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第2話:涙の止まらない夜

 王都の城門を離れてから、私たちはほとんど話さなかった。


 草原を渡る風は、昼間より少しだけ涼しくなっていた。


 実りの多い時期らしい、穏やかな夕暮れだ。


 今日は、景色よりも腕の中のカトレアが気にかかった。


「……桜花。腕、疲れてない?」


「問題ございません」


 隣を歩く桜花は、カトレアを抱いたまま静かに答えた。


 女の子は小さな顔を桜花の肩に埋め、眠っている。


 水色の髪が、白いエプロンの上にふわりとかかっていた。


 時折、身体がぴくっと動く。


 夢でも見ているのだろうか。


 そのたびに桜花が、抱える腕の位置をほんの少し変えていた。


「……よく眠ってるね」


「はい。ですが、力が抜けきっているわけではありません」


「え?」


「私の服を、ずっと握っていらっしゃいます」


 見ると、カトレアの小さな指が、桜花の肩口の布をつかんでいた。


 ……本当だ。


 眠っている間も、離すのが怖いのかもしれない。


「……しばらく、そのままお願いしていい?」


「もちろんでございます」


 桜花はいつもと同じ、落ち着いた声で答えた。


 その声が、今日はひどく頼もしく感じられた。


 城門を出て、屋敷までの道を歩く。


 いつもなら、夕食の献立が気になる時間だ。


 巴さんの料理は何だろうとか、楓は今日も私の隣に座るのかなとか。


 そんなくだらないことを考えながら帰る道だった。


 ……でも、今日は違う。


 森での出来事は、簡単には忘れられない。


 救えた二人がいる一方で、亡くなった人たちもいる。


 私はその事実を受け止めながら、カトレアを無事に屋敷へ連れていくことに意識を向けた。


「リアリス様」


 桜花に呼ばれ、顔を上げた。


「……うん?」


「間もなく、お屋敷が見えてまいります」


 彼女の視線の先には、見慣れた三階建ての屋敷があった。


「……そうだね。帰ろう」


 私は歩く速度を少しだけ緩めた。


 この子を、起こさないように。


     ◇


 門を抜け、玄関へ向かう。


 屋敷の中からは、夕食の準備をしているのだろう、食器が触れ合う小さな音が聞こえていた。


 扉を開けると、ちょうど巴さんが廊下を歩いてきた。


「あら、お帰りなさい、リアリスちゃん。今日は少し遅かっ――」


 にこやかだった巴さんの表情が、桜花の腕の中を見た途端、変わった。


「……まあ」


 大きな声は出さなかった。


 ただ、私と桜花を一度ずつ見て、それから眠っているカトレアへ視線を戻す。


「……何か、あったのね」


「……うん」


「森で馬車が襲われていて……。この子のご両親は、助からなかったんだ」


 私が小声で説明すると、巴さんは静かにうなずいた。


「分かったわ。お話はあとでいいの。まず、この子を休ませましょう」


「……ありがとう、巴さん」


「お礼なんていいのよ。桜花ちゃん、こちらへいらっしゃい」


 その声は、今まで聞いたことがないほど優しかった。


 いつもの『野菜を食べなさい』と注意するお母さんの声とも、仕事を取り仕切るときの声とも違う。


 何というか。


 ……この人がいてくれて、本当によかった。


 巴さんは近くにいたメイドへ小声で声をかけた。


「二階のお部屋に、綺麗なお布団を用意してもらえる? 桜花ちゃんのお隣の空いているお部屋よ」


「はい、承知しました」


「それから、温かいお湯と柔らかい布もお願い。食事は少し待っていてちょうだい」


 頼まれたメイドが、静かにうなずいて廊下の奥へ向かった。


 ほかのメイドたちもこちらに気づいたが、誰も騒がなかった。


 ただ、動きを止めて一礼し、道を空けてくれた。


 みんなが自然に手を貸してくれる。


 頼りになる仲間がいるのは、ありがたい。


「リアリスちゃん」


「……はい」


「その子、どこか怪我はしていない?」


「見えるところにはなかった。馬車の中にいて……たぶん、ずっと震えてたんだ」


「そう。なら、今は起こさないでおきましょうね」


 巴さんがカトレアの顔をそっと覗き込む。


「小さい手……。よく頑張ったわね」


 眠っている子に向けた、小さな声だった。


 私は、その言葉を聞いて初めて、自分の肩に力が入っていたことに気づいた。


 ……ああ。


 この子、ここまで来られたんだ。


 とりあえず今は、安全な場所にいる。


 私は桜花と一緒に、階段を上がった。


 二階の廊下は、昼間よりも静かだった。


 桜花の部屋の隣。


 メイドたちが手早く寝台を整え、窓辺のカーテンを少し引いてくれていた。


 天井の明かりも、眩しくならない程度に落としてある。


「ここなら落ち着いて休めそうね」


 巴さんがそう言うと、桜花が小さくうなずいた。


「……はい」


 桜花は寝台のそばまで進み、そっと腰をかがめた。


 ところが。


「…………」


 カトレアの指が、離れない。


 眠っているはずなのに、桜花の服をぎゅっと握っていた。


「……あらあら」


 巴さんは困ったような、でも悲しそうな顔をした。


「離れるのが嫌なのね」


 私は何となく、カトレアの手元を見つめた。


 あの馬車の中で、彼女が桜花へ伸ばした手を思い出す。


 桜花の腕の中が、今はいちばん落ち着ける場所なのだろう。


「桜花、もう少し抱いててもらおうか」


「承知いたしました」


 桜花は無理に手を外そうとはせず、寝台の端に腰を下ろした。


 カトレアを抱いたまま、じっと待つ。


 巴さんは準備された柔らかい布を受け取り、カトレアの額についた土をそっと拭いた。


 髪に絡んでいた小さな葉を、一枚だけ取り除く。


 水色の髪は肩のあたりまで伸びていて、汗と土で少し乱れていた。


 ……そういえば、どれくらい怖い思いをしたんだろう。


 馬車の奥で、ただじっと助けを待っていた時間。


 その長さを、私は知らない。


「……ん……」


 突然、カトレアが小さく身じろぎした。


 桜花の肩から顔を離し、ゆっくり目を開く。


 最初は、何も分かっていないような顔だった。


 ぼんやりと天井を見上げ、窓を見て、私を見た。


 そして。


 知らない寝台。


 知らない部屋。


 知らない大人たち。


 そのことに気づいたのだろう。


「……っ!」


 カトレアの顔から、さっと血の気が引いた。


「……いや……」


「カトレア、大丈夫。ここは――」


 私は慌てて声をかけた。


 でも、その言葉が終わる前に。


「いやっ……!」


 小さな身体が震え始めた。


「おかあさん……!」


 桜花の服を握る手に、さらに力がこもる。


「おかあさんっ……!」


 次の瞬間。


 堰を切ったように、涙があふれ出した。


「おかあさぁん……っ! おとうさん……!」


 声は、少しずつ大きくなっていく。


 桜花が驚いた顔をした。


 私は一度息を整え、カトレアのそばへ寄った。


 今は、急いで泣き止ませようとせずに声をかけよう。


「……リアリス様」


 桜花が私の名前を呼んだ。


 私はうなずいて、目を合わせた。


「……う、うん。大丈夫。ここは安全だから……」


 私はカトレアの目の高さに合わせようと、寝台のそばへしゃがんだ。


「怖いものは、もういないよ」


「……っ、ちがう……!」


 カトレアが首を振った。


「おかあさん……おかあさんが……!」


 涙で言葉が途切れ、呼吸が震える。


「かえりたい……っ!」


「…………」


 そうか。今、カトレアが会いたいのはお父さんとお母さんなんだ。


 私は少し身を引き、彼女の様子を見守った。


 巴さんが、そっと私の肩に手を置いた。


「リアリスちゃん。少し、代わってもいい?」


「……うん。お願い」


 巴さんは寝台へ近づくと、カトレアの顔を覗き込んだ。


「初めまして。私は巴よ」


 いつもの朗らかな声を、少しだけ落ち着かせている。


「急に知らない場所に来て、びっくりしたわね」


「……っ、ひっく……」


「うん。怖かったのね」


 カトレアは泣き続けた。


 巴さんは背中に触れる前に、小さく尋ねた。


「少し、背中をさすってもいいかしら」


 答えはなかった。


 けれど、カトレアが拒むような動きもしなかったので、巴さんはごくゆっくりと背中をさすった。


「いいのよ。泣きたいときは、泣いていいの」


「……おかあさん……!」


「……うん」


「おとうさん、も……!」


「……うん。お父さんも、会いたいのね」


 その言葉を聞いたとき、カトレアは一層大きな声で泣いた。


 まるで、今まで誰にも届かなかった声を、やっと出せたみたいに。


 巴さんの表情が歪む。


 ……この人だって、つらいんだ。


 それでも、巴さんは背中をさする手を止めなかった。


「ここでは、我慢しなくていいからね」


 私は水差しを手の届く場所へ寄せ、二人のそばで待った。


     ◇


 どれくらい経っただろう。


 カトレアは泣き続けていた。


 涙が頬を伝い、桜花の服を濡らしていく。


 桜花は困ったような顔をしながらも、抱いている腕を緩めなかった。


「……何か、お飲みになりますか」


 彼女がそっと尋ねる。


 カトレアは首を振った。


「……お水を少しだけでも」


「……いらない……!」


「承知いたしました」


 桜花はそれ以上、勧めなかった。


 部屋の扉が、控えめに叩かれた。


「……リアリス様」


 小さな声。


 振り返ると、楓がいた。


 橙色の短い髪。


 いつもどおり、ほとんど表情の変わらない顔。


 けれど、その手には柔らかそうな小さな布があった。


「……泣いてる、声」


「……うん。楓、入っておいで」


 楓は静かに部屋へ入り、カトレアを見た。


 しばらくのあいだ、何も言わなかった。


 そして、桜花の隣に立つと、布を差し出した。


「……これ」


 カトレアは泣きながら、その布を見る。


「……なに……?」


「……涙、拭くもの」


 楓はそれだけ言った。


 飾り気も、慰めの言葉もない。


 でも、手はずっと差し出されたままだった。


 カトレアが動かなかったので、楓は布を寝台の端にそっと置いた。


「……ここに、置く」


 そう言って、少し離れる。


 カトレアはまた桜花の胸元へ顔を埋めた。


 カトレアの涙は、まだ止まらない。


 それでも巴さんも桜花も楓も、そばを離れなかった。


「……巴さん」


 私が小さく呼ぶと、巴さんはこちらを見た。


「……こういうときは、どう接してあげるのがいいのかな」


 私は、巴さんの経験を頼ることにした。


 巴さんは少しだけ考えた。


「そうねぇ……まずは、急いで泣き止ませようとしないこと、かしら」


「……そっか。気持ちを急がせない方がいいね」


「もちろん、苦しそうにしているのを見るのはつらいわ。でも、泣いたらいけないわけじゃないでしょう?」


「……うん」


「私たちにできるのは、この子が泣いても大丈夫な場所にいてあげることよ」


 私はカトレアを見た。


 桜花の胸元で、まだ声を上げて泣いている。


「……じゃあ、ここで一緒にいてあげればいいんだね」


「ええ。それだけじゃないわよ」


 巴さんは優しくうなずいた。


「桜花ちゃんは、ちゃんと抱いてくれてる。楓ちゃんは、涙を拭く布を持ってきてくれた。リアリスちゃんは、この子を連れて帰ってきた」


「…………」


「今、できることをすればいいのよ」


 魔獣なら倒せるし、怪我なら治せる。でも、心の傷はすぐに消せない。


 だったら急がず、みんなと協力して支えていけばいい。


 私は納得してうなずいた。


「……そっか」


「そうよ」


 巴さんは私の頭をなでようとして、途中で手を止めた。


 ……え?


 今、私まで子供扱いしようとした?


 いや。


 今日は、突っ込むところじゃない。


 多分、巴さんも気づいて、ちょっと困っている。


 ……ほんの少しだけ、いつもの調子が戻りそうになった。


「それじゃ、少し静かにしてあげましょう」


 巴さんが言った。


「知らない大人が大勢いると、それだけで疲れちゃうもの」


 私はうなずいた。


「桜花、楓。ここで一緒にいてくれる?」


「はい、リアリス様」


「……うん」


 桜花は即答し、楓も小さくうなずいた。


「私たちは、すぐ近くにいるからね」


 私はカトレアへ声をかけた。


 反応はなかった。


 でも、今はそれでいいのだと思う。


 巴さんと私は、少し離れたところへ移動した。


 カトレアがこちらを見たら、すぐ分かる位置。


 声をかけられたら、すぐに行ける距離。


 ただ、それ以上は無理に近づかない。


 桜花の腕の中で、カトレアの泣き声だけが続いた。


 私はそれを聞きながら、何度も手を握り直した。


 頑張れと急かさず、今夜は安心して過ごせるようにしよう。


 やがて、窓の外が暗くなり始めた。


 遠くから、厨房で食器を片づける音がかすかに聞こえる。


 いつもなら、とっくに夕食を食べている頃だ。


 でも、誰も時間を気にしなかった。


 カトレアは泣いて、泣いて。


 声が小さくなったかと思えば、何かを思い出したようにまた泣いた。


 桜花はずっと傍らにいた。


 楓も、椅子を持ってきて少し離れた場所に座っている。


 私は、寝台の反対側の壁にもたれていた。


 長い夜になりそうだ。


 私は水差しを確かめ、桜花と楓にも目を向けた。


 みんなで見守ろう。


「……おかあ、さん……」


 カトレアの声が、だんだんかすれてきた。


 巴さんがそっと近づく。


「カトレアちゃん。少しだけ、お水を飲まない?」


 小さなカップを見せる。


「喉が痛いでしょう。ほんの一口でいいから」


 カトレアは首を横に振りかけて、止まった。


 何かを考えるように、カップを見る。


 そして、小さくうなずいた。


「……うん」


 私はほっとして、巴さんにうなずいた。


 巴さんがカップを持ち、カトレアが少しだけ水を飲む。


 一口。


 もう一口。


 その間も、涙は頬を伝っていた。


「……上手に飲めたわね」


 巴さんが微笑んだ。


 カトレアは、何も言わなかった。


 ただ、カップから口を離して、また桜花の服をつかんだ。


 楓が静かに立ち上がった。


 さっき寝台に置いておいた布を手に取る。


「……使う?」


 カトレアへ差し出す。


 しばらくの沈黙。


 カトレアは目を伏せたまま、ゆっくり片手を伸ばした。


 布の端をつまみ、そっと引き寄せる。


「……あ、りがと……」


 小さな小さな声だった。


 楓は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、いつもの無表情に戻る。


「……うん」


 それだけ。


 でも、私は見逃さなかった。


 楓の頬が、ほんの少しだけ緩んでいたことを。


 ……ああ。


 この子なりに、役に立ちたかったんだね。


 カトレアは布で涙を拭いた。


 すぐにまた目が潤んだけれど、さっきのような大きな泣き声にはならなかった。


 桜花が、静かに問いかける。


「少し、横になられますか?」


「……まだ……」


「はい。それでは、このままにいたしましょう」


 カトレアはこくりとうなずいた。


 桜花の肩に顔を寄せる。


 ……無理に寝台へ寝かせなくてよかった。


 今は、誰かに抱かれていたいのかもしれない。


 私は胸の奥に溜まっていた息を、ゆっくり吐いた。


 ようやく、少しだけ落ち着いてきた。


 でも、もう大丈夫だなんて、まだ言えない。


 カトレアの夜は、終わっていないのだから。


     ◇


 しばらくして、巴さんが私を手招きした。


「リアリスちゃん。ちょっと、お願いしてもいい?」


「うん。何?」


「厨房に、柔らかく煮たスープを用意してあるの。取ってきてもらえるかしら」


「……うん、分かった」


「熱すぎないか、ちゃんと確認してね」


「もちろん!」


 私が答えると、巴さんは小さく笑った。


「あなたの分も、あとで食べましょうね」


「……あ」


 そういえば。


 私も、昼食を食べていなかった。


 ……巴さんは、本当にいろんなことを見てくれているなぁ。


「……巴さんって、よく見てるね」


「あら。当然でしょう?」


 巴さんは、いつもの調子で答えた。


「みんながちゃんと食べて、ちゃんと眠れるようにするのが、私の仕事なんだから」


 ……そっか。


 そうだったね。


 私は厨房へ向かった。


 そこには、食事の準備を終えたメイドたちがいた。


 事情は詳しく知らないはずなのに、誰も大きな声を出さず、静かに動いている。


「リアリス様。こちらをどうぞ」


 差し出された盆には、温かいスープの入った器と、小さく切ったパン。


 器の横には、小さな匙も添えてあった。


「ありがとう。助かるよ」


「お子様が、少しでも召し上がれるとよいのですが」


「……うん」


 私は盆を受け取り、慎重に二階へ戻った。


 ……まさか、スープを運ぶのにこんなに慎重になるとは。


 魔獣より手強い相手、なんて言ったら巴さんに怒られそうだけど。


 廊下の先に、明かりの漏れる部屋が見えた。


 中へ入ると、カトレアはまだ桜花の膝の上にいた。


 泣き声は止まっている。


 でも、ときどき小さく鼻をすすっていた。


「……持ってきたよ」


「ありがとう、リアリスちゃん」


 巴さんは盆を受け取り、スープの温度を確かめた。


 それから、カトレアに優しく声をかける。


「カトレアちゃん。お腹は空いていないかしら」


 返事はない。


「無理に全部食べなくてもいいのよ。ただ、今日は長い一日だったでしょう?」


 カトレアは、そっと顔を上げた。


 巴さんの手元を見る。


「……ごはん……?」


「そうよ。お野菜とお肉を柔らかく煮たスープ。パンもあるわ」


「…………」


「少し食べてみる?」


 カトレアは迷っていた。


 しばらくスープを見つめ、それから小さくうなずいた。


「……うん」


 巴さんの顔が、ほっと緩んだ。


「よかった。それじゃ、ゆっくり食べましょうね」


 私は椅子をもう一つ持ってきて、盆を置く小さな台を寄せた。


 桜花はカトレアが苦しくならないよう、膝の上で抱える姿勢を変える。


 楓は布を畳んで、すぐ手の届くところへ置いた。


 誰が何をするか、打ち合わせなんてしていない。


 それでも、自然に役割が分かれていた。


 ……この屋敷に、みんながいてくれてよかった。


 巴さんは匙でスープをすくい、もう一度温度を確かめた。


「はい。熱くないから大丈夫よ」


 カトレアは少し口を開いた。


 ほんの一匙。


 ゆっくり飲み込む。


「……どうかしら」


「…………」


 答えはない。


 でも、嫌そうな顔もしていない。


 巴さんは急かさず、次の一匙を待った。


 カトレアが小さくうなずいたので、もう一度スープを運ぶ。


 一匙。


 また一匙。


 そのたびに、カトレアの肩から少しずつ力が抜けていった。


 ……よかった。


 少しでも、身体に温かいものが入ってくれるなら。


「……おいしい?」


 私は思わず尋ねた。


 カトレアがこちらを見た。


 涙で赤くなった目。


 まだ幼い顔。


 その唇が、かすかに動く。


「……おいしい……」


「……そっか」


 私は笑おうとして、うまくできなかった。


 でも、カトレアは私の顔を見て、小さく瞬きをした。


 そのまま、また巴さんの方を向いた。


 巴さんが嬉しそうに微笑む。


「よかったわ。まだ少し食べられる?」


「……うん……」


 小さく返事をして、またスープを飲む。


 今夜は温かいものを少しでも食べられれば十分。


 私はそう思って、二人を見守った。


「パンもあるのよ。スープに浸すと柔らかくなるからね」


 巴さんが小さく切ったパンを見せる。


 カトレアは、それをじっと見つめた。


「……おかあさんも……」


 小さな声だった。


 私たちは、一瞬だけ動きを止めた。


「……おかあさんも、こうやって……」


 続きは、聞き取れなかった。


 カトレアの目から、また涙がこぼれた。


 ……そうだよね。


 ご飯を食べることだって、思い出につながっている。


 私たちには分からない、家族との時間に。


 巴さんは何も否定しなかった。


「……そうだったのね」


 ただ、そう答えた。


 カトレアは泣きながら、うなずいた。


「……うん……」


「大切な、思い出なのね」


「…………」


 カトレアはパンを一口だけ食べた。


 そのあと、もう一度スープを飲んだ。


 涙を拭うのに疲れたのか、さっき楓から受け取った布を膝に置いたまま。


 巴さんが次の一匙を用意する。


「カトレアちゃん。もう少しだけ……」


「…………」


 返事がない。


 私は顔を上げた。


 カトレアの瞼が、ゆっくり閉じていく。


 桜花の胸に、こてん、と頭を預けた。


「……カトレア?」


 私が小さく呼んでも、返事はなかった。


 すう、と浅い寝息が聞こえた。


 巴さんが匙を止める。


「あら……」


 そして、ふっと微笑んだ。


「……眠っちゃったのね」


 私は桜花に微笑んだ。


「うん。おやすみ、カトレア」


 食べ終わっていない器の中では、温かいスープから、まだ細い湯気が立っていた。


 残ってしまった食事を、巴さんは残念がらなかった。


「今日はこれだけ食べられれば十分よ」


 その言葉が、ひどくありがたかった。


     ◇


 カトレアを寝台へ移すのは、思っていたより難しかった。


 桜花がゆっくり立ち上がっても、カトレアの手はまだ服を握っていた。


 ……寝ちゃったのに、離したくないんだ。


「……どうしようか」


 私が小声で尋ねると、桜花はしばらく考えた。


「無理に離さず、まず寝台へ横になっていただきましょう」


「……そうだね」


 桜花はカトレアを抱えたまま、寝台に身を寄せた。


 枕へそっと頭を下ろし、身体を支えながら、少しずつ腕を抜いていく。


 最後に、カトレアの指を見た。


 服の端を握っていた手が、ゆっくり緩んだ。


「……よし」


 私は声を出さずに、親指を立てた。


 桜花が小さくうなずく。


 ……何だろう。


 寝かしつけひとつに、こんなに緊張するとは思わなかった。


 巴さんが掛け布団を整えてくれた。


 カトレアの靴を脱がせ、冷えないよう足元を包む。


 楓は、枕元に置いてあった水差しとカップを確認した。


「……お水、ここ」


「ありがとう、楓」


「……うん」


 いつもなら、私の袖をつまんで甘えてくる楓だ。


 でも、今夜はカトレアの方をずっと気にしている。


 私は、その橙色の髪をそっとなでた。


「……楓、優しいね」


「…………」


 楓は私を見上げた。


 それから、寝台を見た。


「……あの子、いっぱい泣いてた」


「……うん」


「……まだ、泣く?」


 私は少し考えた。


「……多分ね。明日も、明後日も、泣いちゃうかもしれない」


「……そっか」


 楓は、小さくうなずいた。


「……そばに、いたい」


 私は目を見開いた。


「……カトレアの?」


「……うん。起きたら、ひとり、いやかも」


 ……ああ。


 そうだね。


 知らない部屋で目が覚めて、周りに誰もいなかったら。


 また怖くなってしまうかもしれない。


「……ありがとう。お願いしてもいい?」


「……うん」


 楓は即答した。


 でも、そのあとで少しだけ考えるように首を傾げた。


「……リアリス様は?」


「私は、すぐ近くの部屋にいるよ。何かあったら呼んでね」


「……分かった」


 楓は寝台の横に椅子を寄せ、静かに座った。


 カトレアへ伸ばしかけた手を、一度止める。


 さっきから、何かを迷っているようだった。


「……どうしたの?」


「……起きちゃう、かな」


「……そっか。触るのは、起きてからにしようか」


 楓はうなずいた。


 その代わり、掛け布団の端を少しだけ整える。


 カトレアは目を覚まさなかった。


 小さな寝息だけが、部屋に残っている。


 桜花と巴さんが、私へ目を向けた。


 私は小さくうなずいた。


「……じゃあ、楓。お願いね」


「……うん」


 いつもより、少しだけ頼もしい返事だった。


     ◇


 部屋を出ると、廊下は静まり返っていた。


 私は扉をそっと閉め、長く息を吐いた。


「……ふぅ」


「お疲れ様でした、リアリス様」


 桜花が隣で言った。


「……桜花こそ。ずっと抱いててくれて、ありがとう」


「当然のことをしたまででございます」


「……うん。でも、ありがとう」


 桜花は少しだけ目を細めた。


「承知いたしました」


 ……こういうときの返事、本当に桜花らしいな。


 巴さんが私たちを食堂へ案内した。


 そこには、私たちの分だけ、温め直した料理が用意されていた。


「ほら、リアリスちゃん。あなたも食べなきゃ」


「……うん」


 私は椅子に座った。


 目の前には、焼いた肉と野菜の入った温かいスープ。


 いつもなら、見ただけで嬉しくなる料理だ。


 でも、今日は箸を持つ手が重かった。


「……今日の森のこと、やっぱり簡単には忘れられないね」


 私はスープを見つめた。


「助かった二人とカトレアがいる。それは本当によかった。……だからこそ、あの子がこれから安心できるようにしたい」


 桜花と巴さんが、静かにうなずいた。


「カトレアが落ち着いていたら、明日、話を聞いてみようと思うんだけど、どうかな」


 巴さんはゆっくりうなずいた。


「ええ。まずは本人が話せそうか確かめましょう」


「……うん」


「それで、一緒に考えればいいわ。今夜のうちに、全部決めなくたっていいでしょう?」


「……そうだね」


「焦って答えを出すより、ちゃんと本人の気持ちを聞く方が大事よ」


 私は、ゆっくりうなずいた。


 そうだ。これからのことは、カトレア自身の気持ちを聞いてから考えればいい。


 今夜はゆっくり休んでもらおう。


 桜花が、私の皿を見た。


「リアリス様。お料理が冷めてしまいます」


「……あ、うん」


 私はスープを一口飲んだ。


 温かかった。


 ……何だろう。


 その温かさで、ようやく今日が終わりに近づいていることを実感した。


「……おいしい」


「あら、よかった」


 巴さんが微笑む。


 私はもう一口、スープを飲んだ。


 桜花も静かに食事を始めた。


 いつもの賑やかな夕食とは違う。


 笑い声も、冗談もほとんどない。


 でも、誰かと一緒に食べるご飯は、やっぱりありがたかった。


 食べ終える頃には、少しだけ肩の力が抜けていた。


     ◇


 自分の部屋へ戻る前に、私はもう一度、カトレアの様子を見に行った。


 扉をほんの少し開ける。


 楓は、寝台のそばの椅子に座っていた。


 背筋を伸ばし、小さな寝顔を見守っている。


 私に気づくと、静かにこちらを向いた。


「……リアリス様」


「……起きなかった?」


「……うん。眠ってる」


「……そっか。ありがとう」


 私は寝台を覗き込んだ。


 カトレアは、さっきと同じ姿勢で眠っていた。


 枕元には、楓が置いた水と、柔らかな布。


 乱れた水色の髪が、頬にかかっている。


 私は手を伸ばしかけて、止めた。


 ……起こさない方がいい。


 楓の方を見る。


「……何かあったら、すぐ呼んでね」


「……うん」


「無理はしないで」


「……分かった」


 楓は一度うなずき、また寝台の方を向いた。


 橙色の髪が、柔らかな明かりを受けている。


 ……初めて楓に会ったときは、こんなふうに誰かのそばで静かに見守る姿を想像していなかった。


 いや。


 桜花だって、巴さんだって。


 みんな、私が想像して生み出した存在だけど、私の想像どおりにしか動かないわけじゃない。


 自分で考えて、相手のことを思って、行動している。


 ……本当に、頼もしいな。


 私は扉を閉めようとした。


 そのとき、カトレアが小さく身じろぎした。


「……おかあ、さん……」


 寝言だった。


 楓が、そっと顔を近づける。


「……ここに、いるよ」


 誰かの代わりになろうとする言葉じゃない。


 ただ、今ここにいることを伝える、小さな声だった。


 カトレアは目を覚まさなかった。


 けれど、少しだけ眉間のしわが緩んだように見えた。


 私はそれを見届けて、静かに扉を閉めた。


 転生して七日目。


 屋敷に住む人が増えたと、ついこの前まで笑っていた私の暮らしに、小さな女の子がやって来た。


 その子が、明日どうするのか。


 これから、どこで暮らすのか。


 答えを急ぐ必要はない。


 でも、一つだけ決めたことがある。


 ――せめて今夜だけは、この子を一人にしない。


 廊下の向こうで、誰かがそっと歩く足音がした。


 屋敷は、いつもより静かだった。


 その静けさの中に、カトレアが安心して眠れる時間が、少しでもあればいいと思った。

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