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第3話:のんびり系主人公の宿命

 お鍋って、どうしてあんなに食べられるんだろうね。


 ……いやぁ。おいしかった。


 私は食後のお茶を飲みながら、満足のため息をついた。


 巴さんの出汁は本当に絶品だ。白菜もお肉もお豆腐も、みんなおいしくて、ついつい箸が進んでしまった。


 最後に残った具を誰が食べるかで少しだけ相談になったけど、結局みんなで分け合ってきれいに完食。


 ……うん。いい夕食だったねぇ。


 今は居間で、いつものようにのんびりしている。


 私の隣には桜花。向かいには晴斗君が座り、その隣でカトレアが今日描いた花の絵を眺めていた。


 みんな、お腹がいっぱいになって、少し眠そうだ。


 私もこのまま、ソファでうとうとしたいところだけど……。


「リアリスさん。ちょっと聞いてもいいですか?」


 晴斗君が、紅茶のカップを置いてこちらを見た。


「うん。何でも聞いて」


「そういえば今日、雑貨屋も見させていただいたんです」


「おお、見てくれたんだね!」


 そういえば、学校と孤児院を案内してもらったあと、ユリと一緒に雑貨屋の方にも立ち寄ったらしい。


 ……うん。


 あそこは、お客さんが喜んでくれる商品をいろいろ並べているからね。


 日本人の晴斗君が見たら、どう思うんだろう。


「どうだった? 何か気になるもの、あった?」


「気になるものだらけでした」


「……あはは」


「というか、見慣れたものがありすぎました」


 ……あっ。


 そっちか。


 まあ、そうだよね。


 紅茶やクッキーだけじゃなくて、日本の日用品もいろいろ置いてある。


 初めてこの世界に来た人にとっては、ちょっと変わったお店に見えるだろうなぁ。


「それで、ずっと気になってたことが一つあるんですけど」


「うん?」


「……何か欲しいものでもあった?」


「いえ、そうじゃなくて」


 晴斗君が、少し困った顔をした。


 ……ん?


 何だろう。


 お店で困ったことでもあったかな。


「……なんで、某社のポテトチップスが売ってるんですか?」


 ……。


 …………。


 ……ああ。


 そっちね!


 私は思わず笑ってしまった。


「あはは! そういえば置いてあったねぇ」


「置いてありましたよ! 普通に!」


 晴斗君が身を乗り出す。


「しかも、袋の見た目まで日本で売ってるやつと一緒でしたよ!?」


「うん。そうだね」


「『そうだね』じゃないですよ!」


 ……おお。


 なかなかいい反応だね。


 そういえば、私もこの世界に来たばかりの頃は、見慣れた商品が欲しくなることがあったなぁ。


 今は取り寄せられるのが当たり前になっていて、すっかり忘れていたけど。


「いや、あの。ここ、異世界なんですよね?」


「そうだよ」


「日本じゃないんですよね?」


「うん」


「……なのにポテトチップスがあるんですか?」


「あるねぇ」


 晴斗君が、両手で顔を覆った。


「……すごいな、この世界」


 ……いや。


 たぶん、この世界がすごいわけじゃないんだよね。


「あれはね、私の魔法で作ってるんだよ」


「……魔法で?」


「うん。日本の商品と同じものを、こっちで作り出せるんだ」


 私は、机の上にあるお菓子皿を指した。


「例えば、私が日本にいた頃に知っていたお菓子や飲み物。そういうものを、想像したとおりに用意できるんだよ」


「……えっ」


「ただし、日本のお店から本当に持ってきてるわけじゃないからね。あくまで、同じものをこちら側で作っているだけ」


 ……そう。


 日本から直接商品を運んでいるわけじゃない。


 向こうの在庫が突然消えたら、大変だもんね。


 いや、私の魔法ならそういうことまでできるのかもしれないけど、そもそも世界を越えて行き来する魔法は使えないし。


 ……まあ、必要ないからいいんだけど。


「……そんなことが、できるんですか?」


「うん」


「すごいですね、魔法って……」


 晴斗君は、呆然と呟いた。


 私は苦笑いした。


「ははは。まあ、私にしかできない魔法なんだけどね」


「……ですよねぇ」


 ……あっ。


 そこは、あっさり納得するんだ。


 私の魔法は、現地の人たちが使っているものとは仕組みが違う。


 私が想像した結果を、魔法として作り出す。


 言葉にすると簡単なんだけど、これがまあ、便利すぎる。


 便利すぎて、今では自分でも何が普通なのか分からなくなることがあるくらいだ。


「じゃあ、あのお店の商品は……」


「うん。私が作った魔道具で補充してもらってるんだ。家族のみんなが、お店の管理をしてくれてるからね」


「魔道具で……自動補充……」


「そんな感じかな」


 晴斗君は、しばらく黙った。


 ……おや?


 考え込んでる。


 何か難しいことを言っちゃったかな。


「……リアリスさん」


「うん?」


「一つだけ、確認してもいいですか?」


「どうぞ!」


「魔法でポテトチップスを作れるなら、食べ物に困ることも……」


「ないね」


「住む家も、魔法で……」


「うん。作れるよ」


「学校と孤児院も……」


「建物は私が作ったね」


「……お金は?」


「まあ、必要なら何とかなると思うよ」


 ……あっ。


 晴斗君の目が、だんだん遠くなっていく。


 ……まずい。


 これは、また常識が崩れ始めてる顔だ。


「……リアリスさん、ずるくないですか?」


「ええっ!?」


「いえ、悪い意味じゃないですよ! ただ、普通の異世界転移ものだと、食べ物とかお金とか、住むところをどうするかって大問題じゃないですか」


「……ああ」


 言われてみれば、そうだね。


 私も昔は、そんな展開の小説をよく読んでいた。


 異世界に放り出されて、お金も言葉もなくて。


 最初は宿代を稼ぐために、冒険者ギルドで薬草を採ったり。


 ……あれ。


 私も最初は薬草を採ってたなぁ。


 何だか懐かしいね。


「でもリアリスさん、それを全部魔法で解決できちゃうんですね」


「そうだねぇ」


「……すごいです」


 晴斗君が、もう一度感心したように呟いた。


 ……うん。


 でも、その便利さで解決できないことだって、ちゃんとあるんだけどね。


 例えば、毎日を静かに過ごすこととか。


 ……ああ。


 そこが一番難しいかもしれない。


     ◇


 晴斗君は、少し考えてから、再び口を開いた。


「そういえば今日、学校と孤児院も見せていただいたじゃないですか」


「うん」


「学校も普通に勉強できる場所で、孤児院もみんなが安心して暮らせるようになってて。しかも、雑貨屋には日本の商品まである」


「うんうん」


「それに、今こうして家族でお茶を飲んでますよね」


「……そうだね」


 私は、居間を見回した。


 桜花は穏やかに紅茶を飲んでいる。


 カトレアは、花の絵に小さな色を足していた。


 ……うん。


 確かに、平和な風景だ。


「もしかしてなんですけど……」


 晴斗君が、少しだけ言いにくそうにした。


「リアリスさんって、のんびり系の異世界ものを参考にして生活してたりします?」


 ……。


 …………。


「……おおっ!」


 私は、思わず膝を打った。


「晴斗君、よく分かったね!」


「やっぱり!」


「そうそう。私も日本にいた頃は異世界ものを読んだり見たりしてたんだよ」


 ……懐かしいなぁ。


 仕事から帰って、ご飯を食べながらアニメを見たり。


 休みの日に、気になっていた小説をまとめて読んだり。


 そんな時間が好きだった。


 特に、主人公が異世界で自由に暮らしているような話。


 おいしいものを食べて、家を建てて、気の合う仲間と暮らして。


 ときどき町へ行って、珍しいものを見つけたり。


 ……いいよねぇ、ああいうの。


「私も、あんな生活に憧れてたんだよね」


「ですよね! 分かります!」


 晴斗君の顔が、ぱっと明るくなった。


 ……おお。


 同じ趣味の人と話せるのって、やっぱり楽しいねぇ。


「だから、この世界へ来たときは、せっかくならのんびり暮らそうって思ったんだ」


「へえ!」


「お店をやったり、家でご飯を食べたり。できれば、あちこち旅もしてみたいなぁって」


「いいですねぇ」


「……そう。いいはずだったんだけどね」


 私は、紅茶のカップを置いた。


 ……ああ。


 ちょっと、遠い目になっちゃった。


「どうしたんですか?」


「いやぁ……そうそう、うまくはいかないもんだねぇ」


「……と、いいますと?」


「何だかんだ、毎日バタバタしちゃっててさ」


 ……ほんとにね。


 お店を作れば、思った以上にお客さんが来る。


 家を建てれば、家族が増える。


 旅行に出れば、何かしら事件に巻き込まれる。


 ……いや。


 私が自分から首を突っ込んでいることも、結構あるんだけど。


「たまには何も考えず、朝ご飯を食べて、お茶を飲んで、昼寝して……って過ごしたいんだけどなぁ」


「……あはは」


「でも、最近なんて特にひどいよ?」


 私は指を折った。


「突然、大変なことが起きて、世界中を助けることになったり」


「……世界中?」


「うん」


「……あの、今、ものすごいことをさらっと言いませんでした?」


「そう?」


 ……あっ。


 そういえば晴斗君には、まだ詳しく話してないこともあったね。


 昨日来たばかりだし、私たちのことを全部知っているわけじゃない。


「まあ、そこはまた今度ゆっくりね」


「……分かりました」


 晴斗君は、少し納得していない顔で頷いた。


 ……あはは。


 ごめんね。


 あれを話し始めると、長くなっちゃうから。


「それで、そのあとも何だかんだ忙しくて」


「はい」


「今日は、モフ太の王都通行許可をお願いしに行って、帰りに冒険者ギルドへ寄ったら、SSランクにされちゃったし」


「……SSランク?」


 晴斗君が首を傾げた。


「冒険者のランクですか?」


「そう。Fランクで十分だったんだけど、断らせてもらえなくて」


「……普通、昇格って嬉しいものじゃないんですか?」


「そうなのかなぁ。私はあんまり目立ちたくないんだけど」


「……ああ」


 晴斗君が、ゆっくり頷いた。


 ……ん?


 なんだろう。


 その納得の仕方。


「リアリスさん」


「うん?」


「すみません。さっきからいろいろ聞いてますけど……目立ちたくないっていうのは、もう難しいんじゃないですか?」


 ……。


 …………。


 ……あっ。


 そういえば、シルベスターさんにも同じようなことを言われたなぁ。


 ……うん。


 反論できない。


「……そうなんだよねぇ」


 私は、がっくりと肩を落とした。


「はぁ……。のんびり過ごしたいだけなんだけどなぁ」


 そこで、晴斗君がふっと笑った。


 ……おや?


 何か面白いことを言ったかな。


「リアリスさん。僕、異世界ものは結構見てたんですよ」


「おお! そうなの?」


「はい。アニメも小説も、けっこう好きでした」


「いいねぇ!」


 ……ああ。


 こういう話ができる相手が増えるって、嬉しいな。


 日本で暮らしていた頃のことを、自然に話せる相手って、そう多くないからね。


 勇者の雪彦君も日本人だけど、いつでも会えるわけじゃないし。


「特に、のんびり系の作品も何作か見てました」


「うんうん」


 ……おっ。


 それなら、私の憧れも伝わるはずだ。


 私はちょっと期待して、晴斗君の次の言葉を待った。


「それで、ずっと思ってたことがあるんです」


「何だろう?」


 晴斗君は、少しだけ首を傾げた。


「……のんびり系の異世界ものの主人公で、本当にのんびりしてる主人公って、見たことありますか?」


 ……。


 …………。


 ………………。


 ……えっ?


「……のんびり系の主人公?」


「はい」


「本当に、のんびりしてる?」


「はい」


 私は、しばらく考えた。


 ……ええっと。


 日本にいた頃、好きだった作品を思い出してみよう。


 まずは、異世界で農業を始める話。


 ……うん。


 畑を耕して、おいしい野菜を育てて。


 最初は、のんびりしてたよね。


 ……でも、気づいたら村が大きくなって、人がどんどん増えて。


 お客さんが来て、偉い人とも付き合うようになって。


 ……あれ?


 もう一つ。


 異世界で店を開いて、気ままに暮らす話。


 ……うん。


 お店をやって、たまに冒険して。


 のんびりしていたはずなのに、気づけば厄介な人が訪ねてきて、事件に巻き込まれて。


 ……あれれ?


 それから。


 旅先でおいしいものを食べて、静かに暮らすはずだった話。


 ……あっ。


 あれも、いつの間にか大物と知り合いになって、国の揉め事に関わってたっけ。


 ……。


 …………。


 ………………。


「……ないな」


 口から、ぽつりと言葉がこぼれた。


 晴斗君が、ゆっくり頷いた。


「ですよね」


「……えっ」


「そうなんです。のんびり系って、主人公がのんびり暮らしたくて始めたはずなのに、だいたい何か起きるじゃないですか」


「……うん」


「村を作ったら住民が増えて、店を開いたらお客さんが殺到して、旅に出たら事件に巻き込まれて」


「……うん?」


「そのうち王族とか、すごい魔物とか、神様とかが出てきて」


「……あれ?」


 ……なんだろう。


 さっきから、ものすごく聞き覚えのある話をされている気がする。


「主人公が『のんびり暮らしたい』って言ってるのに、読んでる方は『いや、それ絶対無理でしょ』って思うんですよね」


 ……。


 …………。


 私の背筋に、嫌な予感が走った。


 いや。


 待って。


 待って待って。


 私は今まで、どういう生活をしてきた?


 最初は、異世界で静かに暮らそうとした。


 家を作った。


 雑貨屋を開いた。


 ……うん。


 ここまではいい。


 でも、お客さんが増えた。


 家族も増えた。


 国王と知り合いになった。


 いろんな国に屋敷ができた。


 神様が、何度も私の前に現れた。


 戦争を止めた。


 大きな事件を解決した。


 ついには邪神と戦って、世界を救った。


 ……。


 …………。


 ………………。


 ……あれ?


 私、何か間違えてない?


「つまり、リアリスさん」


 晴斗君が、悪気のない笑顔で言った。


「タイトルに『のんびり』って入ってる作品ほど、主人公が忙しくなるのがお約束なんですよ!」


 ……。


 …………。


 ………………。


 ……うそでしょ。


 私はソファの背にもたれた。


 そのまま、ずるずると身体が下へ滑っていく。


「……ああぁ……」


「お父さん!?」


 カトレアが、慌てて顔を上げた。


「大丈夫?」


「リアリス様!?」


 桜花も、私の方へ身を寄せる。


 ……あっ。


 心配させちゃった。


 私はソファの端に引っかかったまま、片手を上げた。


「うん……大丈夫。ちょっとね……」


「どこか痛いの?」


「痛くはないよ。……心に、少しだけ刺さっただけ」


「……心?」


 カトレアが、不思議そうに首を傾げた。


 ……ごめんね。


 今のはちょっと、説明しづらい。


 私は、遠い目で天井を見つめた。


 ……思い返してみれば。


 ずっとそうだったじゃないか。


 のんびりするために作った便利な魔法で、次の用事が増える。


 のんびりするために建てた屋敷で、次の騒動が起こる。


 のんびり旅をするつもりが、いつの間にか国と国を行き来している。


 神様まで、気軽に訪ねてくる。


 ……そうだ。


 昨日だって、日本人の少年が転移してきたからって、私は探しに行ったじゃないか。


 放っておけなかったし、助けられてよかった。


 もちろん、後悔はしていない。


 していないんだけど。


 ……。


 …………。


「……私のことじゃないか!」


 気づいた瞬間、思わず声が出た。


「わっ!?」


 晴斗君が、びくっと肩を揺らした。


 カトレアも目を丸くしている。


 桜花だけが、少し困ったような、それでいてどこか楽しそうな顔をしていた。


「……リアリスさん?」


「晴斗君……」


「は、はい」


「私は、今までずっと、のんびり系の異世界生活を目指してたんだよ」


「……はい」


「なのに、気づいたら、まさにその主人公みたいなことをしてる……」


「……ええっと」


 晴斗君が、苦笑いした。


「……今は、深く聞かないでおきますね」


 ……うん。


 そうしてもらえると助かる。


 私は、ゆっくりソファに座り直した。


 桜花がすぐに背中のクッションを直してくれる。


「ありがとう、桜花……」


「いえ。お怪我がなく、何よりでございました」


 ……怪我はないよ。


 ただ、自分の人生の方向性に衝撃を受けただけだから。


「……はぁぁ」


 深いため息が出た。


 ……どうしよう。


 私、もしかしてこの先も、ずっとこんな感じなの?


 異世界に来たからのんびりできると思ったのに。


 のんびり系の主人公って、そういう宿命だったの?


 ……いや。


 誰がそんな宿命を決めたんだろう。


 ……まさか、オリミス?


 …………。


 いや、あの神様なら、もうちょっと分かりやすくやらかしそうだよね。


 ……うん。


 それはそれで嫌だなぁ。


 私は、冷めかけた紅茶を飲んだ。


 ……ああ。


 今日の紅茶、ちょっと苦く感じる。


     ◇


 しばらくすると、話題はまた別の方向へ移っていった。


 晴斗君は、今日見た学校の花壇が気になっていたらしく、カトレアと楽しそうに話している。


「学校のお花って、みんなで育ててるんですか?」


「うん。ニーナとも相談しながら、少しずつ増やしてるの」


「へえ。じゃあ、今日見せてもらった絵も、そこに植える花なんですね」


「そうだよ。まだ決めてないけど、こういうふうに並べられたらいいなって」


 カトレアは紙を広げ、花壇の端を指した。


「ここには小さいお花。真ん中はちょっと背の高いのにして……」


「おお。ちゃんと考えてるんですね」


 ……うん。


 いいねぇ。


 私はソファに座り直したまま、二人の話を聞いていた。


 ……あれ?


 そういえば。


 目の前で普通にお茶を飲んで、子供たちが花の話をしている。


 ……これ、十分のんびりしてない?


 ……いやいや。


 さっきの晴斗君の指摘が、まだ頭から離れない。


 私がいくらのんびりしてても、次の事件が向こうからやってくるんじゃないの?


 ……ああ。


 嫌なことに気づいちゃったなぁ。


「リアリスさん、どうしました?」


 晴斗君が、私の顔を見た。


「……いやぁ。ちょっと人生について考えてた」


「……そんなに深刻な話でした?」


「……私にとってはねぇ」


 すると、カトレアがくすっと笑った。


「お父さん、難しい顔してるよ」


「……そう?」


「うん。お茶飲んでるときは、もっと嬉しそうにしてるのに」


 ……おお。


 娘にまで心配されちゃった。


 私は慌てて笑顔を作った。


「大丈夫だよ。ちょっと考えごとをしてただけ」


「ふふっ。それならいいけど」


 ……うん。


 そうだね。


 今、目の前にある時間を楽しまないともったいないよね。


 私はもう一度、紅茶を口に運んだ。


 ……よし。


 さっきよりおいしい気がする。


 そのとき、控えめなノックが聞こえた。


「失礼いたします」


 扉を開けて顔を出したのは、ユリだった。


「晴斗様。お風呂の準備が整いましたが、いかがなさいますか?」


「あっ、ありがとうございます!」


 晴斗君が、ぱっと立ち上がった。


「それじゃ、いただいてきますね」


「うん。ゆっくり温まっておいで」


「晴斗さん、いってらっしゃい!」


「いってらっしゃいませ」


 私とカトレアと桜花が声をかけると、晴斗君は少し嬉しそうに笑った。


「はい! 行ってきます」


 ユリに案内され、晴斗君が居間を出ていく。


 ……うん。


 今日も、いい一日だったみたいだね。


 学校と孤児院を見て、雑貨屋にも寄って。


 いろいろ驚くことはあっただろうけど、昨日よりずっと楽しそうだった。


 お風呂で今日の疲れを取って、ゆっくり休んでもらいたいな。


 ……と。


 その前に。


 私は、天井へ視線を向けた。


「……ねえ、桜花」


「はい、リアリス様」


「私って、この先ものんびりできないのかなぁ」


 ……ああ。


 結局、気になっちゃうんだよね。


 桜花は、少し考えるように目を伏せた。


「……どうでしょうか」


 ……あっ。


 否定してくれないんだ。


「桜花ぁ……」


「ただ、リアリス様がお望みであれば、わたくしたちはいつでもお側におります」


「……うん。それは嬉しいんだけど」


 ……何だろう。


 桜花の言葉って、優しいのに、ちょっとだけ現実的なんだよね。


 私は軽くため息をついた。


「せっかく異世界に来て、家もあって、おいしいご飯も食べられて、家族もいるのに……」


 そう言いかけて、少しだけ黙った。


 ……あれ。


 自分で並べてみると、十分幸せな生活じゃない?


 でも、まだ何か引っかかる。


「……お父さん?」


 カトレアが、私の顔を覗き込んだ。


「うん?」


「さっきから言ってる、異世界ものっていうのは……物語みたいなものなんだよね?」


「あっ。そうそう。日本にいた頃、私が好きだったお話だよ」


「本みたいな?」


「うん。小説もあるし、動く絵みたいに見られるものもあってね」


「へえ……」


 カトレアは、少し考え込んだ。


 ……おや?


 どうしたんだろう。


「じゃあ、お父さん」


「うん?」


「その物語って、主人公が何かするところをお話にしてるんでしょう?」


「……そうだね」


「だったらね、何も起きてない時間は、お話に出てこないだけなんじゃないかな?」


 ……。


 …………。


「……えっ?」


 私は思わず、カトレアの顔を見た。


 カトレアは少し照れたように笑い、手元の花の絵を指した。


「だって、私が今日ニーナとお花の絵を描いてたことを物語にするとしても、朝ご飯を食べたり、学校から帰ったりしたことは、全部は書かないかもしれないでしょう?」


「……ああ」


「でも、書いてなくても朝ご飯は食べたし、こうしてお茶も飲んでるよね」


「……うん!」


 ……おお。


 そういうことか!


 私は、目を丸くした。


「だから、のんびり系のお話も、何か大きなことがあった日だけ書いてるのかもしれないよ」


 カトレアが、にっこり笑う。


「お話に出てこない日は、主人公ものんびりしてるんじゃないかな?」


 ……。


 …………。


 ……おおおっ!


 なるほど!


 私は、思わず身を乗り出した。


「カトレア! それだよ!」


「わっ!」


 勢いよく声を上げたせいで、カトレアがびっくりした。


「ご、ごめんね! でも、今のすごく納得した!」


 ……確かに。


 小説だってアニメだって、主人公の一日を全部見せているわけじゃない。


 事件があったところを中心に描くし、平穏な数日間なんて、あっという間に飛ばされることもある。


 ……そうだよ。


 だったら、ああいう作品の主人公たちだって、描かれていない時間にはきっとお茶を飲んだり、昼寝をしたりしているはずだ。


 ……うん。


 たぶん。


 いや、きっと!


「そっかぁ……」


 私は、嬉しくなってきた。


「じゃあ、私だって普通にのんびりできるってことだよね!」


「うん!」


 カトレアが、笑顔で頷いた。


「お父さんも、今日お庭で一緒にお水をあげたとき、楽しそうだったよ」


「……あっ」


 ……そうだった。


 カトレアと並んで、水やりをした。


 あの時間は、誰に邪魔されることもなく、ただ庭の花を見ていた。


 今日だけじゃない。


 朝ご飯のあと、屋敷の中を歩いたり。


 仕事が終わって、家族とお茶を飲んだり。


 夜には、みんなで食卓を囲んだり。


 そういう時間が、私の毎日にはちゃんとある。


 ……ああ。


 意外と、のんびりできてるんじゃない?


「カトレア、ありがとう!」


「えへへ。どういたしまして」


 私は嬉しくなって、カトレアの頭を撫でた。


 カトレアは少しだけ目を細める。


 ……ああ。


 可愛い。


 ほんとに、いい娘に育ったねぇ。


 私が勝手に落ち込んでただけなのに、ちゃんと考えて励ましてくれた。


 ……うん。


 何だか、お父さんの方が教えられることが多い気がする。


「桜花、今の聞いた?」


「はい。カトレア様のおっしゃるとおりかと存じます」


 桜花も、優しく微笑んだ。


「リアリス様は、今日もご家族と穏やかにお過ごしでございました」


「……うん」


「お仕事もなさり、カトレア様とお庭の花を愛でて、お夕食も皆様で楽しまれました」


「……そうだね」


「それもまた、リアリス様がお望みになった暮らしの一つではございませんか?」


 ……。


 …………。


 ああ。


 そうか。


 私は、ずっと『のんびり暮らしたい』って言ってたけど。


 その『のんびり』って、何もせずに一日中寝ていることだけじゃないんだよね。


 自分の好きなことをして、大切な人たちと笑って。


 安心して眠れる家がある。


 ……それが、私にとっては一番の『のんびり』なのかもしれない。


「……うん。そうだね」


 私は、ゆっくり頷いた。


 ……ああ。


 何だか、肩の力が抜けた気がする。


     ◇


「あらあら。何だか楽しそうねぇ」


 柔らかな声と一緒に、居間の扉が開いた。


 巴さんだ。


 手にはお盆。その上には、温かな紅茶のポットが載っている。


「リアリスちゃん、カトレアちゃん、桜花。お茶のお代わりを持ってきたわよ」


「ありがとうございます、巴さん!」


「ありがとう、巴さん」


「ありがとうございます」


 巴さんが、それぞれのカップへ紅茶を注いでくれる。


 ふわっと、いつものいい香りが広がった。


 ……ああ。


 やっぱり、落ち着くねぇ。


「ふふっ。ちょっとお話が聞こえちゃったんだけど」


 巴さんは、私の前にポットを置いて微笑んだ。


「リアリスちゃん、のんびりできないって悩んでたの?」


「……あっ。聞こえてました?」


「ええ、少しだけね」


 ……ううっ。


 ちょっと恥ずかしい。


 四十三歳まで日本で生きてきた大人が、異世界の物語の主人公みたいだって言われて落ち込んでるんだもんね。


 ……いや。


 今の私は、二十五歳の身体だけど。


 中身はそのままだからなぁ。


「実は、晴斗君に言われちゃって……」


 私は、さっきの話をかいつまんで説明した。


 のんびり系の主人公は、だいたい何かに巻き込まれること。


 自分の生活も、似たようなことになっていること。


 それで落ち込んだけど、カトレアの話を聞いて少し元気になったこと。


 巴さんは、時々相槌を打ちながら聞いてくれた。


「まあ。そんなことがあったのね」


「うん。ちょっと考えすぎたみたい」


「ふふっ」


 巴さんが、いつものお母さんみたいな笑顔を見せた。


「でもね、リアリスちゃん」


「はい?」


「リアリスちゃんは、リアリスちゃんの好きなように暮らしたらいいのよ」


 ……あっ。


 私は、巴さんを見た。


「忙しい日があってもいいし、何も予定がない日があってもいいの。どっちが正しいなんて、決めなくてもいいでしょう?」


「……そうですね」


「だって、リアリスちゃん。忙しくても、楽しいんでしょう?」


 ……。


 …………。


 私は、少し考えた。


 ……うん。


 そうだね。


 確かに、忙しい。


 ここに来てから、普通の人の一生でも経験しないようなことが、ずいぶん起きた気がする。


 魔獣と戦った。


 国王と知り合いになった。


 いろんな国へ行った。


 戦争も止めた。


 邪神と戦って、世界を元に戻した。


 ……最後の方は、本当に大変だった。


 あんな思いは、もうしたくない。


 でも。


 その途中で、桜花と出会った。


 巴さんや楓、家族のみんなと出会った。


 カトレアを助けて、娘になってくれた。


 いろんな国で、友達もできた。


 ……ああ。


 楽しいことも、たくさんあったなぁ。


「……うん」


 私は、自然と笑っていた。


「楽しいです。忙しいけど、すごく楽しい」


「でしょう?」


 巴さんも笑った。


「だったら、今のままでいいんじゃないかしら。無理して何もしない一日を作らなくても、リアリスちゃんが楽しいなら、それでいいと思うわ」


 ……ああ。


 そうか。


 私は、のんびり暮らすためにこの世界へ来た。


 でも、のんびり暮らすこと自体が目的になっちゃったら、何だか本末転倒だよね。


 楽しく過ごしたいから、のんびりしたかったんだ。


 ……うん。


 それなら、今もちゃんと叶ってる。


「ありがとうございます、巴さん」


「あらあら。どういたしまして」


 私は、カップを両手で持った。


 温かな紅茶が、ゆっくり喉を通る。


 ……おいしい。


 さっき晴斗君に言われてソファからずり落ちたのが、何だかずいぶん前の出来事みたいだね。


「ねえ、お父さん」


「うん?」


「じゃあ、明日も一緒にお花見てくれる?」


 カトレアが、少し期待した顔で尋ねた。


「もちろんだよ。仕事が終わったら、また一緒に見ようね」


「やった!」


 ……ああ。


 この笑顔を見られるなら、どんなに忙しい一日でも悪くないねぇ。


 桜花も、楽しそうに目を細めていた。


「リアリス様。よろしければ、明日はわたくしもご一緒させてくださいませ」


「もちろん! みんなで見よう」


「ありがとうございます」


 ……うん。


 やっぱり、これがいい。


 家族と過ごす、いつもの時間。


 別に何か特別なことがなくても、十分楽しい。


 ……あれ。


 もしかして私、最初から結構のんびり暮らせてたんじゃない?


 ……ははは。


 まあ、気づくのが遅かったのは、晴斗君には黙っておこう。


「それじゃあ、私は片付けに戻るわね」


 巴さんが、空になったお盆を手に取った。


「ゆっくりお茶を楽しんでちょうだい」


「はーい!」


「はい。ありがとうございます」


「ふふっ」


 巴さんは微笑み、居間を出ていった。


 ……ああ。


 本当に、いい家族だなぁ。


 私は、自然と頬が緩んだ。


     ◇


 巴さんが出ていったあとも、私たちはしばらくお茶を楽しんでいた。


 カトレアが、今日ニーナちゃんと描いた花の絵をまた広げている。


「お父さん、この色とこっちの色、どっちがいいと思う?」


「うーん……どっちもきれいだけど、私はこっちかなぁ」


「桜花お姉ちゃんは?」


「わたくしは、こちらでしょうか。隣のお花の色とも、よく合うかと存じます」


「そっかぁ……」


 カトレアは、真剣な顔で二つの色を見比べた。


 ……うん。


 こういう悩みなら、いくらでも付き合うよ。


 さっきまで『自分は物語の主人公みたいだ』なんて考えてたけど。


 今は、娘が花の色を選ぶのを眺めているだけ。


 ……ああ。


 なんだ。


 のんびりしてるじゃないか、私。


 そう思った、そのときだった。


 コンコン。


 扉が、控えめに叩かれた。


「旦那様。少々よろしいでしょうか」


 ……おっ。


 セバスの声だ。


「どうぞー!」


 扉が開き、セバスが静かに入ってきた。


「失礼いたします」


「どうしたの、セバス?」


「雪彦様との調整が終わりましたので、ご報告に参りました」


 ……あっ!


 そうだった!


 日本から来た晴斗君に、勇者の雪彦君を紹介しようと思って、セバスに連絡をお願いしてたんだ。


 ……よかった。


 忘れてたわけじゃないよ?


 今、ちょっと思い出すのが遅れただけだから。


「おお! どうだった? 来てくれそう?」


「はい。現在はドルステン魔国に滞在しておられるとのことでございます」


「魔国に?」


「はい。冒険者ギルドの依頼をお引き受けになっているそうです」


 ……へえ。


 雪彦君、相変わらず元気に活動してるみたいだね。


 勇者なんだから、あまり無茶はしないでほしいけど。


 私がそれを言うと、ちょっと説得力がないかな。


「依頼の終了後であれば、魔国邸よりこちらへお越しいただけるとのことです」


「それはよかった!」


 私は、思わず笑顔になった。


 ……うん。


 これで、晴斗君を雪彦君に会わせてあげられる。


 昨日突然、この世界へ来てしまった晴斗君。


 私と話せるようになって、少しは安心できただろうけど、同じ日本から来た人は他にもいるって知ったら、きっと心強いと思う。


 ……まあ。


 雪彦君は、ちょっと騒がしいところもあるけどね。


 そこは、うん。


 悪い子じゃないから大丈夫だろう。


「じゃあ、その予定で進めてもらってもいいかな? 雪彦君の依頼が終わって、都合のいいときに来てもらえればいいから」


「かしこまりました。雪彦様へ、そのようにお伝えいたします」


「ありがとう、セバス」


「とんでもございません」


 セバスは一礼した。


「それでは、失礼いたします」


「はーい。よろしくね」


 セバスが居間を後にする。


 ……うん。


 これで一つ、楽しみが増えたねぇ。


 雪彦君と最後にゆっくり話したのは、いつだったかな。


 あの子も、ずいぶん頑張ってるみたいだし。


 時間が合えば、近況を聞いてみたい。


 それに、日本人が三人揃うんだ。


 ……おお。


 ちょっと面白い集まりになりそうじゃない?


 異世界で、日本人同士がお茶を飲みながら話すなんて。


 転生したばかりの頃には、想像もしてなかったなぁ。


「お父さん」


「うん?」


 カトレアが、私へ顔を向けた。


「勇者様って、今は魔王国にいるんだね」


「そうみたいだね」


「……魔王討伐なのかな?」


 ……。


 …………。


 あっ。


 そう来たか!


「はははっ。大丈夫だよ、カトレア」


「え?」


「もう人間の国と魔国は仲良くやってるでしょう? それに、雪彦君とドルステンさんも、ちゃんと仲がいいから」


「そっか!」


 カトレアが、ほっとしたように笑った。


 ……うん。


 普通、勇者が魔王国にいるって聞いたら、魔王討伐を想像するよねぇ。


 私だって、日本にいた頃の知識だけなら、そう思うと思う。


 ただ、この世界ではもう、そういう時代じゃない。


 ……まあ。


 ちょっと前までは、そんな話もあったけどね。


「でも、雪彦君が魔国で冒険者の依頼を受けてるのは、いいことだと思うよ。いろんな人と知り合えるしね」


「うん。勇者様も、楽しんでるといいね」


「そうだね」


 ……ああ。


 うちの娘、いいこと言うねぇ。


 私は、思わず笑ってしまった。


 すると。


「リアリス様」


「うん?」


 桜花が、いつもの穏やかな笑顔で口を開いた。


「では、わたくしたちも魔王討伐のお手伝いへ向かわれますか?」


 ………………。


「……やめてあげて」


 私は、即答した。


 いやいやいや!


 今、和平の話をしたばっかりだよね!?


 なんでそこで討伐へ向かう話になるの!?


「ふふっ。冗談でございます」


 桜花が、上品に微笑んだ。


 ……あっ。


 冗談だった。


 ……うん。


 分かってたよ?


 分かってたけどさ。


 ……桜花が言うと、本当にやれちゃいそうなんだよね。


「お姉ちゃん、それはだめだよ」


 カトレアが、くすくす笑いながら言った。


「はい。承知しております」


 桜花は、少し楽しそうに頷いた。


「……まったく」


 私も、つられて笑ってしまった。


 ……ああ。


 こうして笑い合っていると、さっきの心配もすっかりどうでもよくなるねぇ。


 のんびり系の主人公が忙しくなるのは、お約束。


 それは、たぶん本当なんだろう。


 でも、物語にならない時間だって、毎日ちゃんと流れている。


 私が屋敷に帰れば、家族がいて。


 温かいご飯があって。


 カトレアが笑って、桜花が隣にいて、巴さんがお茶を淹れてくれる。


 ……うん。


 これ以上、何を望むっていうんだろうね。


 私は、紅茶をひと口飲んだ。


 ……ああ。


 やっぱり、おいしい。


「明日は、もう少しのんびりできるといいなぁ」


 ぽつりと呟くと、桜花がこちらを見た。


「さようでございますね」


 カトレアも笑った。


「うん! 明日も一緒にお花を見ようね」


「もちろん!」


 ……うん。


 楽しみだなぁ。


 明日こそ、余計なことは考えず、のんびり過ごそう。


 ……あ。


 でも、雪彦君との予定が決まったら、また賑やかになるかもしれないね。


 ……まあ。


 それはそれで、楽しそうだからいいか。


 私は、カトレアと桜花の笑顔を見ながら、ゆっくりと背もたれに身体を預けた。


 ……今日も、いい一日だった。


 のんびりできなかったかって?


 ……いや。


 案外、ちゃんとのんびりしてたのかもしれないね。

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