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第8話:あとは任せた

 ……このままじゃ、終われない。


 私は小さくなったイオデグランを片手に持ち、隣の桜花を見た。


「桜花。先に、こっちを何とかしておこうか」


「はい。……邪神のことでございますね」


「うん。さすがに、このまま放しておくわけにはいかないし」


『放せ! この無礼者め!』


 手の中で、イオデグランがじたばたと暴れた。


 ……元気だなぁ。


 さっきまで世界を壊そうとしていた邪神とは思えないほど、小さな声だ。


 だけど、油断はできない。


 今は力を失っていても、また逃げられたら面倒なことになる。


 私は、空いている手を前へ出した。


「《取り寄せ》」


 目の前に現れたのは、丈夫な金属製の鳥かごだった。


 小さな身体を閉じ込められるよう、格子の間隔は狭いものを選んだ。


 扉には留め具があり、持ち運ぶための取っ手も付いている。


 それから、取っ手を肩に掛けられる丈夫なベルトも用意した。


 もちろん、どちらも日本で売られているのと同じ製品だ。


 魔法でイオデグラン自身を拘束するわけではない。


 ただの、物理的な鳥かご。


 ……神様に魔法が効かなくても、これなら問題ないよね。


「それじゃ、入ってもらいますよ」


『なっ!? 貴様、我を何だと思っておる!』


「邪神です」


『そうだ! 分かっておるなら――』


「だから、逃げないように閉じ込めるんです」


『な、何ぃっ!?』


 私は鳥かごの扉を開け、小さなイオデグランを中へ入れた。


 ぱたん。


 扉を閉め、留め具をしっかり固定する。


 がしゃがしゃっ!


『開けろ! 開けぬか!』


 イオデグランが格子を掴んで揺らす。


 しかし、鳥かごはびくともしなかった。


 ……うん。


 これなら大丈夫そうだ。


 私は一度、扉が開かないことを確かめてから、鳥かごを桜花へ差し出した。


「桜花。これを預かってくれる?」


「かしこまりました」


「絶対に逃がさないでね。何を言われても、扉は開けなくていいから」


「はい。私がお預かりした以上、決して逃がしません」


 桜花が静かに鳥かごを受け取った。


 そして、ベルトを取っ手へ通し、自分の肩に掛ける。


 両手が空くようにしてから、念のため留め具をもう一度確認していた。


 ……さすが、桜花。


『おい! 我をこんなものに入れて、ただで済むと思うなよ!』


 かごの中から怒鳴り声がした。


 桜花は、そちらへ目を向けた。


「静かになさってください」


『なっ……!』


「リアリス様のお邪魔になります」


 ……あっ。


 桜花の声が、ちょっと冷たい。


 でも、今は助かる。


 私は小さく頷き、鳥かごから目を離した。


 ひとまず、邪神のことはこれでいい。


 次は――。


     ◇


 私は南の空を見た。


 もう、邪神の巨大な姿はない。


 白い光の刃も、身体を覆っていた禍々しい光も消えた。


 夕暮れから始まった邪神との戦いは、日が沈んだあとも続いた。


 暗い海を邪神の白い光が照らし、そこへ雷が落ち、何度も刀を交えた。夜を徹して戦い続け、ようやく迎えたのが、今なのだ。


 ……まさか、丸一晩戦うことになるとはね。


 《雷雨》で生まれた雲が薄れ、東の水平線が淡い橙色に染まり始めている。


 朝陽が、ようやく海の向こうから顔を出しかけていた。


 ……戦いには、勝った。


 だけど。


 海の向こうにあるはずの大陸のことを思い出すと、喜ぶ気にはなれなかった。


 帝都の崩れた建物。


 助けを求める人たち。


 世界中で同時に発生した魔獣の群れ。


 何度も《映像通話》で届いた、切羽詰まった声。


 そして、最後に。


 各国で生き残った人たちを、王国邸へ一斉に避難させた。


 約一万人。


 それだけの人を助けることができた。


 ……でも。


 それは、裏を返せば。


 この広いステラに、私たち以外では、そのくらいしか生存者が残っていなかったということだ。


 助けが間に合わなかった人たちが、あまりにも多い。


 壊れた町も、村も、街道も。


 きっと、数えきれない。


 私は奥歯を噛みしめた。


 ……こんな結末で、終わらせられるわけがない。


「リアリス様」


 桜花が、静かに呼びかけてきた。


「……これから、いかがなさいますか」


「世界を元に戻すよ」


 私は、迷わず答えた。


 桜花の目が、僅かに見開かれる。


「……世界を、でございますか」


「うん。建物だけじゃない。森も、畑も、道も。何より、亡くなった人たちも」


「……死者を、蘇らせるということでございますか」


「そう」


 私は、自分の手を見つめた。


 《完全回復》は、生きている人の傷も病気も治せる。


 けれど、亡くなった人には使えない。


 今までだって、その限界は分かっていた。


 心臓が止まって、呼吸も戻らなかった人を、私の魔法では助けられなかった。


 ……でも。


 そこで諦めなければいけない理由なんて、ない。


 私は《想像魔法》を持っている。


 想像した結果を、魔法にできる。


 これまで、必要なものをいくつも生み出してきた。


 ずっと考えてた。


 今度は、失われたものを取り戻す魔法を作る。


 ……ただし。


 元に戻すのは、邪神がもたらした災厄だ。


 時間そのものを巻き戻したいわけじゃない。


 今日を生き延びた人たちの記憶をなかったことにするつもりもない。


 壊れたものを、元の姿へ。


 命を奪われた人たちを、もう一度生きられる状態へ。


 この世界を、邪神が復活する前のように。


 私は、ゆっくり息を吐いた。


「……桜花。少し、離れていて」


「承知いたしました。ですが、リアリス様……」


 桜花は言葉を切った。


 私の顔を見たまま、表情を曇らせる。


「……ご無理は、なさらないでください」


 私は答えるまで、ほんの少し間を置いた。


「……うん」


 その言葉に、嘘はつきたくなかった。


 でも、今からしようとしていることが、どれほど大きな魔法になるのか。


 私にも、まだ分からない。


 ……それでも、やる。


     ◇


 私は目を閉じた。


 頭の中に、ステラの姿を思い描く。


 中央大陸。


 魔族が暮らす土地。


 エルフの森。


 獣人たちの国。


 ドワーフの町。


 訪れた場所も、まだ行ったことのない場所も。


 そのすべてが、この世界の一部だ。


 村に続く道。


 人々の暮らす家。


 作物の育つ畑。


 子供たちが笑っていた広場。


 壊されたものを、一つも残さず元に戻したい。


 そして。


 死んだ人たちを、蘇らせたい。


 身体が傷ついていても。


 瓦礫の下に埋もれていても。


 もう息をしていなくても。


 邪神のせいで奪われた命を、取り戻す。


 ただし、対象からは邪神と魔獣を除く。


 この災厄を引き起こした存在と、世界を襲っていた魔獣まで復元してしまっては意味がない。


 ……うん。


 必要な条件は、これでいい。


 あとは。


 魔法の名前だ。


 死にかけたものを救う。


 失われた命を、生き返らせる。


 ……起死回生。


 昔、日本で聞いたことのある言葉が浮かんだ。


 今の私が望んでいることに、一番近い。


 名前が決まると同時に、想像していた結果が一つにまとまっていく。


 すると。


『《想像魔法》にて《起死回生》が完成しました。』


 聞き慣れた女性の声が、頭の中に響いた。


 ……できた。


 だけど、いつもと少し違う。


 完成した魔法の仕組みが、意識の中に流れ込んできた。


 神の領域に踏み込むほどの力。


 亡くなった人の命まで取り戻す、その代償。


 発動には、魔力だけでなく、自分自身の生命力も必要になる。


 ……魔力は問題ない。


 私には、無限の魔力がある。


 でも、生命力は別だ。


 しかも、今から対象にするのは、一人や二人ではない。


 ステラ全域。


 世界そのものだ。


 どれほどの代償が必要になるのか、想像もつかない。


 私は目を開けた。


 遠くでは、桜花が鳥かごを抱えながら私を見ている。


 ……帰りたいな。


 王国邸へ。


 カトレアのいる家へ。


 巴さんの料理が並ぶ食卓へ。


 また、みんなで笑って過ごせる場所へ。


 そのためにも。


 ここで、止まるわけにはいかない。


     ◇


 そのときだった。


 ふわっ。


 目の前に、光る板が現れた。


『着信:オリミス』


 ……神様?


 私は画面に目を向けた。


 呼び出し音が、やけに慌ただしく響いている。


 私は応答した。


「……神様。邪神は倒しましたよ」


『リアリス! 今、何をしようとしておる!?』


 画面の向こうのオリミス様は、ひどく取り乱していた。


 いつもなら、ここで何か言い訳が始まるところだ。


 だが、今日は違った。


「世界を元に戻そうと思っています」


『……ま、待つのじゃ!』


「待ちません」


『話だけでも聞くのじゃ!』


 私は口を閉じた。


 ……今度は何だろう。


『今、何か、とんでもない力が生まれた気配がしたのじゃ! まさか、死者まで戻そうとしておるのか!?』


「はい」


『……やはり!』


 オリミス様が、画面の向こうで頭を抱えた。


『リアリス! 命を生み戻す力は、普通の魔法ではない! おぬしがどれほど強くとも、代償なしでは済まぬぞ!』


「……それは、分かっています」


『分かっておらぬ! 世界全体を対象にするつもりなら、どれほどの負担がかかるか――』


「神様」


 私が呼ぶと、オリミス様が言葉を止めた。


「今、生き残っている人が何人いるか、知っていますか」


『……それは……』


「約一万人です。私の家族を除けば、世界中で、それくらいしか残っていないんです」


 画面の向こうで、オリミス様は黙った。


「私が助けられなかった人たちは、もっと大勢います」


『……うむ』


「町も、村も、たくさん壊れました。畑も、森も、元どおりではありません」


 私は、少しだけ声を落とした。


「そのままにして帰って、今までどおり暮らすなんて、私にはできません」


『……しかし、リアリスよ』


「神様。神様たちにとっては、世界をまた作り直せばいいのかもしれません」


 かつて聞いた話を思い出す。


 ステラが滅びても、神々は困らない。


 新しく作ればいい。


 ……でも。


「ここで暮らしている人たちには、この世界しかないんです」


 カトレアの笑顔が浮かんだ。


 桜花の声。


 巴さんと家族たち。


 友人たちの顔。


 これまで出会ってきた、数えきれない人たち。


「私は、その人たちと一緒に、この世界で生きたいんですよ」


 オリミス様は、すぐには答えなかった。


 私は続けた。


「だから、やります」


『……リアリス! 待つのじゃ! それだけの生命力を使えば、おぬし自身が――!』


「……神様」


 私は、画面の向こうをまっすぐ見た。


「今回のこと、あとでちゃんと話してもらいますからね」


『な、何を――』


「でも、それは世界を元に戻してからです」


 返事を待たずに、私は通話を閉じた。


 ……あとで。


 必ず、神様にも言いたいことを言おう。


 今は、先にやるべきことがある。


     ◇


 私は、もう一度桜花へ目を向けた。


「桜花」


「はい、リアリス様」


「これから魔法を使う。ちょっと、大きな魔法になると思う」


 桜花は鳥かごの取っ手を確かめ、こちらへ向き直った。


「……かしこまりました」


「何があっても、イオデグランは逃がさないでね」


「はい。お任せください」


 私は頷いた。


 それから、ほんの少しだけ笑ってみせた。


「……あとは、お願い」


 桜花の目が、私を見つめる。


「リアリス様……?」


 私は、それ以上説明しなかった。


 説明したところで、桜花が心配するのは分かっている。


 でも、この魔法の代償が実際にどうなるかは、私自身にも分からない。


 ……大丈夫。


 《不老不死》だってある。


 簡単に命を失うようなことはないはずだ。


 私は、そう自分に言い聞かせた。


 目を閉じる。


 想像する。


 この世界のすべての大陸。


 傷ついた町。


 失われた命。


 壊れてしまった、たくさんの暮らし。


 それらが、再び元の姿を取り戻す光景を。


 私は両手を広げた。


「――《起死回生》!」


 発動した瞬間。


 足元の海から、淡い光が生まれた。


 最初は、小さな光だった。


 それが、海面を滑るように広がっていく。


 一本。


 二本。


 光の筋が、波を越えて走る。


 やがて、その光が海全体を覆った。


 水面が、静かに輝き始めた。


 ……届いている。


 目で追えるのは、ここまでだ。


 でも、私は確かに、魔法が広がっていくのを感じていた。


 北の海を越え。


 大陸へ。


 山を越え。


 森を越え。


 さらに、その向こうの海へ。


 光は、ステラのすべてを包むために広がっていく。


 ……頼む。


 どうか、届いてくれ。


 壊れた建物が元の形を取り戻す。


 途切れた街道がつながる。


 荒れ果てた畑に、作物が戻る。


 倒れた木々が、再び根を張る。


 崩れた橋が、川の両岸をつなぐ。


 ……そして。


 息をしなくなった人たちにも。


 もう一度、命を。


 魔法の効果を、一つずつ思い描いていく。


 想像した結果が、遠くまで広がっていく。


 いったい、どれほどの距離があるんだろう。


 今まで、こんなに大きな範囲へ魔法を使ったことはない。


 だけど、止まらない。


 止めるわけにはいかない。


 ステラの、すべてへ。


     ◇


 不意に。


 身体の奥から、何かが抜け落ちた。


「……っ!」


 私は一瞬、息を詰めた。


 ……何だ?


 魔力ではない。


 魔力は、何も減っていない。


 なのに、身体が重い。


 腕を持ち上げているだけで、ひどく疲れる。


 ……これが、生命力の代償か。


 私は歯を食いしばった。


 まだ、終わっていない。


 光は広がり続けている。


 視界の端が、少し暗くなった。


 指先の感覚が薄れていく。


 ……くそっ。


 思ったより、ずっと大きな負担だ。


 でも。


 私が今やめたら、届かなかった場所が残ってしまうかもしれない。


 そんなことは、したくない。


 私は、震えそうになる腕を伸ばし続けた。


 もう一度、世界を思い描く。


 どこかの町で、誰かが目を開く。


 瓦礫の下にいた人が、もう一度呼吸をする。


 帰ってくるはずのなかった家族が、家の扉を開ける。


 ……そうなってほしい。


 そうなってくれ。


 私は、残っている力を込めた。


「届けぇぇぇぇぇっ!!」


 光が、ひときわ強く輝いた。


 その瞬間。


 私の中で、魔法が世界の端まで届いたという確かな感覚が生まれた。


 ……ああ。


 やった。


 これで。


 これで、きっと――。


「リアリス様!」


 桜花の声が聞こえた。


 ……あれ。


 どうしたんだろう。


 声が、ずいぶん遠くから聞こえる。


 私は振り向こうとした。


 だが、身体が動かない。


 視界が傾く。


 さっきまで足元にあったはずの空が、横へ流れた。


 ……えっ。


 飛んでいたはずなのに。


 支えていた力が、消えていく。


 身体が、落ちた。


 下には、海。


 私は何とか腕を動かそうとした。


 でも。


 指先ひとつ、思うように動かせない。


 ……まずいな。


 ああ。


 ごめん、桜花。


 ちょっと、無理をしすぎたみたいだ。


 だけど。


 世界は、戻ったはずだ。


 みんなは、もう大丈夫なはずだ。


 私は、最後に桜花の姿を探した。


 銀色の髪が、こちらへ向かってくるのが見える。


 ……ああ。


 来てくれた。


 それなら。


 安心して、いいのかな。


 ――あとは、任せた。


 そこで、私の意識は途切れた。


     ◇


 ――桜花。


「リアリス様ッ!!」


 私の目の前で、リアリス様が落ちていく。


 さっきまで空に浮かんでいたお身体が、力を失ったように海へ向かっていた。


 私は考えるより先に動いた。


「《フライ》!」


 発声と同時に、身体が前へ加速する。


 リアリス様から授かった、魔力を必要としない飛行の力。


 今度は、それが頼りだった。


 腕に掛けていた鳥かごが揺れる。


『な、何事だ!?』


 中で邪神が叫んだ。


 しかし、扉は閉まっている。


 肩に掛けたベルトも外れていない。


 ……構っている時間はない。


 私は速度を上げた。


 海面が、急速に近づいてくる。


 リアリス様のお身体は、その少し上。


「……間に合って!」


 両腕を伸ばした。


 指先が服に触れた。


 そのまま、落ちてくる身体を抱きとめる。


 急停止するように身体を起こし、海面のすぐ上で浮かび上がった。


 水しぶきが、頬を濡らした。


 ……間に合った。


 私は、腕の中のリアリス様を見下ろした。


「リアリス様。リアリス様!」


 お返事はない。


 目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。


 私は震える指で、呼吸を確かめた。


 ……息をしていらっしゃる。


 心臓も、動いている。


 生きている。


 それなのに、目を開けてくださらない。


「……リアリス様?」


 もう一度、お呼びした。


 返事はない。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 ……あれ。


 頬に、何かが流れた。


 海水ではない。


 涙だった。


 一粒こぼれたと思ったら、次から次へと溢れてくる。


 いつもなら、どんなときでも冷静でいられるはずなのに。


 止めようとしても、止まらなかった。


「リアリス様……すぐ、お屋敷へお連れします……っ」


 私は抱きかかえる腕に力を込めた。


 鳥かごはベルトで肩に固定されている。


 邪神も、逃げていない。


 ……リアリス様から預かったものは、必ず守る。


 私は空へ上がった。


 向かう先は、ローズ帝国のリアリス邸。


 そこからなら、既存の転移扉を通ってシルク王国の本邸へ戻れる。


 リアリス様が意識を失っている今、私自身の力で《転移》することはできない。


 だから、飛ぶ。


 風が頬を撫でるたび、涙が後ろへ流れていった。


 拭うこともできない。両腕には、何より大切な方を抱いている。


「……リアリス様。もうすぐ、お屋敷です」


 返事がないと分かっているのに、何度も話しかけてしまう。


 どれだけ遠くても、必ずお連れする。


     ◇


 海の向こうに、大陸が見えたとき。


 私は、息を呑んだ。


 崩れ落ちていたはずの街並みが、そこにあった。


 遠くまで続く道。


 家々の屋根。


 城壁。


 見覚えのある、帝国の景色。


 戦いの前と同じように、建物が並んでいる。


 ……ああ。


 リアリス様。


 本当に、世界を元に戻してしまわれたのですね。


 遠くの道には、人影も見えた。


 どうして自分がそこにいるのか、戸惑っているように見える人たち。


 互いの顔を見て、立ち止まっている人たち。


 詳しいことまでは分からない。


 でも。


 少なくとも、あの人たちは生きている。


 私は腕の中のリアリス様を、もう一度見つめた。


「……皆様、戻ってきたようです」


 返事はない。


「リアリス様のおかげでございます」


 声が震えた。


 涙で視界が滲み、戻ったはずの帝都の景色がぼやける。


 頬を伝った雫が、リアリス様の服に落ちた。


 こんなに大勢の方々を救われたのに、リアリス様だけが目を覚まさない。


 ……どうして。


 私は唇を噛み、それ以上、言葉を続けられなかった。


 今は、とにかく帰らなければ。


 帝国邸の姿を見つけると、私は庭へ降り立った。


 建物も、扉も、きちんと残っている。


 世界が元に戻った証拠だった。


 リアリス様を抱えたまま、私は屋敷の中へ急ぐ。


 涙を拭いている時間が惜しかった。


 普段は家族が行き来するために使っている、あの扉へ。


 接続先をシルク王国邸に合わせる。


 そして。


 扉をくぐった。


     ◇


「……桜花!?」


 向こう側で、家族の声がした。


 私はリアリス様を抱きかかえたまま、屋敷へ足を踏み入れた。


 廊下の先に、巴がいる。


 避難者たちの指揮を執っていたときと同じ、厳しい表情。


 でも、私の腕の中を見た瞬間、その顔が変わった。


「リアリス様……!?」


「巴……お戻りに、なりました。ですが……」


 声が上手く出ない。


 ずっと流れ続けていた涙で、巴の顔もはっきり見えなかった。


「……目を、お覚ましに……なりません……」


 巴が、すぐに近づいてきた。


「桜花。リアリス様は、生きていらっしゃるのですね?」


「……はい。ご呼吸も、心臓も……ですが、何度お呼びしても……」


 また、涙が頬を伝った。


 周囲からも足音が集まってくる。


 カトレアの声が聞こえたような気がした。


 私は、リアリス様を落とさないように、抱きしめる腕へ力を込める。


 ……私が、しっかりしなければ。


 そう思うのに、涙が止まらない。


「リアリス様……っ」


「……桜花」


 巴が、私の正面に立った。


 次の瞬間。


 パンッ!


 乾いた音が、廊下に響いた。


 頬に、衝撃が走る。


 巴が、私を叩いたのだ。


 驚いて顔を上げると、真正面から巴の目が私を捉えていた。


「しっかりしなさい!」


 厳しい声だった。


「リアリス様は、今も生きていらっしゃるのでしょう? だったら、私たちが守る番です!」


「……あ……」


「泣いている場合ではありません。まずは安全な場所でお休みいただきましょう」


 ……そうだ。


 リアリス様は、生きている。


 ならば、今度は私たちが、お守りする。


 気がつくと、涙が止まっていた。


 怖さが消えたわけではない。


 けれど、何をすべきかは、もう分かる。


「……はい。巴」


 私は、リアリス様を抱き直した。


 巴が小さく頷く。


「さあ、お部屋へお連れしましょう。みんなでお守りします」


「……はい」


 世界は、戻った。


 けれど。


 世界を元に戻した人だけが、まだ目を覚まさない。


 私はそっと、リアリス様の顔に掛かっていた赤い髪を払った。


 最後にお聞きした言葉を、思い出す。


 ――あとは、お願い。


 ……はい。


「……あとは、私たちにお任せください」


 どうか、安心して。


 そして。


 必ず、また目を開けてください。


 私たちは、ここでお待ちしております。

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