第3話:今日からここが君の家
泣き声で、目が覚めた。
「……っ、いや……!」
最初は夢の続きかと思った。
けれど、もう一度聞こえてきた小さな声に、私は跳ね起きる。
「……おかあさん……っ!」
……カトレア!
私はすぐに起き上がり、上着を羽織って廊下へ出た。
カトレアの部屋は近い。驚かせないよう足音だけ抑えて、扉へ向かう。
部屋の前で立ち止まり、控えめに扉を叩く。
「カトレア、入ってもいい?」
返事はない。
代わりに、か細い泣き声が聞こえた。
もう一度声をかけると、扉の向こうから小さな返事があった。
「……リアリス様」
楓だ。
「……うん。開けるね」
そっと扉を開ける。
朝の光が、カーテンの隙間から部屋へ差し込んでいた。
寝台の上では、カトレアが身体を丸めて泣いている。
水色の髪が頬に貼りつき、昨夜よりも顔が赤くなっていた。
その隣に、楓が座っていた。
橙色の短い髪。
いつもの無表情。
ただ、カトレアの手をそっと包むように握っている。
「……起きて、泣いちゃった」
楓が小声で言った。
「……うん。ありがとう。ずっと一緒にいてくれたんだね」
「……約束、したから」
楓は小さくうなずいた。
……ああ。
この子は本当に、約束を大切にしてくれるんだな。
私は寝台の横へしゃがんだ。
「……カトレア」
呼びかけると、カトレアが顔を上げた。
泣き腫らした目が、私を捉える。
「……リアリス、さん……」
「うん。おはよう」
「……おかあさん、いない……」
昨日のことを思い出したのだろう。
私は、その言葉を静かに受け止めた。
カトレアの目から、また涙がこぼれた。
「……おとうさんも……」
私は手を差し出して尋ねた。
「……抱きしめても、いい?」
カトレアは私を見つめた。
何かを探すように、顔を見ている。
そして、こくりとうなずいた。
私は、その小さな身体を優しく包むように抱き寄せた。
「……ここは安全だから大丈夫だよ」
耳元で、静かに囁く。
「怖いものは、もう来ない。今は、泣いてもいいからね」
「……っ、う……」
カトレアの両手が、私の服を握った。
そのまま、また泣き始めた。
私は背中に手を添えて、ゆっくり撫でた。
……戦うよりも、こうして寄り添う方が大切なときもあるんだな。
カトレアの手が離れるまで、私はそっと背中を撫で続けた。
楓が、寝台の端へ少しだけ腰を寄せた。
「……カトレア」
小さな声だった。
「……ここ、いるよ」
昨日と同じ言葉。
けれど今日は、カトレアの手にちゃんと届いている。
泣きながら、カトレアが楓の指を握り返した。
私は、二人の手を見つめた。
……うん。昨日より、ちょっとだけこの部屋に慣れてくれたようだ。
◇
しばらくすると、カトレアの泣き声が少しずつ小さくなった。
止まったわけではない。
しゃくり上げて、息を整えて、また少し泣いて。
それを何度か繰り返したあと、私の服を握る手から、ようやく力が抜けた。
「……お水、飲める?」
私が尋ねると、カトレアは小さくうなずいた。
楓がすぐに立ち上がり、枕元の水差しからカップへ水を注いだ。
「……これ」
「ありがとう、楓」
私が受け取ろうとすると、楓は首を横に振った。
「……カトレアに」
「……あ、そっか」
楓はカトレアへ向き直る。
「……飲める?」
カトレアが頷くのを待ってから、カップを渡した。
小さな両手で持ち、一口だけ飲む。
「……ありがとう……」
「……うん」
楓はカップを受け取って、静かに元の場所へ置いた。
……昨夜からずっと、この子のことを見ていてくれたんだな。
「楓、少し休んでくる?」
「……平気」
「でも、ずっと起きてたんでしょ?」
「……うん」
「……眠くない?」
「……眠くない」
返事は相変わらず短かった。
けれど、その視線はカトレアの方へ向いたままだ。
楓も、もう少し一緒にいたいようだ。
私は苦笑した。
「分かった。でも、疲れたらちゃんと言うんだよ」
「……うん」
楓はそう答えてから、私の袖をほんの少しつまんだ。
……あっ。
昨日までなら、ここで頭をなでていたところだけど。
今、私の腕の中にはカトレアがいる。
楓はそれに気づいたのか、ぱっと袖を離した。
「……あ」
「ん?」
「……なんでも、ない」
……いや、可愛いな!?
こんなときまで、いつもの調子が顔を出しそうになるとは。
私は空いている手で、楓の頭をそっとなでた。
「ありがとうね」
「……うん」
楓は少しだけ目を細めた。
カトレアが、その様子をじっと見ていた。
「……なかよし……?」
「うん。楓とは、一緒に暮らしてるんだ」
私が答えると、楓が小さくうなずく。
「……リアリス様、やさしい」
「……楓、それはちょっと褒めすぎじゃない?」
「……ほんと」
カトレアは、二人の顔を交互に見た。
そして、ごく小さな声で言った。
「……いいな……」
私はカトレアをそっと抱き直した。
家族が恋しくなるのは当然だ。
今は、ここに誰かがいることを感じてくれたらいい。
部屋の外から、足音が聞こえた。
控えめに扉が叩かれる。
「リアリスちゃん。起きてるかしら?」
巴さんの声だった。
「うん。どうぞ」
扉が開き、茶色の長い三つ編みを肩に掛けた巴さんが顔をのぞかせた。
「おはよう。……あら」
巴さんは私たちの様子を見て、すぐに声を落とした。
「カトレアちゃん。おはよう」
「…………」
カトレアは返事をしなかった。
でも、昨日みたいに顔を隠すこともしなかった。
巴さんは、そのことを気にする様子もなく微笑んだ。
「お腹が空いたら、朝ご飯を用意するわよ。食べられそう?」
カトレアは少し考えて、こくりとうなずいた。
「……そう。よかった」
巴さんは嬉しそうに笑う。
「じゃあ、焦らなくていいからね。準備ができたら、食堂へいらっしゃい」
私を見た。
「リアリスちゃんも、ちゃんと顔を洗ってきなさいよ」
「……あっ、はい!」
……うん。
やっぱり、巴さんは巴さんだった。
ほんの少しだけ、気持ちが軽くなった。
◇
身支度を整えて食堂へ向かうと、温かいパンの香りがした。
……昨日の朝も、こんな匂いだったな。
たった一日しか経っていないのに、ずいぶん昔のことのように感じる。
今日は、いつもの長い食卓ではなく、窓際の小さな卓に朝食が並べられていた。
人数の多い食堂で、いきなり十四人に囲まれたら、カトレアは驚いてしまうかもしれない。
巴さんが気を利かせてくれたのだろう。
やわらかく焼いたパン。
温かいスープ。
薄く切った果物。
量は、子供が食べやすいよう少なめになっている。
「……すごい」
私がつぶやくと、後ろから声がした。
「あら、何がすごいの?」
振り向くと巴さんがいた。
「いや、全部。……本当に助かるなぁと思って」
「ふふ。そんなことより、手は洗った?」
「洗いました!」
「なら、よろしい」
……完全にお母さんの確認だ。
でも今日は、素直にありがたい。
桜花が食堂へ入ってきた。
その隣に、カトレア。
昨夜はずっと抱きかかえられていたけれど、今日は自分の足でゆっくり歩いている。
少しふらつくような足取りだったので、桜花は手を差し出していた。
カトレアはその手を握っている。
水色の髪はまだ肩にかかるくらいの長さで、軽く整えてもらったようだった。
その後ろから、楓がついてくる。
「……リアリス様」
「おはよう、桜花。楓もおいで」
「おはようございます、リアリス様」
「……うん」
楓は私の隣に座ろうとして、ふとカトレアを見た。
それから、椅子を一つ横に引く。
「……ここ」
カトレアが立ったまま見つめていると、楓は椅子をぽんぽんと軽く叩いた。
「……座れる」
……うん。
説明としては、ものすごく短い。
でも、カトレアには伝わったようだ。
少しだけ迷ってから、楓の隣に座った。
桜花はその反対側。
私は向かいの席に座る。
……何だろう。
楓が隣を譲っただけなのに、ちょっと感動してしまった。
「さあ、いただきましょうか」
巴さんが卓の端へ座り、にっこり笑った。
今日は五人だけの朝食だ。
ほかのメイドたちは、食堂の反対側や厨房で、それぞれいつもの朝を過ごしている。
……みんなが自然に距離を取ってくれているのが、ありがたい。
「いただきます」
私が言うと、桜花が続いた。
「いただきます」
「……いただきます」
楓も小さく言った。
カトレアは、私たちを見回してから、ぽつりとつぶやく。
「……いただき、ます……」
……よかった。
私は思わず笑いそうになって、慌てて表情を戻した。
食事の前の挨拶ひとつで、そんなに感激されたら、カトレアも困るよね。
私はスープを一口飲んだ。
「……おいしい!」
「ふふ、よかった」
巴さんが笑う。
カトレアも匙を持ち上げ、少しずつスープを飲み始めた。
昨日より、ほんの少しだけ、しっかりした動きだった。
朝食は、ゆっくり進んだ。
カトレアはスープを二口飲み、パンを小さくちぎって口へ運んだ。
そのあと、しばらく果物を見つめる。
薄い黄色の、見たことのない実だった。
「……これ、なに……?」
思いがけず声をかけられて、私は顔を上げた。
「えっ? ああ、それね」
……何だろう。
食べたことはある。
甘くて、少し酸っぱくて、梨と桃の間みたいな味がする。
でも、名前は知らない。
だってこの世界に来て、まだ一週間ちょっとにもならないんだもの。
「……ごめん。私も、名前はまだ知らなくて」
カトレアが目を丸くした。
巴さんが、くすっと笑う。
「あらあら、リアリスちゃんったら」
「……いや、だって! 名前を聞く前に食べちゃったから!」
「ふふ。おいしかったのね」
「うん!」
私は胸を張って答えた。
……胸を張ることじゃなかった。
巴さんが、果物の名前を教えてくれた。
カトレアは小さく繰り返し、薄い一切れを口へ運んだ。
「……あまい」
「そうでしょう? 今の時期はおいしい果物が多いのよ」
巴さんが嬉しそうに言う。
そういえば、今は実りの多い時期だった。
屋台にも、色とりどりの果物が積まれていたっけ。
……昨日は、そんなことを考える余裕もなかった。
カトレアはもう一切れ口へ運んだ。
少しだけ、目元が和らぐ。
私はほっとした。
すると、楓が自分の皿に残っていた果物を、カトレアの方へそっと寄せた。
「……これも」
「……え?」
「……おいしい、から」
カトレアは、差し出された皿を見た。
それから、楓の顔を見る。
「……楓ちゃんの、なくなっちゃう……」
「……だいじょうぶ」
楓は、ほとんど表情を変えないまま答えた。
「……私は、また食べられる」
……うん。
楓、本当に優しいな。
「ありがとう、楓。でも自分の分も食べてね」
「……うん」
私は厨房へ声をかけ、果物を少し追加してもらった。
すると、楓はその皿をカトレアと自分の間へ置いた。
「……半分こ」
カトレアは、しばらく皿を見つめた。
そして、本当に小さくうなずいた。
「……うん」
……ああ。
今の『うん』、いいなぁ。
昨夜のように泣いていても、朝になれば全部消えるわけじゃない。
それでも、ほんの少しずつ会話が増えていく。
それが、私には嬉しかった。
食事の途中で、カトレアがぽつりと尋ねた。
「……リアリスさんは……」
「うん?」
「……ここ、すんでるの……?」
「うん。私の家だよ。桜花も、巴さんも、楓も、ほかの皆も一緒に暮らしてる」
「……こんな、おおきいところに……?」
「……建てるとき、ちょっと張り切りすぎちゃって」
思わず、苦笑した。
カトレアは目を瞬かせた。
桜花が静かに補足する。
「リアリス様が、ご自身でお建てになりました」
「……えっ……?」
「……桜花、そこは説明しなくていいから!」
カトレアは、驚いたまま私を見ていた。
……だめだ。
私の異世界常識が、またおかしなことになっている。
でも、今度は少しだけ。
カトレアの口元に、かすかな笑みが浮かんだように見えた。
◇
朝食を終えたあと、私たちは食堂の窓際に残った。
巴さんが温かいお茶を淹れてくれた。
カトレアには、少し冷ましたもの。
楓は隣の椅子で、果物の残った皿を見つめている。
桜花は、私たちの向かいに静かに座っていた。
私は湯気の立つカップを手に取った。
昨日、巴さんは言っていた。
『焦って答えを出すより、ちゃんと本人の気持ちを聞く方が大事よ』
私も同じ考えだ。つらかったら途中でやめればいい。まずは、本人の気持ちを聞いてみよう。
私はカップを置いた。
「……カトレア」
「……はい……」
小さな返事。
「昨日のこと、少しだけお話してもらってもいいかな」
カトレアの手が止まった。
私は落ち着いて続けた。
「話せるところだけでいいよ。つらかったら、いつでもやめよう」
「…………」
「私は、君のことをちゃんと知りたいだけなんだ」
カトレアは俯いた。
指先で、カップの取っ手に触れる。
そのまま、しばらく黙っていた。
私は、返事を待った。
桜花も、巴さんも、楓も、何も言わない。
やがて。
「……おとうさんと……」
カトレアが、小さな声で話し始めた。
「……おかあさんと、馬車にのってたの……」
「……うん」
「……村から、王都に……」
私は静かにうなずいた。
昨日、あの盾を持った冒険者も、同じことを話していた。
「……おとうさんがね、王都についたら……」
そこで、カトレアは言葉を止めた。
何かを思い出すように、遠くを見つめている。
「……なにか、おいしいもの……食べようって……」
昨日の朝、私も王都で何かおいしいものを食べようと考えていた。
そんな小さな楽しみが、カトレアの家族にもあったんだろう。
「……うん。楽しみにしてたんだね」
カトレアは続きを話し始めた。
「……おかあさんが、外のお花、きれいだねって……」
小さな手が、卓の端を握る。
「……わたし、見ようとして……そしたら……」
声が震えた。
「……どんって……大きな音がして……」
私は静かに聞き続けた。
カトレアの指が、白くなるほど強く握られていた。
「……外で、だれか、さけんで……」
「……うん」
「……おとうさんが、馬車の奥にいなさいって……」
カトレアは目を伏せた。
あの馬車の光景を思い出したが、私はカトレアの話に耳を傾けた。
「……おそとにね……」
カトレアの声が、かすれた。
「……みどりの、大きいのが、たくさん……」
オークだ。
私は昨日、あの連中の姿を見た。
大人よりずっと大きな身体。
棍棒を振り回し、護衛の冒険者たちへ襲いかかっていた。
「……剣をもってる人たちが……たたかってくれたの……」
カトレアの目に、また涙が浮かぶ。
「……だけど……」
私は、小さくうなずいた。
「……うん」
「……ひとり、たおれて……もうひとりも……」
声が途切れた。
楓が、カトレアの手元を見つめている。
さっきまで無表情だった顔が、ほんの少しだけ険しくなった。
カトレアは、絞り出すように続けた。
「……おとうさんが、わたしを……かくしてくれて……」
「…………」
「……おかあさんが、だいじょうぶって……」
小さな肩が震える。
「……だいじょうぶ、だからって……」
そのあと、何が起きたのか。
カトレアは、言わなかった。
……言えなかったのかもしれない。
私は無理に続きを求めなかった。
ただ、昨日、馬車のそばで倒れていた二人のことを思い出していた。
カトレアは、急に両手で目を覆った。
「……でも、だいじょうぶじゃ、なかった……!」
涙が、指の間からこぼれた。
「……おとうさん、も……おかあさん、も……!」
私は席を立たず、カトレアの言葉を最後まで受け止めようと決めた。
巴さんも静かにうなずいた。
「……カトレア」
震える声で、名前を呼ぶ。
「……話してくれて、ありがとう」
「……っ……」
「怖かったね」
それ以上、うまい言葉が見つからなかった。
カトレアの両手が、顔から離れた。
泣き腫らした目で、私を見つめる。
「……ぜんぶ、おぼえてるの……」
「……うん」
「……わたし……おとうさんと、おかあさんに……」
唇が震える。
「……まだ、ありがとうって……言ってない……」
胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。
私はカップを握った。
……ああ。
この子には、もう二人に言えない言葉が、たくさんあるんだ。
巴さんが、静かに口を開いた。
「カトレアちゃん」
柔らかな声。
「お父さんも、お母さんも、あなたのことを大切に思っていたのね」
カトレアは泣きながら、何度もうなずいた。
「……うん……!」
「……そう」
巴さんはそれだけ言い、卓の上に柔らかな布を置いた。
取りたいときに、カトレアが自分で取れるように。
楓がそっと、椅子の端を寄せた。
そして、何も言わずカトレアの手を握る。
今度は、カトレアの方から、その手を強く握り返した。
◇
しばらく、誰も話さなかった。
カトレアが泣き止むのを待った。
それは、昨日の夜と同じだった。
ただ、一つだけ違うことがある。
昨日は、何を話していいか分からないまま、時間が過ぎていった。
今は、カトレアが話したことを、私たちはちゃんと知っている。
この子には、帰りたい家族がいる。
その家族は、もう帰ってこない。
……それが分かったからといって、何かしてあげられるわけじゃないけれど。
私は、カトレアが顔を上げるのを待った。
やがて涙が少し落ち着き、カトレアが布で目元を拭った。
「……ごめんなさい……」
小さな声。
私は首を横に振った。
「謝らなくていいよ」
「……でも……」
「話してくれて、ありがとう。聞かせてもらえて、よかった」
カトレアは、不思議そうに私を見た。
私は少し考えてから、続けた。
「昨日、君を見つけたとき、すごく怖い思いをしたんだろうなって思った。でも、何があったか、ちゃんとは知らなかったんだ」
「…………」
「だから、話してくれて嬉しかったんだよ」
……ちょっと言葉が足りなかったかな。
「つらいことを話してくれた分、ちゃんと大事に聞くよ」
桜花が横から静かに口を開いた。
「リアリス様は、カトレア様のお気持ちを大切になさりたいのです」
「……桜花ぁ……」
助かった。
いや、ほんとに助かった。
言葉が足りない私の横に、この子がいてくれてよかった。
カトレアは桜花を見た。
「……きのうの、おねえさん……」
「はい。桜花と申します」
「……さくら……?」
「桜花です。おうか、と読みます」
「……おうか……おねえちゃん……?」
……おっ。
私は、思わず桜花を見た。
桜花は少しだけ目を見開いた。
そして、いつもの丁寧な微笑みを浮かべる。
「はい。お好きなようにお呼びください」
「……おうか、おねえちゃん……」
「はい」
桜花が穏やかに答えた。
カトレアの肩が、ほんの少しだけ下がる。
……ああ、よかったなぁ。
桜花って、頼れる相棒だと思ってたけど。
小さい子から見ると、頼れるお姉ちゃんにもなるんだね。
……いや、桜花は見た目二十歳くらいだし、お姉ちゃんで何もおかしくないか。
その隣で、楓がこくりと首を傾げた。
「……私も、楓」
カトレアが楓を見る。
「……かえで、ちゃん……?」
「……うん」
「……ずっと、いてくれた……」
「……うん。約束、だから」
楓は一度だけうなずいた。
……本当に。
この二人がいてくれてよかった。
私は心からそう思った。
カトレアが落ち着いた頃、巴さんがお茶を入れ直してくれた。
カップの中から、小さな湯気が立ち上る。
窓の外では、庭の木が風に揺れていた。
昨日の森とは違う、静かな景色だった。
私は一度、巴さんを見る。
巴さんは何も言わず、穏やかにうなずいた。
……うん。
今度は、私が聞いてみよう。
「カトレア。これからのことなんだけど……」
「……はい……」
カトレアが、私を見る。
「王都で頼れる人とか、帰りたい場所とか……何か、思いつくかな」
カトレアは小さく首を振った。
「……わかんない……」
「……うん」
「……わかんない……お母さんに会いたい……」
言葉が終わる前に、目から涙がこぼれた。
「……おとうさんも……」
私は息を呑んだ。
……そうだよね。
どこへ行きたいかなんて、今すぐ分かるわけがない。
この子が戻りたいのは、場所じゃない。
昨日まで当たり前にあった、家族との時間なんだ。
「……うん」
私は、できるだけゆっくりうなずいた。
「お母さんにも、お父さんにも、会いたいよね」
「……っ……」
カトレアは泣きながら、何度もうなずいた。
胸の奥が、強く締めつけられる。
……私も、もう前の世界へは帰れない。
ただ、私の場合は、自分の人生が終わったという実感があって、ここへ来た。
この子は、そうじゃない。
昨日まで一緒だった二人が、突然いなくなったんだ。
同じ『戻れない』でも、全然違う。
「……カトレア」
私は声をかけた。
「今、どうするか決めなくてもいいんだよ」
「……でも……」
「分からないなら、分からないままでいい。急がなくていいから」
カトレアは、私を見た。
「……ここに、いても……?」
かすかな声だった。
私は、すぐにうなずいた。
「もちろん」
「……きょう、だけ……?」
その言葉に、私は言葉を失いそうになった。
……今日だけ。
昨夜、私は『今夜は一人にしない』と決めた。
でも、カトレアにとっては、その先が何も見えていないんだ。
知らない家。
知らない人。
明日になったら、またどこかへ行かなくちゃいけないかもしれない。
……それは、怖いよね。
私は、卓の上へ手を置いた。
カトレアの目を見て、ゆっくり話す。
「……カトレア。少し、私の話を聞いてくれる?」
「……うん……」
その小さな返事を聞いて、私は一つ、大きく息を吸った。
「……あのね」
話し始めてから、私は少しだけ笑った。
……何だろう。
強い魔獣を目の前にしたときより、緊張する。
でも、これは自分で言わなくちゃいけない。
「私、この世界に来てから、まだそんなに長くないんだ」
カトレアが、瞬きをした。
「……ここ、に……?」
「うん。知らないことがいっぱいでさ。お店にある果物の名前も知らないくらい」
カトレアは、さっきの朝食を思い出したのか、私を見つめた。
「……ほんとに……?」
「本当だよ。さっきも巴さんに教えてもらったばかり」
……うん。
自慢できることじゃないね。
私は小さく苦笑した。
「でも、ここには私を助けてくれる人たちがいる。桜花も、巴さんも、楓も、ほかのみんなも」
カトレアは三人を順番に見た。
桜花は静かにうなずき、巴さんはにっこり笑った。
楓は、握っていた手を少しだけ強くした。
「……だから、ね」
私はカトレアへ向き直った。
「カトレアにも、安心していられる場所があればいいなって思ったんだ」
「…………」
「この家、ちょっと広すぎるくらいだから。部屋だって余ってるし、ご飯もみんなで食べられる」
「もちろん、部屋が余ってるからってだけじゃないよ」
私は笑って続けた。
「カトレアに、安心して帰ってこられる場所があればいいと思うんだ」
カトレアの目が、私をじっと見つめた。
私は、もう一度息を吸った。
「……良かったらここに住むかい?」
昨日から考えていた言葉を、ようやく伝えられた。
あとは、カトレア自身がどうしたいかだ。
「…………」
カトレアは、何も言わなかった。
少しして、目を伏せる。
私の方も、無理に答えを求めなかった。
ほかに行きたい場所があるなら、一緒に方法を考えよう。
この家を選んでくれたら、もちろん嬉しい。
「……ずっと……?」
カトレアが尋ねた。
私は、ゆっくりうなずく。
「うん。明日になったら出ていって、なんて言わないよ」
「……でも、わたし……」
「……どうしたの?」
「……なにも、できない……」
小さな声。
私はカトレアの言葉に首を傾げた。
「……うん?」
「……おてつだいも……あんまり……」
カトレアが、また俯いてしまう。
「……ごはん、つくれないし……」
……ああ。
この子、何か役に立たなきゃ、ここにいられないと思ってるんだ。
私は笑って首を振った。
「そんなこと、気にしなくていいよ」
カトレアの顔を見て、続ける。
「何もできなくたって、ここにいていいんだよ」
「…………」
「ご飯は巴さんが作ってくれるし、掃除もみんなでできる。君に何かしてもらうために、住んでほしいわけじゃないから」
巴さんが、温かな声で続けた。
「そうよ、カトレアちゃん。食べて、眠って、遊んで。元気が出たら、やってみたいことを考えればいいの」
楓が、小さくうなずく。
「……一緒に、遊べる」
桜花も穏やかに微笑んだ。
「お困りのことがあれば、何なりとお申し付けください」
カトレアは、三人を見た。
それから、私を見た。
唇が、小さく震える。
「……いいの?」
私は、自然に笑って答えた。
「うん。いいよ。今日からここはカトレアの新しいお家だ。」
言い終えた瞬間。
カトレアの大きな目から、涙がこぼれ落ちた。
「……っ……」
楓が、先にカトレアの隣へ寄った。
椅子を寄せ、カトレアの頭へそっと手を伸ばす。
「……カトレア」
小さな、優しい声だった。
「……よかったね」
楓の手が、水色の髪をゆっくり撫でた。
カトレアは、もう何も言えなかった。
ただ、泣いていた。
昨日の夜とは、少し違う涙に見えた。
悲しみがすぐに消えるわけじゃない。
それでも、帰ってきていい場所が一つ増えた。
今日は、それで十分だ。
「……おかあさん……っ」
カトレアが泣きながらつぶやいた。
「……おとうさん……っ」
私は黙ってうなずいた。
「……うん。会いたいよね」
「……うん……!」
楓はずっと、カトレアの頭を撫でている。
桜花が静かに立ち上がり、私たちのそばへ来た。
巴さんが、そっと新しい布を差し出す。
私はカトレアの目の高さまでしゃがんだ。
「……抱きしめてもいい?」
カトレアは、涙の中でこくりとうなずいた。
私は小さな身体を、そっと抱きしめた。
カトレアの腕が、私の背中へ回る。
今度は、私の服をぎゅっと握りしめていた。
明日また泣くことがあっても、みんなで一緒に過ごせばいい。
私はそう決めて、小さな背中を撫でた。
◇
少し落ち着いてから、私たちは二階へ向かった。
カトレアは私の隣を歩き、反対側には楓がいる。
後ろから、桜花と巴さんがゆっくりついてきた。
「……こっち」
楓が先に立ち、廊下の扉を指さした。
昨日、カトレアが休んだ部屋だ。
桜花の部屋の隣にある、十畳ほどの個室。
朝とは違い、窓から明るい光が差し込んでいる。
「カトレア。ここ、どうかな」
私は扉を開けた。
「昨日、寝たお部屋だけど。これから、君のお部屋として使ってもらおうと思ってるんだ」
「……わたしの……?」
「うん。もちろん、気になるところがあったら変えられるよ」
……まあ、部屋の調整くらいなら何とでもなる。
今は、この部屋での暮らしを想像してもらおう。
「寝台もあるし、窓も大きいし。……あとは、好きなものを少しずつ置いていけたらいいなって」
カトレアはゆっくり部屋へ入った。
寝台を見て、窓を見て、小さな棚へ目を向ける。
その手は、まだ私の服の裾をつまんでいた。
「……ほんとに、ここ……?」
「うん」
「……あしたも……?」
「明日も」
「……あさっても……?」
「もちろん」
カトレアは、少しだけ俯いた。
「……おこられない……?」
私は驚いた。
「……何を?」
「……ここに、いても……」
まだ、この家が自分の居場所だとは実感できないのだろう。
それなら、何度でも伝えればいい。
「怒らないよ。ここにいていいって、私がお願いしたんだから」
そう言うと、カトレアはようやく顔を上げた。
巴さんが、優しく微笑む。
「それにね、カトレアちゃん。困ったことは何でも聞いてちょうだい」
「……ともえ、さん……」
「ふふ。巴さんでも、巴おばさんでも、好きな呼び方でいいわよ」
……あっ。
巴さん、ついに自分から『おばさん』を提案した!
いや、外見は四十歳くらいだから、不思議じゃないんだけど。
カトレアは少し考えたあと、かすかな声で言った。
「……ともえさん……」
「はい。何かしら?」
「……きのうの、スープ……おいしかった……」
巴さんの顔が、くしゃっと緩んだ。
「……まあ!」
それから、ゆっくりしゃがんで、カトレアと目を合わせた。
「ありがとう。そう言ってもらえると、とっても嬉しいわ」
カトレアは小さくうなずいた。
「……また、つくって……?」
「もちろんよ。今度は、もっとおいしく作っちゃうわね」
……いや、ちょっと待って。
昨日のスープも十分おいしかったと思うけど!?
私が口を挟みかけると、桜花が静かに言った。
「リアリス様。巴さんのお料理への情熱は、止めない方がよろしいかと」
「……何も言ってないのに!」
「お顔に出ておりました」
……この相棒、私のことが分かりすぎじゃない?
カトレアが、不思議そうに私たちを見た。
そして。
ほんの一瞬だけ、口元を緩めた。
……あ。
今、笑った。
私は思わず声を上げそうになって、慌てて口を閉じた。
そんなに大騒ぎされたら、カトレアも困っちゃうだろうから。
でも。
やっぱり、嬉しかった。
部屋の説明が一段落すると、楓がカトレアの袖をそっと引いた。
「……カトレア」
「……なあに……?」
「……お庭に、お花、ある」
カトレアの目が、少しだけ大きくなった。
「……おはな……?」
「……うん。見に、行く?」
カトレアは私を見た。
……えっ。
そんなに確認しなくてもいいのに。
「もちろん。行ってみようか」
「……うん」
小さな返事だった。
楓はいつもの無表情のまま、カトレアへ手を差し出した。
カトレアは少し迷ったあと、その手を取った。
橙色の髪と、水色の髪。
二人が並んで廊下を歩いていく。
カトレアが自分から庭へ行こうとしている。
その一歩が嬉しくて、私は二人の背中を見送った。
泣きたいときには泣いて、少し元気が出たら庭で遊ぶ。
お腹が空いたら、巴さんのご飯を食べる。
夜になったら、この部屋へ帰ってきて眠る。
……そんな毎日があってもいいじゃないか。
「リアリスちゃん」
隣で巴さんが声をかけた。
「……うん?」
「よかったわね」
「……うん」
私は、ゆっくりうなずいた。
「……本当に、よかった」
桜花が窓の外を見た。
庭へ出た楓とカトレアが、花壇の前で足を止めている。
楓が何かを指さした。
カトレアはしゃがみ込み、小さな花を覗き込んだ。
その横顔は、まだ少し寂しそうだった。
でも、今は涙を流していない。
桜花が静かに微笑んだ。
「……新しい同居人ですね、リアリス様」
「そうだね」
私は笑った。
「……最初は、一人でのんびり暮らすつもりだったんだけどなぁ」
「予定とは、変わるものでございます」
「……本当にね」
三階建ての大きな屋敷。
元気すぎるくらい頼もしいメイドたち。
何かと世話を焼いてくれる巴さん。
私の隣にいてくれる桜花。
無表情なのに、誰より甘えん坊で優しい楓。
そして、今日からここで一緒に暮らす、小さな女の子。
……これで、屋敷の住人は十五人。
私が静かに暮らすために建てた家は、思っていた以上に賑やかになっていく。
でも。
それが、何だか嬉しかった。
窓の外で、風が花壇を揺らした。
楓が振り返り、私たちへ小さく手を振る。
その隣で、カトレアもおずおずと片手を上げた。
私は大きく手を振り返した。
「……おかえり、カトレア」
聞こえる距離じゃなかったけれど。
心の中で、もう一度つぶやいた。
――今日から、ここが君の家だ。




