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第7話:大きな熊をペットにしました

 森の奥へ進むにつれて、足元の土が柔らかくなっていった。


 木々の枝が頭上で重なり、ところどころに差し込む光が、湿った地面へまだら模様を落としている。


 歩くたびに、落ち葉がかさりと鳴った。


「……おお。空気が違うね」


 私がつぶやくと、隣の桜花が静かにうなずいた。


「先ほどより、湿り気が多いようでございます」


「うん。水辺が近いのかな」


 レイストンさんによると、今から探す薬草は水気の多い場所を好むらしい。


 葉は丸みを帯び、茎には細かな産毛がある。花をつける季節なら見つけやすいそうだけど、今は葉を目印に探すしかないとのことだ。


 ……最初の薬草より、難易度が上がってない?


「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、リオン君」


 私の顔を見たレイストンさんが笑った。


「薬草を見つけるのは私の仕事だ。君たちは周りをお願いしたい」


「あ、そうでした」


 危ない、危ない。


 また薬草探しに夢中になるところだった。


 私は気を取り直し、木立の向こうへ目を向ける。


 小鳥の声。


 風に擦れる葉の音。


 どこかから流れてくる、水のせせらぎ。


 森に入る前は少し緊張していたけれど、こうして歩いてみると気持ちのいい場所だ。


 ただし。


 いくら綺麗な景色でも、護衛の依頼で来ていることは忘れちゃいけない。


「グリッドさん。あと、どのくらい進みますか?」


「水場までは、そう遠くないはずだ。足場が悪くなるから気をつけろ」


「分かりました」


 グリッドさんは盾を背負い直すと、前方の枝を避けて進んだ。


 ビスクさんは少し先の倒木へ軽やかに上がり、周囲を見回している。


「こっちは大丈夫そうよ。足元、ちょっとぬかるんでるけどね」


「了解。無理に先行するなよ」


「はーい!」


 ……元気だなぁ。


 でも、周りを見ている目は真剣だ。


 今日知り合ったばかりの私でも、この四人が普段からいい連携を取っていることは分かる。


 桜花が私の横を歩きながら、小さな枝をそっと避けてくれた。


「ありがとうございます」


「お気になさらず、リオン様」


 ……あ。


 危うく、いつもの『桜花、ありがと』で話してしまうところだった。


 いや、それ自体は別にいいか。


 慣れないのは名前の方だ。


 桜花はもう、ちゃんとリオン様で統一している。


 ……私より、ずっと優秀だね。


 しばらくすると、水の音がはっきり聞こえてきた。


 木々の間を抜けると、幅の狭い流れが現れる。


 大きな川というより、小さな沢だ。


 透明な水が石の間を通り、浅い窪みに溜まっている。


「ここだ。いい場所だな」


 レイストンさんの顔が明るくなった。


 真っ先に水際へ向かおうとしたところで、グリッドさんが手を上げる。


「少し待ってください。先に周りを確認します」


「……ああ、そうだった。頼むよ」


 レイストンさんは素直に足を止めた。


 仕事に夢中になると、周りのことが後回しになっちゃうんだよね。


 ……さっきの私も、人のことを言えないけど。


「ルックラン、見晴らしのいい木はあるか?」


「あそこだな」


 ルックランさんが沢の反対側を指さす。


 幹の太い木が一本、周りより高く伸びていた。


「上から周囲を見ておく。声は届く」


「頼む。フレミーは依頼人のそばについてくれ」


「はい」


「リオンと桜花も、近くで警戒を」


「了解です」


「かしこまりました」


「ビスク、俺たちは周辺を一回りするぞ。足跡と獣道を見ておきたい」


「分かったわ」


 グリッドさんたちは、沢の上流側へ回り込んでいった。


 ビスクさんは歩きながら、低い枝や土の上に残った跡を覗き込んでいる。


 ……なるほど。


 姿が見えない魔獣もいるんだから、痕跡を調べておくのは大切だ。


 私も《サーチ》を使えば周囲を確かめられるけれど、せっかくなら彼らのやり方を学びたい。


 何でも魔法で済ませたら、冒険者の仕事を覚える機会がなくなっちゃうからね。


「リオン様」


 桜花が小声で呼んだ。


「何?」


「お二人は、慎重でいらっしゃいますね」


「うん。いいパーティだよね」


「はい。連携も取れております」


 桜花が素直に褒めるなんて、なかなか珍しい気がする。


 ……いや、他人の悪口を言う子じゃないんだけど。


 この世界で初めて一緒に依頼を受けた相手が、彼らでよかった。


 私はそう思いながら、沢の水を眺めた。


 レイストンさんは、沢のほとりに膝をついた。


「……おお。これはいい」


 指さした先に、小さな植物が生えている。


 丸い葉が何枚も重なり、茎には本当に細かい毛が生えていた。


 先ほど見せてもらった絵と、そっくりだ。


「これが、探していた薬草ですか?」


「ああ。しかも、なかなか状態がいい」


 レイストンさんは嬉しそうに葉をそっと持ち上げた。


「水の近くは土が柔らかいから、根を傷めないように採れるんだ。ただし、濡れすぎている株は避けた方がいい」


「へえ。湿っている方が好きなのに?」


「そうだよ。水気が多すぎても、傷みやすいからね」


 ……薬草って、奥が深いなぁ。


 私は沢へ視線を戻した。


 小魚のようなものが、水の中でちらりと光っている。


 向こう岸には白い小花。


 頭上には青い空が、枝の間から少しだけ見えた。


 ……これ、仕事中じゃなかったら、のんびり座って眺めていたい景色だ。


「リオンさん、そちらの木の根元を見ていただけますか?」


 フレミーさんに声をかけられた。


「はい?」


「小さな穴があるんです。何か住んでいるかもしれません」


 彼女が杖で指し示した先には、土が少し盛り上がった場所があった。


 私は近づきすぎない位置から覗き込む。


 ……確かに穴だ。


 でも、人の腕も入らないような小ささだった。


「今は何も見えませんね」


「そうですか。念のため、この辺りでは足元にも気をつけましょう」


「分かりました」


 フレミーさんは小さくうなずく。


 さっき馬車では、魔法について楽しそうに話していた彼女。


 仕事中はずいぶん表情が真剣になるんだね。


「……フレミーさんって、普段もこうやって護衛を?」


「ええ。採取依頼は、何度か」


「やっぱり慣れてるんですね」


「いえ、まだまだですよ」


 彼女は少し照れくさそうに笑った。


「だからこそ、分からないことは仲間に聞くようにしています」


 ……なるほど。


 いい考え方だなぁ。


 私も見習おう。


 ……何かあったら、魔法で何とかする前に、まず周りの声を聞く。


 そう心に決めて、私はもう一度周囲を見渡した。


     ◇


 沢のほとりでの採取は、想像していたより時間がかかった。


 薬草そのものは、あちこちに生えている。


 ただし、全部が使えるわけじゃない。


 葉が虫に食われていたり、根元が傷んでいたり。


 レイストンさんは一株ずつ確かめながら、丁寧に選んでいく。


 ……薬師さんの仕事って、本当に根気がいるんだな。


「リオン君。そこの籠、取ってもらえるかい?」


「はい。どうぞ」


「ありがとう」


 私は籠を手渡すと、元の位置へ戻った。


 護衛中にあまり離れるわけにはいかないからね。


 木の上では、ルックランさんが変わらず周囲を見張っている。


 ときどき枝の間を移動して、見える範囲を変えているらしい。


 ……あれ、かなり疲れそうだな。


 下から見上げているだけでも、足場の悪さが分かる。


「交代しましょうか?」


 声をかけると、ルックランさんは軽く片手を上げた。


「大丈夫だ。こっちは慣れてる」


「了解です。何かあったら言ってください」


「ああ」


 ……うん。


 無理に交代しようとするより、任せた方がよさそうだ。


 私は沢を跨ぐ細い倒木に目を向けた。


 倒木の上には、何かが擦れたような跡がある。


 小さな動物が通ったのだろうか。


 そう思ってしゃがみかけた、そのとき。


「リオン様」


 桜花が声を落とした。


「……少々、妙な気配がいたします」


「妙な気配?」


「はい。森の奥が、急に静かになりました」


 私は耳を澄ませた。


 ……あ。


 確かに。


 さっきまで聞こえていた小鳥の声が、いつの間にか消えている。


 風も吹いているのに、葉のざわめき以外はほとんど聞こえない。


 ……何だろう。


 静かすぎる。


「ルックランさん」


 私は木の上を見上げた。


「鳥の声、急に聞こえなくなりましたよね?」


 ルックランさんは少し間を置いて答えた。


「……ああ。俺も気になっていた」


 弓を持つ手に、ゆっくり力が入る。


「大きな何かが近くにいる可能性はある」


「……なるほど」


 私は沢の向こうを見た。


 木々の間には、何も見えない。


 ただ、ずっと奥の方から、湿った土の匂いに混じって別の匂いが流れてきた。


 獣の匂いだろうか。


 ……いや、鼻が特別いいわけじゃないから、よく分からないな。


「一応、警戒しておこうか」


「承知いたしました」


 桜花は、いつでも刀を抜ける姿勢に変わった。


 その動きは、とても静かだった。


「レイストンさん」


 私は採取中の薬師へ声をかけた。


「少し様子がおかしいみたいです。籠をまとめておいてもらえますか?」


「……何かあったのかい?」


「まだ分かりません。でも、すぐ移動できるようにした方がよさそうで」


 レイストンさんは、すぐにうなずいた。


「分かった。今採った分をしまっておこう」


 彼は道具を布で包み、籠の蓋を閉じた。


 ……こういうとき、話の早い依頼人はありがたい。


 フレミーさんもすぐに杖を構え直す。


「グリッドさんたちは、まだ戻ってきませんね」


「そうですね。上流側を見ているはずですけど」


「……呼んだ方がいいでしょうか」


 私は少し考えた。


 桜花が気配を捉えたのなら、何かいる可能性は高い。


 ただ、今のところは大きな音も聞こえないし、無闇に大声を出すのもどうなんだろう。


 そのとき、木の上から低い声がした。


「……待て。向こうで鳥が飛んだ」


 ルックランさんが森の奥を指さした。


 枝の向こうで、黒い影がいくつも空へ舞い上がっている。


 私の目にも、それは見えた。


 ……結構な数だ。


「グリッドたちが行った方角だ」


 ルックランさんの声が、少し固くなる。


「……まずいな」


 私は《サーチ》を使った。


 頭の中に、周囲の位置関係が浮かび上がる。


 グリッドさんとビスクさん。


 それから、近くに大きな反応が一つ。


 ……あれ?


 ずいぶん、存在感のある反応だ。


 魔法に頼らないつもりだったけれど、今はそんなことを言っている場合じゃない。


「……桜花」


「はい」


「大きいのが一つ、いるみたい」


「承知いたしました」


 桜花は静かに頷いた。


 その顔に、怯えた様子はない。


 ……まあ、そうだよね。


 この子は、そもそも怖がる対象の基準が違うんだろうな。


 私がレイストンさんへ向き直った、その瞬間。


 森の奥から、大きな音が響いた。


 ――ばきっ。


 乾いた木が折れるような音。


 続いて、地面を何かが叩く重い足音。


 そして。


「全員、逃げろぉぉっ!」


 グリッドさんの声が、木々の間を突き抜けた。


 藪を突き破って、二つの人影が飛び出してきた。


 グリッドさんと、ビスクさんだ。


 さっきまで落ち着いていた二人が、全力で走っている。


「グリッドさん!?」


「逃げろ! レイストンさんを馬車へ!」


 グリッドさんは、振り向きもせず叫んだ。


 顔には土がつき、盾の縁には新しい傷がある。


 ビスクさんも、さっきまでの明るい表情をすっかり失っていた。


「フレミー! ルックラン! 早く!」


 その声に続いて、木々の奥で何かが唸った。


 ――ぐるるるる……。


 低い。


 腹の底まで響くような音だ。


 次の瞬間、太い幹が大きく揺れた。


 どんっ。


 ……えっ。


 何、今の。


 何かがぶつかったのか? それにしても、重すぎる音だ。


 木そのものを押しのけているみたいな音だった。


「レイストンさん、こちらです!」


 フレミーさんが籠を一つ持ち上げる。


 ルックランさんはすでに木から降り、弓を背負い直していた。


 すごい。


 あの高さから、ほとんど音も立てずに。


「馬車まで戻る! 荷物は捨ててもいい!」


 ルックランさんが叫ぶ。


「分かった!」


 レイストンさんは籠を抱えたまま走り出した。


 薬草が大事なのは分かるけれど、命には代えられない。


「フレミーさん、レイストンさんをお願いします!」


 私は声をかけた。


「はい! でも、リオンさんたちは!?」


「少しだけ、後ろを確認します!」


「危険です!」


「大丈夫。桜花もいますから」


 フレミーさんが何か言いかける。


 でも、ルックランさんがその腕を引いた。


「今は依頼人が先だ!」


「……っ。分かりました!」


 二人はレイストンさんを挟むようにして、馬車の方へ走り出した。


 ……うん。


 それでいい。


 護衛は、守る相手を安全な場所へ運ぶのが仕事だ。


 私はその背中を見送った。


 さて。


 問題は、向こうから近づいてくる大きな反応だ。


 ……何が来たんだろうね。


 桜花は刀の柄に手を置いたまま、静かに立っていた。


「リオン様。こちらへ向かっております」


「うん。分かってる」


 気のせいじゃない。


 さっきから、地面が小さく揺れている。


 グリッドさんとビスクさんが、私たちのところまで戻ってきた。


「リオン! 桜花! 何をしている、逃げろ!」


 グリッドさんが盾を構えたまま怒鳴る。


「レイストンさんたちは、もう馬車へ向かいました」


「なら、お前たちも行け!」


「二人は?」


「俺たちは少しでも時間を稼ぐ!」


 ……ああ。


 なるほど。


 盾役のグリッドさんと、身軽なビスクさんで注意を引こうとしてるんだね。


 でも、その必要はない。


 後ろの反応は大きいけれど、少なくとも私と桜花なら対処できる。


「グリッドさんも、ビスクさんも、馬車へ戻ってください」


「何を言ってる! 相手が何だか分かってるのか!?」


「……まだ見てませんけど」


「冗談を言ってる場合じゃないぞ!」


 ……うん。


 気持ちは分かる。


 でも、私はわりと真面目に答えたんだけどな。


 ビスクさんが私の腕を掴んだ。


「リオン、お願い! ここは逃げて!」


 いつもの軽い口調じゃない。


 力いっぱい掴んでいる指が、微かに震えていた。


 ……あ。


 この人、本当に怖いんだ。


 それほどの相手なのか。


「ビスクさん。大丈夫です」


「大丈夫じゃないわよ!」


「私たちが足止めします。だから、皆さんは先に」


 私はできるだけ落ち着いた声で続けた。


「レイストンさんが一人になったら、護衛の意味がなくなっちゃいますから」


 ビスクさんが言葉を失う。


 グリッドさんも、険しい顔のまま私を見た。


 ……あんまり納得していない顔だな。


「……リオン。お前、何者なんだ」


「ただのFランク冒険者です」


「そんなFランクがいるか!」


 ……ですよね。


 私も、そう思います。


 そのとき、森の奥から巨大な影が現れた。


 前へ出ていた木の幹が、めきめきと音を立てて傾く。


 影の正体は――。


 ……熊だった。


 いや。


 熊、って言っていいのかな、あれ。


 茶色がかった濃い毛並み。


 岩みたいに盛り上がった肩。


 太い前脚の先には、人の腕より長そうな爪。


 四つ足で立っているのに、私の背丈を軽く超えている。


 頭を持ち上げたら、近くの木の枝に届きそうだ。


 ……でっか。


 思わず、そんな感想が漏れた。


 巨大な熊は、私たちを見つけると前脚を止めた。


 濃い毛の間から、二つの目がじっとこちらを見下ろしている。


 口元には、太く鋭い牙。


 鼻息一つで、近くの草が揺れた。


 ……何だろう。


 ぬいぐるみにしたら、すごく大きそうな熊だな。


 いや、それ以前に。


 こんな生き物が、普通に森にいるの?


「くそっ……ここまで来たか!」


 グリッドさんが前に出た。


「ビスク、下がれ! リオンたちも離れろ!」


「でも、グリッド!」


「俺が盾で受ける。お前は逃げるんだ!」


 グリッドさんの声は、強かった。


 それでも、盾を持つ腕には力が入りすぎている。


 相手の大きさを考えたら、無理もない。


「グリッドさん。あの熊、かなり強いんですね」


「強いなんてものじゃない! 俺たちでどうにかできる相手じゃないんだ!」


「……そうなんですか」


 私はもう一度熊を見た。


 確かに、普通の熊じゃない。


 ……というか、普通の熊をこの世界で見たことがないんだけど。


 熊は唇をめくり上げ、低く唸った。


 ――ぐるるるるる……!


 背後の木から、小さな鳥が飛び去っていく。


 次いで、大きな前脚が持ち上がった。


「っ、来るぞ!」


 グリッドさんが盾を前へ出す。


 ……まずい。


 あの爪を正面から受けたら、盾どころじゃない。


「桜花」


「はい」


「二人をお願い」


「承知いたしました」


 桜花が一歩踏み出した。


 その瞬間、熊の前脚が横薙ぎに振るわれる。


 ――ごうっ!


 風が唸り、地面の落ち葉が舞い上がった。


 私はグリッドさんの盾の前へ移動し、その一撃を《絶対防御》で受け止めた。


 ……うん。


 衝撃は、まったくない。


 でも、目の前をあの爪が通るのは、見た目には結構な迫力だ。


「……は?」


 グリッドさんが間の抜けた声を出した。


「リ、リオン!? 今の……!」


「怪我はありませんか?」


「いや、俺よりお前だろう!」


「私は平気です」


 後ろでビスクさんが目を丸くしている。


 ……ああ。


 また『普通』から離れていく気がする。


 でも、今は仕方ない。


 誰かが怪我をするより、ずっといい。


 熊は自分の攻撃が止められたことに驚いたのか、一歩だけ後ろへ下がった。


 大きな鼻を鳴らし、私の方をじっと見ている。


 ……うん。


 向こうも、何が起きたのか分からないらしい。


「リオン、お前……!」


 グリッドさんが肩で息をする。


 ビスクさんも、何か言いたそうに口を開いたままだ。


「お二人とも、今なら走れますよ」


「……え?」


「フレミーさんたちを追ってください。レイストンさんを守る人が必要です」


「いや、だが!」


 グリッドさんはまだ迷っていた。


 ……責任感の強い人だなぁ。


 でも、ここで全員で粘るのは、かえって危ないと思う。


「グリッドさん」


 私は盾の向こうから目を合わせた。


「このままだと、みんながここへ引き返してきちゃうかもしれません」


「……っ」


「そうなったら、逃がした意味がないでしょう?」


 グリッドさんは奥歯を噛みしめた。


 ビスクさんが私の袖を掴みかけて、手を止める。


「本当に、大丈夫なの?」


「ええ。桜花もいますから」


 私は隣の相棒を見る。


 桜花は涼しい顔のまま、ほんの少し頭を下げた。


「どうぞお任せください」


 ……頼もしい。


 ただ、この子の『お任せください』には、別の意味でも説得力がありすぎるけどね。


 グリッドさんはしばらく私たちを見つめたあと、短く息を吐いた。


「……分かった。だが、危険だと思ったらすぐに逃げろ。いいな!」


「はい」


「絶対だぞ!」


「分かりました」


 ……念押しがすごい。


 それだけ心配してくれてるんだね。


 グリッドさんはビスクさんの肩を叩いた。


「行くぞ!」


「……っ。分かったわ!」


 ビスクさんは走り出す直前、こちらを振り返った。


「リオン! 桜花! 絶対に無事でいてよ!」


「もちろんです!」


 私が返事をすると、二人は森の道を駆けていった。


 盾が枝に触れ、短剣の鞘が小さく鳴る。


 その音は、あっという間に遠ざかっていった。


 ……よし。


 これで、守るべき人たちはみんな退避した。


 私は肩の力を抜き、改めて熊を見上げた。


「さて」


 目の前の大きな獣は、まだ喉を鳴らしている。


「……どうしようかな、君」


 熊は、グリッドさんたちを追いかけようとはしなかった。


 私の方を見たまま、地面を強く踏み鳴らしている。


 ……なるほど。


 今はこっちに興味があるのかな。


「リオン様」


 桜花が、そっと刀の柄へ手をかけた。


「倒しますか」


 ……うん。


 実に桜花らしい、簡潔な確認だね。


 でも、私は首を横へ振った。


「いや、ちょっと待って」


「かしこまりました」


 桜花は手を離した。


 熊の目が動き、次の瞬間、また大きな前脚が上がる。


 ……あ。


 話し合いをする相手ではないらしい。


「《完全拘束》」


 私は、魔法を発動した。


 熊の身体が、その場でぴたりと止まった。


 振り上げた前脚も、開きかけた口も、まるで時間が止まったみたいに動かない。


 でも、目だけはぎょろりと私の方を向いている。


 ……ちょっと怖いな、その顔。


 私は熊の周りをゆっくり一周した。


 大きな身体には、擦り傷のような跡がいくつかある。


 前脚の爪は、先ほど木を倒しかけたのも納得の太さだ。


 肩の筋肉なんて、もう岩にしか見えない。


 ……これ、腕相撲したらどのくらい強いんだろう。


 いや、やらないけど。


「見事に止まっていますね」


 桜花が少し離れたところから言った。


「うん。この魔法、こういうとき便利だよね」


「倒す手間が省けます」


「……倒す前提なんだね」


「攻撃してきた魔獣でございますので」


「まあ、それはそうなんだけど」


 私は熊の顔を見上げた。


 動けなくなった大きな獣は、まだこちらを睨んでいる。


 でも、私が手を出さなければ、今すぐ誰かが傷つくこともない。


 それなら、少し考える時間くらいあっていいだろう。


「桜花」


「はい」


「ちょっとやってみたいことがある」


「何でございましょう」


 私は笑った。


「この熊、仲良くなれないかなと思って」


 桜花が、静かに瞬きをした。


「……なるほど」


 ……えっ。


 そこで普通に納得するの?


 私はもう少し、驚かれると思ってたんだけど。


 ふと思い出したのは、馬車の中で聞いた話だった。


 魔族は魔獣を操ることがある、とか何とか。


 あれが本当かどうかは分からない。


 そもそも魔族がどうやって操るのかも、聞きそびれている。


 でも。


 魔獣を敵にするんじゃなくて、仲間にできたら面白くない?


 私は熊の顔をじっと見た。


 ……もちろん、相手は魔獣だ。


 人に危害を加えようとした以上、そのまま放っておくわけにはいかない。


 それに、今ここで動けるようにしたら、グリッドさんたちをまた追いかけるかもしれない。


 なら、ちゃんと私の言うことを聞いてくれるようにできればいい。


「……ペットにする魔法、か」


 私は小声でつぶやいた。


 前の世界でも、ゲームにはよくあった。


 魔物を仲間にする能力。


 呼び方は作品によって違うけれど、こういうとき一番しっくりくるのは――。


「《テイム》、かな」


 桜花が、私を見た。


「新しい魔法でございますか?」


「うん。まだ考えてるところだけど」


「どのような効果をお考えでしょう」


「魔獣を仲間にして、命令を聞いてもらう感じ。私の方から解除しない限り、ずっと続く魔法がいいな」


「なるほど」


「危ないことをしようとしたら止められるし、誰かを守ってもらうこともできる」


 ……よし。


 頭の中で、効果を整理しよう。


 対象は魔獣だけ。


 掛けた相手は、私のペットになる。


 命令には逆らえない。


 ただし、動けなくして飼うわけじゃないから、普段は自分で歩いてもらって構わない。


 解除するかどうかは、私が決められる。


 ……うん。


 こんなところかな。


 今まで作ってきた魔法だって、想像したとおりに形になってくれた。


 だったら、今回もきっとできる。


「……よし。やってみよう」


 私は熊へ視線を戻した。


 まだ《完全拘束》が効いている。


 大きな爪も牙も、ぴくりとも動かない。


 安全を確認してから、私は新しい魔法を頭の中に描いた。


 想像する。


 ただ命令を押しつけるだけじゃなく、魔獣を使役できる状態にする魔法。


 一度成功すれば、私が解除するまで効果が続く。


 たとえ離れた場所にいても、命じたことは守ってくれる。


 誰かに譲るための魔法ではない。


 あくまで、私が責任を持って面倒を見るためのもの。


 ……いや、責任って、かなり大きいな。


 こんなに大きな熊、食費とかどうなるんだろう。


 ……そこは、後で考えよう。


 今は、目の前の問題が先だ。


 私は一つ息を吸った。


 そして、心の中で魔法の完成を願う。


 その瞬間。


『《想像魔法》にて《テイム》が完成しました。』


 いつもの、女性の声が頭の中に響いた。


 ……おお。


 できた!


 私は思わず笑みを浮かべた。


「桜花、成功したみたい」


「おめでとうございます、リオン様」


「ありがとう。じゃあ、さっそく試そうか」


 私は熊の方へ向き直る。


 あの大きな目が、相変わらず私を睨んでいた。


「……《テイム》」


 魔法を発動する。


 ほんの一瞬、熊の身体を淡い光が包んだ。


 それから、何事もなかったように光が消える。


 ……えっ。


 これだけ?


 もっと派手に変わるのかと思ってた。


「……桜花。今、何か変わった?」


「光が見えました。ほかには特に」


「……だよね」


 私は顎に手を当てた。


 魔法そのものは、ちゃんと発動した感触がある。


 でも、熊は拘束されたままだ。


 これじゃ、本当におとなしくなったのか分からない。


 ……まあ、当然か。


 動かない相手に『お座り』って言っても、確認のしようがないからね。


「解除してみるか」


「私が対応いたします」


 桜花が、静かに刀へ手を置いた。


「もし暴れましたら、すぐに止めます」


「うん。お願い」


 私は熊の前から少し距離を取った。


 周囲には、もう私たち以外の人はいない。


 念のため、逃げ道になる木の間も確認する。


 ……よし。


 もし魔法が思ったとおりに働かなくても、もう一度《完全拘束》を掛ければいい。


 私は熊へ声をかけた。


「じゃあ、動けるようにするよ。暴れないでね」


 熊の耳が、微かに動いた気がした。


 ……おや。


 聞こえてるのかな。


 私は《完全拘束》を解除した。


 熊の前脚が、ゆっくりと地面へ下りた。


 大きな身体が、ぐらりと揺れる。


 ……おっと。


 私は反射的に身構えた。


 桜花も、いつでも抜刀できる姿勢になっている。


 でも、熊は襲いかかってこなかった。


 先ほどまで唸り続けていた口を閉じ、首を傾げる。


 そして、私の顔をじっと見つめた。


 ……あれ?


「……こんにちは?」


 思わず、普通に挨拶してしまった。


 すると熊は、鼻を鳴らした。


 ――ふんっ。


 ……返事?


 いや、たまたまかな。


「桜花。どう思う?」


「敵意は感じられません」


「だよね」


 さっきまで、あんなに暴れていたのに。


 その変わりようは、ちょっと不思議なくらいだ。


「……試してみようかな」


 私は熊へ向かって、ゆっくり手を上げた。


「お座り、できる?」


 次の瞬間。


 どすんっ。


 熊が、その場に腰を下ろした。


 地面が少し揺れ、近くの小枝が跳ねる。


「……おおっ!」


 私は思わず声を上げた。


「桜花、見た? 座った!」


「はい。成功ですね」


 桜花が穏やかに微笑んだ。


 ……なんだろう。


 すごく嬉しい。


 強い魔法が成功したというより、犬に初めて芸を教えたみたいな嬉しさだ。


 いや、相手は巨大な熊なんだけど。


「じゃあ、次は……伏せ」


 熊は前脚を折り、大きな身体を地面へ伏せた。


 ずしん、と重い音がする。


 ……完璧じゃないか。


「すごいね、君!」


 私は熊へ近づいた。


 先ほどなら危険で近づけなかった距離だ。


 それでも熊は、私の動きをじっと見ているだけ。


「頭、触ってもいい?」


 熊が鼻先を少し下げた。


 ……おや。


 これは、許可してくれてるのかな。


 私はそっと、額のあたりへ手を伸ばす。


 指先に触れた毛は、思ったより硬かった。


 でも、その下には分厚い暖かさがある。


「……おお。あったかい」


 熊は、気持ちよさそうに目を細めた。


 ……可愛いかもしれない。


 いや、大きさを考えると迫力が勝つけど。


 それでも、先ほどの恐ろしい魔獣には見えなくなっていた。


「リオン様」


 桜花が、横へ並んだ。


「確かに、おとなしくなっておりますね」


「うん。ちゃんと命令も聞いてくれたし」


「今後は、どうなさるおつもりでしょうか」


「……あ」


 私は熊を見上げた。


 見上げた先には、大きな頭。


 もう少し上には、太い木の枝。


 ……そうだった。


 おとなしくなったのはいい。


 でも、この大きさのまま連れて帰るのは、さすがに無理がある。


 王都の門で、絶対に止められる。


 というか、グリッドさんたちの馬車へ乗せるなんて、どう考えても無理だ。


「……桜花。ちょっと問題が発生しました」


「はい」


「この子、大きすぎる」


 桜花は熊を見上げ、静かにうなずいた。


「そのようでございます」


「……いや、もうちょっと何かない?」


「立派な体格でございますね」


「……そうなんだけど!」


 桜花は小さく微笑んだ。


 ……もしかして、面白がってる?


「まあ、とりあえず考えようか」


 私は熊の前で腕を組んだ。


 このまま森へ置いていくなら、今作った《テイム》は何のためだったのか分からない。


 かといって、巨大な魔獣を連れて王都へ行くのも困る。


 家の庭なら、広さだけは何とかなるだろう。


 けれど、移動中の周りの人が怖がるのは避けたい。


 ……となると。


「小さくすればいいのか」


 私は思わず口に出した。


 桜花が首を傾げる。


「小さく、でございますか」


「うん。身体の大きさを変えられたら、持ち運べるでしょ」


「なるほど。合理的かと存じます」


 ……この子、私の変な思いつきに対して、いつも評価が甘い気がする。


 いや、頼もしいからいいんだけど。


 私は熊へ向き直った。


「君。ちょっと小さくなってみる?」


 熊は、鼻を鳴らした。


 ――ふん。


 ……よし。


 承諾したことにしよう。


 ……いや、たぶん何も分かってないよね。


 でも怖がらせないように、ゆっくりやるからね。


 さて。


 今度は、身体を小さくする魔法だ。


 名前は、そのまま《縮小》でいいかな。


 難しい名前にしても、私が忘れちゃいそうだし。


 効果は、対象の身体を指定した大きさまで縮めること。


 元に戻したくなったら、魔法を解除すればいい。


 ただし、小さくする魔法なんだから、元より大きくはできないようにしておこう。


 対象は魔獣。


 人間にまで使えると、いろいろ問題が起きそうだからね。


 ……そうだ。


 身体が軽くなれば、それに合わせて力も少し弱くなる方が自然だ。


 巨大な熊が小さい姿のまま、元の重さで歩いたら、床が抜けかねない。


 でも、身軽さや丈夫さまでは変わらなくていい。


 ……うん。


 小さくなっても、頼りになる子でいてほしいし。


「よし。こんな感じかな」


 私は頭の中で、全体の形をまとめた。


 大きな熊が、ちょこんとした姿に変わる。


 手で抱えられるくらいの、五十センチほど。


 それでも、元に戻すことはできる。


 ……よし。


 イメージできた。


『《想像魔法》にて《縮小》が完成しました。』


 いつもの女性の声が、頭の中に響いた。


「……できた!」


 私は笑って、熊の方へ手を向けた。


「じゃあ、少しだけ小さくするよ」


 熊は伏せたまま、こちらをじっと見ている。


 さっきから、ずいぶんおとなしい。


 《テイム》がちゃんと効いている証拠だろう。


「《縮小》。全長五十センチ!」


 魔法を発動した。


 熊の身体を、淡い光がふわりと包む。


 次の瞬間――。


 ……すっ。


 あれほど巨大だった身体が、あっという間に小さくなった。


 大きな頭。


 太かった前脚。


 地面を揺らしていた胴体。


 全部が、みるみる縮んでいく。


 そして、光が消えたとき。


 私たちの前には、ちょこんとした小さな熊が座っていた。


「……おお」


 私は思わず、両手を広げた。


「……可愛い!」


 それは、さっきまで森を揺らしていた魔獣とは思えない姿だった。


 小さな熊は、地面へ前脚をついた。


 まだ少し、身体の大きさに慣れていないのかもしれない。


 四つ足で立ち上がり、二歩ほど歩く。


 それから、ぴたりと止まって自分の前脚を見下ろした。


 ……えっ。


 もしかして、自分が小さくなったこと、分かってる?


 熊が、きょとんとした顔で私を見上げた。


「……ごめんね。びっくりした?」


 ――くぅ。


 小さな声が返ってきた。


 ……何それ。


 さっきまでの迫力ある唸り声はどこへ行ったの?


「桜花。今の聞いた?」


「はい」


「……可愛くない?」


「はい。愛らしいお声でございますね」


 桜花がしゃがみ込んだ。


 熊は少し首を傾ける。


 その頭を桜花が指先でそっと撫でると、熊は気持ちよさそうに目を細めた。


 ……あれ。


 桜花って、意外とこういう子が好きなんだろうか。


「桜花、抱っこしてみる?」


「よろしいのでございますか」


「もちろん。おとなしくしてくれるはずだよ」


 私は小さな熊に向かって言った。


「桜花に抱っこしてもらってね。暴れちゃ駄目だよ」


 熊は小さく鼻を鳴らした。


 ……うん。


 さすがに、何回聞いても返事に聞こえる。


 桜花は両手を伸ばし、熊をそっと抱き上げた。


 すると、熊は短い前脚を彼女の腕へ掛け、そのままおとなしく収まった。


 銀色の髪。


 落ち着いた顔。


 そして、腕の中の小さな熊。


 ……うわ。


 何、この組み合わせ。


 ……天使か?


「……リオン様?」


 私がじっと見ていたせいか、桜花が首を傾げた。


「あ、ごめん。ちょっと可愛くて」


「熊が、でございますか」


「……うん。まあ、そうなんだけど」


 ……そこは、あえて深く説明しないでおこう。


 桜花は相変わらず涼しい顔だ。


 でも、いつもより少し柔らかい表情に見えた。


 小さな熊は、彼女の腕の中で満足そうに鼻を鳴らす。


「……くぅ」


 ……ああ、もう。


 これ、絶対カトレアが喜ぶやつだ。


 楓だって、きっと触りたがる。


 私の頭の中には、二人が熊を囲んで座る姿が浮かんでいた。


 ……うん。


 連れて帰るしかないね。


「……ところで、リオン様」


 桜花が熊を抱えたまま言った。


「この子を、本当にお屋敷へお連れになるのでございますか」


「うん。そのつもり」


「承知いたしました」


 ……即答だ。


 私は苦笑した。


「驚かないの?」


「リアリス様がお決めになったことでございますので」


「……あ、桜花」


 桜花が目を瞬かせた。


 そして、口元へそっと手を当てる。


「……失礼いたしました、リオン様」


「ここには誰もいないけどね」


「はい。つい、いつもの呼び方を」


「仕方ないよ。私だって、リオンって呼ばれてすぐ反応できないときがあるし」


 ……うん。


 偽名生活、なかなか難しい。


 それでも、桜花が頑張ってくれているのは分かるから、少しずつ慣れていこう。


 私は彼女の腕の中の熊へ手を伸ばした。


「君も、これから一緒に暮らすことになるかもしれないからね」


 小さな熊が鼻をひくつかせる。


「まず、人を襲っちゃ駄目。誰かを追いかけるのも駄目」


 熊は私を見上げたまま、じっとしている。


「食べ物が欲しいときも、勝手に取らないこと。ちゃんと私に教えてね」


「……くぅ」


「……うん。いい返事」


 ……本当に分かっているかはともかく、《テイム》で命令は伝わるはずだ。


 少なくとも、勝手に人へ襲いかかることは避けられる。


 それは、飼うなら絶対に必要なことだ。


「それから……」


 私はふと考えた。


 私の家には、巴さんもいる。


 楓もいる。


 カトレアだっている。


 屋敷の中で魔獣が暴れたら、大変なことになる。


 どんなに可愛くても、そこだけは曖昧にしちゃ駄目だ。


「私の許可なく、屋敷の人には絶対に危害を加えないこと。いいね」


 熊は、ぴたりと動きを止めた。


 それから、小さく鼻を鳴らした。


 ――ふん。


 ……うん。


 これなら、まずは安心かな。


 もっと詳しい決まりは、帰ってから考えればいい。


 あまりあれこれ命令して、最初から窮屈にさせるのも何だしね。


「桜花、ありがとう。抱っこ、大丈夫?」


「はい。問題ございません」


「重くない?」


「とても軽く感じます」


 ……そっか。


 身体を小さくした分、重さも減ってるんだ。


 見た目だけ小さくして、重さが元のままだったら、抱っこなんてできないもんね。


 自分で作った魔法だけど、便利なものだ。


     ◇


 さて、そろそろみんなのところへ戻らないと。


 私は周囲を見回した。


 倒れかけた木。


 深く抉れた地面。


 熊が通ったあとには、太い枝がいくつも折れていた。


 ……さっきの大騒ぎが、嘘みたいだ。


 桜花の腕の中で、小さな熊はのんびりしている。


 さっきの爪が木を薙ぎ倒しかけたなんて、今の姿からは想像できない。


「リオン様。出発いたしましょうか」


「うん。みんなも心配してるだろうし」


 私は頭の中の地図と《サーチ》で、グリッドさんたちの位置を確かめた。


 ……よし。


 反応はみんなまとまっている。


 馬車を停めた場所の近くだ。


 大きな移動はしていないから、きっと無事に着いたのだろう。


 私は胸を撫で下ろした。


「みんな、戻れてるみたい。よかった」


「何よりでございます」


「うん。じゃあ、私たちも行こうか」


 私は、来た道へ向かって歩き出した。


 桜花が、その隣に並ぶ。


 腕には、小さな熊。


 ……うん。


 何だろう、この絵面。


 私たち、森に何をしに来たんだっけ?


 薬草採取の護衛だよね。


 確かに薬草は採れたし、依頼人も安全な場所にいる。


 今のところ、目的は達成できそうだ。


 ……でも。


 護衛に出かけて、熊を抱えて帰ることになるなんて。


 自分でも、ちょっと予想外だった。


「ねえ、桜花」


「はい」


「今日の依頼、普通だった?」


 桜花はしばらく考えてから、答えた。


「……最初は、普通でございました」


「……最初は、ね」


「はい」


 私は思わず笑ってしまった。


 ……そうか。


 最初は普通だったのか。


 じゃあ、どこからおかしくなったんだろう。


 巨大な熊が出てきたところ?


 いや、魔獣が出るのは普通の冒険者依頼でもあり得る。


 だったら、私がペットにしようと思ったところかな。


 ……たぶん、そこだね。


 私は小さく肩をすくめた。


「でも、まあ。みんな無事ならいいよね」


「はい。そのとおりかと」


 桜花は、熊の背中をそっと撫でた。


 熊がまた小さく鼻を鳴らす。


 ……何だか、ものすごく平和な音だった。


 帰り道は、不思議なくらい静かだった。


 さっきまでの緊張が消えたせいか、沢の流れる音も、遠くの鳥の声も、やけにはっきり聞こえる。


 途中、桜花の腕の中の熊が、ふいに顔を上げた。


「……どうしたの?」


 熊は、木の根元に落ちていた小さな実をじっと見つめている。


 ……ああ。


 お腹、空いたのかな。


「それ、食べたい?」


 ――くぅ。


「……なるほど」


 私はしゃがんで実を見た。


 赤い色の、小さな丸い実。


 見た目は可愛いけど、食べられるのか分からない。


 ……やめておこう。


 人間に無害でも、魔獣に合うとは限らないし。


「ごめんね。知らない実は、食べさせないよ」


 熊は少しだけ鼻を鳴らした。


 何だか、残念そうに聞こえる。


「お腹が空いてるなら、帰ってから考えよう。何を食べるのか、調べないとね」


 私がそう言うと、桜花が頷いた。


「巴さんに相談なさいますか」


「……巴さん?」


「動物のお食事についても、お知恵をお持ちかもしれません」


 ……ああ。


 ありそう。


 でも、巴さんに大きな熊の食事までお願いするのは、ちょっと申し訳ない気もする。


 ただでさえ、私たちのご飯に店の管理に、毎日忙しい人だからね。


「相談はしてみる。でも、ご飯を用意するのは私がやるよ」


「承知いたしました」


「……それに、巴さんから怒られそうなんだよね」


「何についてでございましょう」


「相談もなしに、魔獣を一匹増やしちゃったこと」


 桜花は、ほんの少し目を細めた。


「……可能性はございますね」


「でしょ?」


 ……ああ。


 玄関で巴さんが腰に手を当てている姿が、目に浮かぶ。


 『リアリスちゃん、まずは相談してちょうだい』って。


 ……絶対に言われる。


 でも。


 この子、ちゃんと可愛いし。


 安全にも気をつけるつもりだし。


 何より、カトレアや楓が喜んでくれそうなんだよなぁ。


 ……うん。


 帰ったら、ちゃんと説明しよう。


 言い訳じゃなくて。


 ……たぶん。


     ◇


 やがて、木々の向こうが少し明るくなってきた。


 街道が近い。


 私が顔を上げると、前方に馬車の屋根がちらりと見えた。


 ……よかった。


 ちゃんと元の場所に戻ってこられたね。


 私は足を止め、桜花を見た。


「……あのさ」


「はい」


「ちょっとだけ、気になってることがあるんだけど」


「何でございましょう」


「みんな、驚くかな」


 桜花は自分の腕の中を見下ろした。


 小さな熊は、何も知らない顔で彼女を見上げる。


「……驚かれるかと存じます」


「だよねぇ」


 あの大きな熊から、みんな逃げたんだからね。


 そりゃ、同じ熊が小さくなって戻ってきたら驚く。


 いや。


 ……同じ熊って、分かるのかな。


「どんなふうに説明しようか」


「事実をお伝えすればよろしいかと」


「……事実?」


「魔法でペットにして、小さくしました、と」


 ……うん。


 すごく簡潔だ。


 でも、それを聞いて納得してもらえるだろうか。


 私は少し考えてから、諦めて笑った。


「……まあ、そうだね。それが一番正確だ」


「はい」


 桜花は真面目な顔で頷く。


 熊が、また小さく鳴いた。


「……くぅ」


「君もそう思う?」


 私は指先で、小さな頭を撫でた。


 柔らかい耳が、ぴくりと動いた。


 ……可愛いなぁ。


 そのとき、馬車の方から誰かの声が聞こえた。


 心配そうな響きだった。


 ……ああ。


 そういえば、みんなは私たちが無事なのかも分からないんだった。


 早く安心させてあげよう。


「桜花、行こう」


「はい、リオン様」


 私たちは、街道へ続く最後の木立を抜けた。


 桜花の腕の中には、全長五十センチほどの、小さな熊。


 ……さて。


 この子を見せたら、グリッドさんたちはどんな顔をするだろう。


 何だか、ちょっと申し訳ないような。


 でも、それ以上に。


 ――反応が、少し楽しみだった。

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