなら、すごいじゃないか」


 私が言うと、カトレアは嬉しそうに笑った。


「……えへへ」


 楓も、少しだけ口元を緩める。


 ……うん。


 今日も仲良く過ごしていたんだね。


「リアリスさんは、お外で何してたの?」


 カトレアが尋ねた。


「私はね、薬草を集める人のお手伝いをしてきたんだ」


「……おくすりの?」


「そう。薬を作るための草を探して、その人が危ない目に遭わないように守る仕事」


「……すごい!」


「いやぁ。実際には、ほかの冒険者さんたちにいろいろ教えてもらってね」


 私は馬車や森でのことを、二人にも分かるように話した。


 薬草の葉の裏を見分けること。


 根を傷つけないように掘ること。


 森の中では、周りの人と協力すること。


 ……うん。


 熊の話は、まあ、もう実物を見てもらったからいいよね。


「……楽しかった?」


 楓が尋ねる。


「うん。すごく楽しかったよ」


「……よかった」


 楓は、安心したように小さく頷いた。


 私は二人を見た。


「でもね。帰ってきて、二人に会えたのが一番嬉しかったかな」


 カトレアが目を丸くする。


「……ほんと?」


「本当」


 楓が、私の袖をちょんと引いた。


「……私も」


「ん?」


「……帰ってきて、嬉しい」


 ……ああ。


 今日はいったい何回、可愛いと思わせられるんだろう。


 私は笑って、楓の頭をそっと撫でた。


 カトレアにも手を伸ばすと、彼女は照れくさそうに頭を少し下げた。


 ……うん。


 食事中なので、ほどほどにしておこう。


 巴さんにまた叱られちゃうからね。


 夕食を終えるころには、窓の外はすっかり暗くなっていた。


 食堂の明かりが、テーブルの上を温かく照らしている。


 ……お腹いっぱい。


 よく歩いた日のご飯は、いつも以上においしかったなぁ。


「ごちそうさまでした!」


 私が手を合わせると、カトレアも真似をした。


「……ごちそうさまでした!」


 楓も、小さな声で続ける。


「……ごちそうさま」


 巴さんが、満足そうに頷いた。


「ふふ。みんな、よく食べてくれたわね」


 メイドたちが食器を片づけ始める。


 私は手伝おうとしたけれど、巴さんに「今日はお仕事で疲れたでしょう」と座っているよう言われてしまった。


 ……いやぁ。


 別に疲れてないんだけどね。


 でも、せっかくの気遣いだから、ありがたく受け取っておこう。


 しばらくすると、楓が小さくあくびをした。


「……ふあ」


「眠くなった?」


 私が尋ねると、楓はこくりと頷いた。


「……ちょっと」


「そっか。今日はお花もお手伝いも、頑張ったもんね」


 楓は、眠たそうな目で私を見る。


「……モフ太」


「うん?」


「……明日も、いる?」


「もちろん。これからずっと一緒だよ」


「……よかった」


 そう言って、楓は少しだけ笑った。


 ……ああ。


 安心して寝られるなら、何よりだ。


「楓ちゃん、お部屋まで一緒に行こうか?」


 カトレアが立ち上がった。


 でも楓は首を振る。


「……カトレア、まだ」


「……え?」


「……まだ、起きてる」


 ……おお。


 どうやら、カトレアがもう少し遊びたいことを分かっているらしい。


「楓は先に休んでいいんだよ」


 私が言うと、楓はもう一度こくりと頷いた。


「……うん。おやすみ」


「おやすみ、楓」


「……おやすみ、楓ちゃん」


 巴さんが楓へ手を差し出す。


 二人はゆっくり、食堂を出ていった。


 途中で楓が一度だけ振り向き、私へ小さく手を振る。


 ……うん。


 おやすみ。


 今日は、ちゃんと約束を守れてよかったよ。


 楓を見送ったあと、私は食堂の窓辺へ歩いた。


 庭の向こうには、小さな灯りがいくつも見える。


 今日は、長い一日だった。


 朝は冒険者ギルド。


 薬師さんとの出会い。


 森での薬草採取。


 大きな熊。


 ……そして、モフ太。


 思い返してみると、ずいぶんいろいろあったなぁ。


「……リアリスさん」


 後ろから、カトレアの声がした。


「ん?」


「……モフ太、どうしてるかな」


「そうだね。見に行ってみようか」


 私は彼女へ手を差し出した。


 カトレアは、少しだけ迷ってからその手を取る。


 ……小さい手だなぁ。


 初めて会ったときは、この手がずっと震えていた。


 眠るときも、誰かがそばにいないと不安そうにしていたっけ。


 今は、こうして自分から私を誘ってくれる。


 ……嬉しいね。


 廊下へ出ると、桜花が待っていた。


「リアリス様。モフ太は、すっかり落ち着いております」


「ありがとう、桜花」


「こちらで休んでおります」


 案内された一角には、柔らかな敷物が用意されていた。


 その上で、モフ太が丸くなっている。


 近くには水の入った器。


 寝息に合わせて、小さな背中が上下していた。


「……ねてる」


 カトレアが囁いた。


「そうだね。今日は、この子も疲れたのかもしれない」


「……そっか」


 私たちは、起こさないように少し離れた場所から眺めた。


 モフ太が、寝ぼけたように前脚を動かす。


 ……何か夢でも見ているのかな。


「……かわいいね」


 カトレアが笑った。


「うん。可愛い」


 私は彼女の横顔を見た。


 最初は怖がっていた魔獣を、今はこんなふうに見守っている。


 無理に慣れようとしたわけじゃない。


 彼女自身が、少しずつ近づいてきたんだ。


 ……それが、何より嬉しい。


「リアリス様」


 桜花が静かに呼んだ。


「この子のことは、私が見ております。どうぞ、お二人でゆっくりなさってください」


「……うん。ありがとう」


 桜花は穏やかに頭を下げた。


 私はカトレアへ目を向けた。


「もう少し、一緒にお話ししようか」


「……うん!」


 カトレアは、私の手をぎゅっと握り返した。


     ◇


 私たちは、食堂の隣にある小さな居間へ移った。


 窓際の棚には、カトレアが今日摘んだ花が飾られている。


 淡い色の、小さな花。


 大きな花束ではないけれど、白い花瓶によく似合っていた。


「……これ、カトレアが飾ったの?」


 私が尋ねると、彼女は嬉しそうに頷いた。


「うん! 巴さんが花瓶を貸してくれたの」


「そっか。綺麗だね」


「……ほんと?」


「本当。部屋が明るくなった気がするよ」


 カトレアは、頬を少し赤くした。


「……えへへ」


 私はソファへ腰を下ろした。


 カトレアも、その隣へちょこんと座る。


 足が床につかず、少しだけ宙に浮いていた。


 ……まだ九歳だもんね。


 大きな家具の多い屋敷では、何でも少し大きく見えるのかもしれない。


「……リアリスさん」


「ん?」


「お花、きれいに咲いてるでしょ」


「うん。カトレアと楓がお世話してくれてるからね」


「……あのね」


 彼女は膝の上で両手を組んだ。


「さいしょはね、じょうろを持つのも、ちょっとこわかったの」


「……そうだったんだ」


「お水をこぼしたら、しかられるかなって……」


 私は、思わず彼女の顔を見た。


 ……そっか。


 今では楽しそうに花壇へ行くけれど、最初からそうだったわけじゃないんだ。


「でも、楓ちゃんが教えてくれたの。こぼしても、だいじょうぶって」


「うん」


「巴さんも、一緒にふいてくれた」


「……そっか」


 カトレアが、小さく笑った。


「……だからね。今は、こわくないの」


 ……ああ。


 それは、何だかすごく嬉しいな。


 私が作った家だけど、ここを安心できる場所にしてくれているのは、私だけじゃない。


 桜花がいて、巴さんがいて、楓がいる。


 メイドたちも、毎日見守ってくれている。


 みんなで少しずつ、カトレアの居場所を作ってきたんだ。


「……ありがとう、カトレア」


「……えっ?」


「毎日、お花の世話をしてくれて」


 彼女は、きょとんとした顔になった。


 それから、嬉しそうに笑った。


「……うん!」


 カトレアは、窓辺の花をもう一度見た。


「……ねえ、リアリスさん」


「何?」


「明日も、お花のお世話していい?」


「もちろん。好きなだけしていいよ」


「……ほんと?」


「うん。庭の花は、カトレアと楓のおかげで元気だからね」


 ……まあ、私が手伝うこともあるけど。


 最近は二人の方が、どの花がどこに咲いているか詳しい気がする。


「じゃあ、明日は、白いお花を……」


 カトレアが言いかけて、少し考え込む。


「……あっ。そうだ」


「うん?」


「あのね、リアリスさんのお部屋にも、お花を飾りたいの」


 ……おお。


 私の部屋にも?


「それは嬉しいな」


「……じゃあ、明日、いっしょに選んでくれる?」


「もちろん」


 私は頷いた。


「カトレアのおすすめを教えてほしいな」


「……うん!」


 彼女は嬉しそうに笑ってから、窓辺の花瓶へ視線を戻した。


「じゃあ、あっちの花と、こっちの花、どっちがいいかな……」


 小さな声で、ひとり言のようにつぶやいている。


 ……本当に、花が好きなんだね。


 私はその横顔を見守った。


 あの日、馬車の中で震えていた女の子。


 初めて屋敷に来た夜は、何度も怖い夢を見ていた。


 そんな彼女が今は、明日の花を楽しみにしている。


 ……それが、嬉しい。


 何か特別なことをしてあげなくてもいい。


 朝になったら起きて、花に水をやって、巴さんのご飯を食べる。


 楓と笑って、桜花に甘えて。


 眠くなったら、この家で眠る。


 そういう日々が続いていけば、それでいい。


「……あっ」


 カトレアが、ふいに私へ顔を向けた。


 何か思いついたらしい。


「お父さん、あの白いお花も、いっしょに――」


 ……ん?


 私は目を瞬かせた。


 カトレアも、途中で言葉を止めた。


 ……今。


 何て言った?


 部屋の中が、急に静かになった気がした。


 カトレアの目が、みるみる大きくなる。


「……あ……」


 小さな口が開く。


 そして、彼女は慌てて俯いた。


「……ご、ごめんなさい……!」


 ……えっ。


 何で謝るの?


 私は驚いて、彼女の顔を覗き込んだ。


「カトレア。大丈夫だよ」


 私は、できるだけ優しく声をかけた。


 でも、カトレアは俯いたままだ。


「……あの……ちがうの……」


「うん?」


「……リアリスさんって、言おうとしたのに……」


 小さな声が震えていた。


「……お父さん、って……」


 ……ああ。


 そういうことか。


 私は、彼女を驚かせないように少し姿勢を低くした。


「……そうか」


 もう一度、さっきの言葉を思い返す。


 お父さん。


 ……お父さん、か。


 何だろう。


 ずいぶん久しぶりに聞いた気がする。


 前の世界で生きていたときには、こんなふうに誰かから呼ばれることを想像していなかった。


 異世界に来てからだって、最初は一人でのんびり暮らすつもりだったし。


 それが、今ではこんなに大きな家に、たくさんの人がいる。


 ……本当に、人生って分からないね。


 カトレアは、まだ私の返事を待っている。


 私は自然と微笑んだ。


「そうか、お父さんか、いいね」


「……えっ?」


 カトレアが、ぱっと顔を上げた。


 その瞳には、驚きと、不安が混ざっている。


「……いい、の?」


「うん。嫌じゃないよ」


「……でも……」


 カトレアは、膝の上でぎゅっと手を握った。


「……わたし、お父さんも、お母さんも……」


 その先の言葉が、なかなか出てこない。


 私は、黙って待った。


 亡くなった両親のことを、忘れる必要なんてない。


 あの二人が、カトレアにとってどれほど大切だったのか。


 全部は分からなくても、無理に消していいものじゃないことくらい、分かる。


「……カトレア」


「……うん」


「前のお父さんとお母さんのことは、ずっと大切にしていいんだよ」


 彼女の瞳が、小さく揺れた。


「……忘れなくていいの?」


「もちろん」


 私は頷いた。


「大好きだった人たちのこと、忘れなくていい。それと、今ここで幸せになっていいことは、別だからね」


 カトレアが、ゆっくり私を見た。


 その目に、少しずつ涙が浮かんでくる。


「……ほんとに?」


「本当だよ」


 私は笑った。


「泣きたい日には泣いていいし、楽しい日には思いっきり笑っていい。ここでは、そうしてほしいんだ」


 しばらく、返事はなかった。


 カトレアは何度か小さく瞬きをして、それから口を開いた。


「……じゃあ……」


 ……うん?


「……リアリスさんのこと……お父さん、って呼んでいい?」


 その言葉は、とても小さかった。


 でも、私には、はっきりと聞こえた。


 私は、カトレアの小さな顔を見つめた。


 震える声。


 涙で潤んだ瞳。


 それでも、逃げずに私の返事を待っている。


 ……ああ。


 この子は、こんなにも勇気を出して聞いてくれたんだ。


「もちろんだよ」


 私は、ゆっくり頷いた。


「カトレアがそう呼びたいなら、私は嬉しい」


「……ほんとに……?」


「うん。本当に」


 カトレアの口元が、少しだけ動いた。


 でも、まだ何か言いたそうだ。


 私は、その手をそっと取った。


 ……そうだね。


 呼び方だけじゃなくて、ちゃんと言葉にしておこう。


 この子が、もう誰かの好意に遠慮しなくていいように。


 明日も、明後日も、その先も。


 ここで暮らしていいんだと、安心できるように。


「カトレア」


「……うん?」


 私は微笑んだ。


「カトレア、私の子供になるかい?」


 彼女が、目を大きく見開いた。


「……わたしが……?」


「うん。私の娘になって、一緒に暮らそう」


 私は、彼女の手を優しく握った。


「嬉しいことがあったら、一緒に喜ぼう。悲しいことがあったら、ちゃんと話を聞くよ」


 カトレアは、じっと私を見つめている。


「もちろん、楓も桜花も巴さんもいる。みんなで、これからも一緒に暮らそう」


「……ずっと……?」


「うん」


 私は頷いた。


「ここが、カトレアの家だからね」


 カトレアは、少しだけ考え込んだ。


 膝の上へ視線を落とし、私の手を握り返す。


 ……急がなくていい。


 大切なことだもんね。


 自分で、ゆっくり決めてほしい。


 やがてカトレアが、顔を上げた。


 その瞳には、まだ少し涙が残っている。


 でも。


 さっきまでの不安そうな表情は、もうなかった。


「……うん!」


 満面の笑みだった。


「……わたし、リアリスさんの子供になりたい!」


 ……ああ。


 その言葉が、胸の奥へじんわりと染み込んできた。


 私は微笑みながら、カトレアの頭をそっと撫でた。


「……ありがとう、カトレア」


 柔らかな水色の髪が、指の間をすべっていく。


「じゃあ、今日から私の娘だね」


「……うんっ!」


 カトレアが、私の胸元へ飛び込んできた。


 私は小さな身体を受け止め、そっと抱きしめた。


「……お父さん」


 耳元で、か細い声がした。


 でも、その声は嬉しそうだった。


「……うん。どうしたの、カトレア」


「……えへへ。呼んでみたかっただけ」


「……そっか」


 私は笑った。


 ……ああ。


 もう、何だろう。


 今日はいい日だったなぁ。


 普通の冒険者になろうとして、またちょっと騒ぎを起こして。


 森から熊を連れて帰ってきて。


 みんなで名前を考えて。


 そして、今。


 カトレアが、私の娘になった。


 ……最初は、一人で気楽に暮らすつもりだったのにね。


 思い描いていた生活とは、ずいぶん違う。


 でも。


 抱きしめた小さな身体は、確かに温かかった。


 私は、もう一度カトレアの頭を撫でた。


「……これからも、よろしくね。カトレア」


「うん! お父さん!」


 窓辺では、二人で選ぶ約束をした花が、静かに揺れていた。


 ――今日から、カトレアは私の娘だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。