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第6話:帰れない世界で

 私は、晴斗君を居間へ案内した。


 扉を開けると、いつもと変わらない景色が広がっている。


 柔らかな椅子に、低いテーブル。


 窓から差し込む午後の日差し。


 庭の花も、今日は気持ちよさそうに揺れていた。


 ……うん。


 私にとっては見慣れた部屋だけど。


「……すごい……」


 晴斗君は、入り口で足を止めたまま、ぽかんと口を開けている。


 ……ああ。


 そっか。


 海の町から一瞬で飛んできたうえに、いきなりこんな屋敷へ連れてこられたんだもんね。


 驚くことばかりで、頭が追いつかないよね。


「とりあえず、そこに座って。ここは私の家だから、安全だよ」


「……はい。ありがとうございます」


 晴斗君が、そろそろと椅子に腰を下ろした。


 背筋を伸ばして、膝の上に両手を置いている。


 ……うん。


 ものすごく緊張してる。


 そりゃそうか。


 本人からすれば、知らない人の家に招かれたばかりなんだから。


「桜花も座って。ちょっと長い話になりそうだからね」


「かしこまりました」


 桜花が一礼する。


 その言葉を聞いた晴斗君が、困ったように私を見た。


 ……そうだよね。


 まだ言葉が通じないんだった。


「桜花は、今のところ日本語が分からないんだ。少しだけ待っててね」


「……はい」


 私は桜花に、今から晴斗君へこの世界について説明すると伝えた。


 桜花はすぐに頷いてくれる。


「承知いたしました。巴にお茶の用意をお願いしてまいります」


「ありがとう、桜花」


 ……ああ。


 いつもどおり、気が利くなぁ。


     ◇


 少しして、居間の扉が開いた。


「あらあら、リアリスちゃん。お客様がいらしてたのね」


 紅茶のポットを持った巴さんと、お皿を運ぶ桜花が入ってくる。


 テーブルに並べられたのは、温かい紅茶とクッキー。


 ……うん。


 安定の我が家のおもてなしだ。


「ありがとうございます、巴さん」


「いいのよ。ほら、そちらの子もどうぞ。遠慮しないで食べてね」


 巴さんは、晴斗君にもいつもの優しい笑顔を向けた。


 晴斗君が、私の顔を見る。


「……あの、何て言ってるんですか?」


「お茶とクッキーをどうぞって。巴さんは、うちの家族だよ」


「あっ、そうなんですね!」


 晴斗君が、慌てて頭を下げる。


「ありがとうございます!」


 もちろん、日本語だ。


 巴さんには意味が通じていないけど、気持ちは分かったらしい。


「あらあら。礼儀正しい子ねぇ」


 ……ふふっ。


 言葉が分からなくても、ちゃんと伝わるものはあるんだね。


 巴さんは、お茶を注ぎ終えると私へ顔を向けた。


「何か必要だったら、いつでも呼んでね」


「はい、ありがとうございます。少し二人とお話ししてみます」


「ええ。ゆっくりね」


 巴さんは、にこにこと居間を出ていった。


 ……さて。


 晴斗君は、目の前のカップを見つめていた。


「飲んで大丈夫だよ。クッキーもおいしいから」


「……いただきます」


 そっとカップを持ち上げて、ひと口。


「……おいしい」


「でしょう? 巴さんの紅茶はおいしいんだよねぇ」


 私も、いつもの紅茶を飲んだ。


 ……ああ。


 落ち着く。


 晴斗君の肩からも、さっきより少しだけ力が抜けたように見える。


 ……よかった。


 それじゃあ、そろそろ話そうか。


「晴斗君。今から、いろいろ説明するね」


「……はい」


「まず、この世界の名前はステラ。晴斗君がアニメで見たことのある、剣と魔法の世界だよ」


 晴斗君が、カップを持ったまま固まった。


「……やっぱり、本当に異世界なんですね」


「うん」


「魔法があって……さっきみたいに、一瞬で移動できるんですか?」


「魔法はあるよ。ただ、あんなふうに転移できる人は、普通はいないけどね」


「えっ?」


 ……あっ。


 そこ、説明しなきゃいけないんだった。


 私の魔法を基準にしたら、この世界の常識がおかしくなっちゃう。


「私の魔法は、ちょっと特殊なんだ。だから、さっき見たことが誰にでもできるとは思わないでね」


「……そうなんですか」


「うん。剣も魔法もあるけど、アニメみたいに何でも都合よくいく世界じゃない。そこは覚えておいてほしいな」


「……はい」


 晴斗君は、真面目な顔で頷いた。


 ……うん。


 いい子だね。


 ただ。


 このまま私だけ日本語で説明し続けても、桜花が会話に入れない。


 巴さんとも話せないし、これから屋敷で暮らすことを考えたら、困ることが多すぎる。


 ……よし。


 まずは、言葉の問題を何とかしよう。


     ◇


「そうだ。晴斗君、先に一つだけ便利なことをしようか」


「便利なこと、ですか?」


「うん。この世界の人たちと、普通にお話しできるようにするんだ」


「……えっ?」


 晴斗君が、ぱちぱちと瞬きをした。


「それって……勉強するってことですか?」


「ううん。魔法でね」


「ま、魔法!?」


 ……ああ。


 また驚かせちゃった。


 でも、何か月も言葉を勉強するより、今すぐ困らなくなる方がいいよね。


 私には、こういうことができるんだから。


 私は少し考えた。


 必要なのは、ステラの標準言語を理解できること。


 日本語で話そうとしても、相手には標準言語として伝わること。


 相手の言葉も、自然に分かること。


 そして、一度かけたら効果が続くこと。


 ……うん。


 これでいいね。


 あとは名前か。


 言葉を理解できる魔法だから……。


 《言語理解》。


 ……そのままだね。


 でも、分かりやすいのが一番だ。


 頭の中で、必要な結果をはっきりと思い描く。


『《想像魔法》にて《言語理解》が完成しました。』


 ……おっ。


 できた。


 久しぶりに聞く、あの女性の声だ。


 よし。


 これなら大丈夫。


「晴斗君。私の魔法を使うと、ステラの言葉が分かるようになるんだ。話すこともできるようになるよ」


「……そんなことまでできるんですか?」


「うん。ずっと効果が続くようにしてあるから、毎回かけ直す必要もないよ」


 晴斗君が、少し身を乗り出した。


「……お願いします!」


「いいの? 晴斗君の身体に魔法をかけることになるけど」


「はい! このままだと、リアリスさん以外の人と話せないので……」


「分かった。じゃあ、かけるね」


 私は晴斗君を見て、魔法を発動した。


「《言語理解》」


 ……。


 …………。


 ……うん。


 できた、はず。


 見た目は何も変わらないね。


「晴斗君。どう?」


「……え?」


 晴斗君が、自分の口元に手を当てた。


「どうって……特に何も……」


 ……ああ。


 そうか。


 本人には、日本語で話している感覚のままなんだ。


 それなら、ちゃんと確認しよう。


「桜花。今、晴斗君が話したこと、分かった?」


「はい。ステラの標準言語でお話しされております」


 ……おお!


 成功!


 私は、思わず笑顔になった。


「晴斗君。桜花が、今の言葉はちゃんと分かったって」


「……えっ!?」


 晴斗君が桜花を見た。


 桜花も、柔らかく微笑み返している。


「初めまして、晴斗様。改めまして、桜花と申します」


「……あっ!」


 晴斗君が、勢いよく姿勢を正した。


「わ、分かる! 今、言ってることが分かります!」


「よかった!」


「さっきは何を言ってるのか全然分からなかったのに……!」


 晴斗君が、興奮した様子で桜花へ向き直る。


「初めまして! 春原晴斗です! よろしくお願いします!」


「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 ……ああ。


 いいねぇ。


 ちゃんと会話になってる。


 ついさっきまで、桜花の言葉がまったく分からなかったのに。


「……すごいです」


 晴斗君が、小さく呟いた。


「でも、僕……普通に日本語で話しているつもりなんですけど」


「うん。その感覚でいいんだよ。晴斗君の言葉は、自動的にこの世界の言葉へ変わっているから」


「……すご……」


「逆に、話しかけられたときも、意味が自然に分かるんだ。ただ、意識して日本語で話したいときは、そのまま日本語にもできるよ」


「そんなことまで……」


 晴斗君は、何度も自分の口元を確かめている。


 ……いや。


 口を触っても、たぶん何も分からないと思うよ?


 気持ちは分かるけどね。


 私は、桜花へ顔を向けた。


「これで、晴斗君とも普通に話せるね」


「はい。わたくしも安心いたしました」


 桜花の表情が、少し嬉しそうに見えた。


 ……うん。


 これで、屋敷のみんなとも話せる。


 まずは一つ、困りごとを解決できたね。


 でも。


 本当に大切なのは、ここからだ。


     ◇


「晴斗君。ここからは、少し真面目なお話をするよ」


 私がそう言うと、晴斗君は背筋を伸ばした。


「……はい」


 私は、空になりかけたカップをテーブルへ置いた。


 窓の外では、穏やかな風が庭の花を揺らしている。


 さっきまでと、何も変わらない景色。


 だけど、これから伝えることは。


 晴斗君にとって、決して軽い話じゃない。


「晴斗君は、授業中に突然この世界へ来たんだよね」


「……はい。教室にいたはずなんです」


「うん。神様から聞いた話では、晴斗君は偶然この世界へ来てしまったらしいんだ」


「……神様?」


「その話は、あとでちゃんとするね。今は、誰かが晴斗君を呼び出したわけじゃないってことを知ってほしい」


「……はい」


「そして、晴斗君が今いるのは、本当に別の世界なんだ。夢でも、何かのゲームでもない」


 晴斗君が、ゆっくり周囲を見回した。


 椅子。


 テーブル。


 窓の向こうの庭。


 それから、私と桜花。


「……現実、なんですね」


「うん」


 声を落として答える。


 ……ああ。


 こういうとき。


 もっと気の利いた言い方ができればいいのにね。


 でも、変にごまかす方が残酷だと思う。


 私は、晴斗君の目を見た。


「……それから、もう一つ。大事なことがあるんだ」


「……何ですか?」


 私は、一度だけ息を整えた。


「晴斗君。日本へ帰る方法は、ないんだ」


 ……。


 …………。


 晴斗君は、何も言わなかった。


 私の言葉が聞こえなかったわけじゃない。


 ただ、すぐには返事ができなかったんだと思う。


「……帰れない?」


 しばらくして、ようやく声が聞こえた。


「……うん」


「でも……魔法が、あるんですよね?」


「あるよ」


「さっき、海の町からここまで……一瞬で……」


「……うん」


 晴斗君が、私を見つめる。


「それでも……日本には?」


「……私の《転移》は、この世界の中で移動する魔法なんだ。違う世界へ行くことはできない。ほかにもいろいろ考えたけど、日本へ帰る方法は見つかっていないんだ」


「……そう、ですか」


 晴斗君が、俯いた。


 制服の膝の上で、ぎゅっと手を握っている。


 ……。


 …………。


 私は、それ以上何も言えなかった。


 日本には、家族がいるだろう。


 学校には、友達だっているだろう。


 ほんの少し前まで、当たり前に続くと思っていた毎日があったはずだ。


 それが、突然終わってしまった。


 ……ああ。


 分かるなんて、簡単には言えないね。


 私は一度亡くなってから、この世界へ転生した。


 もう日本での人生が終わっていることを知ったうえで、新しい世界に来たんだ。


 でも、晴斗君は違う。


 朝、学校へ行って。


 授業を受けて。


 たぶん、放課後には家へ帰るつもりだった。


 それが、いきなり帰れなくなった。


 ……つらいよね。


 桜花も何も言わず、静かに私たちを見守っていた。


 テーブルの紅茶から、細い湯気が上がる。


 誰もクッキーへ手を伸ばさないまま、時間だけが過ぎた。


「……母さん」


 小さな声が聞こえた。


 晴斗君が、俯いたまま呟いている。


「……今頃、探してるのかな……」


 ……。


 胸の奥が、少し苦しくなった。


 私は、すぐに返事をしなかった。


 日本で何が起きているのか、私には分からない。


 ここから確かめることもできない。


 だから、安心させるためだけの言葉は言えなかった。


「……晴斗君」


「……はい」


「今、無理に納得しなくていいよ」


 晴斗君が、顔を上げる。


「突然こんなことを言われたら、すぐに受け入れられるわけないよね。私も、今すぐ元気になってほしいなんて言わないから」


「……」


「つらかったら、ここで少し休もう。話したくなったら、ちゃんと聞くよ」


 晴斗君の唇が、わずかに震えた。


「……ありがとうございます」


 声は、さっきよりずっと小さかった。


 ……うん。


 今日は、これでいい。


 何もかも、一度に整理する必要はないんだから。


     ◇


 どれくらい時間が経っただろう。


 晴斗君は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。


 紅茶をもうひと口飲み、テーブルにカップを戻す。


「……あの、リアリスさん」


「うん?」


「一つ、聞いてもいいですか?」


「もちろん」


 晴斗君が、少しためらってから口を開く。


「こういう世界って……勇者とか、特別な力がある人が出てきますよね」


 ……おお。


 そこに気づくとは。


 さすが、異世界ものを見てるだけあるね。


 ……いや。


 今は茶化すところじゃない。


「うん。実際、この世界にも勇者はいるよ」


「……本当ですか?」


「本当。しかも、その勇者も日本から来た人なんだ」


 晴斗君が、驚いて私を見る。


「……じゃあ、僕も……?」


 ……ああ。


 そう思うよね。


 勇者のように召喚されて、特別な能力がもらえる。


 異世界の物語なら、よくある展開だ。


 でも。


「……ごめんね。晴斗君は、勇者として召喚されたわけじゃないんだ」


「……違うんですか」


「うん。勇者は誰かの手で呼び出されたけど、晴斗君はそうじゃない。偶然、この世界へ来てしまったんだ」


「……じゃあ、リアリスさんと同じ、転生者でも?」


「それも違うよ。私は日本で一度亡くなって、神様に会ってからこの世界へ来たんだ。晴斗君は、日本で普通に授業を受けていたところから来たんでしょう?」


「……はい」


「だから、二人とも違うんだよ」


 晴斗君が、少し考え込む。


「……誰かに呼ばれたわけでもなくて。日本で死んだわけでもなくて……」


「うん。その理解で合ってるよ」


「……そうなんですね」


 ……。


 …………。


 聞きたいことは、まだあるよね。


 私は、続けた。


「それから、もう一つ。私や勇者のような、特別な力は晴斗君には与えられていないんだ」


「……えっ」


「神様から聞いた限りでは、特別な加護やスキルもない。ただ、この世界へ来てしまっただけなんだ」


「……ただ、来ちゃっただけ……」


 晴斗君が、膝の上の手を見つめた。


 ……ああ。


 ごめんね。


 期待させるだけ期待させて、あとから違うと言うよりはいいと思う。


 それでも、つらいことには変わらないけど。


「でもね。特別な力がないからって、何もできないわけじゃないんだよ」


 私は、ゆっくり言った。


「この世界にも普通の人がたくさん暮らしてる。仕事をして、ご飯を食べて、家族や友達と過ごしてるんだ」


「……はい」


「晴斗君にも、まずはこの世界のことを知ってほしい。これから何をするかは、そのあとで考えればいいから」


 ……うん。


 今すぐ職業を決めろとか、冒険者になれとか。


 そんなことを言う必要はない。


 晴斗君は、まだ十七歳なんだから。


 それに。


 日本で高校に通っていた子に、いきなり魔獣と戦えなんて言えるわけないよね。


「……リアリスさん」


「うん?」


「僕……これから、どうすればいいんでしょうか」


 ……。


 …………。


 その声を聞いて、私は少し考えた。


 帰る方法はない。


 言葉の問題は、何とかできた。


 でも、食事も、寝る場所も、お金も。


 晴斗君は、今この世界で暮らしていくためのものを、何一つ持っていない。


 ……だったら。


 先に、安心して眠れる場所を作らなきゃね。


「よかったら、しばらくこの家にいない?」


「……えっ?」


「部屋はあるし、ご飯も出るよ。お風呂だって入れる。今すぐ何か仕事をしてもらうつもりもないから、ゆっくり休んでほしいんだ」


「……でも、そんな……」


「遠慮しなくていいよ。うちは家族が多いから、一人増えたくらいじゃ困らないし」


 ……うん。


 それは、本当だ。


 というか、我が家の人数を知ったら、晴斗君はまた驚くかもしれないね。


「でも、僕……何もお返しできません」


「お返しなんて、今は考えなくていいよ」


「……」


「私も、いろんな人に助けてもらったんだ。だから、今度は私が晴斗君を助けたい。それだけだよ」


 ……ああ。


 言ってみたら、案外簡単な話だね。


 あれこれ難しく考えなくてもいい。


 困ってる子がいて、うちには空いてる部屋がある。


 それなら、泊まってもらえばいいじゃない。


「もちろん、ずっとここにいなきゃいけないわけじゃないから。落ち着いてから、どうしたいか一緒に考えよう」


 晴斗君は、しばらく私を見つめていた。


 やがて、深く頭を下げる。


「……ありがとうございます。しばらくの間、お世話になります」


「うん! こちらこそ、よろしくね」


 私は、ようやく少し笑えた。


 桜花も、隣で微笑んでいる。


「晴斗様。どうぞご安心くださいませ。お困りのことがございましたら、いつでもお声がけください」


「……ありがとうございます、桜花さん」


 ……おお。


 もう普通に会話してる。


 やっぱり《言語理解》を作ってよかったね。


 晴斗君の表情は、まだ完全には晴れていない。


 それでも。


 来たときよりは、ほんの少しだけ安心してくれたように見えた。


     ◇


 そのとき。


「ただいまー!」


 玄関の方から、聞き慣れた声がした。


 ……おっ。


 カトレアだ。


 ニーナちゃんの家から帰ってきたんだね。


「おかえりー!」


 私が居間から声をかけると、軽い足音が近づいてきた。


 扉が開く。


「お父さん、ただいま。ニーナとお花の話をしてきたよ」


 カトレアが、にこにこと笑いながら入ってくる。


 後ろにはセバスもいた。


「おかえり、カトレア。楽しかった?」


「うん。今度、学校の花壇に植えるお花の相談もしてきたの」


「へぇー、いいね!」


 ……ああ。


 うちの娘は、今日も花が大好きだ。


 ……ん?


 カトレアが、私の向かいに座っている晴斗君へ目を向けた。


「あれ? お客さん?」


「うん。紹介するね。お父さんのお友達だよ」


「お友達?」


 カトレアが、少し意外そうな顔をした。


 ……まあ、そうだよね。


 さっきまでいなかった人が、急に居間に座ってるんだから。


「こちらは春原晴斗君。日本から来たんだ」


「……日本?」


 カトレアが、私を見上げる。


 ……ああ。


 日本の話は、前にもしたことがあるもんね。


「うん。私が昔いた世界だよ」


「そうなんだ」


 カトレアが、晴斗君へ向き直った。


「初めまして。カトレアです。よろしくね」


「あっ、初めまして! 春原晴斗と言います。よろしくお願いします」


 晴斗君が、慌てて立ち上がって頭を下げる。


 カトレアも、丁寧に頭を下げた。


 ……うん。


 いいねぇ。


 言葉がちゃんと通じてるから、こうして普通に挨拶できる。


 晴斗君も、それに気づいたのか少し驚いた顔をしている。


「……本当に、言葉が通じるんですね」


「ふふっ。さっき魔法をかけたからね」


「魔法?」


 カトレアが興味深そうに首を傾げた。


「晴斗君は、元々この世界の言葉を知らなかったんだ。それで、私が分かるようにしたんだよ」


「へぇ。お父さんって、ほんとに何でもできるね」


「いやいや、何でもじゃないよ?」


 ……うん。


 それは、さっき晴斗君にも話したばかりだ。


 できないことだって、ちゃんとある。


 カトレアは私たちの様子を見て、少し声を落とした。


「……あの、お父さん。晴斗さん、これからどうするの?」


「しばらくうちに泊まってもらうことにしたんだ。突然こちらの世界へ来ちゃったから、まだ分からないことだらけでね」


「そうだったんだ」


 カトレアが、晴斗君へ優しく微笑んだ。


「うち、にぎやかだけど、みんな優しいよ。安心してね」


「……ありがとう、カトレアさん」


 ……ああ。


「なんていい子なんだろう! さすが私の娘!」


 ……あっ。


 思わず声に出しちゃった。


「……リアリスさんって、親バカなんですね」


 晴斗君が、少し笑った。


「うん。自覚はあるよ!」


 でも、これは褒めたくなるでしょう?


 私は、カトレアの頭を軽く撫でた。


「お父さん、もう……」


 ……ふふっ。


 カトレアが、少し照れたように笑った。


 それからセバスが、一歩前へ出た。


「旦那様。お客様はこちらでお預かりするお手配でよろしいでしょうか」


「うん。王国邸でしばらく過ごしてもらおうと思ってるよ」


「かしこまりました。お部屋のご用意をいたします」


「ありがとう、セバス。あと、もう一つお願いがあるんだ」


「何なりと」


「雪彦君に連絡して、都合のいいときに王国邸へ来てもらいたいんだ。予定を確認してくれる?」


「承知いたしました。雪彦様のご予定を確認いたします」


「よろしくね」


 ……うん。


 雪彦君なら、きっと晴斗君とも話が合うと思う。


 同じ日本から来た人だし、年齢も近い。


 ……まあ。


 あの勇者君のことだから、妙なことまで教えそうなのが少し心配だけど。


 ……いや。


 今は、普通に相談してもらいたいだけなんだから。


 きっと大丈夫。


 ……たぶん。


     ◇


「じゃあ晴斗君。お部屋を案内するね」


「はい」


 私は椅子から立ち上がった。


 桜花も、すぐに立ち上がる。


 そこへ、セバスに呼ばれた一人のメイドがやってきた。


「リアリス様。お呼びでしょうか」


「うん。ユリ、ちょうどよかった。晴斗君をお部屋に案内するから、手伝ってくれる?」


「もちろんでございます」


 ……うん。


 ユリは、今は王国邸で交代勤務をしてくれているんだよね。


 ちょうどいてくれて助かった。


「晴斗君。こちらはユリ。うちの家族だよ」


 晴斗君が、ぺこりと頭を下げる。


「初めまして。春原晴斗です」


「初めまして、晴斗様。リアリス様のメイドをしております、ユリと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


「よろしくお願いします」


 ……おお。


 最初の自己紹介から、もう自然だね。


 あの噴水広場では、誰とも話せなくて困っていたのに。


 よかった、よかった。


「それじゃ、三階へ行こうか」


 私は、晴斗君を連れて廊下へ出た。


 カトレアは、ニーナちゃんの家での出来事を巴さんへ話しにいくらしい。


「お父さん、またあとでね」


「うん。おかえり、カトレア」


「ふふっ。ただいま」


 ……ああ。


 何だか、普通の親子の会話が嬉しいね。


 私たちは、そのまま階段へ向かった。


     ◇


 晴斗君は、階段を上りながら何度も周囲を見回していた。


「……リアリスさん」


「うん?」


「このお屋敷、すごく広いですね……」


「そうかな?」


「そうですよ! さっきから、廊下が全然終わらなくて……」


 ……おお。


 そう言われると、ちょっと広いのかもしれない。


 でも、毎日ここで暮らしているから、もう慣れちゃったんだよね。


「家族が多いからね。部屋も、いろいろあるんだ」


「……家族、ですか」


「うん。桜花も、巴さんも、セバスも、ユリも。みんな大切な家族だよ」


 晴斗君が、ユリをちらりと見た。


「……メイドさんも?」


「もちろん」


「……そうなんですね」


 ユリが、静かに微笑んだ。


 ……うん。


 うちでは、そうなんだよね。


 誰がどういう仕事をしていても、一緒に暮らしている大切な家族だ。


 ……さて。


 三階へ到着。


「ここだよ」


 私は、空いていた予備室の前で足を止めた。


 ユリが扉を開けてくれる。


 中には、きれいに整えられたベッド。


 机と椅子。


 荷物を置ける棚。


 窓からは、庭の一部も見えた。


 ……うん。


 これなら、ゆっくり休めそうだね。


「しばらく、この部屋を使ってね」


「……えっ。ここ、僕が使っていいんですか?」


「うん。今は誰も使ってない部屋だから、遠慮しないで」


 晴斗君が、部屋の中へそろそろと入る。


 ベッドを見て。


 机を見て。


 それから、窓の外を見た。


「……すごい。ホテルみたい……」


 ……ああ。


 そういう感想になるんだね。


 私は、ちょっと笑ってしまった。


「気に入ってもらえたならよかった」


「……はい。ありがとうございます」


 晴斗君が、深々と頭を下げる。


 ……いやいや。


 そんなに何度もお礼を言わなくていいのに。


「そうだ。晴斗君、困ったことがあったら、ユリに相談してね。必要なものも、分からないことも、まずは遠慮なく聞いていいから」


「……ユリさんに、ですか?」


「うん。もちろん、私でもいいよ。でも、私がいないときもあるからね」


 ユリが、一歩前へ出た。


「晴斗様。お食事やお風呂、お部屋でお使いになるものなど、なんなりとご相談くださいませ」


「……ありがとうございます。よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 ……うん。


 これで、生活の相談先も決まったね。


 私は、晴斗君へもう一つだけ、大切なことを伝えることにした。


「あとね。この世界には魔獣がいるんだ」


「……魔獣?」


「うん。日本の動物とは違って、危険なものもいるんだよ。だから、庭の外へ出たいときは、必ず誰かに言ってね」


「……ま、魔獣って、モンスターみたいな……?」


「そう考えてもらっていいよ」


「……ほんとにいるんだ……」


 晴斗君が、ぎょっとした顔をする。


 ……あっ。


 また驚かせちゃった。


 でも、これは先に伝えておかないとね。


 この世界の外出は、日本で近所のコンビニへ行くのとは違うんだから。


「怖がらせちゃってごめんね。でも、この家の中は安全だから。無理して外へ出なくていいよ」


「……はい。気をつけます」


「うん。よろしくね」


 私は、窓の外へ目を向けた。


 庭には、さっきと同じ穏やかな日差しが差している。


 ……うん。


 少なくとも、ここでは安心して過ごしてほしい。


「今日は、もうゆっくりしてね。お風呂もあるし、夕食になったら声をかけるから」


「……はい」


「必要だったら、着替えなんかもユリに相談して。寝具も用意してあるから、疲れたら休んでいいよ」


 晴斗君は、自分の制服へ目を落とした。


 ……そっか。


 今日まで、ずっと日本での普段どおりの生活を送っていたんだよね。


 この制服だって、ついさっきまで学校で着ていたものなんだから。


 ……ああ。


 何だか、そう考えると切なくなる。


「……リアリスさん」


「うん?」


「……本当に、ありがとうございます」


 晴斗君が、私の方を向いた。


「今日、あの町で誰とも話が通じなくて……。どうしたらいいのか、本当に分からなかったんです」


「……うん」


「リアリスさんが来てくれて……助かりました」


 私は、小さく頷いた。


「見つけられてよかったよ」


 ……うん。


 本当に、よかった。


 もし神様から連絡が来なかったら。


 もしあの噴水広場で見つけられなかったら。


 晴斗君は、今も一人で困っていたかもしれない。


 ……神様。


 今回は、ちゃんとお礼を言っておこうかな。


 ……いや。


 それはまた今度でいいか。


「晴斗君。日本へ帰れないって話は、すぐに気持ちの整理がつくものじゃないと思う」


「……はい」


「だから、焦らないでね。この世界のことは、少しずつ覚えていけばいい。何か決めるのも、もう少し先でいいんだよ」


 晴斗君は、私をじっと見つめた。


 それから、少しだけ笑った。


「……分かりました」


 ……うん。


 今は、その返事だけで十分だよ。


 私は、ユリと目を合わせた。


「ユリ。晴斗君のこと、お願いね」


「かしこまりました、リアリス様」


 桜花も、晴斗君へ優しく一礼する。


「晴斗様。何かございましたら、わたくしにも遠慮なくお申し付けください」


「……ありがとうございます、桜花さん」


 ……うん。


 よし。


 これで、ひとまず安心かな。


     ◇


 晴斗君を部屋で休ませ、私と桜花は廊下へ出た。


 扉が静かに閉まる。


 私は、何となく立ち止まった。


「……桜花」


「はい、リアリス様」


「日本に帰れないって、つらいよね」


 桜花は、少し考えるようにしてから頷いた。


「……はい。故郷へ戻れぬというのは、きっとお寂しいことでございましょう」


「そうだね」


 ……。


 …………。


 私には、この世界で家族ができた。


 友達ができた。


 守りたい人が、たくさんできた。


 だから今は、ここで暮らしていくことが当たり前になっている。


 でも。


 晴斗君は、今日来たばかりだ。


 この世界に、大切な思い出なんてまだ一つもない。


 あるのは、日本に残してきたものばかりなんだろう。


「……すぐに、元気になってもらおうとしなくていいよね」


「はい。今は、心安らぐ時間をお過ごしいただくのがよろしいかと存じます」


「……うん」


 私は、桜花へ笑いかけた。


「ありがとう。桜花が一緒にいてくれて助かったよ」


「もったいないお言葉でございます」


 ……ふふっ。


 相変わらず、かしこまってるねぇ。


 でも、こうして隣にいてくれるだけで、私は安心できる。


 だから、晴斗君にも。


 この家が、少しでもそんな場所になってくれたらいいなと思う。


 ……さて。


 そろそろ夕食の準備も始まる頃かな。


 巴さんには、あとで晴斗君のことをもう少し詳しく話しておこう。


 ……あっ。


 そうだ。


 今夜のご飯は、和食にしてもらおうかな。


 晴斗君も、日本のご飯が恋しいだろうし。


 ……うん。


 いい考えだね。


 私は、桜花と並んで階段へ向かった。


 帰れない故郷があることを、私が変えることはできない。


 だけど。


 この世界で、一人きりにしないことならできる。


 今日のところは、それだけでいい。


 明日からのことは、晴斗君と一緒に考えていこう。

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