第1話:森で出会った少女
転生して七日目。
朝の食堂には、焼きたてのパンの香りが広がっていた。
「リアリスちゃん、もう少しお野菜を食べなさい」
「……はい」
私は素直に皿へ手を伸ばした。
ほんの数日前まで、この屋敷には私一人しか住んでいなかった。
それが今では、食堂に集まるとちょっとした宴会みたいになる。
巴さんが台所を取り仕切り、十人のメイドたちはそれぞれ得意な仕事を分担してくれている。
桜花は相変わらず、私の隣で静かに食事をしていた。
そして、楓は――。
「……リアリス様」
「ん?」
隣にちょこんと座った楓が、自分の皿を見せてくる。
野菜が、ひとつも残っていない。
「……全部、食べた」
「おお、偉いね!」
「……うん」
楓はほんの少しだけ口元を緩めた。
……可愛いなぁ。
もう何度思ったか分からないけど、可愛い。
私は思わず頭をなでようとして、ふと自分の皿を見た。
……野菜が残っている。
楓の視線が、私の皿へ移った。
「……リアリス様も」
「……食べます」
向かいで巴さんが笑っていた。
……あれ?
この家の主って、私だったよね?
まあ、いいか。
食事がおいしいし、みんな楽しそうだし。
こういう毎日も悪くない。
◇
朝食を終えた私は、桜花と一緒に出かける準備をした。
「今日は薬草採取に行こうと思ってるんだ」
「承知いたしました。お供いたします」
「うん。よろしくね」
先日の依頼は、何事もなく終わった。
あのときは、普通に薬草を採って帰れたことが嬉しくて仕方なかった。
……途中で結界の設定ミスが発覚したけど。
あれは冒険者の依頼とは関係ない。
関係ないことにしておこう。
それから二日ほど、屋敷でのんびり過ごした。
皆と話して、食事をして、庭を眺めて。
時々、桜花に魔法の仕組みを教えてもらったり。
……私が作った魔法なのに、桜花の方が詳しいのは、もう気にしないことにした。
でも、今日は少し身体を動かしたい。
桜花も一緒なら、森の散歩も楽しそうだ。
「リアリスちゃん、行ってらっしゃい」
玄関で巴さんが手を振ってくれた。
「お昼は外で食べるの?」
「うん。王都で何か買おうかな」
「分かったわ。夕飯はちゃんと帰ってきてね」
「はーい!」
……うん。
完全にお母さんだ。
その横から、楓が顔をのぞかせた。
「……気をつけて」
「ありがとう、楓。すぐ帰ってくるよ」
楓は小さくうなずいた。
何だろう。
見送ってくれる人がいるって、いいね。
私は桜花と並んで、屋敷を出た。
……今日は、静かな一日になるといいな。
そんなことを、何の疑いもなく考えていた。
王都の城門をくぐり、冒険者ギルドへ向かう。
いつもの通りは朝からにぎやかだった。
焼きたてのパンを売る屋台。
荷物を積み込む商人。
何かを言い合いながら走っていく子供たち。
桜花はその様子を眺め、時々興味深そうに首を傾げていた。
「桜花、何か気になる?」
「いえ。皆様、それぞれの暮らしを営んでいらっしゃるのだな、と」
「……うん。そうだね」
たった七日。
それでも、この街には少しずつ慣れてきた。
私が来る前から続いていた日常があって、私が知らない人たちにも、それぞれ大切なものがある。
……何だろう。
朝からちょっと真面目なことを考えてしまった。
「おっと、今日の目的は薬草採取だった」
「はい。お忘れではありませんね」
「忘れてないよ! 確認しただけ!」
桜花が小さく笑った。
……この子、最初に会ったときより、だいぶ冗談が分かるようになった気がする。
いや。
もしかすると、最初から分かっていたのかもしれない。
ただ、私の方が慣れていなかっただけで。
◇
ギルドでいつもの薬草採取依頼を受ける。
リリーナさんは私たちを見ると、ほっとしたように微笑んだ。
「おはようございます、リアリスさん。今日は薬草採取ですか?」
「はい! 今日も平和に行って、平和に帰ってくる予定です!」
「……予定、なんですね」
「お願いだから、そこは突っ込まないで!」
私が言うと、リリーナさんはくすくす笑った。
桜花は横で静かに一礼している。
「桜花さんも、どうぞお気をつけて」
「はい。リアリス様の安全には、十分配慮いたします」
「……私が守られる側なの?」
「相棒ですので」
……あっ。
今の返事、何だか嬉しい。
「じゃあ、お互い気をつけようね」
「はい」
受付を離れ、私たちは王都の外へ向かった。
今日は、先日より少し離れた森へ行くつもりだ。
いつも同じ場所で採取していたら、薬草が減ってしまうかもしれない。
それに、歩いて行ける範囲でも、この世界にはまだ知らない景色がたくさんある。
……あっ。
もちろん、危険な奥地まで行くつもりはないよ。
あくまで、普通のFランク冒険者として。
普通に薬草を採って、普通に帰る。
大切なことだから、何度でも言っておこう。
普通に、だ。
森の入口に着くと、木々の隙間から柔らかな光が落ちていた。
街道から少し離れた草地には、小さな花が咲いている。
私は思わず足を止めた。
「……おお。綺麗だなぁ」
「はい。よい眺めでございます」
桜花は静かにうなずいた。
日本では見たことのない花もある。
名前を知りたいけれど、さすがに花の種類を全部教えてくれる魔法までは作っていない。
……作ろうと思えば作れるのかな。
いや、今日は新しい魔法を増やす日じゃない。
薬草採取だ。
「《サーチ》」
採取対象の薬草を思い浮かべると、頭の中の地図に青い光が灯った。
森の浅い場所に、いくつかまとまって生えているようだ。
「こっちにあるね」
「承知いたしました」
私は桜花を先導して歩いた。
木の根を避け、落ち葉を踏みしめ、陽の当たる斜面へ向かう。
思ったとおり、そこには薬草が何株も生えていた。
「……よし、当たり!」
私はしゃがみ込み、根元を傷つけないよう葉を選んで採っていく。
桜花も少し離れた場所で、手際よく作業を始めた。
……早い。
しかも、すごく丁寧。
「桜花、何か採取に慣れてきてない?」
「前回、リアリス様に教えていただきましたので」
「……一回でそこまで上手になるものなの?」
「私には、十分な説明でございました」
……うーん。
教えた私の方が、ちょっともたもたしている気がする。
まあ、いいか。
相棒が頼もしいのは、いいことだ。
私たちはしばらく、ほとんど会話もせずに薬草を集めた。
鳥の声が聞こえる。
風が葉を揺らす。
遠くの街道からは、ときどき馬車の車輪が軋むような音がした。
……こんな時間、いいね。
「そろそろ十分かな」
依頼に必要な量を確かめ、《収納》へしまった。
まだ日も高い。
急いで戻れば、王都で昼食を取ってから帰れるだろう。
「桜花、帰ろっか」
「はい、リアリス様」
私たちは来た道を引き返し始めた。
そのときだった。
遠くから、かすかな叫び声が聞こえた。
「……ん?」
私は足を止めた。
風の音とは違う。
人の声だ。
もう一度、耳を澄ませる。
金属がぶつかる音。
馬のいななき。
そして、何かを怒鳴る男の声。
「……桜花」
「はい。私にも聞こえております」
桜花の声が、少しだけ低くなった。
さっきまでの穏やかな表情はない。
「……誰か、襲われてる?」
「その可能性が高いかと」
私は街道の方角を確かめた。
「……行こう!」
「承知いたしました」
私たちは、音のする方へ駆け出した。
木々の間を抜けると、視界が開けた。
そこには、街道が通っていた。
そして、道の先に異変を見つけた。
道の脇に、一台の馬車が傾いていた。
片側の車輪が壊れているのか、車体が地面へ沈み込んでいる。
荷物が散らばり、馬は綱を引きちぎりそうな勢いで暴れていた。
その周りを囲んでいたのは、緑がかった皮膚の大きな人影。
人間よりずっと太い腕。
牙の突き出た口。
手には、粗末な棍棒や刃物。
「……オーク?」
日本で知っていた異世界の魔物と、よく似ている。
……いや。
そんな感想を言っている場合じゃない!
馬車の前で、一人の冒険者が剣と盾を構えていた。
盾は大きく欠け、片腕は血に染まっている。
足元もふらついていた。
「くそっ……まだ来るのか……!」
男が振り下ろされた棍棒を盾で受ける。
鈍い音がした。
男の膝が折れかける。
少し離れた場所では、木のロッドを手にした冒険者が倒れていた。
そのロッドは途中から折れている。
倒れた人は、ほとんど動いていない。
さらに周りには、動かなくなった冒険者たちの姿があった。
……一人。
……二人。
……三人。
そして、馬車のそばにも。
「…………」
私は、倒れている人たちの位置を確かめた。
大人の男女が、荷台へ手を伸ばすような姿勢で倒れていた。
もう、動いていない。
荷台の奥から、小さな物音が聞こえた。
……誰かが、いる。
でも、今は確認に行けない。
剣と盾の男に、別のオークが迫っていた。
「桜花!」
「はい!」
私は迷わず叫んだ。
「オークを止めて! その人を守って!」
「承知いたしました」
桜花の姿が、ふっと動いた。
次の瞬間には、もう男とオークの間に立っていた。
銀色の髪が揺れ、刀の鞘が小さく鳴る。
「……何だ、お前は!」
男が驚いた声を上げた。
そりゃ驚くよね。
メイド服の女の子が、いきなり戦場に現れたんだから。
……でも。
今は、驚いている時間すら惜しい。
桜花の右手が、刀の柄にかかった。
「【一閃】」
短い声。
白い線が、視界を横切った。
オークが、音を立てて崩れ落ちた。
桜花はすでに、次の相手へ向かっていた。
「……速っ!」
思わず声が漏れた。
……ああ、そうだった。
桜花は、私が『頼れる冒険仲間』として作ったんだ。
本人はいつも落ち着いているけれど、その強さまで普通のはずがなかった。
オークたちが怒鳴り、桜花へ向かってくる。
でも、間に合わない。
一体が倒れたかと思うと、もう次の一体も動かなくなっていた。
刀は一度も、人間の方へ向かない。
倒れた人たちにも、馬車にも、触れない。
彼女は、私が頼んだとおりに、危険な相手だけを確実に止めていった。
……そして。
最後のオークが倒れた。
森に、突然静けさが戻った。
「リアリス様。周囲の敵は排除いたしました」
桜花は刀を納め、私へ振り返った。
「ありがとう、桜花!」
私は短く答え、倒れている人たちの方へ走った。
最初に駆け寄ったのは、剣と盾を持っていた男だった。
男はまだ立っていたが、顔色が悪い。
盾を落とし、膝をついた。
「……あんたたち、どこから……」
「話は後で! まず怪我を見せて!」
「……俺は、いい。それより、あいつを……」
男が、倒れた魔法使いの方を指さした。
そこにいるのは、折れた木のロッドを握ったままの冒険者だった。
呼吸が浅い。
胸が、ほんの少しだけ上下している。
……生きてる。
「大丈夫。二人とも助けるから」
私は地面に膝をつき、魔法使いの身体へ手をかざした。
「《完全回復》」
柔らかな光が広がった。
傷が塞がり、苦しそうだった呼吸が少しずつ落ち着いていく。
……よし。
まだ意識は戻らないけれど、もう危険な状態ではなさそうだ。
続いて、剣と盾の男へ向き直る。
「あなたも、動かないで」
「……今の、何だ……?」
「治療の魔法です。すぐ終わるから」
「《完全回復》」
光が男の身体を包んだ。
傷だらけだった腕が元の状態へ戻り、足の震えも止まっていく。
男は目を見開き、自分の腕を見つめた。
「……嘘だろ。折れてたはずなのに……」
「痛いところは?」
「……ない。全然……」
「よかった」
私は息を吐いた。
二人の呼吸が落ち着いたのを確かめ、私は周囲へ目を向けた。
「……ほかの人は?」
男の表情が、苦しそうに変わった。
「……俺たちは、Dランク冒険者の五人組だった」
「……五人?」
「護衛の依頼で……馬車について、ここまで……」
私は周囲を見た。
剣と盾の男。
倒れている魔法使い。
そして、少し離れた場所にいる、三人の冒険者。
……五人。
数は、合っている。
私は一人ずつ確認した。
呼吸。
脈。
身体の様子。
……でも。
誰も、反応しなかった。
私は静かに目を伏せた。
《完全回復》は、生きている人の傷を癒やす魔法だ。亡くなった人を蘇らせるものではない。
助かった二人のためにも、今できることをしよう。
男が、私の顔を見た。
「……駄目、なのか」
声がかすれていた。
私は首を横に振る。
「……残念ですが、もう……」
その先は、言葉を選んでも変わらなかった。
男は何かを言おうとした。
でも、声にならなかった。
ようやく握れるようになった拳を、強く地面へ押しつける。
「……くそっ……」
その言葉は、怒鳴り声よりもずっと小さかった。
そして、とても重かった。
そのとき、馬車の方から物音がした。
こつん、と、何かが木に当たるような小さな音。
私は顔を上げた。
そうだ。
さっき、荷台の奥に誰かがいる気配がした。
「……桜花」
「はい」
「馬車の中、確認しよう」
「承知いたしました」
私は倒れた人たちへもう一度目を向けた。
馬車のそばで動かなくなっていた男女にも、すでに呼吸がなかった。
荷台の奥には、まだ誰かいる。まずは安全を確かめよう。
「……誰か、いますか?」
できるだけ穏やかな声で呼びかけた。
返事はない。
私は慎重に、馬車の壊れていない側へ回った。
荷台の扉が半分外れ、斜めに引っかかっている。
中には毛布や荷物が散らばっていた。
そして、その一番奥。
「…………」
小さな女の子が、いた。
毛布を胸に抱え、身体を丸めている。
水色の髪は肩にかかるほどの長さで、頬の横で少し乱れていた。
前髪の隙間から、大きな目がこちらを見ていた。
まだ、とても小さい。
九歳くらいだろうか。
近づこうとした瞬間、女の子の肩が大きく震えた。
「……っ!」
私は足を止めた。
突然、知らない大人が現れれば警戒するのも当然だ。
私は声を落とした。
「驚かせたね。私は助けに来たんだ」
私は少し身体をかがめた。
手には何も持たない。
相手が逃げたいと思ったとき、すぐ動けるよう、入口も塞がない。
「私はリアリス。冒険者だよ」
女の子は、何も言わない。
毛布をぎゅっと握っている。
「怖い人たちは、もういないよ。ここから離れて、ゆっくり休める場所へ行こう」
「…………」
返事は、なかった。
私は無理に手を伸ばさず、彼女の目線まで身体を低くした。
無理に励ますより、まずはこの子のペースに合わせよう。
安全な場所があることだけ、伝えればいい。
「……ここにいてもいいよ。怖かったら、まだ出てこなくてもいい」
私はできるだけ静かに言った。
「でも、外は危ないから……少し落ち着いたら、一緒に安全なところへ行こう」
女の子の視線が、私の肩越しへ向けられた。
倒れた人たちのいる方向だ。
唇が、小さく動いた。
「……おかあ、さん……」
かすれた声だった。
私は馬車の外にいた男女を思い出した。
あの二人は、この子の両親なのかもしれない。
今は、怖がらせないようにしよう。
「……桜花」
小さく呼ぶと、桜花が私の隣に来た。
「はい、リアリス様」
桜花も馬車の奥を見た。
女の子と目が合うと、そっと膝を折った。
「初めまして。私は桜花と申します」
落ち着いた、柔らかな声だった。
「今、外にいる危険な相手は退けました。ですが、怖い思いをなさったことまで、すぐに消えるものではありません」
私は桜花を見た。
彼女は女の子だけを見つめている。
「私たちと一緒に、安全な場所へ行きませんか」
「…………」
「歩くのがつらければ、私がお抱きいたします」
女の子は、桜花の顔を見つめた。
長い沈黙のあと。
小さな手が、毛布から離れた。
ほんの少しだけ、桜花の方へ伸びる。
「……だっこ……」
その声は、今にも消えそうだった。
「はい」
桜花は、すぐに答えた。
「もちろんでございます」
彼女はゆっくり手を差し出し、女の子が頷くのを待ってから、慎重に抱き上げた。
とても小さな身体だった。
桜花の肩に顔を埋めると、女の子はもう何も言わなくなった。
ただ、メイド服の肩を強く握っていた。
桜花なら、この子を安心して任せられる。
桜花が女の子を抱きかかえている間に、私はもう一度、二人の冒険者のもとへ戻った。
倒れていた魔法使いは、ようやく意識を取り戻していた。
剣と盾の男が、そのそばにしゃがんでいる。
「……俺たち、生きてるのか」
魔法使いが、自分の両手を見つめながらつぶやいた。
「生きてる。お前も、俺も……あの人たちに助けてもらった」
男の声は震えていた。
魔法使いは周囲を見回し、そして何も言わなくなった。
二人とも、傷は残っていない。
でも、顔に浮かぶものまでは、さっきの魔法で消えなかった。
「……すみません」
私は声をかけた。
「街まで戻れそうですか?」
「……ああ。身体は、もう大丈夫だ」
「俺も……歩ける」
魔法使いが、震えながらうなずいた。
私は一度、桜花の方を振り返った。
女の子は、まだ彼女の肩へ顔を伏せたままだ。
「馬車の中に、小さな女の子がいたんです」
そう言うと、剣と盾の男が苦しそうに目を閉じた。
「……カトレアちゃんか」
「カトレア……?」
「九歳の子だ。両親と一緒に、村から王都へ向かっていた」
「…………」
やっぱり。
私は小さく息を吸った。
「……馬車のそばにいた、あの二人が?」
男は、ゆっくりうなずいた。
「……守りきれなかった」
その声は、絞り出すようだった。
「俺たち五人で、護衛を引き受けたんだ。それなのに……」
男は続けようとして、言葉を詰まらせた。
護衛の責任を誰より重く感じているのは、彼自身だろう。
この人は、傷だらけになっても盾を構えていた。
最後まで、誰かを守ろうとしていた。
それを、私は確かに見た。
「……まずは、王都へ戻りましょう」
私は静かに言った。
「亡くなった人たちのことも、ギルドにきちんと伝えましょう。迎えに来てもらえるよう、お願いしたいです」
男は顔を上げた。
「……置いていくのか?」
「このままにはしません。必ず、戻ってきてもらえるようにします」
私は馬車の周囲を見回した。
街道の脇とはいえ、森が近い。
また魔獣が現れる可能性だってある。
……せめて、誰かが迎えに来るまで守りたい。
「ここに、結界を張っておきます」
「……結界?」
「はい。人が出入りできて、魔獣や野獣は入れないように」
屋敷で使っている《結界》と、同じ魔法だ。
今度は条件を間違えないよう、しっかり考える。
亡くなった人たちと、壊れた馬車の周囲。
そこを守れるだけの範囲。
「《結界》」
見た目には何も変わらなかった。
でも、私はきちんと発動した感覚を確かめた。
「……これで、回収の人たちが来るまで守れるはずです」
剣と盾の男は、驚いたように私を見た。
「……あんた、一体……」
「ただのFランク冒険者です」
……普通のFランク冒険者が結界まで張るのかは、考えないことにしよう。
男は何か言いかけたが、結局、黙って頭を下げた。
「……ありがとう」
「まずは、ギルドに状況を伝えましょう」
私は、次に必要なことを考えた。
◇
帰り道は、静かだった。
剣と盾の男が先を歩き、その隣を魔法使いがついていく。
二人とも身体の傷は治っている。
でも、時々立ち止まって、後ろの森を振り返っていた。
二人には、無理に言葉をかけないことにした。
身体の傷が治っても、気持ちの整理には時間が必要だ。
何かあれば手を貸せるよう、私は歩調を合わせた。
少し後ろを歩く桜花は、カトレアを抱いたままだった。
水色の髪が、彼女の白いエプロンにかかっている。
カトレアは一度だけ顔を上げた。
私たちが進んでいる方向を見る。
そして、小さな声で尋ねた。
「……どこ、いくの……?」
桜花が足を止めた。
「王都へ向かっております。休める場所まで、もう少しです」
「……おかあさん、は……?」
「…………」
桜花はすぐに答えなかった。
私も足を止めた。
カトレアがこちらを見た。
大きな目には、まだ涙が残っている。
私は、できるだけゆっくり話した。
「……今は、カトレアが安全な場所で休むのが先だよ」
「……おとうさんも……?」
私はカトレアの顔を見て、落ち着いた声で答えた。
「……今は安全な場所へ行こう。聞きたいことは、落ち着いたら一緒に話そうね」
カトレアは、じっと私を見つめていたが、何も言わなかった。
また桜花の肩に顔を埋める。
嘘はつかず、これからもきちんと向き合おう。
桜花が、そっと私へ目を向けた。
私は小さくうなずいた。
「……行こう」
「はい」
しばらく歩くうちに、カトレアの手から少しずつ力が抜けていった。
桜花の肩へ預けた頬が、静かに上下する。
「……眠った?」
「はい。お疲れになったのでしょう」
「……そっか」
少しでも眠れたなら、今はそれでいい。
私はカトレアの寝顔を確かめ、静かに歩き続けた。
「……桜花。ありがとう」
「何に対してでしょうか」
「この子を、ちゃんと抱いてくれてること」
桜花はカトレアを見下ろし、静かに微笑んだ。
「この方が、安心できるのでしたら」
「……うん」
それ以上、言葉はいらなかった。
◇
王都の城門が見えたときには、日が少し傾き始めていた。
今朝、ここを通ったときは、帰りに何を食べるか考えていた。
桜花と笑って、薬草を採って、のんびり帰るつもりだった。
……今日は、ずいぶん長い一日になった。
門兵さんが私たちを見ると、表情を変えた。
「……リアリス? どうした、その子は?」
「森の近くで、馬車がオークに襲われていました」
「……何だと?」
私は、できるだけ落ち着いて事情を伝えた。
五人の護衛冒険者のうち、生き残ったのは二人だけだったこと。
馬車の乗客だった男女も亡くなったこと。
そして、子供が一人、助かったこと。
剣と盾の男が、その説明に静かにうなずいた。
「……俺たちからも、ギルドへ報告する」
門兵さんは真剣な顔になった。
「分かった。遺体の引き取りも手配させる。場所を詳しく教えてくれ」
「はい。街道沿いの……」
私は道順と、目印にした木の位置を伝えた。
森のそばに結界を張ってきたことも説明する。
門兵さんは一通り聞き終えると、小さくうなずいた。
「……大変だったな」
「……はい」
そう答えるのが、精一杯だった。
救われた二人の冒険者は、ギルドへ報告に向かうことになった。
別れ際、剣と盾の男がカトレアを見た。
眠っているのを確認すると、私へ向き直る。
「……この子を、しばらく頼めるか」
「はい。まずは落ち着いて休める場所へ連れていきます」
「……すまない」
「いえ。あなたたちも、無理をしないでください」
男は深く頭を下げた。
魔法使いも、言葉を出さずに頭を下げた。
二人の背中が遠ざかっていく。
私はそれを見送ってから、桜花へ振り返った。
「……帰ろうか」
「はい、リアリス様」
桜花の腕の中で、カトレアは眠ったままだった。
昨日まで、この子の名前さえ知らなかった。
今日の朝だって、会う予定なんてなかった。
それでも今、私たちは一緒にいる。
私は、そっとカトレアの顔を見た。
「……大丈夫。今夜は、ゆっくり休もうね」
返事はなかった。
眠っているのだから、当たり前だ。
それでも、私はそう伝えたかった。
待っていてくれる人たちがいる。
温かい食事も、大きな寝台もある。
そして、桜花や巴さん、楓もいる。
……この子が安心して泣ける場所くらいは、用意してあげたい。
私は王都の向こうに続く道へ、静かに歩き出した。
――それが、カトレアと出会った日のことだった。




