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第2話:魔都の寄り道

 《簡易転移》の扉をくぐると、そこは見慣れた魔国邸の廊下だった。


 ……うん。


 いつものことだけど、便利だねぇ。


 さっきまでシルク王国の屋敷にいたのに、扉一枚で魔国に到着である。


 最初にこの仕組みを作ったときは、我ながらよくできたと思ったものだ。今では各地の屋敷を行き来するのに欠かせない。


 ……まあ。


 便利すぎて、旅をしている実感がなくなるのは、ちょっと困るかもしれないけど。


「おお……」


 背後で、晴斗君が声を漏らした。


 振り返ると、扉と廊下を交互に見ている。


「どうしたの、晴斗君?」


「いえ、本当に……一瞬だったんだなって思いまして」


「あはは。そうだね」


「日本だったら、外国に行くのに飛行機に乗ったり、いろいろ準備したりするじゃないですか。それが、扉を開けただけで……」


「うん。荷物もほとんど必要ないしね」


「……やっぱり、リアリスさんってすごいです」


 ……おや。


 何だか感心されてしまった。


 私はちょっと照れくさくなって笑った。


「ありがとう。でも、晴斗君もそのうち慣れるよ」


「慣れちゃっていいんでしょうか……」


 ……えっ。


 便利なものには慣れた方がいいんじゃない?


 私は首を傾げたが、晴斗君は苦笑するだけだった。


「にゃーは、よく分からないにゃー」


 ルナが床の匂いを嗅ぎながら、尻尾を揺らしている。


「でも、知らない匂いがいっぱいするにゃー!」


「そっか。ルナも初めてだったね」


「面白そうにゃー!」


 そう言うと、ルナは小さな前脚で廊下を進み始めた。


「ルナ、勝手に行かないでね」


「分かったにゃー!」


 晴斗君の声に返事をしたかと思えば、また何かの匂いを嗅いでいる。


 ……好奇心旺盛だねぇ。


 何となく、晴斗君に似ている気がする。


 そのとき、廊下の向こうから控えめな足音が聞こえてきた。


「おかえりなさいませ、リアリス様」


「あっ、朝顔。ただいま」


 姿を見せたのは、魔国邸を預かってくれている朝顔だった。


 いつもどおり落ち着いた表情で、私たちへ丁寧に頭を下げる。


 ……うん。


 久しぶりに顔を見ると、何だか嬉しいね。


「元気にしてた?」


「はい」


 朝顔が小さく頷いた。


 私は近づいて、その頭をそっと撫でる。


「いつも魔国邸を守ってくれてありがとう」


「……ありがとうございます」


 朝顔は、ほんの少しだけ目を細めた。


 ……おっ。


 嬉しそうだ。


 こういう反応を見ると、ついもう一度撫でたくなっちゃうんだよね。


 私はしばらく朝顔の頭を撫で、それから晴斗君の方へ向き直った。


「晴斗君、朝顔とは王国邸で会ったことあったよね?」


「はい! でも、魔国邸でお会いするのは初めてです」


 晴斗君は、丁寧に頭を下げた。


「朝顔さん、こんにちは。お邪魔します!」


「いらっしゃいませ、晴斗様」


 朝顔が柔らかく微笑む。


 その足元で、ルナがぴんと耳を立てた。


「にゃーも来たにゃー!」


「はい。ルナも、ようこそ」


「よろしくにゃー!」


 ……うん。


 ちゃんと挨拶できて偉いね。


 晴斗君も、少し安心したように笑っていた。


「それにしても……」


 彼は、もう一度廊下を見回した。


「リアリスさん、ここって、もう魔国なんですよね?」


「うん、そうだよ」


「何と言いますか……屋敷の中だけだと、あんまり実感が湧かなくて」


 ……ああ。


 なるほど。


 そういうことか。


「じゃあ、外を見てみたらどうかな。玄関を出れば周りも見えるよ」


「本当ですか!」


 晴斗君の顔が輝いた。


「ルナ、行ってみよう!」


「行くにゃー!」


 二人は早足で玄関へ向かっていった。


 ……おお。


 すごい行動力だね。


 いや、廊下を全力疾走したわけじゃないから、別にいいんだけど。


 私はその後ろ姿を笑いながら見送った。


「楽しそうですね、晴斗様」


 桜花が、隣で微笑んでいる。


「そうだね。せっかく来たんだし、いっぱい楽しんでもらいたいな」


「はい」


 私は朝顔へ向き直った。


「ところで朝顔。こっちは変わりない?」


「はい。特に問題はございません」


「そっか。よかった」


 学校や雑貨屋のことはセバスから報告を受けているけど、実際に屋敷を管理している朝顔の話も聞いておきたい。


 何か困ったことがあれば、遠慮なく言ってほしいからね。


「皆も元気?」


「はい。皆、いつもどおりでございます」


「それなら安心だね。何かあったら、すぐ連絡してよ」


「かしこまりました」


 朝顔は、もう一度小さく頷いた。


 ……うん。


 しっかりしているねぇ。


「それでね、今日は雪彦君と会う約束があるんだ。これから魔都の冒険者ギルドへ行ってくるよ」


「……はい」


 朝顔が、かすかに目を伏せた。


 ……あれ?


 何だか、ちょっと寂しそう?


「どうかした?」


「いいえ。いってらっしゃいませ」


 朝顔は、いつもの落ち着いた声で答えた。


 でも、さっきよりほんの少しだけ元気がないような気がする。


 ……ああ。


 せっかく来たのに、すぐ出かけちゃうからかな。


 私は笑顔で声をかけた。


「またゆっくり遊びに来るね。そのときは一緒にお茶でも飲もうか」


 朝顔が顔を上げた。


「……はい。楽しみにしております」


「うん。約束ね」


 今度は、はっきり嬉しそうに微笑んでくれた。


 ……よかった。


 魔国邸にも大切な家族がいるんだから、もっと顔を出さないとね。


 私は朝顔に手を振り、桜花と一緒に玄関へ向かった。


     ◇


 外へ出ると、晴斗君とルナが庭の端に立っていた。


 屋敷の周囲を眺めながら、何やら話している。


「ねえルナ、あっちに見えるの、魔都の城壁かな?」


「大きいにゃー!」


「本当だね。……でも、こっちは意外と普通の景色だなぁ」


 ……うん。


 何だか、素直な感想が聞こえてきた。


「お待たせ、晴斗君」


「あっ、リアリスさん!」


 晴斗君が振り返った。


「どう? 初めての魔国は」


「そうですね……」


 晴斗君は、もう一度周りを見た。


 庭。


 屋敷。


 遠くに見える建物。


 それから、私たちの顔。


「……すみません。正直、まだあんまり分からないです」


「あははっ。そうだよね」


「王国邸の周りと、そんなに変わらなくて……。いつも見える孤児院が近くにないくらいでしょうか」


 ……うん。


 正直!


 でも、確かにそうなんだよね。


 ここは魔都の中心じゃないし、すぐ近くに魔族の人が大勢歩いているわけでもない。


 同じように屋敷があって、庭があって、道が続いている。


 見慣れない景色を期待して来たのなら、ちょっと拍子抜けするかもしれない。


「魔国らしいところは、これから見に行こうか」


「はい!」


「魔都に入ったら、きっと違いも分かると思うよ」


「楽しみです!」


 晴斗君が、ぱっと表情を明るくした。


 私は桜花へ視線を向ける。


「じゃあ、そろそろ行こうか」


「はい。お供いたします」


「ルナも準備できてる?」


「もちろんにゃー!」


 尻尾が、ぴんと立った。


 ……よし。


「では、魔都ヴァルキアに出発ー!」


「おー!」


 晴斗君が、元気よく拳を上げた。


「にゃー!」


 ルナも、負けじと前脚を上げた。


 ……おお。


 なかなかいい掛け声だったね。


 桜花は隣で微笑んでいる。


 私は朝顔のいる玄関へもう一度手を振り、皆と一緒に歩き出した。


 魔都までは、のんびり歩いていくことにした。


 転移を使えば一瞬だけど、今日は観光も兼ねている。


 それに、こうして晴斗君と話しながら歩くのも悪くない。


 風が穏やかで、空も明るい。


 ……ああ。


 いいお散歩日和だねぇ。


 道の先に、大きな城壁が見えてきた。


「リアリスさん、あれが魔都ですか?」


「うん。あの門から中に入れるよ」


「おお……!」


 晴斗君が、目を輝かせている。


「魔王城も、この先にあるんですよね?」


「そうだよ。まあ、今日はそこへ行く予定はないけどね」


「あっ、はい。分かってます!」


 ……うん。


 分かってると言いながら、ちょっと残念そうだね。


 まあ、魔王様に会うのはまた今度でもいいでしょ。


 今日は雪彦君との約束がある。


 何より、魔都を見て回ること自体が初めてなんだからね。


 私たちは門へ近づき、見張りをしている兵士さんたちに挨拶した。


「こんにちはー」


「おお、リアリス様! ようこそ魔都へ!」


「こんにちは。今日はちょっと冒険者ギルドまで」


「承知しました。どうぞお気をつけて!」


「ありがとうございます」


 私は笑って頭を下げた。


 ……うん。


 昔と比べると、随分歓迎されるようになったものだ。


 晴斗君が、そのやり取りを不思議そうに見ている。


「リアリスさん、魔国でも普通に顔を知られてるんですね」


「……まあ、ちょっとね」


「ちょっと、ですか?」


「……うん」


 ……そこは。


 あんまり深く聞かないでほしいかな。


 私は、さりげなく話題を変えた。


「ほら、晴斗君。魔都の大通りだよ」


「……わあ!」


 門をくぐった途端、晴斗君が足を止めた。


 広い通りの両側に店が並び、人々の話し声が聞こえてくる。


 荷物を積んだ荷車がゆっくり進み、その脇を買い物帰りらしい親子が歩いていた。


 店先では品物を並べる人がいて、少し先からは何かを焼く香ばしい匂いもする。


 活気のある、いつもの魔都の景色だ。


 ただし、晴斗君にとっては、何もかもが新鮮らしい。


「うわぁ……魔族の人がたくさんいる……!」


 ……おっ。


 予想どおりの反応だねぇ。


 通りには、角を生やした人もいれば、私たちとほとんど変わらない姿の人もいる。


 背の高い人。


 身体の大きな人。


 逆に、まだ小さな子供たち。


 服装もさまざまで、みんな思い思いに行き交っていた。


「やっぱり、王都とは雰囲気が違いますね!」


 晴斗君が、きょろきょろと周りを見回す。


「そうだね。魔族の人が多いから、見慣れない人もいるかもしれないね」


「はい! あっ、あの方、すごい角が……!」


 ……おっと。


 声が少し大きい。


 私は、そっと声を落とした。


「晴斗君、あんまりじろじろ見ちゃ失礼だよ」


「あっ、すみません!」


「はははっ。初めてなら気になるのは分かるけどね」


 晴斗君が、慌てて姿勢を正す。


 その様子を見ていた桜花が、小さく微笑んだ。


「晴斗様、皆様はお買い物やお仕事で来られているようですね」


「あっ……そうですね」


 晴斗君は、改めて大通りを見渡した。


 店頭で野菜を選んでいる人。


 荷車を押す人。


 小さな子供の手を引く母親らしい人。


 そこには、争っている様子も、誰かを怖がらせようとしている様子もない。


 ……うん。


 ごく普通の日常だ。


「リアリスさん。何だか、ちょっと不思議です」


「ん? どうしたの?」


「魔族の人たちって、もっと……こう、怖い感じなのかなって思ってました」


「ああ。分かるよ」


 私は笑いながら頷いた。


 日本にいた頃のゲームや物語では、魔族というと人類の敵みたいに描かれることも多かった。


 魔王がいて、魔族の軍隊がいて、勇者が戦いに行く。


 ……うん。


 いかにも異世界もののお約束だ。


 私だって、最初はそんな印象を持っていた。


「でも、この世界ではちょっと事情が違うんだよね」


「そうなんですか?」


「人族と魔族が友好的になったのは数年前のことなんだ。それまでは長い間、戦争をしていたからね」


「あっ、そういえば学校でも習いました」


 晴斗君が、思い出したように頷いた。


「和平が成立するまで、ずっと対立してたんですよね」


「うん。そういう時代が長かったんだ」


 ……長かった、なんてものじゃないんだけど。


 そもそもの原因を知ったときは、私もずいぶん驚いた。


 でも、その話は、ここで軽々しくすることじゃない。


 私は、通りを歩く人々へ目を向けた。


「私が初めて魔国へ来たときは、今とは全然違ったよ」


「えっ、やっぱりですか!」


 晴斗君が、身を乗り出すようにして聞いてきた。


「やっぱり、集団で襲われたりしたんですか?」


「……えっ?」


 私は、思わず足を止めた。


 ……集団で?


 いやいやいや。


 そういう意味じゃないよ!?


「ううん。そういうことじゃなくてね」


「あっ、違うんですか?」


「うん。普通に暮らしている魔族の人たちは、むしろ私たち人族を怖がっていたんだよ」


 晴斗君が、目を丸くした。


「怖がって……?」


「そう。今までずっと敵だった種族が、いきなり自分たちの町にやって来たんだから。怖いと思う人がいても、おかしくないでしょ?」


「……ああ」


 晴斗君の表情が、少しずつ変わっていく。


「確かに……それは、そうですね」


「兵士さんたちからは敵として警戒されたし、普通の人たちも、どう接したらいいか分からなかったんだと思う」


 私は、初めて魔国へ来た頃のことを思い出した。


 和平が成立したとはいえ、それまでの感情が急に消えるわけじゃない。


 お互いに相手を知らないから、怖い。


 相手を知らないから、疑ってしまう。


 ……うん。


 人族も魔族も、その辺りは変わらないんだよね。


「何だか、僕が思ってたのと違います」


「そうだよね。私も初めは似たようなことを考えてたよ」


「リアリスさんもですか?」


「うん。ほら、日本のゲームだと、魔族って強くて恐ろしくて、勇者と戦う相手みたいなことが多かったから」


「ああ! そうですね!」


 晴斗君が、大きく頷いた。


「僕も、魔王といえば最後に戦う相手みたいな印象がありました」


「はははっ。分かる分かる」


 ……まあ。


 実際の魔王様は、大きな身体に立派な翼を持っているから、見た目の迫力は十分なんだけどね。


 でも、話せば普通に話が通じる人だ。


 ちょっと見た目で損しているところはあるかもしれない。


「だけどね、晴斗君」


「はい」


「この世界では、人族にも魔族にも家族がいて、毎日の暮らしがあるんだよ。みんながみんな、戦いたいわけじゃない」


 私は、通りの向こうを歩いている親子を見た。


 子供が何かをねだり、親らしい人が困った顔をしている。


 そして結局、近くの店で小さな包みを買ってあげていた。


 ……うん。


 どこの国でも、こういう光景は変わらないねぇ。


「人族の国で暮らしている人が、毎日魔族と戦うことばかり考えてないのと同じ。魔族の人たちだって、普通に生活したいんだと思う」


「……はい」


 晴斗君は、しばらく黙って通りを眺めていた。


 それから、静かに頷いた。


「ちゃんと認識を改めないといけませんね」


「うん。そう思ってくれたなら、連れてきた甲斐があるよ」


 私は笑顔で答えた。


 知識として学校で教わることと、実際に自分の目で見ることは、やっぱり少し違う。


 晴斗君が、今ここで何かを感じ取ってくれたのなら嬉しい。


「……にゃーは、よく分からないにゃー」


 足元から、ルナの声がした。


 私たちが揃って顔を下げる。


 ルナは、通りを行き交う人たちを眺めながら、首を傾げていた。


「にゃーから見たら、全部お肉にゃー」


 …………。


 ……おお。


 そこ!?


「ルナ!」


 晴斗君が、すぐにしゃがみ込んだ。


「そういうことは言わないよ」


「……にゃ?」


「みんな、お肉じゃないから。人族も魔族も、ちゃんと生活してる人たちなんだよ」


「……そうなのかにゃー?」


「そうだよ。だから、そんなふうに言わないでね」


 晴斗君の声は、怒鳴るでもなく、穏やかだった。


 ルナは耳を伏せると、しゅんと尻尾を下げた。


「……ごめんにゃ」


「うん。分かってくれたならいいよ」


 晴斗君が、そっとルナの頭を撫でる。


 ……うん。


 ちゃんと相棒してるねぇ。


 でも、今の発言はちょっと驚いた。


 ……いや。


 考えてみたら、この子は元々、獣人国の密林にいたSランクの肉食魔獣なんだよね。


 人も魔族も、見た目では食べ物に見えるのかもしれない。


 ……うん。


 ちゃんと教えていこう。


 私は心の中でそう決めた。


 すると。


「おっ! 英雄様じゃねえか!」


 大通りの向こうから、大きな声が飛んできた。


 ……おや?


 振り返ると、屋台の奥で腕を振っている店主さんがいた。


 串に刺した何かを、こんがり焼いている。


 近づくにつれ、いい香りが漂ってきた。


「よう、英雄様! どうだい? 採れたてのきのこの串焼き、食べていかねえか!」


 ……おお。


 きのこ!


 しかも、すごくいい匂い!


「いただきます!」


 私は、ほとんど反射的に答えていた。


 晴斗君が、隣で小さく笑う。


「リアリスさん、即答ですね」


「だって、すごく美味しそうだよ?」


「……確かに、いい匂いがします」


 そうでしょ?


 私は屋台の前へ進み、焼かれている串を眺めた。


 肉厚のきのこが、いくつも串に刺さっている。


 表面はこんがり色づいていて、ところどころから汁が染み出していた。


 ……ああ。


 これは、間違いなく美味しいやつだ。


「店主さん、三本ください!」


「おうよ! まいどあり!」


 店主さんは豪快に笑い、焼き上がった串を三本取ってくれた。


 私は代金を渡し、一本を桜花へ、もう一本を晴斗君へ差し出す。


「はい。二人とも、どうぞ」


「ありがとうございます、リアリス様」


「ありがとうございます!」


「熱そうだから、気をつけてね」


 ……なんて言いながら。


 私も早く食べたくて仕方がない。


 串の先から湯気が上がっている。


 いい匂いだなぁ。


 私は、まず端のきのこをひと口かじった。


 ……。


 …………。


 ……おっ!


 すごい!


 外側は香ばしいのに、中は驚くほど柔らかい。


 歯を入れた瞬間、旨味のある汁がじゅわっと広がった。


 ……ああ。


 これ、好きだなぁ。


「美味しい!」


 私は、思わず声を上げた。


「すごく肉厚だね。噛むと汁が……あっ、垂れる! もったいない!」


 慌てて串を持ち直す。


 ……危ない危ない。


 せっかくの美味しい汁を、地面に落とすところだった。


 晴斗君が、そんな私を見て笑っている。


「リアリスさん、そんなに慌てなくても……」


「いや、でも、本当に美味しいんだよ」


「そこまで言われると気になりますね。じゃあ、僕も……」


 晴斗君が、きのこをひと口かじった。


 次の瞬間。


「……あっつ!」


 ……おっ。


 やっぱり!


 晴斗君は、慌てて口元を押さえた。


「でも、すごいですね! 本当に肉厚で……あっつ!」


「はははっ。だから、熱いって言ったでしょ」


「言われましたけど、美味しそうだったので!」


 ……うん。


 それも分かる。


 私は、思わず笑ってしまった。


 桜花の方を見ると、彼女はきちんと冷ましてから口に運んでいる。


 ……さすが。


「桜花、どう?」


「はい。とても美味しゅうございますね」


 桜花は、満足そうに微笑んだ。


「香りもよく、食感も素晴らしいかと」


「でしょ! また買いに来たくなるね」


「はい」


 ……ああ。


 こういう食べ歩き、いいなぁ。


 旅先で美味しいものを見つけるのは、やっぱり楽しい。


 私はもうひと口食べようとして、ふと足元に視線を落とした。


「……にゃー」


 ルナが、じっと私たちを見上げていた。


 ……あれ?


「……にゃーも」


 尻尾が揺れる。


「にゃーにもくれにゃー!」


 ……おお。


 来た!


「晴斗君、ルナが欲しがってるよ」


「はい。さっきから、すごく見てます」


 晴斗君が苦笑した。


 ルナは彼の足元で、ぴょんぴょん跳ねている。


「にゃーにも! にゃーにもくれにゃー!」


「はいはい。分かったから、ちょっと待ってね」


 晴斗君は串からきのこを一つ取り、よく冷ましてからルナへ差し出した。


「はい。熱いから、ちゃんと気をつけてね」


「分かったにゃー!」


 ルナは嬉しそうに、きのこへ鼻先を近づける。


 ……そして。


「……あちっ、にゃー!」


 ……。


 …………。


 いや。


 だから、熱いって言ったよね!?


 でも、口から出したりはせず、ふうふうと息を吹きかけながら食べている。


「ルナ、大丈夫?」


「大丈夫にゃー! 美味しいにゃー!」


 晴斗君が心配そうに覗き込むと、ルナは元気よく返事をした。


 ……うん。


 食いしん坊だねぇ。


 ついさっきまで人族も魔族もお肉に見えると言っていたのに、今はきのこに夢中である。


 ……まあ。


 きのこなら、安心して食べてもらえるかな。


 晴斗君は残りの串を食べながら、ルナにも少しずつ分けてあげていた。


 私と桜花も、ゆっくり味わう。


 そんなこんなで、三本のきのこ串はあっという間になくなった。


「ごちそうさまでした!」


 私が声をかけると、店主さんが笑顔で手を振ってくれた。


「おう! また来てくれよ、英雄様!」


「はい。また寄りますね!」


 ……あっ。


 また英雄様って言われた。


 まあ、今さら気にしても仕方ないか。


 美味しいものを食べられたんだから、今日は素直に喜んでおこう。


 私たちは屋台を離れ、再び大通りを歩き始めた。


「いやぁ、美味しかったね」


「はい! すごく美味しかったです」


 晴斗君が、満足そうに頷く。


「僕、魔国の食べ物って、もっと変わったものばかりなのかなって思ってました」


「あはは。そうだよね」


「でも、あんなに美味しいきのこ串があるなんて……。僕の想像、全然当たってませんでした」


「王都にも負けない美味しいものが、いっぱいあるよ」


「もっといろいろ食べてみたいです!」


 ……おっ。


 いいねぇ。


 その気持ちは大事だよ。


 ただし、食べ過ぎには気をつけないとね。


 このあと雪彦君にも会うんだから。


「魔国のこと、もっと勉強したくなりました」


「おお、いいことだね」


「帰ったら、アンナさんにもいろいろ聞いてみます! 学校で習った歴史も、改めて読み直してみたいです」


「うん。きっと面白いと思うよ」


 晴斗君は、楽しそうに笑った。


 さっきまでの『魔族は怖そう』という印象が、少しずつ変わってきているみたいだ。


 もちろん、一度来ただけで何もかも分かるわけじゃない。


 でも、それでいい。


 知らなかったことを知って、もっと知りたいと思う。


 そうやって、自分の世界を広げていくんだろうね。


 ……うん。


 晴斗君も、いい経験をしているようで何よりだ。


 そう思いながら、私は桜花へ笑いかけた。


「桜花も、楽しめてる?」


「はい。リアリス様とこうして町を歩けるのは、私にとっても楽しい時間でございます」


「そっか。よかった」


 私は、嬉しくなって微笑んだ。


 たまには、こうして家族とゆっくり町を歩く時間も大切にしたい。


 ……なんて、思っていたら。


 突然。


 背後から、ぐっと身体を掴まれた。


「……えっ?」


 次の瞬間、私の足が地面から離れた。


 ……。


 …………。


 ……ん?


 何が起きた?


 いや、待って。


 何か、ものすごく太い腕が私の身体を支えているんだけど。


「ちょっ、ちょっと!?」


 私は思わず声を上げた。


 目線が、ぐんと高くなっている。


 ……あれ?


 この感じ。


 どこかで……。


「リアリスさん!?」


 晴斗君が、目を大きくしていた。


 その隣で、桜花は。


 ……笑ってる。


 えっ。


 桜花!?


 助けて!?


 いや、別に怪我をしてるわけじゃないけど!


「がっはっはっ! リアリス殿! 久しいではないか!」


 頭のすぐ後ろから、豪快な笑い声が響いた。


 ……。


 …………。


 ああ。


 この声。


 この腕。


 そして、この持ち上げ方。


 ……覚えてる!


「ゴリアテさん!?」


 私は、ばっと振り返ろうとした。


 でも、顔がよく見えない。


 ……そうだった。


 この人、ものすごく大きいんだった!


「がっはっはっ! 元気そうで何よりだ!」


「元気ですけど! ゴリアテさん、ちょっと! 今度はどこに運ぶ気ですか!?」


 私は、じたばたと足を動かした。


 ……いや。


 全然降ろしてもらえる気配がない。


 大きな腕は、びくともしなかった。


 ……筋肉、すごいなぁ。


 いや、感心してる場合じゃない!


「下ろしてくださいよー!」


「おおっ、すまんすまん!」


 ようやくゴリアテさんが、私をそっと地面へ降ろしてくれた。


 ……ふぅ。


 地面って、落ち着くね。


 私は服の乱れを直し、目の前の大男を見上げた。


 額に一本の角。


 全身を覆う毛。


 そして、見るからに鍛え上げられた筋肉。


 ドルステン魔国軍の将軍、ゴリアテさんだ。


 身長は三メートルほど。


 私も背が低い方じゃないんだけど、この人の前では見上げることになる。


「もうっ! びっくりしたじゃないですか!」


「がっはっはっ! いやあ、つい懐かしくなってな!」


「懐かしくなると人を抱えるんですか!?」


 ……いや。


 この人なら、やりそうだなぁ。


 ゴリアテさんは、ますます楽しそうに笑った。


「前にも、こうしてリアリス殿を運んだことがあったからな!」


「覚えてますよ! 忘れたくても忘れられません!」


 ……ああ。


 嫌な記憶が蘇ってきた。


 あれは、世界を救ったあとだった。


 各国の王様たちが集まって、世界中へ《モニター》で放送することになって。


 私は、みんなが平和に暮らせるようになったという話を届けるつもりでいたんだ。


 ……うん。


 そこまでは、よかった。


 ところが。


 気がついたら、ゴリアテさんに抱え上げられて。


 そのまま、王様たちの前へ運ばれて。


 ……そして。


 世界中に、私の顔が映されてしまったのだ!


 『世界を救った英雄』として!


 ……思い出しただけで、ちょっと恥ずかしい。


 あれ以来、町へ行くたびに声をかけられるようになったんだよねぇ。


 ……いや。


 救ったことは、後悔してないよ?


 してないけど。


 もうちょっと静かに暮らしたかったなぁ、とは思う。


「いやー! あれは、俺の人生でも特に重要な役目だったのでなぁ!」


 ゴリアテさんが、誇らしげに胸を張った。


 ……そうですか。


 大事なお仕事だったんですね。


 ……。


 …………。


 でも、そのお仕事のせいで、私は今でも英雄様と呼ばれてるんですけど!?


「もー、あのときは本当にびっくりしたんですから。次からは、せめて一言声をかけてくださいよ」


「がっはっはっ! 気をつけよう!」


 ……うん。


 たぶん、あんまり気をつけないだろうなぁ。


 私はため息をついてから、つられて笑ってしまった。


 悪気がないのは、よく分かっている。


 それどころか、本当に私と会えたことを喜んでくれているんだろう。


 ……まあ。


 毎回抱え上げられるのは、ちょっと困るんだけどね。


「……リアリスさん」


 横から、晴斗君の声がした。


「ん?」


 振り向くと、晴斗君が私とゴリアテさんを交互に見つめていた。


 何だか、情報が追いついていないような顔である。


「この……すごく大きい方、お知り合いなんですか?」


「あっ、そうそう。紹介してなかったね」


 私は、ゴリアテさんへ手を向けた。


「この人はゴリアテさん。ドルステン魔国軍の将軍様だよ」


「……将軍?」


「うん」


「……将軍!?」


 ……おっ。


 いい反応!


 ゴリアテさんは、そんな晴斗君を見て豪快に笑った。


「ゴリアテだー! がっはっはっ!」


「は、初めまして! 春原晴斗です!」


 晴斗君が、勢いよく頭を下げた。


「おお! 元気のいい若者ではないか!」


「ありがとうございます!」


 ……うん。


 ゴリアテさんも嬉しそうだ。


 私は、隣の桜花へ小声で話しかけた。


「晴斗君、驚いてるね」


「はい。ゴリアテ様は、とても立派な体格をされておりますので」


「……確かに」


 その言い方、すごく丁寧だね。


 でも、間違ってはいない。


 あの身体を見れば、初めて会った人は驚くだろう。


 晴斗君は少し落ち着いたのか、私へ耳打ちしてきた。


「リアリスさん……ものすごく豪快な方ですね……」


「はははっ。そうだね」


「しかも、将軍なんですよね?」


「うん。魔国軍の将軍さんだよ」


「……すごいですね」


 ……おや。


 さっきから『すごい』ばかりだね。


 まあ、気持ちは分かるけど。


 私だって、初めて会ったときは驚いたからねぇ。


「ところでリアリス殿!」


「はい?」


「今日は魔都に、何か用事でもあったのか?」


「ああ、そうなんです。ちょっと冒険者ギルドで待ち合わせをしてまして」


「ほう! そうであったか!」


 ゴリアテさんが、何度も頷いた。


 ……うん。


 この人、反応が全部大きいね。


「では、今日は仕方あるまいな!」


「……何がですか?」


「手合わせだ!」


 ……。


 …………。


 あっ。


 やっぱり、そこへ行くんだ。


「次に会ったときは、ぜひ手合わせを頼むぞ! 楽しみにしておるからな!」


「ははは……。また今度、機会があればね」


「うむ! 約束だぞ!」


 ……えっ。


 約束になっちゃった?


 いや、今、機会があればって言ったよね!?


「がっはっはっ! ではな、リアリス殿!」


 ゴリアテさんは、大きな手を振った。


 そして、悠々と大通りを歩いていく。


 ……うん。


 ものすごく目立つ背中だねぇ。


 ……というか。


 私の返事、ちゃんと聞いてたのかな。


 まあ、元気そうで何よりだ。


 私は、遠ざかっていくゴリアテさんの姿を見送った。


「……リアリスさん」


 晴斗君が、また声をかけてきた。


「ん? どうしたの?」


「……すごいですね」


 ……またそれ!?


「はははっ。そうだね」


「将軍って、あんな感じなんですね……」


「いや、魔国の将軍さんが全員あんな感じってわけじゃないと思うよ?」


 私は苦笑した。


 ゴリアテさんは、いろいろな意味で特別な人だ。


 力が強くて、豪快で、何より戦うことが大好き。


 でも、部下の兵士さんたちをまとめる仕事も、ちゃんとこなしている。


 ……たぶん。


 いや、失礼か。


 魔王様から将軍を任されているんだから、きっと優秀な人なんだろう。


「それにしても、リアリスさんに手合わせって……」


 晴斗君は、真面目な顔で考えていた。


「その……あの方も、相当強いんですよね?」


「もちろん強いよ。魔国軍の将軍さんだからね」


「それでも、リアリスさんに挑むんですか?」


「うん。ゴリアテさんは、いつもあんな感じなんだ」


 ……強い相手がいると、戦ってみたくなるらしい。


 私は、その気持ちがまったく分からないわけでもない。


 ただ、せっかく平和になったんだし、できれば穏やかに過ごしたいなぁ。


 ……なんて考えていたら。


「ゴリアテ様は、初めて魔国邸にいらっしゃった際にも、手合わせを申し出られました」


 桜花が、静かに口を開いた。


「そうそう。あのときも急だったんだよね」


 私は、頷いた。


 最初は、魔都のすぐ近くに人族の屋敷ができたことを心配していたんだっけ。


 戦争が終わったばかりだったから、その気持ちも分かる。


「そして、朝顔と手合わせをなさり、お負けになりました」


 ……。


 …………。


 ……あっ。


 桜花!?


「それ、ばらさないであげてよ、桜花……」


「……失礼いたしました」


 桜花が、すまなそうに頭を下げる。


 ……いや。


 その顔。


 ちょっと笑ってるよね?


 晴斗君は、私たちを見つめたまま固まっていた。


「……えっ?」


「……うん?」


「あの、今……朝顔さんって言いました?」


「うん。朝顔」


「さっき屋敷で出迎えてくれた、あの朝顔さんですか?」


「そうだよ」


 晴斗君は、ゴリアテさんが去っていった方向を見た。


 それから、もう一度私の顔を見る。


「……あの大きな将軍さんを?」


「うん」


「……朝顔さんが!?」


 ……おお。


 ものすごく驚いてる!


 でも、無理もないよね。


 さっき会った朝顔は、物静かで礼儀正しい女の子だ。


 見た目だけなら、あの三メートルの将軍さんに勝てるなんて、想像しにくいだろう。


「朝顔は、楓と同じくらい強いからね」


「……楓さんと?」


「うん」


 晴斗君が、さらに考え込む。


 ……あっ。


 晴斗君、楓とは毎日稽古してるんだった。


 それなら、少しは想像できるかな。


 いや。


 毎日まったく歯が立たない相手と同じくらい強いって言われても、困るか。


「……そうですか」


 晴斗君が、小さく頷いた。


 それから、ぼそっと呟く。


「僕、もう一度、皆さんの強さを考え直した方がいい気がしてきました……」


 ……あれ?


 何だか、ちょっと落ち込んでる?


「はははっ。そんなに難しく考えなくていいよ」


「でも、朝顔さんって、あんなに優しそうなのに……」


「優しいことと、強いことは別だからね」


「……確かに」


 晴斗君が、しみじみと頷いた。


 その横で、桜花が微笑んでいる。


 ……うん。


 桜花がにこにこしているのを見ると、何だか私も嬉しいねぇ。


 ……いや。


 よく考えたら、晴斗君の目の前で私も桜花も戦ったことはあるけど、朝顔の実力を見たことはなかったんだ。


 いきなり聞かされたら驚くのも当然か。


「それに、さっきゴリアテさん、リアリスさんにも手合わせを申し込んでましたよね……」


「うん。いつものことだよ」


「いつものこと……」


 晴斗君の声が、だんだん小さくなる。


 ……おや。


 完全に情報処理が追いついていないね。


 私は、苦笑しながら肩をすくめた。


「まあ、ゴリアテさんは元気だからねぇ」


「……元気、で済むんですね」


「うん」


「……すごい世界です」


 ……あっ。


 また『すごい』だ。


 今日は、何回言うんだろうね。


 ルナが、晴斗君の足元で欠伸をした。


「晴斗、歩かないのかにゃー?」


「あっ、そうだね」


 晴斗君が、ようやく顔を上げた。


「リアリスさん、すみません。ちょっと驚きすぎました」


「ううん。初めての魔国なんだし、驚くことがいっぱいあって当然だよ」


 私は笑顔で答えた。


 晴斗君は、照れくさそうに笑った。


「……何だか、今日だけで学校の授業何回分もの勉強をした気がします」


「ははは。まだ魔都に入って、そんなに経ってないけどね」


「……そうでした」


 ……うん。


 濃い午後だねぇ。


 でも、そろそろ行かないと。


 雪彦君を、いつまでも待たせるわけにはいかない。


「じゃあ、そろそろ冒険者ギルドへ向かおうか」


「はい!」


「かしこまりました」


「行くにゃー!」


 晴斗君が頷き、桜花が微笑み、ルナが尻尾を立てる。


 私は、もう一度大通りの先を見た。


 ……さて。


 雪彦君、元気にしてるかな。


 あの子のことだから、きっと今も頑張って修行しているんだろうね。


 久しぶりに会えるのが楽しみだ。


 ……まあ。


 ゴリアテさんに抱え上げられたせいで、少し寄り道が長くなっちゃったけど。


 そこは、ちゃんと謝っておこう。


 私は桜花と晴斗君、そしてルナを連れて、冒険者ギルドへ向かって歩き出した。

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