第1話:魔国への招待
晴斗君がルナを相棒にしてから、二か月が過ぎた。
あの大きな猫を屋敷に連れて帰った日のことは、今でもよく覚えている。
いや、正確には猫じゃなくて、Sランクのジャイアントサーベルタイガーなんだけどね。
しかも、同じSランクのモフ太と大喧嘩までしてくれた。二匹が元の大きさに戻ったときの晴斗君の顔は、なかなか忘れられない。
ただ、あれから屋敷で大きな騒ぎが起きることはなく、私たちは平和に暮らしていた。
少なくとも、私の目が届く範囲では。
……モフ太が時々ルナをじっと見ているのは、きっと気のせいだろう。
そんなことを考えながら、私は庭の花壇に水をやっていた。
朝の空気は気持ちがいい。葉についた水滴が光を受けて、小さな宝石のように輝いている。
「お父さん、こっちのお花、また咲いたよ」
隣にしゃがんでいたカトレアが、嬉しそうに私を呼んだ。
「おっ、本当だ。昨日まではつぼみだったのにね」
「うん。こっちはもう少し時間がかかるかな?」
カトレアが指差した先には、まだ固く閉じたつぼみがある。
私は土の様子を確かめてから、頷いた。
「そうだね。慌てなくても、ちゃんと咲いてくれると思うよ」
「ふふっ。じゃあ、楽しみに待ってよう」
カトレアは小さく笑い、花のそばに落ちていた枯れ葉を拾った。
こうして一緒に花の世話をするのは、すっかり朝の日課になっている。
最初の頃は私が教えることの方が多かったけど、最近はカトレアの方が花の変化に気づくのが早い。名前も私よりよく覚えているんじゃないかな。
娘の成長というのは、嬉しいものだねぇ。
……なんて、ちょっと年寄りみたいな感想かな。
まあ、転生前の年齢まで考えたら、間違ってはいないんだけど。
「モフ太、こっちのお水もお願いしていい?」
「承知いたしました、カトレア」
カトレアの足元にいたモフ太が、丁寧に頭を下げた。
赤いリボンをつけた小さな熊が、じょうろを運んでいる。
何とも平和な光景だ。
事情を知らない人が見たら、どう思うんだろう。
……いや、この王都ではもう、モフ太のことを知っている人も多いか。
私はじょうろを受け取り、奥の花壇へ水を撒いた。
そのとき、芝生の向こうから元気な声が聞こえてきた。
「晴斗ー! 早くするにゃー!」
「待って、ルナ! まだ時間あるから!」
振り返ると、制服姿の晴斗君が玄関から出てくるところだった。
その前を、全長五十センチほどのルナがぴょんぴょん跳ねている。
あの巨大な牙を持つ魔獣が、今ではすっかり屋敷の朝の風景に溶け込んでいた。
……見た目は、ちょっと大きめの猫なんだよね。
「おはよう、晴斗君」
「あっ、リアリスさん! おはようございます!」
「今日も学校?」
「はい! 午前中は歴史の授業を受けて、午後はギルドに行こうと思ってます」
「そっか。忙しそうだね」
「でも、楽しいですよ。知らないことばかりなので」
晴斗君はそう言って、少し照れたように笑った。
日本から突然この世界へ飛ばされてきた少年が、今では自分の予定を立てて、学校と冒険者ギルドを行き来している。
最初に屋敷へ来た頃を思うと、ずいぶん頼もしくなった。
もちろん、まだ十七歳だし、知らないこともたくさんある。
それでも、自分でやりたいことを見つけて行動できるようになったのは、素直に嬉しい。
「ギルドでは、今日は何をする予定?」
「昨日は王都の荷運びを手伝ったので、今日は薬草の採取依頼を見てみようかなって思ってます。天気もいいですし」
「外へ出るなら、ルナと一緒にね」
「もちろんです! ルナがいてくれるから、僕も安心して依頼を受けられます」
「任せるにゃー!」
ルナが胸を張った。
……猫が胸を張るって、こういう感じになるんだ。
晴斗君が笑いながら、ルナの頭を撫でる。
この二か月、二人はうまくやっているみたいだ。
薬草採取や王都の雑用といったFランクの依頼を、こつこつこなしているらしい。学校では特に歴史に興味を持ったようで、時々夕食の席でも覚えたことを話してくれる。
私も知らなかった小さな地域の話が出てくることがあって、なかなか面白い。
冒険者としての腕前は、まだ修行中だ。
楓との稽古も続けているし、少しずつ体力がついてきたとは思う。でも、強い魔獣と正面から戦える段階ではない。
実際、王都の外で薬草を探していたとき、Dランクの魔獣と出くわしたことが何度かあったそうだ。
そのたびにルナが前へ出て、あっという間に追い払ってくれたという。
晴斗君も同行したメイドも怪我はなく、毎回ちゃんと帰ってきている。
頼れる相棒がいるというのは、ありがたいことだね。
……ただし、ルナ本人は戦ったというより、少しじゃれたつもりかもしれない。
相手からすれば、たまったものじゃないだろうけど。
「無理だけはしないでね。依頼を達成するより、ちゃんと帰ってくる方が大事だから」
「はい。そこは気をつけます」
「それと、薬草を見つけても、周りをよく確認すること。下ばっかり見てると危ないよ」
「楓さんにも言われました」
「さすが楓。ちゃんと教えてくれてるんだね」
私は感心して頷いた。
晴斗君は苦笑しながら、少しだけ肩をすくめる。
「僕が夢中になって採ってたら、楓さんに『……上も見る』って注意されまして」
……うん。
言いそうだ。
あの子らしい、実に短い指導である。
「じゃあ、今日も忘れずにね」
「はい!」
晴斗君は元気よく返事をして、カトレアにも声をかけた。
「カトレアちゃん、そろそろ行こうか」
「うん! お父さん、いってきます!」
「いってらっしゃい。二人とも、気をつけてね」
「はい!」
カトレアが手を振った。
ルナも嬉しそうに尻尾を立て、晴斗君の足元へ駆け寄る。
「にゃーも行くにゃー!」
……元気だなぁ。
私は玄関へ向かう二人と一匹を見送り、ふと足元へ目を落とした。
モフ太が、静かに立っていた。
「モフ太、今日はカトレアが学校だから、しばらく休憩かな?」
「はい。必要がございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
「ありがとう。いつもカトレアを守ってくれて助かってるよ」
頭を撫でると、モフ太はきちんと姿勢を正した。
「身に余るお言葉でございます」
……立派だねぇ。
あの日あんなに怒っていた熊と、同じ熊だとは思えない。
私は思わず笑い、花壇の道具を片付けることにした。
◇
さて。
晴斗君は学校と冒険者ギルド。
カトレアも学校。
では、私はというと。
……いつもの、のんびり生活である。
庭の花の世話を終えたら、屋敷の様子を見て回って、時々雑貨屋や美容サロンにも顔を出す。
もちろん、桜花やフラワーズとの稽古も欠かしていない。
この前も楓と刀を交えたし、杏子や藤が一緒に稽古へ参加することもある。
皆、少しずつ動きが良くなっている。私自身も、刀を振っている時間は結構好きだ。
……まあ、私が本気を出すと稽古にならないので、そこは気をつけている。
家族と過ごす時間は大切だし、せっかく平和になったんだから、こういう毎日を楽しみたい。
冒険者ギルドの方には、最近あまり顔を出していない。
いや、仕事が嫌になったわけじゃないよ?
ただ、私が行くと、どうしても騒ぎになってしまうのだ。
以前ほど大げさなことにはならなくなったものの、受付へ向かうだけで周りの冒険者たちが振り返る。
依頼を見ようとすると『英雄様が何か受けるらしいぞ』なんて話が広がることもある。
……普通に依頼書を読みたいだけなんだけどね。
世界を救ったことを後悔しているわけじゃない。
もちろん、そんなことはない。
でも、そろそろ落ち着いてくれてもいいんじゃないかなぁ。
そんなことを考えながら午前中の用事を済ませ、私は桜花と一緒に居間でくつろいでいた。
窓の外には、よく手入れされた庭が広がっている。
さっきまで賑やかだった屋敷も、今は少し静かだ。
テーブルの上には紅茶と、巴さんが用意してくれた焼き菓子。
私はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。
……ああ。
落ち着く。
「平和だねぇ」
思わず口から出た。
向かいに座っていた桜花が、柔らかく微笑む。
「はい、平和でございます」
その返事に、私も笑った。
何も起きない時間というのは、実に貴重だ。
少し前まで、国同士の問題があったり、邪神が出てきたり、戦神と戦うことになったり。
……改めて考えると、とんでもない出来事ばかりだった気がする。
最初の頃、私はただのんびり暮らしたかっただけなんだけどなぁ。
いや、今ものんびり暮らしたいと思ってるよ?
ただ、この世界のお約束というのは、なかなか私を放っておいてくれないらしい。
……困ったものだ。
「リアリス様?」
「ん? どうしたの、桜花」
「先ほどから、楽しそうに微笑んでいらっしゃいましたので」
「あはは。平和っていいなぁって思ってただけだよ」
「そうでございますね」
桜花は頷き、静かに紅茶へ口をつけた。
その姿を見ていたら、ふと、あることを思い出した。
「……あっ、そういえば」
「はい?」
「雪彦君が、魔国に遊びに来てって言ってたね」
桜花が、すぐに顔を上げた。
「はい。以前、お誘いをいただいておりました」
「だよねぇ。あのときは、また都合のいい日にって話をしたんだった」
雪彦君。
日本からこの世界へ勇者として召喚された、今では二十代半ばの青年だ。
初めて会った頃はいろいろあったけど、今では私のことを師匠と呼んで慕ってくれている。
あの真っ直ぐな性格は、見ていて飽きない。
ちょっと早とちりするところはあるけど、ちゃんと自分で反省できる子だ。
最近は魔国で活動しているらしく、少し前に会ったときも元気そうだった。
「明日、行ってみようか。雪彦君のところに」
「よろしいかと思います。お供いたします」
「うん。ありがとう」
私は窓の外へ目を向けた。
天気も良さそうだし、久しぶりに魔都を歩いてみるのもいいかもしれない。
魔国邸からなら、そんなに遠くない。
その気になれば転移で一瞬だけど、たまにはのんびり街を歩きたいんだよね。
……あっ。
でも、相手にも予定があるか。
いきなり訪ねて迷惑をかけるわけにもいかない。
「じゃあ、まずは都合を確認しないとね」
「はい。セバスにお願いしましょうか?」
「そうだね。学校のことも聞いておきたいし、ちょっと呼んでみようか」
私は屋敷の連絡用の道具を使い、セバスへ声をかけた。
しばらくして、扉を控えめに叩く音が響く。
「失礼いたします」
「どうぞー」
扉が開き、見慣れた執事服のセバスが入ってきた。
いつ見ても姿勢がいい。
背筋はまっすぐ、歩き方にも無駄がない。
……同じ家に暮らしているのに、どうしてこうも私と雰囲気が違うんだろうね。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「あっ、セバス。ごめんね、呼び出しちゃって」
「滅相もございません。何なりとお申しつけください」
セバスはいつもの落ち着いた口調で答えた。
忙しいはずなのに、そんな様子を一切見せない。
私はカップを置き、まず気になっていたことを尋ねる。
「学校と孤児院の方は、変わりない?」
「はい。各国の学校は、いずれも順調に運営されております。孤児院につきましても、新たに少数の子供を受け入れましたが、大きな問題は報告されておりません」
「そっか、よかった」
私は、思わず表情を緩めた。
学校も孤児院も、作って終わりというわけにはいかない。
むしろ、人が集まってからが本番だ。
子供たちが安心して学べること。
行く場所のなかった子が、食事をとって、眠って、明日のことを考えられること。
そういう当たり前の毎日を守っていくのが、一番大事だと思っている。
もちろん、私は毎日の運営を全部見ているわけじゃない。
セバスをはじめ、現場で頑張ってくれている家族や各国の協力者たちがいるから、こうして平穏に続いているのだ。
「新しく来た子たちも、少しずつ慣れてくれるといいね」
「はい。皆が落ち着いて暮らせるよう、引き続き見守ってまいります」
「ありがとう、セバス。何か困ったことがあったら、すぐ相談してね」
「お心遣い、ありがとうございます」
セバスが、丁寧に頭を下げた。
私は笑って頷いた。
この人がいてくれると、本当に心強い。
「それで、もう一つお願いがあるんだけど」
「はい、旦那様」
「明日、雪彦君に会いに魔国へ行こうと思ってるんだ。都合がいいか、連絡を取ってもらってもいいかな?」
「雪彦様でございますね。かしこまりました。確認し、ご連絡いたします」
「よろしくね」
セバスは一礼すると、ロビーの方へ戻っていった。
……さて。
これで明日の予定は、先方のお返事次第だ。
私は紅茶を飲み直し、隣の桜花へ視線を向けた。
「この前会ったばかりだけど、楽しみだね」
「はい。雪彦様がお元気にされているかも気になりますが、今回はご一緒の方々ともお話しできるかもしれませんね」
「一緒の人たち?」
「はい。雪彦様のお仲間でございます」
……あっ。
そういえば。
「雪彦君の冒険者仲間って、ちゃんと話したことあったかな?」
「初めて雪彦様にお会いした際、お近くにいらっしゃったと思います。確か、女性の方が多かったかと」
私は記憶をたどった。
最初に雪彦君と会ったのは、フォーサイド魔法国の冒険者ギルドだったはず。
あの頃は、勇者に会えるというだけでちょっとわくわくしていたんだよね。
それから、いろいろあって模擬戦をして。
……うん。
あっという間に終わっちゃったんだった。
「そういえば、女性冒険者さんに囲まれてた気がする」
「はい」
「でも、どんな人たちだったか、あんまり覚えてないなぁ」
桜花は少し考えてから、頷いた。
「リアリス様は、あのとき雪彦様とのお話に集中されておりましたから」
「なるほど。それなら仕方ないね」
……いや。
よく考えたら、ちゃんと紹介してもらう機会もなかったんだ。
初対面からいきなり模擬戦、というのも、今思えば随分おかしな出会いだった。
まあ、楽しかったからいいんだけど。
「明日、一緒にいたら挨拶したいね」
「はい。どのような方々なのか、私も楽しみでございます」
私たちは、そんなことを話しながらしばらく紅茶を飲んでいた。
やがて、再び扉を叩く音がした。
「失礼いたします、旦那様」
「セバス、どうぞー」
セバスが居間へ入ってくる。
さっきと変わらず、落ち着いた様子だ。
「雪彦様と連絡が取れました。明日はご予定がないとのことです。午後から魔都の冒険者ギルドでお待ちくださるそうでございます」
「おお、よかった!」
私は思わず笑顔になった。
せっかく誘ってもらっていたんだし、都合が合ってよかった。
「セバス、ありがとう。助かったよ」
「とんでもございません。これも執事の務めでございますので」
「そう言ってもらえるとありがたいけど、ちゃんと感謝はさせてね」
セバスは一瞬だけ目を細めた。
「……恐れ入ります、旦那様」
そう言って一礼し、仕事へ戻っていった。
……うん。
なんだか少し嬉しそうだったね。
私は桜花に向き直った。
「じゃあ、明日の午後は魔国だね」
「はい。お支度は、私の方でも確認しておきます」
「ありがとう。あっ、そうだ」
もう一人、声をかけてみたい子がいた。
「晴斗君も誘ってみようか。まだ魔国には行ったことないでしょ?」
桜花が微笑んだ。
「それがよろしいかと思います」
「だよね。雪彦君とも顔見知りだし、観光も兼ねて」
晴斗君は、こちらへ来てから少しずつ世界を知ろうとしている。
学校の授業も大切だけど、実際にその国へ行って、自分の目で見ることも勉強になるはずだ。
しかも魔国。
日本にいた頃の感覚だと、魔王や魔族の国という言葉だけで、ちょっと身構えるかもしれない。
私も最初に来る前は、どんな場所だろうって思ってたからね。
今では、美味しい食べ物もあるし、優しい人もいるし、普通に暮らす人たちの町だと知っている。
……まあ、魔王様は大きいし、ゴリアテさんなんかもかなり大きいんだけど。
あれは、別の意味で驚くかもしれないなぁ。
私は、晴斗君がどんな反応をするか想像して、少し笑ってしまった。
◇
夕方になり、屋敷の玄関から賑やかな声が聞こえてきた。
「ただいまー!」
「ただいま戻りましたー!」
カトレアと晴斗君だ。
どうやら、ちょうど同じ頃に帰ってきたらしい。
カトレアはニーナちゃんの家へ遊びに行っていたし、晴斗君は冒険者ギルドへ寄っていたはずだ。
その少し後ろから、聞き慣れた二匹の声も届いた。
「本日もお疲れさまでございました、カトレア」
「晴斗、早く紅茶飲むにゃー!」
……うん。
ルナは今日も元気そうだ。
私は居間から廊下へ声をかけた。
「おかえりー!」
しばらくして、扉が開いた。
「お父さん、ただいまー!」
「おかえり、カトレア」
カトレアが笑顔で近づいてきたので、私は自然と手を伸ばして頭を撫でた。
つやのある髪が、指先をさらりと滑る。
「今日も楽しかった?」
「うん! ニーナちゃんといっぱいお話ししたよ。アレックスも元気だった」
「そっか、それはよかった」
モフ太がカトレアの隣で、いつもどおりきちんと座っている。
その姿を見ていると、何だか安心するんだよね。
……あれ?
今、ルナの方を見たような気がしたけど。
まあ、気のせいだろう。
「リアリスさん、相変わらずブレないですね……」
晴斗君が、ちょっと呆れたように言った。
「え?」
「いえ、その。カトレアちゃんが帰ってくると、必ず頭を撫でるなぁと思いまして」
「そりゃあ、帰ってきたら嬉しいからね」
私は、何を当たり前のことをという顔で答えた。
カトレアも、嬉しそうに笑っている。
……あれ。
晴斗君、何でそんな顔するの?
「本当に、いつもどおりですね」
「あはは。いつもどおりが一番だよ」
「……そうですね」
晴斗君も笑った。
私はカトレアに隣へ座るよう勧め、晴斗君には正面の席を示した。
カトレアは私の隣へ腰を下ろし、晴斗君も向かいのソファへ座る。
モフ太はカトレアの足元に落ち着いた。
ルナは晴斗君のそばで丸くなっている。
こうしてみると、二人ともちゃんと自分の居場所を見つけたんだなぁ。
少し前まで、ここにルナはいなかった。
晴斗君も、まだ自分の進む道を迷っていた。
それが今では、冒険者の依頼を終えて、相棒と一緒に帰ってくる。
何だか、頼もしいね。
「お疲れさまでございます」
ユリが、紅茶を運んできてくれた。
「カトレア様、晴斗様。お帰りなさいませ」
「ただいま、ユリ」
「ありがとうございます、ユリさん」
ユリは二人の前へカップを置き、私と桜花の分も新しく淹れ直してくれた。
「ありがとう、ユリ」
「どういたしまして」
温かな紅茶の香りが、居間に広がる。
私たちはそれぞれカップを手に取り、ひと息ついた。
「そういえば、晴斗君。今日の依頼はどうだった?」
「はい! 薬草を採りに行ってきました。前より見つけるのが早くなった気がします」
「おお、いいね」
「ただ、帰り道で魔獣を見かけまして……」
「えっ、大丈夫だった?」
私は思わず聞き返した。
晴斗君は、慌てて手を振った。
「あっ、大丈夫です! 僕たちには気づかなかったみたいですし、ルナもずっと周りを見てくれていたので」
「にゃーが守ったにゃー!」
「うん、ありがとう。ルナには本当に助けてもらってるよ」
晴斗君が頭を撫でると、ルナは満足そうに目を細めた。
……まったく。
可愛い顔をしているけど、本来はSランクの魔獣なんだよね。
私はそのことを知っているから安心できるものの、周囲の冒険者さんたちはどう思ってるんだろう。
あのときシルベスターに事情は伝えたんだった。
問題があれば、連絡が来るはずだ。
「ちゃんと周囲を見られるようになってきたんだね。いいことだよ」
「ありがとうございます!」
晴斗君は、照れくさそうに笑った。
私は紅茶をひと口飲み、そうだ、と話を切り出す。
「ところで晴斗君、明日の午後は何か予定ある?」
「明日ですか? 学校は午前中に行くつもりですけど、午後はまだ決めてないです」
「じゃあ、ちょうどよかった。明日の午後、私たち魔国へ行くんだけど、一緒に来る?」
晴斗君の手が止まった。
カップを持ったまま、目を丸くしている。
「……魔国?」
「うん。この前、雪彦君と約束したからね。会いに行こうと思って」
次の瞬間だった。
「魔国! 魔族! 魔王!」
……おお。
すごい勢い。
晴斗君が、ぱっと顔を輝かせた。
あまりに分かりやすい反応で、私は思わず笑ってしまう。
「晴斗君、ブレないね……」
「えっ?」
「いや、さっき私のことをブレないって言ってたからさ」
「あっ……」
晴斗君は、ようやく自分が声を上げたことに気づいたらしい。
少し頬を赤くした。
「すみません。魔国って聞いたら、つい……」
「気持ちは分かるよ。日本にいた頃なら、魔王の国へ行けるなんて思わないもんね」
「そうなんですよ! やっぱり一度は見てみたくて!」
……うんうん。
分かる。
初めて異世界に来た頃の私も、そんなことを考えていた気がする。
まあ、実際に行ってみると、意外と普通の暮らしがあるんだけどね。
「でも、本当に僕も一緒に行っていいんですか?」
「もちろん。晴斗君、魔国にはまだ行ったことないでしょ?」
「はい。学校で教わったことはありますけど……実際に行くのは初めてです」
「じゃあ、観光も兼ねてどうかな。雪彦君にも会えるし、町を歩くだけでも面白いと思うよ」
晴斗君は、隣のルナへ視線を向けた。
ルナも、期待するように尻尾を動かしている。
「……行きたいです!」
「おっ、決まり?」
「はい! ぜひお願いします!」
「うん、じゃあ一緒に行こう」
私は笑顔で頷いた。
晴斗君が、ほっとしたように笑う。
「ありがとうございます! 魔国の町って、どんな感じなんでしょう。やっぱり大きい魔族の人が歩いてるんですかね?」
「大きい人もいるよ。でも、普通の人たちと同じように、お店で買い物したり、仕事をしたりしてるんだ」
「へぇ……!」
「きっと、行ってみたら印象が変わると思うよ」
そのとき、隣のカトレアが興味深そうに顔を上げた。
「お父さん、明日は魔国なの?」
「そうだよ。雪彦君に会いに行ってくるつもり」
「雪彦お兄ちゃん、元気かな?」
「この前は元気そうだったよ。明日もきっと、元気にしてると思う」
「そっか。会ったらよろしくね」
「うん、伝えておくよ」
カトレアは微笑み、紅茶を飲んだ。
私は娘の横顔を見て、少しだけ首を傾げる。
「カトレアも行ってみる?」
「ううん。明日はニーナちゃんと約束してるから」
「あっ、そうなんだ」
「うん。だから、お父さんたちは楽しんできてね」
……なるほど。
それなら、無理に誘うこともないか。
カトレアにも友達との予定があるんだし、そっちを大切にしてほしい。
……ちょっとだけ寂しい気もするけど。
まあ、帰ってくればまた会えるからね。
「分かった。じゃあ、帰ったら魔国の話を聞かせてあげるよ」
「楽しみにしてる!」
私はカトレアの頭をもう一度撫でた。
晴斗君が向かいで、小さく笑っている。
……ん?
何か言いたそうだね。
「リアリスさんって、やっぱりブレないですね」
「またそれ?」
「いえ、何でもありません!」
……なんだろう。
娘の頭を撫でるのって、そんなに珍しいことかなぁ。
私は首を傾げたが、カトレアが嬉しそうなので、深く考えないことにした。
◇
翌朝。
いつもどおり家族と朝食をとり、私は午前中の用事を済ませた。
今日は午後から出かけるので、急ぎの確認だけ先に終わらせておく。
学校と孤児院の件はセバスがきちんと見てくれているし、各地の屋敷も変わりなく運営されている。
雑貨屋からも、特に困った報告は来ていない。
……よし。
安心して遊びに行けそうだ。
そういうわけで、昼食の時間になった。
食堂へ向かうと、カトレアと晴斗君も午前中の学校を終えて戻ってきていた。
「お父さん、おかえりー」
「ただいま、カトレア。学校はどうだった?」
「楽しかったよ。今日はお友達と一緒に勉強したの」
「そっか。よかったね」
晴斗君も、いつものように丁寧に挨拶してくれる。
「リアリスさん、午前中の授業、終わりました!」
「お疲れさま。午後は魔国だから、少し休んでおこうね」
「はい!」
いつもより返事に勢いがある。
……よっぽど楽しみなんだなぁ。
食事をしながら、晴斗君はさっそく魔国について質問してきた。
「リアリスさん、魔国の冒険者ギルドって、シルク王国と同じような感じなんですか?」
「うん、基本的な仕組みはそんなに変わらないよ。いろんな種族の冒険者さんがいるけどね」
「そうなんですね……。魔族の人が冒険者をしてるのって、何か新鮮です」
「そうだよね。でも、ギルドでは魔族の人たちも普通に依頼を受けてるんだよ」
「なるほど。見てみたいなぁ」
晴斗君は、期待を隠そうともしていない。
その隣ではルナが、すでに食べ終えた皿を名残惜しそうに見ていた。
「ルナ、まだ食べるの?」
「お腹いっぱいにゃー。でも、もうちょっと食べられるにゃー」
「それ、いっぱいじゃないでしょ」
晴斗君が苦笑する。
私も思わず笑ってしまった。
小さくなっていると忘れそうになるけど、食欲まで普通の猫と同じとは限らない。
……巴さん、いつもありがとうございます。
私は心の中で礼を言い、食事を終えた。
食後は少し休んでから、いよいよ出発の準備だ。
「それじゃあ、そろそろ魔国に行く準備をしようか」
「かしこまりました」
桜花が、すぐに立ち上がる。
晴斗君も椅子から腰を浮かせた。
「はい! 準備してきます!」
「あはは。そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
「すみません。ちょっと楽しみで……!」
「うん、そのくらい楽しみにしてもらえると、誘った甲斐があるね」
晴斗君は照れ笑いを浮かべ、部屋へ向かった。
その後ろをルナが追いかける。
「晴斗、にゃーも行くにゃー!」
「分かってるよ。準備しようね」
……微笑ましいねぇ。
私は二人を見送った。
すると、カトレアが近づいてきた。
「お父さん、私もニーナちゃんのお家に行ってきていい?」
「うん、もちろんいいよ」
私は頷いてから、いつもの約束を確認することにした。
「ただし、モフ太をちゃんと連れていくこと。知らない人についていかないこと。それから、夕食より前に帰ってくること。いいね?」
「はーい!」
カトレアが、元気よく返事をした。
……うん。
ちゃんと聞いてくれている。
私は安心して微笑んだ。
「何かあったら、すぐ連絡してね」
「分かった!」
カトレアは自分の部屋へ戻り、外出の準備を始めた。
私はその背中を見送り、ふと考える。
……ああ、そうか。
今日、カトレアが行くのは、またニーナちゃんのお家か。
最近、本当に仲がいいんだねぇ。
そういえば、アレックスも元気そうだったって昨日話していたし。
……モフ太はどう思ってるんだろう。
まあ、護衛はいつも真面目にしてくれている。
私が心配することじゃないね。
◇
しばらくして、ロビーに家族が集まった。
まず、カトレア。
その腕の中には、赤いリボンをつけたモフ太が収まっている。
モフ太は、いつもの落ち着いた顔で前を向いていた。
「モフ太、今日もカトレアをお願いね」
「かしこまりました、ご主人様。必ずお守りいたします」
「ありがとう。頼りにしてるよ」
頭を撫でると、モフ太は礼儀正しく一礼した。
カトレアは、そんなモフ太を大切そうに抱き直す。
「お父さん、いってきます!」
「いってらっしゃい。楽しんでおいで」
「うん!」
カトレアが笑顔で手を振り、モフ太と一緒に玄関へ向かった。
……あっという間に行っちゃった。
少し前までは、出かけるたびに何度も振り返ってくれたような気がするんだけど。
それだけ安心して遊びに行けるようになったってことだね。
嬉しいことだ。
……ちょっとだけ、寂しいけど。
「リアリス様」
「ん?」
桜花が、静かに声をかけてきた。
「カトレアは、とても楽しそうに出かけられましたね」
「うん。ニーナちゃんと会うのが楽しみなんだろうね」
「はい」
桜花はそれ以上何も言わず、優しく微笑んでいた。
……あれ。
今のって、もしかして慰められた?
まあ、いいか。
私は気持ちを切り替え、ロビーへ戻ってきた晴斗君を見た。
旅支度といっても、大げさな荷物はない。
向こうには屋敷があるし、必要なものは用意できるからね。
晴斗君も身軽な服装で、足元にはルナが座っている。
「リアリスさん、準備できました!」
「おっ、早いね」
「いつでも行けます!」
その返事に、私は笑った。
……すごい張り切りようだ。
「ルナも大丈夫?」
「はいにゃ! にゃーも準備できたにゃー!」
ルナが嬉しそうに尻尾を振る。
私は桜花へ視線を向けた。
「桜花もいい?」
「はい。いつでもお供できます」
「ありがとう」
全員揃った。
あとは、いつもの扉を通るだけだ。
「さて、私たちもそろそろ魔国邸に向かおうか」
「はい!」
晴斗君が大きく頷いた。
私は廊下を進み、屋敷に設置してある《簡易転移》の扉の前へ立った。
この扉も、今となってはすっかり日常の道具だ。
最初に各地の屋敷をつないだ頃は、便利になったなぁと思ったものだけど。
今では、離れた国へ行くにも、ちょっと隣の部屋へ移動するような感覚になっている。
……改めて考えると、ものすごいことだよね。
「この扉を通ったら、もう魔国なんですよね?」
晴斗君が、少し緊張した声で尋ねた。
「そうだよ。出た先は私たちの魔国邸。そこから魔都へ向かうつもり」
「本当に、すごいですね……」
「ははは。便利でしょ?」
「便利なんて言葉で済ませていいんですかね……」
晴斗君が困ったように笑った。
……うん。
たまにそういうこと言われるんだよね。
私としては、便利なのが一番なんだけど。
桜花が扉の前で足を止め、穏やかに微笑んだ。
「晴斗様、どうぞご安心ください。いつも使用している扉でございます」
「はい。桜花さんがそう言うなら安心です」
晴斗君が、もう一度頷いた。
ルナは扉の前まで歩いてきて、不思議そうに鼻先を近づけている。
「ここから魔国に行くにゃー?」
「そうそう。ルナも初めてだね」
「楽しみにゃー!」
……よし。
それじゃあ、出発だ。
私は扉に手をかけ、ゆっくり開いた。
向こう側には、見慣れた魔国邸の廊下が続いている。
「それじゃ、行こうか」
「はい!」
晴斗君が元気よく答えた。
桜花がその隣に並び、ルナが尻尾を立ててついてくる。
私は二人と一匹を連れて、《簡易転移》の扉をくぐった。
久しぶりの魔国。
そして、雪彦君との再会。
……さて。
明るい午後になりそうだね。
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