第7話:一閃の向こうに桜舞う
私は邪神の懐へ飛び込んだ。
斜めに走らせた刀が、白い胸元を捉える。
ギィンッ!
火花のような光が散った。
剣筋は確かに通った。だが、胸を斬り裂くには至らない。
邪神イオデグランゾーラが、すぐさま長い腕を振るってきた。
私は上へ逃れる。
そこへもう一本の腕が伸びてきた。
間に合わない――と思った瞬間、身体をひねり、その脇を抜けた。
背後で空気が砕ける音がした。
眼下の海面が一直線に割れ、深い溝のようなものが生まれる。
そこへ両側から海水が流れ込み、凄まじい水柱を上げた。
……相変わらず、とんでもない威力だな。
でも、今はそれだけだ。
邪神の動きは、見えている。
倒せないほどの差があるわけじゃない。
問題は、その硬さだった。
【一閃】は通る。
《流星雨》で作った岩も、ちゃんとぶつかった。
それでも、第二形態の身体を壊しきれない。
斬りつけて傷をつけても、少しずつ元に戻ってしまう。
私は邪神から距離を取り、刀の刃を確かめた。
欠けてはいない。
こちらの武器が壊れる心配は、まだなさそうだ。
『……何を考えている』
邪神がゆっくりこちらを向いた。
『先ほどから、我を斬るつもりで斬っておらぬな』
「……そう見えますか」
『ああ。まだ、何かを隠しておる』
私は答えなかった。
別に隠しているつもりはない。
ただ、一つ分かったことがある。
この邪神には、適当に斬りかかっているだけでは足りない。
ならば、確実に通る攻撃を重ねるしかない。
私は刀を構え直した。
「イオデグランゾーラ。そろそろ終わりにしましょう」
『……ほう』
邪神の口元が、僅かに歪んだ。
『それはこちらの言葉だ、人間』
次の瞬間、邪神の身体が消えた。
◇
姿が見えなくなると同時に、右側から圧力が押し寄せた。
私は身体を反らし、その場を離れる。
長い腕が、直前までいた場所を通り過ぎた。
邪神は、その勢いのままこちらを追ってくる。
私は距離を開けようとした。
だが、相手は追いつく。
白い腕が伸びる。
刀で受けるより、避けた方が速い。
私は右へ身体を倒し、伸びてきた指先をかわした。
続けて左腕。
今度は、横へ。
そのときだった。
邪神の胸の亀裂から、細い光が一本だけ伸びた。
指も、腕も動いていない。
今までとは、違う攻撃。
私は反射的に左へ移った。
避けきった。
そう思った。
しかし。
チリッ。
左肩に、熱いものが走った。
「……っ!」
私はそのまま一気に距離を取った。
邪神の姿を視界に収め、左肩へ目を向ける。
服が、細く裂けていた。
その下の皮膚にも、一筋の傷がある。
赤い血が、肩から僅かに流れた。
……血?
私は、もう一度邪神を見た。
《絶対防御》は、発動したままだ。
解除した覚えもない。
そもそも、今までこの魔法を破られたことなんて、ほとんどなかった。
なのに。
攻撃が、届いた。
私自身へかけている《絶対防御》の、その向こう側まで。
『……ようやく、傷がついたか』
邪神が低く笑った。
『随分と面倒な守りを持っておるようだな』
私は返事をせず、肩の傷を確かめた。
深くはない。
動きに支障が出るほどでもなかった。
……ただ、気になる。
魔法で作った防御を、邪神の力が貫いた。
あの神様が言っていた、神には《想像魔法》が直接効かないという話。
攻撃に使う魔法だけじゃない。
神の力とぶつかったときには、防御側にも例外があるのかもしれない。
いずれにしても、これ以上は無防備に受けるわけにいかない。
私は刀を握り直した。
……それに。
肩から流れた血は、そのままだった。
《不老不死》は、命を失ったときに身体を元へ戻す魔法。
生きている間の傷が勝手に消えるわけじゃない。
今は、別の方法で治す。
「《完全回復》」
既存の魔法を自分へ使う。
左肩の傷が、静かに閉じた。
裂けた服はそのままだが、痛みはもうない。
私は一度、腕を回した。
……大丈夫。
邪神を倒すのに、支障はない。
ただし、あの細い光は警戒しておこう。
目の前で、邪神の胸元が再び輝いた。
先ほどと同じ光が、今度は三本。
私は最初の一本が放たれる前に、上へ移動した。
光が元いた場所を貫く。
二本目は右へ、三本目は下へ。
間に合う。
今なら、動作を見切れる。
私はさらに回り込み、邪神の背後を取った。
こちらも、やられっぱなしでいるつもりはない。
◇
私は上空へ目を向けた。
さっき《流星雨》を使ったとき、気づいたことがある。
神へ直接魔法をかけることはできない。
でも、魔法で生み出した岩が落ちれば、その衝撃は届く。
ならば、岩以外でも試せるはずだ。
例えば、雷。
……雷なら、どうだろう。
日本にいた頃、遠くで光った雷を見てから、遅れて轟音が聞こえてきたことがある。
あれは魔法なんかじゃない。
雲の中に生まれた電気が、一気に流れ出す自然現象だ。
雷そのものを邪神へ直接あてるなら、魔法が無効になるかもしれない。
だけど。
雲を作り、そこに雷が落ちる条件を整えるなら。
あとは自然に生まれた雷が、物理的に落ちてくるだけだ。
私は邪神の腕をかわしながら、海の上の空を見上げた。
今は、雲が少ない。
だったら、作ればいい。
この北の海の上空だけに、巨大な雨雲を作る。
雲の中で電気が溜まり、あちこちに雷が生まれる。
強い風と雨。
そして、何度も落ちる稲妻。
邪神の身体へ直接作用する魔法ではない。
ただ、ここを雷雨にする。
……名前は、そのままだな。
私は、結果をはっきりと思い描いた。
『《想像魔法》にて《雷雨》が完成しました。』
頭の中に、聞き慣れた女性の声が響いた。
よし。
私は邪神と距離を取り、片手を空へ向ける。
「《雷雨》!」
途端に、空の色が変わり始めた。
白く広がっていた雲が、上へと膨らんでいく。
その下から、次々と黒い雲が湧き出した。
北の海の上空に、分厚い雲の層ができる。
風が変わった。
海面を流れていた風が、邪神の周囲へ集まり、激しく渦を巻き始める。
次に、雨。
最初は数粒だった。
それが、一瞬で土砂降りになった。
雨粒が海面を叩き、白い波頭が何度も砕ける。
そして。
雲の奥で、光が走った。
ピカッ!
次の瞬間。
ドォォンッ!!
空を震わせる雷鳴。
邪神が、思わず顔を上げた。
『……何だ、この天は』
私は答えなかった。
雲の中で、さらに光が走る。
青白い稲妻が、枝分かれしながら空を裂いた。
一本が海へ落ちる。
雷鳴とともに、大きな水柱が上がった。
続いて、もう一本。
今度は邪神のすぐそばだ。
『……小細工を!』
邪神が片腕を上げる。
その瞬間、雲の中で新たな放電が起きた。
稲妻が、白い腕へ走った。
バァンッ!
光が弾ける。
邪神の身体が、僅かに揺れた。
……当たった。
《雷雨》そのものが、邪神を直接攻撃しているわけじゃない。
雨雲の中で自然に生まれた雷が、そこにいた相手へ落ちたんだ。
魔法で作った岩が当たるのと、考え方は同じ。
私は刀を握り直した。
これは、使える。
◇
雷雨は、北の海を覆い尽くした。
夕暮れから続いた攻防のうちに、いつしか夜はすっかり深まっていた。
黒い雲が重なり、夜の海はさらに深い闇に沈んだ。
その中を、青白い稲妻が何本も走る。
一本落ちるたびに、海面が跳ね上がった。
白い波と黒い雲。
その間で、邪神だけが異様なほど明るく光っている。
私は邪神の正面から、斜め上へ回り込んだ。
邪神もこちらを追う。
腕が伸びる。
私はかわす。
その直後、邪神の背後へ雷が落ちた。
ドゴンッ!
耳をつんざく雷鳴。
邪神が顔を背けた。
私はその隙に距離を詰める。
刀を振るう。
ガキンッ!
刃が、右肩へ食い込んだ。
続けて左脇へ回る。
邪神の腕が振り下ろされるより早く、私はそこを離れた。
反撃は届かない。
その頭上に、また稲妻が落ちる。
今度は、肩から胸へ白い光が散った。
『……ぐっ!』
邪神が初めて、はっきりと呻いた。
私は間合いを広げ、傷を確かめる。
胸元の黒い亀裂が、少し大きくなっていた。
……効いている。
でも、これだけで倒せるわけじゃない。
邪神はすぐに顔を上げた。
腕を振る。
胸から生まれた白い光が、雨粒を蒸発させながらこちらへ伸びてくる。
私は、その射線から外れた。
雷鳴の中で、邪神の怒鳴り声が響く。
『……こんなものが、我に通じるものか!』
「……少しは通じてるみたいですよ」
『黙れ!』
さらに光が放たれる。
私は上昇し、雲のすぐ下まで移動した。
邪神が追ってくる。
……よし。
ある程度、動かせた。
私が欲しかったのは、相手を立ち止まらせる時間だ。
《雷雨》の稲妻は確かに効く。
ただ、自然に落ちるものだから、都合よく毎回同じ場所を狙うわけじゃない。
それなら、別の攻撃を重ねればいい。
私は再び空を見上げた。
雨雲の、そのさらに上。
邪神に直接作用しない、もう一つの攻撃。
さっき試した、あの岩だ。
「《流星雨》!」
雨雲の上空に、無数の岩が現れた。
黒い点が増え、やがて大きな影になる。
そして、落下が始まった。
岩が雲を突き抜ける。
分厚い黒雲の中へ、何本もの落下の筋が走った。
雷鳴の中に、別の轟音が混じり始める。
ドゴンッ!
邪神の背後へ、一つ目の岩が落ちた。
次の岩は、肩へ命中する。
ガァンッ!
白い身体が、少し傾いた。
その瞬間、稲妻が落ちる。
バチィッ!
岩の衝突で姿勢を崩した邪神の身体を、青白い光が包んだ。
邪神が怒りの声を上げる。
『……貴様ぁ!』
しかし、まだ終わらない。
雷が落ちる。
岩が落ちる。
海面が爆ぜる。
私は落下位置を見ながら、邪神を陸地から遠ざける方向へ動いた。
ここでの戦いが、少しでも南へ流れるのは避けたい。
それに、邪神にばかり気を取られていると、余波が離れた場所へ届くかもしれない。
……北の海で、終わらせる。
私はそのことだけを意識し、攻撃を続けた。
◇
雷雨と流星雨が重なった空は、ほとんど白一色になっていた。
稲妻の青白い光。
隕石が砕けるときの白い閃光。
海から吹き上がる水柱。
どれがどれなのか、遠目には分からないほどだ。
だが、私には見える。
雨の中で動く、五メートルほどの白い身体。
長く伸びた腕。
胸の黒い亀裂。
そして、その亀裂から繰り返し生まれる光。
……あそこが、厄介だ。
邪神が両腕を広げる。
身体の周囲に、白い光の輪が生まれた。
輪が広がる。
落下してきた岩が、次々と砕けた。
雲の中から伸びた稲妻も、その光に触れると弾け散る。
私は距離を取った。
……なるほど。
相手だって、何もせずに攻撃を受け続けるわけじゃない。
しかも、かなりの力だ。
けれど、一つ確かなことがある。
邪神は、今までのように私を笑っていない。
こちらの攻撃を、防いでいる。
防ぐ必要がある、と判断しているんだ。
ならば。
私は刀の鯉口へ手をかけた。
《全能力強化》は、まだ十分に働いている。
使い慣れた剣技も、このまま使える。
邪神の守りが崩れる瞬間に、斬撃を重ねる。
十回。
一撃で斬れないなら、短い間に十撃を叩き込む。
これまで見てきた、家族の剣技。
――【一閃 乱】。
その技を、今度は私が使う。
邪神が腕を振った。
白い光の輪が、こちらへ迫ってくる。
私は輪の外側へ抜け、そのまま一気に高度を下げた。
輪が背後を通り過ぎる。
邪神の正面が、僅かに開く。
私はそこへ踏み込んだ。
「【一閃 乱】!」
抜いた刀が、銀色の光を描いた。
最初の一太刀が、右肩へ。
二つ目が、胸へ。
三つ目、四つ目。
ほとんど同時に、斬撃が重なる。
腕を動かそうとした邪神より、私の方が速かった。
五つ目。
六つ目。
七つ目。
刀身が走るたび、白い身体に新しい傷が刻まれていく。
八つ目。
九つ目。
最後の一撃は、胸の黒い亀裂へ。
十本目の銀光が走った瞬間。
邪神の身体から、凄まじい音が響いた。
バギィンッ!
白い破片が、雨の中へ飛び散る。
私は刀を振り切り、邪神の背後へ抜けた。
その直後。
遅れて十本の斬撃の衝撃が重なり、海面を大きく押し下げた。
円形の波が、四方へ広がっていく。
邪神は、しばらく宙に浮いたままだった。
それから、ゆっくりと振り返る。
『……な……』
胸から肩にかけて、無数の傷が走っていた。
いつものように白い光が集まり、傷を塞ごうとする。
だが、すぐには元に戻らない。
邪神が、初めて自分の身体を見下ろした。
『……人間、風情が……!』
私は刀を構え直した。
今度は、明らかに手応えがあった。
《雷雨》と《流星雨》で動きを制限し、守りが開いた瞬間に【一閃 乱】を重ねる。
これなら、第二形態にも深い傷をつけられる。
……倒せない相手じゃない。
私は刀の先から雨を払った。
しかし、邪神はまだ倒れない。
胸の傷が、少しずつ塞がっていく。
向こうにも、回復するだけの力が残っている。
――このまま長引かせるつもりはない。
◇
『……認めぬ』
邪神の声が、低く響いた。
『我が、この程度の者に……!』
白い身体から、再び光があふれた。
ただし、今度は広がらない。
胸の亀裂へ、細く細く集まっていく。
私はその動きを見た。
先ほど《絶対防御》を貫いた攻撃だ。
……また来る。
今度は、受けない。
私は邪神の腕ではなく、胸だけを見た。
光が一本にまとまる。
その先端が、こちらを向いた。
私は、発射されるより先に横へ移った。
白い筋が、空を貫く。
遅れて、その軌道に沿って空気が裂けた。
さらに二本。
私は、一度上へ、次に斜め下へ抜ける。
今の速さなら、十分に対応できる。
邪神は腕を振り、次々と細い光を撃ってくる。
私は弧を描くように回り込み、胸元へ近づいた。
そのとき、最後の一本だけが、不自然に曲がった。
……追ってくる?
私は急停止し、刀を寝かせるように構えた。
光は、その刃先をかすめて海へ落ちた。
ドォンッ!
衝撃波が背後で広がる。
私はその勢いを避け、さらに距離を取った。
……少し危なかったな。
《絶対防御》を貫通する攻撃だと分かっていなければ、受け止めようとしていたかもしれない。
でも、もう手の内は見た。
避けられるなら、問題ない。
邪神の顔が、怒りで歪んだ。
『……なぜ、倒れぬ』
「……攻撃が見えているからです」
『……何?』
「強いですよ。イオデグランゾーラの攻撃は。でも、避けられないほどじゃない」
私は刀を、静かに正面へ向けた。
「それに、邪神を倒すまでは、こちらも止まるつもりはありません」
邪神は何も答えなかった。
ただ、その周囲の白い光が、ひときわ強くなった。
海上に、激しい雨だけが落ち続けている。
◇
しばらくして、私は《映像通話》を開いた。
邪神との距離は十分に保っている。
いつでも動ける位置だ。
「巴さん。そちらは?」
『リアリス様。三施設とも異常ございません』
画面に、王国邸の庭が映った。
半径一キロの《結界》の内側には、避難してきた人々が身を寄せ合っている。
怪我人は、学校の方へ順番に運ばれていた。
ガラント宰相たちが、通路を確保している。
草原の一角には、パーシー教皇たちの治療を待つ列もあった。
誰もが落ち着いているわけではない。
それでも、さっきより人の動きが整っている。
……よかった。
『外周の魔獣は、フラワーズとセバスが迎撃しております。深追いはさせておりません』
「うん」
『庭は、モフ太と四名の皆様が警戒しております。カトレアも無事です』
画面の向こうで、赤いリボンが揺れた。
巨大なモフ太の隣に、ヴァリロッサ皇帝、ドルステン魔王、ゴリアテ将軍、ライオネス王がいる。
誰一人として、結界の外へ出ていない。
その姿を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
全員、巴さんの指示を守ってくれているんだ。
「巴さん。ありがとう。しばらくそちらの指揮をお願いするね」
『承知いたしました。リアリス様も、どうかご無事で』
「うん。必ず帰るよ」
私は通話を閉じた。
次に、遠くで待機している桜花へ連絡する。
『リアリス様』
「桜花。こっちは大丈夫だよ」
『……左肩に、お怪我をなさったのではありませんか』
……見られてたか。
私は自分の肩を一度見た。
服は裂けたままだ。
でも、傷はもう治してある。
「一度だけ、少しね。《完全回復》で治したから、今は平気」
『……承知いたしました』
「そのまま離れた場所で待っていて。邪神は私が倒す」
『はい。お待ちしております、リアリス様』
私は頷いた。
桜花は、まだこの戦いへ加わらない。
無理に近づいてくることもない。
それでいい。
私が帰る場所を、みんなが守ってくれている。
だから、今は目の前の敵に集中できる。
◇
私は邪神へ向き直った。
雨は、まだ降っている。
ただ、先ほどまで絶えず鳴り響いていた雷鳴は、少しずつ間隔が空いてきた。
雲の切れ間から、白い光が差し込む。
私は刀を持ち直した。
《雷雨》は効いた。
《流星雨》と組み合わせれば、邪神の身体に傷をつけられる。
【一閃 乱】も、十分な手応えがあった。
それでも、決め手がもう一つ欲しい。
次に斬るなら、もう傷を塞がせたくない。
邪神が、雨の向こうからこちらを見ていた。
『……貴様、本当に人間か』
その問いに、私はすぐには答えなかった。
転生してから、いろんなことがあった。
大勢の人と出会った。
家族も増えた。
守りたい場所も、数えきれないほどできた。
私がここに立っているのは、そのすべてを失いたくないからだ。
「……少なくとも、今はこの世界で暮らしている人間です」
『……人間が、神に刃向かうというのか』
「邪神が世界を壊すなら、止めるだけです」
邪神は、ゆっくりと腕を下ろした。
それまで身体の周囲を包んでいた白い光が、少しずつ胸へ戻っていく。
私は目を細めた。
……何をする気だ?
光は、先ほどの細い攻撃のときよりも強く集まっていた。
しかし、すぐには放たれない。
邪神が、私を見据えたまま口を開く。
『……よかろう』
私は刀を正面に構える。
雲の奥で、最後の雷鳴が低く響いた。
邪神の胸元で、白い光が静かに脈打ち始める。
――今度は、何が来る?
私は一度だけ呼吸を整え、その動きを見据えた。
邪神の胸元に集まった光が、脈を打った。
一度。
二度。
そのたびに、周囲の雨粒が白く照らされる。
イオデグランゾーラは、身体をゆっくりと起こした。
『……人間よ』
「……何でしょう」
『貴様は、我をここまで追い詰めた初めての存在だ』
私は答えず、刀を握り直した。
邪神の胸に刻まれた傷は、まだ完全には塞がっていない。
【一閃 乱】は確かに通じた。
ただ、決定打には足りなかった。
次に仕掛けるなら、回復する時間すら与えない一撃が必要だ。
『そのことだけは、認めてやろう』
邪神の声が低くなる。
『だが、所詮は人間。神の力を、最後まで受けきれるものか』
胸の亀裂から、白い光が溢れ出した。
今度は、こちらへまっすぐ伸びてこない。
光は邪神の右腕へ流れ込み、指先の向こうに集まっていく。
細長い形。
やがて、それは巨大な剣のような姿になった。
白い刃が、雲を突き抜けるほど長く伸びる。
その周囲で、空間そのものが揺らいでいた。
……なるほど。
さっきまでの光とは、明らかに違う。
あれを受ければ、《絶対防御》があっても無事では済まないだろう。
だから、受けない。
私は刀を下げずに、邪神の腕と肩の動きを見た。
『これで終わりだ』
邪神が巨大な刃を振り上げた。
私は高度を変えず、その場で待った。
狙われているのは、私だ。
下手に逃げ回れば、刃の向きが陸地へ変わるかもしれない。
……ここは北の海。
このまま、海へ向けて撃たせる。
『消えろ、人間ッ!!』
白い刃が振り下ろされた。
その直前。
邪神の右肩が、僅かに沈んだ。
刃先の進む角度が定まる。
……見えた。
私は斜め上へ加速した。
刃の正面から外れ、その軌道を横切るように一気に抜ける。
次の瞬間。
世界が、白く染まった。
ゴォォォォンッ!!
鼓膜を震わせるというより、身体の芯を叩くような衝撃だった。
巨大な光の刃が、私のいた空間を切り裂いていく。
私は振り返らず、さらに上へ抜けた。
背後で雲が裂けた。
海面に、真っ白な一本の線が走る。
それが次の瞬間には、底が見えないほど深い溝へと変わった。
海が、割れていた。
左右に押しのけられた海水が、巨大な壁となって立ち上がる。
遅れて、凄まじい風が吹き上げた。
私は空中で停止し、眼下を確かめた。
刃の進んだ先は、陸地ではない。
北の海の、さらに遠く。
……よかった。
だが、あの一撃が大陸に届いていたら。
考えるまでもない。
邪神が持つ力は、もう十分に分かった。
そして。
その攻撃も、見切ることができた。
◇
『……馬鹿な』
邪神の声が聞こえた。
私はゆっくりと高度を下げる。
白い刃は、すでに消えていた。
あれほどの攻撃を放った直後だというのに、邪神の目は私だけを追っている。
『なぜだ……。なぜ、今の一撃を避けられる!』
「振る方向が分かりましたから」
『……それだけで、あれを!?』
「強い攻撃ほど、受けない方がいいです」
私は刀の刃先を正面へ向けた。
「今のが最大の攻撃なら、次はこちらの番です」
邪神の表情が歪む。
『……まだ、何かを隠しておるというのか』
「ええ」
今回は、はっきり答えた。
「最後に、一つだけ」
……いや。
正確には、一つの魔法と、一つの剣技。
二つで一組の、私の切り札だ。
実は、ずっと前に作っておいたものがある。
まだ、こんな戦いが起こるなんて思っていなかった頃。
桜花やフラワーズとの組手を重ねていたとき、ふと考えた。
一人で放つ剣技にも、限界はある。
では、自分とまったく同じ力を持つ者が、同じ瞬間に何人も斬り込んだらどうなるのか。
そんな発想から生み出した魔法が、《ドッペルゲンガー》だった。
……名前は、昔の自分にもう少し考えてほしかったけど。
その魔法を作ったとき、連携して放つための剣技も一緒に仕上げた。
【一閃】を百回、わずかな間に叩き込む。
【一閃 乱】の、その先。
名前は――【一閃 乱れ桜】。
あまりにも大きな力になってしまったので、普段の組手には使わなかった。
桜花にさえ、存在を話していない。
そもそも、この切り札を使わずに済むなら、それが一番だった。
……でも。
今日は違う。
目の前には、世界を壊そうとしている邪神がいる。
後ろには、帰りを待っている家族がいる。
だったら、温存する理由はもうない。
私は刀を静かに持ち上げた。
「《ドッペルゲンガー》」
声に応じて、私の左右の空間が揺らいだ。
一人。
二人。
三人。
銀色の光が重なるように、次々と人影が現れる。
赤い髪。
私と同じ顔。
同じ服装。
そして、同じ刀を手にした私自身。
五人、六人、七人。
さらに三人が並ぶ。
合計、十人。
私を含めれば、十一人のリアリスが北の海に浮かんでいた。
『……な、何だ、それは』
邪神が、初めて明らかな戸惑いを見せた。
『幻か!?』
「いいえ。本物です」
分身たちは、それぞれ刀を構える。
《ドッペルゲンガー》が生み出すのは、ただ姿が似ているだけの幻ではない。
対象と同じ性能を持つ、もう一人の本人だ。
傷も負うし、任意に消すこともできる。
当然、今の私にかかっている《全能力強化》の力も、そのまま備えている。
作成したときには、神の領域を超えるほどの力だということで、最大魔力の三割を消費する条件までつけられた。
……まあ。
私の魔力は無限だから、実際には減らないんだけど。
ただ、今はそんなことより。
この十一人で、確実に決める。
『ふざけるな……!』
邪神の両腕に、再び光が集まる。
『数を増やした程度で、神に勝てると思うな!』
「数を増やすだけなら、私もそう思います」
私は刀を握る手に、僅かに力を込めた。
「でも、全員が同じ剣技を使ったら?」
邪神の目が、私の左右へ動いた。
一人の私が、右へ。
もう一人が、左へ。
残る分身たちも、それぞれ別の方向へ動き始める。
誰かが号令をかける必要はない。
全員が、私だ。
相手の動きも、狙う場所も、分かっている。
十一人の私が、同じ答えに向かって刀を構えた。
◇
邪神が先に動いた。
胸から三本の光が放たれる。
私は正面の一本をかわした。
左右へ散った分身たちも、それぞれ別の方向へ抜ける。
光は誰にも当たらず、背後の海へ落ちた。
『……ちっ!』
邪神が腕を振るう。
その先を、一人の分身が横切った。
白い指先が、その肩をかすめる。
服が裂け、赤い筋が走った。
……分身にも、ちゃんと傷はつく。
けれど、動きは止まらない。
その分身が上空へ退くのと入れ替わるように、別の二人が懐へ迫った。
ギィンッ!
ガキンッ!
左右から走った刀が、邪神の腕を弾く。
邪神が反撃しようとしたときには、二人ともすでに離れていた。
続いて、背後。
さらに、足元。
一人ずつ違う角度から接近する。
邪神がどちらを向いても、必ず別の方向に私がいる。
『……鬱陶しいッ!!』
白い光の輪が大きく広がった。
私は、その動きを見て全員を退かせる。
いや、退くと決めたときには、分身たちも同じ判断をしていた。
十一人が、ほとんど同時に間合いの外へ抜ける。
光の輪が、空しく海上へ広がっていった。
……よし。
相手の動きは、もう十分に見た。
あとは、ほんの一瞬でいい。
十一人が同時に踏み込める、その間合いを作る。
邪神は大きく腕を広げた。
胸の傷は、まだ残っている。
先ほどの最大攻撃を放った後だからか、白い身体を覆う光は、さっきより薄く見えた。
ただ、それで油断するつもりはない。
私は、残る十人の私を見た。
……行こうか。
十人が、小さく頷いた。
『……何をする気だ!』
邪神が叫んだ。
私たちは答えない。
ただ、それぞれの位置で刀を鞘へ納めた。
十一人。
すべて同じ構え。
空を流れていた風が、ふっと弱まった。
海の上では、先ほど割れた水面がようやく元へ戻ろうとしている。
雷雲の切れ間から、淡い光が差し込んだ。
私は邪神の胸元を見据えた。
狙うのは、ただ一つ。
回復する暇も、次の攻撃を放つ暇も与えず。
この第二形態を、完全に斬り崩す。
◇
『……来るなァァッ!!』
邪神の胸が、白く輝いた。
無数の光が、四方へ弾ける。
私は、それを見た。
軌道。
速さ。
間隔。
すべて、分かる。
十一人が、それぞれの光の隙間を抜けた。
正面から。
左右から。
上空から。
背後から。
視界の外だった位置にまで、赤い髪の人影が迫る。
邪神の長い腕が振り上がった。
だが、遅い。
私は鞘へ添えた指を動かす。
そして。
「――【一閃 乱れ桜】!!」
十一人の声が、重なった。
最初の斬撃が走る。
銀色の線が、邪神の胸を横切った。
続いて、二撃目。
三撃目。
ほとんど間を置かず、別の方向から刀が走る。
ギィンッ!
ガギィンッ!
凄まじい金属音が重なった。
四撃目。
五撃目。
斬撃の軌跡が、白い身体の周囲で交差する。
邪神が腕を上げようとした。
その腕を、さらに銀光が貫いた。
『ぐっ……!?』
一人が、十撃。
二十撃。
三十撃。
だが、それが十一人いる。
正面の斬撃を防ごうとすれば、背後から刃が届く。
背後へ振り返ろうとすれば、左右から新たな銀光が走る。
上へ逃れようとしても、そこにはすでに別の私がいる。
下へ降りようとしても、同じだった。
逃げ道は、ない。
四十撃。
五十撃。
六十撃。
斬撃が重なるたび、白い身体に亀裂が増えていく。
いや。
ただの傷ではなかった。
切り離された身体の一部が、光の粒へとほどけていく。
その粒が、薄い桃色へ変わる。
……始まった。
剣技の名のとおり。
斬ったものが、桜の花びらになる。
一枚。
二枚。
それが、たちまち数えきれないほどに増えていく。
邪神の周囲に、淡い桃色の花びらが舞い始めた。
『や……やめろッ!!』
邪神が叫ぶ。
胸の亀裂から白い光を放とうとした。
だが、放たれるより早く、さらに斬撃が走る。
七十撃。
八十撃。
九十撃。
十一人の刀が、それぞれの場所で同時に加速した。
もはや刃の軌道は、一本ずつ見えるものではない。
銀色の線が重なり、邪神を包む大きな光の輪となる。
その内側で、桜の花びらが嵐のように舞い上がった。
そして。
百撃目。
十一人の最後の一太刀が、まったく同じ瞬間に振り抜かれた。
――合計、千百撃。
ドォォォォォンッ!!
光が、北の海を照らした。
少し遅れて、空を押し広げるような衝撃が走る。
雨雲が、巨大な円を描いて吹き飛んだ。
海面が深く沈み、その周囲から水の壁が立ち上がる。
私は刀を振り切った姿勢のまま、動かなかった。
十人の分身も、同じように刀を下ろす。
十一人の中心にいた、邪神イオデグランゾーラ。
その白い身体には、もう元の形が残っていなかった。
腕が、ほどける。
肩が、ほどける。
胸を走っていた黒い亀裂も、花びらの中へ消えていく。
最後に、邪神の顔がこちらを向いた。
『……神である……この我が……』
私は刀を鞘へ納めた。
「これで、終わりです」
その言葉と同時に。
五メートルの白い身体が、崩れた。
音もなく。
無数の桜の花びらとなって。
◇
北の海に、桜が降っていた。
見渡す限り、海と空しかない場所。
ついさっきまで、世界を滅ぼしかねない戦いが続いていた場所。
その上を、淡い桃色の花びらが静かに流れていく。
風に舞うもの。
ゆっくり落ちるもの。
海面に触れ、光となって消えていくもの。
……ああ。
なんて、不思議な光景だろう。
私は刀を握ったまま、しばらくそれを見ていた。
《雷雨》で生まれた黒雲の向こうで、空が微かに白み始めていた。
東の水平線には、夜明けを告げる淡い光が差している。
遠くで、最後の雷鳴が響いた。
戦いは、終わった。
……はずだった。
花びらが舞う中心に、小さな白い光が残っている。
私は目を細めた。
……ん?
光が、もぞもぞと動いた。
近づいてみると、その中に小さな人影があった。
白い身体。
見覚えのある顔。
ただし、さっきまでの巨体とは比べものにならないほど小さい。
『……う、うう……』
か細い声がした。
……えっ。
私は思わず刀を構え直した。
「……イオデグラン?」
『……き、貴様ぁ……』
小さな邪神が、こちらを睨んでいる。
しかし、何も起こらない。
白い光も、あの巨大な剣も現れない。
試すように両腕を振り上げたが、ただ空気をかいただけだった。
『……な、なぜだ……!』
もう一度、腕を振る。
やっぱり、何も起こらない。
……あれ?
私は少し距離を取ったまま、様子を見た。
小さな邪神は、必死に力を込めているらしい。
だけど、空には何の変化もない。
魔獣が現れる気配もない。
さっきまでの圧倒的な威圧感も、すっかり消えていた。
『……おのれ……おのれぇ……!』
……うん。
どうやら、第二形態の力は完全に失ったようだ。
消滅したわけではないけれど、少なくとも今の状態なら、世界を壊せそうにはない。
私は小さな邪神を見下ろした。
「……まだ、戦います?」
『……ッ!』
邪神が、ぴたりと動きを止めた。
その視線が、私の手元の刀へ向かう。
そして、ゆっくりと後ずさった。
……ああ。
返事は、聞かなくてもよさそうだ。
私は刀を鞘へ納めた。
周囲に浮かんでいた十人の分身も、それぞれ刀を下ろしている。
……みんな、お疲れ様。
私は《ドッペルゲンガー》を解除した。
一人ずつ、分身の姿が消えていく。
最後には、いつもの私一人だけが残った。
……うん。
できれば、二度と使わずに済んでほしい切り札だった。
でも。
今回ばかりは、作っておいてよかった。
◇
「リアリス様!」
聞き慣れた声が、遠くから響いた。
振り向くと、桜花がこちらへ飛んできていた。
邪神が小さくなり、戦いが終わったことを確認してから近づいてきたらしい。
銀色の髪が、風に揺れている。
……ああ。
無事で、よかった。
私が手を振ると、桜花はすぐそばで停止した。
「リアリス様! お怪我はございませんか!」
「うん。大丈夫だよ」
裂けたままの左肩を見た桜花の表情が、一瞬だけ曇る。
私はすぐに首を振った。
「それはもう治してあるから。今はどこも痛くないよ」
「……本当でございますか」
「本当だよ」
桜花は私の顔を確かめるように見つめた。
そして、ようやく小さく息を吐いた。
「……ご無事で、何よりでございます」
その声を聞いて、私も少しだけ緊張がほどけた。
「桜花も、ずっと待っててくれてありがとう」
「いいえ。リアリス様のご命令でございますから」
桜花は静かに答えた。
だが、すぐに私の背後へ目を向けた。
まだ、花びらが少しだけ舞っている。
「……リアリス様」
「うん?」
「先ほどの……大勢のリアリス様と、あの剣技は……」
……あっ。
そうだよね。
遠くからでも、あれは見えるよね。
桜花に見せたことは、一度もなかった。
「あれは、昔作っておいた切り札なんだ」
「……左様でございましたか」
「驚いた?」
「……はい。大変、驚きました」
桜花が、珍しく素直に頷いた。
私は少しだけ笑った。
「詳しくは、落ち着いてから話すよ」
「はい。……ぜひ、お聞かせください」
そう言って、桜花はもう一度花びらを見上げた。
……うん。
そのうち、教えてあげてもいいかもしれないね。
ただ、今は。
私は目線を下げた。
少し離れたところで、小さな邪神がこそこそと逃げようとしている。
……あっ。
忘れるところだった。
「イオデグラン。どこへ行くつもりです?」
『……ひっ!』
小さな身体が跳ねた。
私は近づき、逃げないようにその身体を捕まえた。
抵抗はあったが、もう危険な力は感じない。
桜花が、不思議そうにその姿を見る。
「……こちらが、邪神でございますか?」
「……うん。さっきまで五メートルくらいあったんだけどね」
『は、離せ! 無礼者!』
「離したら、また逃げるでしょう」
『……ぐっ』
……うーん。
神様って、どうしてこういう人が多いんだろう。
いや。
今は、その話をしている場合じゃないか。
私は邪神を逃がさないように持ち直し、南の空へ視線を向けた。
そこには、戦いに勝った喜びだけでは済まない現実が残っている。
大陸の町。
崩れた建物。
逃げることのできなかった人たち。
王国邸に避難させた約一万人は、今も巴さんたちの指揮の下で身を寄せ合っている。
邪神を倒したからといって、失われた命が戻るわけじゃない。
壊れた町が、勝手に元の姿になるわけでもない。
……このままじゃ、終われない。
「……桜花」
「はい、リアリス様」
「邪神との戦いは、終わったよ」
「……はい」
私は、遠くの空を見つめた。
「でも、まだやることが残ってる」
桜花は、何も言わなかった。
ただ、私の隣に並んでくれた。
私は小さな邪神を見下ろし、もう一度、ステラの空へ目を向けた。
――必ず、元に戻す。
家族と笑って過ごせる、あの世界へ。
私の戦いは、まだ終わっていなかった。




