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第3話:Fランク冒険者、誕生!

 晴斗君が「冒険者になりたい」と言い出してから、数日が過ぎた。


 ……いやぁ。


 あのときは驚いたねぇ。


 何しろ、ついこの間まで日本の高校生だった男の子が、この世界で冒険者になると決めたんだから。


 私が転生してきたときとは、ずいぶん事情が違う。


 私は最初から《想像魔法》があったし、魔力も無限。


 危ない魔獣と出くわしても、何とかなる自信があった。


 ……うん。


 自分で言っていて、何だか身も蓋もないなぁ。


 でも晴斗君は、そうじゃない。


 《鑑定》で見つかった成長系のスキルは、確かにすごい可能性を秘めていると思う。


 けれど、それは今すぐ強くなれるという意味ではない。


 剣を握ったこともない人が、明日から魔獣と戦えるようになるわけじゃないからね。


 ……そんなわけで。


 私はちょっとだけ、心配していた。


 いや、ちょっとだけだよ?


 ……たぶん。


     ◇


 ここ数日、晴斗君は王都へ出かけることが増えた。


 朝食を終えると、ユリとモフ太に声をかけ、楽しそうに玄関へ向かう。


 行き先は、ほとんど冒険者ギルド。


 最初は掲示板の依頼を眺めるだけだったらしいけど、最近では受付の人や冒険者たちに、いろいろと話を聞いているみたいだ。


 ……いいねぇ。


 実際に仕事をしている人から聞く話は、学校の授業とは違うだろうからね。


 しかも、晴斗君は帰ってくるたびに、その日に知ったことを嬉しそうに教えてくれる。


『採取依頼でも、どこに何が生えているか覚えないといけないんですね!』


『護衛の依頼って、魔獣だけじゃなくて道の状態も気にするそうです!』


『今日、薬草の見分け方を教えてもらいました!』


 ……うんうん。


 ちゃんと、少しずつ勉強しているみたいだ。


 それに、本人も楽しそうだし。


 ただ、一つだけ気になることがある。


 ……あのさ。


 王都の冒険者ギルドに、あの赤いリボンをつけた熊を連れて行ってるんだよね?


 シルベスターさんたちには、もちろんモフ太のことを伝えてある。


 王様からの正式な外出許可も出ている。


 だから問題はないんだけど。


 ……毎日、Sランクの魔獣を抱えてギルドに通う新人候補って、なかなかすごい光景じゃない?


 まあ、本人はあまり気にしていないみたいだし。


 ユリが一緒だから、変な騒ぎになることもないと思う。


 ……。


 …………。


 うん。


 私が考え始めると、どうも心配事ばかり増えてしまうね。


 晴斗君は、ちゃんと自分で考えて行動している。


 そこは、信じてあげよう。


 私は居間のソファに腰を下ろし、桜花が淹れてくれた紅茶を飲んだ。


「……ああ。おいしい」


「ありがとうございます、リアリス様」


 隣の桜花が、いつものように微笑んだ。


 ……うん。


 こうして紅茶を飲んでいる時間は、本当に幸せだねぇ。


 窓の向こうでは、庭の花が風に揺れている。


 カトレアは学校へ行っているし、巴さんたちはそれぞれの仕事をしている。


 今日はサロンの予約も、午後に急遽入った一件だけ。


 ……おお。


 なかなか、のんびりできそうじゃない!


 そう思って、二口目の紅茶を飲もうとしたときだった。


「ただいま戻りましたー!」


 玄関の方から、聞き慣れた声が響いた。


 ……おっ。


 晴斗君だ。


「晴斗君、おかえりー!」


 私は居間から声をかけた。


 ぱたぱたと、軽い足音が近づいてくる。


 ……あれ?


 何だか、いつもより足音が速くない?


「リアリスさん!」


 居間へ飛び込んできた晴斗君は、満面の笑みを浮かべていた。


 後ろにはユリ。


 その足元には、赤いリボンの小さな熊。


 ……うん。


 いつもの三人組だ。


 でも、今日の晴斗君は明らかに違う。


 目がきらきらしている。


 今にも何かを言い出しそうだ。


「どうしたの? 何かいいことあった?」


「はい! 見てください、リアリスさん!」


 晴斗君が胸元から取り出したのは、一枚のカードだった。


 ……ん?


 その形。


 見覚えがあるぞ。


 私は思わず身を乗り出した。


「……おおっ!」


 晴斗君が、誇らしそうにカードを差し出す。


 そこには、はっきりと名前とランクが書かれていた。


 春原晴斗。


 冒険者ランク、F。


 ……!


「おぉー! ついに晴斗君も冒険者になったんだね!」


「はい!」


 返事と一緒に、晴斗君の笑顔がさらに大きくなった。


 ……ああ。


 よかったねぇ!


 あのとき、居間で真剣に「冒険者になりたい」と話していた姿を思い出す。


 まずは自分で調べてみる。


 仕事の内容を知ってから決める。


 そう言って、何日もギルドへ通っていた。


 ……うん。


 ちゃんと、その一歩を踏み出したんだ。


「おめでとう、晴斗君!」


「ありがとうございます!」


「晴斗様、おめでとうございます」


 桜花も微笑み、晴斗君にお祝いの言葉をかける。


 ユリも嬉しそうに頷いた。


「晴斗様は、受付の方からのご説明も熱心にお聞きになっておりました」


「あっ、ユリさん!」


 ……おや。


 晴斗君、ちょっと照れてる?


「へぇー。ちゃんと説明を聞いてきたんだ」


「はい。受けられる依頼のこととか、気をつけることとか……。分からないところは何度か質問しちゃいましたけど」


「いいじゃない! 分からないままにしない方がいいよ」


「そうですよね!」


 嬉しそうに答える晴斗君。


 ……ああ。


 こういうところ、本当にしっかりしてるなぁ。


 年齢はまだ十七歳なのに。


 ……いや。


 私は転生前、四十三歳だったからね。


 そう考えると、晴斗君くらいの年頃の子が頑張っている姿は、何だか応援したくなっちゃう。


「リアリス様」


 桜花が小さく声をかけてきた。


「うん?」


「お顔が、ずいぶん嬉しそうでございますね」


「……えっ?」


 ……あっ。


 顔に出てた?


「そりゃあ嬉しいよ。晴斗君が頑張ってたの、桜花も知ってるでしょう?」


「はい。よく存じております」


 桜花が、少しだけ目を細めた。


 ……うん。


 やっぱり、こういう報告は嬉しいね。


 世界を救ったとか、SSランクになったとか。


 そういう大きな話もあったけど。


 目の前の誰かが、自分で決めたことを実現する。


 私は、こういうことも同じくらい嬉しい。


     ◇


「それにしても、Fランクかぁ……」


「......いいなぁ」


 私は晴斗君のカードを見ながら、少し懐かしい気分になっていた。


 冒険者登録。


 ……うん。


 私も、最初はFランクだったんだよね。


 依頼を受けて、森へ行って、薬草を採って。


 あの頃は、この世界のことなんてほとんど知らなかった。


 ……もっとも。


 私の場合は、最初から大抵のことを魔法で解決できちゃったんだけど。


 ……そこは、参考にならないね。


「晴斗君、最初はどんな依頼を受けるつもりなの?」


「まずは薬草採取を考えています。ギルドで初心者向けだって聞いたので」


「おっ。いいね!」


 ……薬草採取。


 新人冒険者らしい、堅実な選択だ。


 もちろん、ちゃんと見分ける知識は必要だけど。


 ……ただね。


「でも、気をつけてほしいこともあるんだ」


「はい?」


「Fランクの依頼でも、王都の外での仕事は結構危ないからね」


 私は、なるべく穏やかに言った。


 薬草を採るだけ。


 言葉にすると、何だか平和な仕事に聞こえる。


 でも、薬草が生えている場所が、必ず安全とは限らない。


 魔獣は、こっちの都合なんて考えてくれないからね。


 採取に夢中になっていたら、いつの間にか近づいていた。


 ……そんなことだって、十分あり得る。


「魔獣に出会ったら、無理に戦わずに逃げること。危ない場所に入らないこと。最初は特にね」


「はい。そこはギルドでも教えてもらいました」


「うん。なら安心かな」


 ……よし。


 ちゃんと聞いているなら、そこまで心配する必要はないか。


 晴斗君は、私の話に真剣な顔で頷いていた。


 それから。


 ……おや?


 何だか、急に目が輝き始めた。


 ……あっ。


 この顔。


 さっきカードを見せてくれたときと、同じ顔だ。


「リアリスさん!」


「はい!」


「そこなんです!」


「……そこ?」


 何がそこなんだろう。


 私が首を傾げると、晴斗君は勢いよく頭を下げた。


「僕に、戦い方を教えてください!」


「……えっ?」


 ……戦い方?


 ……おお。


 そうきたか。


 私は、思わず目を丸くしてしまった。


「晴斗君、戦い方って……剣とか?」


「はい!」


「剣道とか、武術とか。日本で何か習ってたことはある?」


「ありません!」


 ……即答だ。


「体を動かすのは得意な方ですけど、剣道も武術もやったことないです。喧嘩だってしたことありません!」


「……そっかぁ」


 私は、苦笑いした。


 ……うん。


 まあ、日本の高校生だもんね。


 剣を振り回す機会なんて、普通はない。


 それに、喧嘩をしたことがないのは、別に悪いことじゃないよ?


 むしろ、平和に暮らしてきた証拠だと思う。


 ……ただ。


 冒険者として魔獣と向き合うなら、何もできないままでは困る。


 武器を持つ方法。


 相手との距離。


 足の運び方。


 危ないときに、どう身を守るか。


 そういうことは、少しずつ覚えた方がいいだろうね。


 ……よし。


 私にできることがあるなら、協力してあげたい。


 ……協力。


 ……。


 …………。


 あれ?


 私が、直接教えるの?


 ……ちょっと待って。


 私は自分の手を見た。


 ……うん。


 普通の手だね。


 外見だけなら、そこら辺にいる青年と大して変わらない。


 ……でも。


 この手で、全力の一撃なんて放ったら。


 ……ああ。


 それは、ちょっと。


 ……いや、かなり。


 まずい。


「……リアリスさん?」


 晴斗君が、不思議そうに私を見た。


「あっ、ごめんね。ちょっと考えてた」


「僕、何か変なこと言いましたか?」


「全然! 戦い方を覚えたいっていうのは、いいことだと思うよ!」


「よかったです!」


 ぱっと表情が明るくなる。


 ……ううっ。


 そんな期待した目で見ないで。


 もちろん、助けたいんだけど!


 でも、私の身体能力って、今さらながら本当に普通じゃないからね。


 剣の稽古だって、自分で何度も練習して身につけたものだ。


 何でも魔法一つで覚えられるわけじゃない。


 ましてや、相手の身体の動きを見ながら、力を調節して教えるとなると……。


 ……うーん。


 私、そこまで器用じゃないんだよね。


「一応、晴斗君には成長系のスキルもあるし、もし怪我をしたら私が《完全回復》で治せるとは思うんだけど……」


 私は、そこで言葉を切った。


 ……うん。


 治せるからって、怪我をさせていいわけじゃない。


 まして、私の手加減が甘くて大怪我なんて、笑い話にもならないし。


 ……あっ。


 そうだ。


 いい人がいるじゃないか!


 私は晴斗君の足元を見た。


 赤いリボンをつけた小さな熊が、きちんと座っている。


「モフ太ー」


「はい、ご主人様」


「楓を呼んできてもらえるかな?」


「かしこまりました!」


 モフ太は丁寧に頭を下げると、小さな身体でひょこひょこ歩き始めた。


 廊下の角を曲がるときには、赤いリボンがぴょこんと揺れる。


 ……ああ。


 可愛いなぁ。


 ……って。


 いや、今はそこじゃないね。


「……楓さんですか?」


 晴斗君が、少し首を傾げた。


「うん。楓にお願いしようと思って」


「リアリスさんが教えてくださるんじゃないんですね?」


 ……うっ。


 そう言われると、ちょっと心苦しい。


「私が直接やってもいいんだけどねぇ……」


 私は、そっと視線を逸らした。


「……その。最初からだと、ちょっと危ないかなって」


「危ない?」


「うん。私、手加減がちょっと苦手なんだよね」


 ……いやぁ。


 自分で言っておいて、何だか情けない。


 あれだけ強くなったのに、初心者に安全に剣を教えることが難しいなんて。


 ……でも。


 大事なのは、相手を怪我させないことだからね。


 晴斗君は、少し考えるように顎へ手を当てた。


「……なるほど。ちなみに、加減ができなかったらどうなっちゃいますか?」


「……えっ?」


 ……加減が、できなかったら?


 私は想像してみた。


 晴斗君が木剣を構える。


 私も木剣を構える。


 晴斗君の動きに合わせて、一歩踏み込む。


 ……。


 …………。


 あれ?


 私が普段どおりに一歩踏み込んだら、その時点で……。


 ……うん。


 駄目だ。


 私は、遠い目になった。


「……今の晴斗君だと、死んじゃうかなぁ……」


「…………」


 晴斗君が、固まった。


 ……。


 …………。


 あっ。


 今の、ちょっと言い方が悪かった?


「いや、もちろん、そうならないようにするよ!? するけど……!」


「……そ、そうですよね」


 晴斗君が、ゆっくり頷いた。


 ……何だろう。


 さっきまであんなにきらきらしていた目が、急に慎重になっている。


 ……うん。


 それでいいと思う。


 冒険者には、慎重さも必要だからね。


 ……って、私が言うことじゃないかもしれないけど。


「ですから、まずは楓にお願いしようかなって」


「……はい。そちらでお願いします」


 ……即答!


 うん。


 そりゃそうだよね。


 私でも、そうすると思う。


     ◇


 少しすると、廊下の向こうから小さな足音が聞こえた。


 ひょこ。


 最初に現れたのはモフ太。


 その後ろを、橙色の短い髪をした少女が歩いてくる。


 楓だ。


 外見はまだ幼い少女に見えるけど、我が家のフラワーズの一人。


 ……そして。


 剣の腕は、そんじょそこらの冒険者とは比べものにならない。


 ……うん。


 何だか、ちょうどいい先生が見つかったね!


「……呼んだ?」


 楓が、いつもの無表情で私を見た。


「あっ、楓! 来てくれてありがとう」


 小さく、こくり。


 ……うん。


 今日もいつもの楓だ。


「ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」


 こくり。


 ……おお。


 まだ内容を言ってないんだけど。


 ……まあ、楓らしいかな。


 私は晴斗君へ視線を向けた。


「実はね、晴斗君が冒険者登録をしたんだ」


「……ん」


 楓は、晴斗君を見る。


 視線が、彼の手にあるFランクのカードへ向いた。


 それから、また私の方へ。


「だから、少し戦闘訓練をつけてあげてほしいんだ。楓なら、初心者の相手も上手にできると思うから」


「……」


 楓は少しだけ首を傾けた。


 そして、晴斗君を見た。


「……大丈夫?」


「はい! お願いします!」


 晴斗君が、勢いよく頭を下げた。


 ……おお。


 気合いは十分だねぇ。


 楓はしばらく晴斗君を見つめてから、こくりと頷いた。


 ……よし。


 引き受けてくれたみたいだ。


「ありがとう、楓。ただね、一つ気をつけてほしいことがあるんだ」


 私は、少しだけ声を落とした。


「晴斗君は、本当に戦ったことがないんだって。だから最初のうちは、昔の小さかった頃のカトレアを相手にするくらい、優しく教えてあげてほしいんだ」


 ……うん。


 いくら楓が相手でも、ここはちゃんと伝えておかないと。


 楓は、しばらく私を見上げていた。


「……わかった」


 短い返事。


 それから、静かに頷く。


 ……ああ。


 この返事なら、安心だね。


 私は楓の頭へ、そっと手を伸ばした。


 橙色の短い髪を、軽く撫でる。


「よろしくね」


「……ん」


 楓が、ほんの少しだけ目を細めた。


 ……うん。


 やっぱり可愛い。


 あまり表情は変わらないけど、こういう小さな反応があるんだよね。


「楓さん、お手柔らかにお願いします!」


 晴斗君が、もう一度丁寧に頭を下げた。


 楓は彼を見上げる。


「……ん」


 ……うん。


 必要なことだけ話す。


 まさに楓だねぇ。


「それじゃ、まずは庭でやってみようか」


「はい! 早速お願いします!」


 楓は頷くと、居間の出口へ向かった。


 晴斗君も、そのあとを追う。


 ……おっ。


 何だか、すごく楽しそうだ。


 剣の稽古って、そんなにわくわくするものだったっけ。


 ……ああ。


 でも、そうか。


 日本から突然転移してきた高校生なんだもんね。


 本当に冒険者になって、これから初めて剣を習う。


 そりゃあ、嬉しいだろうな。


 私は二人の背中を見送った。


 ……。


 …………。


「……大丈夫かなぁ」


 つい、口から漏れた。


「リアリス様」


「うん?」


 隣にいた桜花が、穏やかに微笑んでいる。


「楓であれば、問題ないかと存じます」


「……あっ。そうだよね」


 ……うん。


 楓は強い。


 それだけじゃなくて、相手の動きをよく見ている。


 カトレアが小さかった頃にも、家族みんなで加減をしながら遊んでくれていたし。


 ……もちろん、今回は本格的な訓練だから、同じというわけにはいかないけど。


「私が相手するより、はるかに安全だよね」


「はい」


 桜花が頷いた。


 ……よし。


 それなら、安心して任せよう。


 任せるって決めたんだから、私が口を出しすぎるのもよくない。


 晴斗君だって、せっかく自分でやる気になったんだしね。


 私は、ようやく冷めかけていた紅茶に手を伸ばした。


 ……ああ。


 落ち着くなぁ。


 窓の外では、明るい日差しが庭を照らしている。


 ……うん。


 そうだ。


 晴斗君の初めての稽古。


 きっと、いい経験になると思う。


 ……。


 …………。


 ……でも。


 お願いだから、無理だけはしないでね?


     ◇


 午後は、予定どおりサロンのお仕事をした。


 予約のお客さんへ《エステ》をして、鏡を見てもらって。


 喜んでもらえると、やっぱり私も嬉しい。


 ……うん。


 こういう日常は、いつまでも続けたいねぇ。


 お仕事が終わったあと、私は庭の方をちらりと眺めた。


 ……おっ。


 やってるねぇ。


 少し離れた場所に、晴斗君と楓の姿が見えた。


 晴斗君は木剣を握り、真剣な顔で楓と向かい合っている。


 楓は、いつもどおり落ち着いた様子。


 ……というか。


 ほとんど動いてないように見えるんだけど。


 晴斗君が踏み込む。


 次の瞬間、楓がほんの少し身体をずらした。


 ……あっ。


 空振り。


 晴斗君がもう一度構える。


 ……おお。


 今度は少し慎重だ。


 また踏み込む。


 ……そして。


 また、空振り。


 ……。


 …………。


 うん。


 楓、すごいねぇ。


 私から見れば、楓はほとんど何もしていない。


 けれど、晴斗君の剣はまったく届いていない。


 避ける位置も、間合いも。


 全部、必要なだけ。


 ……ああ。


 こうして見ると、やっぱり楓は剣の扱いが上手だなぁ。


 そして何より、無理な反撃をしていない。


 ……うん。


 ちゃんと、お願いしたとおり加減してくれている。


 それにしても。


 晴斗君、なかなか諦めないね。


 何度も構え直している。


 ……いいじゃない。


 初日からうまくいくなんて、誰も思ってないからね。


 ……まあ。


 楓は少しも疲れてなさそうだけど。


 そりゃそうだよねぇ。


 相手が悪いんだよ。


 ……あっ。


 お願いしたの、私だった。


 ……うん。


 そこは考えないことにしよう。


「リアリス様?」


 後ろから、桜花の声がした。


「……うん?」


「何をご覧になっていらっしゃるのですか?」


「晴斗君と楓だよ。すごく頑張ってるなぁって」


 桜花も窓の外へ目を向けた。


「……ふふっ。楓も、丁寧に相手をしているようでございますね」


「うん。安心したよ」


 私たちは、少しだけその様子を眺めていた。


 晴斗君が踏み込む。


 楓が、すっと横へ移る。


 また、空振り。


 ……。


 …………。


 ……あのさ。


 もし私が晴斗君の立場だったら、ちょっと心が折れそうかもしれない。


 でも。


 晴斗君は、また木剣を構えた。


 ……ああ。


 いいねぇ。


 その気持ち、大切にしてほしいな。


     ◇


 やがて、夕食の時間が近づいてきた。


 私は居間で、ようやくいつもの席に腰を下ろしていた。


 今日は、思っていたより充実した一日だったなぁ。


 晴斗君が冒険者になって。


 楓に訓練をお願いして。


 私はサロンの仕事をして。


 ……うん。


 大きな事件も起きていないし。


 平和だねぇ。


「……ただいま、戻りました……」


 ……おっ?


 廊下から声が聞こえた。


 晴斗君だ。


 ……あれ?


 何だか、朝とずいぶん元気が違うような。


 私は立ち上がり、居間の入口へ目を向けた。


 すると。


「……おお」


 思わず声が漏れた。


 そこに立っていたのは、晴斗君と楓だった。


 楓は、いつもどおり。


 橙色の短い髪も、服も、落ち着いた表情も変わらない。


 ……うん。


 本当に、いつもの楓だ。


 対して。


 晴斗君は……。


 ……いやぁ。


 すごいことになってるねぇ。


 髪は汗で少し乱れている。


 服には土がついている。


 肩が大きく上下していて、立っているだけでも大変そうだ。


 ……あっ。


 もちろん、大きな怪我をしているわけじゃないよ。


 でも、全身で「疲れました」って言ってる。


「晴斗君、おかえり! 初めての戦闘訓練はどうだった?」


 私が声をかけると、晴斗君は少し苦笑した。


「……あはは。触れることも、できませんでした……」


「……おお」


 ……やっぱり。


 窓から見たときも、全然当たってなかったからねぇ。


 晴斗君は、持っていた木剣を見つめた。


「楓さん、すごいですね……。僕が動く前から、どっちへ来るか分かってるみたいでした」


 ……なるほど。


 晴斗君には、そう見えたんだ。


 ……うん。


 まあ、楓なら実際にかなり読んでいたと思うけど。


「僕、何度もやってみたんですけど……全然駄目で……」


「うんうん」


「最後の方なんて、足が動かなくなってきちゃって……」


 ……ああ。


 そっか。


 慣れてない動きを何度もやっていたら、そりゃあ疲れるよね。


 私は、にっこり笑った。


「初めてなんて、そんなもんだよ。楓はこれでもかなり強いからね」


「……そうなんですか?」


「うん。たぶん、晴斗君が思ってるより、ずっと」


 ……いや。


 かなり、どころじゃないか。


 Sランクの魔獣だって倒せる実力だからね。


 でも、今それを説明しても、晴斗君にはよく分からないかもしれない。


 ……何しろ。


 見た目は、十三歳くらいの小さな女の子なんだから。


 晴斗君は、楓の方を見た。


「楓さん。本当に、ありがとうございました」


 楓は小さく頷いた。


「……ん」


 ……うん。


 今日も口数が少ないねぇ。


「僕、もっと練習します」


 晴斗君が、もう一度しっかり頭を下げる。


「……精進します」


 ……おっ。


 いいね!


 あれだけ疲れているのに、もう次のことを考えてる。


 桜花も、隣で静かに微笑んでいた。


「晴斗様、初めてのお稽古、お疲れさまでございました」


「ありがとうございます、桜花さん」


「無理のないよう、少しずつ続けてまいりましょう」


「……はい!」


 ……ああ。


 いい感じだねぇ。


 私は、晴斗君に向かって頷いた。


「急がなくていいからね。剣の練習も、冒険者の仕事も。一つずつ覚えていけばいいよ」


「はい。ありがとうございます!」


 ……うん。


 やっぱり、前向きだ。


 あのとき日本から来たばかりで、何も分からず不安そうにしていた男の子が。


 今では、自分の冒険者カードを持って、こうして新しいことに挑戦している。


 ……ああ。


 何だか、感慨深いなぁ。


 ……。


 …………。


 ……って。


 私、ちょっとお父さんみたいな気分になってない?


 いやいや。


 私にはカトレアという、大切な娘がいるんだけど。


 ……うん。


 それとはまた違う感じかな。


 頑張っている若い子を見ると、つい応援したくなる。


 ……まあ。


 転生前の年齢で考えたら、そんなにおかしなことじゃないよね。


 私は、晴斗君と楓を見た。


 楓はいつもどおり、私のそばで静かに立っている。


 晴斗君は、まだ少し息を整えていた。


 ……おっ。


 そうだ。


「晴斗君、まずは座って休んだ方がいいよ。お水も飲もうか」


「……はい。助かります」


「楓も、ありがとうね」


 こくり。


 楓は小さく頷いて、私の袖をちょんとつまんだ。


 ……おや。


 これは。


 私は、楓の頭をもう一度撫でた。


「お疲れさま。上手に教えてくれてありがとう」


「……ん」


 ……うん。


 よしよし。


 今日も頼りになる家族だねぇ。


 そのときだった。


「みんなー! ご飯ですよー!」


 食堂の方から、巴さんの明るい声が聞こえてきた。


 ……おっ!


 夕食だ!


 何だか、急にお腹がすいてきちゃった。


 ……いや。


 私は、さっきまで紅茶を飲んでただけなんだけど。


 晴斗君に比べたら、全然運動してないよね。


 ……まあ、いいか。


「ご飯の時間だね。みんな、行こうか!」


「はい!」


 晴斗君の返事に、少しだけ元気が戻っていた。


 ……ああ。


 やっぱり、おいしいご飯は大事だ。


 私は桜花と楓に声をかけ、食堂へ向かった。


 その後ろを、晴斗君とユリがゆっくりついてくる。


 ……うん。


 新しい冒険者の誕生。


 そして、初めての剣の稽古。


 本人にとっては、きっと忘れられない一日になっただろう。


 ……ただね。


 晴斗君。


 明日の朝、ちゃんと起きられるかなぁ。


 ……筋肉痛とか、大丈夫?


 私は振り返り、まだ少しぎこちない足取りの晴斗君を見た。


 ……。


 …………。


 ……あっ。


 これ、明日はちょっと大変かもしれないね。


 まあ、そのときはそのときだ。


 何かあったら、私たちが手を貸せばいい。


 ……うん。


 晴斗君の冒険者生活は、まだ始まったばかりなんだから。

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