↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
161/178

第1話:魔国への招待

 晴斗君がルナを相棒にしてから、二か月が過ぎた。


 あの大きな猫を屋敷に連れて帰った日のことは、今でもよく覚えている。


 いや、正確には猫じゃなくて、Sランクのジャイアントサーベルタイガーなんだけどね。


 しかも、同じSランクのモフ太と大喧嘩までしてくれた。二匹が元の大きさに戻ったときの晴斗君の顔は、なかなか忘れられない。


 ただ、あれから屋敷で大きな騒ぎが起きることはなく、私たちは平和に暮らしていた。


 少なくとも、私の目が届く範囲では。


 ……モフ太が時々ルナをじっと見ているのは、きっと気のせいだろう。


 そんなことを考えながら、私は庭の花壇に水をやっていた。


 朝の空気は気持ちがいい。葉についた水滴が光を受けて、小さな宝石のように輝いている。


「お父さん、こっちのお花、また咲いたよ」


 隣にしゃがんでいたカトレアが、嬉しそうに私を呼んだ。


「おっ、本当だ。昨日まではつぼみだったのにね」


「うん。こっちはもう少し時間がかかるかな?」


 カトレアが指差した先には、まだ固く閉じたつぼみがある。


 私は土の様子を確かめてから、頷いた。


「そうだね。慌てなくても、ちゃんと咲いてくれると思うよ」


「ふふっ。じゃあ、楽しみに待ってよう」


 カトレアは小さく笑い、花のそばに落ちていた枯れ葉を拾った。


 こうして一緒に花の世話をするのは、すっかり朝の日課になっている。


 最初の頃は私が教えることの方が多かったけど、最近はカトレアの方が花の変化に気づくのが早い。名前も私よりよく覚えているんじゃないかな。


 娘の成長というのは、嬉しいものだねぇ。


 ……なんて、ちょっと年寄りみたいな感想かな。


 まあ、転生前の年齢まで考えたら、間違ってはいないんだけど。


「モフ太、こっちのお水もお願いしていい?」


「承知いたしました、カトレア」


 カトレアの足元にいたモフ太が、丁寧に頭を下げた。


 赤いリボンをつけた小さな熊が、じょうろを運んでいる。


 何とも平和な光景だ。


 事情を知らない人が見たら、どう思うんだろう。


 ……いや、この王都ではもう、モフ太のことを知っている人も多いか。


 私はじょうろを受け取り、奥の花壇へ水を撒いた。


 そのとき、芝生の向こうから元気な声が聞こえてきた。


「晴斗ー! 早くするにゃー!」


「待って、ルナ! まだ時間あるから!」


 振り返ると、制服姿の晴斗君が玄関から出てくるところだった。


 その前を、全長五十センチほどのルナがぴょんぴょん跳ねている。


 あの巨大な牙を持つ魔獣が、今ではすっかり屋敷の朝の風景に溶け込んでいた。


 ……見た目は、ちょっと大きめの猫なんだよね。


「おはよう、晴斗君」


「あっ、リアリスさん! おはようございます!」


「今日も学校?」


「はい! 午前中は歴史の授業を受けて、午後はギルドに行こうと思ってます」


「そっか。忙しそうだね」


「でも、楽しいですよ。知らないことばかりなので」


 晴斗君はそう言って、少し照れたように笑った。


 日本から突然この世界へ飛ばされてきた少年が、今では自分の予定を立てて、学校と冒険者ギルドを行き来している。


 最初に屋敷へ来た頃を思うと、ずいぶん頼もしくなった。


 もちろん、まだ十七歳だし、知らないこともたくさんある。


 それでも、自分でやりたいことを見つけて行動できるようになったのは、素直に嬉しい。


「ギルドでは、今日は何をする予定?」


「昨日は王都の荷運びを手伝ったので、今日は薬草の採取依頼を見てみようかなって思ってます。天気もいいですし」


「外へ出るなら、ルナと一緒にね」


「もちろんです! ルナがいてくれるから、僕も安心して依頼を受けられます」


「任せるにゃー!」


 ルナが胸を張った。


 ……猫が胸を張るって、こういう感じになるんだ。


 晴斗君が笑いながら、ルナの頭を撫でる。


 この二か月、二人はうまくやっているみたいだ。


 薬草採取や王都の雑用といったFランクの依頼を、こつこつこなしているらしい。学校では特に歴史に興味を持ったようで、時々夕食の席でも覚えたことを話してくれる。


 私も知らなかった小さな地域の話が出てくることがあって、なかなか面白い。


 冒険者としての腕前は、まだ修行中だ。


 楓との稽古も続けているし、少しずつ体力がついてきたとは思う。でも、強い魔獣と正面から戦える段階ではない。


 実際、王都の外で薬草を探していたとき、Dランクの魔獣と出くわしたことが何度かあったそうだ。


 そのたびにルナが前へ出て、あっという間に追い払ってくれたという。


 晴斗君も同行したメイドも怪我はなく、毎回ちゃんと帰ってきている。


 頼れる相棒がいるというのは、ありがたいことだね。


 ……ただし、ルナ本人は戦ったというより、少しじゃれたつもりかもしれない。


 相手からすれば、たまったものじゃないだろうけど。


「無理だけはしないでね。依頼を達成するより、ちゃんと帰ってくる方が大事だから」


「はい。そこは気をつけます」


「それと、薬草を見つけても、周りをよく確認すること。下ばっかり見てると危ないよ」


「楓さんにも言われました」


「さすが楓。ちゃんと教えてくれてるんだね」


 私は感心して頷いた。


 晴斗君は苦笑しながら、少しだけ肩をすくめる。


「僕が夢中になって採ってたら、楓さんに『……上も見る』って注意されまして」


 ……うん。


 言いそうだ。


 あの子らしい、実に短い指導である。


「じゃあ、今日も忘れずにね」


「はい!」


 晴斗君は元気よく返事をして、カトレアにも声をかけた。


「カトレアちゃん、そろそろ行こうか」


「うん! お父さん、いってきます!」


「いってらっしゃい。二人とも、気をつけてね」


「はい!」


 カトレアが手を振った。


 ルナも嬉しそうに尻尾を立て、晴斗君の足元へ駆け寄る。


「にゃーも行くにゃー!」


 ……元気だなぁ。


 私は玄関へ向かう二人と一匹を見送り、ふと足元へ目を落とした。


 モフ太が、静かに立っていた。


「モフ太、今日はカトレアが学校だから、しばらく休憩かな?」


「はい。必要がございましたら、いつでもお呼びくださいませ」


「ありがとう。いつもカトレアを守ってくれて助かってるよ」


 頭を撫でると、モフ太はきちんと姿勢を正した。


「身に余るお言葉でございます」


 ……立派だねぇ。


 あの日あんなに怒っていた熊と、同じ熊だとは思えない。


 私は思わず笑い、花壇の道具を片付けることにした。


     ◇


 さて。


 晴斗君は学校と冒険者ギルド。


 カトレアも学校。


 では、私はというと。


 ……いつもの、のんびり生活である。


 庭の花の世話を終えたら、屋敷の様子を見て回って、時々雑貨屋や美容サロンにも顔を出す。


 もちろん、桜花やフラワーズとの稽古も欠かしていない。


 この前も楓と刀を交えたし、杏子や藤が一緒に稽古へ参加することもある。


 皆、少しずつ動きが良くなっている。私自身も、刀を振っている時間は結構好きだ。


 ……まあ、私が本気を出すと稽古にならないので、そこは気をつけている。


 家族と過ごす時間は大切だし、せっかく平和になったんだから、こういう毎日を楽しみたい。


 冒険者ギルドの方には、最近あまり顔を出していない。


 いや、仕事が嫌になったわけじゃないよ?


 ただ、私が行くと、どうしても騒ぎになってしまうのだ。


 以前ほど大げさなことにはならなくなったものの、受付へ向かうだけで周りの冒険者たちが振り返る。


 依頼を見ようとすると『英雄様が何か受けるらしいぞ』なんて話が広がることもある。


 ……普通に依頼書を読みたいだけなんだけどね。


 世界を救ったことを後悔しているわけじゃない。


 もちろん、そんなことはない。


 でも、そろそろ落ち着いてくれてもいいんじゃないかなぁ。


 そんなことを考えながら午前中の用事を済ませ、私は桜花と一緒に居間でくつろいでいた。


 窓の外には、よく手入れされた庭が広がっている。


 さっきまで賑やかだった屋敷も、今は少し静かだ。


 テーブルの上には紅茶と、巴さんが用意してくれた焼き菓子。


 私はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。


 ……ああ。


 落ち着く。


「平和だねぇ」


 思わず口から出た。


 向かいに座っていた桜花が、柔らかく微笑む。


「はい、平和でございます」


 その返事に、私も笑った。


 何も起きない時間というのは、実に貴重だ。


 少し前まで、国同士の問題があったり、邪神が出てきたり、戦神と戦うことになったり。


 ……改めて考えると、とんでもない出来事ばかりだった気がする。


 最初の頃、私はただのんびり暮らしたかっただけなんだけどなぁ。


 いや、今ものんびり暮らしたいと思ってるよ?


 ただ、この世界のお約束というのは、なかなか私を放っておいてくれないらしい。


 ……困ったものだ。


「リアリス様?」


「ん? どうしたの、桜花」


「先ほどから、楽しそうに微笑んでいらっしゃいましたので」


「あはは。平和っていいなぁって思ってただけだよ」


「そうでございますね」


 桜花は頷き、静かに紅茶へ口をつけた。


 その姿を見ていたら、ふと、あることを思い出した。


「……あっ、そういえば」


「はい?」


「雪彦君が、魔国に遊びに来てって言ってたね」


 桜花が、すぐに顔を上げた。


「はい。以前、お誘いをいただいておりました」


「だよねぇ。あのときは、また都合のいい日にって話をしたんだった」


 雪彦君。


 日本からこの世界へ勇者として召喚された、今では二十代半ばの青年だ。


 初めて会った頃はいろいろあったけど、今では私のことを師匠と呼んで慕ってくれている。


 あの真っ直ぐな性格は、見ていて飽きない。


 ちょっと早とちりするところはあるけど、ちゃんと自分で反省できる子だ。


 最近は魔国で活動しているらしく、少し前に会ったときも元気そうだった。


「明日、行ってみようか。雪彦君のところに」


「よろしいかと思います。お供いたします」


「うん。ありがとう」


 私は窓の外へ目を向けた。


 天気も良さそうだし、久しぶりに魔都を歩いてみるのもいいかもしれない。


 魔国邸からなら、そんなに遠くない。


 その気になれば転移で一瞬だけど、たまにはのんびり街を歩きたいんだよね。


 ……あっ。


 でも、相手にも予定があるか。


 いきなり訪ねて迷惑をかけるわけにもいかない。


「じゃあ、まずは都合を確認しないとね」


「はい。セバスにお願いしましょうか?」


「そうだね。学校のことも聞いておきたいし、ちょっと呼んでみようか」


 私は屋敷の連絡用の道具を使い、セバスへ声をかけた。


 しばらくして、扉を控えめに叩く音が響く。


「失礼いたします」


「どうぞー」


 扉が開き、見慣れた執事服のセバスが入ってきた。


 いつ見ても姿勢がいい。


 背筋はまっすぐ、歩き方にも無駄がない。


 ……同じ家に暮らしているのに、どうしてこうも私と雰囲気が違うんだろうね。


「お呼びでしょうか、旦那様」


「あっ、セバス。ごめんね、呼び出しちゃって」


「滅相もございません。何なりとお申しつけください」


 セバスはいつもの落ち着いた口調で答えた。


 忙しいはずなのに、そんな様子を一切見せない。


 私はカップを置き、まず気になっていたことを尋ねる。


「学校と孤児院の方は、変わりない?」


「はい。各国の学校は、いずれも順調に運営されております。孤児院につきましても、新たに少数の子供を受け入れましたが、大きな問題は報告されておりません」


「そっか、よかった」


 私は、思わず表情を緩めた。


 学校も孤児院も、作って終わりというわけにはいかない。


 むしろ、人が集まってからが本番だ。


 子供たちが安心して学べること。


 行く場所のなかった子が、食事をとって、眠って、明日のことを考えられること。


 そういう当たり前の毎日を守っていくのが、一番大事だと思っている。


 もちろん、私は毎日の運営を全部見ているわけじゃない。


 セバスをはじめ、現場で頑張ってくれている家族や各国の協力者たちがいるから、こうして平穏に続いているのだ。


「新しく来た子たちも、少しずつ慣れてくれるといいね」


「はい。皆が落ち着いて暮らせるよう、引き続き見守ってまいります」


「ありがとう、セバス。何か困ったことがあったら、すぐ相談してね」


「お心遣い、ありがとうございます」


 セバスが、丁寧に頭を下げた。


 私は笑って頷いた。


 この人がいてくれると、本当に心強い。


「それで、もう一つお願いがあるんだけど」


「はい、旦那様」


「明日、雪彦君に会いに魔国へ行こうと思ってるんだ。都合がいいか、連絡を取ってもらってもいいかな?」


「雪彦様でございますね。かしこまりました。確認し、ご連絡いたします」


「よろしくね」


 セバスは一礼すると、ロビーの方へ戻っていった。


 ……さて。


 これで明日の予定は、先方のお返事次第だ。


 私は紅茶を飲み直し、隣の桜花へ視線を向けた。


「この前会ったばかりだけど、楽しみだね」


「はい。雪彦様がお元気にされているかも気になりますが、今回はご一緒の方々ともお話しできるかもしれませんね」


「一緒の人たち?」


「はい。雪彦様のお仲間でございます」


 ……あっ。


 そういえば。


「雪彦君の冒険者仲間って、ちゃんと話したことあったかな?」


「初めて雪彦様にお会いした際、お近くにいらっしゃったと思います。確か、女性の方が多かったかと」


 私は記憶をたどった。


 最初に雪彦君と会ったのは、フォーサイド魔法国の冒険者ギルドだったはず。


 あの頃は、勇者に会えるというだけでちょっとわくわくしていたんだよね。


 それから、いろいろあって模擬戦をして。


 ……うん。


 あっという間に終わっちゃったんだった。


「そういえば、女性冒険者さんに囲まれてた気がする」


「はい」


「でも、どんな人たちだったか、あんまり覚えてないなぁ」


 桜花は少し考えてから、頷いた。


「リアリス様は、あのとき雪彦様とのお話に集中されておりましたから」


「なるほど。それなら仕方ないね」


 ……いや。


 よく考えたら、ちゃんと紹介してもらう機会もなかったんだ。


 初対面からいきなり模擬戦、というのも、今思えば随分おかしな出会いだった。


 まあ、楽しかったからいいんだけど。


「明日、一緒にいたら挨拶したいね」


「はい。どのような方々なのか、私も楽しみでございます」


 私たちは、そんなことを話しながらしばらく紅茶を飲んでいた。


 やがて、再び扉を叩く音がした。


「失礼いたします、旦那様」


「セバス、どうぞー」


 セバスが居間へ入ってくる。


 さっきと変わらず、落ち着いた様子だ。


「雪彦様と連絡が取れました。明日はご予定がないとのことです。午後から魔都の冒険者ギルドでお待ちくださるそうでございます」


「おお、よかった!」


 私は思わず笑顔になった。


 せっかく誘ってもらっていたんだし、都合が合ってよかった。


「セバス、ありがとう。助かったよ」


「とんでもございません。これも執事の務めでございますので」


「そう言ってもらえるとありがたいけど、ちゃんと感謝はさせてね」


 セバスは一瞬だけ目を細めた。


「……恐れ入ります、旦那様」


 そう言って一礼し、仕事へ戻っていった。


 ……うん。


 なんだか少し嬉しそうだったね。


 私は桜花に向き直った。


「じゃあ、明日の午後は魔国だね」


「はい。お支度は、私の方でも確認しておきます」


「ありがとう。あっ、そうだ」


 もう一人、声をかけてみたい子がいた。


「晴斗君も誘ってみようか。まだ魔国には行ったことないでしょ?」


 桜花が微笑んだ。


「それがよろしいかと思います」


「だよね。雪彦君とも顔見知りだし、観光も兼ねて」


 晴斗君は、こちらへ来てから少しずつ世界を知ろうとしている。


 学校の授業も大切だけど、実際にその国へ行って、自分の目で見ることも勉強になるはずだ。


 しかも魔国。


 日本にいた頃の感覚だと、魔王や魔族の国という言葉だけで、ちょっと身構えるかもしれない。


 私も最初に来る前は、どんな場所だろうって思ってたからね。


 今では、美味しい食べ物もあるし、優しい人もいるし、普通に暮らす人たちの町だと知っている。


 ……まあ、魔王様は大きいし、ゴリアテさんなんかもかなり大きいんだけど。


 あれは、別の意味で驚くかもしれないなぁ。


 私は、晴斗君がどんな反応をするか想像して、少し笑ってしまった。


     ◇


 夕方になり、屋敷の玄関から賑やかな声が聞こえてきた。


「ただいまー!」


「ただいま戻りましたー!」


 カトレアと晴斗君だ。


 どうやら、ちょうど同じ頃に帰ってきたらしい。


 カトレアはニーナちゃんの家へ遊びに行っていたし、晴斗君は冒険者ギルドへ寄っていたはずだ。


 その少し後ろから、聞き慣れた二匹の声も届いた。


「本日もお疲れさまでございました、カトレア」


「晴斗、早く紅茶飲むにゃー!」


 ……うん。


 ルナは今日も元気そうだ。


 私は居間から廊下へ声をかけた。


「おかえりー!」


 しばらくして、扉が開いた。


「お父さん、ただいまー!」


「おかえり、カトレア」


 カトレアが笑顔で近づいてきたので、私は自然と手を伸ばして頭を撫でた。


 つやのある髪が、指先をさらりと滑る。


「今日も楽しかった?」


「うん! ニーナちゃんといっぱいお話ししたよ。アレックスも元気だった」


「そっか、それはよかった」


 モフ太がカトレアの隣で、いつもどおりきちんと座っている。


 その姿を見ていると、何だか安心するんだよね。


 ……あれ?


 今、ルナの方を見たような気がしたけど。


 まあ、気のせいだろう。


「リアリスさん、相変わらずブレないですね……」


 晴斗君が、ちょっと呆れたように言った。


「え?」


「いえ、その。カトレアちゃんが帰ってくると、必ず頭を撫でるなぁと思いまして」


「そりゃあ、帰ってきたら嬉しいからね」


 私は、何を当たり前のことをという顔で答えた。


 カトレアも、嬉しそうに笑っている。


 ……あれ。


 晴斗君、何でそんな顔するの?


「本当に、いつもどおりですね」


「あはは。いつもどおりが一番だよ」


「……そうですね」


 晴斗君も笑った。


 私はカトレアに隣へ座るよう勧め、晴斗君には正面の席を示した。


 カトレアは私の隣へ腰を下ろし、晴斗君も向かいのソファへ座る。


 モフ太はカトレアの足元に落ち着いた。


 ルナは晴斗君のそばで丸くなっている。


 こうしてみると、二人ともちゃんと自分の居場所を見つけたんだなぁ。


 少し前まで、ここにルナはいなかった。


 晴斗君も、まだ自分の進む道を迷っていた。


 それが今では、冒険者の依頼を終えて、相棒と一緒に帰ってくる。


 何だか、頼もしいね。


「お疲れさまでございます」


 ユリが、紅茶を運んできてくれた。


「カトレア様、晴斗様。お帰りなさいませ」


「ただいま、ユリ」


「ありがとうございます、ユリさん」


 ユリは二人の前へカップを置き、私と桜花の分も新しく淹れ直してくれた。


「ありがとう、ユリ」


「どういたしまして」


 温かな紅茶の香りが、居間に広がる。


 私たちはそれぞれカップを手に取り、ひと息ついた。


「そういえば、晴斗君。今日の依頼はどうだった?」


「はい! 薬草を採りに行ってきました。前より見つけるのが早くなった気がします」


「おお、いいね」


「ただ、帰り道で魔獣を見かけまして……」


「えっ、大丈夫だった?」


 私は思わず聞き返した。


 晴斗君は、慌てて手を振った。


「あっ、大丈夫です! 僕たちには気づかなかったみたいですし、ルナもずっと周りを見てくれていたので」


「にゃーが守ったにゃー!」


「うん、ありがとう。ルナには本当に助けてもらってるよ」


 晴斗君が頭を撫でると、ルナは満足そうに目を細めた。


 ……まったく。


 可愛い顔をしているけど、本来はSランクの魔獣なんだよね。


 私はそのことを知っているから安心できるものの、周囲の冒険者さんたちはどう思ってるんだろう。


 あのときシルベスターに事情は伝えたんだった。


 問題があれば、連絡が来るはずだ。


「ちゃんと周囲を見られるようになってきたんだね。いいことだよ」


「ありがとうございます!」


 晴斗君は、照れくさそうに笑った。


 私は紅茶をひと口飲み、そうだ、と話を切り出す。


「ところで晴斗君、明日の午後は何か予定ある?」


「明日ですか? 学校は午前中に行くつもりですけど、午後はまだ決めてないです」


「じゃあ、ちょうどよかった。明日の午後、私たち魔国へ行くんだけど、一緒に来る?」


 晴斗君の手が止まった。


 カップを持ったまま、目を丸くしている。


「……魔国?」


「うん。この前、雪彦君と約束したからね。会いに行こうと思って」


 次の瞬間だった。


「魔国! 魔族! 魔王!」


 ……おお。


 すごい勢い。


 晴斗君が、ぱっと顔を輝かせた。


 あまりに分かりやすい反応で、私は思わず笑ってしまう。


「晴斗君、ブレないね……」


「えっ?」


「いや、さっき私のことをブレないって言ってたからさ」


「あっ……」


 晴斗君は、ようやく自分が声を上げたことに気づいたらしい。


 少し頬を赤くした。


「すみません。魔国って聞いたら、つい……」


「気持ちは分かるよ。日本にいた頃なら、魔王の国へ行けるなんて思わないもんね」


「そうなんですよ! やっぱり一度は見てみたくて!」


 ……うんうん。


 分かる。


 初めて異世界に来た頃の私も、そんなことを考えていた気がする。


 まあ、実際に行ってみると、意外と普通の暮らしがあるんだけどね。


「でも、本当に僕も一緒に行っていいんですか?」


「もちろん。晴斗君、魔国にはまだ行ったことないでしょ?」


「はい。学校で教わったことはありますけど……実際に行くのは初めてです」


「じゃあ、観光も兼ねてどうかな。雪彦君にも会えるし、町を歩くだけでも面白いと思うよ」


 晴斗君は、隣のルナへ視線を向けた。


 ルナも、期待するように尻尾を動かしている。


「……行きたいです!」


「おっ、決まり?」


「はい! ぜひお願いします!」


「うん、じゃあ一緒に行こう」


 私は笑顔で頷いた。


 晴斗君が、ほっとしたように笑う。


「ありがとうございます! 魔国の町って、どんな感じなんでしょう。やっぱり大きい魔族の人が歩いてるんですかね?」


「大きい人もいるよ。でも、普通の人たちと同じように、お店で買い物したり、仕事をしたりしてるんだ」


「へぇ……!」


「きっと、行ってみたら印象が変わると思うよ」


 そのとき、隣のカトレアが興味深そうに顔を上げた。


「お父さん、明日は魔国なの?」


「そうだよ。雪彦君に会いに行ってくるつもり」


「雪彦お兄ちゃん、元気かな?」


「この前は元気そうだったよ。明日もきっと、元気にしてると思う」


「そっか。会ったらよろしくね」


「うん、伝えておくよ」


 カトレアは微笑み、紅茶を飲んだ。


 私は娘の横顔を見て、少しだけ首を傾げる。


「カトレアも行ってみる?」


「ううん。明日はニーナちゃんと約束してるから」


「あっ、そうなんだ」


「うん。だから、お父さんたちは楽しんできてね」


 ……なるほど。


 それなら、無理に誘うこともないか。


 カトレアにも友達との予定があるんだし、そっちを大切にしてほしい。


 ……ちょっとだけ寂しい気もするけど。


 まあ、帰ってくればまた会えるからね。


「分かった。じゃあ、帰ったら魔国の話を聞かせてあげるよ」


「楽しみにしてる!」


 私はカトレアの頭をもう一度撫でた。


 晴斗君が向かいで、小さく笑っている。


 ……ん?


 何か言いたそうだね。


「リアリスさんって、やっぱりブレないですね」


「またそれ?」


「いえ、何でもありません!」


 ……なんだろう。


 娘の頭を撫でるのって、そんなに珍しいことかなぁ。


 私は首を傾げたが、カトレアが嬉しそうなので、深く考えないことにした。


     ◇


 翌朝。


 いつもどおり家族と朝食をとり、私は午前中の用事を済ませた。


 今日は午後から出かけるので、急ぎの確認だけ先に終わらせておく。


 学校と孤児院の件はセバスがきちんと見てくれているし、各地の屋敷も変わりなく運営されている。


 雑貨屋からも、特に困った報告は来ていない。


 ……よし。


 安心して遊びに行けそうだ。


 そういうわけで、昼食の時間になった。


 食堂へ向かうと、カトレアと晴斗君も午前中の学校を終えて戻ってきていた。


「お父さん、おかえりー」


「ただいま、カトレア。学校はどうだった?」


「楽しかったよ。今日はお友達と一緒に勉強したの」


「そっか。よかったね」


 晴斗君も、いつものように丁寧に挨拶してくれる。


「リアリスさん、午前中の授業、終わりました!」


「お疲れさま。午後は魔国だから、少し休んでおこうね」


「はい!」


 いつもより返事に勢いがある。


 ……よっぽど楽しみなんだなぁ。


 食事をしながら、晴斗君はさっそく魔国について質問してきた。


「リアリスさん、魔国の冒険者ギルドって、シルク王国と同じような感じなんですか?」


「うん、基本的な仕組みはそんなに変わらないよ。いろんな種族の冒険者さんがいるけどね」


「そうなんですね……。魔族の人が冒険者をしてるのって、何か新鮮です」


「そうだよね。でも、ギルドでは魔族の人たちも普通に依頼を受けてるんだよ」


「なるほど。見てみたいなぁ」


 晴斗君は、期待を隠そうともしていない。


 その隣ではルナが、すでに食べ終えた皿を名残惜しそうに見ていた。


「ルナ、まだ食べるの?」


「お腹いっぱいにゃー。でも、もうちょっと食べられるにゃー」


「それ、いっぱいじゃないでしょ」


 晴斗君が苦笑する。


 私も思わず笑ってしまった。


 小さくなっていると忘れそうになるけど、食欲まで普通の猫と同じとは限らない。


 ……巴さん、いつもありがとうございます。


 私は心の中で礼を言い、食事を終えた。


 食後は少し休んでから、いよいよ出発の準備だ。


「それじゃあ、そろそろ魔国に行く準備をしようか」


「かしこまりました」


 桜花が、すぐに立ち上がる。


 晴斗君も椅子から腰を浮かせた。


「はい! 準備してきます!」


「あはは。そんなに慌てなくても大丈夫だよ」


「すみません。ちょっと楽しみで……!」


「うん、そのくらい楽しみにしてもらえると、誘った甲斐があるね」


 晴斗君は照れ笑いを浮かべ、部屋へ向かった。


 その後ろをルナが追いかける。


「晴斗、にゃーも行くにゃー!」


「分かってるよ。準備しようね」


 ……微笑ましいねぇ。


 私は二人を見送った。


 すると、カトレアが近づいてきた。


「お父さん、私もニーナちゃんのお家に行ってきていい?」


「うん、もちろんいいよ」


 私は頷いてから、いつもの約束を確認することにした。


「ただし、モフ太をちゃんと連れていくこと。知らない人についていかないこと。それから、夕食より前に帰ってくること。いいね?」


「はーい!」


 カトレアが、元気よく返事をした。


 ……うん。


 ちゃんと聞いてくれている。


 私は安心して微笑んだ。


「何かあったら、すぐ連絡してね」


「分かった!」


 カトレアは自分の部屋へ戻り、外出の準備を始めた。


 私はその背中を見送り、ふと考える。


 ……ああ、そうか。


 今日、カトレアが行くのは、またニーナちゃんのお家か。


 最近、本当に仲がいいんだねぇ。


 そういえば、アレックスも元気そうだったって昨日話していたし。


 ……モフ太はどう思ってるんだろう。


 まあ、護衛はいつも真面目にしてくれている。


 私が心配することじゃないね。


     ◇


 しばらくして、ロビーに家族が集まった。


 まず、カトレア。


 その腕の中には、赤いリボンをつけたモフ太が収まっている。


 モフ太は、いつもの落ち着いた顔で前を向いていた。


「モフ太、今日もカトレアをお願いね」


「かしこまりました、ご主人様。必ずお守りいたします」


「ありがとう。頼りにしてるよ」


 頭を撫でると、モフ太は礼儀正しく一礼した。


 カトレアは、そんなモフ太を大切そうに抱き直す。


「お父さん、いってきます!」


「いってらっしゃい。楽しんでおいで」


「うん!」


 カトレアが笑顔で手を振り、モフ太と一緒に玄関へ向かった。


 ……あっという間に行っちゃった。


 少し前までは、出かけるたびに何度も振り返ってくれたような気がするんだけど。


 それだけ安心して遊びに行けるようになったってことだね。


 嬉しいことだ。


 ……ちょっとだけ、寂しいけど。


「リアリス様」


「ん?」


 桜花が、静かに声をかけてきた。


「カトレアは、とても楽しそうに出かけられましたね」


「うん。ニーナちゃんと会うのが楽しみなんだろうね」


「はい」


 桜花はそれ以上何も言わず、優しく微笑んでいた。


 ……あれ。


 今のって、もしかして慰められた?


 まあ、いいか。


 私は気持ちを切り替え、ロビーへ戻ってきた晴斗君を見た。


 旅支度といっても、大げさな荷物はない。


 向こうには屋敷があるし、必要なものは用意できるからね。


 晴斗君も身軽な服装で、足元にはルナが座っている。


「リアリスさん、準備できました!」


「おっ、早いね」


「いつでも行けます!」


 その返事に、私は笑った。


 ……すごい張り切りようだ。


「ルナも大丈夫?」


「はいにゃ! にゃーも準備できたにゃー!」


 ルナが嬉しそうに尻尾を振る。


 私は桜花へ視線を向けた。


「桜花もいい?」


「はい。いつでもお供できます」


「ありがとう」


 全員揃った。


 あとは、いつもの扉を通るだけだ。


「さて、私たちもそろそろ魔国邸に向かおうか」


「はい!」


 晴斗君が大きく頷いた。


 私は廊下を進み、屋敷に設置してある《簡易転移》の扉の前へ立った。


 この扉も、今となってはすっかり日常の道具だ。


 最初に各地の屋敷をつないだ頃は、便利になったなぁと思ったものだけど。


 今では、離れた国へ行くにも、ちょっと隣の部屋へ移動するような感覚になっている。


 ……改めて考えると、ものすごいことだよね。


「この扉を通ったら、もう魔国なんですよね?」


 晴斗君が、少し緊張した声で尋ねた。


「そうだよ。出た先は私たちの魔国邸。そこから魔都へ向かうつもり」


「本当に、すごいですね……」


「ははは。便利でしょ?」


「便利なんて言葉で済ませていいんですかね……」


 晴斗君が困ったように笑った。


 ……うん。


 たまにそういうこと言われるんだよね。


 私としては、便利なのが一番なんだけど。


 桜花が扉の前で足を止め、穏やかに微笑んだ。


「晴斗様、どうぞご安心ください。いつも使用している扉でございます」


「はい。桜花さんがそう言うなら安心です」


 晴斗君が、もう一度頷いた。


 ルナは扉の前まで歩いてきて、不思議そうに鼻先を近づけている。


「ここから魔国に行くにゃー?」


「そうそう。ルナも初めてだね」


「楽しみにゃー!」


 ……よし。


 それじゃあ、出発だ。


 私は扉に手をかけ、ゆっくり開いた。


 向こう側には、見慣れた魔国邸の廊下が続いている。


「それじゃ、行こうか」


「はい!」


 晴斗君が元気よく答えた。


 桜花がその隣に並び、ルナが尻尾を立ててついてくる。


 私は二人と一匹を連れて、《簡易転移》の扉をくぐった。


 久しぶりの魔国。


 そして、雪彦君との再会。


 ……さて。


 明るい午後になりそうだね。

毎日お読みいただき本当にありがとうございます!


もし「面白い!」「完結まで駆け抜けてほしい!」と思っていただけたら、

ページ下部の【ブックマーク追加】や【⭐⭐⭐⭐⭐(評価ポイント)】で応援していただけると、執筆の最大の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。