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第4話:英雄効果は絶大です

 ……おかしい。


 私は、朝食の席で紅茶のカップを見つめていた。


 いつもと同じ食堂。


 いつもと同じ、巴さんのおいしい朝ご飯。


 向かいにはカトレアがいて、桜花も隣にいる。


 窓の外には、きれいに手入れされた庭が広がっていた。


 ……うん。


 どこからどう見ても、平和な朝だ。


 なのに。


 私は、昨日のことが頭から離れなかった。


「……はぁぁ」


「お父さん、どうしたの?」


 カトレアが、お味噌汁の椀を置いた。


 十四歳になった今でも、こうして心配そうに顔を覗き込んでくれる。


 ……ああ。


 いい娘に育ったねぇ。


 ……じゃなくて。


「カトレア……」


「うん?」


「お父さん、英雄になっちゃったよ……」


「……うん。昨日、みんなで見たよ?」


 ……。


 …………。


 そっかぁ。


 屋敷でも見られたんだよね。


 私が作った《モニター》だもんね。


 ……うん。


 忘れてたわけじゃないよ。


 ただ、思い出したくなかっただけで。


「もう、のんびりできないのかなぁ……」


 思わず呟くと、カトレアが小さく笑った。


「お父さん、昨日も同じこと言ってなかった?」


「……言った気がする」


「でも、お父さんはお父さんでしょ?」


「……それは、そうだね」


 ……ああ。


 いいこと言うなぁ。


 世界の英雄になろうと、何になろうと、私はカトレアのお父さん。


 それだけは変わらない。


「それにね、お父さん」


「うん?」


「昨日、モフ太と一緒に見てたんだけど……」


 カトレアが、少しだけ言いにくそうに口元を押さえた。


「……あの大きな魔族の人に、ずっと抱っこされてたよね?」


 ……。


 …………。


 ……あっ。


 それ、言っちゃう?


「……うん」


「途中で下ろしてもらえなかったの?」


「……お願いしたんだけどねぇ」


 カトレアの肩が、小さく揺れた。


「……ふふっ」


 ……笑ってる。


 娘が、笑ってる。


 いや、いいんだけど。


 いいんだけどさぁ。


「お父さん、ごめんね。でも……」


「……うん?」


「世界中のみんなの前で抱っこされてるの、ちょっと面白かった」


 ……あああ。


 やっぱり!


 私だって、見てる側だったら絶対笑うと思うよ!


 でも、抱っこされてたのは私なんだよね!


「はぁぁぁ……」


 私は、もう一度深いため息をついた。


 すると、巴さんが紅茶のおかわりを持ってきてくれた。


「もう、何言ってるのリアリスちゃん!」


「……巴さん?」


「リアリスちゃんは、今までどおり好きに生活すればいいのよ!」


 巴さんは、いつものお母さんみたいな笑顔だ。


「世界の英雄だって何だって、朝ご飯は食べるし、お仕事もあるでしょう?」


「……まあ、そうですね」


「最初はみんな珍しがるかもしれないけど、すぐに落ち着くわよ」


「……それならいいんですけどねぇ」


「大丈夫、大丈夫!」


 巴さんが、にっこり笑った。


 ……ああ。


 頼もしいなぁ。


 こういうとき、巴さんが明るく言ってくれると安心する。


 ……よし。


 私も気にしすぎないようにしよう。


 昨日は昨日。


 今日は今日。


 英雄だって、普通に仕事をすればいいんだ。


「……うん!」


 私は、カップを置いて立ち上がった。


「それじゃあ、いつもどおり雑貨屋を見て、サロンのお仕事をしてきます!」


「はい。行ってらっしゃい、リアリスちゃん」


「お父さん、お仕事がんばってね」


「ありがとう、カトレア!」


 ……よーし。


 今日こそ、平和な一日にしよう!


     ◇


 朝食を終え、雑貨屋へ向かおうとした私は、玄関の近くで足を止めた。


 ……あれ?


 おかしいな。


 まだ、お店の前まで行ってないよね?


 でも。


 なんか、人の声がすごく聞こえる。


 ……いや。


 普段から雑貨屋にはお客さんが来てくれる。


 それは、とてもありがたいことだ。


 ただ。


 今日は、その声が明らかに多い。


 私は、そっと窓から外を覗いた。


 ……。


 …………。


 ……えっ!?


 敷地の端にある雑貨屋の前。


 そこには、長い行列ができていた。


 ……うん。


 行列。


 しかも、なかなか長い。


 列の先頭は店の入口。


 その後ろには、紅茶の缶を持った人や、買い物袋を持った人。


 さらに後ろには、商品を買うつもりなのか、ただ何かを見に来たのか分からない人まで並んでいる。


 ……あれぇ?


 うちの雑貨屋って、そんなに大人気だったっけ?


 いや、ありがたいことに、お客さんは増えていたよ。


 紅茶もクッキーも好評だし。


 でも、昨日までは、あんなに並んでなかったはずだ。


 私は、恐る恐る耳を澄ませた。


「ここが英雄様のお店なのね!」


「昨日、国王陛下がお話しされていた方でしょう?」


「うちの子が、どうしても一度来たいって言い出してねぇ」


 ……。


 …………。


 ああ。


 原因、分かった。


 分かってしまった。


 私だ。


 ……私のせいだぁ!


 とはいえ、お店自体は普通に営業していた。


 入口ではメイドたちがお客さんを順番に案内し、レジでも丁寧に会計をしている。


 無理に人を詰め込まないよう、入店の人数も調整してくれているらしい。


 ……おお。


 さすがだね。


 仕事は完璧だ。


 私が出ていったら、たぶん余計に騒ぎになるんだろうなぁ。


 ……うん。


 今日は、お店の中の確認はみんなに任せよう。


 私は、そっと窓から離れた。


 ……よし。


 見なかったことにしよう。


     ◇


 続いて、美容サロンへ向かった。


 ……うん。


 こっちは予約制だからね。


 いくら英雄と呼ばれるようになったって、急に大勢来るわけじゃない。


 今日も、いつものお客さんの予約が入っているだけだ。


 そう思って、予約表を確認した。


 ……。


 …………。


 ……あれ?


 私は、もう一度予約表を見た。


 今日。


 明日。


 明後日。


 来週。


 来月。


 ……。


 …………。


「……えっ?」


 何だろう。


 どこを見ても、予約が埋まってる。


 ……いやいや。


 もともと、人気はあったよ?


 それは知ってる。


 でも。


 半年先まで、全部埋まってるのはおかしくない!?


 私は、受付を担当するメイドへ顔を向けた。


「……あの。予約表、これで合ってる?」


「はい、リアリス様。現在、半年先までご予約をいただいております」


「……は、半年?」


「さようでございます」


 ……。


 …………。


 ……えええっ!?


「えっと……私、昨日までこんなに先の予約はなかった気がするんだけど……」


「昨日の放送後から、お問い合わせが増えまして」


 ……やっぱり!


 英雄効果だ!


 これは、どう考えても英雄効果だよ!


 そこへ、巴さんがやってきた。


「リアリスちゃん、予約表を見たのね?」


「……見ました」


「びっくりしたでしょう?」


「はい……」


 巴さんが、ちょっと楽しそうに笑った。


「これでも、一日の人数制限をかけているから、まだいい方なのよ」


「……えっ」


「もっと予約のお願いが来てるんですから」


 ……。


 …………。


 ……おお。


 なんということでしょう。


 私の美容サロンが、とんでもないことになっている。


 ……いや。


 私の、というより。


 英雄の美容サロンになっちゃってる!?


「でも巴さん、一日に受けられる人数は変えませんよ?」


「もちろんよ。十人までって決めているんでしょう?」


「はい! それ以上にしたら、仕事ばっかりになっちゃいますから!」


「ふふ。分かってるわ。予約の数だけ増えても、リアリスちゃんの仕事を無理に増やすつもりはないから」


 ……ああ。


 よかった。


 さすが巴さん。


 私ののんびり生活を、ちゃんと守ってくれてる。


 ……うん。


 心強いねぇ。


 ……でも。


 半年先かぁ。


 私は、改めて予約表を見た。


 何度見ても、埋まっている。


「……これが英雄効果かぁ……」


 つい、遠い目になってしまった。


 ……うん。


 想像していたより、ずっとすごい。


 こんなところまで影響するんだね。


     ◇


 とはいえ、予約してくださったお客さんを待たせるわけにはいかない。


 私は、気を取り直して仕事を始めた。


「お待たせしました! 本日はよろしくお願いします」


「まあ、英雄様! お目にかかれて光栄です!」


 ……。


 …………。


 おお。


 いきなり来たね。


「いえいえ、今日は普通にサロンのお客さんとして来てくださったんですから、どうぞ気楽にしてください」


「そんな! 世界を救った英雄様に施術していただけるなんて!」


 ……ああ。


 これは、なかなか手強そうだ。


 私は、にっこり笑って椅子を案内した。


「それでは、始めますね」


「はい、英雄様!」


 ……うん。


 呼び方は、もう諦めよう。


 私は、いつもどおり《エステ》を使った。


 魔法の効果は問題なし。


 施術を終えたお客さんは、鏡を見て嬉しそうに微笑んでくれた。


「ありがとうございます! 英雄様のおかげで、こんなにきれいに!」


「喜んでもらえてよかったです」


 ……ああ。


 やっぱり、この瞬間は好きだなぁ。


 英雄だろうと何だろうと、お客さんが喜んでくれればそれでいい。


 ……ただ。


 次のお客さんも。


「英雄様、よろしくお願いいたします!」


 その次のお客さんも。


「お会いできる日を、ずっと楽しみにしておりました!」


 ……。


 …………。


 あの。


 皆さん。


 私は、普通の美容サロンの施術者ですよ?


 ……うん。


 そんな顔で拝まれたら、ちょっと困ります。


 それでも、施術が始まれば仕事はいつもどおりだった。


 お客さんの希望を聞いて。


 魔法を使って。


 鏡を見てもらう。


 そして、笑顔で帰っていただく。


 ……ああ。


 うん。


 そこは、何も変わらないね。


 午前中の予約分を終える頃には、私も少しだけ慣れてきた気がした。


 ……英雄様。


 ……うん。


 もう、聞き流すのが上手くなったかもしれない。


 ……いや。


 こんなことで上達しても、あまり嬉しくないけど。


     ◇


「旦那様」


 サロンの片付けを終えたところで、セバスが声をかけてきた。


「うん? どうしたの、セバス」


「冒険者ギルドより、ご連絡がございました」


「ギルド?」


「はい。シルベスター様が、旦那様にお会いしたいとのことでございます」


 ……。


 …………。


 ……えっ?


 シルベスターさん?


 昨日、会ったばかりだよね?


「何かあったのかな?」


「詳しいご用件までは伺っておりませんが、お時間があればお越しいただきたいとのことです」


「……そっか」


 私は、少し考えた。


 昨日は、久しぶりにギルドへ行って。


 シルベスターさんやリリーナさんと再会して。


 邪神の話をして。


 そのあと、王様に呼ばれて。


 ……。


 …………。


 あっ。


 昨日、世界中に顔を出したんだった。


 ……まさか。


 あれについて、お説教!?


 いやいやいや!


 今回は、私が悪いわけじゃないでしょう!?


 王様たちが勝手に計画して。


 ゴリアテさんが私を抱えて。


 私はただ、世界中の人たちに挨拶しただけ!


 ……うん。


 何も悪くない!


 ……はず。


「分かった。ちょっと顔を出してくるね」


「かしこまりました」


「桜花も一緒に行こうか」


「はい。ご一緒いたします」


 私は、玄関へ向かいながら外を見た。


 雑貨屋の前には、まだ列が続いていた。


 ……おお。


 すごいなぁ。


 朝より少しは短くなった気がするけど、まだまだ人がいる。


「リアリス様」


「うん?」


「皆様、稀代の英雄に一目お会いしたいのでしょうね」


 桜花が、静かに言った。


 ……ああ。


 やっぱり?


「……できれば、お買い物だけ楽しんでほしいんだけどなぁ」


「それだけ、皆様がお慕いしておられるのでございますよ」


「……そうだね」


 ……うん。


 嫌なわけじゃない。


 ただ、出ていったら、どうなるか想像がついてしまう。


 ……怖い。


 ちょっと、怖いぞ。


「……桜花」


「はい」


「今日はギルドへ《転移》で行こうか」


「かしこまりました」


 ……よし。


 これなら、町の人たちに見つからない。


 それに、ギルドの応接室なら以前から何度も行っているからね。


 私は、桜花の手を取った。


「《転移》」


     ◇


「……っと」


 目の前の景色が切り替わった。


 王都の冒険者ギルド。


 その奥にある、見慣れた応接室だ。


 ……うん。


 ちゃんと着いたね。


「うおっ!?」


 突然、驚いた声がした。


 目を向けると、シルベスターさんが椅子から半分立ち上がっていた。


「……リアリス! お前、いきなり現れるんじゃねえ!」


「えっ、あっ。すみません!」


 ……ああ。


 そっか。


 連絡せずに突然現れたら、びっくりするよね。


 ……いや。


 私だったら、誰かが突然現れたらもっと驚くと思う。


「……ったく」


 シルベスターさんが、ゆっくり椅子に座り直した。


「まあ、来たならいい。座れ」


「はい!」


 私は、桜花と並んで腰を下ろした。


 ……さて。


 何の用なんだろう。


 ……うん。


 できれば、説教じゃありませんように。


「リアリス」


「はいっ!」


「……何だ、その妙にいい返事は」


「……いえ、何でもありません」


 ……しまった。


 ちょっと緊張しすぎたかな。


 シルベスターさんが、私の顔をじっと見た。


 そして。


 ……にやり。


 笑った。


 ……あれ?


 何だろう、その笑顔。


「……英雄様」


「……はい?」


「昨日は、ずいぶん立派に抱えられてたな」


 ……。


 …………。


 ……あっ。


 その話!?


「シルベスターさん!?」


「はっはっはっは!」


 シルベスターさんが、大声で笑い始めた。


 ……えええっ!?


 ちょっと!


 昨日、邪神の話で十分笑ったでしょう!?


「いやぁ、あれは見事だった! あんな大男に抱えられて、世界中に挨拶する英雄なんぞ初めて見た!」


「……私だって、初めてですよ!」


「はっはっは! そりゃそうだ!」


 ……ああ。


 もう駄目だ。


 この人、完全に楽しんでる。


 私は、がっくり肩を落とした。


「……あの。今日は、その話をするために呼んだんですか?」


「いや、違う違う。……くくっ」


 ……。


 …………。


 まだ笑ってる。


 全然説得力がないんだけど。


「なに、今日は別に説教じゃねえ。ただの雑談だ」


「……おお!」


 ……よかった!


 思わず胸をなで下ろす。


 すると、シルベスターさんが、また少し笑った。


「……お前、何を心配してたんだ?」


「……いつものお説教かと」


「おい。俺がいつも説教ばかりしてるみたいに言うな」


「……違うんですか?」


「……お前なぁ」


 ……うん。


 やっぱり、いつもの感じだ。


 私は、思わず笑ってしまった。


 桜花も、隣で静かに微笑んでいる。


「ところで、お前はもう町へ出たか?」


「……えっ?」


「いや、ここまで《転移》で来たなら、まだなんだろうな」


「……はい」


 シルベスターさんが、腕を組んで頷いた。


「今、王都はすごいことになってるぞ」


「……すごいこと?」


「町中、お前を英雄様って呼んでる。あっちでも、こっちでもな」


 ……。


 …………。


 ……ああ。


 やっぱりぃ。


「……そんなにですか?」


「そんなにだ」


 シルベスターさんは、あっさり答えた。


 私は、思わず頭を抱えた。


「……私は、目立たずのんびり暮らしたいんですよぉ」


「知ってる」


「それなのに、国王があんなことを……」


「ステラ全域に発表しておったな。見事なもんだったぞ」


「笑い事じゃないですよー!」


「はっはっは! いや、あれは笑うだろ!」


 ……ああ。


 この人に相談した私が、間違いだったかもしれない。


 ……いや。


 今日は呼ばれて来たんだけど。


 シルベスターさんが、笑いを収めて私を見る。


「まあ、陛下にも考えがあってなさったことだろう。諦めろ」


「……ええっ!?」


「諦めろと言った」


「……そんなぁ」


 私は、深いため息をついた。


 すると、シルベスターさんは少しだけ真面目な顔になった。


「リアリス。お前は、自分が何をしたのか分かってるか?」


「……はい?」


「世界中の人間が、あの日、死ぬほど怖い思いをした」


 ……うん。


 それは、分かってる。


 私だって、怖かったんだから。


「町が壊れて、家族と離れ離れになって、死んだ奴だっていた。……それが、戻ってきた」


「……はい」


「昨日まで絶望してた連中が、今は飯を食って笑ってる。お前がやったことは、そういうことだ」


 ……ああ。


 そうだね。


 私は、少しだけ目を伏せた。


 あのときのことを思い出すと、まだ胸が痛む。


 でも。


 今は、みんなが笑っている。


 ……うん。


「感謝されるのが苦手なのは分かる。だが、喜んでる奴らまで遠ざける必要はねえだろ」


「……そうですね」


「こんな騒ぎも、いずれ落ち着くさ。お前は堂々としてりゃいい。それだけのことをしたんだからな」


 ……。


 …………。


 ……そっか。


 私は、窓の外へ目を向けた。


 王都のどこかで、今日も普通に生活している人がいる。


 自分の仕事へ行く人。


 家族の帰りを待っている人。


 学校へ向かう子供たち。


 ……うん。


 私が守りたかったのは、そういう毎日だった。


 そして。


 あの人たちが笑っているなら、今はそれで十分なんじゃないかな。


 ……そうかもしれないね。


「シルベスターさん……」


「ん?」


「……ありがとうございます」


 私が小さく頭を下げると、シルベスターさんは鼻を鳴らした。


「礼なんぞいいから、ちっとは自覚するんだな」


「……はい」


 ……うん。


 そうだね。


 逃げてばかりも、いられないかな。


 すると、桜花が口を開いた。


「シルベスター様のおっしゃるとおりかと存じます」


「……桜花?」


「リアリス様は、堂々としていてもよろしいと思います」


「でもねー、桜花。私はやっぱり……」


「すでに手遅れですので」


 ……。


 …………。


 ……えっ。


 ……すでに?


 ……手遅れ?


 私は、桜花の顔を見た。


 桜花は、いつもどおり上品に微笑んでいる。


 ……うん。


 たぶん、悪気はない。


 ないと思う。


 ……でも。


 それ、ものすごく的確な追い打ちじゃない!?


「……はぁぁぁ」


 思わず、またため息が出た。


 シルベスターさんが、机を叩いて笑った。


「はっはっは! 桜花の言うとおりだ!」


 ……ああ。


 私、今日は味方がいないかもしれない。


     ◇


 その後は、少しだけ近況の話をした。


 ギルドの依頼が以前と変わらず掲示されていること。


 冒険者たちも、少しずつ普段の仕事に戻っていること。


 リリーナさんも忙しく、いつもどおり受付で頑張っていること。


 ……うん。


 こういう話を聞けるのは、嬉しいなぁ。


 私は、ようやく肩の力を抜いた。


「それじゃ、そろそろ帰りますね」


「ああ。またいつでも来い」


「今度は、できれば抱っこの話以外でお願いします」


「……くくっ」


 ……。


 …………。


 あっ。


 駄目だ。


 また笑いそうになってる。


「シルベスターさん!」


「はっはっは! 分かった、分かった!」


 ……本当かなぁ。


 私は、苦笑しながら立ち上がった。


「桜花、帰ろうか」


「はい、リアリス様」


 ……うん。


 今日は、ちょっと気が楽になった気がする。


 よし。


 帰ろう!


 私は、応接室の扉を開けた。


     ◇


「――おおおっ!」


 ……えっ!?


 扉を出た瞬間、ギルドの中から声が上がった。


「英雄様のご帰還だー!」


「リアリス様ー!」


「世界を救った英雄が帰ってきたぞ!」


 ……。


 …………。


 ……えええっ!?


 何これ!?


 私、応接室から出ただけなんだけど!?


 受付の方に目を向けると、冒険者たちがこっちへ手を振っていた。


 依頼の掲示板の前にいた人たちも、笑顔でこちらを見ている。


 リリーナさんまで、何だか楽しそうに微笑んでいた。


 ……ああ。


 みんな、元気そうだね。


 ……じゃなくて。


 これ、どうしたらいいの!?


「おーい、英雄様! 昨日の演説、聞いたぞー!」


「格好よかったじゃねえか!」


「抱っこされてたのはびっくりしたけどな!」


「はっはっはっ!」


 ……。


 …………。


 そこは、言わなくていいから!


 私は、思わず顔を覆いそうになった。


 でも。


 顔を上げてみると、みんな本当に楽しそうだった。


 昨日、シルベスターさんから聞いた話が、頭に浮かぶ。


 あの災厄のとき。


 この人たちも、魔獣と戦っていた。


 怖い思いをして。


 仲間を助けて。


 それでも生きて、今はこうして笑っている。


 ……ああ。


 そうだよね。


 私は、みんなに笑っていてほしかったんだ。


 別に、英雄になりたかったわけじゃない。


 でも。


 みんなが喜んでくれるなら、ちょっとくらい英雄って呼ばれてもいいのかもしれない。


 ……うん。


 それなら。


 私は、背筋を伸ばした。


 それから、少しだけ胸を張って。


 大きく片手を上げた。


「みんな、私は帰ってきたよー!」


 ……。


 …………。


 次の瞬間。


「うおおおおおっ!」


 ギルド中から、大きな歓声が上がった。


 ……おお!


 すごい!


 こんなに喜んでくれるんだ!


「おかえり、リアリス様ー!」


「よく帰ってきてくれた!」


「ありがとな、英雄様!」


 あちこちから声が飛んでくる。


 私は、一人ずつ手を振り返した。


 ……ああ。


 嬉しいなぁ。


 思っていたより、ずっと。


「リアリス様」


 隣で桜花が、そっと話しかけてきた。


「吹っ切れましたか?」


「うん! もう受け入れる! たぶん、その方が楽だ!」


 桜花が、嬉しそうに微笑んだ。


「それは何よりでございます」


 ……うん!


 英雄だって、普通に暮らせばいい。


 今日も明日も、私は私だ。


 シルベスターさんが言っていたこと、ようやく分かった気がする。


 私は、もう一度みんなに手を振った。


「それじゃ、また来るねー!」


「おう! 待ってるぞ!」


 ……ああ。


 いい気分だねぇ。


 よし。


 せっかくだから、帰りは町を歩こうか。


 町の人たちにも、ちゃんと挨拶したいし。


 私は桜花へ顔を向けた。


「桜花、帰りは歩こう!」


「……かしこまりました」


 ……ん?


 今、ほんの少し間があったような。


 ……まあ、いいか。


 私は、ギルドの扉を開いた。


     ◇


 ……さて。


 問題は、そのあとだった。


「英雄様ー!」


 ギルドを出て、まだ少ししか歩いていない。


 なのに、いきなり声をかけられた。


「こんにちはー!」


 私は、笑って手を振った。


 ……うん。


 いいねぇ。


 ちゃんと挨拶できた。


 もう何も怖くない!


 ……そう思ったのは、最初だけだった。


「リアリス様! 昨日の放送、見ましたよ!」


「英雄様! うちの子が、お礼を言いたいって!」


「こっちも一度、お顔を見たくて!」


 ……。


 …………。


 ……おお。


 ちょっと増えたね。


 私は、立ち止まって一人ずつ挨拶した。


「ありがとうございます! 皆さん、お元気そうでよかったです!」


「英雄様、握手していただけますか?」


「はい、どうぞ!」


「わあっ! ありがとうございます!」


 ……うん。


 こういうのも、悪くないなぁ。


 握手くらいなら、何でもないし。


 ……ただし。


 一人と握手すると、その後ろにも人が並ぶことに気づいたのは、少しあとのことだった。


「わ、私も!」


「こちらもお願いします!」


「お父さん、英雄様がいる!」


「ほんとだ!」


 ……。


 …………。


 ……あれ?


 何だか、列ができてない?


 私、ギルドを出たばかりなんだけど!?


 私は、ちらりと桜花を見た。


 桜花は、丁寧に微笑んでいる。


 ……うん。


 落ち着いてるね。


 でも。


 ちょっと助けてほしいなぁ。


「皆さん、ありがとうございます! でも、道を塞いでしまうと危ないので、少しずつお願いしますね!」


 私が声をかけると、人々は素直に道を空けてくれた。


 ……ああ。


 よかった。


 誰かが無理やり押しかけてくるわけじゃない。


 みんな、ただ笑顔で挨拶してくれるだけだ。


 だから。


 ……余計に、断りづらいんだよねぇ。


 私は、また歩き始めた。


「英雄様ー!」


 ……おっ。


 また来た。


「こんにちはー!」


「本当にありがとうございました!」


「いえいえ!」


「リアリス様、今日もお仕事ですか?」


「はい! さっきまでギルドにいました!」


「英雄様、紅茶は飲まれますか?」


「……えっと、毎日飲んでます!」


 ……あれ?


 何で紅茶の話になったんだろう。


 ……まあ、いいか。


 私は、にこにこ笑いながら歩いた。


 ……歩いた。


 ……歩いた、つもりだった。


 ……。


 …………。


 全然進んでない!


 さっきから、同じ通りにいるんだけど!?


 私が一人に挨拶すると、別の人が気づいて声をかける。


 そっちへ答えていると、さらに向こうから誰かが来る。


 ……うん。


 なんというか。


 終わりが見えない。


 ……これ、本当に家まで帰れるのかな?


「リアリス様」


 桜花が、少し心配そうに顔を覗き込んだ。


「お疲れではございませんか?」


「……だ、大丈夫!」


 ……うん。


 まだ、元気だよ。


 少し歩いたくらいで倒れる身体じゃないし。


 これくらい、どうってことない。


 ……精神的には、ちょっときついけど。


「《転移》でお戻りになりますか?」


「……いや」


 私は、周囲を見た。


 道の向こうで、子供が大きく手を振っている。


 その隣では、お母さんらしい女性が微笑んでいた。


 ……ああ。


 あの人たちも、きっと大変だったんだろうね。


 私は、少し笑った。


「もうちょっと、歩こうか」


「……はい」


 桜花も、微笑んだ。


 ……うん。


 今日は、ちゃんとみんなの気持ちを受け取ろう。


 そう決めたばかりだもんね。


 ……よし。


 頑張ろう!


     ◇


 ……そして。


 どれくらい歩いただろう。


 いや、距離にすれば、そんなにないはずなんだけど。


 ……気分的には。


 もう、世界を一周した気がする。


「英雄様! ありがとうございます!」


「……こちらこそ、ありがとうございますぅ」


 ……あれ。


 声が、ちょっと弱くなってきた。


「リアリス様! お元気ですか!」


「……はい、元気ですよぉ」


 ……うん。


 元気。


 元気だよ。


 ……たぶん。


 途中で何度も笑って、手を振って、頭を下げて。


 誰も悪くないのに、なぜかものすごく疲れてしまった。


 ……これ、何だろう。


 邪神と戦ってたときとは、全然違う種類の疲れだ。


 あのときは、攻撃を避けたり、魔法を考えたりすればよかった。


 でも、今は。


 ……全員、笑顔。


 みんな、嬉しそう。


 私も、嬉しい。


 ……だから、逃げられない!


 ……ああ。


 シルベスターさん。


 やっぱり、ちょっとだけ話が違いますよぉ。


 堂々としてればいいって言ってたじゃないですかぁ。


 ……堂々としてても、声をかけられる数は減らないじゃない!


 私は、何とか笑顔を保ちながら歩き続けた。


 そして。


 ようやく、王都の城門が見えてきた。


 ……おお。


 城門!


 ……ああ。


 こんなに嬉しい景色だったっけ?


 私は、思わず歩く速度を上げた。


「おお、リアリス様!」


 門のところにいた、顔なじみの門兵さんが手を振ってくれた。


 ……ああ。


 あの門兵さんだ!


 転生して最初にこの世界で出会った人。


 昨日も「英雄様」と呼んでくれた人だ。


 ……うん。


 いつもどおり、挨拶しよう。


「……こんにちはぁ」


 ……あれ。


 なんだか、力のない声になっちゃった。


 門兵さんが、私の顔を見て目を丸くした。


「……大丈夫ですか? リアリス様。なんかもう、色々ボロボロみたいですけど」


「……ありがとうございます」


 私は、思わず深く頷いた。


「……なんかもう、色々とボロボロです」


「……ははっ。そんなに大変だったんですか?」


「はい……。邪神より手ごわいですね」


 ……。


 …………。


 門兵さんが、吹き出した。


「はっはっは! 英雄様にも苦手なものがあるんですね!」


「……ありますよぉ。たくさんあります」


 ……いや、ほんと。


 私は、普通に町を歩きたいだけなんだよね。


 それが、こんなに大変だなんて。


「皆さん、感謝してるんですよ。リアリス様のおかげで、こうして仕事にも戻れましたから」


 門兵さんが、優しく笑った。


 ……ああ。


 そっか。


 その言葉を聞くと、ちょっと嬉しいな。


「……うん。皆さんがお元気なら、よかったです」


「はい! どうぞ、気をつけてお帰りください!」


「ありがとうございます……」


 私は、手を振りながら城門を抜けた。


 ……ああ。


 やっと、帰れる。


 ……うん。


 今日のところは、もう誰にも見つかりませんように。


     ◇


 王国邸へ戻ると、雑貨屋はまだ賑わっていた。


 朝に見た長い行列は、さすがに少し落ち着いたらしい。


 でも、店内にはお客さんがいて、メイドたちが忙しそうに応対している。


 ……ああ。


 頑張ってるねぇ。


 手伝いたい気持ちはある。


 ……あるんだけど。


 私が顔を出すと、たぶん余計に大変になるよね。


 私は、そっと雑貨屋に背を向けた。


 ……うん。


 今日は、お店のことは任せよう。


 玄関へ向かうと、桜花が隣で小さく微笑んだ。


「リアリス様。皆様、本当にお喜びでございましたね」


「……うん」


 私は、何とか笑った。


「……よかったよねぇ」


「はい」


「……ただ、もう少し静かに喜んでもらえると、私も助かるんだけど」


 桜花は、くすっと笑った。


「それは、少々難しいかもしれません」


「……だよねぇ」


 ……ああ。


 英雄効果。


 想像以上だったなぁ。


 私は、玄関の扉を開いた。


「ただいまー……」


 ……うん。


 声に元気がない。


 自分でも分かる。


 すると、廊下の向こうから小さな足音がした。


「……おかえり、リアリス様」


「……ああ、楓。ただいまー」


 楓が、私の前で立ち止まった。


 そして、じっと顔を見上げる。


 ……。


 …………。


「……ボロボロ」


 ……あっ。


 楓にも言われた。


 でも、これは仕方ない。


 だって、本当にそうなんだもんね。


「……うん。今日は、ちょっと大変だったよ」


 私は苦笑しながら、楓の頭を優しく撫でた。


 楓は、静かに目を細めた。


 ……ああ。


 落ち着くなぁ。


 こうして家に帰って、いつもの顔を見るだけで、少し安心する。


「……ありがとね、楓」


 楓が、こくりと頷いた。


 ……うん。


 さすがだね。


 余計なことを言わないところも、楓らしい。


 ……いや。


 今の一言、ものすごく的確だったけど。


     ◇


 食堂へ向かうと、ちょうど昼食の準備が進んでいた。


 ……ああ。


 いい匂い。


 今日は、朝からいろいろあったからね。


 もう、お腹が空いたよ。


「ただいまー、巴さん」


「あら、おかえりなさい、リアリスちゃん」


 巴さんが、いつもの笑顔で出迎えてくれた。


 ……ああ。


 我が家だ。


 やっと、帰ってきた。


 私は、ほっと息を吐いた。


 すると、巴さんが私の顔をじっと見た。


「……あら?」


「……うん?」


「なんかボロボロね。手は洗ってきた?」


 ……。


 …………。


 ……えっ。


 巴さんまで!?


 私は、思わず笑ってしまった。


「ただいま、巴さん。手はこれから洗ってくるよ。でも、少し休ませて……」


「ふふっ。じゃあ、手を洗ったら席についてね。すぐにお昼ご飯ができるから」


「……はーい」


 ……ああ。


 こういうやり取りが、いいんだよね。


 英雄とか、世界の救世主とか。


 そんなこと、何も関係ない。


 家に帰ったら、手を洗ってご飯を食べる。


 ……うん。


 これだよ、これ!


 私は、手を洗ってから食堂へ戻った。


 桜花も、隣の席へ座る。


 少しして、巴さんが料理を運んできてくれた。


 ……おお。


 おいしそう!


「いただきまーす!」


 ……ああ。


 落ち着くなぁ。


 ……本当に。


     ◇


 昼食が始まると、カトレアが私の顔を覗き込んできた。


「お父さん、大丈夫?」


「……うん?」


「なんか、朝よりボロボロになってる気がする」


 ……。


 …………。


 ……ああ。


 今日だけで、何回言われたんだろう。


 門兵さん。


 楓。


 巴さん。


 そして、カトレア。


 ……うん。


 みんな、観察力が高いなぁ。


「大丈夫だよ。ちょっと町の人たちに、たくさん声をかけてもらってね」


「……そんなに?」


「うん。ギルドから家まで帰るだけで、すごく時間がかかっちゃった」


 カトレアが、少しだけ目を丸くした。


「……そうなんだ」


「うん。英雄って大変だねぇ……」


 私が苦笑すると、カトレアも小さく笑った。


「でも、みんなお父さんにお礼を言いたかったんだよね」


「……そうだね」


 ……うん。


 それは、ちゃんと分かってる。


 あんなに笑顔で迎えてもらったんだ。


 嫌だなんて思ってない。


 ……ただ。


 少しだけ、一人で歩ける時間が欲しいなぁ。


 ……贅沢かな。


 私は、お茶をひと口飲んだ。


 すると、カトレアが何かを思い出したように顔を上げた。


「あ、そうだ。お父さん」


「うん?」


「今日、ニーナちゃんのお家に遊びに行ってもいい?」


 ……おっ。


 ニーナちゃんかぁ。


 カトレアと仲良くしてくれている、あの子だね。


 お花が好きで、学校でもよく一緒にいるらしい。


 ……うん。


 いいことだ。


 友達と遊べるのは、何よりだもんね。


「もちろん、いいよ!」


「本当?」


「うん。ただね、カトレア」


 私は、少し考えた。


 今日、町を歩いて分かった。


 私が英雄と呼ばれるようになったことは、思っていた以上に大きなことらしい。


 カトレアは、私の娘だ。


 だから、もしかすると、カトレアにまで声をかける人がいるかもしれない。


 ……うん。


 今すぐ危険だと決めつける必要はない。


 でも、今日くらいは、少し気をつけたい。


「私のことで、町ではいろんな人が集まってるみたいなんだ。だから、今日はセバスと一緒に行ってくれる?」


 カトレアは、すぐに頷いた。


「うん、分かった」


「ありがとう。ニーナちゃんにもよろしく伝えてね」


「はーい!」


 ……うん。


 素直で助かるなぁ。


 私は、近くにいたセバスへ声をかけた。


「セバス。今日、カトレアがニーナちゃんのお家へ遊びに行くんだ。同行をお願いしてもいい?」


「かしこまりました、旦那様」


「今日は特に人が多いみたいだから、気をつけてあげてね」


「承知いたしました。お嬢様は、私がお送りいたします」


「よろしくね!」


 ……ああ。


 セバスなら、安心だね。


 カトレアは、もう友達に会うのが楽しみらしく、食事をしながら嬉しそうに予定を話し始めた。


 ……うん。


 こういう、何でもない会話が一番いいなぁ。


 私は、桜花と顔を見合わせて微笑んだ。


 外では、今日も世界の英雄と呼ばれているのかもしれない。


 でも、家に帰ってくれば。


 巴さんのおいしいご飯があって。


 桜花が隣にいて。


 カトレアが楽しそうに友達の話をしている。


 ……ああ。


 やっぱり、私はこれが好きだ。


 私は、お茶をひと口飲んだ。


 ……うん。


 明日は、もう少し落ち着いてるといいなぁ。


 ……。


 …………。


 いや。


 どうせなら、今日の午後から落ち着いてくれてもいいんだけどね。

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