第2話:邪神が復活した日
居間の扉を開けると、カトレアが立っていた。
その少し後ろには、ユリもいる。
……ああ。
どうやら、私が戻ってくるのを待っていてくれたらしい。
「お父さん、話は終わった? ……何かあったの?」
カトレアの声は、いつもより静かだった。
私の顔を見て、何かを感じ取ったんだろう。
……うん。
いつまでも、小さな子供じゃないんだよね。
「……うん。ちょっと、大変なことになったみたい」
「……そっか」
カトレアは、それ以上すぐには尋ねなかった。
代わりに、私の隣にいる桜花を見て、それからもう一度私を見る。
「お菓子屋さんは、また今度かな?」
「……ごめんね」
「ううん。お店はなくならないでしょ? また行けるよ」
…………。
……ああ。
その言葉が、今は胸に刺さる。
お店は、きっと明日もある。
いつもの王都も、いつもの通りも。
……そう思いたい。
でも、さっき神様から聞いた話は、そう簡単に頷けるものじゃなかった。
「……カトレア。少し、みんなに話をしたいんだ」
「うん」
「ユリも、聞いてもらっていい?」
「もちろんです、リアリス様」
私は、食堂の方へ目を向けた。
朝食を終えたばかりの家族が、まだ何人か残っているはずだ。
……いや。
これは、立ち話で済む内容じゃない。
「まず、巴さんとセバスを呼ぼうか」
桜花が、小さく頷いた。
「かしこまりました」
◇
少しして、居間に家族が集まった。
巴さん。
セバス。
桜花。
楓。
カトレアとユリ。
私も含めると、七人だ。
もちろん、各国の屋敷にいる家族全員を、今すぐここへ呼び戻したわけじゃない。
各国の仕事や護衛を任せている子たちまで、突然集めてしまったら大変だからね。
必要な話は、ここから伝えていけばいい。
……うん。
そう考えれば、落ち着いて順番を決められる。
「リアリスちゃん。神様からのお話だったのよね?」
巴さんが、心配そうに私を見た。
いつもなら「また何を落としたのかしら」なんて笑ってくれるところだ。
でも、今の私を見て、冗談を言う雰囲気じゃないと察したらしい。
「……うん。神様から、かなりまずい話を聞いたんだ」
私は、椅子に腰を下ろした。
みんなも、静かに席に着く。
楓だけは、いつものように私のすぐ後ろへ立っていた。
……さて。
どこから話せばいいんだろう。
邪神が復活しました。
世界が滅びるかもしれません。
……そんなことを、いきなり言われたって困るよね。
でも。
遠回しに伝えて、誤解を生む方がもっと怖い。
「……今朝、神様から連絡があった。中央大陸の北の海に、イオデグランという邪神が復活したらしい」
…………。
誰も、声を上げなかった。
巴さんの手が、膝の上で止まる。
セバスは、いつもの微笑みを消した。
ユリは、少し目を見開いている。
「……邪神、ですか」
桜花が、改めてその言葉を口にした。
「……うん。神様と同じ存在らしい」
「それは……通常の魔獣とは異なる、ということでございますね」
セバスの問いに、私は頷いた。
「強さも、危険性も、比べものにならないって」
私は、ひと呼吸置く。
……よし。
ここは、ちゃんと言おう。
「……放っておけば、最悪一か月ほどで、ステラが滅びる危険があるんだ」
…………。
居間が、しんと静まり返った。
窓の外から、鳥の声が聞こえる。
……ああ。
ついさっきまで、あんなに楽しみにしていたお出かけ。
同じ朝なのに、もう遠い昔のことみたいだ。
「……世界が、なくなるの?」
カトレアが、静かに尋ねた。
「……可能性の話だよ。必ずそうなるって決まったわけじゃない」
「……でも、神様がそう言ったんだよね」
「……うん」
私は、嘘をつかなかった。
カトレアは、しばらく俯いた。
それから、小さく息を吸う。
「……分かった。怖いけど、ちゃんと聞く」
…………。
……ああ。
強くなったなぁ。
私は、少しだけ喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……ありがとう、カトレア」
巴さんが、カトレアの肩にそっと手を置いた。
……うん。
私は、話を続ける。
「邪神がいるのは、今は北の海。すでに大きな被害が出たという情報は、まだないんだ」
「……今のところ、ということですね」
「そう。いつ何が起きるかは分からない」
セバスが、頷いた。
「旦那様。神々による対処は可能なのでしょうか」
「……それがね」
私は、少しだけ顔をしかめた。
「神様は、ほかの神々との取り決めでステラへ直接手を出せないんだって」
「……神ご自身が招かれた事態でも、でございますか」
「……うん」
……ああ。
口にするだけで、また腹が立ってきた。
でも。
今は、神様を叱ってる場合じゃない。
この世界にいるのは、私たちなんだから。
「神様たちは動けない。でも、私には《想像魔法》がある。何とかできるかもしれない、って頼まれたよ」
「……なるほど」
セバスは、目を閉じて考え込んだ。
「旦那様。まずは、各国に状況をお伝えするべきかと存じます」
「うん。私も、そう思ってる」
「国として防衛の準備をしていただく必要がございます。海岸の警戒、各都市の備蓄、魔獣が活発化した場合の対処。それぞれの国が把握している情報も、収集しなければなりません」
……ああ。
そうだよね。
私一人が慌てても、世界中の人を守れるわけじゃない。
「それと、北の海の様子も確かめたい」
「承知いたしました。ただし、直接の接触は慎重になさった方がよろしいかと」
「……うん。まだ何も分かってないからね」
セバスが、紙を取り出した。
……おっ。
もう、整理し始めてる。
……ああ。
頼もしいなぁ。
でも、何だろう。
今日は、その頼もしさに甘えきってはいけない気がする。
説明するのも、決めるのも、私自身だ。
「……セバス。各国の連絡先と、今の時間で話せそうな相手を整理してもらえる?」
「かしこまりました」
「それから、各国の家族にも警戒を伝えて。普段の仕事を全部止める必要はないけど、魔獣の動きがおかしかったら、すぐ知らせてほしい」
「承知いたしました。勤務中の者には、混乱を招かぬよう事情を整理して伝達いたします」
……うん。
それなら、任せられる。
巴さんが、少し考えるように口を開いた。
「リアリスちゃん。私たちはどうしたらいいかしら」
「……いつもどおり、お願いしていい?」
「……いつもどおり?」
「うん。屋敷のことも、カトレアのことも。今すぐ何かが起きると決まったわけじゃないから。でも、何かあったらすぐに守れるようにしておいてほしい」
巴さんは、私を見つめた。
それから、ゆっくり頷いた。
「分かったわ。食事も、お仕事も、できるだけいつもどおりに続けましょう」
……ああ。
その声を聞くだけで、少し落ち着く。
……そうだね。
守りたい日常を、私たちの手で先に壊してしまっても仕方がない。
「……ユリ。今日のお出かけは中止にしちゃって、ごめんね」
「……いえ」
ユリは、一度だけ首を振った。
「私も、できることをいたします。どうか、お気になさらないでください」
「ありがとう」
……うん。
本当は、楽しい一日にしてあげたかったけど。
また、みんなで出かけられる日を作ろう。
「お父さん」
カトレアが、私を見た。
「私にも、何かできることがあるかな」
…………。
私は、少しだけ考えた。
危ないところへ行ってほしくない。
それは、もちろんだ。
でも。
何も知らないまま部屋で待っていて、と言われるのもつらいよね。
「……今は、慌てずにいてくれると助かるかな。何か気になることがあったら、すぐに教えてほしい」
「……うん。分かった」
「それと、もし屋敷の中に不安そうな子がいたら、話を聞いてあげて」
カトレアは、少しだけ表情を和らげた。
「うん。それなら、私にもできると思う」
……ああ。
そうだね。
できることは、いくらでもある。
……よし。
「じゃあ、まずはカバディ王に連絡するよ」
私は、背筋を伸ばした。
ステラには、今、八つの国がある。
シルク王国。
ローズ帝国。
フォーサイド魔法国。
オリミス聖国。
ドルステン魔国。
エルフ国。
ジーラット国。
シギラ国。
……うん。
以前、学校や孤児院のことで連絡した、あの人たちだ。
ただ、今回は。
お願いする内容が、あまりにも違う。
◇
「《映像通話》。カバディ王につないでください」
ふわりと、目の前に画面が現れた。
しばらくして、見慣れた国王の顔が映る。
『おお、リアリス殿。どうされた?』
「おはようございます、国王さん。急なお話で申し訳ありません」
『……ふむ?』
……ああ。
いつもの私なら、ここで「ちょっと面白いものを見つけまして」なんて話を始めるんだろうね。
でも、今日は違う。
「……今朝、オリミス様から連絡がありました」
『……神から?』
「はい。中央大陸の北の海に、邪神イオデグランが復活したそうです」
…………。
画面の向こうで、カバディ王の表情が変わった。
『……邪神、だと?』
私は、頷いた。
「神様が言うには、放置すれば最悪一か月ほどで、この世界が滅びる可能性があると」
『…………』
国王は、しばらく口を開かなかった。
……ああ。
そうだよね。
私だって、さっきは信じられなかった。
『……リアリス殿。冗談ではあるまいな』
「……こんな冗談、言えませんよ」
『……そうだな。すまぬ』
国王が、深く息を吐いた。
『少し待たれよ。ミキサーを呼ぶ』
「はい。お願いします」
…………。
しばらくして、ミキサーさんが画面に入った。
『リアリス様。お待たせいたしました』
「急にすみません」
『陛下から、概要は伺いました。まず、分かっている範囲をお聞かせください』
……うん。
そうだね。
情報は、できるだけ正確に伝えないと。
私は、セバスが書き出してくれた紙を見ながら説明した。
邪神の名前。
今いる場所。
復活したのは、つい先ほどということ。
魔獣への影響も考えられること。
そして、神々は取り決めによって直接対処できないこと。
ミキサーさんは、途中で口を挟まず聞いてくれた。
説明を終えると、国王が低い声で言った。
『……我が国も、あの大襲撃で多くを失ったばかりだ』
「……はい」
『もう二度と、あのようなことは起こしたくない』
…………。
私も、同じ気持ちだ。
『ミキサー。北方の監視を強めよ。各地の守備隊には、魔獣の動きを慎重に確認させる。町や村との連絡も絶やすな』
『承知いたしました』
『ただし、いきなり民を脅かすような布告を出すな。確かな情報と、必要な備えを整理してからだ』
……うん。
何も知らずにいたら危ない。
でも、世界が滅びると叫ぶだけでは、誰も落ち着いて動けない。
「……国王さん。もし危険な魔獣が現れたら、私にも教えてください」
『……うむ。頼らせてもらうこともあるだろう』
「はい。できることは、手伝います」
国王は、私をまっすぐ見た。
『リアリス殿。そなた一人ですべてを背負うな』
…………。
私は、少しだけ目を瞬いた。
『国を守るのは、王である私の仕事でもある。そなたが危険を教えてくれたのだ。後は、我々にも働かせてほしい』
……ああ。
何だろう。
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
「……ありがとうございます」
『こちらこそだ。情報が入り次第、また連絡しよう』
「お願いします」
通話が終わった。
画面が消える。
…………。
私は、ゆっくり息を吐いた。
……よし。
まず、一か国。
でも。
まだ七つある。
……いや。
数の問題じゃないね。
今から伝える相手も、それぞれの国で、たくさんの人を守っている。
それを、忘れないでおこう。
◇
次は、フォーサイド魔法国。
中央大陸の北西。
邪神が現れた海に近い国だ。
……うん。
まずは、こちらに連絡しよう。
「《映像通話》。キリアさんにつないでください」
画面が現れ、しばらくしてキリアさんの顔が映った。
『リアリス殿。お久しぶりです』
「こんにちは、キリアさん。急にすみません」
『……何かありましたか?』
……おっ。
さすがだね。
私の顔を見ただけで、いつもと違うと気づいたらしい。
「……実は、神様から連絡がありまして」
私は、邪神復活のことを説明した。
中央大陸の北の海。
神々による直接の対処はできないこと。
最悪、一か月で世界が滅ぶ可能性。
それから、魔獣が普段と違う動きをするかもしれないこと。
キリアさんは、眉を寄せた。
『……邪神。そういう存在がいるという知識は、神話の中にしかありませんでした』
「……やっぱり、そうなんですね」
『歴史に記録された災厄とも、規模が違うのでしょう』
「……はい」
私は、ゆっくり頷いた。
『北の海、とおっしゃいましたね』
「はい。詳しい位置は、まだ分かりません」
『分かりました。北側の監視塔と海に近い町へ、すぐに情報を送ります』
「お願いします」
『ただし、監視のために兵を海へ出すのは控えましょう。敵の性質を知らぬまま船を出せば、かえって犠牲を増やす危険があります』
……ああ。
そうだね。
海の上には、逃げ込める場所も少ない。
見つけるために命を落とすなんて、あってほしくない。
『魔法による遠隔観測も考えますが、邪神そのものへ干渉する魔法は避けるべきでしょう』
「……はい。まずは、何が起きているかを知ることからですね」
『ええ。それと、民への伝え方も検討します。世界滅亡という言葉だけが先に広まれば、街が混乱するでしょう』
…………。
……うん。
いきなり何万人もの人が逃げ出したら、それだけで事故が起きるかもしれない。
「……キリアさん。私からも、情報が入り次第連絡します」
『よろしくお願いいたします。こちらも、得られたことはお伝えしましょう』
キリアさんの声は、最後まで落ち着いていた。
……ああ。
こういうとき、頼れる人がいるってありがたいね。
通話を終える。
……よし。
次は、ローズ帝国。
◇
「《映像通話》。ヴァリロッサ皇帝につないでください」
画面に映ったのは、見慣れた灰色の短髪と、大きな肩だった。
『おお! リアリスではないか!』
「こんにちは、皇帝」
『こんな時間にどうした? また面白いものでも見つけたか!』
…………。
……ああ。
普段だったら、その返事をするところなんだけど。
「……すみません。今日は、かなり悪い知らせです」
『……何?』
皇帝の表情が、一瞬で変わった。
その後ろから、ガラントさんが顔を出す。
『陛下。どうかなさいましたか』
『ガラント。こちらへ来い』
……おお。
いつもの陽気な皇帝が、もう笑っていない。
私は、二人に説明を始めた。
神様から聞いたことを、そのまま。
危険性は隠さず、分からないことは分からないと伝えた。
ガラントさんが、途中で何度か質問してくる。
『邪神の位置は、海の上と』
「はい」
『我が帝国の北側に影響が及ぶ可能性は?』
「……あります。でも、どこまで危険なのかは、まだ」
『承知いたしました』
ガラントさんは、素早く何かを書き留めた。
その横で、皇帝が腕を組んだ。
『……神が相手か』
「……はい」
『俺も、腕が鳴ると言いたいところだがな』
…………。
私は、黙って続きを待った。
『……敵の強さも分からずに、兵を突っ込ませるほど愚かではないぞ』
……ああ。
少しだけ、安心した。
この人、戦いが大好きだからね。
でも、今はちゃんと国を守る側の顔をしている。
『ガラント。北の港と街道を調べよ。避難の経路、食料、怪我人を収容できる場所もだ』
『承知いたしました』
『駐屯兵にも、警戒を命じる。ただし、異変がない段階で勝手に国境や海へ進むな』
『はっ』
…………。
ガラントさんが、すぐに頭を下げた。
『リアリス』
「はい」
『頼みがある』
「……何でしょう?」
『本当に手が足りなくなったときは、知らせてくれ。こちらも、助けられるところは助けたい』
…………。
……ああ。
私は、何度か瞬きをした。
「……ありがとうございます、皇帝」
『何。国が違っても、死なせたくない者はおる』
……うん。
そうだね。
昔だったら、戦争になっていたかもしれない国同士。
でも、今は。
助けられるなら助けたい、と言える。
それが、何だか嬉しかった。
……いや。
嬉しいと思えるのは、まだ何も起きていないからなのかもしれない。
私は、その気持ちを胸の奥にしまった。
◇
次は、オリミス聖国。
……うーん。
正直、どう話せばいいんだろう。
だって、あの国は神様を深く信仰しているんだよね。
その神様がやらかしたせいで、世界が危ない。
……いや。
言葉にすると、本当にひどい話だなぁ。
でも、だからって隠すわけにはいかない。
「《映像通話》。教皇さんにつないでください」
しばらくして、教皇さんが画面に現れた。
『……おお、使徒様!』
「こんにちは、教皇さん。突然すみません」
『いえいえ! 使徒様からのお呼び出しであれば、いつでも――』
「……今日は、神様から聞いたお話を伝えに来ました」
教皇さんの目が、大きく開いた。
『……神のお言葉を?』
「……はい。ただ、あまりいい内容ではないんです」
私は、状況を説明した。
いつも以上に、一つひとつの言葉を慎重に選ぶ。
邪神イオデグラン。
北の海。
世界が滅びる危険性。
神々が直接手を出せない事情。
そして、オリミス様から私へ対処の依頼があったこと。
…………。
説明が終わっても、教皇さんは黙っていた。
横に立つケラーさんも、顔色が悪い。
『……そのようなことが……』
「……はい」
『神は……その、邪神をお止めになることは、できないのでしょうか』
「……封じる力はあるそうです。でも、ほかの神々との取り決めで、ステラへ直接干渉することはできないと」
『…………』
教皇さんが、ゆっくり目を閉じた。
……ああ。
神様への信頼が厚い人ほど、つらい話なのかもしれない。
だって、今までは。
神様が守ってくれると信じて、祈ってきたんだから。
「……教皇さん」
『……はい』
「お願いがあります」
『……何なりと』
「これから、どういうことが起こるのかは分かりません。もし各地で魔獣が動き出したら、神殿にも、助けを求める人たちが来ると思います」
『……ええ』
「その人たちを、できるだけ受け入れられるようにしてほしいんです。食べ物とか、寝る場所とか。王様たちと同じで、できる準備だけでも」
教皇さんは、しばらく私を見つめた。
それから、深く頭を下げた。
『……承知いたしました。神に祈ることは、我々の務めでございます。しかし、目の前の人を助けることも、同じくらい大切な務めでございましょう』
……うん。
そうだね。
信仰があっても、なくても。
困っている人は、助けなきゃいけない。
ケラーさんが、静かに言った。
『使徒様。各神殿への伝達と、受け入れ体制の確認を進めます』
「ありがとうございます、ケラーさん」
……よかった。
少なくとも、話はちゃんと伝わった。
ただ。
……神様がこのことを知ったら、何て言うんだろう。
自分の信者たちが、こんなに真剣に国を守ろうとしていること。
……うん。
今は、考えないでおこう。
◇
居間の時計を見る。
……ああ。
もう、ずいぶん時間が経っている。
でも、まだ四つの国しか連絡できていない。
……うーん。
一度に八つの国へ同じ話を伝えるのは、思っていたより大変だね。
……いや。
それでも、昨日までの私だったら。
連絡を取りながら、ついでにお菓子の話をして。
相手の国の新しい名物を聞いて。
……たぶん、あっという間にお茶会になっていたはずだ。
でも、今日は。
どの国の人も、すぐに仕事へ戻っていった。
私も、そうしよう。
「旦那様。少し、お水をお召し上がりください」
セバスが、静かにグラスを差し出した。
「……ありがとう」
私は、水を一口飲んだ。
……ああ。
そうだ。
何時間も話してたんだから、喉だって乾くよね。
「セバス。あと、どこだっけ」
「ドルステン魔国、エルフ国、ジーラット国、シギラ国でございます」
「……うん。続けよう」
セバスが、頷いた。
「かしこまりました」
ふと、扉の方を見る。
カトレアは、すでに別の部屋でユリと過ごしている。
巴さんが、長くなるからと温かい飲み物を用意してくれていた。
……ああ。
いつもと変わらない屋敷の中。
その中で、私だけが世界滅亡の話をし続けている。
……何だか、不思議だね。
でも、その日常を守るためにやっているんだ。
……よし。
◇
「《映像通話》。魔王ドルステンにつないでください」
画面に、翼と角を持った大きな顔が現れた。
『……おお、リアリス殿!』
「こんにちは、魔王」
『こんな時刻にどうした?』
魔王は、声を上げて笑いかけた。
でも、私が答える前に、その笑顔を引っ込めた。
『……何かあったのか』
「……はい」
私は、邪神のことを話した。
ドルステン魔国は、中央大陸から海を挟んだ別の大陸だ。
今はまだ、邪神の姿さえ見えていないはず。
でも。
世界そのものが危険なら、距離は関係ない。
魔王は、黙って聞いていた。
隣には、宰相のグリンヒルダさん。
……ああ。
和平会談のときも、この二人は並んでいたっけ。
説明を終えると、魔王が重々しく頷いた。
『……吾輩の国にも、危険が及ぶか』
「……はい。可能性があります」
『そうか』
…………。
魔王は、ゆっくり目を閉じた。
それから、静かに口を開く。
『リアリス殿。ひとつ、聞いてもよいか』
「はい」
『邪神が復活したというのは、確かにオリミス本人から聞いたのだな?』
「……はい。つい先ほどです」
『……なるほど』
その声には、いつもの豪快さがなかった。
……うん。
きっと、魔王だって分かってるんだ。
相手が、今まで戦ってきた魔獣とは違うことを。
『グリンヒルダ。各地の将軍と町の長へ連絡を入れよ。魔獣の異常な動きがあれば、すぐに報告させるのだ』
『承知いたしました』
『兵を集めるだけでは足りぬ。民が避難できる場所、食料、怪我人を運ぶ手段も確認せよ』
『はっ』
…………。
……ああ。
この人も、国を治める王なんだね。
『リアリス殿』
「はい」
『以前、そなたは、吾輩の国と人間の国をつないでくれた』
「……そんな、大したことは」
『いや。あの和平があったからこそ、今はこうして同じ危機について話せる』
…………。
……ああ。
そうだね。
戦争をしていたら、今ごろ人間と魔族は、まず相手を疑っていたかもしれない。
でも今は。
同じ世界に住む者として、話ができる。
『我が国の民も、この世界の民だ。吾輩にできることは、すべてやろう』
「……ありがとうございます、魔王」
通話が終わる。
私は、画面が消えた場所をしばらく見つめていた。
……うん。
信頼って、こういうときに役に立つんだね。
……いや。
誰かの命がかかっているときに、そういう言い方は変かな。
でも、何だか。
今までやってきたことが、少しだけ意味を持ったように感じた。
◇
次は、エルフ国。
「《映像通話》。ライノーラさんにつないでください」
現れたのは、森王ライノーラさんだった。
『リアリス殿。久しぶりだな』
「こんにちは、ライノーラさん」
『……む? 顔色が優れぬな』
……あっ。
やっぱり、分かっちゃうんだ。
「……すみません。かなり大事な話です」
私は、同じ説明を繰り返した。
もう何度も話したはずなのに。
口にするたび、胸の奥が重くなる。
邪神。
世界滅亡。
一か月。
……ああ。
言葉に慣れたからって、現実が軽くなるわけじゃないんだね。
森王は、静かに聞いていた。
『……世界を守るための備えか』
「はい。森も、町も、できるだけ警戒してほしくて」
『承知した。国の各地に伝えよう』
ライノーラさんは、少し考えてから続けた。
『ただし、森では、普段から魔獣と人々の生活が近い。すべてを敵と見なせば、逃げ道を失う者もいる』
「……ああ。確かに」
……そうか。
森の中で暮らしている人もいる。
いきなり周囲の全部を討伐しようとしたら、それだけで混乱するかもしれない。
『まずは、異常な動きをしているものを見分けよう。危険な場所へ立ち入らせぬよう、道の管理も必要だ』
「お願いします」
『それと、他国への連絡はどうしておる?』
「今、順番に伝えています」
『……そうか。ならば、必要なときは互いに情報を渡し合おう。国境の先で何が起きているか、知らずにいては対応できぬ』
「はい!」
……ああ。
そうだね。
一つの国だけで抱え込んでも、守れるものには限りがある。
『リアリス殿』
「……はい」
『ライラにも伝えておく。そちらに滞在していることもあるからな』
「ありがとうございます」
……うん。
ライラさんが王国邸に来たときも、安全を優先してもらおう。
……いや。
できれば、そんな心配をする必要がなくなってほしいけど。
◇
次は、ジーラット国。
獣王ライオネスさん。
あの、大きなライオンの顔をした王様だ。
普段は戦うことを楽しみにしているところもあるけれど。
……今は、そんな場合じゃない。
「《映像通話》。ライオネス王につないでください」
画面が開いた。
『おお、リアリス殿!』
「こんにちは、ライオネス王」
『どうした? また腕試しでもするか!』
…………。
……ああ。
いつもなら、その話になるんだね。
「……今日は、そのお話じゃないんです」
私がそう言うと、獣王は静かになった。
『……ふむ。聞こう』
私は、邪神復活について説明した。
そして、今できることをお願いした。
魔獣の異常を調べること。
都市や村の連絡体制を整えること。
避難の準備を進めること。
ライオネス王は、何度も頷いた。
『我が国には、森や草原で暮らす者も多い』
「……はい」
『魔獣が暴れれば、都だけを守っていても意味がないな』
……うん。
そうだね。
町の外には、小さな村だってたくさんある。
そこに住む人たちが、安全とは限らない。
隣にいたラビリンスさんが、口を開いた。
『村ごとの連絡先と、避難先の確認を急ぎます。すべての地域で兵を十分に配置できるとは限りませんが、できる限り備えます』
「お願いします、ラビリンスさん」
『リアリス殿。おぬしも、無理をするなよ』
ライオネス王が、低い声で言った。
「……はい」
『強い者ほど、一人で何とかしようとするものだ。だが、背後には守るべき者がおる』
…………。
……ああ。
そうだね。
私は、カトレアの顔を思い浮かべた。
巴さん。
桜花。
楓。
みんな。
……うん。
「……ありがとうございます」
私がそう答えると、獣王はゆっくり頷いた。
◇
最後は、シギラ国。
ドワーフたちの統一国家だ。
以前は、ギーラ国とシーラ国が別々に存在していた。
今は、ミゲイルさんとイリーナさんを中心に、一つの国として動いている。
……ああ。
ここも、和平が成立していなかったら、どうなっていたんだろう。
「《映像通話》。ミゲイルさんにつないでください」
画面の向こうに、赤い髪のミゲイルさんが映った。
『リアリス殿。こんにちは』
「こんにちは、ミゲイルさん。急にすみません」
『いえ。何かお困りでしょうか?』
……ああ。
いつもの丁寧な声。
……でも。
今日の話を聞いたら、きっとこの人だって驚くだろうね。
私は、邪神について説明した。
場所。
危険性。
各国へお願いしている防衛の準備。
最後まで聞いたミゲイルさんは、しばらく黙っていた。
『……承知しました。私どもも、直ちに備えを進めます』
「ありがとうございます」
『山に近い村も多いので、魔獣の移動には特に注意しなければなりませんね』
「……はい」
『ガルドバとバルドバ、どちらの地域にも連絡を入れます。以前の国境で情報が止まることのないようにいたします』
…………。
……おお。
その言葉が、少し嬉しかった。
昔は、別々の国だったんだよね。
今は、一つになって守ろうとしている。
『イリーナとも相談し、避難先と食料の確保を急ぎます』
「お願いします」
『リアリス殿。こちらで分かったことがあれば、すぐにお伝えします。何かお手伝いできることがあれば、遠慮なくおっしゃってください』
…………。
私は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、ミゲイルさん」
『いいえ。これまで助けていただいた分を、少しでもお返しできればと思います』
……ああ。
本当に。
いい人たちと出会えたねぇ。
……うん。
だからこそ。
守りたいんだ。
◇
最後の画面が消えた。
私は、しばらく動けなかった。
……八か国。
これで、全部。
だけど、これで終わりじゃない。
むしろ、今からが始まりだ。
セバスが、私の前に一枚の紙を置いた。
「旦那様。各国への連絡が完了いたしました」
「……うん。ありがとう」
「各国とも、異変の監視と防衛準備を始めるとお約束いただきました。ただし、具体的な配置と備蓄の確認には時間を要します」
「……そうだね」
私は、紙へ目を落とす。
国の名前が、八つ並んでいる。
その隣には、今、各国がすることになった仕事。
……おお。
全部、ばらばらだ。
でも。
その違いこそが、大切なのかもしれない。
海に近い国。
森が多い国。
山の村が多い国。
魔獣との距離が近い国。
……同じ世界にあっても、守り方は同じじゃない。
全部、私が決める必要なんてないんだ。
「……セバス。各国から情報が届いたら、ひとつにまとめてもらえる?」
「承知いたしました」
「私からも、何か分かったら共有するよ」
「かしこまりました」
……うん。
これで、最初の仕事は終わり。
私は、窓の外を見た。
朝の光は、もうずいぶん高くなっている。
……ああ。
今日は、まだ一歩も外に出ていないのに。
何だか、世界中を駆け回ったみたいだ。
……いや。
本当の意味での仕事は、まだ何ひとつ終わっていない。
私は、ゆっくり立ち上がった。
「……次は、北の海だね」
◇
「……北の海、でございますか」
桜花が、私の隣で静かに尋ねた。
「うん。実際の様子を確かめないと、何も判断できないからね」
「……では、私が」
桜花が、一歩前へ出た。
……ああ。
そう言ってくれると思った。
でも、私は首を振った。
「桜花には、ここにいてほしいんだ」
「……リアリス様?」
「もちろん、私一人じゃ何もできない。でも今は、王国邸での連絡や、各国からの相談が続くと思う。桜花が隣にいてくれた方が、私は落ち着いて考えられるから」
桜花は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……かしこまりました」
……ああ。
ありがとう。
私は、部屋の隅へ目を向けた。
「……楓」
「はい」
短い返事。
いつもどおりだ。
「お願いがあるんだ。北の海を、少し離れた場所から見てきてもらえる?」
「……はい」
…………。
……即答!
いや、いつもそうなんだけどね。
私は、慌てて言葉を続けた。
「待って待って。危険な相手なんだ。絶対に近づかないで。戦わないで。様子を見るだけ。おかしいと思ったら、すぐ帰ってきてほしい」
「……承知」
楓が、小さく頷いた。
……うん。
頼むよ、本当に。
楓は、普段は王国邸を守ってくれている。
だから、楓が出ている間の屋敷は、桜花たちにお願いする。
ほかの国の担当を、わざわざ呼び戻す必要はない。
……ただ。
私が今ここにいるからといって、安心しきっていいわけでもないんだよね。
もし、北の海で何かが起きたら。
すぐに連絡が取れるようにしておこう。
「……セバス。北の海を監視している間、王国邸の様子はいつも以上に確認してほしい」
「承知いたしました」
「各国の屋敷は、今の担当を維持で。魔獣の異常が出たら、私に連絡するよう伝えて」
「かしこまりました」
……うん。
これなら、少なくとも監視のために各国の警備を薄くすることはない。
私は、立ち上がった。
「桜花。楓を送ってくるね」
「私もご一緒いたします」
「……うん。お願い」
◇
私は、楓と桜花を連れて、屋敷の庭へ出た。
空は、朝と変わらず晴れている。
庭の花壇には、カトレアが育てている花が咲いていた。
……ああ。
今日も、ちゃんと咲いてるんだね。
私は、一瞬だけ足を止めた。
……いや。
今は、感傷に浸ってる場合じゃないか。
「……楓。今から北の海へ送るよ。最初はかなり離れた場所にするから、望遠鏡で見てほしい」
「はい」
私は、《取り寄せ》で大きめの望遠鏡を用意した。
楓が、両手で受け取る。
「それから、空中で待てるように《フライ》も使っておくね」
楓の足元が、ふわりと地面から浮いた。
「……うん。これでいいかな」
私は、空中の楓を見上げた。
……いや。
何だろう。
いつもなら、ここで少しくらい「空を飛べるって便利だよねぇ」とか思うんだけど。
今は、そんな気分になれない。
「《映像通話》は、こちらからつないだままにするよ。画面を通して話せるようにしておくから」
「……はい」
「もし向こうの様子がおかしかったら、すぐ教えて。連絡が途切れたら、私の方から迎えに行く」
「……承知」
……うん。
頼むよ。
私は、楓に《絶対防御》を重ねておいた。
元から強い楓に、私の防御魔法もつける。
……もちろん。
これで神様相手に安全だなんて、まだ分からない。
でも、できる備えならしておきたい。
「……桜花」
「はい」
「少しだけ、離れたところから確認してくるね」
「かしこまりました」
……よし。
私は、脳内マップへ意識を向けた。
中央大陸。
その北。
フォーサイド魔法国とローズ帝国の、その向こう。
……海。
できるだけ、邪神から距離のある上空。
そこを思い浮かべる。
「《転移》」
景色が、一瞬で変わった。
…………。
目の前に広がったのは、青い海。
遠くには、薄い雲。
足元には、何もない。
私も、楓も《フライ》で空中に浮かんでいる。
……ああ。
海の匂いがする。
波の音も、ちゃんと聞こえる。
普段だったら、綺麗だなぁって思うところだ。
でも。
今日は、海が広すぎることが、少し怖かった。
「……楓。何か見える?」
楓は、望遠鏡を覗いた。
しばらく、何も言わない。
……うん。
急がなくていいよ。
私は、周囲を見回した。
見えるのは、海。
空。
そして、遠くに広がる雲だけ。
……本当に、どこかに邪神がいるのかな。
そう思いかけた、そのとき。
楓が、静かに口を開いた。
「……あそこ」
望遠鏡の先。
水平線に近い場所を指している。
私は、同じ方向へ目を凝らした。
…………。
……ん?
遠くの海に、妙に明るいところがある。
波に反射した日差しとは、少し違う。
でも、今の距離では形が分からない。
「……楓。見える?」
「……白い光」
…………。
……白い、光。
私は、神様から聞いた話を思い出した。
邪神。
イオデグラン。
……あれが、そうなんだろうか。
…………。
……いや。
まだ分からない。
こんな遠くから、決めつけるのは危ない。
「……楓。ここから先へは、近づかないで」
「……はい」
「変化があったら、教えてほしい。海や空の様子も見ておいて」
「……承知」
楓は、静かに望遠鏡を構え直した。
……ああ。
少ない言葉だけど、頼もしいなぁ。
私は、《映像通話》を使って屋敷側と画面をつないだ。
画面の向こうに、セバスが現れる。
『旦那様。そちらのご様子はいかがでしょうか』
「遠くに白い光が見える。でも、それが邪神かどうかは、まだ分からない」
『承知いたしました』
「楓には、ここで観測してもらうよ。私は、いったん屋敷へ戻るね」
『かしこまりました』
私は、楓を見た。
「……無理しないでね」
「……はい」
楓が、小さく頷く。
……うん。
じゃあ、戻ろう。
「《転移》」
海が、消えた。
◇
屋敷の庭へ戻ると、桜花が待っていた。
「リアリス様」
「……ただいま」
「おかえりなさいませ」
……ああ。
いつもどおりの声だ。
私は、少しだけ笑った。
「遠くに、白い光があったよ」
「……邪神、でしょうか」
「分からない。でも、楓が見てくれてる」
「かしこまりました」
……うん。
現時点で分かったのは、北の海に変わった光が見えることだけ。
邪神の姿は、まだはっきり見えない。
……それでも。
何も知らないよりは、少し前に進んだ。
私は、桜花と一緒に居間へ戻った。
セバスが、各国から届いた最初の返答を整理してくれている。
「旦那様。各国とも、監視と連絡網の確認を進めております」
「……うん」
「ただ、北の海に関する確かな情報は、まだございません」
「……そっか」
…………。
やっぱり、そう簡単には分からないか。
……いや。
でも、仕方ない。
焦って誰かを送り込んで、犠牲を増やすわけにはいかないからね。
私は、ソファに腰を下ろした。
そのとき。
ふわっ。
見慣れた光る板が現れた。
『着信:オリミス』
…………。
……ああ。
また神様からだ。
私は、画面を開いた。
「……もしもし、神様」
『お、おお! リアリス!』
「何か、新しい情報ですか?」
『……うむ。いや、その……各国への連絡は進んだかの?』
「はい。八つの国、全部に伝えました」
『……おお! さすがじゃ!』
…………。
……うん。
褒められても、今は何も嬉しくない。
「北の海も、監視を始めました。今のところ、遠くに白い光が見えるだけです」
『……そうか』
「……神様。何か分かったことはありませんか?」
神様が、少し考えるように眉を寄せた。
『……そうじゃな。ひとつ、言っておくべきことがある』
…………。
……おっ。
新しい情報かな。
私は、画面を見つめた。
『……ほかの神々は、今回の件に積極的に動くつもりはないのじゃ』
…………。
……えっ?
「……神様たちは、邪神のことを知ってるんですよね?」
『……うむ』
「……それでも?」
『……そうじゃ。神々からすれば、ステラが失われても、自分たちが滅びるわけではないのでのう』
…………。
…………。
……何だって?
私は、言葉を失った。
『……また世界を作り直せばよい、と考える者もおるのじゃ』
…………。
私は、目の前の画面をじっと見た。
また。
作り直せばいい?
……いや。
世界を作る力がある神様なら、そう思うのかもしれない。
でも。
私たちにとっては、ここが世界の全部なんだ。
何百年もかけて築いてきた町。
誰かが植えた木。
子供の頃から使っている食器。
大切な人と過ごした家。
……そんなものまで。
全部なくなったとして。
新しい世界を作ったからって、元に戻るわけじゃない。
……違う。
たとえ、同じ形の家ができても。
そこに住んでいた人がいなければ、同じ世界じゃない。
私は、ゆっくり息を吸った。
「……分かりました。神様たちからの助けは、期待しない方がいいということですね」
『……う、うむ』
「ありがとうございます。参考になりました」
…………。
自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。
……いや。
落ち着いているんじゃない。
今、ここで怒鳴っても、仕方がないと分かっているだけだ。
『……そ、それでのう、リアリス。何なら、今度はもっとおいしい菓子でも――』
…………。
私は、セバスの方を見た。
「……セバス。今の話も記録しておいて」
「かしこまりました」
…………。
『……リ、リアリス?』
「神様。ほかに危険性に関する情報はありますか?」
『……今のところは、ないのじゃ』
「分かりました。何か分かったら連絡してください」
『……う、うむ』
私は、通話を終えた。
……うん。
神様、何か別のことも言いたそうだったけど。
今は、そこまで聞いている余裕がない。
私は、画面が消えた場所を一度だけ見た。
……後で。
全部、ちゃんと聞こう。
そして。
言うべきことも、全部言おう。
……でも、今じゃない。
今、私が守らなきゃいけないのは、神様の機嫌じゃないから。
◇
午後になった。
居間の窓から見える空には、薄い雲が流れている。
いつもと同じ、穏やかな景色。
……ああ。
あの海の向こうで、何が起きているんだろう。
私は、楓につないでいる《映像通話》を確認した。
画面には、遠くの海が映っている。
楓が、まだ同じ場所から観測を続けていた。
「……楓。様子はどう?」
『……変化なし』
短い返事。
……うん。
いつもの楓だね。
「ありがとう。無理しないで」
『……はい』
画面の向こうでは、白い光が遠くに見えている。
ただ、それだけ。
…………。
……本当に、それだけなのかな。
私は、しばらく目を凝らした。
けれど、何も分からなかった。
……いや。
今の私に必要なのは、目を凝らすことだけじゃない。
次に何をするか、考えないと。
私は、セバスへ振り返った。
「……各国の準備は、どこまで進んでる?」
「現在、各国で指示が伝達されている段階でございます」
「……そうだよね」
朝に話して、今日中に全部の準備が終わるわけじゃない。
食料だって、兵だって、急に増やせるわけじゃない。
……でも。
だからこそ、一日でも早く知ってもらえてよかった。
「旦那様。ひとつ、確認してもよろしいでしょうか」
「……うん」
「邪神への対処は、いつ開始されるおつもりですか」
…………。
私は、すぐには答えられなかった。
……そうだ。
そこも、決めないといけない。
でも、今のところ相手の能力が分からない。
神様の話しか、手掛かりがない。
私の《想像魔法》で対処できるかどうかも、不明。
……いや。
私には、できることがたくさんある。
だからこそ、無駄に力を使って失敗するのは避けたい。
「……まだ、決められない」
「……承知いたしました」
「でも、ずっと先延ばしにはできないと思う。最悪一か月って言われたけど、明日何が起きるかも分からないから」
セバスが、静かに頷いた。
「では、引き続き監視を続け、各国からの情報を集めましょう」
「……うん。お願い」
…………。
私は、手元の紙を見た。
八つの国。
それぞれの準備。
北の海。
邪神イオデグラン。
……うん。
できることは、やった。
……でも。
それだけじゃ、まだ足りない。
そう思う自分もいる。
◇
夕方。
巴さんが、居間にお茶を運んできてくれた。
「リアリスちゃん。少し休憩にしましょう」
「……あっ。もう、そんな時間?」
「そうよ。朝からずっとお話ししていたんでしょう?」
……うん。
確かに。
今日は、何度「世界が滅びるかもしれません」って言ったんだろう。
……いや。
数えるのは、やめておこう。
私は、湯気の立つカップを受け取った。
「ありがとう、巴さん」
「どういたしまして」
……ああ。
紅茶の香りがする。
いつもと同じ。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「……カトレアは?」
「ユリと一緒に、お庭の花を見ているわ。少し元気がなかったけれど、今は落ち着いているみたい」
「……そっか」
……ごめんね。
今日のお出かけを、楽しみにしてたんだよね。
私は、カップを両手で包んだ。
「……カトレアにも、不安な思いをさせちゃったなぁ」
巴さんは、すぐには答えなかった。
それから、そっと微笑んだ。
「でも、何も知らずにいるよりはよかったと思うわ。あの子も、もう小さな子供じゃないもの」
……ああ。
そうだね。
十四歳。
もう、自分で考えて、自分の言葉で気持ちを伝えられる。
……それでも。
親としては、怖い思いなんてさせたくないんだけど。
「……うん。そうかもしれない」
私は、紅茶を一口飲んだ。
……ああ。
温かい。
……いつもどおり。
この時間が、明日も続くといいな。
◇
夜が近づいてきた頃。
セバスが、一冊の書類を持って居間へ戻ってきた。
「旦那様。各国から最初の報告が届いております」
「……うん。どうだった?」
「各国とも、現時点で邪神による直接の被害は確認できておりません。ただし、魔獣の動きについて、普段と異なる兆候がないか、調査が進められております」
…………。
……そうか。
まだ、直接の被害はないんだね。
……よかった。
でも、それだけで安心してはいけない。
「……何か、気になる報告は?」
セバスは、書類へ目を落とした。
「まだ断定できるものではございませんが、北方の見張りから、海の方角へ向かう魔獣が増えたように見える、との話がございます」
…………。
……海の方角へ?
私は、顔を上げた。
「……それは、邪神が原因?」
「……現段階では、不明でございます」
「……うん」
そうだよね。
何か起きたからといって、全部を邪神のせいにするのも危険だ。
でも。
もし、関係があるとしたら。
……まずい。
私は、《映像通話》の画面へ視線を向けた。
「……楓。今の様子を見せてもらえる?」
『……はい』
画面が、少し動く。
水平線。
薄暗くなった海。
遠くに、白い光。
…………。
……あれ?
さっきより、はっきり見えるような。
……いや。
日が傾いて、周りが暗くなったからかな。
私は、何度か瞬きをした。
「……楓。何か変わった?」
しばらく、返事がなかった。
…………。
……ん?
「……楓?」
『……光が、強くなった』
…………。
私の背筋に、冷たいものが走った。
……光が、強くなった。
それだけで、何が起きるかは分からない。
でも。
今朝、あの神様が言った言葉を思い出す。
――いつまで、今の状態が続くか分からん。
…………。
……うん。
そうだよね。
何も起きないまま、一か月待ってくれる保証なんてない。
「……楓。無理はしないで。近づかずに、そのまま様子を見ていて」
『……承知』
私は、ゆっくり椅子から立ち上がった。
……各国への連絡は終わった。
防衛の準備も、始まっている。
でも。
それだけで、全部守れるとは限らない。
……ああ。
まだ、何が起こるか分からない。
それが、こんなに怖いことだなんて。
私は、窓の外を見た。
王都の灯りが、少しずつ増えている。
人々は、いつもどおり家へ帰っているんだろう。
夕食の支度をして。
明日の仕事の話をして。
子供が眠るまで、隣に座って。
……そんな当たり前の一日を、過ごしている。
私は、胸の奥でひとつだけ願った。
……お願いだから。
今夜は、何も起きないでほしい。
そして明日。
ちゃんと、また朝が来てほしい。
そのときだった。
画面の向こうから、楓の声が聞こえた。
『……リアリス様』
「……どうしたの?」
…………。
ほんのわずかな間。
楓が、黙った。
そして。
『……海が、静かになった』
…………。
…………。
……えっ?
私は、画面に目を凝らした。
遠くの海。
白い光。
その周りだけ、波が見えない。
……いや。
暗くて、よく分からない。
でも。
楓が何もないのにそんなことを言うとは思えなかった。
「……楓。今いる場所から動かないで。危険を感じたら、すぐ知らせて」
『……はい』
画面越しに、白い光が揺れたように見えた。
…………。
……ああ。
今日一日。
私は、できるだけのことをしたつもりだった。
でも。
北の海にいる、あの光は。
そんな私たちの準備なんて、待ってくれないのかもしれない。
私は、画面から目を離せなかった。
――邪神が復活した、その日の夜。
ステラには、まだ明日の朝が来ると信じている人が、たくさんいた。




