第8話:物理演算の暴力(崖下りショートカット)
ゴォォォォォォォッ……!!
鼓膜を劈くような猛烈な風の音が、荒涼とした岩山の頂上に吹き荒れていた。
マップの最北端に位置するその場所は、文字通り『世界の果て』だった。足元から先には地面が存在せず、雲海を突き抜けてはるか下層まで続く、垂直に切り立った絶壁が口を開けている。
VRMMO『アルカディア・オンライン』のシステムは、この場所に『絶叫の崖』という、あまりにも直球で物騒な名前をつけていた。
「やめろぉぉぉぉっ! 離せ、結城ぃぃっ! 俺はまだ死にたくない! せっかく小遣い貯めて買った最新VRギアで、なんでダイビング・トゥ・ヘルしなきゃならないんだよぉぉぉ!」
絶壁の縁からわずか数十センチの場所で、相沢航太(アバター名:コウタ)は、地面の岩にしがみつきながら情けない悲鳴を上げていた。
彼の襟首を、初期装備の布の服を着た小柄な少女――結城紬(アバター名:ツムギ)が、片手でガッチリと掴み上げている。
レベル1のコウタと、すでにレベル15に達しているツムギとでは、基礎ステータスの『筋力』に雲泥の差があった。コウタがどれだけ岩にしがみついて抵抗しようと、ツムギの細腕一本にズルズルと引きずられていく。
「往生際が悪いわね、相沢くん。時は金なり、タイム・イズ・マネーよ。ここから正規ルートで山をぐるっと迂回して隣街『商業都市ロンデル』に向かったら、現実時間で軽く三時間はかかるの。分かる? 三時間よ?」
「さ、三時間くらい歩くよ! RPGの旅ってそういうもんだろ! 景色を楽しんだり、道中のモンスターと戦ったりしてさぁ!」
「甘い、甘すぎるわ。三時間あったら、時給一万円の稼ぎ場で三万円の利益が出せるのよ。つまり、ここを歩いて迂回するということは、私の銀行口座から三万円が失われるのと同義! そんな天文学的損失、私のプレイスタイル(強欲)が許すわけないじゃない!」
ツムギの目は、完全に血走っていた。
彼女の瞳の奥には、大好きなアイドル『ギャラクシー・ボーイズ』の全国ツアー全通、および公式グッズ全制覇という、総額五十万円以上にも及ぶ果てしない欲望の炎が燃え盛っている。
その狂気の前に、一般ゲーマーであるコウタの常識的な意見など、そよ風以下の意味しか持たなかった。
「だ、だからって崖から飛び降りるなんて頭おかしいだろ! このゲーム、落下ダメージの計算が現実並みにシビアだって掲示板で検証されてたぞ! 五メートル落ちただけで【骨折】のバッドステータスがつくんだ! こんな雲海の下まで落ちたら、HPが何万あっても即死に決まってる!」
「掲示板の検証班なんて、システムの表層しか見てない素人の集まりよ。いいこと、相沢くん。この世界の重力法則と物理演算にはね、致命的な『クセ』があるの」
ツムギはコウタの襟首を掴んだまま、崖の下――分厚い雲海に覆われた遥か下層を、まるで獲物を狙う鷹のような鋭い目で見下ろした。
「落下ダメージっていうのは、『落下した総距離』で計算されるんじゃないわ。正確には『空中に滞在し、重力加速度を受け続けた時間』でダメージ係数が跳ね上がっていく仕様なの。つまり……」
「つ、つまり……なんだよ!?」
「途中で『足場』に触れて、下方向へのベクトルを別の方向に逃がしてやれば、落下ダメージの計算式はその瞬間にリセットされるのよ」
ツムギは事も無げに言い放った。
しかし、コウタの顔はさらに青ざめる。
「バカなこと言うな! 仮に空中で足場に触れたって、その時の激突ダメージで死ぬだろ! 物理エンジンを舐めるな!」
「垂直にぶつかればね。でも、斜度六十度以上の『滑らかな斜面』に鋭角に接触すれば、システムはそれを『激突』ではなく『滑走』と判定するわ。速度を殺さずにベクトルだけを斜め下へと変換し、ダメージを完全に無効化できる。……昔、知り合いのクソジジイ(宮廷魔術師)に千丈ヶ岳から突き落とされた時に、私の体が完璧に証明してるのよ」
後半の言葉は風にかき消されてコウタには届かなかったが、ツムギの脳裏には、十歳の頃の凄惨なトラウマが鮮明に蘇っていた。
『勇者よ! 風の魔力を覚醒させるには、死の恐怖を味わうのが一番じゃ! 飛べぇぇっ!』という理不尽な叫びと共に、断崖絶壁から蹴り落とされたあの日。
風の魔力など一切覚醒しなかったツムギは、純粋な生存本能と身体能力だけで、崖に突き出た岩肌や木の枝を蹴り渡り、物理演算の隙を突いて生き延びたのだ。
あの異世界のイカれた重力法則が、このVRMMOの世界でも全く同じように再現されていることは、道中の道のりで確認済みだった。
「さあ、理屈が分かったら行くわよ! 私の推しのライブチケット代のために、その命を賭けなさい!」
「嫌だぁぁぁっ! 理屈は分かっても実行できるかは別の話だろぉぉっ!」
コウタが岩にしがみつく指の力をさらに強めようとした、その瞬間。
ツムギは容赦なく、コウタの指を一本、また一本と物理的に剥がしていった。
「あ、あ、あああ……っ!」
「パーティを組んだ時の約束、忘れてないわよね? 『私の言う通りに動けば、指一本触れさせない』。ほら、私の腰にしっかりしがみついてなさい!」
「無理無理無理無理ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」
コウタの絶叫が岩山に木霊した。
ツムギはコウタの体を強引に引き剥がすと、彼を抱き抱えるような体勢になり、そのまま一切の躊躇なく――絶叫の崖の縁から、虚空へと向かって大ジャンプを敢行した。
ヒュゴォォォォォォォォォッ!!!
足場が消滅し、二人の体は猛烈な勢いで落下を始めた。
VRギアを通じた圧倒的な没入感が、コウタの三半規管にダイレクトに襲いかかる。内臓がフワリと浮き上がるような、ジェットコースターの落下時特有のあの最悪な浮遊感。
全身を打ち据える凄まじい風圧で、目を開けていることすら困難だ。
『警告! 致死的な落下速度を検知しました!』
『警告! このまま地面に激突した場合、HPに関わらず即死となります!』
コウタの視界の端で、真っ赤なシステムウィンドウが狂ったように点滅を繰り返している。
「ぎゃあああああああああああああっ!!」
コウタは涙と鼻水を撒き散らしながら、ツムギの細い腰に死に物狂いでしがみついた。もはや男のプライドなど微塵もない。ただの恐怖に支配されたしがみつきマシーンと化していた。
一方のツムギは。
猛烈な風圧の中にあって、彼女の目は見開かれ、完全に澄み切っていた。
恐怖など一切ない。彼女の脳内は、まるで高性能なスーパーコンピューターのように、眼下に迫る崖の形状、風の向き、現在の落下速度をリアルタイムで演算し続けていた。
(落下開始から三秒。速度がシステムの規定値に到達する直前……第一のポイント、右下十五度、突き出た大岩の斜面!)
雲海を突き抜けた瞬間、ツムギの視界に、切り立った崖の途中に突き出ている巨大な岩の出っ張りが捉えられた。
ツムギは空中でコウタの体重を利用して体を捻り、落下軌道を微調整する。
ドォォォォンッ! と地面が迫り来る。
激突する、とコウタが目を閉じた瞬間。
ズザァァァァァァァァァッ!!
ツムギの履いている初期装備の粗末な革靴が、岩の斜面(角度およそ六十五度)に完璧な角度で接触した。
激突ではない。滑走だ。
下に向かっていた莫大な運動エネルギーが、岩の斜面に沿って斜め方向へと強引に変換される。ツムギの靴底から、VRの視覚エフェクトである激しい火花が散り、布の服が風圧でちぎれんばかりにはためいた。
(よしっ、落下タイマーリセット成功! 次、第二のポイント、左下二十度にある巨大樹の根!)
岩の斜面を滑り終えるや否や、ツムギは斜面の端を力強く蹴り出し、再び空中に身を投げ出した。
コウタの視点から見れば、ただの自殺行為の連続である。
「ひぃぃぃぃぃぃっ! 死ぬ! 死ぬ死ぬ死ぬっ!」
「舌噛むわよ相沢くん! 歯ぁ食いしばってなさい!」
落下、滑走、跳躍。
落下、滑走、跳躍。
ツムギは崖に生えている巨大なキノコの傘の弾力を利用してバウンドし、朽ちた大木の幹の斜面を駆け下り、崩れかけた古代遺跡の石柱の側面を削りながら、常軌を逸したスピードで崖を下っていく。
それはまるで、ピンボールの球が盤面を跳ね回るかのような、物理法則をハックした狂気のパルクールだった。
システムが用意した『落下ダメージ』の計算式は、ツムギのこの異常な機動を想定していない。
『足場に触れ、滑走状態に移行した』という判定が下されるたびに、致死レベルまで蓄積されていた落下ダメージの倍率がゼロにリセットされていく。
(……それにしても、呆れるわね)
火花を散らしながら崖を滑り降りる最中、ツムギは内心で深々とため息をついていた。
この崖下りのショートカットを成功させるためには、斜面の角度、摩擦係数、重力加速度の計算が、かつての異世界と『完全に一致』していなければならない。
もしこのゲームの開発者が、現実の物理演算エンジンを少しでもアレンジして組み込んでいれば、ツムギの動きには微妙なズレが生じ、二人はとうの昔に岩に激突してトマトのように潰れていたはずだ。
(落下ダメージの計算式から、岩の摩擦係数、風の抵抗力まで……本当に、あの異世界の物理法則のまんまじゃない。いくらリアルを追求するVRMMOだからって、どんだけ手抜きな神(開発者)なのよ。一から新しい世界を構築する手間を惜しんで、丸々コピペしたとしか思えないわね)
異世界の泥臭い経験がそのまま通用することは、ツムギにとってはこの上なく都合が良い。しかし、かつて自分に地獄を見せたブラック職場の理不尽な環境が、そっくりそのままエンタメとして消費されていることには、かすかな苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「まあいいわ! この手抜き仕様のおかげで、私の時給が跳ね上がるんだから文句は言わないであげる! さあ、ラストスパートよ相沢くん!」
「あばばばばばばばばばっ!!」
もはや言葉になっていない叫び声を上げるコウタを抱えたまま、ツムギは最後の跳躍を行った。
眼下には、緑豊かな平原と、巨大な防壁に囲まれた街並み――『商業都市ロンデル』の姿がハッキリと見えてきている。
しかし、地上までの残り高度はまだ約三十メートル。ビルで言えば十階建てに相当する高さだ。いくら落下タイマーをリセットした直後とはいえ、この高さから平地に直接落ちれば、無傷では済まない。
(着地点の選定……よし、ロンデルの北門前。あそこに、都合よく積まれている『アレ』があるわね!)
ツムギの視線が捉えたのは、街の門前に置かれている、巨大な干し草の山だった。荷馬車に積み込むためのものだろう。RPGにおける「高所からの落下を受け止めるクッション」の定番中の定番である。
ツムギは空中でコウタの体を前に突き出し、彼を『肉の盾(物理的なクッション)』にするような非道な姿勢を取ろうとしたが――。
(……さすがに、クラスメイトをクッションにして死なせたら、明日からの学校生活が気まずいわね。今後の貴重な『荷物持ち』でもあるし)
ツムギはわずかに良心(というより今後の利用価値)を働かせ、体勢を入れ替えた。
コウタをしっかりと抱え込み、ツムギ自身が下になる姿勢で、干し草の山へと突っ込んでいく。
そして、激突のコンマ一秒前。
ツムギは全身の筋肉を弛緩させ、衝撃を極限まで逃がす『受け身』の極意を発動させた。
ズッッッッッッドォォォォォォォンッ!!!
爆発のような轟音と共に、ロンデルの北門前に積み上げられていた干し草の山が、四方八方へと爆散した。
大量の干し草と土煙が舞い上がり、周囲にいたNPCの衛兵や、先行してこの街に辿り着いていた少数のプレイヤーたちが、「な、なんだ!?」「空から隕石が落ちてきたぞ!」とパニックに陥り、武器を構えて集まってくる。
舞い散る干し草の中心。
クレーターのようにへこんだ地面のど真ん中で、ツムギはむくりと上体を起こした。
「……ふぅ。ちょっと着地角度が甘かったわね。スタミナゲージをごっそり持っていかれたわ」
ツムギは頭にこびりついた干し草を払い落としながら、自身のHPバーを確認した。
レベル15の防御力と、異世界仕込みの完璧な受け身、そして干し草のクッション効果により、ツムギのHPは『残り30%』ほどで踏みとどまっていた。落下距離を考えれば、奇跡としか言いようのない生存劇である。
「さて、相沢くんは生きてるかしら?」
ツムギが横に視線を向けると、そこには、白目を剥いて口から泡を吹き、完全にピクピクと痙攣しているコウタの姿があった。
彼の頭上に浮かぶHPバーは、真っ赤に点滅している。
その数値は――『 1 』。
VRの痛覚設定が最低レベルとはいえ、落下中の凄まじいG(重力加速度)と、着地時の衝撃の余波は、レベル1のコウタのHPを容赦なく削り取り、文字通り首の皮一枚、HP1のギリギリの状態で踏みとどまらせていたのだ。
システム上は生きているが、精神的には一度死の淵を覗き込んできたような状態である。
「ひ、ひぃぃ……。お、俺……生きてる……? 空飛んで、落ちて……」
「ほら、生きてる生きてる。五体満足よ。システムのエラーでもなんでもない、ちゃんとした『物理演算の結果』による生存よ」
ツムギはしゃがみ込み、コウタの頬をペチペチと軽く叩いて正気に戻した。
コウタは焦点の合わない目で周囲を見回し、背後にそびえ立つ『絶叫の崖』の途方もない高さと、目の前にある『商業都市ロンデル』の巨大な防壁を交互に見た。
「う、嘘だろ……。本当に、崖を降りてきやがった……。掲示板で誰も成功してない、進入不可エリアからのショートカットを……」
「だから言ったでしょ、私の言う通りにすれば指一本触れさせないって。HPは1になっちゃったけど、五体満足で目的地に到着よ」
ツムギは立ち上がり、パンパンと服の埃を払った。
そして、空中に表示されているゲーム内の時計を指差す。
「出発してから、現在までの経過時間……たったの『三分』。三時間かかるルートを三分に短縮したのよ。これで私の時給はさらに跳ね上がるわ!」
ツムギは両手を腰に当て、¥マークの浮かんだ目でロンデルの街並みを見つめ、高らかに笑い声を上げた。
コウタは、地面に這いつくばったまま、ガクガクと震える手で地面の土を掴んだ。
目の前で高笑いするこの女子中学生は、ただのゲーマーではない。ゲームのシステムを尊重する気など微塵もなく、バグや仕様の穴(物理演算のクセ)を平然と悪用し、目的(金)のためなら自分の命はおろか、パーティメンバーの命すらチップとしてベットする、正真正銘の『イカレた守銭奴』だ。
(俺は……とんでもない奴とパーティを組んでしまったんじゃないか……?)
勇者というより、ヤクザ。いや、目的のためなら手段を選ばない狂戦士。
コウタの本能が警鐘を鳴らしていたが、一度組んでしまったパーティを抜ける気力すら、今の彼には残されていなかった。
「さあ、いつまで這いつくばってるの相沢くん。ポーション飲んでHP回復しなさい」
「……お、お前が突き落としたんだろうがぁ……」
「次はロンデルの鍛冶屋に行くわよ。あの酔いどれ親父から、身包み剥がしてレア装備を強請り取らなきゃならないんだから。忙しくなるわよぉ!」
ツムギはコウタの怨嗟の声などどこ吹く風で、ロンデルの門へと向かって意気揚々と歩き出した。
崖下りのショートカットという狂気の沙汰を経て、レベル1の巻き込まれ常識人コウタのツッコミと胃痛の旅は、いよいよ本格的な地獄へと突入していくのであった。




