第3話:桜満開、そして温かいご飯
ここからは、私のとっておきを使おう。
そう決めて刀を鞘に戻すと、目の前のヴァルちゃんが、さらに嬉しそうな顔になった。
「ねえねえ、リアリスちゃん! 次は何するの?」
「……見てからのお楽しみ、かな」
「ええーっ! 教えてよぉ!」
「先に教えたら、面白くないでしょう?」
「……それもそっかぁ!」
納得するの、早いな。
ヴァルちゃんは、持っていた刀をくるくると回した。
小さな手で、まるで木の枝でも扱うように。
……やっぱり、おかしい。
今の私は《全能力強化》で全能力が百倍になっている。
邪神イオデグランゾーラと戦ったときだって、これだけの力があれば対応できた。
それなのに、目の前の女の子には剣を振るだけで押し負ける。
速さも、力も、剣技の扱いも。
どう見積もっても、向こうが上だ。
しかも、【一閃】と【一閃 乱】を、たった一度見ただけで覚えてしまった。
……もうね。
反則という言葉では足りない気がする。
私が言うのも何だけど。
……いや、私が言っちゃ駄目なのかな。
「リアリスちゃん?」
「……うん?」
「考え事、終わった?」
「ああ、ごめんね。もう大丈夫だよ」
「じゃあ、早く早く!」
ヴァルちゃんが、期待に満ちた目でこちらを見つめる。
……うん。
負けたら世界が滅ぶわけじゃない。
今度は、ただの力試し。
だったら、私も少しくらい楽しんでいいよね。
私は鞘に手を添えたまま、ゆっくり息を吐いた。
使うのは、あの邪神との戦いで初めて人前に見せた技。
……ただし。
その前に、準備が必要だ。
「《ドッペルゲンガー》」
私の左右で、空気が揺らいだ。
一人。
二人。
さらに、三人。
赤い髪をした人影が、次々と現れる。
同じ顔。
同じ服。
腰には、同じ刀。
五人、六人。
そして、十人。
……よし。
私を含めて、十一人。
邪神戦では、この人数であの大きな身体を包囲したんだ。
今度は、相手がずいぶん小さいけど。
ヴァルちゃんは、目を丸くした。
「……わぁぁっ!」
驚いたのかな。
……まあ、いきなり同じ人間が十人も増えたら、普通は驚くよね。
ヴァルちゃんは、右を見て、左を見て。
それから、私を指さした。
「リアリスちゃんが、いっぱぁい!」
「うん。十人増やしたんだ」
「すごーい! 全部、リアリスちゃんなの?」
「そうだよ。見た目だけじゃなくて、能力も同じ」
「へええ!」
小さな戦神が、目を輝かせて近づいてきた。
……あれ。
戦うんじゃなかったっけ。
ヴァルちゃんは、分身の一人を見上げた。
「ねえねえ! 本当にリアリスちゃん?」
「うん。本当だよ」
分身が答える。
「こっちも?」
「うん」
「じゃあ、そっちは?」
「もちろん」
……何というか。
分身を作った途端に、子供の質問攻めに遭っている。
こんな使い方、想定してなかったなぁ。
ヴァルちゃんは、私たちをぐるっと見回した。
そして。
「……えへへ!」
……。
…………。
嫌な予感。
さっきも、そんな笑い方をしていた気がする。
「リアリスちゃん!」
「……何かな?」
「わたしも、やっていい?」
……えっ。
まさか。
「……同じことを?」
「うんっ!」
「いや、でも、これは――」
「できそうだもん!」
……。
…………。
できそう。
そう言ったね。
たしか【一閃】を見たときも、そんな感じだった。
まさか、本当に。
「えいっ!」
ヴァルちゃんが、小さく声を上げた。
その両脇で、空気がゆらりと揺れる。
……あっ。
一人。
二人。
三人。
ピンクのドレスを着た女の子が、次々と現れ始めた。
茶色いポニーテールまで、まったく同じ。
小さな靴も、手にした刀も。
……ええと。
これは。
五人。
六人。
七人。
八人。
九人。
そして。
「できたぁ!」
十人。
……。
…………。
ははは。
もう、笑うしかない。
目の前には、十一人のヴァルちゃんが並んでいた。
全員、にこにこ笑っている。
私の方も、十一人。
合わせて二十二人。
……何だ、これ。
神様同士の戦いというより、何かの集団競技みたいになってきた。
「すごいでしょぉ!」
「……うん。すごすぎるね」
私は、心の底から答えた。
私の《ドッペルゲンガー》は、ずっと前に作っておいた魔法だ。
しかも、ただ姿を複製するだけじゃない。
分身に、本体と同じ能力を持たせる。
そんな普通じゃない魔法を。
……見ただけで。
ヴァルちゃんが、あっさり真似してしまった。
……神様って、そういうものなの?
いや。
オリミスさんは、絶対に違う気がする。
あの人、分身を作る前に説明書を探し始めそうだもん。
「リアリスちゃん、リアリスちゃん!」
「……うん?」
「どっちが本物か、分かるぅ?」
十一人のヴァルちゃんが、一斉に笑った。
……いや。
ちょっと待って。
同じ顔で、同じ声で、同じことを言わないでほしい。
「……少なくとも、最初からいたヴァルちゃんは分かるよ」
「ええーっ! ずるぅい!」
……何がずるいのかは、よく分からない。
でも、楽しそうだからいいか。
……うん。
さて。
問題は、ここからだ。
◇
私は、十一人のヴァルちゃんを見渡した。
普通に考えたら、分身が増えたところで、こちらの状況はあまり変わらない。
むしろ、悪くなったかもしれない。
相手は、もともと私より強い。
私が十人増えたなら、向こうも十人増えてしまったんだから。
……つまり。
力の差は、そのまま。
人数まで同じ。
……あれ?
何のために分身を作ったんだっけ。
いやいや。
ちゃんと考えがある。
私が使おうとしている技は、一人では本来の力を発揮できない。
……正確には、一人でも使える。
でも、仲間と同時に放つことで、初めて完成する連携技なんだ。
私は分身たちへ視線を送った。
全員が、小さく頷く。
……よし。
準備はできている。
「ヴァルちゃん」
「はぁい!」
「ここから使うのは、少しだけ特別な剣技なんだ」
「特別!?」
十一人のヴァルちゃんが、同時に目を輝かせた。
……うわっ。
反応まで揃ってる。
「邪神と戦ったときにも使った、あの技だよ」
「……あっ!」
ヴァルちゃんの顔が、ぱっと明るくなる。
「あれだぁ! お花がいっぱぁい出てたやつ!」
「……うん。そう、それ」
……ああ。
やっぱり、見ていたんだね。
しかも、ずいぶん可愛らしい感想だなぁ。
あのときは、私としては必死だったんだけど。
でも。
今回は違う。
世界を壊そうとする敵を倒すわけじゃない。
ヴァルちゃんは、強い相手と楽しく戦いたいだけだ。
だから、技をそのまま相手に当てて終わらせるつもりもない。
相手の剣を狙い、危険なら止める。
……まあ。
ヴァルちゃんが大人しく付き合ってくれるかどうかは、分からないけど。
「一つ、お願いしてもいい?」
「なぁに?」
「今から同じ技を同時に使うから、ヴァルちゃんも、ちゃんと受けてね」
「いいよぉ!」
……あっさり承諾された。
いや、待って。
「……同じ技?」
「うん!」
ヴァルちゃんが胸を張る。
「わたし、あれもやってみたかったの!」
……そうですよね。
分身を作れる時点で、何となく分かっていました。
「……もう、やり方が分かるの?」
「うん! リアリスちゃんがイオデグランと戦ってたの、見てたから!」
……。
…………。
ああ、そうか。
この子、邪神戦を最初から最後まで見ていたんだった。
それなら、【一閃 乱れ桜】も知っている。
……ということは。
私は、ため息をついた。
「……ヴァルちゃん。もしかして、最初からこの技を使うつもりだった?」
「えへへ! ちょっとだけ!」
……。
なるほど。
私が切り札を出すまで、待っていたんだ。
百倍強化した私より強くて。
こちらの剣技を何でも真似できて。
そのうえ、一度見た連携技まで再現しようとしている。
……やっぱり、イカれてる。
強すぎるよ、この子。
私は苦笑しながら刀に手を添えた。
「……じゃあ、やってみようか」
「うんっ!」
十一人のヴァルちゃんが、声を揃えた。
ピンクのドレスが、風に揺れる。
その小さな身体から、さっきまでとは違う空気が漂い始めた。
……来る。
私は、分身たちと距離を取った。
十一人が、草原のあちこちへ散る。
正面。
左右。
背後。
そして、上空。
互いに動きを邪魔しない位置を選ぶ。
私たちが展開すると、ヴァルちゃんたちも同じように広がった。
……ああ。
それまで真似するんだ。
私は、少しだけ笑ってしまった。
……うん。
これは、もう。
真剣な勝負でありながら、どこか遊びみたいだ。
ただし。
ぶつかる力だけは、笑えないけどね。
「リアリスちゃん!」
ヴァルちゃんが、遠くから手を振った。
「せーので、やろっ!」
「……分かった」
「わたし、リアリスちゃんと同じくらいの力でやるね!」
……えっ。
私は、思わず顔を上げた。
「同じくらい?」
「うん! だって、同じ技で遊ぶんだもん! そっちの方が楽しいでしょ?」
……ああ。
そういうことか。
本気の勝負ではあるけれど、これは力比べじゃない。
あくまで、同じ技をぶつけ合ってみたいんだ。
……ありがたい。
いや、ちょっと悔しいけど。
私よりずっと強い相手に、手加減してもらっているわけだからね。
でも。
そのおかげで、ようやく勝負らしい勝負になるかもしれない。
「……ありがとう。じゃあ、遠慮なく行くよ」
「うん! わたしも!」
私は、呼吸を整えた。
分身たちも、同時に刀を構える。
ヴァルちゃんたちが、同じ姿勢を取った。
……十一人対十一人。
二十二人。
同じ技。
同じ瞬間。
私は鯉口を切った。
「――【一閃 乱れ桜】!」
「【一閃 乱れ桜】ぁ!」
二十二人の声が、重なった。
次の瞬間。
銀色の光が、草原を埋め尽くした。
◇
最初の一撃が、正面からぶつかった。
キィィンッ!!
耳を突くような金属音が響く。
二つ目の刃が、右から。
それを迎えるように、左からもう一本。
三つ目。
四つ目。
……速い。
いや、速いなんてものじゃない。
視界いっぱいに、刀の軌跡が広がっていく。
私は自分の分身たちの動きを感じながら、次の一太刀を振った。
ガギィンッ!
ヴァルちゃんの分身が、その斬撃を受け止める。
反対側では、私の分身がヴァルちゃん本人の刀を弾いた。
……同じだ。
こちらが一撃を放つと、向こうも一撃。
こちらが角度を変えると、向こうも変える。
同じ技が、鏡のように重なっていく。
十回。
二十回。
三十回。
……これで、まだ始まったばかり。
一人が百回。
十一人なら、千百回。
それが、向こうにも十一人。
合計すれば、二千二百回もの斬撃が、ほんのわずかな間に放たれている。
……とんでもないな。
自分で考えた技だけど。
こんな使い方をする日が来るとは思わなかった。
ガァァンッ!!
刀同士がぶつかるたび、衝撃が大地へ走る。
草が宙へ舞う。
遠くの山へ、土煙が広がった。
それでも、攻撃は止まらない。
五十回。
六十回。
七十回。
まばたきする余裕なんて、ない。
視界には、ただ無数の銀色の線だけが見えていた。
……ああ。
なるほど。
これが、外から見た【一閃 乱れ桜】なんだ。
邪神と戦ったときは、相手に技を叩き込むことしか考えていなかった。
でも、今は同じ技を向こうからも受けている。
だから分かる。
避けようがない。
横へ逃げても、そこへ刃が届く。
後ろへ下がっても、別の一撃が来る。
上へ跳んでも、刀が追ってくる。
……これ。
神様相手でも、普通は防げないんじゃないかな。
……まあ。
目の前のヴァルちゃんは、普通じゃない神様なんだけど。
八十回。
九十回。
そして。
最後の一撃。
「――っ!!」
「やぁぁっ!!」
私とヴァルちゃんの刀が、真正面から重なった。
ドォォォォンッ!!!
耳を塞ぎたくなるような衝撃音。
空気が、白く弾けた。
無数の斬撃の残光が、私たちの周囲へ広がっていく。
銀色の線が、淡い桜色を帯びた。
まるで、春の庭で桜吹雪を見上げているみたいだ。
……いや。
実際には、とんでもない爆風なんだけどね。
私は足を踏ん張り、刀を押し返した。
ヴァルちゃんも、同じように踏ん張っている。
そして。
互いの刃が、同時に弾かれた。
キィィィンッ!!
高い音が響いた。
私は、後方へ跳んだ。
ヴァルちゃんも、反対側へ跳ぶ。
分身たちが、同時に距離を取った。
……。
…………。
静かだ。
さっきまで空を埋め尽くしていた銀色の光は、もうない。
残っているのは、ゆっくりと落ちてくる草の葉と、薄い土煙。
……終わった。
私は、刀を下ろした。
腕に、わずかな痺れが残っている。
でも。
怪我はない。
向こうを見る。
ヴァルちゃんも、刀を下ろしていた。
小さな身体も、ピンクのドレスも無事だ。
……よかった。
こちらも、向こうも。
ちゃんと立っている。
どちらの攻撃も、相手に決定打を与えられなかった。
……つまり。
「……引き分け、かな?」
私が呟くと。
ヴァルちゃんが、満面の笑顔になった。
「うんっ! 引き分けぇ!」
……ああ。
よかった。
そう言ってもらえて、少し安心した。
……本当は。
さっきのヴァルちゃんは、こちらの力に合わせてくれていた。
同じ技を、同じくらいの力でぶつけたかったから。
もし、最初から最後までヴァルちゃんが全力で押してきたら。
……うん。
この結果には、ならなかっただろう。
それでも。
今の一回は、確かに引き分けだった。
私たちは、同じ技を放って、同時に止まった。
……それで、十分だ。
◇
「リアリスちゃぁん!」
ヴァルちゃんが、こちらへ駆け寄ってきた。
……あっ。
十一人で。
……待って。
そんな大人数で走ってこないで。
「すっごく楽しかったぁ!」
十一人の声が、一斉に重なる。
「……そ、そう。それはよかったね」
「もう一回やろっ!」
……。
…………。
「……えっ?」
「もう一回! 今度は違う技でもいいよぉ!」
……いや。
ちょっと待って。
今、二千二百回の斬撃がぶつかったところだよ?
しかも、周囲の地面があんなことになっている。
私は、遠くへ目を向けた。
草原には、いくつもの深い溝が走っている。
さっきまで穏やかだった山も、ところどころ土煙を上げていた。
……うん。
すごいことになってるな。
亜空間でよかった。
心の底から、そう思う。
「……ヴァルちゃん。今日は、このくらいにしようか」
「ええーっ! まだ遊べるよぉ!」
「……私の方が、そろそろ帰りたいかな」
ヴァルちゃんが、きょとんとした。
「疲れちゃった?」
「……まあ、少しね」
体力そのものが尽きたわけじゃない。
《全能力強化》も、まだ使える。
でも、問題はそこじゃない。
このまま続けたら、本当にいつまで経っても終わらなさそうだ。
何しろ相手は戦神。
戦えば戦うほど、楽しそうになるんだから。
「それに、屋敷で桜花たちが待ってるからね」
「……桜花ちゃん?」
「うん。ヴァルちゃんのウサギも預かってくれてるでしょう?」
ヴァルちゃんの目が、大きくなった。
「……あっ!」
……忘れてたの!?
「ウサギさん!」
「……うん。ウサギさん」
「迎えに行かなきゃ!」
……よかった。
どうやら、帰る理由ができたらしい。
「じゃあ、今日は引き分けってことで、終わりにしよう?」
「うんっ!」
ヴァルちゃんが、元気に頷いた。
それから、私の顔を見上げる。
「リアリスちゃん!」
「……何?」
「また戦ってくれる?」
……。
…………。
今度は、いつになるのかな。
さすがに、毎日は困る。
私は、少し考えてから答えた。
「……たまになら、いいよ」
「ほんと!?」
「うん。でも、毎日は駄目だからね」
「はぁい!」
……うん。
返事はいい。
……返事は、ね。
私は、思わず苦笑した。
「そうだ。ヴァルちゃん、一つだけ聞いてもいい?」
「なぁに?」
「……私、ヴァルちゃんに勝てる気がしないんだけど」
「えへへ!」
ヴァルちゃんが、嬉しそうに胸を張った。
「わたし、戦うのだけは得意なんだぁ!」
……でしょうね。
それはもう、十分すぎるほど分かった。
「……邪神より、ずっと強いよね」
「イオデグラン?」
「うん」
ヴァルちゃんが、不思議そうに首を傾げた。
「あの子、そんなに強くなかったよぉ?」
……。
…………。
あの子。
あの邪神を、あの子。
……いや。
神様同士だから、そういう呼び方もあるんだろうけど。
私としては、聞き捨てならない。
「……あの子、世界を滅ぼしかけたんだけどね」
「そうだったねぇ!」
……軽い。
軽すぎる。
私は、思わず空を見上げた。
神界には、こんな人たちがいるのか。
……怖いなぁ。
絶対に、怒らせないようにしよう。
……あれ?
でも私、この前オリミスさんには結構ひどいこと言ったな。
……まあ、あの人は別か。
「リアリスちゃん?」
「……うん?」
「帰ろっ!」
ヴァルちゃんが、私の手を握った。
……ああ。
そうだった。
そろそろ帰らないと。
私は《ドッペルゲンガー》で作った分身たちを、順に消した。
一人。
二人。
そして、十人。
私だけが残る。
ヴァルちゃんも同じように、十人の自分を消していった。
……最後まで、真似するんだね。
私は、そっと笑った。
「じゃあ、帰ろうか」
「うんっ!」
私たちは、亜空間の入口へ向かって歩き始めた。
帰り道は、来たときよりもずっと静かだった。
私の隣では、ヴァルちゃんが上機嫌に鼻歌を歌っている。
……うん。
世界は滅びなかった。
私も、無事。
何より、楽しかったと言ってもらえた。
……上出来、かな。
◇
木製の扉を開けると、見慣れた庭が広がっていた。
夕方の柔らかな光が、花壇を照らしている。
……ああ。
帰ってきた。
私は、思わず息を吐いた。
「……リアリス様」
扉の脇で、楓が顔を上げた。
「ただいま、楓。入口を見ていてくれてありがとう」
「……お帰り」
短い返事。
いつもどおりの楓だ。
それだけで、何だか安心する。
楓は私を一度見て、それから隣のヴァルちゃんを見た。
「……無事?」
「うん。お互い、怪我はないよ」
「……よかった」
……ああ。
楓も、心配してくれてたんだね。
私は、少しだけ胸が温かくなった。
「……リアリス様!」
屋敷の方から、桜花が駆け寄ってきた。
両腕には、あの大きなウサギのぬいぐるみ。
……まだ持っててくれたんだ。
「桜花。ただいま」
「お帰りなさいませ。お怪我はございませんか?」
「うん。大丈夫」
桜花は、私の顔を見て。
肩を見て。
そこで、動きを止めた。
「……リアリス様。そのお召し物は」
……あっ。
忘れてた。
ヴァルちゃんの【一閃 乱】を受けたとき、服が少し裂けたんだった。
「……ああ、これ? ちょっとだけ斬られちゃって」
桜花の表情が、固まった。
……まずい。
言い方を間違えた。
「でも、怪我はもう治してあるから。ほら、何ともないでしょう?」
私は、肩を動かして見せた。
桜花は、じっと私を見つめたあと、ゆっくり息を吐いた。
「……そう、でございますか」
「心配させてごめんね」
「……ご無事で、何よりです」
桜花が、小さく微笑んだ。
……ああ。
やっぱり、心配かけちゃったな。
こういうとき、私はまだまだ駄目だ。
もっと、安心してもらえるようにしないと。
「桜花ちゃぁん!」
ヴァルちゃんが、両手を広げた。
「ウサギさん、ありがとぉ!」
「はい。大切にお預かりしておりました」
桜花が、ぬいぐるみを差し出す。
ヴァルちゃんは、それをぎゅっと抱き締めた。
「えへへ! ただいまぁ!」
……うん。
戦神。
邪神よりもはるかに強い、戦いの女神。
その子が今、ウサギのぬいぐるみに頬ずりしている。
……頭が追いつかないなぁ。
楓も、ぬいぐるみを抱いたヴァルちゃんを見つめていた。
そして。
「……可愛い」
……おっ。
珍しい。
楓が、感想を口にした。
ヴァルちゃんは、満面の笑顔になる。
「ありがとぉ!」
……ああ。
何だか、急にいつもの庭へ戻ってきた気がする。
私は、亜空間の扉を閉じた。
使用を終えた入口は、私の意思で片づける。
これで、いつもの庭だ。
……さて。
お腹が空いたな。
◇
「リアリスちゃん!」
屋敷に入ると、巴さんが迎えてくれた。
「お帰りなさい」
「ただいま、巴さん」
巴さんは、まず私の顔を見て。
次に、ヴァルちゃんへ目を向けた。
「二人とも、無事だったのね」
「うん。大丈夫だよ」
「ヴァルちゃんも、怪我はなかった?」
「ないよぉ! すっごく楽しかった!」
ヴァルちゃんが、ぬいぐるみを抱えたまま笑う。
……うん。
本当に楽しそうだ。
その反対に、私は結構ひやひやしたんだけどね。
巴さんは、二人を見比べて微笑んだ。
「それなら、よかったわ」
……ああ。
この笑顔。
やっぱり、落ち着くなぁ。
私は、肩の服の裂け目をそっと隠した。
……いや。
桜花にはもう見られちゃったけど。
巴さんにまで心配をかけるのは、できれば避けたい。
しかし。
巴さんは、あっさり気づいた。
「……リアリスちゃん」
「……はい?」
「服、どうしたの?」
……。
…………。
さすが巴さん。
見逃してくれない。
「……ちょっと、切れちゃって」
「……怪我は?」
「もう治したよ。大丈夫」
「……そう」
巴さんが、少しだけ目を細めた。
私は、つい背筋を伸ばす。
……怖い。
邪神よりも強い戦神と戦った直後なのに。
今の巴さんの方が、別の意味で怖い。
「……次からは、帰ってきたら先に教えてね」
「……はい」
……うん。
ちゃんと言おう。
隠しても、どうせ見つかるんだから。
そのとき。
ヴァルちゃんが、巴さんの服の裾をちょんちょんと引っ張った。
「ねえねえ、ともえ~」
「なぁに、ヴァルちゃん?」
「おなかすいたぁ!」
……あっ。
そっち!?
私は、思わず笑ってしまった。
巴さんも、きょとんとしたあと、柔らかく笑う。
「ふふっ。ちょうど夕食の準備をしていたところよ」
「ほんと!?」
「ええ。もうすぐ食べられるわ」
「やったぁ!」
ヴァルちゃんが、ぴょんっと跳ねた。
ウサギのぬいぐるみも、一緒に跳ねる。
……うん。
ついさっきまで、二千二百回の斬撃を打ち合っていたとは思えない。
……それにしても。
神様って、お腹が空くんだね。
「ヴァルちゃんも、夕食を食べていく?」
巴さんが尋ねる。
「いいの!?」
「もちろんよ。せっかく来てくれたんだもの」
「食べるぅ!」
……即答。
もう、迷いがない。
私は、少しだけ肩の力を抜いた。
……まあ、いいか。
戦神が相手でも、食卓ではただのお客さん。
お腹が空いているなら、みんなで食べればいい。
それが、この家のやり方だ。
◇
食堂へ向かうと、すでに夕食の用意が進んでいた。
いい香りが、廊下まで漂っている。
……ああ。
この匂い。
お腹が空いているときには、たまらないなぁ。
今日は、焼きたてのパンと、大きな肉料理。
それから、野菜がたっぷり入った温かいスープ。
……うん。
いいね。
豪華なご馳走も好きだけど、私はこういう食事が大好きだ。
見慣れた食卓。
いつもの椅子。
そして、家族の顔。
……帰ってきたんだなぁ。
私は、自分の席へ向かった。
ヴァルちゃんは、巴さんとキャッツの間に用意された来客用の席へ案内された。
ただ。
椅子に座ると、テーブルの高さが少し合わなかった。
……そうだよね。
身長、百センチくらいだもんね。
「ちょっと待ってね」
巴さんが、クッションを用意してくれた。
ヴァルちゃんが座り直す。
「わぁ! ちょうどいい!」
「よかったわ」
……こうしていると、本当に小さな女の子だな。
私は、向かいの席にいるヴァルちゃんを見た。
ウサギのぬいぐるみは、椅子の横に大切に置かれている。
ヴァルちゃんは、料理を見て目を輝かせていた。
……ああ。
何となく、懐かしい気がする。
初めてカトレアを迎えた頃も、食卓では似たような光景があったな。
「お父さん、お帰りなさい」
声の方を見ると、カトレアが微笑んでいた。
「ただいま、カトレア」
「怪我はしなかった?」
「うん。もう大丈夫だよ」
……あっ。
今の、ちょっと言い方が怪しかったかな。
カトレアは、私の肩を見た。
「……服、破れてるよ?」
……。
…………。
また、見つかった。
私は、素直に頭を下げる。
「ごめんね。少しだけ怪我したけど、もう治したんだ」
「……そっか。ならよかった」
カトレアが、ほっとしたように笑う。
「でも、無茶はしないでね」
「うん。気をつけるよ」
……ああ。
家族って、すごいな。
私がどれだけ強くなっても、こうして心配してくれる。
いや。
強いからこそ、心配をかけないようにしないといけないんだよね。
「ヴァルちゃんも、お疲れさま」
カトレアが、向かいの女の子へ声をかけた。
「楽しかった?」
「うんっ! リアリスちゃん、すっごく強かったぁ!」
「そうなんだ。お父さんも頑張ったんだね」
……おお。
何だか、娘に褒められている。
ちょっと嬉しい。
……いや。
その隣で、邪神より強い戦神がパンを待っているんだけどね。
「カトレアちゃん!」
「なぁに?」
「ともえのご飯、いっつもこんなにおいしいの?」
「うん。巴さんの料理は、どれもおいしいよ」
「いいなぁ!」
……ああ。
そういえば、この子。
神界では、何を食べてるんだろう。
ちょっと気になる。
でも、今は料理が冷めないうちに食べようか。
「それじゃ、いただこう」
私は手を合わせた。
「いただきます」
「いただきまぁす!」
ヴァルちゃんの元気な声が、食堂に響いた。
……うん。
この空気。
やっぱり、落ち着くな。
◇
「おいしぃぃ!」
ヴァルちゃんが、スープを一口飲んだ途端に声を上げた。
「ともえ! これ、すっごくおいしい!」
「あら、ありがとう」
巴さんが、嬉しそうに微笑む。
「おかわりもあるから、遠慮しないでね」
「ほんとぉ!?」
「ええ」
「やったぁ!」
……うん。
予想はしてたけど、すごい食べっぷりだ。
小さな身体で、よく入るなぁ。
……いや。
神様だから、普通の身体の仕組みとは違うのかな。
私は、自分のスープを口へ運んだ。
……ああ。
おいしい。
野菜の甘みと、温かい出汁の味。
戦いのあとに食べると、いつも以上においしく感じる。
……これが、幸せなんだよね。
「リアリスちゃん!」
「……うん?」
ヴァルちゃんが、パンを片手に私を呼んだ。
「ねえ、あの技、またやろうね!」
……。
…………。
食事中も、その話!?
「……たまにならね」
「うん!」
ヴァルちゃんが、大きく頷く。
その隣で、キャッツが首を傾げた。
「……あの技?」
「ああ、今日の最後に使った剣技のことだよ」
「リアリス様の、あの桜が舞う技ですか?」
「うん。そうそう」
……あっ。
もしかして、今の言い方は余計だったかな。
案の定。
ヴァルちゃんが、ぱっと顔を上げた。
「そうなの! わたしもできたんだよぉ!」
食卓の空気が、少しだけ止まった。
「……えっ?」
キャッツが、目を丸くする。
桜花も、こちらを見た。
「……ヴァルキア様が、【一閃 乱れ桜】を?」
「うんっ!」
……ああ。
桜花、その反応になるよね。
自分が、今まさに練習している技なんだから。
「しかもね、リアリスちゃんが十人増えたから、わたしも十人増えたの!」
「……十人?」
今度は、エーデルまで箸を止めた。
……うん。
説明しないと、意味が分からないよね。
「《ドッペルゲンガー》を使ったんだ。私が十人増えたら、ヴァルちゃんも同じことをしてね」
「……同じことを」
桜花が、静かに繰り返した。
……あっ。
これ、桜花にとっては結構衝撃的な話なのでは。
「しかも、私たちが十一人ずつで【一閃 乱れ桜】を使って……」
「――【一閃 乱れ桜】を、二十二人で……?」
桜花の目が、大きく見開かれた。
「……うん」
私は、頷いた。
「お互いの斬撃がぶつかって、結局は引き分けだったよ」
桜花が、しばらく黙った。
……しまった。
今の桜花は、まだ一人でも発動できるように練習中なんだ。
その横で、初めて見たヴァルちゃんが技を使ったなんて聞いたら。
……ちょっと落ち込むかな。
そう思った、そのとき。
「……さすがでございます」
桜花が、ヴァルちゃんへ頭を下げた。
「私も、いつかその技を使いこなせるようになりたいと思っております」
……あっ。
大丈夫そうだ。
桜花は、そういうところが前向きなんだよね。
負けたくない気持ちは、もちろんあると思う。
でも、それを誰かへの嫉妬にはしない。
……うん。
私も、見習わないと。
「桜花ちゃんもやるの!?」
ヴァルちゃんが、嬉しそうに身を乗り出した。
「いつか、ぜひ」
「じゃあ、見せて見せて!」
「……はい。お見せできる日を楽しみにしております」
……ああ。
また、すごい約束が生まれてしまった。
……まあ。
桜花が喜んでるなら、いいか。
その横で、楓が小さく呟いた。
「……二十二人」
……うん。
「……多い」
「……そうだね」
私は、思わず笑った。
……本当に多かったよ。
何しろ、どこを見ても私とヴァルちゃんしかいなかったんだから。
……想像してみてほしい。
十一人の私と、十一人の小さな女の子が、同時に刀を振るんだ。
……普通の人が見たら、たぶん意味が分からない。
私だって、途中で少し意味が分からなくなったし。
食卓に、小さな笑いが広がる。
……ああ。
こういう話を、笑ってできる。
それが、何よりありがたい。
◇
食事が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
ヴァルちゃんは、最後のパンを大切そうに食べている。
……うん。
本当に、よく食べたなぁ。
巴さんの料理が気に入ったんだろう。
それなら、私も嬉しい。
「ヴァルちゃん。お腹いっぱいになった?」
「うんっ! すっごくおいしかったぁ!」
「よかったね」
「ともえ、ありがとぉ!」
「どういたしまして」
巴さんが、優しく微笑んだ。
ヴァルちゃんは満足そうにお腹を撫でている。
……ああ。
もう、完全に小さな女の子だ。
ほんの少し前まで、私より遥かに強い戦神だったとは思えない。
……いや。
別に、強さが消えたわけじゃないんだけど。
私は、紅茶を一口飲んだ。
「……ヴァルちゃん」
「なぁに?」
「今日は、楽しかった?」
「うん!」
即答だった。
「すっごく楽しかった! リアリスちゃん、いっぱい技を見せてくれたし!」
「……そっか」
「それにね、こんなにおいしいご飯まで食べられたの!」
ヴァルちゃんが、満面の笑顔になる。
「今日は、いい日だったぁ!」
……ああ。
何だか、嬉しいな。
私は、ほっと息を吐いた。
今回の勝負は、正直なところ、私の完敗に近かったと思う。
最後の技こそ引き分けになったけど、ヴァルちゃんが私に合わせてくれたからだ。
その気になれば、いつでも私を押し切れたはず。
でも。
本人は勝ち負けなんて、あまり気にしていないみたいだ。
ただ、楽しかったと言ってくれる。
……うん。
こういう神様も、いるんだね。
私は、少しだけ笑った。
「私も、いい経験になったよ」
「ほんと?」
「うん。ヴァルちゃんが、あんなに強いとは思わなかった」
「えへへ!」
ヴァルちゃんが、得意げに胸を張る。
……本当に、見た目だけでは分からないな。
むしろ。
ステラで信仰されている戦神の姿を、見てみたくなってきた。
……いや。
そのうち機会があったら、くらいだけど。
本人がこんなに可愛い女の子なんだから、きっと驚くような姿になってるんだろうなぁ。
……うん。
その話は、また今度でいいか。
◇
「それじゃ、わたし、そろそろ帰るね!」
ヴァルちゃんが、椅子から降りた。
大きなウサギのぬいぐるみを、ぎゅっと抱き締めている。
「……帰るの?」
カトレアが声をかけた。
「うん! 今日はいっぱい遊んだから!」
「そっか。また遊びに来てね」
「うんっ!」
……ああ。
この二人、何だかすっかり仲良くなってるな。
……見た目の年齢だけなら、カトレアの方がお姉さんだし。
そのうえ、中身は戦神。
……うん。
深く考えるのは、やめよう。
「ヴァルちゃん、今日はありがとう」
「こちらこそぉ!」
ヴァルちゃんが、私を見上げた。
「リアリスちゃん! また遊ぼうね!」
「……うん。たまになら、ね」
「はぁい!」
……この返事。
絶対に、また突然来る気がする。
でも、まあ。
悪い子じゃない。
むしろ、一緒にいると楽しい。
……戦わなければ、だけど。
「ともえも、またご飯作ってね!」
「ふふっ。もちろんよ」
「桜花ちゃんも、楓ちゃんも、またね!」
「はい。またのお越しをお待ちしております」
「……またね」
ヴァルちゃんが、嬉しそうに手を振った。
それから、庭へ出る。
私たちも、見送るために後ろをついていった。
夜の空には、星が輝いている。
昼間の戦いが、まるで遠い出来事のようだった。
ヴァルちゃんは庭の真ん中で立ち止まった。
そして、振り返る。
「リアリスちゃん!」
「……うん?」
「今日は、本当に楽しかった!」
そう言って、にっこり笑った。
……ああ。
いい笑顔だな。
「私も、楽しかったよ」
「えへへ!」
ヴァルちゃんは、ぬいぐるみを抱き直した。
その小さな身体が、ふわりと光り始める。
……あっ。
神界へ帰るんだ。
私は、そっと手を振った。
「またね、ヴァルちゃん」
「うん! またねぇ!」
柔らかな光が、ヴァルちゃんを包む。
次の瞬間。
小さな戦神の姿は、庭から消えていた。
……。
…………。
帰った。
私は、しばらく夜空を見上げた。
……神様って、本当に自由だなぁ。
来るときも突然。
帰るときも突然。
……オリミスさんとは、また別の意味で自由だ。
「……リアリス様」
隣で、桜花が声をかけてきた。
「お疲れさまでございました」
「……うん。ありがとう、桜花」
私は、桜花へ微笑んだ。
「それにしても、強かったね。ヴァルちゃん」
「はい。私も、いつかあの方のような技を使ってみたいと思います」
「……うん。桜花なら、きっとできるよ」
桜花が、小さく頷いた。
……さて。
私も、もっと頑張らないとな。
ヴァルちゃんの力は、正直なところ、まだ底が見えない。
今日の戦いで、私が分かったことは一つだけ。
……正面から戦っても、勝てる気がしない。
でも。
それでいいんだ。
世界には、私より強い存在もいる。
そんな存在が、ウサギのぬいぐるみを抱えた小さな女の子だった。
……うん。
何とも、この世界らしい。
「リアリスちゃん」
巴さんが、優しく呼びかけた。
「そろそろ、お風呂にしましょうか」
「……うん。そうだね」
私は、家族と一緒に屋敷へ戻った。
あたたかな灯り。
笑い声。
そして、さっきまで食べていた夕食の香りが、まだ廊下に少し残っている。
……ああ。
これがいい。
私は、こういう暮らしがしたかったんだ。
強い敵も。
世界の危機も。
できれば、もうしばらくは遠慮したい。
……もっとも。
あの小さな戦神様が、次はいつ遊びに来るか分からないけどね。
私は、思わず苦笑した。
……まあ。
そのときは、戦うより先に、巴さんのお菓子でも出してあげよう。
きっと、その方が平和だ。
――こうして。
邪神よりはるかに強い、小さな戦神との一日は終わった。
勝負は、引き分け。
そして、我が家にはいつもどおりの夜が戻ってきた。
……うん。
今日も、いい一日だった。




