↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
120/168

第4話:白く光る者

 邪神が復活して、三日目の朝。


 私は、居間の窓から空を見上げていた。


 ……曇り、か。


 昨日の夜から、楓が監視している北の海の光は、少しずつ強くなっているらしい。


 海面を照らすだけだった光が、今では空の雲まで白く染めている。


 しかも、ゆっくり南へ移動している。


 ……ああ。


 嫌な予感しかしない。


 机には、セバスが徹夜でまとめてくれた報告書。


 八か国の防衛状況。


 被害を受けた町や村の名前。


 新しく生まれた黒髪の子たちの配置先。


 ……そして、まだ避難できていない人たちの数。


 私は、最後の項目へ目を落とした。


 昨日よりは、減っている。


 それでも、まだ大勢の人が助けを待っているんだ。


「旦那様。各国からの朝の報告でございます」


 セバスが、新しい書類を持ってきた。


「ありがとう。……どう?」


「昨夜、大きな魔獣の群れを食い止めた地域がございます。反対に、連絡のつかない村も、いくつか」


「……そっか」


 報告がないのは、無事だからかもしれない。


 でも、そうじゃないかもしれない。


 ……それが、怖い。


「防衛の子たちからは?」


「各地で避難の誘導を続けております。現地の兵士や冒険者とも連携できているようです」


「……うん。よかった」


 昨日、一人で飛び回っていた頃に比べれば、ずいぶん状況は変わった。


 私がいない場所でも、人々を守れるようになったからね。


 ……でも。


 邪神そのものは、まだ北の海にいる。


 それを何とかしない限り、終わらない。


 そう考えた、そのときだった。


 ふわり。


 《映像通話》の画面が現れた。


『着信:ローズ帝国』


 …………。


 ……えっ?


 私は、すぐに通話を開いた。


「皇帝? どうしました!?」


 映ったのは、ガラントさんだった。


 いつもの整った服装じゃない。


 肩には埃が積もり、額の辺りに血がにじんでいる。


 その向こうからは、何人もの叫び声が聞こえた。


『リアリス殿! 帝都トリテアが攻撃を受けております!』


「……えっ!?」


『北の空から、突然、巨大な光が――!』


 言い終わる前に、画面が大きく揺れた。


 がんっ!


 何かが倒れる音。


 ガラントさんが、身体を低くする。


『くっ……!』


「ガラントさん!」


『……失礼しました! 陛下はご無事です! しかし、北側の市街地が……!』


 …………。


 北側の、市街地?


 そんな。


 帝都には、たくさんの人がいる。


 あの賑やかな通りも。


 何度も訪ねたお店も。


 ……まさか。


「今から行きます! ガラントさん、皇帝のいる場所を教えてください!」


『王城の南庭です! 北側は崩落しております!』


「分かりました!」


 私は、立ち上がった。


 セバスが、すでに別の通話を開いている。


「旦那様。各国の防衛担当へ、帝国に異変が起きたことを伝えます」


「お願い! 王国邸も警戒を強めて!」


「かしこまりました」


 私は、隣に立っていた桜花を見た。


「……桜花。ここはお願い」


「承知いたしました。お屋敷と家族は、私がお守りいたします」


「ありがとう」


 ……うん。


 まずは、現地の人たちを助けないと。


「《転移》!」


     ◇


 景色が変わった瞬間。


 熱い風が、頬を叩いた。


 ……えっ?


 ここ、本当に帝都?


 私は、足元を確かめた。


 王城の南庭。


 綺麗に整えられていた芝生が、土と瓦礫で埋まっている。


 噴水は倒れ、石の彫像が砕けていた。


 庭の向こうでは、兵士たちが人を運んでいる。


 そして、北側。


 …………。


 ……ない。


 王城の北にあった建物の一部が、ない。


 城壁の向こうに見えるはずの屋根も、通りも。


 煙と埃の中に、消えてしまっていた。


「……何が、起きたんだ」


 自分の声が、ひどく小さく聞こえた。


「リアリス!」


 振り向くと、皇帝が駆け寄ってきた。


 いつもの豪快な笑顔はない。


 片腕で、負傷した兵士の身体を支えている。


「皇帝!」


「話はあとだ! まず、こいつを頼む!」


「はい!」


 私は、すぐに《完全回復》を発動した。


 兵士の傷が消えていく。


 皇帝が、安堵したように息を吐いた。


「……助かった」


「ほかの怪我人は!?」


「城の中にも、外にもおる。ガラントが取りまとめているが、手が足りん!」


「分かりました。すぐに治療します!」


 私は、《映像通話》でセバスに連絡を入れた。


「セバス! 帝都の負傷者が多すぎる! 来られる家族に救護をお願いできる!?」


『承知いたしました。まず私が《転移》で伺い、治療と搬送をお手伝いいたします。各国の担当は警備を維持し、動ける者だけを調整いたします』


「ありがとう! 場所は皇帝たちに確認して!」


『かしこまりました』


 ……よし。


 私は、庭の負傷者たちへ《完全回復》を広げた。


 倒れていた兵士が目を開ける。


 怪我をした人が、身体を起こす。


 助かった人が、隣の人を揺さぶる。


 ……でも。


 動かない人もいた。


 …………。


 私は、その人たちから目を逸らさなかった。


 ……ごめんなさい。


 もっと早く来られていたら。


 ……いや。


 今は、生きている人を。


 私は、次の人へ向かった。


     ◇


 しばらくして、ガラントさんと合流した。


 セバスも到着して、王城内の怪我人を診てくれている。


 皇帝は、自分の傷を治し終えると、すぐに兵士たちの指揮へ戻っていった。


 ……ああ。


 この人たちだって、怖いはずなのに。


 立ち止まっていないんだ。


「ガラントさん。北からの光って、何だったんですか?」


「……我々にも、分かりません」


 ガラントさんが、壊れた城壁の向こうを見た。


「ただ、北の空が一瞬白く染まったかと思うと、市街地へ何かが落ちたのです」


「……何か?」


「光、としか申し上げようが……」


 …………。


 光。


 北から来た。


 ……まさか。


 私は、楓につないでいた《映像通話》を開いた。


「楓! 聞こえる!?」


『……はい』


「さっき、北の海で何かあった?」


 画面が揺れる。


 遠くにあった白い光は、昨日よりずっと大きくなっていた。


 その向こうに、暗い雲が渦を巻いている。


『……光が、伸びた』


「……伸びた?」


『……南へ』


 …………。


 ……やっぱり。


 北の海から、帝国へ?


 そんな距離を?


 ……ああ。


 これが、神様と同じ存在の力なのか。


「楓。今の位置から近づかないで。危ないと思ったら、すぐ戻って」


『……承知』


 私は、画面を閉じた。


「……ガラントさん。攻撃してきたものの場所は、分かりました」


「……邪神、ですか」


「たぶん、そうです。北の海にいる白い光が、こちらへ何かを飛ばしたみたいで……」


 ガラントさんの顔から、血の気が引いた。


「……北の海から、ここまで……」


「……はい」


 …………。


 私は、もう一度、帝都を見た。


 崩れた城壁。


 焼けた家。


 立ち尽くす人々。


 ……ここには、私が知っている場所がたくさんある。


 友達もいる。


 顔を知っている人もいる。


 ……そうだ。


 あのお店は?


 私は、胸騒ぎを覚えた。


「ガラントさん。市街地の方、確認してきます」


「お待ちください! まだ落下物が続くかもしれません!」


「……分かっています。でも、助けを待っている人がいます」


 ガラントさんは、私を見た。


 少しの沈黙。


「……ご武運を。こちらは避難の誘導を続けます」


「お願いします!」


 私は、《フライ》で崩れた城壁を越えた。


     ◇


 帝都の通りは、別の町みたいになっていた。


 以前は、馬車が行き交っていた大通り。


 香辛料の匂い。


 商人たちの声。


 どこかで焼いているパンの香り。


 ……そんなものは、何もなかった。


 崩れた屋根。


 道を塞ぐ石。


 家の中にあったはずの椅子が、通りの真ん中に転がっている。


「誰か! いませんか!」


 私は、大声で呼びかけた。


 返事があった。


 瓦礫の向こう。


 私は、急いで石を《収納》で取り除いた。


 中から、年配の女性と若い男性が現れた。


「……た、助かった……!」


「怪我は!?」


 男性が、腕を押さえている。


 私は、《完全回復》を発動した。


 女性も、立ち上がることができた。


「城の南庭で、救護をしています。南の通りを進めば、兵士さんたちが案内してくれます!」


「……ありがとう……ありがとうございます……!」


 私は、二人を見送った。


 ……よかった。


 でも。


 すぐ近くから、別の声が聞こえた。


「……お母さん!」


 私は、声の方へ走った。


 崩れた塀の横で、少年が泣いている。


 その足元には、倒れた女性がいた。


 私は、すぐに《完全回復》をかけた。


 …………。


 動かない。


 …………。


 ……ああ。


 間に合わなかったんだ。


 少年が、私の袖を掴んだ。


「……どうして……?」


 …………。


 何て、答えたらいいんだろう。


 私は、膝をついた。


「……ごめんね」


 少年は、泣きながら女性の手を握った。


 私は、少しの間だけ、隣にいた。


 ……でも。


 遠くで、また助けを呼ぶ声がする。


「……近くの兵士さんを呼んでくるから。ここから離れずに待っていてね」


 少年は、何も答えなかった。


 ……ああ。


 せめて、誰かが傍にいてくれないと。


 私は、近くの救護へ向かう兵士に事情を伝えて、少年の元へ案内した。


 それから、次の声の方へ走った。


 …………。


 何度も同じことをした。


 傷を治す。


 瓦礫を除ける。


 誰かを運ぶ。


 そして。


 ……何度も、間に合わなかった。


     ◇


 その店の前に着いたのは、しばらく経ってからだった。


 ……あれ?


 私は、足を止めた。


 見覚えのある通り。


 いつもなら、角を曲がるといい匂いがしてくる。


 そう。


 帝国に来たとき、何度か立ち寄った洋食屋さん。


 あそこの料理、好きだったんだよねぇ。


 ……ああ。


 今日みたいな日じゃなければ、また食べに行きたかったな。


 ……でも。


 店が、ない。


 そこにあったのは、崩れた壁と、半分だけ残った看板だった。


 私は、しばらく動けなかった。


 ……嘘でしょ。


 あの店。


 いつも、お客さんがいて。


 店主さんが、忙しそうに料理を作っていて。


 ……私が注文しすぎると、驚いた顔をして。


 そんなお店だった。


 …………。


 いや。


 今、悲しむのは料理が食べられなくなったことじゃない。


「……誰か! お店の中に人はいますか!」


 私は、瓦礫を片づけ始めた。


 大きな梁を浮かせる。


 崩れた壁を《収納》する。


 床の下を確かめる。


 ……お願いだから。


 誰か。


 …………。


 そのとき、瓦礫の隙間から、小さな音が聞こえた。


「……だれか……」


 …………。


 いた!


「今、助けます!」


 私は、慎重に木材を取り除いた。


 奥にいたのは、店の従業員らしい若い女性だった。


 脚に深い傷がある。


「大丈夫。もう、動かなくていいですよ」


「……あ、あの……店主が……」


「店主さんは、どこですか?」


「……奥に……」


 私は、《完全回復》で女性を治し、安全な場所へ移した。


 それから、店の奥へ向かった。


 ……ああ。


 そこには、倒れた調理台があった。


 その下に、人がいた。


 …………。


 私は、すぐに木材を除けた。


 でも。


 …………。


 ……駄目だった。


 …………。


 私は、しばらく立ち尽くした。


 顔見知りだった。


 何度か料理を作ってもらった人。


 名前も、ちゃんと聞いておけばよかったな。


 ……いや。


 今さら、そんなことを考えても。


 …………。


 私は、そっと目を閉じた。


 ……ごちそうさまでした。


 もう一度、あの料理を食べたかったです。


 それだけ、心の中で伝えた。


 ……でも。


 ここで立ち止まっていたら、また誰かが間に合わなくなる。


 私は、店の外へ戻った。


 女性が、心配そうにこちらを見ている。


 私は、すぐには言葉が出なかった。


「……ごめんなさい」


 女性の表情が、変わった。


 ……ああ。


 何て、残酷な日なんだろう。


     ◇


 午後に入る頃には、帝都の被害はさらに広がっていた。


 魔獣まで、町の外から押し寄せている。


 私は、現れた群れを《完全拘束》で止め、《即死》で倒した。


 ……魔獣には、いつもどおり効く。


 でも、海の向こうの邪神には、まだ一度も会っていない。


 それなのに。


 ここまでの被害。


 ……ああ。


 帝国だけでも、何人亡くなったんだろう。


 きっと、ガラントさんが調べてくれている。


 でも。


 今は、数字を聞きたくない。


 聞かなければならないのは、分かっているけど。


 ……そのとき。


 空が、白くなった。


 …………。


 私は、顔を上げた。


 雲の向こう。


 北の方角から、一本の光が伸びていた。


 ……まさか!


 私は、すぐに《フライ》で上空へ飛んだ。


 光は、帝都の方へ向かっている。


 ……止めないと!


 私は、自分と帝都の位置を確かめた。


 まだ、少し距離がある。


 ……だったら。


 攻撃を止めるんじゃなくて、向きを変えさせれば!


「……こっちだ!」


 私は、光が向かう先の空中へ飛び出し、刀を振り抜いた。


 切り裂いたのは、光そのものじゃない。


 その先にあった空気。


 振り下ろした刀から、強い風が広がる。


 …………。


 でも。


 光は、何事もなかったように進んだ。


 ……まずい!


 私は、《転移》で別の位置へ移動した。


 直後。


 白い光が、帝都の北側へ落ちた。


 どんっ!


 ……音が、遅れて届いた。


 大きな衝撃で、建物の屋根が次々に崩れていく。


 地面が揺れた。


 遠くの塔が、傾いた。


 …………。


 ……まただ。


 私は、唇を噛んだ。


 こんな攻撃が何度も続いたら。


 帝都だけじゃない。


 ほかの国まで、同じことになる。


 ……それだけは、避けないと。


 私は、もう一度、北の空を見た。


 ……邪神。


 イオデグラン。


 ……ああ。


 もう、放っておけない。


     ◇


 王城の南庭へ戻ると、皇帝が地図を広げていた。


 その周りには、ガラントさんや兵士たち。


 救護を続けているセバスの姿も見えた。


「……皇帝!」


「リアリス! 無事か!」


「私は大丈夫です。でも、北の市街地が……」


 私は、言葉を探した。


 あの洋食屋さん。


 もう、あそこで料理を作ってくれる人はいない。


 ……ああ。


 何て伝えたらいいんだろう。


 でも、今は個別の話をしている場合じゃない。


「……北の海から、また光が飛んできました」


 皇帝の顔が強張った。


「見たのか」


「はい。空を横切って、帝都の北側へ……」


「……そうか」


 皇帝は、拳を握った。


 近くにいたガラントさんも、黙って地図を見つめている。


「リアリス殿」


「はい」


「北の海にいる邪神が、ここまで攻撃を届かせられるのであれば、城壁も軍勢も、守りの要にはなりません」


「……そうですね」


 ガラントさんが、地図の上へ指を置いた。


「現在、避難できる者を南側へ移しております。しかし、次の攻撃が落ちる場所までは分かりません」


 …………。


 そうだ。


 どこへ逃げても、狙われれば同じかもしれない。


 ……いや。


 それだけは、嫌だ。


「……皇帝。私、邪神のところへ行こうと思います」


 皇帝が、私を見た。


「……倒しに行くのか」


「まずは、様子を見ます。何ができる相手なのかも、まだ分からないから」


「……うむ」


「でも、少なくとも、帝都を攻撃するより私を相手にしてもらいたいんです」


 …………。


 口にしてから、少し怖くなった。


 ……神様と同じ存在。


 そんな相手に、私は何ができるんだろう。


 《想像魔法》は、確かに強い。


 今までは、ほとんど困ったことがなかった。


 でも。


 実際に邪神を見たわけでもない。


 直接、力を確かめたこともないんだ。


 ……だから。


 いきなり全力で攻撃するつもりはない。


 まず、相手を見る。


 避けられる攻撃は避ける。


 こちらからは、少しずつ。


 ……それで、動きが分かればいい。


「皇帝。しばらく帝都を離れます。怪我人の治療と避難は、セバスにお願いしてもいいですか?」


「……もちろんだ。だが、お前の家族まで危険に巻き込んでよいのか?」


「セバスは、自分でできることを考えて動いてくれます。それに、帝国の人たちもいるから」


 皇帝は、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり頷いた。


「……分かった。こちらは任せろ」


「ありがとうございます」


 私は、ガラントさんへ向き直った。


「ガラントさん。できるだけ市街地から人を離してください。避難先で足りないものがあったら、セバスに相談してもらえれば」


「承知いたしました。リアリス殿も、どうかご無事で」


「……はい」


 ……ああ。


 その言葉が、妙に重く感じる。


 私は、セバスの方へ歩いた。


「……セバス。私は、邪神のところへ行くよ」


「……承知いたしました」


「帝国の人たちをお願いできる?」


「もちろんでございます。負傷者の治療と避難の調整はこちらでお引き受けいたします」


 ……うん。


 頼もしいね。


「それと、ほかの国からの連絡も、引き続きまとめておいてほしい」


「かしこまりました」


「何かあったら、すぐに連絡を」


「承知いたしました。旦那様も、どうかお気をつけて」


 私は、頷いた。


 ……うん。


 世界中のことを心配しながら、邪神と戦えるわけじゃない。


 今は、目の前の相手に集中しよう。


 ……でも。


 それができるのも、みんなが各国を守ってくれているからなんだ。


 私は、もう一度、皇帝へ頭を下げた。


「……行ってきます」


「ああ。頼んだぞ、リアリス!」


 私は、《転移》で王国邸へ戻った。


     ◇


 王国邸の庭に戻ると、桜花が待っていた。


「リアリス様」


「……ただいま」


「おかえりなさいませ。帝国のご様子はいかがでしたか」


 …………。


 私は、少しだけ言葉に詰まった。


「……酷かったよ」


 それだけ答えた。


 桜花は、それ以上すぐには尋ねなかった。


 ……ああ。


 この子には、隠しても仕方ないね。


「北の海にいる邪神が、帝都へ直接攻撃してきたんだ。あの距離から……」


「……左様でございますか」


「多くの人が亡くなった。私の知ってる人も……」


 桜花が、静かに頭を下げた。


 私は、息を吐いた。


「……ごめんね。今は、落ち込んでいる時間がない」


「お気持ちは、よく分かります」


「……うん」


 少し沈黙があった。


 ……いや。


 その前に、決めなければいけないことがある。


 帝都は、たった一度の攻撃であんなことになった。


 しかも、邪神は今も北の海にいる。


 ……ほかの国の屋敷だって、いつ同じ目に遭うか分からない。


 全邸には《結界》がある。


 魔獣は入ってこられない。


 でも、今日の帝都を見てしまったら、それだけで安心なんてできなかった。


 屋敷を守るために、家族を危険な場所へ残す。


 ……それは、違う。


「……桜花。巴さんを呼んできてもらえる?」


「かしこまりました」


 桜花が屋敷へ向かった。


 しばらくして、巴さんが庭へ出てくる。


「リアリスちゃん、どうしたの? お顔が……」


「……巴さん。大事な話があるんだ」


 私は、まっすぐ巴さんを見た。


「これから、各国のリアリス邸にいる家族を、一人残らず王都へ集めてほしい」


 …………。


 巴さんの表情が変わった。


「……全員、なのね?」


「うん。フラワーズも、各邸のメイドも、先生たちも。キャッツさんやエーデルさんも、誰も残さない」


 私は、一度息を吸った。


「屋敷だけじゃなく、雑貨屋や各国の学校にいる家族もお願い。生徒たちは、現地の保護者や国の担当者へ安全に引き継いで。……でも、うちの家族は全員帰ってきてほしい」


「……分かったわ」


「それから、セバスも。今は帝都で救護をしてもらってるけど、現地の救護班へ引き継いだら帰還させて。帰還の確認が取れるまで、誰も置いていかないで」


 …………。


 今も助けを待つ人がいる。


 それは、分かってる。


 各国には、緊急防衛のために生み出した黒髪の子たちも残っている。


 現地の兵士や冒険者たちだって、必死で戦っている。


 でも。


 今回呼び戻すのは、私たちが暮らす各邸の家族だ。


 屋敷を守るためだけに、誰かを残すつもりはない。


「……これはお願いじゃなくて、私からの命令だよ」


 …………。


 自分でも、少し驚いた。


 普段、巴さんにこんな言い方をしたことはない。


 でも。


 今日だけは、曖昧にしたくなかった。


 巴さんは、静かに背筋を伸ばした。


 さっきまで私を心配していた、優しいお母さんの顔が引き締まる。


 ……ああ。


 この顔。


 メイド長としての、巴さんだ。


 巴さんが、深く頭を下げた。


「承知いたしました、リアリス様」


 …………。


 声まで変わった。


 でも、そこに迷いはなかった。


「ただいまより、全邸の家族の帰還を開始いたします。各屋敷と学校、雑貨屋を確認し、最後の一人まで帰還を記録いたします」


「……うん。お願い」


「各邸の《簡易転移扉》を利用し、王国邸へ移動させます。現地への通達も、私から手配いたします」


 巴さんは、私を見た。


「帰還後の配置はいかがいたしましょう」


 ……ああ。


 そうだ。


 人数も、考えないと。


 私たちの家族は、もう百人を超えている。


 王国邸は広いけど、全員が寝泊まりできるほど部屋が余っているわけじゃない。


「……王国邸だけじゃ、全員は入れないよね」


「はい。王都学校とリアリス孤児院にも、空き室がございます」


「だったら、三か所に分かれてほしい。学校の教室や、孤児院の子供たちの生活場所は、なるべくそのままで」


「かしこまりました。王国邸を指揮の中心とし、学校と孤児院にも休息場所を確保いたします」


 …………。


 ……うん。


 それなら、大丈夫そうだ。


 ……ただ。


 これだけは、はっきりさせておこう。


「それと、王国邸側の指揮は全部、巴さんに任せる。セバスも、フラワーズも、ほかの家族も、全員巴さんの指示に従ってほしい」


「……承りました」


「フラワーズが全員そろったら、王国邸と王都学校、それからリアリス孤児院を守って。三か所全部、お願いしたいんだ」


 巴さんが、一度だけ頷いた。


「フラワーズ全員を三施設の防衛に配置いたします。連絡と交代の体制も整えます」


「……うん」


「ほかの国のお屋敷は、どうなさいますか」


 …………。


 私は、少しだけ目を閉じた。


 各国の屋敷。


 そこで過ごした時間。


 みんなで笑った食堂。


 お店で売っていた紅茶やクッキー。


 ……どれも、大切だ。


 でも。


 家族の命と比べるものじゃない。


「……王国邸以外の屋敷の防衛は、やめよう」


「……承知いたしました」


「結界は、そのまま残す。でも、誰も残して守らせない。屋敷が壊れても、また作ればいいから」


 ……そう。


 家は、作り直せる。


 でも、家族まで同じように考えたくない。


「リアリス様。王国邸、王都学校、リアリス孤児院を最優先の防衛区域といたします」


「ありがとう、巴さん」


「こちらは私にお任せください。リアリス様は、邪神への対処に集中なさってくださいませ」


 …………。


 ……ああ。


 頼もしいなぁ。


 普段は「ご飯を食べなさい」って言ってくれる巴さんが。


 今は、私の代わりに百人以上の家族を動かそうとしている。


 ……いや。


 だから、安心して任せられるんだろうね。


 巴さんは、もう一度頭を下げると、すぐに屋敷へ戻っていった。


 ……うん。


 お願いしたよ。


 庭の向こうでは、何事もないように花が揺れている。


 私は、その花を見ながら言った。


「……桜花。これから北の海へ行こうと思う」


「……邪神の元へ、でございますか」


「うん」


 桜花は、私をまっすぐ見つめた。


「お供いたします」


 ……ああ。


 やっぱり、そう言ってくれるんだね。


「……ありがとう。でも、今回は戦わないでほしいんだ」


「……かしこまりました」


「まず、私が相手の様子を見てくる。桜花には、十分離れた場所で待っていてほしい。何かあったときの連絡も、お願いしたいんだ」


「承知いたしました」


 ……うん。


 桜花の強さは、私が一番よく知っている。


 あのSS級のヒュドラだって、桜花が倒した。


 でも。


 今回の相手は、神と同じ存在なんだ。


 今までの相手と、同じようには考えられない。


「それでね。桜花に、二つ魔法を付与しておこうと思うんだ」


「……二つ、でございますか」


「うん。《映像通話》と《フライ》」


 桜花が、小さく首を傾げた。


 ……あっ。


 そうだよね。


 いつもは、私が一緒にいるから。


 桜花が自分で《映像通話》をかけたり、空を飛んだりする必要はなかった。


「離れたところからでも連絡が取れた方が安心でしょ? それに、万が一危険なものが飛んできたら、自分で移動できた方がいいからね」


「……なるほど」


「桜花は魔力がないから、普通の授与魔法だと使えないんだ。でも、今回は魔力を使わずに発動できるようにするよ」


 私は、桜花の手を取った。


 ……想像する。


 私と同じように、呼びたい相手を指定して映像で話せる力。


 魔力がゼロでも、使用回数に制限なく発動できる。


 そして。


 自分の意思で、空中を自由に移動できる力。


 上昇。


 下降。


 前後左右。


 空中停止。


 速度の調整。


 ……うん。


 これなら、私と離れていても大丈夫なはずだ。


「……《映像通話》と《フライ》。桜花に永続付与」


 桜花の身体が、ほんの少し淡く光った。


 それから、光は消えた。


「……どうかな」


 桜花は、私の手を見つめた。


「……何か、できるようになった気がいたします」


「おっ。それじゃ、試してみようか」


 私は、少し離れたところへ歩いた。


「《映像通話》って言って、私に連絡してみて」


「かしこまりました」


 桜花が、静かに口を開いた。


「《映像通話》。リアリス様へ」


 ふわり。


 私の目の前に、呼び出しの画面が現れた。


 ……おお!


 私は、画面に触れた。


『リアリス様。聞こえておりますでしょうか』


「聞こえるよ! ちゃんと映ってる!」


 少し離れたところで、桜花が微笑んだ。


 ……うん。


 できたね。


 次は、《フライ》。


「じゃあ、今度は少し浮いてみて」


「かしこまりました。《フライ》」


 桜花の身体が、ふわりと浮いた。


 足が地面から離れていく。


 ……おお。


 桜花まで、空を飛べるようになったんだね。


 私は、ちょっとだけ感動した。


 ……いや。


 考えてみれば、私が付与したんだから、当然なんだけど。


 桜花は、ゆっくり上昇した。


 数メートルの高さで止まり、静かに方向を変える。


 それから、私の前へ降りてきた。


「……問題なく使用できそうでございます」


「……うん。よかった」


 …………。


 私は、ほっと息を吐いた。


 これなら、桜花が離れた場所から連絡できる。


 何かあっても、空を移動して逃げられる。


 ……よし。


 準備が一つ、終わった。


     ◇


 でも。


 もう一つ、やることがある。


 ……楓だ。


 楓は、邪神が復活してから、ずっと北の海を監視してくれている。


 ほとんど休みもなく。


 危険な相手から、ずっと距離を取って。


 ……ああ。


 本当に、ありがとうね。


 私は、《映像通話》を開いた。


「楓。聞こえる?」


『……はい』


「今から迎えに行くよ。邪神との戦いを始めるから、楓には王国邸へ戻ってほしいんだ」


 少し、間があった。


『……承知』


「……怖くなかった?」


『……少し』


 …………。


 ……ああ。


 そうだよね。


 楓は、こんなことを自分から言う子じゃない。


 ……だからこそ。


 その一言が、胸に残った。


「……ありがとう。ずっと見ていてくれて」


『……はい』


「そこから動かずに待っていてね」


『……承知』


 私は、桜花へ向き直った。


「……ちょっと、楓を迎えに行ってくるよ」


「かしこまりました」


 私は、北の海の景色を思い浮かべた。


 以前、楓と一緒に確認した、あの場所。


 白い光から、十分距離を取った空中。


 ……うん。


 行こう。


「《転移》」


 次の瞬間。


 目の前には、灰色の海が広がっていた。


 ……ああ。


 ここだ。


 でも。


 前に来たときとは、空気が違う。


 風が重い。


 遠くの雲が、白く照らされている。


 そして。


 水平線の先には、昨日よりずっと大きな光。


 ……あれが。


 邪神。


 私は、思わず目を細めた。


「……リアリス様」


 隣から、楓の声がした。


 小柄な身体。


 橙色の短い髪。


 いつもの無表情。


 でも、手に持った望遠鏡は、少し強く握られていた。


「……お疲れさま、楓」


「……はい」


「これからは、私が見るよ。楓は王国邸に戻って、家族を守ってほしいんだ」


 楓が、小さく頷いた。


「……承知」


 ……ああ。


 その言葉を聞くと、安心するね。


 私は、楓の手を取った。


「……じゃあ、帰ろうか」


「……はい」


「《転移》」


     ◇


 再び、王国邸の庭。


 桜花が、同じ場所で待っていた。


「楓。お帰りなさいませ」


「……ただいま」


 …………。


 ……うん。


 短いけど、ちゃんと挨拶してる。


 何だか、それだけで少しほっとした。


 私は、楓の頭にそっと手を置いた。


「本当にありがとう。あとは、巴さんの指示に従って、学校と孤児院も一緒に守ってね」


「……はい」


 楓は、いつもどおり小さく頷いた。


 そこへ、巴さんが歩いてきた。


「リアリス様。各邸からの帰還を確認いたしました。楓も戻りましたので、これでフラワーズは全員そろっております」


 …………。


「セバスは?」


「帝都の救護を現地の方々へ引き継ぎ、先ほど王国邸へ戻りました。雑貨屋や学校に勤務していた者も、全員帰還しております」


 …………。


 ……ああ。


 よかった。


 本当に、一人も残ってないんだね。


「家族の人数と配置先も、確認できております。屋敷の部屋だけでは足りませんので、一部は王都学校とリアリス孤児院に分散させました。どちらの子供たちの生活も、できるだけ変えずに済むよう調整しております」


「……ありがとう」


「このあと、フラワーズを三施設の防衛へ配置いたします。既存の各国邸は結界のみを残し、警備人員は置きません」


「……うん。お願いします」


 巴さんは、深く一礼した。


「かしこまりました」


 ……あ。


 そうだ。もう一人、お願いしなきゃいけない家族がいた。


「巴さん、モフ太は今、屋敷の中だよね?」


「はい。二階のホールにおります。お呼びいたしましょうか」


「お願い。モフ太にも、守ってもらいたいんだ」


「かしこまりました」


 巴さんが屋敷へ戻り、しばらくすると、モフ太を連れてきてくれた。


 普段どおり、全長五十センチほどの姿。


 ふわふわの毛に、丸い耳。


 ……うん。


 どう見ても、可愛い熊のぬいぐるみみたいだね。


 ただし、本当の姿は違う。


「ご主人様。お呼びでしょうか」


「うん。モフ太にも大事なお願いがあるんだ」


「何なりと、お申しつけください」


 私は、しゃがんでモフ太と目を合わせた。


「これからは、庭で王国邸を守ってほしい。元の五メートルの姿に戻って、警戒してもらえるかな?」


「承知いたしました」


「もちろん、カトレアの安全を一番に守る約束はそのままだよ。巴さんとフラワーズのみんなとも協力してほしい」


「はい。カトレアも、このお屋敷も、必ずお守りいたします」


 ……うん。


 頼もしいね。


 私は、モフ太が庭の広い場所へ移動するのを見届けた。


 花壇や建物から、十分に離れたところ。


「ここなら大丈夫かな」


「はい。それでは、《縮小》を解除いたします」


 次の瞬間。


 小さな身体が、みるみる大きくなっていった。


 ふわふわだった前脚が、丸太みたいに太くなる。


 小さく見えていた爪も、鋭い。


 そして、あっという間に。


 そこには、全長五メートルの巨大な熊が立っていた。


 …………。


 ……おお。


 久しぶりに見ると、やっぱり迫力があるねぇ。


 これ、何も知らない人が見たら絶対に魔獣の襲撃だと思うよね。


 ……いや。


 実際、Sランクの魔獣なんだけど。


「お父さん!」


 屋敷の方から、カトレアが駆けてきた。


 その手には、幅の広い赤いリボンがある。


「モフ太が大きくなってたから、びっくりしちゃった。でも、このままだと学校や孤児院のみんなも怖がると思うの」


「……ああ。確かにそうだね」


「だから、これ!」


 カトレアが、リボンを持ち上げた。


 ……なるほど。


 目印か。


 モフ太も、すぐに察したらしい。


 大きな身体をゆっくり伏せて、カトレアの前へ頭を下げた。


「カトレア。よろしくお願いいたします」


「うん! じっとしててね」


 カトレアは、その太い首にリボンを回して、丁寧に結んだ。


 大きな赤い蝶結び。


 ……おお。


 あの恐ろしいバイオレンスグリズリーが。


 ……何だか、すごく可愛くなったぞ。


 いや、大きさと爪の迫力は変わってないんだけどね。


「これなら、モフ太だって分かるよね!」


「……うん。学校と孤児院にも、赤いリボンの大きな熊は味方だって伝えておこう」


 巴さんが、すぐに一礼した。


「承知いたしました。三施設へ周知いたします」


 カトレアは、満足そうに頷いた。


 それから、モフ太の大きな首にぎゅっと抱きついた。


「モフ太、お願いね」


「……はい、カトレア。お任せください」


 …………。


 ……ああ。


 大きな熊と、それに抱きつくカトレア。


 普通なら、絶対に止める光景だよね。


 でも。


 モフ太は、カトレアを大切に思ってくれている。


 私たちと一緒に暮らす、大事な家族なんだ。


 私は、モフ太の大きな前脚を軽く撫でた。


「……二人とも、ありがとう」


 モフ太が、静かに頷いた。


 カトレアは、もう一度リボンを確かめてから、屋敷へ戻っていく。


 モフ太は、その背中を見送ると、庭の外側へ向き直った。


 …………。


 ……よし。


 これなら、王国邸も少し安心できるね。


 …………。


 ……ああ。


 これで、少しは安心できる。


 学校にも、孤児院にも、家族がいる。


 ……みんな、ちゃんと守ってほしい。


 私は、桜花を見た。


「桜花。じゃあ、今度は私たちの番だね」


「はい。リアリス様」


 ……うん。


 準備は、できた。


 ……いや。


 本当に、できているのかな。


 相手のことなんて、ほとんど分かってないのに。


 …………。


 でも。


 だからって、何もしないわけにはいかない。


     ◇


 居間へ戻ると、カトレアと巴さんが待っていた。


 楓は、カトレアのそばへ歩いていく。


 ……うん。


 もうすぐ、フラワーズ全員が三か所の持ち場へ向かう。


 王国邸だけじゃない。


 学校にも、孤児院にも、守りたい家族がいるんだ。


 ただ。


 カトレアの顔を見た途端、少しだけ言葉に詰まった。


 ……ああ。


 この子には、どう伝えたらいいんだろう。


「……お父さん」


 カトレアが、先に口を開いた。


「……これから、邪神のところへ行くんだよね」


 …………。


「……うん」


「桜花お姉ちゃんも?」


「……うん。一緒に来てもらうよ。でも、危険なところへは近づけないつもり」


 カトレアは、私たちを見つめた。


 しばらく黙ってから、静かに言った。


「……お父さん。無茶しないでね」


 …………。


 ああ。


 それは、ちょっと難しいお願いかもしれない。


 でも。


 できるだけ、そうするよ。


「……うん。危ないと思ったら、まず避ける。いきなり突っ込んだりしないから」


「……本当?」


「……本当」


 ……たぶん。


 いや、そこはちゃんと守ろう。


 カトレアは、少しだけ笑った。


「……じゃあ、帰ってきたら、お菓子屋さんの続きね」


 …………。


 私は、思わず笑いそうになった。


 ……ああ。


 そうだね。


 約束、まだ残ってたんだ。


「……うん。必ず」


 巴さんが、カトレアの肩にそっと手を置いた。


「リアリス様。王国邸、学校、孤児院の防衛は私が指揮いたします。どうか、ご安心くださいませ」


「……ありがとう、巴さん」


「お帰りになる頃には、温かいお食事をご用意しておきます」


 …………。


 ……ああ。


 何だか、泣きそう。


 私は、何度か瞬きをした。


「……うん。楽しみにしてる」


 楓が、私を見上げた。


「……守る」


 …………。


 私は、頷いた。


「……うん。お願い」


 ……ああ。


 この家を守る人が、ちゃんといる。


 私は、もう一人で全部を背負う必要はない。


 ……でも。


 邪神のところへ行くのは、私だ。


 そこだけは、誰かに代わってもらえない。


「……行ってきます」


 私は、桜花と一緒に庭へ出た。


     ◇


 空は、少し赤くなり始めていた。


 夕方。


 もう、こんな時間なんだね。


 ……ああ。


 朝から、ほとんど休んでいない。


 でも、ここからだ。


「……桜花。少し遠い場所に、一緒に《転移》するね」


「かしこまりました」


「まず、邪神から十分離れた場所で降りる。そこから《フライ》で待っていてほしい」


「承知いたしました」


「戦いには入らないで。私から呼んでも、危険なら来ないこと。……それだけは、約束して」


 桜花が、私の目を見た。


「……承知いたしました。戦闘には加わらず、必要な連絡と見守りに徹します」


 ……うん。


 ありがとう。


 私は、空を見上げた。


 ……邪神。


 その名前を聞いたときは、遠い話のように感じた。


 でも、もう違う。


 帝都で倒れていた人たち。


 壊れた家。


 あの洋食屋さん。


 ……全部、現実だ。


 だから。


 これ以上、陸へ攻撃させるわけにはいかない。


「……じゃあ、行こう」


「はい」


 私は、桜花の手を取った。


「《転移》」


     ◇


 転移した先には、灰色の海と空が広がっていた。


 雲の一角が、遠くから白く照らされている。邪神のいる方角だ。


 私は空中に留まり、周囲を確かめた。陸地も船も見えない。桜花が隣で静かに浮いている。


「桜花。ここから先は私だけで行くよ」


「かしこまりました」


「邪神が近づいてきたら、迷わず距離を取って。私から連絡がなくても、危険だと思ったら逃げて」


「承知いたしました」


 桜花は私を見つめ、深く頭を下げた。


「リアリス様。どうか、ご無事でお戻りくださいませ」


「……うん。気をつける」


 離れてからも確実に連絡できるよう、最後に《映像通話》を試した。


「《映像通話》。リアリス様へ」


 桜花の声と姿が画面に映る。正常に使えている。


「よし。じゃあ、行ってくるね」


「行ってらっしゃいませ」


 私は桜花を残し、白い光へ向かって飛び始めた。


     ◇


 近づくにつれて、海の様子がおかしいことに気づいた。


 風は吹いている。雲も流れている。


 それなのに、白い光の真下だけは波一つ立っていなかった。


 まるで、巨大な鏡が海面にはめ込まれているようだ。


 ――海が、静かになった。


 楓の報告が、ようやく理解できた。


 私は速度を落とし、距離を保ったまま周囲を回った。


 白い光は海面の上に浮いている。その内側には、人の形をした何かがいた。


 背丈は五メートルほど。


 腕と脚が二本ずつ。人間に似た輪郭だが、全身からあふれる白い光のせいで顔が見えない。


 その向こうの景色が、熱気に揺らめくように歪んでいた。


 ……あれが、イオデグラン。


 私は刀の位置を確かめ、十分な距離を取ったまま呼びかけた。


「イオデグラン!」


 光の中の顔が、こちらを向いた。


「……邪神イオデグランで、間違いないですか!」


『……誰だ』


 遠くにいるはずなのに、その声は耳元で響いた。


『我の名を呼んだのは、お前か』


「私はリアリス。ステラに暮らす人間です」


『……人間か。何の用だ』


「ローズ帝国への攻撃を、やめてください」


『……ローズ帝国?』


「今日、帝都が攻撃されました。大勢の人が亡くなっています」


 邪神は、ゆっくり首を傾けた。


『……ああ。あの小さな建物の集まりか』


「……そこには、人が暮らしています」


『それがどうした』


 声に、何の感情もなかった。


 帝都の光景が脳裏をよぎる。崩れた町並みと、瓦礫の下で動かなかった人々。


 私は、邪神から目を逸らさずに言った。


「これ以上、町や村を攻撃しないでください」


『……お前が、我に命じるのか』


「やめてもらえないなら、私が止めます」


 白い光が、一瞬だけ強まった。


『……妙な人間だ』


 邪神が右手を持ち上げる。


『ならば、止めてみろ』


 指先に、光が集まった。


     ◇


 私は反射的に横へ飛んだ。


 白い閃光が、直前までいた場所を貫く。


 続いて、背後の海面が爆ぜた。


 轟音。数十メートルもの水柱が立ち上がり、砕けた飛沫が空へ散る。


 私は水柱から視線を戻し、邪神の右手を見た。


 指先がこちらを向いている。


 攻撃の前に、僅かな動きがある。


 距離を詰めず、邪神を中心に弧を描いた。


 右へ、左へ、高度を少し上げる。


 邪神の顔は追ってくるが、身体は動かない。


 私は一段だけ接近した。


 右腕が上がる。


 すぐに横へ避けた。


 音もなく飛来した光が背後の海面に突き刺さり、再び水柱を上げる。


 さらに上へ回り込むと、邪神も顔を上げた。


 今度は下から光が伸びてきた。


 私は後退し、閃光の進路を外した。


 追撃はない。


 ……今のところ、動作を見てから避けられる。


 だが、三度の攻撃だけで速さを見切ったと思うのは危険だ。


 私は刀を抜き、刃を下げたまま間合いを測った。


『……逃げ回るだけか』


「攻撃の仕方を見ています」


『……何?』


「まだ、力を確かめていませんから」


 邪神は答えなかった。


 私は横へ回り込み、腕の可動域を確かめた。


 頭部の向きは変わる。足はほとんど動かない。


 だが、空中に浮いている以上、それが移動の制約になるとも限らない。


 右腕が動いた。


 私は身体をひねって光をかわし、その脇を抜けた。


 すれ違う瞬間、刀を短く振るう。


 狙いは腕の外側。


 深く踏み込まない、反応を見るための一撃だ。


 キンッ!


 硬い音が響き、刃が弾かれた。


 手に衝撃が返ってくる。


 私は即座に距離を取った。


 邪神の腕に傷はない。


 ただ、刃は確かに触れた。光だけの幻ではない。


『……面白い』


 邪神が、自分の腕を見下ろす。


『お前、普通の人間ではないな』


 私は刀を構え直した。


 次の動きを待つ。


     ◇


 邪神が、初めて大きく身じろぎした。


 鏡のようだった海面が盛り上がり、同心円状の波が外へ広がっていく。


 白い身体が揺れた。


 ――消えた。


 私は左右と下方へ視線を走らせる。


 姿が見えない。


 背後の空気が、わずかに震えた。


 考えるより先に上へ跳ねた。


 直前までいた場所を、巨大な手が横切る。


 振り向くと、邪神がすぐ後ろにいた。


 私はそのまま一気に距離を広げた。


『……避けたか』


 邪神は追撃せず、その場に浮かんでいる。


 離れた場所へ一瞬で回り込める。


 腕の動きだけを見ていては、間に合わない。


 私は邪神の全身を視界に収め、再び一定の距離を保った。


 その間も、邪神は私を見ている。


 だが、すぐには襲ってこなかった。


 ……遊ばれている。


 そう感じた。


 そして、その余裕があるうちは、こちらへ注意を向けさせられる。


 私は、ゆっくり北へ移動した。


 邪神の顔が動く。


 さらに後退すると、邪神が一瞬で間合いを詰めてきた。


 伸ばされた手を横へかわし、私は北へ抜ける。


 白い身体が、またこちらへ向き直った。


 南には帝都がある。


 この海上で邪神の注意を引きつけておく。


 今の私にできることは、それしかなかった。


     ◇


 邪神が動きを止めた隙に、私は距離を広げて《映像通話》を開いた。


「桜花、聞こえる?」


『はい。リアリス様』


「そちらの状況は?」


『異常ございません。指定された位置で待機しております』


「分かった。邪神は急に位置を変える。気配が近づいたら、すぐに離れて」


『かしこまりました。リアリス様も、どうかお気をつけて』


「うん」


 私は通話を切り、再び邪神へ向き直った。


 白い光の輪郭が、さっきより鮮明に見える。


 大きな腕。長い指。人間に似た顔。


 表情は読み取れない。


 私は速度を変えて接近した。


 腕が上がる。


 左へ避ける。


 海面に閃光が落ち、衝撃で水が跳ね上がった。


 続いて横から手が伸びてきた。


 私は下へ潜り、邪神の後方へ回る。


 あえて刀は振らない。


 邪神がこちらを向くまでの時間を測った。


 ほとんど間を置かず、頭がこちらへ動いた。


 視界に入っていなくても、こちらの位置を捉えているらしい。


 私はすぐに後退した。


 数度の攻防を重ねる。


 光が放たれるたびに角度を変え、突然距離を詰められれば斜めへ逃れる。


 攻撃の間隔。


 腕の動き。


 接近する直前の気配。


 一つずつ確かめていく。


 だが、こちらが当てたのは、最初の一太刀だけだった。


 しかも、傷を負わせられていない。


 このまま守りに徹していても、帝都や各国を救えるわけではない。


 ……次は、もう少し踏み込む必要がある。


 私は刀を握り直した。


『……つまらんな』


 邪神の声が響く。


『逃げるばかりでは、つまらん』


 邪神が両手を開いた。


 一本の指先だけではない。


 そのすべてに、小さな光が集まり始めた。


 一つ、二つ、三つ。


 光はさらに増えていく。


 私は高度を下げ、邪神の手の向きと光の位置を見据えた。


 同時に放たれるのか。


 それとも、順番に狙ってくるのか。


 相手の次の動きに備え、逃げ道を確かめる。


 白く照らされた海の上で、私は静かに刀を構えた。


 ――邪神イオデグランとの戦いは、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。