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第9話:番外編!モフ太と新しい家族

 私には、この屋敷で誰よりも大切にしている方がいる。


 カトレアだ。


 毎朝、庭に咲いた花を見て微笑み、私の頭を撫でてくださる。学校へ向かうときは必ず声をかけ、帰ってくれば真っ先に私を探してくれる。


 あの小さな手が毛並みに触れる瞬間ほど、幸せなことはない。


 ご主人様が私に与えてくださった数々の力も、カトレアをお守りするためにあるのだと、私は信じている。


 そう。私は護衛なのだ。


 Sランクの魔獣、バイオレンスグリズリー。


 名を、モフ太という。


 ……ところで。


 この名前について、私は一つだけ確信していることがある。


 カトレアの命名は完璧だ。


 モフモフの男の子だから、モフ太。


 何と端的で、何と優美な名だろう。


 私の毛並みの美しさを余すところなく表現している。これほど素晴らしい名を与えられた魔獣は、世界中を探してもそうそういまい。


 実に誇らしい。


 ただ、世の中には困ったことがある。


 どういうわけか、私以外にも「モフモフ」と呼ばれる者が存在するのだ。


 あれは、早急に何とかならないものだろうか。


     ◇


 少し前のことだ。


 私は晴斗とユリに同行し、王都の大通りを歩いていた。


 正確には、晴斗の腕に抱えられていた。


 ご主人様からは王都を歩くための正式な許可をいただいている。赤いリボンもつけているため、市民の方々は私を見ると「ああ、英雄様のお屋敷の熊だ」と気づくらしい。


 それは結構なことだ。


 知らない方が私の姿に驚いて騒ぎになっては、護衛として困る。


「モフ太君、重くない? 抱っこしてて大丈夫かな」


 晴斗が尋ねてきた。


「ご心配には及びません。私は快適でございます」


「そっか。よかった」


 晴斗は、ほっとしたように笑った。


 彼は優しい。


 何かを頼むときには必ず相手の都合を考え、ユリにもこまめに礼を言う。ご主人様の屋敷へ来たばかりの頃に比べれば、顔つきもずいぶん明るくなった。


 しかし、問題が一つ。


 弱いのだ。


 驚くほどに。


 もちろん、晴斗に非はない。この世界へ突然やって来たばかりの少年なのだから、戦いに慣れていないのは当然である。


 初めて会ったときの彼は、言葉も分からず、身の守り方も知らなかった。


 そんな子を無防備に王都へ送り出すわけにはいかない。


 ご主人様も同じお考えなのだろう。こうしてユリと私が付き添っている。


 私にとっては、当然の務めだ。


 晴斗が危険に遭えば、私が守る。


 仮に魔獣が現れたとしても、本来の姿へ戻れば済む話である。


 ……王都でそんなことをすれば、別の意味で大騒ぎになるかもしれないが。


 必要なら、迷ってはいられない。


「ユリさん、あの串焼き、おいしそうですね!」


「では、寄ってみましょうか」


 晴斗が屋台へ向かう。


 私は通りの人の流れを確認しながら、腕の中で姿勢を変えた。


 荷車が一台、右から来る。


 その先では、小さな子供が母親の手を引いて歩いていた。


「晴斗、右側の荷車にお気をつけください」


「あっ、ありがとう!」


 晴斗は素直に道の端へ寄った。


 よろしい。


 素直に助言を聞いてくださる方は、守る側としても安心できる。


 晴斗が串焼きを買っている間、私は周囲へ目を配った。


 もっとも、私の毛並みに目を留めた方々が次々に微笑みかけてくるので、少々忙しかったが。


「まあ、可愛い熊さんね」


「赤いリボンが似合ってる!」


 ……ふむ。


 見る目がある。


 私は軽く頭を下げておいた。


 相手の称賛には、礼をもって応じるべきだ。


 そのあとも晴斗は、まんじゅうやクレープを見つけるたびに嬉しそうな顔をした。


 ユリも隣で微笑んでいる。


 穏やかな散歩だった。


 途中、ずいぶん強面の男性に声をかけられたときは警戒したが、相手は王都のギルドマスター、シルベスターだった。


 ご主人様のお知り合いであり、晴斗に対しても誠実な態度を取っていたため、私は前脚を振るうことなく話を聞くことにした。


 正しい判断だったと思う。


 晴斗は、シルベスターと話すうちに少しずつ目を輝かせるようになった。


 同じように突然この世界へ来た人が、冒険者として活躍している。


 その話は、晴斗にとって大きな希望になったようだ。


 屋敷へ戻る道で、彼は私の頭を撫でながら言った。


「モフ太君、今日はありがとう」


「とんでもございません。お役に立てたのなら何よりです」


「いつか僕も、モフ太君みたいに誰かを守れるようになりたいな」


 私は少し驚いた。


 あれだけ珍しい料理や町並みに目を輝かせていた少年が、今度は自分の力で誰かを守りたいと考えている。


 ……立派なことだ。


 今はまだ弱い。


 それでも、弱いままでいるつもりはないらしい。


 ならば、私も応援しよう。


 少なくとも、晴斗が自分の足で安全に歩けるようになるまでは、私がお守りする。


 そう心に決めた。


 ただし。


 頭を撫でる手つきについては、まだまだ修業が必要である。


 晴斗の撫で方も悪くはない。


 だが、カトレアには遠く及ばない。


 あの手の温もりを知る私にとって、比べること自体が少々気の毒なほどだ。


 もちろん、このことは口にしない。


 晴斗は真面目な少年だ。そんなことを言えば、撫で方まで練習し始めかねない。


 ……それはそれで面白いかもしれないが。


 護衛の仕事に、余計な試験を増やすべきではない。


     ◇


 私は、己の毛並みに相応の誇りを持っている。


 それを自慢だと言われれば、否定はしない。


 事実なのだから。


 私の毛並みは、柔らかい。


 温かい。


 そして、見事な艶を備えている。


 カトレアが指を埋めると、毛がふわりと受け止め、手を離せば元の形へ戻る。


 あの弾力。


 あの手触り。


 我ながら、素晴らしい。


 ところが、カトレアは時折、ほかの者の毛並みも褒める。


 ニーナの家にいる、アレックスという小さな魔獣。


 あの者など、実に油断ならない。


 カトレアは以前、アレックスの毛並みについて嬉しそうに話していた。


 ……何と?


 ふわふわ?


 とても気持ちがいい?


 ほほう。


 なるほど。


 確かに、あの小さな魔獣には小さな魔獣なりの魅力があるのだろう。


 それは認めよう。


 ただし、私と比べるのは間違っている。


 そもそも格が違う。


 Sランクのバイオレンスグリズリーと、Fランクの小さな魔獣である。


 ……いや。


 毛並みにランクは関係ない、と言われるかもしれない。


 だとしても、私の方が上だ。


 なぜなら私は、カトレアに「モフ太」と名付けていただいた唯一の熊なのだから。


 それだけで十分である。


 ……キャッツも問題だ。


 あの猫獣人は、尻尾や耳を持ち、カトレアから可愛いと言われることがある。


 確かに、あの耳は目立つ。


 尻尾も、よく動く。


 しかし、それが何だというのか。


 耳と尻尾だけで勝負しようというのなら、こちらには全身の毛並みがある。


 比較するまでもない。


 それなのに、カトレアはキャッツの尻尾を見て嬉しそうに笑う。


 実に不可解だ。


 あの笑顔は、本来、私の毛並みへ向けられるべきものではないのか。


 私は何度か、そう考えた。


 もちろん、キャッツが悪いわけではない。


 家族として大切な相手だ。


 困っていれば助ける。


 危険が迫れば、私も身を挺して守ろう。


 ……ただし。


 モフモフの頂点を名乗ることだけは、断じて認められない。


 私は、カトレアの護衛なのだ。


 強さだけではない。


 毛並みでも、一番でなくてはならない。


 私以外のモフモフなんて、いなくなればいい。


 ……少々、言い過ぎたかもしれない。


 いなくなればいいというのは、当然、危害を加えたいという意味ではない。


 みな幸せに暮らしていただいて結構。


 ただ、私の毛並みと張り合うのをやめていただきたい。


 それだけの、実に穏当な願いである。


 そして何より。


 カトレアに撫でられていいのは、私だけ。


 この点について、私は一歩も譲るつもりがなかった。


     ◇


 その日、晴斗は朝から楓との稽古に向かっていた。


 まだ剣を握り始めたばかりだというのに、たいへん熱心なことだ。


 食事の席でも「今日は昨日より少しでも上手くなりたいです」と話していた。


 努力を惜しまない姿勢は、見習うべきものがある。


 私はその言葉を聞き、いっそう晴斗を守ろうと決めた。


 本人が強くなるまでの間は、私たち周囲の者が支えればいい。


 同じ屋敷で暮らす、大切な仲間なのだから。


 その一方で、カトレアは庭の花壇を手入れしていた。


 もちろん、私も一緒である。


 カトレアが土を整え、花に水をやる。


 私はその隣に座り、庭へ近づく者がいないか目を配る。


 安全を確認できれば、あとは時折、カトレアの手がこちらへ伸びてくるのを待つだけだ。


「モフ太、今日も一緒にいてくれてありがとう」


「お役に立てて光栄です、カトレア」


 カトレアが笑い、頭を撫でてくださった。


 ……ああ。


 これだ。


 このために生きていると言っても、過言ではない。


 撫でる指が、耳の後ろへ回る。


 私は思わず目を細めた。


 カトレアは、それを見てまた笑う。


「ふふっ。気持ちいい?」


「はい。たいへん心地よく存じます」


 ……何という幸せ。


 今日も世界は平和である。


 そのとき、庭の向こうでご主人様と桜花が話している姿が見えた。


 お二人とも、出かける準備をしているらしい。


 珍しいことではない。


 ご主人様は各国を行き来されるし、桜花が同行するのもいつものことだ。


 ……ところが。


 その日だけは、妙なものを感じた。


 背中の毛が、ほんの少し逆立つような感覚。


 何かが起きる。


 そんな予感だ。


 理由は分からない。


 魔法を使ったわけでもなければ、危険な魔獣の気配を感じ取ったわけでもない。


 ただ、ご主人様が妙に楽しそうだった。


 桜花も、口元へ笑みを浮かべている。


 あの笑顔を見たとき、私は考えた。


 ……また、何か拾ってくるおつもりでは?


 失礼な考えだとは思う。


 ご主人様は、世界を救った偉大な方だ。


 そのようなお方を、何でも拾ってくる方として見てはならない。


 しかし。


 私は今、ご主人様に拾われて、この屋敷で暮らしている。


 ……十分にあり得る話ではないだろうか。


「モフ太?」


 カトレアに名前を呼ばれ、私は我に返った。


「はい。いかがなさいましたか?」


「どうしたの? あっちをずっと見てるから」


「いえ。ご主人様がお出かけのご様子でしたので」


「そうだね。お姉ちゃんも一緒みたい」


 カトレアが遠くへ手を振った。


「お父さーん! いってらっしゃーい!」


 ご主人様が、こちらへ笑顔で手を振り返す。


 桜花も軽く頭を下げた。


 やがて、お二人の姿が見えなくなる。


 私は、静かに見送った。


 嫌な予感は、まだ消えていなかった。


 ……ふむ。


 とはいえ、カトレアをお守りすることが最優先だ。


 ご主人様のことは、桜花にお任せしよう。


「モフ太、こっちのお花も見て!」


「はい、カトレア」


 私は気持ちを切り替え、花壇のそばへ歩いた。


 カトレアが喜んでくださる。


 その笑顔が見られるなら、少々の胸騒ぎなど、取るに足らない。


 ……そう思っていた。


     ◇


 夕方近くになり、楓が私たちのところへやって来た。


「……カトレア」


「楓ちゃん、どうしたの?」


「……居間。呼んでる」


 楓はそれだけ言い、屋敷の方へ目を向けた。


 カトレアは道具を片づけ、手を洗ってから立ち上がる。


「お父さんが帰ってきたのかな?」


「……うん」


 楓が小さく頷いた。


 ……やはり、ご主人様が帰っていらしたのか。


 私はカトレアの足元へつき、晴斗と合流して居間へ向かった。


 晴斗は稽古で少々疲れた様子だったが、足取りはしっかりしていた。


 よろしい。


 楓の指導は厳しいと聞くが、晴斗はよく頑張っている。


 そんなことを考えながら、居間の入口をくぐった。


 そして。


 私は、その場で足を止めた。


 桜花の膝の上に、見知らぬ生き物がいた。


 長い牙。


 猫に似た顔。


 小さく揺れる尻尾。


 体は五十センチほどしかない。


 だが、私には分かった。


 ……これは、普通の猫ではない。


 サーベルタイガーだ。


 しかも、ただのサーベルタイガーではない。


 体に残る気配からして、かなりの強者。


 少なくとも、そこらの魔獣とは格が違う。


 私は一瞬、息を呑んだ。


 ……ご主人様。


 いったい、何を連れて帰ってこられたのですか。


 朝の胸騒ぎが、ようやく形になった気がした。


 ご主人様が突然魔獣を連れて帰る。


 私は身をもって、その光景に覚えがある。


 ……いや。


 私のときは、桜花に抱えられて帰ってきた側だった。


 そう考えると、何とも言えない。


 だが、今はそれどころではない。


「……なんか、でかい猫がいる……」


 晴斗が、呆然と呟いた。


「猫ちゃんだ!」


 カトレアの声が弾む。


 ……何と?


 猫ちゃん?


 カトレアは、嬉しそうに桜花の前へしゃがみ込んだ。


「お姉ちゃん、触ってもいい?」


「はい。優しくお願いいたします」


 桜花が微笑んで頷く。


 そして。


 カトレアの手が、その猫へ伸びていった。


 ……待ってください。


 カトレア。


 その手は。


 その手は、私の頭を撫でるためのものではありませんか。


 猫の額に、指先が触れた。


 次に、首の下。


 猫が、気持ちよさそうに目を細める。


「かわいいー!」


 カトレアが笑った。


 私は無言で、その光景を見つめた。


 ……私は、今、何を見せられているのでしょうか。


 先ほどまで、花壇で私の頭を撫でてくださっていた。


 あの優しい手で。


 別の魔獣を。


 しかも、初対面の魔獣を。


 そんな。


 そんなことが。


 ……あってよいのでしょうか。


 私は、静かにカトレアの背後へ座った。


 護衛である以上、動揺を表に出してはならない。


 カトレアが喜んでいるのなら、それは素晴らしいことだ。


 家族に笑顔が増えるのは、歓迎すべき出来事である。


 ……しかし。


 あの猫。


 ずいぶん遠慮なく撫でられている。


 もう少し控えめに振る舞ってもいいのではないか。


 たとえば、カトレアが手を伸ばしたら、一度くらい私の方を見るとか。


 それが礼儀というものだろう。


 ……いや、なぜ私を見る必要があるのか。


 自分でもよく分からない。


 ただ。


 あの猫に、一つだけ言っておきたい。


 カトレアの手は、格別なのだ。


 そのありがたみを、きちんと理解しているのでしょうね。


     ◇


 ご主人様のお話を聞くうちに、事情が分かってきた。


 あの猫は、晴斗の相棒候補らしい。


 外へ出て冒険者の仕事をする晴斗には、信頼できる護衛が必要だ。


 そのため、ご主人様が獣人国で保護してこられたという。


 ……なるほど。


 それなら話は別である。


 晴斗はまだ剣の扱いに慣れていない。


 誰かが同行する方がいいのは、私も同じ考えだ。


 ご主人様がその点を案じ、新しい護衛を迎えられた。


 たいへん理にかなっている。


 しかも、Sランクの魔獣なら申し分ない。


 ……ふむ。


 私は思い直した。


 仕事としては、優れた判断と言えるだろう。


 あの猫が晴斗の安全を守ってくれるなら、私も歓迎せねばなるまい。


 むろん、カトレアの護衛は私が担当する。


 その役目まで譲る理由はない。


 ご主人様は猫へいくつかの守りを与え、さらに会話できるようにされた。


 ……また、喋る魔獣が増えるのか。


 私としては、少し複雑だ。


 この屋敷で言葉を話す熊は、私一匹だった。


 喋る魔獣というのは、それなりに珍しいはずだ。


 ……それが、二匹になる。


 まあ、よろしい。


 晴斗との意思疎通ができるのは、護衛にとって大きな利点だ。


 私は礼儀正しい先輩として、必要なら挨拶の仕方も教えて差し上げよう。


 そう考えていたとき。


「よろしくにゃー!」


 猫が喋った。


 ……にゃー?


 私は、耳を動かした。


 ……なるほど。


 語尾が少々変わっているらしい。


 ご主人様も晴斗も驚いている。


 あの猫は女の子だということも分かった。


 そして、晴斗が名前を考え始める。


「……ルナ」


 晴斗が、長い牙を見つめて言った。


 三日月のような形をしているから、ルナ。


 確かに、悪くない名前だ。


 私の名前ほど端的ではないが、由来があるのは好ましい。


 猫は気に入ったらしく、嬉しそうに尻尾を揺らした。


「いい名前にゃー!」


 晴斗も笑う。


 ……よろしい。


 二匹目の喋る魔獣、ルナ。


 晴斗の相棒として、迎え入れても問題ないだろう。


 私は心の中で、そう判断した。


 あとは、カトレアの手がこちらへ戻ってくれば完璧である。


 ……まだ、撫でていらっしゃる。


 どうやら、もう少し待つ必要がありそうだ。


     ◇


 ご主人様が、ルナの強さについて説明されていた。


 晴斗は、相棒がSランクと聞いて目を丸くしている。


 当然だろう。


 私は、この世界でSランクの魔獣がどれほど恐ろしい存在か、よく知っている。


 かつての私は、森の奥で人間を寄せつけない怪物だった。


 それが今では、ご主人様のお屋敷でカトレアの護衛を務めている。


 人生……いや、熊生とは分からないものだ。


 ともあれ、私と同じSランクの仲間が増えるのは悪いことではない。


 実力についても、いずれ確かめる機会があるだろう。


 私は静かに話を聞いていた。


 すると。


「そこの毛玉よりは強いにゃー!」


 ……は?


 私は、ゆっくり顔を上げた。


 今、あの猫は何と言った?


 毛玉?


 そこの毛玉?


 まさか、私のことではあるまい。


 私はバイオレンスグリズリーである。


 カトレアに名付けていただいた、モフ太である。


 毛玉ではない。


 ……聞き間違いだろうか。


 私は冷静に確かめることにした。


「……なんだと?」


 ルナはこちらを見た。


 口元が、わずかに上がっているように見える。


 ……何でしょう。


 あの顔は。


 あの、たいへん腹立たしい顔は。


「……もっぺん言ってみろ」


 自分の声が、普段と違って聞こえた。


 だが、その時点で私は止まれなかった。


 ルナが、楽しそうに尻尾を振った。


「毛玉より強いって言ったにゃー! 聞こえなかったかにゃー、毛玉!」


 ……何ということだ。


 毛玉。


 毛玉と。


 しかも、二度も三度も。


 私の毛並みを何だと思っているのだ。


 この美しさを。


 この艶を。


 この柔らかさを。


 あまつさえ、それをカトレアの前で言うとは。


 ……許せん。


「表でろぉぉぉぉぉ!!」


 気がつけば、叫んでいた。


 居間に響き渡る、自分でも聞いたことのない声。


 ご主人様が驚いている。


 桜花も、晴斗も、楓もこちらを見ている。


 ……当然だ。


 普段の私は礼儀正しい。


 だが、礼儀にも限界というものがある。


 あの猫は、その限界を軽々と飛び越えたのだ。


「二匹とも、やめなさい!!」


 ご主人様の声が響いた。


 ……はっ。


 私は我に返った。


 ご主人様の前で、何という失態。


 護衛たる者、怒りに任せて声を荒らげてはならない。


「……大変失礼いたしました、ご主人様」


 私は深く頭を下げた。


 心からの反省である。


 ……ただし。


 あの猫の発言については、一切許していない。


 すると、カトレアが手を伸ばしてきた。


「モフ太、おいで」


 ……カトレア。


 私は、素直に近づいた。


 カトレアが私を抱き上げ、頭を撫でてくださる。


 柔らかな手のひら。


 耳の後ろをくすぐる指先。


「大丈夫だよ。モフ太も、いつもかっこいいよ」


 ……ああ。


 その一言で、胸の中の荒れ狂う何かが静まっていった。


 かっこいい。


 カトレアが、私を。


 ……何とありがたいお言葉だろう。


「ありがとうございます、カトレア」


 私は、今度こそ心から落ち着いて返事をした。


 カトレアが笑う。


 その笑顔を見て、私は思い直した。


 ……このような可愛い子の前で、争うべきではない。


 私の毛並みは、誰かに貶められた程度で価値を失うものではない。


 もっと大きな心を持とう。


 そう。


 私は大人の熊なのだ。


 ……ただ。


 大人の熊として、一度だけ確認しておきたいことがある。


 あの猫が、本当に私より強いのかどうか。


 話は、それからだ。


     ◇


「ご主人様。大変不躾ではございますが、ルナと少し手合わせをさせていただけないでしょうか」


 私は、できる限り丁寧にお願いした。


 ご主人様は、少し困った顔をされた。


 もっともだ。


 Sランク同士が本気で戦えば、周囲に被害が及ぶ可能性がある。


 だが、ご主人様には亜空間という素晴らしい場所がある。


 あそこなら、安全に実力を確かめられる。


 私としても、ルナを傷つけたいわけではない。


 そもそも、同じ家族になる相手だ。


 ただ少し。


 ほんの少しだけ。


 どちらが上か、はっきりさせておきたい。


 ご主人様は、安全のための約束をいくつも確認された。


 私はすべて承諾した。


 そして、手合わせの許可をいただいた。


「ありがとうございます、ご主人様」


 私は深々と頭を下げた。


 ……これでよし。


 礼儀を尽くして、正々堂々と勝負する。


 勝敗が決まれば、ルナも私の毛並みについて軽率な発言をしなくなるだろう。


 ……そのはずだ。


「毛玉には負けないにゃー!」


 ……まだ言うか、この猫は。


 ご主人様に叱られて、ルナは耳を伏せた。


 私は、かろうじて沈黙を保った。


 ……忍耐。


 今は忍耐である。


 亜空間へ入るまでは。


     ◇


 草原へ続く木製の扉をくぐり、私は深く息を吸った。


 外には影響しない、広大な亜空間。


 ご主人様の魔法は、相変わらず素晴らしい。


 私は観戦者たちから十分に離れ、《縮小》を解除した。


 視界が高くなる。


 前脚が地面を踏む重み。


 背に受ける風。


 久しぶりの、全長五メートルの姿だ。


 やはり、この体はいい。


 カトレアの膝に収まることはできなくなるが、戦いには本来の姿が一番である。


「でっか!!!!」


 晴斗の声が聞こえた。


 ……ふむ。


 驚かせてしまったようだ。


 晴斗が私の本当の姿を知るのは、これが初めてだっただろうか。


 今後は頼もしい護衛として、いっそう信頼していただけることだろう。


 反対側では、ルナも《縮小》を解除していた。


 大きなサーベルタイガー。


 長く湾曲した牙。


 しなやかな体と鋭い爪。


 ……なるほど。


 確かに強そうだ。


 通常のバイオレンスグリズリーより、攻撃の鋭さでは上かもしれない。


 認めるべきところは認めよう。


 しかし、私にもご主人様からいただいた力がある。


 五年近くカトレアをお守りしてきた経験がある。


 何より、譲れない誇りがある。


 ……そう。


 私こそが、モフモフの頂点だ。


 ご主人様が周囲に結界を張られた。


 私は姿勢を低くし、合図を待つ。


 シルベスターとの映像通話が始まったようだが、今はそれどころではない。


 向かいのルナが、こちらを見ている。


 目が合った。


 ルナが笑った。


 ……あの猫め。


「それじゃあ……始め!」


 ご主人様の声が響いた。


 私は地面を蹴った。


 次の瞬間、ルナも突進してきた。


 巨大な前脚と爪がぶつかり、衝撃が草原を揺らす。


 速い。


 想像していた以上に、動きが鋭い。


 ルナの牙が肩へ迫った。


 《絶対防御》が受け止める。


 私は返す前脚でルナを打った。


 こちらも、傷一つつかない。


 ……なるほど。


 守りは互角。


 力比べとしては、上等だ。


 しかし、肝心の相手がよくない。


「毛玉、遅いにゃー!」


 ……また、それを言うか。


「……んだとぉ!?」


 口から、低い声が漏れた。


「このクソ猫がぁぁぁぁ!!」


 私は前脚を振るった。


 ルナがひらりとかわす。


 動きだけなら、確かに見事だ。


 ……だが、その口は何とかならないのか。


「けだまぁぁぁぁーーーー!」


 ……!


 私は奥歯を噛みしめた。


 毛玉。


 毛玉。


 毛玉。


 その言葉が、頭の中で何度も響いた。


 なぜ、こうも毛並みを貶す者が現れるのだ。


 アレックス。


 キャッツ。


 そして、ルナ。


 ……そうだ。


 アレックスもだ。


 そもそも、あの小さな魔獣の毛並みをカトレアが褒めたことから、何かがおかしくなったのではないか。


 キャッツの尻尾もそうだ。


 みなが好き勝手にモフモフを名乗り、そのたびにカトレアの目が輝く。


 しかし、カトレアに撫でられるべき毛並みは、ここにある。


 私の全身にある。


 それを、こんな猫に毛玉呼ばわりされるなど。


 ……許せん。


 断じて許せん。


「アレックスーーーー!!」


 ……あれ?


 叫んでから、私は気づいた。


 違う。


 今、目の前にいるのはルナだ。


 アレックスではない。


 そもそも、アレックスはこの亜空間にいない。


 ニーナの家にいるはずだ。


 何をしているかは知らないが、おそらく穏やかに過ごしているだろう。


 ……その者の名を。


 なぜ、私は。


「アレックス関係なくない!?」


 ご主人様の声が、遠くから届いた。


 ……はい。


 まったく、おっしゃるとおりでございます。


 私は内心で深く頭を下げた。


 だが、目の前でルナが再び叫ぶ。


「けだまぁぁぁぁーーーー!」


 ……貴様ぁぁぁ!!


 もう駄目だ。


 落ち着いている場合ではない。


 私は吠え、ルナへ飛びかかった。


 爪と牙がぶつかる。


 地面が裂ける。


 遠くで何かが崩れ落ちた。


 ……それが何だったのかは、あまり覚えていない。


 頭の中にあったのは、たった一つ。


 あのクソ猫に、毛玉ではないと分からせる。


 それだけであった。


 ……我ながら、たいへん小さな目的である。


     ◇


「はい、そこまでー!」


 ご主人様の声が響き、私は動きを止めた。


 ルナも距離を取った。


 息が荒い。


 こちらも、あちらも。


 それでも、体に傷はない。


 《絶対防御》が守ってくれているからだ。


 ……決着は、つかなかった。


 私は悔しさを飲み込み、《縮小》で小さな姿へ戻った。


 ルナも同じように戻る。


 互いに五十センチほどの姿になり、観戦者のもとへ歩いた。


 ……まったく。


 こんなに疲れたのは久しぶりだ。


 しかも、敗北していないとはいえ、勝利もしていない。


 私の毛並みの格を証明する機会を逃してしまった。


 ……いや、待て。


 そもそも、毛並みの優劣を戦いで決めようというのが間違いだったのではないか。


 相手は、サーベルタイガーである。


 仮に私が勝ったところで、毛並みが美しくなるわけではない。


 ……これは。


 もしかして。


 最初から、勝負の種類を間違えていた?


「モフ太、すごかったよ!」


 カトレアの声がした。


 私は顔を上げた。


 彼女が、こちらへ両手を伸ばしている。


 ……ああ。


 カトレア。


 私は迷わず近づいた。


 抱き上げられる。


 頭を撫でていただく。


 先ほどまで胸の奥を満たしていた怒りが、静かにほどけていった。


「ありがとうございます、カトレア」


 自分の声が、いつもの調子に戻っている。


 ……何ということだ。


 私は、いったい何をしていたのだろう。


 カトレアの安全を守るためにいただいた力を、毛玉という言葉に腹を立てて振るっていた。


 これは護衛として、あまり褒められた行いではない。


 もちろん、ご主人様の許可をいただいた手合わせだ。


 危険な者を巻き込んだわけでもない。


 しかし、私の心は、あまり穏やかではなかった。


 ……反省せねばならない。


「モフ太、ルナと仲良くできる?」


 カトレアが尋ねた。


 私は、彼女を見上げた。


 答えは決まっている。


「もちろんでございます。私は、家族同士の争いを望んでおりません」


 言葉にしてみると、不思議と心が落ち着いた。


 そうだ。


 ルナは、晴斗の相棒になるのだ。


 晴斗が冒険者として外へ出るなら、その安全を守る者が必要である。


 ルナが、その役目を担ってくれる。


 ならば、私が歓迎しない理由はない。


 少なくとも、護衛としては。


 私は、ルナへ目を向けた。


 あちらも息を切らしている。


 あれだけの力を持ちながら、怪我一つない。


 ご主人様のお力の賜物だ。


 ……そう。


 同じご主人様に守りを授かった、家族なのだ。


 私たちは、仲良くせねばならない。


 きっと、それがカトレアの望みでもある。


 ……よし。


 私は決めた。


 もう二度と、つまらない挑発に乗るまい。


 ルナのことも、新しい家族として迎えよう。


 ……ただし。


 毛玉という呼び方だけは、絶対にやめていただく。


 そこは別問題である。


     ◇


 亜空間を出て屋敷へ戻ると、いつもの夕食の香りが漂ってきた。


 私はカトレアの足元につき、食堂へ向かった。


 途中、ご主人様が巴へルナを紹介されていた。


 巴は驚きながらも、温かく迎えていた。


 ……よろしい。


 こういうとき、巴は本当に頼りになる。


 新しい家族が一匹増えたところで、慌てる様子もない。


 私は、その落ち着きぶりを見習おうと思った。


 夕食中も、穏やかに過ごすことができた。


 ご主人様たちは食卓を囲み、楽しそうに話している。


 晴斗は、ルナのことを何度も嬉しそうに眺めていた。


 私も、静かに食事をとった。


 ……晴斗。


 よかったですね。


 自分で決めた道を進み、新しい相棒まで得た。


 あの少年がこの世界へ来たばかりの頃を思えば、大きな変化だ。


 もちろん、まだまだ弱い。


 今後も稽古が必要だろう。


 しかし、前へ進もうとする気持ちは確かにある。


 その隣でルナが支えてくれるなら、私も安心できる。


 ……そう考えたところで。


 ルナが、晴斗に甘えるような声を出した。


「晴斗、もっと撫でてほしいにゃー!」


 ……ふむ。


 撫でる。


 まあ、いい。


 晴斗の相棒なのだから、晴斗に撫でてもらうのは当然だ。


 カトレアではない。


 ここが重要である。


 私は平静を保ち、食事を続けた。


 これでいい。


 互いの役目を守れば、衝突は避けられる。


 カトレアは私が守る。


 晴斗はルナが守る。


 何とも分かりやすい。


 ……そう。


 問題は、何もない。


 その時点では、本当にそう思っていた。


     ◇


 夕食後、ご主人様はルナの寝床を用意してくださった。


 二階にある私の寝床、その反対側だ。


 柔らかな敷物が敷かれ、体を丸めても余裕のある広さがある。


 ルナはすぐに上へ乗り、気持ちよさそうに座った。


「ふかふかにゃー!」


 ……それは結構。


 ご主人様が選んだのだから、居心地がいいのは当然だろう。


 私は自分の寝床へ座り、様子を見守った。


 晴斗もカトレアも、嬉しそうだ。


 ご主人様が、私へ声をかけてくださった。


「モフ太も、よろしくね」


「承知いたしました。新しい家族として、きちんと迎え入れる所存でございます」


 私は、誠意を込めて答えた。


 ルナも、今度は名前を呼んでくれた。


「よろしくにゃー、モフ太!」


「……よろしくお願いいたします、ルナ」


 ……ふむ。


 よろしい。


 毛玉ではなく、モフ太。


 これが正常な状態というものだ。


 私は満足した。


 ルナが晴斗と話している様子も、どこか微笑ましい。


 新しい家族。


 これから長い時間を共に過ごす仲間。


 そのように考えれば、多少の口の悪さなど、目をつぶってもいいだろう。


 ……少々、口が悪すぎる気もするが。


 そこは今後、少しずつ直していただこう。


 やがてご主人様たちは、部屋を離れていった。


 カトレアも、明日の準備があるらしい。


「モフ太、またあとでね」


「はい、カトレア」


 私は見送った。


 ……ふぅ。


 ようやく、落ち着いた。


 今日は本当にいろいろなことがあった。


 何より、新しい家族が増えたのだ。


 私は、明日からのことを考えた。


 晴斗はルナと稽古へ。


 カトレアは私と花壇へ。


 夜にはそれぞれ寝床へ戻る。


 ……うむ。


 完璧だ。


 あとは、静かに休むだけ。


 ……そのはずだった。


     ◇


「ねえ、聞いた? 新しい子が来たんだって!」


 廊下から、楽しそうな声がした。


 ……おや。


 メイドたちだ。


 仕事を終えた何人かが、二階へやって来たらしい。


 屋敷では、珍しいことではない。


 皆、家族として暮らしている。


 私のこともよく知っていて、通りがかれば挨拶をしてくれる。


 ……中には、頭を撫でてくださる方もいる。


 もちろん、カトレアほどではないが。


 私は居住まいを正し、挨拶の準備をした。


 まずは、いつものように丁寧に迎えよう。


「こんばんは、皆様」


「あっ、モフ太!」


「今日も可愛いね!」


 ……うむ。


 よろしい。


 いつもの挨拶だ。


 私は軽く頭を下げた。


「ありがとうございます。本日もお疲れさまでございました」


 すると、メイドの一人がルナへ目を向けた。


「それで、あの子が新しく来た猫ちゃん?」


「そうみたい! 牙がすごいね!」


「わあ、可愛い!」


 ……可愛い?


 私は耳を動かした。


 その言葉は、今しがた私に向けられたはずだ。


 ……なぜ、続けてあちらへ?


 メイドたちが、ルナの寝床を囲んだ。


 ルナは、尻尾を揺らして見上げている。


「初めましてにゃー!」


「えっ、喋った!」


「すごい! お話できるんだ!」


「女の子なの? 名前は?」


「ルナにゃー!」


「ルナちゃん! 可愛い名前!」


 ……ふむ。


 新しい家族の歓迎である。


 大変結構なことだ。


 屋敷へ来たばかりの者は、誰しも不安を感じる。


 優しく迎えるのは、家族として当然の務めだろう。


 私も最初に保護されたときは、皆に世話をしていただいた。


 ……そう。


 これは、良い光景だ。


 しかし。


「ちょっと撫でてもいい?」


「もちろんにゃー!」


 ……撫でる?


 メイドの手が、ルナの頭へ伸びた。


 続けて、別のメイドも。


「わあ、毛並みがふわふわ!」


「触り心地がいいね!」


「こっちの首元も柔らかい!」


 ……ふわふわ?


 毛並み?


 ……なるほど。


 私は一つ、大切なことを思い出した。


 この屋敷で「毛並みがふわふわ」と褒められるのは、基本的に私の役目ではなかったか。


 通りがかるメイドたちは、私を見つけると「モフ太、今日もふわふわね」と言ってくれた。


 仕事の合間に、そっと頭を撫でてくれることもあった。


 私も、礼儀正しく応じてきた。


 それが今は。


 ……すべて、ルナへ向いている。


 ……これは。


 どういうことでしょうか。


「ルナちゃん、可愛い!」


「もう一回、こっち向いて!」


「見て、尻尾が動いてる!」


 ……ふむ。


 尻尾。


 尻尾が動くのは、そこまで珍しいことだろうか。


 私だって動かせる。


 耳も動く。


 前脚も上げられる。


 さらに、ご主人様のお言葉を理解し、丁寧な言葉で返事もできる。


 ……あの猫にできることの大半は、私にもできる。


 では、何が違うのか。


 ……新入りだから?


 ……それだけ?


 私は自分の前脚を見下ろした。


 立派な毛に覆われている。


 艶も申し分ない。


 触れれば柔らかい。


 ……つまり。


 毛並みの優劣で負けているわけではない。


 断じて、ない。


「わあ、ルナちゃん、お腹もふかふか!」


 ……お腹?


 私は、ゆっくり顔を上げた。


 ルナが、寝床でころりと横になっている。


 メイドたちが、嬉しそうに撫でている。


 ……何ということだ。


 あの猫。


 腹まで見せている。


 しかも、ひどく満足そうな顔だ。


 ……なるほど。


 愛想を振りまいているのか。


 そういう作戦なのですね。


 私は静かに理解した。


 ルナは、賢い。


 戦いでもそれは分かった。


 身軽で、相手の隙を見逃さない。


 ……だが、まさか。


 屋敷のメイドたちの心まで、こうも素早くつかむとは。


 油断ならない。


 ……いや。


 これは何かの作戦ではない。


 ただ、可愛がってもらっているだけなのだろう。


 そう理解している。


 理解しているが。


 ……どうにも、面白くない。


     ◇


「モフ太も、おいで?」


 メイドの一人が、私へ声をかけてくれた。


 ……おお。


 そうです。


 私も、こちらにおります。


 私は胸を張って立ち上がった。


「ありがとうございます。お邪魔いたします」


 いつものように、穏やかに近づく。


 メイドの手が私の頭を撫でた。


 ……ああ。


 いい。


 たいへん心地よい。


「モフ太も相変わらず可愛いね」


「光栄でございます」


 私は礼儀正しく答えた。


 ……よろしい。


 これで、いつもの状態に戻った。


 やはり皆、私の毛並みの素晴らしさを忘れたわけではないのだ。


 私は少し安心した。


 ……その直後。


「ねえ、ルナちゃんの牙って、近くで見ると綺麗だね!」


「ほんと! 三日月みたい!」


 撫でていた手が、離れた。


 メイドがルナの方へ身を乗り出す。


 ……あれ?


 私は、頭に残る手の温もりを感じながら、ゆっくり顔を上げた。


 メイドたちは、再びルナを囲んでいる。


 その輪の外に、私が一匹。


 ……なるほど。


 ほんの一瞬、こちらへ戻ってきた注目が、また向こうへ流れていった。


 ……これは、何でしょう。


 何かの試練でしょうか。


 私は、自分がたいへん立派な熊であることを思い出した。


 大切なのは、忍耐。


 家族を迎えるとき、少々の不都合に腹を立ててはならない。


 新しい子を可愛がるのは、ごく自然なことだ。


 ルナに悪意はない。


 メイドたちにもない。


 誰も、私を嫌いになったわけではない。


 ……そう。


 頭では、きちんと分かっている。


 ただ、心の中にいる別の私が、静かに訴えてくるのだ。


 私の毛並みを見てください。


 この柔らかさを思い出してください。


 なぜ、あの猫ばかり撫でるのですか。


 ……私だって、ここにおります。


 そう。


 ここに。


 ずっと前から。


 ……ああ。


 これは、まずい。


 また怒りが込み上げてきた。


 しかも今度は、「毛玉」と呼ばれたわけでもない。


 誰も、何も悪いことをしていないのだ。


 怒る理由がない。


 ……理由がないのに、腹が立つ。


 こんなに厄介なことがあるだろうか。


 私はその場に座り直し、大きく息を吐いた。


 落ち着こう。


 私は立派な護衛。


 家族の幸せを願う熊。


 そのような存在が、撫でる順番を巡って不機嫌になるわけにはいかない。


 ……しかし。


 撫でる順番。


 そこは、非常に重要な問題では?


 私は、また首を傾げた。


 ……どうやら、答えの出ない難問らしい。


     ◇


 ルナは、メイドたちに囲まれて楽しそうだった。


「もっと撫でてほしいにゃー!」


「いいよー!」


「可愛いー!」


「ふかふかだね!」


 ……ふかふか。


 また、その言葉。


 私は、自分の毛並みを一度見下ろした。


 ふかふかと言えば、私。


 モフモフと言えば、私。


 カトレアが名付けてくださった、モフ太。


 その私が、今では寝床の端で控えている。


 ……ふむ。


 何とも奇妙な光景である。


 私は、ふと考えた。


 私以外のモフモフなど、いなくなればいい。


 ……そうだ。


 そうすれば、こうして毛並みの称賛を奪われることもない。


 アレックスも。


 キャッツも。


 そして、ルナも。


 ……いや。


 駄目だ。


 そんなことを願うべきではない。


 アレックスは、ニーナの大切な魔獣だ。


 キャッツは、ご主人様の屋敷で暮らす家族だ。


 ルナだって、晴斗の相棒として迎えられたばかりだ。


 誰かがいなくなれば、悲しむ人がいる。


 それは、カトレアの望むことではない。


 ……分かっている。


 私は、ちゃんと分かっているのだ。


 ただ。


 できれば。


 私の毛並みの素晴らしさを、もっと正確に評価していただきたい。


 それだけである。


 ……本当に、それだけ。


 私は静かに前脚を揃えた。


 そうする間にも、ルナの周りでは笑い声が続いている。


「この子、抱っこしてもいい?」


「もちろんにゃー!」


 ……抱っこ?


 私は思わず顔を上げた。


 ルナが、メイドの腕に収まった。


 ふわふわと揺れる尻尾。


 嬉しそうな鳴き声。


 そして、止まらない「可愛い」の嵐。


 ……なるほど。


 そう来ましたか。


 抱っこ。


 それなら私も得意だ。


 晴斗にも抱いていただいている。


 カトレアにも、何度も抱き上げていただいた。


 五十センチの体は、そういうときに実に便利である。


 私は、ご主人様の《縮小》に心から感謝している。


 ……ただ、今は。


 誰も、私を抱き上げようとはしない。


 ……大人である。


 私は大人の熊である。


 ……少なくとも、そう振る舞いたい。


 私はゆっくり目を閉じた。


 気持ちを整えよう。


 怒ってはいけない。


 嫉妬してはいけない。


 ルナは新しい家族だ。


 仲良くせねば。


 ……仲良く。


 ……クソ猫め。


 いけない。


 また出た。


 心の中まで、言葉が荒れている。


 私は深く反省した。


     ◇


 そのとき、ルナがこちらを見た。


 メイドの腕の中から、大きな瞳で私を見つめている。


「モフ太も来るかにゃー?」


 ……何と?


 私も、そちらへ?


 私は一瞬、返事に困った。


 ルナは、首を傾げている。


 ……何でしょう。


 あの顔。


 居間で私を「毛玉」と呼んだときとは、少し違う。


 今は、ただ不思議そうだ。


「一緒に撫でてもらうにゃー!」


 ……ほほう。


 一緒に。


 撫でてもらう。


 ……なるほど。


 あの猫は、何も気にしていないらしい。


 私がどれほど悩んでいるかなど、まったく知らない。


 それも当然だ。


 私は一言も口にしていないのだから。


 ……それにしても。


 随分と無邪気な誘いだ。


 私は、そっと前脚を揃え直した。


「お気遣いありがとうございます。私はここで結構でございます」


 声は、落ち着いていた。


 自分でも感心するほどに。


 ルナが耳を動かす。


「そうかにゃー?」


「はい。どうぞ、皆様とお過ごしください」


 ……立派だ。


 これぞ、礼儀正しい先輩の対応。


 毛並みのことで取り乱すような熊とは、誰も思うまい。


「わかったにゃー!」


 ルナは素直に頷いた。


 そして、またメイドたちへ頭を寄せる。


「にゃー、ここが好きにゃー!」


 ……ああ。


 そうですか。


 それは、よろしゅうございました。


 私は、心の中だけで深々と一礼した。


 ……よろしいわけがあるか!!


 ……失礼。


 少々、取り乱した。


 もちろん、口には出していない。


 外から見れば、私は静かに座っているだけの熊である。


 この落差こそ、今の私を最も正確に表しているだろう。


     ◇


 しばらくして、メイドたちは仕事へ戻るため、少しずつ部屋を離れていった。


「また明日ね、ルナちゃん!」


「おやすみにゃー!」


「モフ太も、おやすみ!」


「おやすみなさいませ」


 私は、最後まで礼儀正しく見送った。


 足音が遠ざかる。


 廊下に、静けさが戻ってきた。


 ……ふぅ。


 やっと、落ち着いた。


 ルナは新しい寝床の上で、気持ちよさそうに体を丸めている。


 こちらを見て、尻尾をひと振りした。


「モフ太、おやすみにゃー!」


 ……ふむ。


 先ほどの騒ぎからは想像できない、穏やかな声だ。


 私は静かに答えた。


「おやすみなさいませ、ルナ」


 ……悪い子ではないのだろう。


 晴斗を守ると言い切った。


 ご主人様の命令も、きちんと聞く。


 さっきだって、私を撫でる輪へ誘ってくれた。


 少なくとも、意地悪で家族の注目を独り占めしているわけではない。


 ……分かっている。


 ルナの存在が、誰かの幸せを奪うわけではないことくらい。


 だが、分かっていることと、気持ちが納得することは別らしい。


 私は、自分の寝床へ伏せた。


 柔らかな敷物の感触が、体を包む。


 考えるべきことは、まだ残っている。


 どうすれば、ルナを受け入れられるのだろう。


 どうすれば、この胸の中にある面白くなさを抑えられるのだろう。


 ……私は、護衛だ。


 カトレアの笑顔を守る。


 晴斗が安全に冒険できるよう、必要なら力を貸す。


 そして、新しい家族を歓迎する。


 それが、私の務めだ。


 ……よし。


 もう一度、最初から整理しよう。


 ルナは、猫だ。


 私は、熊だ。


 種類が違う。


 ……ここが、重要なのではないか。


 私は、ふと顔を上げた。


 ルナの毛並みは確かに柔らかそうだ。


 メイドたちは、ふかふかと褒めていた。


 しかし。


 猫のふかふかと、熊のモフモフは、本来まったく別のものではないだろうか。


 ……そうだ。


 そう考えればいい。


 ルナは猫。


 つまり、猫である。


 私のような、立派な熊のモフモフではない。


 ……なるほど。


 これは、実に明快な結論だ。


 私は少しずつ、気持ちが落ち着いていくのを感じた。


 ルナがどれほど可愛がられようと、私のモフモフの地位は揺るがない。


 比べる対象ですらないのだから。


 ……そう。


 あれはモフモフではない。


 猫なのだ。


 ……いや、先ほどメイドたちは「ふわふわ」と言っていた気もするが。


 そこは、あえて深く考えないことにしよう。


 大事なのは、私が納得できるかどうかである。


 ……よし。


 ルナは、家族として認めよう。


 晴斗の護衛としても歓迎する。


 言葉遣いについては、少しずつ教えて差し上げればいい。


 毛玉と呼ぶ癖も、いずれ直るだろう。


 ……それまでは、忍耐だ。


 何しろ、私は礼儀正しい大人の熊なのだから。


     ◇


 静かになった廊下の向こうから、軽い足音が聞こえてきた。


 私は、すぐに顔を上げた。


 この足音。


 聞き間違えるはずがない。


「モフ太、まだ起きてる?」


 カトレアだった。


 ……カトレア!


 私は思わず立ち上がった。


「はい。起きております」


 カトレアが、寝床のそばへしゃがみ込む。


「今日は大変だったね」


「お気遣いありがとうございます」


「でも、ルナとも仲良くなれそうでよかった」


 カトレアが、嬉しそうに笑った。


 ……ああ。


 やはり、そうなのだ。


 この笑顔を、守りたい。


 ルナと仲良くすることが、カトレアの喜びにつながるのなら。


 私は、そうするべきなのだろう。


「はい。これからも、家族として仲良くしてまいります」


「うん!」


 カトレアが、私の頭に手を伸ばした。


 いつもの温もり。


 いつもの優しい撫で方。


 耳の後ろから背中へ、ゆっくりと指先が動く。


 私は、そっと目を閉じた。


 ……ああ。


 これだ。


 何度撫でていただいても、幸せな気持ちになる。


 その手の感触だけで、今日一日の騒ぎが遠ざかっていく。


 ルナとの戦いも。


 メイドたちの歓迎も。


 すべて、大したことではなくなる。


 ……私は、カトレアの護衛なのだ。


 そして。


 カトレアにとって、私が大切な家族であることも変わらない。


「おやすみ、モフ太」


「おやすみなさいませ、カトレア」


 カトレアが立ち上がり、廊下の向こうへ歩いていく。


 私は、姿が見えなくなるまで見送った。


 ……うむ。


 これで、完全に気持ちが決まった。


 ルナは新しい家族。


 晴斗の相棒。


 あの猫は、あの猫なりに家族の一員として頑張っていくのだろう。


 私は、それを認めよう。


 むろん、必要なら助けるつもりだ。


 同じ屋敷で暮らす者なのだから。


 ……ただし。


 一つだけ。


 絶対に譲れないことがある。


 私は、自分の毛並みを見下ろした。


 柔らかい。


 艶もある。


 何より、カトレアが大好きだと言ってくださった毛並みだ。


 ……やはり、素晴らしい。


 アレックスにも負けない。


 キャッツにも負けない。


 ルナは、そもそも猫なので比較対象外。


 ……よし。


 問題は、すべて解決した。


 私は寝床へ体を丸めた。


 反対側から、ルナの静かな寝息が聞こえる。


 ……ふむ。


 何とも平和な夜だ。


 明日からは、またいつもどおりの日々が始まる。


 晴斗は稽古に励み、ルナが付き添う。


 カトレアは学校や花壇へ向かい、私がその安全を守る。


 皆が笑顔で過ごせるよう、できることを果たす。


 それが、私の役目である。


 ……新しい家族とも、仲良くするのです。


 はい。


 大変立派な決意だと、自分でも思う。


 ……しかし。


 カトレアに撫でていただくのは、私が一番でございます。


 その点だけは、未来永劫、譲れません。


 私は、心の中で厳かに宣言した。


 そして、満足して目を閉じる。


 ……あのクソ猫。


 明日、もしまた毛玉などと呼んだら。


 ……いや。


 仲良く。


 仲良くするのです。


 ……するのですぞ。


 ……たぶん。

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