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第9話:家族の不安

 リアリス様を抱えたまま、私は巴の後ろを歩いていた。


 王国邸の廊下は、見慣れた場所のはずだった。


 磨かれた床も、壁の飾りも、窓から差し込む朝の光も、いつもと変わらない。


 それなのに、こんなに遠く感じたのは初めてだった。


「桜花。こちらです」


「……はい」


 先ほど、巴に叱られた。


 そのおかげで涙は止まったけれど、怖さまで消えたわけではない。


 腕の中にいるリアリス様が、あまりにも静かだった。


 いつもなら、私が少し顔を覗き込むだけで、微笑んでくださる。


 名前を呼べば、すぐに答えてくださる。


 今は、何度お呼びしても目を覚ましてくださらない。


 ……それでも。


 呼吸はある。


 心臓も動いている。


 私は、その事実を何度も胸の中で繰り返した。


     ◇


 主寝室の扉を開けると、巴がすぐに寝台を整えた。


「桜花。ゆっくり、こちらへ」


 私は頷き、リアリス様をそっと横たえた。


 肩から掛けていた鳥かごを外す。


 中にいる小さなイオデグランは、鉄格子を握ったまま黙っていた。


 ……今は、そちらを構っている場合ではない。


「楓」


 巴が呼ぶと、すぐに扉のそばへ小さな人影が現れた。


「……はい」


「この鳥かごは桜花からの預かり物です。逃がさないよう、隣の部屋で見張っていてください。扉は決して開けないこと」


「……承知」


 楓がこちらを見る。


 私は鳥かごを渡し、留め具をもう一度確かめた。


「楓。お願い」


「……任せて」


 短い言葉だった。


 でも、私はそれだけで十分だった。


 楓は鳥かごを両手で持ち、隣室へ向かう。


 監視を任せきりにするつもりはない。私も交代で確認する。


 リアリス様から、逃がさないようにと託されたのだから。


 ただ、今だけは。


 ……リアリス様のそばにいたい。


「桜花。こちらへ」


 巴に呼ばれ、私は寝台のそばへ戻った。


 すでに額の汗を拭くための布と、水が用意されている。


 巴はリアリス様の手首に指を添え、続けて呼吸を確かめた。


「……脈はありますね」


「はい。海上でも、確認いたしました」


「外傷は?」


「……見当たりません。戦闘中のお怪我は、リアリス様ご自身が治しておられました」


「そうですか」


 巴は静かに頷いた。


 その表情は、いつもの厳しいメイド長のものだった。


 けれど。


 リアリス様の手を握る指先だけは、少し強くなっていた。


「すぐに、治療できる方をお呼びします」


 巴が言った。


 私は頷いた。


 ……どうか。


 どうか、目を覚ましてください。


     ◇


 それから間もなく、パーシー教皇が部屋を訪れた。


 世界の生存者が王国邸に避難していたおかげで、治療できる方をすぐに呼べた。


 教皇の後ろには、けが人の対応に当たっていた人たちもいる。


「リアリス殿が……」


 教皇は寝台の上のリアリス様を見ると、言葉を失った。


 私は、北の海で起きたことを説明した。


 邪神を倒したこと。


 《起死回生》という新しい魔法を使われたこと。


 世界が光に包まれた直後、力を失ったように意識をなくされたこと。


 それから。


 助け起こしたときには、呼吸も心臓の鼓動もあったこと。


 教皇は黙って聞いていた。


 やがて、深く息を吐く。


「……あれほどの奇跡を、一人で」


 その声には驚きが滲んでいた。


「回復の力を試しても、よろしいでしょうか」


「……お願いします」


 私は寝台から少し離れた。


 教皇がリアリス様のそばに立ち、両手をかざす。


 神から授かった回復の光が、静かにリアリス様を包んだ。


 傷を癒やすための、穏やかな光だった。


 ……これで。


 これで、お目覚めになってくだされば。


 私は、息を詰めて待った。


 だが。


 光が消えても、リアリス様は目を閉じたままだった。


「……そんな」


 思わず声が漏れた。


 教皇が、もう一度試した。


 それでも変わらない。


 呼吸は続いている。


 脈もある。


 けれど、目を覚まさない。


「……申し訳ありません」


 教皇が頭を下げた。


「私の回復魔法では、お力になれないようです」


「……いえ。ありがとうございます」


 私は、何とか答えた。


 横では、巴が静かに状況を確かめていた。


「傷がないのに、お目覚めにならない。つまり、通常の負傷とは違う、ということでしょうか」


「その可能性があります。命が失われかけているような状態に見えますが、病とも、外傷とも違います」


 教皇が、リアリス様の手を見つめる。


「……ただ、一つだけ」


「何でしょうか」


「先ほどから、僅かではありますが、脈に力が戻ってきているように感じます」


 私は顔を上げた。


「……本当でございますか」


「断言できるほどではありません。ですが、悪くなっているわけではない」


 教皇は、そう答えた。


 ……少しずつ。


 ほんの少しずつでも、回復している?


 私はリアリス様の顔を見た。


 変わらず、静かに眠っていらっしゃるように見える。


 でも、眠っているのとは違う。


 いくら声をかけても、お身体に触れても、反応がない。


 私は、昨日の海上でのことを思い出した。


 ――どれほどの代償が必要になるのか、想像もつかない。


 魔法を使う前の、リアリス様の言葉。


 そして、発動後に突然力を失ったお姿。


 ……きっと。


 原因は、あの魔法だ。


 世界を元に戻すために、リアリス様が何かを使い果たされたのだ。


 私はその考えを巴たちに伝えた。


 巴はしばらく黙っていた。


 それから、寝台へ向き直った。


「……そうですか」


 小さく、息を吐く。


「だったら、私たちにできることは決まっていますね」


「……巴?」


「リアリス様が戻ってこられるまで、ここを守ります。お身体のことも、私たちでお世話をします」


 巴の声に迷いはなかった。


「起きてくださるまで、何日でも」


 私は深く頷いた。


「……はい」


     ◇


 扉の外で、誰かが走ってくる足音がした。


「桜花お姉ちゃん!」


 カトレアだった。


 その後ろに、セバスがいる。


 きっと、状況を聞いて急いできたのだろう。


 カトレアは部屋へ入ると、寝台へ目を向けた。


「……お父さん?」


 小さな声だった。


 私は、カトレアのそばへ行った。


「カトレア。リアリス様は、生きていらっしゃいます」


「……うん」


「ただ、今は目を覚ましてくださらないのです」


 カトレアが、ゆっくりと寝台へ近づく。


 その手が、掛け布団の端を掴んだ。


「……お父さん」


 リアリス様は、何も答えない。


 カトレアは少しだけ下を向いた。


 ……何を言えばいいのだろう。


 私は、言葉を探した。


 けれど。


 カトレアの方が先に顔を上げた。


「桜花お姉ちゃん。お父さん、疲れちゃったんだよね」


「……はい。そうだと思います」


「じゃあ、起きるまで待ってる」


 カトレアは、リアリス様の手をそっと握った。


「お父さん、私も待ってるからね」


 その声が、震えている。


 でも、泣き叫んだりはしなかった。


 カトレアはもう、幼い子供ではないのだ。


 私は、そっと隣へ座った。


「……一緒に、お待ちしましょう」


「うん」


     ◇


 世界が元に戻ったことは、間もなく確かめられた。


 各国にある《映像通話》のマジックアイテムを通じ、連絡が次々と届いたのだ。


 ローズ帝国の首都が復元されている。


 消えたはずの村が戻っている。


 魔獣に襲われて亡くなった人が、家族のもとへ帰ってきた。


 大きな橋も、耕されていた畑も、元の姿になっている。


 それは、私が帝都の上空から見た光景と同じだった。


 ……リアリス様の魔法は、確かに届いていた。


 王国邸に避難していた人たちも、その知らせを聞いた。


 最初は誰も信じられなかったらしい。


 当然だと思う。


 昨日まで、国そのものが滅びかけていたのだから。


 けれど、通信の向こうに現れた家族の姿を見て、泣き出す人がいた。


 生きていると分かった途端、その場に座り込む人もいた。


 喜びの声が、王国邸の庭へ広がっていく。


 私は寝室の窓から、その声を聞いていた。


 ……リアリス様。


 みんな、戻ってきたそうです。


 そう、お伝えしたかった。


 でも、本人はまだ眠ったままだった。


     ◇


 巴の指揮で、王国邸の生活は少しずつ落ち着きを取り戻した。


 約一万人の避難者は、すぐに全員が帰れるわけではない。


 家が元どおりになっていても、そこまで行く道のりが必要だった。


 各国の王族や宰相たちは、帰還の順番と移動手段を相談している。


 リアリス様がいれば、全員を《転移》で送ることができたはずだ。


 けれど、今は頼めない。


 だからこそ、みんなが自分にできることを探していた。


 馬車の手配。


 移動する人たちの食事。


 子供やけが人の付き添い。


 連絡が届かない地域の確認。


 王族の方々も、家族も、忙しく動いている。


 巴は屋敷と学校と孤児院、それぞれの責任者から報告を受け、必要な指示を出していた。


 それでも、毎日必ずリアリス様の部屋へ来る。


 朝には顔を拭き、夕方には掛け布団を整える。


 ときどき、おでこに手を添えて、何かを確かめている。


「……今日は、少しお顔の色がよろしいですね」


 そう言って、微笑む日もあった。


 私は、その隣でリアリス様の手を握っていた。


「……はい。私も、そう思います」


 大きな変化はない。


 それでも、昨日よりほんの少しだけ良くなっている気がした。


 その小さな変化が、私たちには何より大切だった。


     ◇


 四日目の夕方。


 私は一度だけ、刀を手に取った。


 庭に出れば、いつものように稽古ができる。


 リアリス様と組手をした場所も、そこにある。


 けれど、鞘を握ったまま立ち止まってしまった。


 ……一人で振っても。


 そう思いかけて、首を振る。


 リアリス様なら、きっとこうおっしゃる。


 稽古は続けなさい、と。


 私は刀を抜き、いつもの構えを取った。


 すると、少し離れたところに楓が立っていた。


「……桜花」


「楓」


「……相手、する」


 楓はそれだけ言って、刀を構えた。


 ……ああ。


 ありがとう、楓。


 私は小さく頷いた。


 しばらく、二人で刀を交えた。


 いつもより音がよく響いた。


 リアリス様の笑い声が聞こえない庭は、どこか広すぎた。


 稽古を終えて寝室へ戻ると、リアリス様は変わらず目を閉じていた。


「……ただいま戻りました」


 いつものように声をかける。


 もちろん、返事はなかった。


 私は寝台のそばへ座った。


「今日も楓と稽古をいたしました」


 報告する相手は、そこにいる。


 ……いつか。


 また、聞いていただけるように。


     ◇


 一週間が過ぎた。


 王国邸の庭にいた避難者たちは、少しずつ故郷へ戻り始めた。


 大勢の人で埋まっていた通路に、空いた場所が増えていく。


 その一方で、帰る前にリアリス様へ礼を言いたいと望む人も多かった。


 けれど、巴は見舞いを限られた人だけにしていた。


 今は、リアリス様を静かに休ませることが最優先だからだ。


 その代わり、感謝の言葉が書かれた手紙を預かっている。


 ある日、セバスが厚い束を持ってきた。


「桜花。各国から届いたお手紙です」


 束は、両手でも抱えきれないほどだった。


「こんなに……」


「まだ届いております。旦那様がお目覚めになりましたら、すべてお渡しできるように整理いたします」


「……お願いします」


 私は、一通だけ目を通した。


 小さな子供が書いたものだった。


 文字は少し曲がっている。


 それでも、何を書いているかは分かった。


 『おとうさんがかえってきました。ありがとう』


 ……ああ。


 私は目を閉じた。


 リアリス様。


 誰かのお父さんが、家に帰れたそうです。


 あなたが取り戻したものが、こうして届いています。


 どうか。


 いつか、この手紙を読んでください。


     ◇


 二週間が過ぎた頃には、カトレアが毎日、花を持ってくるようになった。


 庭で咲いた、小さな花だ。


 大げさな花束ではない。


 花瓶に一輪ずつ入れて、寝台のそばに置く。


「お父さん。今日は、こっちが咲いたよ」


 そう言いながら、カトレアは花の向きを整える。


 私は少し離れたところで、その様子を見ていた。


「昨日の花も、まだ元気だね」


「はい。カトレアが毎日、お水を替えてくれていますから」


「えへへ」


 カトレアが、小さく笑った。


 それから、椅子へ座る。


「ねえ、お父さん。学校も少しずついつもどおりになってきたよ」


 リアリス様の手のそばで、カトレアは話し始めた。


 学校であったこと。


 友達と話したこと。


 今日のお昼ご飯のこと。


 モフ太が、外で遊ぶ子供たちに囲まれたこと。


 何でもない、日常の話だった。


 私は、その声を聞きながら思った。


 ……リアリス様が、望んでいたものだ。


 世界を救うこと自体が、リアリス様の望みだったわけではない。


 こうして、みんなが穏やかに暮らせること。


 家族と、笑って過ごせること。


 そのために、戦ってくださった。


「……お父さん」


 カトレアが、少しだけ声を落とした。


「そろそろ、起きてくれないかな」


 私は、すぐには答えられなかった。


 カトレアは笑おうとしたけれど、上手く笑えなかった。


「……お父さんがいないと、やっぱり寂しいよ」


 私は、カトレアの隣へ座った。


「……私もです」


 カトレアがこちらを見る。


 私はそっと、その肩に手を添えた。


「……とても、寂しいです」


 言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。


 カトレアは、私の腕に身体を寄せてきた。


 私は、そのまま抱き寄せた。


 しばらく、二人でリアリス様の寝顔を見つめていた。


     ◇


 それからも、日々は続いた。


 朝が来て、夜になる。


 王国邸の食堂には、また家族の声が戻り始めていた。


 巴が用意してくれる食事は、いつもと変わらず温かい。


 セバスは屋敷と各国との連絡を整え、フラワーズたちは持ち場に戻っていった。


 遠くの屋敷で仕事をしている子たちも、交代で見舞いに来る。


 藤は、リアリス様のそばへ静かに花を置いた。


 杏子は何か話しかけようとして、しばらく迷っていた。


 蘭も、牡丹も、撫子も、菖蒲も、朝顔も。


 みんな、いつもより少しだけ静かだった。


 その中で、楓だけはいつもと変わらないように見えた。


 寝台のそばへ来ると、リアリス様の手を軽く握る。


「……待ってる」


 それだけ言って、椅子へ座った。


 ……うん。


 きっと、それでいい。


 言葉が多いからといって、気持ちが大きいわけではないのだから。


 私は、みんなの顔を見回した。


 誰も諦めていない。


 誰一人、リアリス様が戻らない未来を受け入れていない。


 そのことが、私には心強かった。


     ◇


 鳥かごの監視も続いている。


 隣の部屋で楓たちが見張り、私は毎日、扉と留め具を確認した。


 イオデグランは相変わらず、小さな身体で格子を掴んでいる。


『……おい。いつまで我をここに閉じ込めておくつもりだ』


「リアリス様がお目覚めになるまでです」


『……あの男は、まだ眠っておるのか』


「はい」


 邪神は、少しだけ黙った。


 それから、そっぽを向く。


『……ふん』


 私は鳥かごの留め具を確かめ、部屋を出た。


 ……何を考えているのかは、分からない。


 ただ。


 逃がすわけにはいかない。


 リアリス様が、私に託してくださったのだから。


     ◇


 ひと月が近づいた頃。


 私は、寝室に入るたび、一つの違いを感じるようになっていた。


 リアリス様のお顔に、少しずつ血色が戻っている。


 手を握ると、以前よりも温かい。


 呼吸も、穏やかになってきた。


 治療師の方も、同じことを言っていた。


「……少しずつ、戻っていますね」


 私たちは、何度もその言葉を聞いた。


 急に元気になることはない。


 回復魔法を使っても、意識は戻らなかった。


 けれど、日が経つにつれて身体の状態が良くなっていくことだけは、確かだった。


 ……自然に、少しずつ。


 リアリス様ご自身の力が、戻っている。


 そう信じて、私たちは待った。


 いつまで待つことになるのかは、分からない。


 それでも、以前とは違った。


 ただ怖がっていた頃より、今は少しだけ、希望が見える。


 私は寝台のそばへ座り、いつものように手を握った。


「……リアリス様。今日も、良いお天気でございます」


 窓の外では、朝日が庭を照らしていた。


「カトレアも、もうすぐ学校から戻ります」


 返事はない。


 私は、静かに微笑んだ。


「……明日は、何をお話ししましょうか」


 そのとき。


 指先に、かすかな感触があった。


 ……え?


 私は手元を見る。


 リアリス様の指が、ほんの少し動いたような気がした。


「……リアリス様?」


 私は身を乗り出した。


 けれど、次の瞬間には静かになっていた。


 ……気のせい?


 いいえ。


 確かに、動いた。


 私は息を整えた。


 期待しすぎてはいけない。


 今までだって、何度も目を覚ましてくださる夢を見た。


 でも。


 今日だけは、違うように思えた。


     ◇


 それから、数日。


 ちょうど、リアリス様が意識を失われてから、ひと月ほどが過ぎた朝だった。


 私はいつものように、寝台のそばで手を握っていた。


 窓の向こうから、鳥の声が聞こえる。


 遠くの廊下では、巴とセバスが話している声がした。


 いつもと変わらない朝。


 ……そう思っていた。


 だが。


 私の手を握る指が、ゆっくりと動いた。


「……っ!」


 私は顔を上げた。


 リアリス様のまぶたが、小さく震えている。


 そして。


 ゆっくりと、目が開いた。


 赤い瞳が、私を見た。


「……桜花?」


 ……声。


 リアリス様の、お声だ。


 何度も、何度も聞きたかった声。


 私は口を開いた。


 でも、何も出てこなかった。


「……あれ。私……」


 リアリス様が、少し困ったように眉を寄せた。


 私は、両手でその手を包み込んだ。


「……リアリス様」


 声が震える。


「……お目覚めに、なられたのですね」


 リアリス様が、ゆっくり瞬きをした。


「……うん。おはよう、桜花」


 たった、それだけの言葉だった。


 なのに。


 私は、もう一度名前を呼ぶことしかできなかった。


「……リアリス様……!」


     ◇


 目を開けると、桜花が私の手を握っていた。


 ……あれ。


 ここは、王国邸の私の寝室だ。


 見慣れた天井。


 見慣れた窓。


 そして、見慣れた銀色の髪。


 ……戻ってきたんだ。


 私はゆっくり身体を起こそうとした。


 すると、桜花がすぐに私の肩へ手を添えた。


「リアリス様。どうか、まだご無理をなさらないでください」


「あ、うん。……ありがとう」


 自分でも、何が起きたのかよく分かっていない。


 頭の中にある最後の記憶は、北の海だ。


 ステラ全域へ《起死回生》を使った。


 光が広がって。


 身体の力が抜けて。


 それから……。


 ……ああ。


 そうか。


 私は、意識を失ったのか。


 それにしても、身体が妙に軽い。


 戦ったあととは思えないくらい、力が戻っている。


 魔力は、いつもどおり。


 なのに、何かが空っぽになったような感覚だけが、ぼんやりと残っていた。


 きっと《起死回生》の代償だろう。


 ……あのときは、さすがに無茶をしたみたいだな。


 私は桜花を見た。


「……桜花。私、どのくらい寝てた?」


 桜花が、一度だけ唇を結んだ。


 それから、静かに答えた。


「……ひと月ほどでございます」


「……ひと月!?」


 思わず声が裏返った。


 ……えっ。


 そんなに!?


 私は寝台の上で固まった。


 少し気を失った程度だと思っていたのに。


 まさか、ひと月も経っていたなんて。


 でも。


 もっと大事なことがある。


「……桜花。世界は?」


 桜花が、私の目をまっすぐ見た。


「……戻っております」


 私は、息を止めた。


「邪神によって失われた町も、建物も。亡くなられた方々も、元に戻られたそうです」


「……本当に?」


「はい。各国から確認が届いております」


 私は、ゆっくり息を吐いた。


 ……ああ。


 よかった。


 本当に、よかった。


 寝台の上で、しばらく天井を見つめた。


 胸の奥にあった、重いものが少しずつ解けていくようだった。


 ……ちゃんと、届いたんだ。


 世界の端まで。


 亡くなった人たちのもとまで。


 私は、ようやく桜花へ笑いかけた。


「……ありがとう。桜花も、私を連れて帰ってくれたんだね」


「……はい」


「本当に、ありがとう」


 桜花が、静かに頭を下げた。


 けれど、私の手は離さなかった。


     ◇


 廊下から、大きな足音が聞こえた。


「リアリスちゃん!」


 扉が開き、巴さんが飛び込んできた。


 その後ろには、セバスもいる。


「……巴さん?」


 私が呼ぶと、巴さんの顔がくしゃっと歪んだ。


 次の瞬間、寝台のそばまで来て、私をぎゅっと抱きしめる。


「……もう!」


「わっ!?」


「本当に、心配したんですよ!」


 いつもなら、私の体調を気遣ってくれる巴さんが。


 今は、思い切り抱きしめてくれている。


「……ごめん。巴さん」


「……まったく。リアリスちゃんったら……」


 巴さんの声が、途中で小さくなった。


 私は、そっとその背中へ手を回した。


 ……ああ。


 心配させちゃったんだな。


 こんなに。


 私は、ようやく実感した。


 世界を元に戻すことばかり考えていて。


 帰りを待っている家族のことを、ちゃんと考えられていなかった。


「……ただいま、巴さん」


 巴さんは答える代わりに、もう一度強く抱きしめてきた。


 その向こうで、セバスが深く頭を下げた。


「……旦那様。お帰りなさいませ」


「うん。ただいま、セバス」


 セバスの声も、少しだけ震えていた。


     ◇


「お父さん!」


 今度は、聞き慣れた声が廊下から飛んできた。


 カトレアだ。


 扉のところで足を止め、寝台の上の私を見つめている。


「……カトレア」


 私が呼ぶと、カトレアは目を大きく見開いた。


「……お父さん?」


「うん」


「……本当に?」


「本当だよ」


 私は、できるだけいつもどおりに笑ってみせた。


「……ただいま」


 その瞬間。


 カトレアが、こちらへ駆け寄ってきた。


「お父さんっ!」


 私は腕を広げた。


 飛び込んできたカトレアを、そっと抱きとめる。


 ……ああ。


 温かい。


 ちゃんと、生きている。


 私の、大切な家族だ。


「……おかえりなさい……!」


 カトレアが、胸元に顔を埋めた。


「……うん。ただいま」


 私は何度も、その背中を撫でた。


 カトレアの肩が、小さく震えている。


「……ごめんね。心配かけたね」


「……うん……」


「もう、大丈夫だから」


 カトレアは、しばらく何も言わなかった。


 それから、顔を上げる。


「……お父さん。いっぱい、話したいことあるんだよ」


「うん。聞かせて」


「……お花も、いっぱい咲いたの」


 私は、寝台のそばに置かれた花瓶へ目を向けた。


 小さな花が、静かに揺れている。


「……そうなんだ」


 私は、カトレアの頭を優しく撫でた。


「じゃあ、あとで庭も見に行こうか」


「……うん!」


 その笑顔を見て、私はようやく安心した。


     ◇


 いつの間にか、寝室の扉の向こうに家族が集まっていた。


 楓。


 藤。


 杏子。


 蘭。


 牡丹。


 撫子。


 菖蒲。


 朝顔。


 それに、ほかのみんなも。


 全員が一度に入るには、さすがに部屋が狭い。


 でも、誰も帰ろうとしなかった。


「……リアリス様」


 楓が、短く呼んだ。


「……うん。楓も、ありがとう」


 楓が、小さく頷く。


 その後ろで、杏子が目を潤ませていた。


 蘭が肩へ手を添えている。


 みんな、本当に心配してくれたんだ。


 私は、一人ずつ顔を見た。


 そして、できるだけ大きな声で言った。


「……みんな。ただいま!」


 返ってきた声が、幾つも重なった。


 ……ああ。


 こんなに賑やかなのに。


 こんなに落ち着く場所が、ほかにあるだろうか。


 私は、桜花の手をもう一度握った。


 桜花がこちらを見た。


「……リアリス様」


「うん?」


「……おかえりなさいませ」


 いつもどおりの、丁寧な言葉。


 でも、声は少しだけ震えていた。


 私は笑った。


「……ただいま、桜花」


 世界を元に戻したあと。


 私が一番最初に戻ってきたかった場所。


 そこには、ちゃんと家族が待っていてくれた。


 ……よかった。


 本当に、よかった。


 私は、ようやく家に帰ってきたんだ。

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