第5話:また神様からですか?
昼食を終えた私は、居間で桜花と紅茶を飲んでいた。
……ああ。
落ち着くなぁ。
テーブルには、巴さんが用意してくれたクッキー。
窓からは、庭の花が見える。
「リアリス様。紅茶のおかわりはいかがでしょうか?」
「ありがとう、桜花。もう少ししたらお願いするね」
……うん。
こういう時間が、一番好きだ。
私は、クッキーを一枚手に取った。
ふわっ。
目の前に、見覚えのある光の板が浮かび上がった。
『着信:オリミス』
……。
…………。
……神様。
せっかくのんびりお茶を飲んでいたのに。
……また何か落としたのかな?
「リアリス様?」
桜花が、そっとこちらを見た。
「神様から《映像通話》だよ」
「……オリミス様でございますか」
「うん。今日は何も落としてないといいんだけど」
桜花は、一瞬だけ考えてから、静かに微笑んだ。
「……そうでございますね」
……ああ。
否定してくれない。
それだけ前科があるってことだよね。
私は、目の前の光の板で通話に出た。
◇
「おぉ! リアリス!」
画面に映ったのは、見慣れた神様の顔だった。
……うん。
元気そうだね。
すごく元気そう。
「こんにちは、神様」
「うむ、こんにちはなのじゃ!」
神様は、にこにこと笑っている。
……おお。
何だか機嫌がいいね。
その笑顔を見ると、少し安心……。
「それで、英雄殿。ご機嫌はいかがかな?」
……。
…………。
……えっ?
「……神様」
「ん?」
「……今、何て言いました?」
「英雄殿。ご機嫌はいかがかな、と……」
私は、ゆっくり画面を見つめた。
「……神様」
「な、何じゃ?」
「……昨日の放送、見てたんですか?」
「もちろんじゃ! 世界中にあれほど大きな画面が出ておったからのぅ。わしも見ておったぞ!」
……ああ。
やっぱり。
見てたんだ。
……それなら。
ゴリアテさんに抱えられていたところも?
「……全部?」
「うむ! 魔族の大男にひょいっと抱えられたところから、実に見事な……」
「……神様」
「……は、はい」
「二度と英雄と呼ばないでください」
……。
…………。
画面の向こうで、神様が固まった。
「ご、ごめんなさいなのじゃ!」
……うん。
よろしい。
もう、あの話はいいんだよ。
朝からカトレアに笑われて。
ギルドではシルベスターさんに散々からかわれて。
町では英雄様って呼ばれ続けたんだから。
……せめて、神様と話すときくらいは普通にしてほしい。
「ま、まあ、そう怒るでない。わしは、実に立派だったと思っておるぞ?」
「……ありがとうございます」
「世界の民も、喜んでおったではないか」
「……そうですね」
……うん。
それは、私も嬉しかった。
みんなが笑ってくれたことは、ちゃんと覚えてる。
……でも。
抱っこの話だけは、もう勘弁してください。
私は、小さく息を吐いた。
「……それで、今日はどうされたんでしょうか?」
「うむ! 今日はな……」
「武器を落としましたか?」
「……へ?」
「それとも、邪神がまた復活したんですか?」
「ち、違うのじゃ!」
神様が、慌てて両手を振った。
「違う! 違うぞリアリス! 今回は、わしは何もしておらん!」
「……本当ですかぁ?」
「本当なのじゃ!」
……おお。
ものすごい勢いで否定された。
……いや。
これまでのことを考えれば、仕方ないと思うんだけど。
神様の落とし物が一回や二回じゃなかったし。
その後には邪神の件まであったんだからね。
「わしだって、毎回何かを落としておるわけではないのじゃ!」
「……毎回じゃなかったらいいんですか?」
「……そういう意味ではないのじゃ!」
……うん。
今日も元気だなぁ。
私は、もう一度紅茶を飲もうとした。
……あっ。
カップ、テーブルの方だった。
仕方ないので、そのまま画面へ向き直る。
「じゃあ、今日は何のご用事なんですか?」
「うむ。今日はただの情報提供なのじゃ」
「……情報提供?」
「そうじゃ」
神様が、少し真面目な顔になった。
……おや。
何だろう。
いつもと、少し雰囲気が違うね。
「リアリス。おぬしは、時折ステラに転移者が現れることを知っておるじゃろう?」
……転移者。
私は、記憶をたどった。
勇者の雪彦君みたいに、誰かが召喚するわけでもなく。
私みたいに、一度死んでから神様に会い、転生させてもらうわけでもない。
ごく稀に、別の世界から突然やってきてしまう人がいる。
……たしか。
そんな話を、聞いたことがあるね。
「はい。お話だけは聞いたことがあります」
「うむ。その転移者が、またステラに現れたのじゃ」
……おお。
それは、珍しい。
「そうなんですね。どこの世界から来た人なんですか?」
「おぬしと同じ、日本人じゃな」
……。
…………。
「……なんと!?」
私は、思わず画面へ顔を近づけた。
日本人!?
えっ。
それって。
本当に、あの日本から来た人ってこと!?
「神様、それは本当ですか!?」
「うむ。間違いない」
……おお。
これは、ちょっと驚いた。
もちろん、日本人なら雪彦君もいる。
でも、あの子は勇者として召喚されたんだよね。
今回の人は、それとは違う。
誰かに呼ばれたわけでもないのに、いきなりステラへ来てしまった。
……えっ。
それって、ものすごく大変じゃない?
「……ちなみに、神様が呼んだとかではないんですよね?」
「違うのじゃ。今回は、わしらが送り込んだわけではない」
「……じゃあ、どうして転移してきたんですか?」
「それは、わしにもまだ分からぬ」
……そっか。
神様にも分からないことがあるんだね。
いや、考えてみれば当然なのかな。
神様だって、何でも知っているわけじゃないし。
……うん。
少なくとも、落とし物をするくらいだし。
「わしらが、その者に何かしてやるわけでもない。じゃが、リアリスなら話ができると思ってな」
神様が、少しだけ微笑んだ。
「一応、知らせておこうと思ったのじゃ」
……ああ。
なるほど。
私と同じ日本人だから、知らせてくれたんだ。
……うん。
それは、ありがたいね。
「ありがとうございます、神様」
「うむ!」
「ちなみに、その人は今、どこにいるんですか?」
「おぉ、そうじゃった。ちょっと待っておれ」
神様が、画面の向こうで何やら目を細めた。
「どれどれ……」
……おっ。
探してくれてるみたい。
神界からなら、ステラの様子を見られるんだよね。
……便利だなぁ。
私の《モニター》とは、全然違うんだろうけど。
「……おー、おったぞ」
「見つかりましたか!」
「うむ。これは、オリミス聖国じゃな」
「聖国ですか?」
「そうじゃ。西の海沿いにある、アズライトという町の近くじゃ」
……アズライト。
聖国には何度か行ったけれど、あちらの町にはまだゆっくり立ち寄ったことがない。
……うん。
場所が分かれば大丈夫そうだ。
「ありがとうございます! それなら、迎えに行けそうです」
「……おっと。リアリス、もう一つ言っておかねばならぬことがある」
「……はい?」
神様が、少し困ったような顔をした。
……あれ。
何だろう。
「その転移者じゃが……どうやら、加護もスキルも持っておらぬようなのじゃ」
……。
…………。
……えっ?
「……何も、ですか?」
「うむ。見た限り、特別な力は何もなさそうじゃな」
……。
…………。
いやいやいや。
ちょっと待ってよ。
私は、自分がこの世界に来たときのことを思い出した。
神様に会って。
転生先の身体や、使える魔法を選んで。
それから、ステラに降り立った。
しかも、私には《想像魔法》がある。
魔力だって、普通の人とは比べものにならない。
……うん。
あれだけ準備しても、最初は戸惑うことばかりだった。
なのに。
何の能力もない日本人が、いきなり異世界へ?
「えっ!? それって、何の能力も持ってない、ただの日本人が異世界に放り出されてるってことですか!?」
「……まあ、そういうことになるのぅ」
……おお。
ものすごく困るじゃない!
この世界には魔獣がいる。
お金も必要だし、仕事も必要。
それに、生活の仕方だって日本とは違う。
……いや。
待てよ。
それ以前の問題がある。
「神様、その人、言葉は分かるんですか?」
「……うむ?」
「この世界の言葉ですよ!」
私は、少し身を乗り出した。
私の場合は転生するときに、言葉が分かるようになっていた。
雪彦君も、勇者として召喚されたときに必要なものを与えられていたはずだ。
でも、今回は。
……何もないんだよね?
「……そうじゃのぅ。多分、この様子では言葉も分かっておらんかもしれん」
「……ええっ!?」
……いやいやいや!
ちょっと!
それって本当に大丈夫なの!?
知らない世界。
知らない町。
誰とも話せない。
魔法も使えない。
……ああ。
想像するだけで、胃が痛くなってきた。
「そんなの詰みゲーじゃないですか……!」
「……つみげー?」
「……あっ。日本の言葉です。ものすごく困った状況ってことです」
「……なるほどのぅ」
……いや。
感心してる場合じゃないよね。
私は、思わず頭を抱えた。
もし、突然そんなところに放り出されたら。
……私だったら、どうするだろう。
お金もない。
帰る方法も分からない。
日本語も通じない。
誰に助けを求めればいいのかも分からない。
……うん。
無理だ。
絶対に心細いよ。
しかも、その人が大人とは限らない。
まだ学生かもしれないし。
……。
…………。
……ああ。
こんな話を聞いて、放っておけるわけがない。
「神様!」
「な、何じゃ?」
「情報ありがとうございます! これから向かってみます!」
「……おお。そうか」
「はい。場所も教えてもらいましたし、探してみます!」
神様が、安心したように頷いた。
「うむ。リアリスなら、何とかしてやれるじゃろう」
「……どうでしょうね。でも、まずは話を聞いてみます」
……うん。
助けが必要かどうかだって、本人に聞かなきゃ分からない。
勝手に決めつけるのは、よくないからね。
「それでは、失礼します!」
「うむ。好きにするがよい」
私は、通話を終える前に、少しだけ笑った。
「……あっ、神様」
「ん?」
「たまにはちゃんと神様なんですね!」
「……たまには!?」
……うん。
今日くらいは、褒めておかないとね!
神様が何か言い返す前に、私は《映像通話》を終了した。
……。
…………。
……ああ。
なんか、ちょっとすっきりした。
……いや。
今は、それどころじゃないね。
◇
「リアリス様」
通信が終わると、桜花が静かに声をかけてきた。
「どうされますか?」
「決まってるよ。迎えに行こう」
「かしこまりました。ご一緒いたします」
……ああ。
桜花は、本当に頼もしいなぁ。
私は、すぐに頷いた。
「ありがとう、桜花。助かるよ」
「恐れ入ります」
……うん。
とはいえ。
相手がどんな人なのか、まったく分からないんだよね。
男性か女性か。
何歳くらいなのか。
どうしてステラへ来たのか。
……いや。
そこは神様にも分からないって言ってたか。
……。
…………。
あれ?
私、外見の特徴も聞いてないじゃない!
……ああ。
しまったなぁ。
でも、もう通信を切っちゃったし。
……まあ。
場所は分かってるから、何とか探せるかな。
そう思ってから、私は立ち上がった。
「桜花、先に巴さんへ声をかけてくるね」
「はい」
私は居間を出て、食堂の方へ向かった。
巴さんは、メイドたちと何やら午後の仕事について話しているところだった。
「巴さん、ちょっといいですか?」
「あら、リアリスちゃん。どうしたの?」
「これから桜花と出かけてくるんですけど、もしかしたらお客さんを連れて帰るかもしれません」
「まあ。お客様?」
「はい。ちょっと事情がありそうな人で……。帰ってきてから、詳しく説明しますね」
巴さんは、すぐに頷いた。
「分かったわ。お茶とお部屋の準備をしておけばいいかしら?」
「ありがとうございます! でも、まだ連れて帰れるかどうかも分からないので、いつものようにしていてください」
「ふふっ。了解。気をつけてね」
「はい!」
……ああ。
さすが巴さん。
余計なことを聞かず、必要なことだけ確認してくれる。
……いや。
帰ってきたら、私からちゃんと説明しないとね。
居間へ戻ると、桜花が準備を整えて待っていてくれた。
「行こうか、桜花」
「はい、リアリス様」
私は、桜花の手を取った。
目指すのは、オリミス聖国。
西部の海沿いにある町、アズライト。
……うん。
迷っている時間はないね。
「《転移》」
◇
景色が、ふっと切り替わった。
目の前に広がるのは、明るい空。
少し離れたところには、海が見える。
風に乗って、潮の香りが漂ってきた。
……おお。
海だ。
いいねぇ。
こういう町で、のんびり海を眺めるのも楽しそうだね。
……。
…………。
いや。
観光しに来たんじゃなかった。
危ない危ない。
「桜花、ここがアズライトの近くだよ」
「はい。海沿いの町でございますね」
「うん。神様の話だと、この辺りに日本人の転移者が来たみたいなんだ」
私は、町の方向へ目を向けた。
海へ向かって緩やかに下る道。
建物の向こうには、港らしい場所が見える。
……うん。
それほど危険そうな雰囲気ではないかな。
だけど、初めてこの世界へ来た人にとっては、何もかもが見慣れないはずだ。
……よし。
まずは町の中を探してみよう。
桜花と一緒に道を歩き始める。
しばらくすると、店先で荷物を運んでいた人がこちらを見た。
……ん?
何だろう。
ものすごく、見られてる気がする。
「あれっ……?」
その人が、私の顔をじっと見つめた。
「……あっ! 英雄様!?」
……。
…………。
……えっ。
あっ。
そうだった!
私、昨日、世界中に顔を出したんだった!
「英雄様ですよね!? 昨日の放送の!」
……おお。
ここでもかぁ!
私は、思わず遠い目になりかけた。
……いや。
今は、そんなことしてる場合じゃない。
日本人を探しに来たんだもんね!
「こんにちはー!」
私は、笑顔で手を振った。
「今日はちょっと急いでるんだ。また今度ゆっくりねー!」
「あっ、はい! お気をつけて!」
「ありがとう!」
……よし。
私は、桜花と一緒に通りを進んだ。
振り返ると、さっきの人がまだ手を振っている。
……ああ。
悪いことしちゃったかな。
でも、今は急いでるし。
また来る機会があれば、ちゃんと挨拶しよう。
「リアリス様」
「うん?」
「お見事でございます」
桜花が、少し楽しそうに微笑んだ。
「……あはは。王都で、ちょっと学んだからね」
「そのようでございますね」
……うん。
今日は囲まれる前に離れられた!
私も、少しは成長したのかもしれない。
……いや。
英雄としての成長って、こういうことなのかな?
…………。
まあ、いいか。
◇
アズライトの町は、海沿いらしい活気があった。
魚を売るお店。
網を直している人たち。
旅行者らしい人が歩く通り。
店先には、海を思わせる青い飾りがいくつも並んでいた。
……おお。
なかなか、いい雰囲気だね。
……いや。
だから、観光じゃないって!
私は、つい景色を眺めそうになる自分を引き戻した。
「桜花。日本人らしい人、見かけた?」
「申し訳ございません。今のところ、それらしい方は……」
「……そっか」
……うーん。
難しいな。
そもそも、日本人の外見だって、人によって全然違う。
黒髪の人もいれば、染めてる人もいるし。
身長だって、さまざまだ。
それなのに、今回は外見を何も聞いてない。
……ああ。
私、神様にもう少し詳しく聞くべきだったね。
「ごめん、桜花。神様に特徴を聞くの、忘れちゃった」
「いえ。私も、日本の方の外見については詳しくありませんので……」
「そんなの、桜花が悪いわけないよ」
私は、笑って首を振った。
「そもそも、私が聞き忘れたんだしね」
「……ありがとうございます」
桜花が、少しほっとしたように微笑んだ。
……うん。
気にしなくていいんだよ。
それに、手がかりはまったくないわけじゃない。
日本人。
ついさっき、この世界へ来たばかり。
おそらく、標準言語は分からない。
……ということは。
町の人たちと上手く話せずに、困ってる人がいるかもしれない。
「……よし。少しずつ探してみよう」
「はい」
私たちは、通りの先へ進んだ。
途中、人が集まっている場所もあったけれど、特に騒ぎにはなっていない。
……うーん。
困ったな。
日本人らしい人を探すって、思っていたより難しい。
何か目立つものでもあればいいんだけど。
……あっ。
そうだ。
「桜花、雪彦君のこと、覚えてる?」
「勇者様でございますね。はい」
「うん。あの子も日本から来たんだよ」
「さようでございましたね」
……うん。
雪彦君は、前にこの世界へ召喚されたとき、日本人の男の子らしい雰囲気があった。
もちろん、今回の転移者が男の人とは限らないけど。
服装や、持ち物。
この世界の人とは違うところがあるかもしれない。
「雪彦君みたいに、この町の人たちとは少し違う格好をしてるかもしれないね」
「なるほど。勇者様のような外見や、お召し物ということでございますね」
「そうそう!」
私は、少し元気になった。
……うん。
さすが桜花。
話が早い!
桜花は、周囲をゆっくり見回した。
そして、ふと足を止める。
「……リアリス様」
「うん?」
「あちらの方は、いかがでしょうか」
桜花が、広場の方を指さした。
その先には、大きな噴水がある。
周りにはベンチが並び、休んでいる人たちもいる。
……ん?
あの人かな。
私は、目を凝らした。
噴水の縁に、一人で座っている人がいた。
黒い髪。
年齢は、十代後半くらいだろうか。
そして。
……あれ?
あの服。
黒くて、詰め襟で。
胸元には、見覚えのあるボタンが並んでいる。
……。
…………。
……おおおっ!?
「……学ラン!?」
私は、思わず声を上げた。
……いやいや!
あれ、日本の学生服じゃない!?
しかも、間違いなく見たことのある形だ。
「桜花! あれだよ! 学ラン着てる!」
「がくらん……でございますか?」
「日本の学生服だよ! あの服、この世界じゃ普通は見ないんだ!」
桜花が、もう一度少年を見た。
「……それなら、あちらの方かもしれませんね」
「うん。行ってみよう!」
私は、足早に広場へ向かった。
◇
近づいてみると、少年の様子がよく分かった。
黒髪。
普通の高校生くらいの体格。
黒い学ランに、同じ色のズボン。
……ああ。
本当に、日本の高校生みたいだね。
……というか。
どう見ても日本の高校生なんだけど。
少年は、膝の上で手を握っていた。
辺りを見回しては、うつむく。
何かを探しているようにも見える。
でも、立ち上がる様子はない。
……うん。
困ってるのかな。
私は、急に声をかけて驚かせないよう、少し離れたところで立ち止まった。
「こんにちは」
少年が、顔を上げた。
……おっ。
こっちを見てくれた。
「もしかして、日本から来た人かな?」
「……?」
少年の顔に、戸惑いが浮かんだ。
……あれ?
聞こえなかった?
「言葉、分かるかな?」
「……え?」
少年が、小さく何かを呟いた。
でも、こちらの話は理解できていないらしい。
視線が、私と桜花の間を行き来する。
……。
…………。
あっ。
そうか!
私は、ようやく気づいた。
今の私は、日本語で話しているつもりでも、普段はこの世界の標準言語になっているんだった。
転生するときに、言葉が分かるようにしてもらったからね。
だから、いつもは何も意識しなくても会話できる。
……でも。
この子には、それがないかもしれない。
……なるほど。
だったら。
今度は、意識して日本語で話してみよう。
私は、口にする言葉を頭の中で確かめた。
ステラの言葉じゃなくて、日本語。
昔、何十年も使っていた、あの言葉だ。
……うん。
これなら。
「こんにちは。これなら、言葉は分かるかな?」
少年が、目を見開いた。
「……えっ!?」
……おっ。
反応した!
「……に、日本語!?」
少年が、勢いよく立ち上がった。
「今、日本語で話しましたよね!?」
「うん。そうだよ」
「……えっ、えっ!? 何で!?」
……ああ。
よかった。
ちゃんと通じたね。
私は、できるだけ安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。落ち着いて。私は、日本から来た人間なんだ」
「……日本から?」
「うん。この世界に来たのは、少し前だけどね」
少年が、私の顔をじっと見つめた。
……ああ。
驚くよねぇ。
私も、日本語が突然聞こえてきたら、たぶん同じ反応をすると思う。
……いや。
今は私の方が話しかけたんだけど。
「よかった……」
少年の肩から、少し力が抜けた。
「ずっと、言葉が分からなくて……」
……ああ。
やっぱり。
神様の言っていたとおりだった。
「この町の人に話しかけても、誰も日本語が分からなくて。道も何も分からなくて……」
少年は、言いながら俯いた。
……うん。
そりゃ、怖かっただろうね。
私だって、何も知らない場所に突然放り出されたら、きっと困る。
それも、日本とはまったく違う世界なんだから。
「大変だったね」
私は、落ち着いた声で言った。
「でも、もう一人じゃないから。まずは名前を教えてもらえるかな?」
少年が、顔を上げた。
「あっ……はい!」
それから、少しだけ姿勢を正した。
「僕、春原晴斗って言います」
……春原晴斗君。
日本の名前だ。
……ああ。
何だか、懐かしい響きだねぇ。
「晴斗君だね。私はリアリス。よろしくね」
「リアリス……さん?」
「うん。変わった名前でしょう?」
「……はい。日本の名前じゃないですよね」
「この世界では、こっちの名前を使ってるんだ」
晴斗君が、何度か頷いた。
……うん。
まだ、頭の整理が追いついてないんだろうなぁ。
「晴斗君は、何歳?」
「十七歳です。高校二年生です」
……おお。
高校二年生かぁ。
うん。
学ランだもんね。
……いや、学校によっては制服もいろいろだけど。
この年齢で突然異世界へ来たら、そりゃ大変だよね。
「高校にいたときに、急にこっちへ来たの?」
「……はい」
晴斗君が、少し困った顔をした。
「授業を受けてたんです。普通に座ってたはずなのに……気がついたら知らない場所で」
……。
…………。
授業中。
本当に、何の前触れもなかったんだね。
「それで、町が見えたから、人がいれば何か分かるかなって思って……」
「うん」
「でも、誰も言葉が通じなくて……どうしたらいいのか、分からなくなっちゃって」
……ああ。
そっか。
町の人たちも、悪気はないんだろうね。
日本語なんて、この世界では普通は使わない。
何を言っているのか分からない相手が来たら、困ってしまう。
……でも。
晴斗君からしたら、誰にも助けてもらえないように感じたかもしれない。
私は、ゆっくり頷いた。
「話してくれてありがとう。もう少し、落ち着いて話そうか」
「……はい」
晴斗君が、私の後ろへ目を向けた。
「……あの。そちらの方は?」
……おっ。
桜花のことか。
「ああ。こちらは桜花。私の大切な家族だよ」
桜花が、軽く一礼した。
「初めまして、桜花と申します」
……うん。
いつもどおりの挨拶だね。
ただし。
晴斗君は、少し困ったような顔をした。
「……すみません。今、何て……?」
……あっ。
そうだった!
桜花の言葉は、日本語じゃない!
「ごめんごめん。桜花は、この世界の言葉で話してるんだ」
「……えっ?」
「だから、晴斗君にはまだ分からないと思う」
……うん。
これは、あとで何とかした方がいいね。
今のままじゃ、桜花とも話せないもんね。
桜花も、少し不思議そうに私たちを見ている。
……ああ。
逆に、桜花には私たちの日本語が分からないんだった。
……なるほど。
これは、なかなか不便だ。
でも、今は晴斗君を安心させる方が先だね。
「晴斗君。今、少し話を聞いても大丈夫かな?」
「……はい」
「この世界のこと、どれくらい分かってる?」
晴斗君が、困ったように眉を寄せた。
「……全然、分からないです」
「そっか」
「建物も、服装も、見たことない感じで……。外国なのかとも思ったんですけど、変な生き物みたいなのも見えて……」
……うん。
そうだよね。
日本じゃ見かけないものが、いっぱいある。
「……もしかして」
晴斗君が、私を見た。
「ここって……異世界、なんですか?」
……おお。
気づいた?
いや。
学ラン姿で町を歩いていたんだから、さすがに何かおかしいとは思うよね。
「……うん。その話も、ちゃんとするよ」
「……本当に?」
「うん。ただ、ここは人が多いから、落ち着ける場所へ移ろうか」
私は、広場の周囲を見た。
通りでは、町の人たちがこちらへちらちら視線を向けている。
……あれ?
何だろう。
もしかして、私に気づいた?
……いや。
きっと気づいたよね。
昨日の放送で、顔が知られちゃったんだから。
……うん。
あまり長くここにいると、また囲まれるかもしれない。
「晴斗君。私の家でよければ、ゆっくり話せるんだけど……どうかな?」
晴斗君が、少し迷った顔をした。
……うん。
いきなり知らない人に家へ誘われたら、普通は警戒するよね。
私も、そう思う。
「もちろん、無理にとは言わないよ。でも、ここよりは落ち着いて話せると思う」
「……あの」
「うん?」
「リアリスさんは……本当に、日本から来たんですか?」
「うん。間違いないよ」
「……でも、名前が……」
「私は転生者なんだ」
「……てんせいしゃ?」
晴斗君が、目を丸くした。
……うん。
そこ、気になるよね。
「一度日本で亡くなって、別の身体でこの世界に生まれ直したんだ」
「……ええっ!?」
……ああ。
驚くよねぇ。
私だって、初めて神様に会ったときは驚いたもんね。
……いや。
今思うと、神様との初対面もいろいろあったなぁ。
「その話も、あとでゆっくりしよう。晴斗君は、異世界もののアニメとか見る?」
「……あっ、はい! けっこう見ます!」
……おお。
それなら、少しは話が早いかな。
もちろん、アニメと現実は違うんだけどね。
……うん。
そこは、ちゃんと説明しなきゃいけない。
「じゃあ、よくある『剣と魔法の世界』って聞けば、何となく分かるかな」
晴斗君が、何度も頷いた。
「……はい。でも、それが本当に……?」
「うん。続きは、家でね」
私は、笑顔で手を差し出した。
「一緒に来てくれる?」
晴斗君は、私の手を見つめた。
少しだけ、迷っていた。
……うん。
急がせなくていい。
私は、何も言わずに待った。
やがて。
「……お願いします」
晴斗君が、ゆっくり頷いた。
「……もう、どうしたらいいか分からないので。少し、話を聞かせてください」
「もちろん!」
……よかった。
無理やり連れていくわけにはいかないからね。
私は、桜花へ顔を向けた。
「桜花。晴斗君を家へ連れて帰ろうと思う」
「かしこまりました」
桜花が頷く。
……うん。
それじゃ。
まずは、安全な場所へ帰ろう。
◇
「晴斗君、ちょっとだけ驚くかもしれないけど、落ち着いてね」
「……はい?」
「移動するために魔法を使うんだ」
晴斗君が、私の顔を見た。
……うん。
分からないよね。
言葉で説明するより、見てもらう方が早いかな。
「三人で、あっという間に別の場所へ移るから」
「……えっ。そんなことが……?」
「できるよ」
……うん。
自分で言っておいて、ちょっと不思議な気がする。
昔の日本にいた頃なら、私だって信じないもんね。
私は、晴斗君の手を取り、桜花にも近くに寄ってもらった。
「じゃあ、行くよ」
「……は、はい!」
「《転移》」
次の瞬間。
潮の香りが消えた。
代わりに、見慣れた屋敷の玄関が目の前に現れる。
……うん。
王国邸へ到着!
「ただいまー!」
私は、いつものように声をかけた。
……さて。
晴斗君は……。
「……えっ?」
晴斗君が、きょろきょろと周囲を見回していた。
「……えっ!? あの、ここ……!?」
「うん。私の家だよ」
「……いや、さっきまで海の町に……」
「《転移》で移動したんだ」
「……転移!? ほんとに魔法!?」
……ああ。
やっぱり、びっくりするよね。
私も初めて使ったときは、なんだか変な感じがしたもんなぁ。
「うん。これから、いろいろ説明するね」
「……すご……」
晴斗君が、小さく呟いた。
……うん。
驚くのも、無理ないね。
私は、少しだけ笑った。
晴斗君の驚きようを見ていた桜花が、私へそっと声をかけた。
「リアリス様。先ほどから、お二人が話しておられるのは、聞き慣れない言葉のようですが……」
……あっ。
そうだった。
私、さっきから日本語で話してるんだった。
「ごめん、桜花。今は日本語で話してるんだ」
「……日本語、でございますか?」
「うん。晴斗君にもこの世界の言葉が分かるようにしたいから、あとでちゃんと説明するね」
「かしこまりました」
桜花が、柔らかく微笑んだ。
……うん。
まずは、晴斗君に少し落ち着いてもらおう。
私は、屋敷の中へ案内しようとした。
そのとき。
「……おかえりなさい、リアリス様」
廊下の向こうから、小さな声がした。
楓だ。
……おっ。
今日も、いつものように出迎えてくれたね。
「ただいまー、楓!」
楓が、こくりと頷いた。
……うん。
相変わらず、口数は少ない。
でも、ちゃんと挨拶してくれるんだよね。
……ああ。
可愛いなぁ。
私は、晴斗君へ顔を向けた。
「晴斗君、紹介するね。こちらは楓。うちの家族だよ」
……ん?
晴斗君が、何かに驚いたように固まっている。
視線の先は、楓。
それから、楓の服。
……あっ。
そっか。
初めて見ると、驚くかもしれないね。
「……メ、メイド!?」
晴斗君が、日本語で小さく叫んだ。
……うん。
まあ、そうなるよね。
「えっ……ちっちゃい! メイドさんがいる!?」
……ああ。
ものすごく驚いてる。
楓は、晴斗君を静かに見上げていた。
そして、私に一度だけ目を向ける。
……うん。
言葉は分からなくても、驚かれているのは何となく伝わったのかな。
「楓、こちらは晴斗君。日本から来たお客さんなんだ」
「……かしこまりました」
楓が、ぺこりと頭を下げた。
晴斗君も、慌てて頭を下げる。
「は、初めまして! ……あっ、通じないんですよね」
……うん。
今は、通じないね。
でも、挨拶したい気持ちは伝わると思うよ。
「大丈夫。あとで、ちゃんとお話しできるように考えるからね」
「……はい」
晴斗君は、小さく頷いた。
さっきまでの驚きに比べると、少しだけ落ち着いたように見える。
……うん。
よかった。
私は、廊下の奥へ目を向けた。
居間なら、ゆっくり話せる。
巴さんも、きっとお茶を用意してくれるだろう。
……ああ。
それにしても。
昨日は、世界中に私の顔が知られて。
今日は、知らない日本人の男の子を助けに行って。
その子を家に連れて帰ってきた。
……うん。
何だか、すごい二日間だね。
……いや。
今朝も、のんびりできそうだと思っていたんだけどなぁ。
私は、晴斗君へ笑いかけた。
「じゃあ、まずは座って、少し落ち着こうか」
「……はい。お願いします」
……うん。
大丈夫。
何も分からないまま、突然この世界へ来てしまった晴斗君。
少なくとも今は、安心して話せる場所がある。
私にできることも、きっとあるはずだ。
……さて。
まずは、どこから説明しようかな。
私は、桜花と晴斗君を連れて、居間へ向かった。




