第10話:番外編!その毛並み、夢か幻か
ご主人様から、お呼びがかかった。
珍しいことだ。
私にはカトレアの護衛という大切な務めがある。ご主人様もそれをご存じなので、よほどの用事がない限り、わざわざ私だけを呼び出されることはない。
……何か、特別なご依頼だろうか。
私は寝床を離れ、毛並みを整えてから廊下へ出た。
赤いリボンに乱れはない。
足元も軽い。
うむ。いつ呼び出されても恥ずかしくない姿だ。
居間へ向かう途中、窓から差し込む光が廊下を明るく照らしていた。
今日も穏やかな一日になりそうである。
ただし、ご主人様のお呼びとあっては油断できない。
何しろ、あのお方は時折、我々の想像をはるかに超えることをなさる。
……かつて森の奥で暮らしていた私が、今では立派な屋敷の二階に自分専用の寝床を持っているのだ。
何が起きても不思議ではない。
私は気を引き締め、居間の扉をくぐった。
「失礼いたします。モフ太、参りました」
「あっ、モフ太! 来てくれたんだね!」
ご主人様が、ぱっと顔を輝かせた。
いつになく楽しそうな笑顔である。
……ふむ。
やはり、ただの用事ではなさそうだ。
「お呼びと伺いました。何なりとお申しつけください」
「うんうん! 今日はね、モフ太にすっごくいいことをしてあげようと思って!」
……すっごく、いいこと。
私の耳が、自然と前を向いた。
ご主人様はしゃがみ込み、私と目を合わせた。
「モフ太のモフモフレベルを、もっとアップさせようと思うんだ!」
……何と?
私は瞬きをした。
聞き間違いではあるまいな。
モフモフレベルを。
もっと。
アップ?
……お待ちください。
私の毛並みは、すでに最高品質である。
カトレアからいただいた名前に恥じない、見事なモフモフ。
アレックスにも負けない。
キャッツにも負けない。
まして、最近屋敷へやって来た、あの口の悪い猫と比べるまでもない。
これ以上、何を望むというのか。
私は自分の胸元を見下ろした。
整った毛の流れ。
ふっくらとした質感。
柔らかさと艶を兼ね備えた、理想の姿。
……しかし。
ご主人様は「もっと」とおっしゃった。
この世に、私の知らないモフモフの高みが存在するというのか。
……存在するのなら。
そこへ行かない理由があるだろうか。
ない。
断じて、ない。
「ご主人様!」
思わず、声が大きくなった。
「ぜひ! ぜひともお願いいたします!」
「おおっ、いい返事!」
ご主人様が嬉しそうに笑った。
私は前脚を揃え、深々と頭を下げた。
……最高品質の、その先。
まだ見ぬ毛並みの世界。
もし本当に到達できたなら、カトレアはどれほど喜んでくださるだろう。
いつもより長く撫でてくださるかもしれない。
抱きついてくださるかもしれない。
もしかすると、頬ずりまで。
……おお。
考えただけで、胸が熱くなる。
これは、何としても成し遂げねば。
「じゃあモフ太、こっちにおいで!」
「はい!」
私は、ご主人様のあとをついていった。
◇
案内されたのは、屋敷の大浴場だった。
清潔な床。
湯気の立つ大きな浴槽。
温かな空気が、体を包んでいる。
……ふむ。
入浴、でございますか。
もちろん、体を清潔に保つことは大切だ。
私も日頃から毛並みの手入れには気を配っている。
だが、それだけで最高品質をさらに上回れるものだろうか。
ご主人様は鼻歌まじりに準備を進めていらっしゃる。
私は邪魔にならない場所に座り、じっと見守った。
「じゃーん!」
ご主人様が、得意げに両手を広げた。
次の瞬間、目の前に見慣れない容器が二つ現れる。
片方は、背の高い白い容器。
もう片方は、淡い金色の容器。
どちらにも、立派な犬の絵が描かれていた。
……犬?
私は首を傾げた。
なぜ、ここで犬が出てくるのだろう。
私が熊であることを、ご主人様はご存じのはずだが。
「モフ太、見て見て! 大型犬用の超高級シャンプーとリンス!」
ご主人様が、二つの容器を誇らしげに掲げた。
「今日はこれを使います!」
……しゃんぷー。
りんす。
聞き慣れない言葉である。
大型犬用という部分は、何となく理解できる。
だが、犬に用いる物を熊へ使うとは、いかなる発想なのだろう。
「ご主人様。恐れながら、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「うん? 何かな?」
「そちらは、どのような道具なのでしょう」
「ああ、毛を洗って、ふわっふわにするためのものだよ!」
……毛を、洗う。
そして、ふわっふわに。
私は思わず容器を凝視した。
そのようなことができるのか。
あんな小さな容器で。
「しかもね、これ、すっごくいいやつなんだ!」
「……それほどに?」
「うん! 日本でも、いいお値段がすると思うよ!」
……日本。
ご主人様の故郷にある、特別な品らしい。
なるほど。
それなら、私の知らない技術であることにも納得がいく。
何しろご主人様の故郷には、驚くべき物が数多く存在するのだから。
ご主人様は容器を並べ、満足げに頷いた。
「よーし。まずはシャンプーからね!」
「承知いたしました」
私は背筋を伸ばした。
……といっても、どのような作業なのかまるで分からない。
ご主人様はそんな私を見て笑った。
「まあ、いいからいいから。気持ちよくしてあげるからね!」
その笑顔を見た途端、不思議と疑問が消えた。
ご主人様がそうおっしゃるのなら、間違いない。
私は静かに前脚を揃え、準備が整うのを待った。
◇
最初に、温かな湯が背中を流れた。
……ほう。
これは、なかなか。
体の隅々まで温まるような、心地よい温度だった。
ご主人様は手のひらで湯をすくい、首元から背中へ丁寧にかけてくださる。
赤いリボンは濡れないように外していただいた。
……気配りまで完璧である。
私は、改めてご主人様への敬意を深めた。
「熱くない?」
「はい。ちょうどよい温度でございます」
「そっか、よかった!」
ご主人様は白い容器を手に取り、掌へ何かを出した。
とろりとした液体。
ほのかに、花のような香りがする。
それを背中へ広げると、みるみる泡が立ち始めた。
……泡。
……何と。
私の背中に、白く柔らかな泡が増えていく。
ご主人様の指が、毛の流れに沿って動いた。
泡が毛の根元まで行き渡り、肌を優しく撫でていく。
……これは。
……おお。
何という心地よさ。
私は目を細めた。
「気持ちいい?」
「……はい。たいへん……心地よく……」
返事が、少々ゆっくりになってしまった。
ご主人様が、楽しそうに笑う。
「モフ太、すごく幸せそうな顔してる!」
……それは、そうでしょう。
これほど丁寧に洗っていただけるとは、予想していなかった。
前脚の付け根。
背中の真ん中。
耳の後ろ。
普段、自分では手入れしにくい場所まで、くまなく洗ってくださる。
指先が耳の後ろを通った瞬間、私は危うく声を漏らしかけた。
……おお。
そこは。
そこは、反則でございます。
「モフ太、ここが好きなんだねぇ」
「……ご主人様。恐れ入りますが……もう少し……」
「あはは! いいよ!」
……何という寛大なお方だ。
私は、すっかり身を任せた。
しばらくして、泡がきれいに洗い流される。
濡れた毛並みが、いつもとは違う感触になっていた。
……ふむ。
少し軽くなったような気がする。
だが、まだ終わりではないらしい。
ご主人様が、今度は淡い金色の容器を持ち上げた。
「次はリンスだよ!」
……りんす。
先ほどの、しゃんぷーとは別なのか。
私は首を傾げた。
ご主人様は、再び私の毛へ何かを馴染ませていく。
今度は泡が少ない。
代わりに、毛の一本一本が滑らかに整っていくような不思議な感覚があった。
……何と。
この違いは、いったい。
ご主人様の指が背中を滑る。
引っかかりがない。
自分の毛並みが、まるで別の物になっていくようだ。
私は思わず前脚を見た。
濡れているため、まだはっきりとは分からない。
だが、何かが起きている。
確実に。
……これが。
ご主人様の故郷の技術。
恐るべし、日本。
私は心の中で、静かに頭を下げた。
◇
「じゃあ、よーく流すよ!」
ご主人様が、再び温かな湯をかけた。
毛の間に残っていたものが洗い流されていく。
鼻先へ、ほのかな香りが届いた。
清潔で、優しい香りだ。
……ああ。
これは、いい。
私は深く息を吸った。
ご主人様は大きなバスタオルを広げ、私の体を包んでくださった。
「はい、拭くよー!」
柔らかな布が、背中を押さえる。
次に、前脚。
胸元。
お腹。
隅々まで水気を吸い取っていく。
……ふむ。
これも、たいへん丁寧である。
私のようなSランクの魔獣を、ご主人様自らここまで世話してくださるとは。
何という贅沢なのだろう。
「モフ太、ちょっとじっとしててね」
「はい」
ご主人様が、見慣れない道具を取り出した。
片手で持てるほどの大きさで、細長い部分がついている。
……何でしょう。
次の瞬間。
ふわあっ。
温かい風が、私の背中へ吹きつけた。
……おおっ!?
私は思わず、耳を動かした。
「びっくりした?」
「……少々」
「あはは。ドライヤーだよ。これで乾かすんだ」
……どらいやー。
なるほど。
温かい風を出す道具らしい。
ご主人様は風を適度に離しながら当て、片方の手で毛をかき分けてくださる。
濡れて寝ていた毛が、少しずつ立ち上がっていく。
背中が軽い。
胸元が柔らかい。
耳の周りまで、ふんわりとしてくる。
……おや。
これは。
……これは、まさか。
私は胸の奥が騒ぐのを感じた。
まだ、直接触っていない。
だが分かる。
何か、尋常ではないことが起きている。
ご主人様が最後に櫛を通してくださった。
毛並みが、滑らかに揃っていく。
一度。
二度。
そして、三度。
櫛が通るたび、私の体から光がこぼれているような気がした。
……光?
……いえ、これは。
毛艶でございますか。
私は息を呑んだ。
「よーし、できた!」
ご主人様が、満足げに手を打った。
私の前へ、小さな鏡を置いてくださる。
「モフ太、見てごらん!」
私は、おそるおそる覗き込んだ。
……誰だ。
そこに映っているのは。
豊かな毛並み。
見事な艶。
体を包む、柔らかな輪郭。
ふんわりと膨らんだ頬。
耳の先まで、丁寧に整っている。
……間違いなく、私だ。
しかし。
私の知っている私ではない。
……何という。
何ということだ。
「どう? すごいでしょう!」
ご主人様の声が、誇らしげに響いた。
「モフ太、今までモフモフレベル八十くらいだったとしたら、もう三百だね!」
……三百?
私は、もう一度自分の姿を見た。
八十から、三百。
それは、単に少し良くなったという話ではない。
別の次元だ。
……そうか。
私の毛並みには、まだ上があったのだ。
私は、最高のモフモフを知っているつもりでいた。
だが、その頂点は、さらに高いところにあった。
そして今。
私は、その頂へ立っている。
……おお。
何という感動だろう。
ご主人様。
このような世界を、私に教えてくださるとは。
私は前脚を持ち上げ、胸元へ触れた。
ふわり。
……ふわり?
もう一度。
ふわっ。
柔らかい。
信じられないほど、柔らかい。
しかも、触れたあとに毛が潰れない。
指先が沈み、優しく押し返される。
……何と。
何という弾力。
私は、恐る恐る鼻先を胸元へ近づけた。
すん。
……花のような香り。
すんすん。
……おお。
今までの私とは、明らかに違う。
自分の体から、こんなに良い香りがすることがあるのか。
前脚を動かせば、毛並みがさらりと揺れる。
首を傾ければ、耳の毛までふわりと動く。
歩けば、空気が優しく揺れるようだ。
……おおお。
これは、いったい。
私は感動のあまり、しばらく声を出せなかった。
「モフ太?」
ご主人様が心配そうに覗き込んでくださる。
私は、ゆっくり顔を上げた。
「……ご主人様」
「うん?」
「……これが、私の毛並みでございますか」
「そうだよ!」
……ありがたい。
ただ、ただ、ありがたい。
私は深く頭を下げた。
「誠に……誠に、ありがとうございます……!」
ご主人様が、優しく頭を撫でてくださった。
「あはは。喜んでもらえてよかった!」
……感謝してもしきれない。
これで、私は。
これで、カトレアに。
……カトレア!
私は、はっと顔を上げた。
そうだ。
この姿を。
この毛並みを。
誰よりも先に、カトレアに見ていただかねば!
◇
「ご主人様!」
「どうしたの?」
「恐れ入りますが、カトレアにこの姿をお見せしてもよろしいでしょうか!」
ご主人様が、ぱっと笑った。
「もちろん! きっと喜んでくれるよ!」
……おお。
やはり、そうお考えか。
私は早くも落ち着かなくなっていた。
前脚が、自然と動く。
尻尾まで、何となくむずむずする。
鏡に映る自分の毛並みを、もう一度だけ確認した。
……素晴らしい。
これほど美しい毛並みを、私は見たことがない。
アレックス。
キャッツ。
ルナ。
……皆様には、申し訳ない。
だが、これは勝負にならない。
私は、ついに誰も届かない場所へ来てしまったようだ。
「モフ太、そんなにそわそわしなくても大丈夫だよ」
「……失礼いたしました」
ご主人様が、くすくす笑っている。
「ほら、カトレア、今はお庭にいると思うよ。行っておいで!」
「はい! ありがとうございます、ご主人様!」
私は深々と一礼した。
そして、走った。
浴場の扉を抜け、廊下を進む。
階段を下りる。
いつもの屋敷の中なのに、今日は景色が違って見えた。
足が軽い。
心が弾む。
毛並みが揺れるたび、ほのかな香りが漂ってくる。
……素晴らしい。
ああ、素晴らしい!
私は早くカトレアに会いたかった。
ただ、それだけだ。
庭へ出る扉が見える。
向こうには、いつもの花壇。
そして。
「……モフ太?」
カトレアの声がした。
私は、その場で立ち止まった。
……カトレア。
どうぞ。
ご覧ください。
私の新しい毛並みを!
◇
カトレアは、最初、きょとんとしていた。
花壇の前で小さな道具を持ち、こちらを見つめている。
その目が。
少しずつ。
大きく開いた。
「……えっ?」
……おや。
お気づきになられましたか。
「モフ太……?」
「はい。モフ太でございます」
カトレアが、道具をそっと置いた。
それから、一歩。
二歩。
私へ近づいてくる。
私は胸を張った。
毛並みが、春の綿毛のようにふわりと揺れる。
「……モフ太!」
カトレアの声が弾けた。
「どうしたの、その毛!?」
……おお。
来た。
そのお言葉を、お待ちしておりました。
「実はご主人様が、私の毛並みを……」
「すっごい! ふわっふわ!!」
言葉の途中で、カトレアが私を抱き上げた。
……おおっ!?
私の体が、ふわりと宙に浮く。
次の瞬間、温かい腕が私を包んだ。
「モフ太、すごいよ! いつも可愛いけど、今日はもっと可愛い!」
……!
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
いつも可愛い。
今日は、もっと可愛い。
何という。
何という幸福なお言葉だろう。
「カトレア……光栄でございます……!」
カトレアは、私の頬へ自分の頬を寄せた。
すりすり。
……頬ずり。
カトレアが。
私に。
頬ずりを。
「気持ちいいー!」
……おお。
おおお。
私は、感動のあまり前脚に力が入らなくなった。
カトレアは、今度は私の胸元へ顔を埋めた。
「わあ……! ふかふか……!」
……これは。
何ということでしょう。
柔らかな頬が、毛並みへ沈んでいく。
カトレアの嬉しそうな声が、胸元から伝わってくる。
私はそっと目を閉じた。
……ああ。
生きていてよかった。
私がご主人様にテイムされ、この屋敷に来たこと。
カトレアに名前をいただいたこと。
そのすべてが、今この瞬間につながっている。
……これ以上の幸せなど。
いったい、どこにあるというのだろう。
「モフ太、大好き!」
……はい。
私も。
私も、カトレアが大好きでございます。
世界中の何にも代えられないほどに。
私は、心の中でそっと答えた。
カトレアが、もう一度抱きしめてくださった。
……ああ。
このまま、時が止まってもよい。
本気で、そう思った。
◇
「きゃー! モフ太、どうしたの!?」
庭へ、明るい声が響いた。
屋敷から出てきたメイドの一人が、こちらを見ている。
カトレアは、嬉しそうに私を抱え直した。
「見て! お父さんがモフ太をふわふわにしてくれたの!」
「えっ、すごい!」
メイドが駆け寄ってくる。
その後ろから、別のメイドも。
「何? 何があったの?」
「モフ太がすごいの!」
「ええっ!? 本当だ!」
……ふむ。
どうやら、皆もお気づきになったらしい。
当然だろう。
今の私は、先ほどまでの私とは違う。
胸を張って迎えよう。
「皆様、お疲れさまでございます」
「モフ太、ちょっと撫でてもいい?」
「もちろんでございます」
手が伸びた。
私の背中へ、そっと触れる。
「……えっ」
メイドの声が止まった。
……おや。
どうされましたか。
「な、何これ……! ふわふわすぎる!」
……ふふ。
そうでしょう。
私は、心の中だけで微笑んだ。
別のメイドも頭を撫でた。
「わあ! 今までと全然違う!」
「毛が指の間に溶けるみたい!」
「何この香り! すっごくいい匂い!」
「触っても触っても、ずっとふかふか!」
……おお。
褒め言葉が、止まらない。
なんという光景だ。
つい先日までは、ルナがメイドたちの中心にいた。
皆があの猫を抱き上げ、撫でて、可愛いと言っていた。
私は、礼儀正しく振る舞いながら、心の中で大変な苦労をしたものだ。
しかし、今は。
皆の視線が、私へ向いている。
私の頭を。
私の背中を。
私の毛並みを。
皆が笑顔で褒めてくださる。
……ああ。
これだ。
私が長い間、求めていたのは、この光景だったのではないか。
皆が私の毛並みに見惚れる。
ただし、誰かが悲しむわけではない。
皆が笑顔だ。
……素晴らしい。
私は感動した。
さらにメイドたちは次々と集まり、ちょっとした人だかりができた。
「私も触りたい!」
「順番ね!」
「モフ太、こっち向いて!」
「毛並みの王様みたい!」
……王様。
私は、静かに目を閉じた。
……その称号。
悪くありません。
毛並みの王。
モフモフの頂点。
実に、私にふさわしい。
……ふふふ。
我ながら、少し得意になってしまった。
だが、仕方あるまい。
事実なのだから。
◇
「……何があったの?」
聞き慣れた声がした。
私は、すぐに振り返った。
そこにいたのは、キャッツだった。
猫獣人の耳が、ぴんと立っている。
後ろで尻尾も揺れていた。
……来たか。
私は、胸の中で静かに気合いを入れた。
これまでも何度か、カトレアはキャッツの耳や尻尾を見て喜んでいた。
私はそれを、決して忘れていない。
あの毛並みと私の毛並み。
どちらが上か。
いつか、はっきりさせねばならないと思っていた。
その機会が、今。
「キャッツ、見て! モフ太、すごいんだよ!」
カトレアが私を差し出した。
キャッツは、そっと指先で背中に触れた。
そして。
固まった。
……おや。
「……これ……」
キャッツが、もう一度撫でる。
耳が、さらに立った。
「……私の尻尾とは、全然違う……」
……おお。
お気づきになったか。
私は、黙って返事を待った。
キャッツはしばらく毛並みを確かめてから、ゆっくり顔を上げた。
「……無理。これは、勝てない」
……はい?
私は、耳を動かした。
今。
何と。
「モフ太の毛並みには、絶対かなわないよ。私の耳も尻尾も、比べるのが恥ずかしいくらい」
……勝った。
私は、静かに息を吸った。
あのキャッツが。
自身の耳と尻尾を誇る猫獣人が。
私の毛並みを認めた。
……ついに。
ついに、決着がついたのだ。
「恐れ入ります、キャッツ」
私は、礼儀正しく頭を下げた。
声は落ち着いていた。
外から見れば、普段どおりの私であろう。
しかし、その内側では。
……おおおおお。
勝利。
圧倒的勝利。
ああ、カトレア。
どうかご覧ください。
あなたが名付けてくださったモフ太は、ここまで来たのでございます。
胸を満たす感動を、私は必死に抑えた。
……大人の熊は、勝者であっても節度を忘れてはならない。
そう。
私は礼儀正しい。
誇り高い。
そして今や、誰もが認めるモフモフの王。
……ふふ。
悪くない響きだ。
◇
そのとき。
「何してるにゃー?」
軽やかな声が、庭へ響いた。
……来た。
私は、ゆっくりそちらを向いた。
ルナである。
つい先日、私を毛玉と呼び、亜空間で大喧嘩をした、あの猫。
口が悪い。
態度が大きい。
何かにつけて私を挑発する。
……しかし。
今の私は、以前の私ではない。
毛並みの頂点を極めた者として、堂々と応じよう。
ルナは、私を見た。
まず、足を止めた。
次に、耳をぴんと立てた。
そして、驚いたように目を見開いた。
……おや。
これは。
思いのほか、よい反応では?
「……モフ太さん……?」
……モフ太、さん?
私は耳を動かした。
あのルナが。
私を、さん付けで?
……何と。
「いかがなさいましたか、ルナ」
私は、極めて落ち着いた声で答えた。
ルナは、ゆっくり近づいてくる。
先ほどまでの元気な足取りとは違う。
どこか、畏まった様子だった。
「……あの、その……」
……ほう。
あの猫が、言葉を選んでいる。
こんな姿は、初めて見る。
ルナは私の前で立ち止まり、深々と頭を下げた。
「モフ太さんのモッフモフは最高ですにゃ!」
……最高。
……おお。
聞こえた。
はっきりと聞こえた。
私は、そっと目を閉じた。
私のモフモフが、最高。
しかも、あのルナの口から。
……これほど感慨深いことが、ほかにあるだろうか。
ルナは、さらに頭を低くした。
「私なんて汚れたモップですにゃ! モフ太さんの足元にも及びませんにゃ!」
……もっぷ?
何のことかは、よく分からない。
だが、言いたいことは理解できる。
つまり。
あの猫は。
自分の毛並みなど、私とは比べる価値もないと。
そう認めたのだ。
……何と。
何という。
すばらしい日だろう。
私は、胸がいっぱいになった。
「ルナ……そこまでおっしゃらなくても……」
「いいえ! 真実ですにゃ! モフ太さんこそ、世界で一番のモフモフでございますにゃ!」
……世界で、一番。
私は、ゆっくり空を見上げた。
青い空。
優しい風。
周囲には、家族の笑顔。
カトレアは私を抱きしめ、頬を寄せてくださっている。
メイドたちは、私の毛並みを大絶賛。
キャッツは、自身の耳と尻尾では勝てないと認めた。
そして、ルナ。
あのルナまでもが、丁寧な言葉で私を称えている。
……ああ。
ついに、ここまで来たのか。
ご主人様。
ありがとうございます。
あなたが与えてくださったモフモフレベル三百。
そのおかげで、私は。
私は、ついに。
「モフ太、大好きー!」
カトレアが、もう一度ぎゅっと抱きしめてくださった。
柔らかな頬が、私の頭に触れる。
メイドたちの歓声が響く。
「最高のモフモフだよ!」
「世界一!」
「モフ太に勝てる子なんて、いないね!」
「さすがでございますにゃ、モフ太さん!」
……おぉ。
おぉぉ。
胸の奥から、抑えきれない感情が湧き上がってきた。
感動。
歓喜。
そして、誇り。
私は、カトレアの腕の中で空を仰いだ。
……あああ。
何と、素晴らしい。
何と、素晴らしい世界だ。
「おぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
私は、思いの丈を込めて叫んだ。
声が、空へ響き渡っていく。
カトレアが笑う。
キャッツが頷く。
ルナが深々と頭を下げる。
……そう。
これこそが、モフモフの頂点。
私の。
私の、理想の――
◇
「……はっ!」
私は、跳ね起きた。
……ここは?
目の前には、見慣れた床。
柔らかな敷物。
壁際に置かれた、自分の寝床。
そして、窓から差し込む淡い月明かり。
……あれ?
庭ではない。
カトレアの腕の中でもない。
ご主人様も、メイドたちも、キャッツもいない。
私は、自分の前脚を見た。
……普通だ。
いつもどおりの毛並み。
昨日と変わらぬ艶。
いつもの柔らかさ。
……いや。
もちろん、私の毛並みは素晴らしい。
そこに疑問はない。
しかし。
あの、光り輝くような毛艶は。
あの、触れただけで指が沈むような柔らかさは。
……どこへ。
私は前脚で胸元を触った。
ふわり。
……いつもの、ふわり。
鼻先を寄せて匂いを嗅いだ。
すん。
……いつもの匂い。
花のような、あの香りはない。
私は、ゆっくり顔を上げた。
反対側の寝床では、ルナが丸くなって眠っている。
小さな寝息。
時折、揺れる尻尾。
……何とも、気持ちよさそうだ。
私は、しばらくその姿を見つめた。
……夢。
……そうか。
あれは。
すべて、夢でございましたか。
私は力なく座り込んだ。
……夢。
ご主人様の、高級シャンプー。
モフモフレベル三百。
カトレアの頬ずり。
メイドたちの絶賛。
キャッツの、完敗宣言。
そして。
あのルナの。
『私なんて汚れたモップですにゃ!』
……あれは、確かに。
あまりにも、都合がよすぎた。
あの猫が、私へ頭を下げる。
私を「モフ太さん」と呼ぶ。
しかも、一人称まで「私」に変わっている。
……うむ。
冷静に考えれば、少々おかしい。
現実のルナであれば、もっと何か言うはずだ。
……毛玉、とか。
……いや。
思い出さないでおこう。
私は、もう一度前脚を見た。
……いつもの毛。
素晴らしい毛並みではある。
あるのだが。
……三百ではない。
私は、静かに寝床へ伏せた。
……ああ。
カトレアの頬ずり。
あの幸福は、幻だったのか。
……惜しい。
あまりにも、惜しい。
私は目を閉じた。
もう一度、眠れば続きが見られるかもしれない。
その可能性に、ほんの少しだけ期待した。
……しかし。
あの庭へ戻ることは、できなかった。
◇
翌朝。
私は、いつもの時間に目を覚ました。
廊下の向こうでは、家族たちが朝の支度を始めているらしい。
穏やかな朝だ。
……穏やかすぎる。
私は前脚で、胸元を一度だけ撫でた。
……やはり、いつもの毛並み。
昨夜の夢は、今でも鮮明に思い出せる。
あの柔らかさ。
あの香り。
カトレアの笑顔。
……ああ。
忘れた方がよいのかもしれない。
だが、忘れられるものではない。
あれほどの幸福を、一度でも知ってしまったのだから。
私はため息をつき、寝床から立ち上がった。
赤いリボンを整える。
背筋を伸ばす。
今日も、カトレアの護衛を務めねば。
自分の夢に浸っていては、立派な護衛とは言えない。
そのように気持ちを整えたところで。
「モフ太、ご主人様がお呼びですよ」
通りかかったメイドが声をかけてきた。
……何と?
私は、ゆっくり振り返った。
「……ご主人様が?」
「はい。居間でお待ちです」
……居間。
……呼び出し。
……ご主人様。
その言葉が、頭の中で並んだ。
私は、昨夜の出来事を思い返した。
そう。
最初も、同じだった。
ご主人様に呼び出され。
居間へ向かい。
あの、輝くような笑顔で迎えられた。
そして。
『モフ太のモフモフレベルを、もっとアップさせようと思うんだ!』
……これは。
もしや。
……もしや!!
「承知いたしました! ただちに参ります!」
私は勢いよく返事をした。
メイドが、少し驚いたように瞬きをする。
……失礼。
少々、声が大きくなった。
しかし、それどころではない。
私は廊下を駆け出した。
先ほどまでの落胆は、どこかへ消えている。
足が軽い。
心が弾む。
……夢は。
正夢となることがある、と聞いたことがある。
もしも、ご主人様が昨日と同じことをおっしゃったなら。
もしも、あの高級シャンプーが本当に存在するのなら。
……おお。
ついに。
私にも、モフモフレベル三百への道が開けるのではないか!
私は、急いだ。
階段を下りる。
廊下を曲がる。
居間が見えた。
……落ち着け。
私は、立派な護衛。
礼儀を欠いてはならない。
扉の前で一度だけ足を止め、息を整える。
……よし。
私は、期待で震える前脚を揃えた。
「失礼いたします! モフ太、参りました!」
◇
「あっ、モフ太! 呼び出してごめんね~!」
……ああ。
ご主人様。
昨夜と、同じだ。
笑顔。
まぶしいほどの笑顔。
居間の中には、桜花もいる。
ご主人様は私を見るなり、嬉しそうに手を振ってくださった。
……来た。
……間違いない。
あのときと、同じ流れだ。
「いえ、とんでもございません!」
私は、思わず前のめりになった。
ご主人様は、そんな私を見て笑った。
「おっ、今日も元気だねぇ!」
「はい! おかげさまで!」
……早く。
早く、続きを。
モフモフレベルの話を。
高級シャンプーを。
あの、夢のような毛並みを。
私は心を躍らせ、次のお言葉を待った。
ご主人様が、私の頭を優しく撫でてくださる。
……おお。
これも、昨夜と同じような。
……いや。
今は、撫でていただくこと以上に、大切な用事があるはずだ。
「実はね、モフ太にお願いがあって」
……!!
ついに。
ついに、来た。
「何なりと、お申しつけください!」
私は胸を張った。
ご主人様が、にっこり笑う。
「今日、カトレアがニーナちゃんの家に行くみたいだから、いつもどおり護衛をお願いね!」
……はい?
私は、少しだけ首を傾げた。
……ニーナ。
……護衛。
……いつもどおり。
……それだけ?
ご主人様は、満足そうに頷いている。
「モフ太が一緒なら安心だからね! よろしく頼むよ!」
……はい。
それは、もちろん。
カトレアの護衛は、私にとって何より大切な務めだ。
断る理由など、どこにもない。
それは、分かっている。
分かっているのだが。
……あれ?
……高級シャンプーは?
……リンスは?
……ドライヤーは?
……モフモフレベル三百は?
私は、思わずご主人様の手元を見た。
……何もない。
いつもの居間。
いつもの笑顔。
いつもの、温かな手。
そこに、白い容器も金色の容器も存在しなかった。
「モフ太?」
ご主人様が、私を覗き込んでくださる。
……はっ。
いけない。
護衛として、返事をせねば。
「……承知いたしました、ご主人様。カトレアの安全は、私にお任せください」
「うん、ありがとう!」
ご主人様は、もう一度私の頭を撫でた。
……ありがたい。
ご信頼いただけるのは、本当にありがたい。
ただ。
昨夜の、あの感動は。
……やはり、夢の中だけでございましたか。
私は静かに前脚を揃えた。
……仕方あるまい。
現実とは、そういうものなのだろう。
カトレアを守ることに、変わりはない。
その務めに誇りを持っていることも、変わらない。
……しかし。
あの、モフモフレベル三百。
……もう一度だけ、味わってみたかった。
私は、小さく肩を落とした。
そのとき。
「モフ太ー! ニーナちゃんのお家いくよー!」
ロビーから、カトレアの元気な声が聞こえた。
……ああ。
カトレアがお待ちだ。
私の大好きな、カトレアが。
私は、そちらへ顔を向けた。
……うむ。
行かねば。
何しろ、私は護衛なのだから。
「ただいま参ります、カトレア」
返事をして、居間を後にする。
足取りは、少々重い。
……ニーナのお家。
そういえば、あそこには。
……アレックスがいる。
……よりによって。
今日は、あの小さな毛並みのライバルと顔を合わせるのか。
昨夜、キャッツもルナも降参したばかりだというのに。
……夢の中で、だが。
私は、深々とため息をついた。
ふと、胸元の毛並みを確かめる。
……いつものモフモフ。
もちろん、今でも十分に素晴らしい。
ただ、あの三百の感触を知ってしまった身には、少々物足りない。
……ああ。
夢とは、残酷なものでございます。
私は、静かに肩を落とした。
そして、とぼとぼとロビーへ向かって歩き出す。
その背後で、ご主人様の声がした。
「あれ? なんかモフ太落ち込んでる?」
「そうでしょうか?」




