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第8話:毛玉VSにゃー!

 屋敷の庭に出ると、風に揺れる花の香りがした。


 夕食まで、もう少し。


 普段なら、この時間は居間で紅茶を飲んでいるところだ。


 ところが今日は、私の前を小さな熊が歩き、その後ろを長い牙のある猫がついてきている。


 どちらも全長五十センチほど。


 遠くから眺めれば、仲のいい動物たちのお散歩に見えるだろう。


 実際には、これから一騎打ちをするつもりらしい。


 ……うん。


 とんでもない夕方になったものだ。


「お父さん、本当に大丈夫?」


 隣を歩くカトレアが、心配そうに顔を上げた。


「大丈夫だよ。場所はいつもの亜空間にするし、私がきちんと見ているから」


「そっか……。でも、モフ太があんなに怒るなんて思わなかった」


「私もだよ」


 普段のモフ太は、とにかく礼儀正しい。


 カトレアの護衛にも真面目だし、家族への挨拶も欠かさない。


 それが、さっきは「表でろぉぉぉ!」である。


 ……ものすごい迫力だったなぁ。


 あんな口調で怒るモフ太を見られたのは、ある意味貴重かもしれない。


 ただし、二度目はできれば遠慮したい。


 私は前を歩くモフ太へ声をかけた。


「モフ太、本当に手合わせで済ませるんだよ?」


「もちろんでございます、ご主人様。私は常に冷静でございます」


 きっぱりと答える小さな熊。


 その背中から、闘志が漂っている気がする。


 ……冷静、ねぇ。


「毛玉、さっきから張り切ってるにゃー!」


 後ろからルナが楽しそうに言った。


 ぴくり。


 モフ太の耳が動く。


「……ルナ」


「何かにゃー、ご主人?」


「毛玉って呼ぶのは、もうやめようか」


「……わかったにゃー」


 しゅんと耳を倒すルナ。


 反省してくれた……と思いたい。


 モフ太が小さく息を吐いた。


「ご主人様。どうか、ご心配なさらず」


「うん。信じてるからね」


 そう答えながら、私は横目で桜花を見た。


 桜花は、いつもの穏やかな笑顔だった。


 ……何だろう。


 ちょっと楽しそうじゃない?


「桜花?」


「はい、リアリス様」


「……何でもない」


「ふふっ」


 笑ってる。


 絶対に笑ってる。


 その隣では楓が、無言で二匹の背中を見つめていた。


 表情はいつもどおり。


 でも、ほんの少しだけ歩くのが速い。


 ……楓も楽しみにしてるのかな。


 私だけが心配しているような気がしてきた。


 まあ、見守るしかないか。


     ◇


 花壇から十分に離れた庭の一角で、私は足を止めた。


「さて。ここからは、いつもの場所だね」


 晴斗君が首を傾げる。


「いつもの場所、ですか?」


「うん。稽古するときに使ってるんだよ。今日はちょっと広めにしておこう」


 私は広大な草原と、その向こうに連なる山々を思い浮かべた。


 人も町もない。


 どれだけ激しく動いても、外の世界に被害は及ばない。


 そして、庭から出入りできる木製の扉。


「《亜空間生成》」


 目の前に、見慣れた扉が現れた。


「……えっ」


 晴斗君が声を漏らす。


「庭に、扉が……?」


「この先が稽古場なんだ」


「……すごい。何もないところから……」


 私は扉を開いた。


 向こう側には、青い空が広がっていた。


 風の通る草原。


 遠くに見える低い山並み。


 足元には、柔らかな草が揺れている。


 晴斗君が、一歩入ったところで立ち止まった。


「……ええっ!?」


 さっきより、ずっと大きな声だった。


「庭の扉ですよね!? なんでこんなに広いんですか!?」


「あはは。亜空間だからね」


「……そういうものなんですか……?」


「少なくとも、うちではそうだねぇ」


 晴斗君は、言葉を失ったまま周囲を見渡している。


 ……うん。


 初めて来たら、驚くよね。


 私も最初に自分で作ったときは、なかなか面白かったものだ。


 桜花とカトレアは慣れた様子で扉を通る。


 楓も、すぐに晴斗君の隣へ並んだ。


「……稽古場」


 短い一言に、晴斗君が振り向く。


「楓さん、いつもここで……?」


 楓はこくりと頷いた。


「……はい」


 晴斗君は、もう一度広い草原を見た。


「……僕の知ってる稽古場と、規模が違いすぎます……」


 何だか申し訳なさそうに言われてしまった。


 ……いやぁ。


 便利だから、つい広く作っちゃうんだよね。


 ただ、今日ばかりは、この広さが必要になりそうだ。


「みんな、まずは安全な場所を確保しようか」


 私は、入口から少し離れた場所を観戦席に決めた。


「《結界》」


 桜花、楓、カトレア、晴斗君と私。


 その周囲を包み込むように、外からの攻撃を完全に遮る結界を張る。


 ……これで、流れ弾が飛んできても問題なし。


 もちろん、私は結界の外へ出ることもできるけど、今日は審判に徹するつもりだ。


 モフ太とルナにも、勝手に観戦場所へ近づかないよう伝えた。


「いい? 合図までは始めないこと。それから私が止めたら、その場ですぐに終了だよ」


「承知いたしました」


「わかったにゃー!」


 二匹とも、立派なお返事。


 その真剣な顔を見ていると、ちょっと安心する。


 ……このあと、どんな顔になるかは分からないけど。


     ◇


「それでは、ご主人様。失礼いたします」


 モフ太が丁寧に一礼した。


 そして草原の中央へ向かって歩き始める。


 小さな体が、少しずつ遠ざかっていく。


 ……うん。


 あそこなら、十分に距離があるね。


 モフ太は立ち止まり、こちらを振り返った。


「準備をいたします」


「うん、どうぞ」


 次の瞬間。


 小さな熊の体が、ぐんと大きくなった。


 伸び上がる背中。


 太くなる前脚。


 地面を覆うほどの巨大な影。


 あっという間に、全長五メートルのバイオレンスグリズリーが草原に立っていた。


 久しぶりに見ると、やっぱり大きいなぁ。


「でっか!!!!」


 晴斗君が、思わず叫んだ。


 ……うん。


 いい反応だね。


「えっ、ちょっと待ってください! あれ、モフ太なんですか!?」


「そうだよ。いつもは《縮小》で小さくしてるんだ」


「……あれが!?」


 晴斗君の視線が、足元から巨大な熊の頭まで行ったり来たりしている。


 ……なるほど。


 普段は赤いリボンをつけた、可愛い小熊だからねぇ。


 本来の姿を初めて見たら、驚くのも無理はない。


 カトレアは慣れた様子で手を振った。


「モフ太ー! 頑張ってね!」


「はい、カトレア。お任せください!」


 遠くから、よく通る声が返ってきた。


 やっぱり、いつもの丁寧なモフ太だ。


 なんだか、ほっとするね。


 すると、足元から声がした。


「にゃーも準備するにゃー!」


 ルナだ。


 こちらも、尻尾をぴんと立てている。


「ルナ、向こうへ行ってから大きくなるんだよ」


「了解にゃー!」


 ルナは軽やかに走り出した。


 小さな猫の姿で草を蹴り、モフ太から十分に離れた位置まで進む。


 そこで振り返り、私たちへ前脚を上げた。


 ……あれ。


 今、手を振った?


 ちょっと可愛いな。


「戻るにゃー!」


 ルナの体が、みるみる大きくなっていった。


 細い尻尾が長く伸び、肩の筋肉が盛り上がる。


 しなやかな四肢。


 鋭く輝く瞳。


 そして、太く湾曲した二本の長い牙。


 そこに現れたのは、全長五メートルのジャイアントサーベルタイガーだった。


 やっぱり迫力があるねぇ。


「でっか!!!!」


 晴斗君が、二度目の絶叫を上げた。


 私は思わず笑ってしまった。


「晴斗君、さっきと同じこと言ってるよ」


「言いますよ! 普通、言いますって!」


「そうかなぁ?」


「そうです! だって僕の相棒、さっきまで猫だったじゃないですか!」


 ……うん。


 今も猫と言えば猫なんだけどね。


 ……大きすぎるだけで。


 晴斗君は、大きな口を開けたルナを見つめている。


 牙がよく見える。


 かなり長い。


 晴斗君が、ゆっくり私へ顔を向けた。


「……リアリスさん」


「うん?」


「……あの牙、僕より長くないですか……?」


「どうだろう。今度、比べてみようか」


「比べなくていいです!!」


 ……あはは。


 驚きっぱなしだねぇ。


 でも、顔には少しだけ楽しそうな色もある。


 自分の相棒が、あんな姿になるんだから。


 きっと、特別な気持ちなんだろうな。


     ◇


 いよいよ開始、というところで。


 私は一つ、大切なことを思い出した。


「……あっ、そうだ」


 桜花がこちらを向く。


「いかがなさいましたか?」


「シルベスターさんにも、見てもらおうかな」


「……シルベスター様に、でございますか?」


「うん。モフ太とルナの強さを知ってもらっておけば、いろいろ安心だと思うんだ」


 ……そう。


 ギルドでは、さんざん心配されてしまったからね。


 でも、ちゃんと管理できているところを見てもらえば、納得してくれるはず。


 たぶん、喜んでもらえるんじゃないかな。


 私は迷わず魔法を使った。


「《映像通話》」


 目の前に画面が現れる。


 呼び出し先は、シルベスターさん。


 しばらくすると、画面に見慣れた強面が映った。


『……リアリスか』


「こんにちはー、シルベスターさん!」


『……なんだ。今度は何をやらかした』


 挨拶がそれ!?


 今日は、まだ何もしてないのに。


 ……いや。


 正確には、これからなんだけど。


「違いますよ! ちょっと面白いものがあるので、一緒に見ませんか?」


『……面白いもの?』


「はい! なかなか見られないと思いますよ!」


 シルベスターさんの目が、細くなった。


『……待て。嫌な予感がする』


 ……おや。


 何でだろう。


 私は、画面の向きを草原へ変えた。


 大きな熊。


 大きな虎。


 それぞれ距離を取って、こちらの合図を待っている。


「見えますか?」


『…………』


 ……あれ。


 急に黙っちゃった。


「シルベスターさん?」


『……おい』


「はい?」


『……それは、なんだ』


 ……おっ。ちゃんと見えてるみたいだね。


「モフ太とルナです!」


『……そうか。見りゃ分かる。なんで元の大きさなんだ』


「これから手合わせしてもらうんですよ」


『……手合わせ?』


「はい! Sランクの魔獣同士のガチバトルです!」


 画面の向こうで、シルベスターさんがゆっくり額を押さえた。


『……は?』


 ……おや。


 そんなに驚くことかな。


 ギルドマスターなら、魔獣同士の力比べも興味があると思うんだけど。


『お前、何を言ってるか分かってんのか!? その二匹が本気でやり合ったら……!』


「大丈夫です。ここ、亜空間ですから!」


『……あくうかん?』


「外の世界には影響しませんし、みんなも結界の中にいます!」


 私は周囲の様子を見せた。


 晴斗君。


 カトレア。


 桜花と楓。


 みんな、観戦場所で安全に待っている。


 ……よし。


 準備は万全だね。


『……俺は、そういう心配をしてるんじゃ……』


 シルベスターさんが、何か呟いている。


 ……ん?


 よく聞こえなかったな。


「それじゃあ、始めますね!」


『おい、リアリス!?』


 ……あっ、呼ばれた。


 でも、もう二匹とも準備できてるからね。


 私は草原へ向き直った。


「モフ太、ルナ! 合図で始めていいよ!」


 巨大な熊が、ゆっくり首を動かした。


「承知いたしました!」


 反対側では、ルナが地面を蹴る。


「いつでもいいにゃー!」


 よし。


 私は軽く手を上げた。


「それじゃあ……始め!」


     ◇


 次の瞬間、二匹の姿が消えた。


 ……消えたように見えただけか。


 あまりの速さに、晴斗君が目で追えなかったらしい。


「……えっ!?」


 草原の中央で、轟音が響いた。


 巨大な前脚と、鋭い爪がぶつかり合う。


 衝撃が地面を走り、草が一斉になぎ倒された。


 さすがSランク同士だ。


 ルナは身軽さを生かして、モフ太の側面へ回り込む。


 その長い牙が、熊の肩へ向かった。


 だが、モフ太の《絶対防御》が攻撃を受け止めた。


 傷一つつかない。


 モフ太も間髪入れず前脚を振るう。


 大きな爪がルナをとらえた。


 こちらも《絶対防御》で無傷。


 それでも衝撃に押されて、ルナの巨体が草原を滑った。


「……す、すごい!」


 晴斗君が、結界の中から身を乗り出した。


 その目には、驚きと興奮が浮かんでいる。


 ……うん。


 これが、ルナの実力の一端だ。


 ただし、晴斗君が扱うべき力の大きさでもある。


 そこは忘れないでほしい。


 目の前では、二匹が再びぶつかった。


 ルナは攻撃の鋭さで押す。


 モフ太は強靱な体と守りで受け止める。


 どちらも決定打を与えられない。


 互いに引かず、地面に大きな亀裂が走った。


 ……うん。


 戦いとしては、きれいに互角だね。


 でも。


 このあと私が一番驚くことになったのは、強さではなかった。


「毛玉、遅いにゃー!」


 ルナの声が、草原に響いた。


 ……あっ。


 また言った。


 しかも、あんなに大きな声で。


「……んだとぉ!?」


 モフ太の返事が、轟音に負けない勢いで響いた。


 声が変わった!


「このクソ猫がぁぁぁぁ!!」


 ……えええっ!?


 モフ太!?


 ……あのモフ太が!?


 クソ猫って言った!?


 私は思わず桜花を見た。


 桜花は口元へ手を添えている。


 ……笑ってる。


 いや、笑うよね!


 だって、いつもは「承知いたしました」「お任せください」の熊なんだよ!?


 晴斗君も、目を丸くしていた。


「……リアリスさん」


「……うん?」


「……モフ太、あんな言葉遣いもするんですね……」


「……私も、今日初めて知ったよ」


 ……本当にね。


 新しい家族が一匹増えただけで、五年間知らなかった一面が出てきた。


 ……いやぁ。


 世の中、分からないものだ。


 そのとき、ルナが尻尾を振った。


「けだまぁぁぁぁーーーー!」


 ……おおおっ!?


 大きな声で、毛玉!?


 わざとだよね。


 絶対に、わざとだよね!?


 モフ太の咆哮が返ってきた。


「誰が毛玉だ、このクソ猫ぉぉぉ!!」


 巨体が跳ね上がる。


 ルナも負けじと飛びかかり、二匹が正面から激突した。


 轟音。


 土煙。


 遠くの山肌が崩れる。


 ……うわぁ。


 結界、張っておいて正解だった。


 それにしても。


 モフ太、怒り方がすごいなぁ。


 あんな姿、見たことがない。


 ……ちょっと、面白くなってきちゃった。


 でも、笑ったら怒られそうだから、我慢しよう。


「お父さん、モフ太、すごく怒ってる……」


 カトレアが心配そうに呟く。


「そうだね。でも、ちゃんと手合わせの範囲でやってくれてるよ」


 私は二匹の動きを追った。


 攻撃は激しいが、どちらも私の合図を意識している。


 こちらへ飛び込んでくる様子もない。


 それに、お互いに《絶対防御》が効いている。


 危険があればすぐ止められる状態だ。


 よかった。


 ……と思った、その直後。


「アレックスーーーー!!」


 ……えっ?


 ……は?


 ……アレックス?


「……アレックス、関係なくない!?」


 思わず、声が出てしまった。


 ……だって!


 アレックスはニーナちゃんのおうちにいる、あの小さな魔獣でしょう!?


 ここにいないよ!?


 しかも、相手はルナなんだけど!


 晴斗君が、私を見た。


「……アレックスって、誰ですか?」


「カトレアのお友達のおうちにいる子だよ」


「……えっ?」


「モフ太が、毛並みを勝手にライバル視してるんだ」


 ……あっ。


 説明してる自分でも、何だかおかしくなってきた。


 晴斗君の顔が、少しずつ困惑に染まっていく。


「……つまり、今の戦いとは……」


「……関係ないね」


「……関係ないんですね……」


 ……うん。


 私も、そう思う。


 横で、桜花が肩を小さく震わせていた。


 ……笑いをこらえてる?


 ……まあ。無理もないか。


 こんなこと、誰も予想できないでしょう。


「……モフ太、アレックスも気にしてたんだ……」


 カトレアまで、少し呆れたように笑った。


 そういえば、以前から毛並みにはこだわってたもんね。


 それを、ルナに毛玉呼ばわりされた。


 ……なるほど。


 これは、思っていた以上に根が深そうだ。


「けだまぁぁぁぁーーーー!」


 ルナの声が、また響いた。


「うるせぇぇぇぇ!!」


 モフ太が応える。


 ……いや。


 もう、何の戦いなんだろう。


 晴斗君が、ぽつりと呟いた。


「……これ、怪獣大決戦じゃないですか……」


 うまいこと言うね。


「確かに、そう見えるねぇ」


 全長五メートルの熊と虎。


 激しい衝突で巻き上がる土煙。


 そして、響き渡る「毛玉」と「クソ猫」。


 ……うん。


 ものすごく変な怪獣大決戦だ。


 私は、思わず笑ってしまった。


 ……ただ。


 笑っていられるのも、亜空間の中だからこそ。


 外だったら、しゃれにならない。


 そのことだけは、忘れないようにしよう。


     ◇


 しばらく、同じような攻防が続いた。


 ルナが攻める。


 モフ太が受ける。


 次の瞬間には立場が逆転する。


 どちらも《絶対防御》に守られ、傷一つつかない。


 実力も互角。


 先に疲れた方が負けるかと思ったが、二匹とも相当な体力があるらしい。


 ……これ、放っておくと日が暮れるなぁ。


 いや、ここでは時間の感覚がちょっと違うんだけど。


 とにかく、夕食までには戻りたい。


 ……それに。


 十分、力は見せてもらった。


 晴斗君も、すっかりルナの実力を理解した顔をしている。


 ……うん。


 そろそろ終わりにしよう。


 私は結界の中から手を上げた。


「はい、そこまでー!」


 よく通る声で、二匹へ呼びかける。


「モフ太! ルナ! 手合わせ終了!」


 巨大な熊と虎が、ぴたりと動きを止めた。


 ……おお。


 ちゃんと聞いてくれた。


 少し距離を取って、互いに顔を見合わせている。


「二匹とも、小さく戻っておいでー!」


「……承知、いたしました……!」


「……わかったにゃー……!」


 ……おっ。


 今度は、返事に元気がないね。


 さすがに疲れたかな。


 二匹の体が、元の大きさへ縮んでいく。


 全長五メートルの巨体が、あっという間に五十センチほどになった。


 そして。


 てくてく。


 小さな熊と猫が、こちらへ歩いてくる。


 ……おお。


 可愛い。


 さっきまで山を崩していたとは、到底思えないねぇ。


 ただ。


 近づくにつれて、二匹の呼吸が荒いことに気づいた。


「……はぁ……はぁ……」


「……ふぅ……にゃー……」


 ……お疲れさま。


 どちらも本気だったんだね。


 私は、結界の中から二匹を迎えた。


「お疲れさま! 二匹とも、よく頑張ったね」


 モフ太が、深々と頭を下げた。


「……申し訳ございません、ご主人様。決着をつけることができませんでした……」


「ううん。互角だったよ。どちらも、とても強かった」


 私は優しく笑った。


 ……うん。


 実際、見事な戦いだった。


 それに、あれ以上続けても決着はつかなかったと思う。


 ルナも、晴斗君を見上げた。


「次は負けないにゃー……!」


 ……あっ。


 まだやる気だ。


 ……いやいや。


 次は、しばらくいいよ。


 晴斗君がしゃがみ込み、ルナを撫でた。


「お疲れさま、ルナ。本当に強かったね」


「……晴斗、見ててくれたかにゃー?」


「うん。びっくりしたよ」


 晴斗君は、少し照れたように笑った。


「……僕、あんなに強い子と一緒に冒険するんですね」


「そうだね」


「……ちゃんと頑張らないと、釣り合わないですね」


 その言葉、いいね。


 ルナの力に頼り切るんじゃなくて、自分も前へ進もうとしている。


 ……うん。


 晴斗君なら、大丈夫。


 私は、そっと頷いた。


 その横では、カトレアがモフ太を抱き上げていた。


「モフ太、すごかったよ!」


「……ありがとうございます、カトレア」


 モフ太の声が、ようやくいつもの調子に戻っている。


 カトレアが背中を撫でると、少しだけ誇らしそうに胸を張った。


 ……よかった。


 機嫌も直ってきたみたいだ。


「モフ太、ルナと仲良くできる?」


 カトレアが、優しく尋ねた。


 モフ太は、一度だけルナを見た。


「……もちろんでございます。私は、家族同士の争いを望んでおりません」


 立派!


 やっぱり、頼りになるねぇ。


 ……さっきの罵声を聞かなければ、もっと感動してたと思う。


 ルナも、晴斗君の隣で前脚を揃えた。


「にゃーも仲良くするにゃー!」


「うん。よかった!」


 カトレアが嬉しそうに笑った。


 ……ああ。


 これで、ひとまず仲直りだ。


 ……ただ。


 二匹が、まだ少し互いを気にしているのは分かる。


 まあ、初日だからね。


 焦らず、少しずつ仲良くなってくれればいい。


 ……それに。


 どちらも大切な家族になるんだから。


     ◇


「リアリス様」


 桜花が、そっと私の袖を引いた。


「ん? どうしたの?」


「……周囲をご覧くださいませ」


 ……周囲?


 私は、改めて草原を見渡した。


 ……おお。


 何て言えばいいんだろう。


 さっきまで、風に草が揺れる綺麗な景色だったんだよね。


 それが今は。


 地面には、深い亀裂。


 あちこちに、巨大な穴。


 遠くの山は、半分ほど形を失っている。


 草原だった場所には、広い範囲で地面がむき出しになっていた。


 ……うん。


 大変なことになってる。


「……これ、すごいねぇ」


 私が呟くと、晴斗君が隣へ立った。


「……すごいっていうか、災害ですよ……」


「確かに、町でやったら大騒ぎだろうね」


「町どころじゃないですよ!」


 晴斗君が、珍しく強い声を出した。


 ……おっ。


 そこまで言う?


 私は、遠くの山を見た。


 ……いやぁ。


 たしかに、あの壊れ方はすごい。


 もし外の世界で同じことをやったら。


 ……うーん。


「……国が三つくらい、なくなりそうだね!」


「……三つ……」


 晴斗君が、小さく呟いた。


 ……あれ。


 顔色が、ちょっと悪い。


「……リアリスさん、今、国が三つって……」


「うん。もちろん、ここは亜空間だから外には影響しないよ」


「……そういう問題じゃないです……」


 ……あっ。


 そうか。


 初めて見るには、ちょっと刺激が強すぎたかな。


 私は、改めて二匹へ向き直った。


 ……ここは、きっちり言っておかないとね。


「モフ太、ルナ!」


 二匹が顔を上げる。


「これから先、亜空間以外では絶対にこんなふうに暴れないこと! 町も、森も、みんなが暮らしている場所だからね!」


「承知いたしました、ご主人様」


「わかったにゃー!」


 ……うん。


 今度は、二匹とも真剣な顔だ。


 その返事を聞いて、少し安心した。


 ここは、笑って済ませられないところだからね。


「晴斗君も、ルナが強いからって無理な戦いに出ないようにね。危険なときは、まず逃げることも大切だから」


「はい! 分かりました!」


 晴斗君が、しっかり頷いた。


 よし。


 これなら大丈夫かな。


 ルナも、大きな瞳で晴斗君を見上げている。


「晴斗は、にゃーが守るにゃー!」


「……ありがとう、ルナ」


 ……ああ。


 いい光景だねぇ。


 ちょっとだけ、さっきの怪獣大決戦を忘れそうになる。


 ……まあ。


 周りが、こんなに荒れていなければね。


     ◇


「……あっ」


 私は、目の前の画面を思い出した。


 そうだった。


 シルベスターさんと《映像通話》してたんだ。


 ……危ない。


 すっかり忘れるところだった。


「シルベスターさーん!」


 画面をこちらへ向ける。


 シルベスターさんは、まだ映っていた。


 ……おお。


 ちゃんと見てくれてたんだね。


 その表情は。


 ……うーん。


 何とも言えない顔だった。


 口が少し開いている。


 目は、さっきまで二匹が戦っていた場所を見つめたまま。


 ……あれ?


「……どうでした? すごかったでしょう!」


『…………』


 ……返事がない。


「モフ太もルナも、互角だったんですよ!」


『…………』


 ……おや。


 そんなに驚いたのかな。


 私は、ちょっと考えた。


 ……そうだ。


 せっかく、こんなに迫力があるんだから。


「シルベスターさん、これ、見世物にしたら面白いかもしれませんね!」


 桜花が、わずかに首を傾げた。


「……見世物、でございますか?」


「うん! もちろん、映像だけだよ。実際に戦わせたら大変だからね」


 私は、画面の中のシルベスターさんへ笑いかけた。


「どうです? Sランクの魔獣同士の戦いなんて、普通は見られないでしょう?」


『…………』


 ……おや。


 やっぱり、返事がない。


「……シルベスターさん?」


『…………』


「もしもーし?」


 画面の前で手を振る。


 シルベスターさんは、動かない。


 ……あれ。


 もしかして、通信が止まっちゃった?


 ……いや。


 ちゃんと映像は動いてるな。


 さっき、瞬きしたし。


 ……ということは。


 ……考えるのをやめちゃったのかな。


 獣人国のギルドの受付嬢さんを、ちょっと思い出した。


 ……うん。


 みんな、似たような反応をするねぇ。


「……駄目っぽいかなぁ」


 私は、少し残念に思いながら通話を終了した。


 ……いやぁ。


 面白いと思ったんだけど。


 ……まあ。


 シルベスターさんには、ちょっと刺激が強かったのかもしれない。


 また今度、普通のお話をしよう。


 ……普通のお話。


 ……うん。


 何を話せば普通なんだろう。


 私には、ちょっと難しいかもしれないなぁ。


     ◇


 亜空間の出口へ向かう途中、晴斗君が何度も後ろを振り返っていた。


 ……分かるよ。


 あの荒れた地面を見たら、気になるよね。


 私も、ちょっとびっくりしたもの。


「リアリスさん、あそこは……このままでいいんですか?」


「うん。外の世界とは切り離されてるからね。次に使うときは、また整えておくよ」


「……なるほど」


 晴斗君は、ゆっくり頷いた。


 ……うん。


 納得してくれたみたいだ。


 ……ただ。


 まだ少し遠い目をしてるなぁ。


「……本当に、すごかったです」


 晴斗君が、ぽつりと呟いた。


「ルナも、モフ太も……。僕、あんな戦いを見たの、初めてです」


「私も、あの二匹が本気で戦うところは初めて見たよ」


 ……うん。


 特に、モフ太のあんな表情はね。


 ……あれは、なかなか忘れられない。


 小さく戻ったルナは、晴斗君の足元を歩いていた。


 晴斗君がしゃがみ込む。


「ねえ、ルナ」


「何かにゃー?」


「僕、まだ剣も魔法も上手に使えないんだ」


 ルナが、首を傾げた。


「だから、これから冒険者として活動するとき……一緒にいて、守ってもらってもいいかな?」


 ……おっ。


 改めて、お願いしてるんだね。


 さっきも相棒になるって話したけど。


 あんな戦いを見たあとだと、また少し違って感じるのかもしれない。


 ルナは、迷わず晴斗君へ近づいた。


「任せるにゃー! 晴斗のことは、にゃーが守るにゃー!」


 頼もしいねぇ。


 晴斗君が、ふっと笑った。


「ありがとう。僕も、ルナを守れるくらい強くなるよ」


「楽しみにしてるにゃー!」


 いいね。


 これから、二人でいろんな経験をしていくんだろうな。


 冒険者として、少しずつ強くなって。


 困っている人がいたら助けて。


 危険なことがあったら、支え合って。


 ……ああ。


 何だか、私まで楽しみになってきた。


 その横で、モフ太が小さく咳払いした。


「……ご主人様」


「うん?」


「今後とも、カトレアの護衛は私にお任せください」


「もちろん。いつも頼りにしてるよ」


「ありがとうございます」


 モフ太が、満足そうに頭を下げた。


 ……おお。よかった。


 今度こそ、本当にいつものモフ太だ。


 カトレアが、その背中を優しく撫でている。


「モフ太、これからもよろしくね」


「はい、カトレア」


 ……うん。


 二匹とも、それぞれ大切な相棒がいる。


 ……ああ。


 いい組み合わせだねぇ。


 私は木製の扉へ手をかけた。


「それじゃあ、そろそろ帰ろうか。巴さんの夕食に遅れちゃう」


「はい!」


「かしこまりました」


「……うん」


「にゃーも帰るにゃー!」


 みんなの声が重なった。


 ……おっ。


 何だか、賑やかでいいね。


 私は扉を開き、家族と一緒に庭へ戻った。


     ◇


 屋敷へ戻ると、ちょうど夕食の支度が整うところだった。


 廊下には、おいしそうな香りが漂っている。


 ……ああ。


 いい匂い。


 さっきまで地面が割れるほどの戦いを見ていたのに、お腹はちゃんと空くんだねぇ。


 食堂へ向かう前に、私たちは巴さんのところへ顔を出した。


「ただいま、巴さん!」


「あら、リアリスちゃん。おかえりなさい」


 巴さんが、にっこり笑った。


 その目が、足元の二匹に向く。


「……あら?」


 ……おっ。


 気づいたかな。


「そちらが、さっき話していた猫ちゃん?」


「そう! この子がルナだよ!」


 ルナが、ぴんと耳を立てた。


「初めましてにゃー!」


 巴さんが、少しだけ驚いた顔をした。


 それから、ふわりと笑った。


「あらあら。お話もできるのね。よろしくね、ルナちゃん」


「よろしくにゃー!」


 ……おお。


 すごい。


 巴さん、あっさり受け入れた。


 ……いや。


 さっき、家族が増えることはちゃんと話したからね。


 心の準備をしてくれてたんだろう。


「晴斗さんの相棒になったそうね」


「はい! ルナって名前を付けさせてもらいました」


 晴斗君が、嬉しそうに答える。


 巴さんは、優しく頷いた。


「素敵なお名前ね。これから二人で頑張ってね」


「ありがとうございます!」


「任せるにゃー!」


 ……ああ。


 いいねぇ。


 こんなふうに迎えてもらえると、ルナも安心するだろう。


 私は、ほっと息をついた。


 ……と思った、そのとき。


「ところで、リアリスちゃん」


「……はい?」


 巴さんが、にっこり笑った。


 ……おや。


 何だろう。


「皆さん、お外で何をしていたの?」


 ……あっ。


 聞かれた。


 どう説明しよう。


 Sランクの熊と虎が、亜空間で大決戦してましたって?


 ……言いにくいなぁ。


 私は、少し考えてから答えた。


「……ちょっと、ルナの実力を見てもらおうと思って……」


「そうだったの」


「うん。亜空間でね。安全には、ちゃんと気をつけたよ!」


 巴さんは、一度だけ頷いた。


「それならよかったわ。でも、夕食前にあまり無茶をしないでね」


「……はい」


 ……うん。


 何とか、怒られずに済んだ。


 いや、少しだけ注意されたけど。


 ……それはそうだよね。


 帰ってきたばかりで、また騒ぎを起こしたんだから。


「さあ、もうすぐご飯よ。手を洗って、食堂へいらっしゃい」


「はーい!」


 ……おお。


 いつもの巴さんだ。


 よかったぁ。


 私は、晴斗君とカトレアに声をかけ、食堂へ向かった。


 桜花も、ルナを優しく抱き上げてついてくる。


 モフ太は、カトレアの隣を歩いていた。


 ……うん。


 今日も、無事に夕食を迎えられそうだ。


     ◇


 食卓には、温かい料理が並んでいた。


 みんなの楽しそうな話し声。


 おいしい匂い。


 窓の向こうには、少しずつ暗くなる庭。


 ……ああ。


 やっぱり、こういう時間が一番落ち着くね。


 晴斗君は、食事の途中でも時々ルナの方へ目を向けていた。


 気になるよねぇ。


 新しい相棒ができたんだから。


 ルナは食堂の邪魔にならない場所で、巴さんが用意してくれた食事をおとなしく食べている。


 ……うん。


 いい子だ。


 さっきまで「けだまぁぁぁ!」って叫んでたとは、思えない。


 その横では、モフ太も普段どおり。


 ……ああ。


 やっと平和が戻ってきたね。


「晴斗君、今日は驚いたでしょう?」


 私が尋ねると、晴斗君は苦笑した。


「……驚きました。たぶん、今までで一番かもしれません」


「そんなに?」


「はい。猫が突然喋ったと思ったら、僕の相棒になって……そのあと、五メートルに大きくなって……」


 晴斗君は、少し遠い目をした。


「……国が三つなくなりそうな戦いまで見ましたし……」


 ……あっ。そこ、覚えてたんだ。


 私も、ちょっと言い方が大げさだったかもしれないねぇ。


「でも、ルナがいれば心強いでしょう?」


「はい。それは、本当にそう思います」


 晴斗君が、嬉しそうに笑った。


「僕も、早く一緒に依頼へ行けるようになりたいです」


「うん。楽しみだね!」


 こうやって、少しずつ前向きになってくれるのが嬉しい。


 日本から突然この世界へ来て、最初は不安ばかりだったはずだ。


 それが今は、自分から冒険者になると決めて。


 新しい相棒までできた。


 大きな一歩だと思う。


 食事が終わる頃には、晴斗君もすっかり笑顔になっていた。


 ……よかった。


 私は紅茶をひと口飲み、食卓を囲む家族を見渡した。


 今日も賑やかだねぇ。


 そして、これからはルナも一緒。


 ……うん。


 ますます賑やかになりそうだ。


     ◇


 夕食のあと。


 私たちは、ルナの寝る場所を用意することにした。


 場所は、二階。


 モフ太が普段使っている寝床の反対側だ。


 近くにしておけば、二匹とも安心できると思うんだ。


 さっきの様子を見ると、ちょっと心配でもあるけどね。


 私は、巴さんと相談して用意した新しい寝床を床に置いた。


 柔らかな敷物。


 体を丸めても十分な広さ。


 小さな枕代わりの布も添えてある。


 なかなかいい感じだ。


「ルナ、どうかな?」


「ふかふかにゃー!」


 ルナが、さっそく上に乗った。


 くるりと一回転。


 それから、ちょこんと座る。


 気に入ってくれたみたいだ。


 晴斗君も、嬉しそうに笑った。


「よかったね、ルナ」


「気に入ったにゃー!」


 これなら、今夜から安心して眠れるね。


 モフ太は、自分の寝床の方で静かに座っていた。


 私は、そちらへ目を向けた。


「モフ太も、よろしくね」


「承知いたしました。新しい家族として、きちんと迎え入れる所存でございます」


 ……おお。


 立派なお返事!


 ……さっきのあれは、もう忘れていいかな。


 ……うん。


 きっと、大丈夫。


 ……そのとき。


「毛……」


 ルナが、何か言いかけた。


「……ルナ?」


 私が名前を呼ぶと、ルナははっとして口を閉じた。


 ちゃんと覚えてたね。


「……よろしくにゃー、モフ太!」


 ……今度は、ちゃんと名前で呼んだ!


 モフ太も、一度だけ頷いた。


「……よろしくお願いいたします、ルナ」


 よかった。


 二匹とも、少しずつ仲良くなれそうだ。


 カトレアも、ほっとしたように笑っていた。


 これで、寝床も決まった。


 今夜は、ゆっくり休めるね。


 私は、晴斗君へ向き直った。


「晴斗君、明日からも稽古を頑張ろうね」


「はい! ルナと一緒に、頑張ります!」


「にゃーも頑張るにゃー!」


 ……いいねぇ。


 やる気満々だ。


 楓が、静かに頷いた。


 ……おっ。


 先生も、やる気みたいだね。


 ……晴斗君。


 明日も、なかなか大変そうだ。


 でも、きっと楽しい一日になるでしょう。


     ◇


 夜。


 居間には、私と桜花だけが残っていた。


 テーブルには、温かい紅茶。


 窓の外には、月の光に照らされた庭が広がっている。


 ようやく、静かな時間だね。


 私は、椅子に深く腰を下ろした。


「……ふぅ」


 思わず、息が漏れる。


 今日は、本当にいろんなことがあった。


 獣人国へ行って。


 Sランクの魔獣を保護して。


 王様に通行許可をもらって。


 ギルドでシルベスターさんを驚かせて。


 巴さんに叱られて。


 晴斗君に新しい相棒ができた。


 そして最後には、怪獣大決戦。


 振り返ると、なかなか濃い一日だったねぇ。


「桜花」


「はい、リアリス様」


「ルナ、晴斗君のいい相棒になってくれそうだね」


「左様でございますね」


 桜花が、静かに微笑んだ。


「晴斗様も、とてもお喜びでございました」


「うん。あんな顔を見られて、よかったよ」


 私は紅茶をひと口飲んだ。


 温かい。


 ……落ち着くなぁ。


 思い返せば、晴斗君が屋敷へ来たときは、何も分からない世界で途方に暮れていた。


 それから、少しずつこの世界のことを学んで。


 自分の進む道を考えるようになった。


 冒険者になりたい。


 そう口にしたときの、あの真剣な目。


 今でも、よく覚えてる。


「これで、晴斗君が町の外で採取の依頼を受けることになっても、少しは安心できるね」


「はい。ルナが同行すれば、危険な魔獣から晴斗様を守ることができるかと存じます」


 ……そうだね。


 もちろん、晴斗君自身も、もっと強くなってもらわないと。


 でも、一人で全部を背負う必要はない。


 誰かと一緒に歩くことも、冒険者として大切なことだと思う。


 ……私にだって、桜花がいるんだから。


「桜花」


「はい」


「いつもありがとうね」


 桜花が、少しだけ驚いた顔をした。


 それから、優しく微笑む。


「……わたくしこそ。リアリス様とご一緒できて、幸せでございます」


 そう言ってもらえると、嬉しいな。


 私は窓の外へ目を向けた。


 月明かりが、庭の花を照らしている。


 どこかで風が吹き、葉が小さく揺れた。


 今日は、何だかいい一日だったね。


 ……まあ。


 モフ太の「アレックスーーーー!!」だけは、しばらく忘れられそうにないけど。


 私は、思い出して少し笑った。


「リアリス様?」


「……ううん。何でもないよ」


「ふふっ。さようでございますか」


 ……桜花。


 絶対、何を思い出したか分かってるよね。


 ……まあ、いいか。


 私は、もう一度紅茶を飲んだ。


 これから晴斗君は、どんな冒険をするんだろう。


 ルナと一緒に、どんな景色を見て。


 どんな出会いをして。


 どんなふうに成長していくんだろうね。


 ……楽しみだなぁ。


 この世界へ、突然一人でやってきた少年。


 その隣に、頼れる相棒ができた。


 これから、晴斗君の冒険者生活が始まるんだね。


 私は、桜花と並んで、静かな夜の庭を眺めた。


 明日も、みんなが笑って過ごせますように。


 そんなことを思いながら、残りの紅茶をゆっくり味わった。

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