第7話:はじまりの森? そんなの素通りよ
『アルカディア・オンライン』における最初の狩場、『はじまりの森』。
そこはサービス開始二日目にして、すでに阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
木漏れ日が差し込む美しいファンタジーの森の中を、初期装備のプレイヤーたちが血走った目で走り回っている。数分に一度、草むらからポンッと青いスライムがポップ(出現)した瞬間、十人以上のプレイヤーが一斉に群がり、我先にと木の棒や銅の剣を振り下ろす。
「俺の獲物だ!」
「ふざけんな、俺が先にタゲ(ターゲット)取ったんだよ!」
「ああああっ、横殴りすんな! 経験値とドロップ品が分散するだろうが!」
スライム一匹を巡る、醜い争い。
それはもはや冒険などではなく、バーゲンセールに群がる主婦の争奪戦か、あるいは餌に群がる飢えたハイエナのようであった。
「……ほら、相沢くん。あれを見てどう思う?」
「どうって……すげえ活気だな。やっぱりRMTができるゲームだけあって、みんな必死っていうか……」
森の入り口から少し離れた小高い丘の上。
結城紬――アバター名『ツムギ』は、腕を組んで冷ややかな視線を下界へと送っていた。その隣には、クラスメイトであり、先ほどツムギの口車に乗せられてパーティを組んでしまった相沢航太(アバター名『コウタ』)が立っている。
「活気? 相沢くん、あんたビジネスの才能ゼロね」
「ビ、ビジネス?」
「スライム一匹のドロップ品を売って、いくらになると思う? 平均5ゴールド。つまり日本円にして0.5円よ。それを十人で奪い合って、移動時間や待ち時間を考慮したら……時給換算で数円にしかならないわ。そんなレッドオーシャンに飛び込むなんて、時間の無駄、いや命の無駄遣いよ」
ツムギは呆れ果てたようにため息をついた。
彼女の脳内には、推しのアイドル『ギャラクシー・ボーイズ』の全国ツアー全通という崇高な目標がある。最低でも五十万円の資金が必要なのだ。時給数円の労働など、たとえ百年続けても目標額には届かない。
「レッドオーシャンって……お前、中学生のくせになんかやけに現実的というか、生々しいな……。でも、最初は地道にスライム狩ってレベルを上げるのがRPGの王道だろ?」
「王道は凡人が通る道よ。私たちが目指すのは、誰もいないブルーオーシャン。独占市場での荒稼ぎよ。ついてきなさい、コウタ(歩くアイテム倉庫)くん」
「なんか今、俺のことすごく不穏な呼び方しなかったか!?」
ツムギはコウタのツッコミを華麗にスルーし、はじまりの森とは全く違う方向――村の北側にそびえ立つ、険しい岩山の方角へと歩き出した。
「おいおい、待てよ結城! そっちに行ってもクエストの目的地はないぞ! 掲示板の情報だと、あっちはレベル10以上ないと一瞬でモンスターに殺される危険地帯だって……」
「掲示板の情報なんて、システムに飼い慣らされた素人の戯言よ。本当の攻略法ってのは、現場で泥水すすって見つけるものなのよ」
「お前、ゲームの中で泥水すすったことあんの!?」
異世界で四年間、物理的に泥水をすすってきたツムギにとって、そのツッコミは図星だった。だが、当然そんな過去を明かすわけにはいかない。
「比喩表現よ、比喩」と適当にごまかしながら、ツムギは岩山の険しい獣道へと足を踏み入れた。
周囲の景色が、のどかな草原から、ゴツゴツとした岩肌と枯れ木が目立つ荒涼とした風景へと変わっていく。
BGMも、軽快なマーチから、どこか不安を煽るような低いストリングスの曲調へと変化した。
コウタの視界の端で、システムウィンドウが赤く明滅し、『警告:危険エリアに侵入しました』という文字が浮かび上がっている。
「なぁ結城……マジでやめようぜ。俺、まだレベル1なんだぞ。死んだらデスペナルティで所持金減るし……。お前だって初期装備じゃないか」
「大丈夫よ。私の言う通りに動けば、指一本触れさせないわ」
ツムギの足取りは、驚くほど軽やかだった。
VRMMO『アルカディア・オンライン』には、現実の肉体疲労をシミュレートした『スタミナ』の概念が存在する。足場の悪い山道を登れば、当然ながら息が上がり、動きが鈍くなる。現にコウタは「ぜぇ、ぜぇ……」と肩で息をし始めている。
しかしツムギは、まるで平地を歩くように、一切のペースを崩さずに斜面を登っていく。
(……この程度の山道、あのクソジジイ(宮廷魔術師)に重りをつけて走らされた千丈ヶ岳に比べれば、散歩みたいなものね。体重移動のコツさえ掴めば、スタミナゲージの消費なんて極限まで抑えられるわ)
ゲームのシステム的な『ステータス』による恩恵もあるが(ツムギはすでにレベル15になっているが、コウタにはレベルを隠蔽している)、それ以上に、ツムギの『体の使い方』が常軌を逸して最適化されていた。
無駄な力みがない。着地の際の衝撃を膝で完璧に吸収し、小石の転がっていない硬い地面だけを的確に踏みしめている。
「お、おい……結城……。お前、なんでそんなに体力あるんだよ……。俺、もう帰宅部の肺活量じゃ限界……」
「情けないわね。それでも男子? ほら、静かに。来るわよ」
ツムギがピタリと足を止め、人差し指を口元に当てた。
前方から、グルルルル……という低い唸り声が聞こえてきた。
岩陰から姿を現したのは、全身が岩のように硬い皮膚で覆われた、巨大な狼だった。
『ロックウルフ Lv.12』
赤いネームプレートが浮かび上がっている。
アクティブモンスター(視界に入ると無条件で襲ってくる好戦的な魔物)である。
コウタの顔から血の気が引いた。
「嘘だろ……レベル12!? 絶対勝てない! 逃げるぞ、結城!」
「走って逃げても、狼の俊敏性から逃げ切れるわけないでしょ。背中を見せたら一瞬で噛み殺されるわよ」
「じゃ、じゃあどうすんだよ!? 戦うのか!?」
パニックに陥るコウタを尻目に、ツムギは一切武器を抜こうとはしなかった。
彼女は周囲の地面を素早く見渡し、岩の隙間に生えていた『黄色いキノコ』をむしり取った。
そして、ロックウルフがこちらに気づき、飛びかかろうと前傾姿勢を取ったその瞬間――。
「そーれっ!」
ツムギは黄色いキノコを思い切り握り潰し、ロックウルフの顔面に向かって正確に投げつけた。
ボフッ! という音と共に、キノコから黄色い胞子が煙幕のように弾け飛んだ。
『ギャウンッ!? クシュン! クシュン!』
胞子を鼻から吸い込んだロックウルフが、突然狂ったようにくしゃみを連発し始めた。
目からは涙を流し、鼻を前足で擦りながら、もんどり打って地面を転げ回っている。完全に戦闘不能の状態だ。
「……え? な、なにが起きたんだ?」
「『シビレダケ』の胞子よ。あいつら犬科のモンスターは嗅覚が鋭すぎるから、強い刺激臭を直接鼻孔に叩き込まれると、脳がバグってしばらく行動不能になるの。異世界の……じゃなくて、ゲームの常識よ」
ツムギは何事もなかったかのように、くしゃみをしてのたうち回るロックウルフの横を素通りしていく。
コウタはポカンと口を開けたまま、ツムギの背中を追いかけた。
「常識って……そんなの、攻略Wikiのどこにも載ってなかったぞ!?」
「Wikiなんて、データ上の数値しか見ない連中が書いてるんだからアテにならないわ。大事なのは、モンスターの『生態』を理解することよ。あいつらがどういう構造で生きていて、何を嫌がるか。……ま、身をもって学んだ経験の差ね」
かつて異世界で、宮廷魔術師によって狼の巣穴のど真ん中に放り込まれ、死に物狂いで見つけた生存戦略だとは言えない。
だが、コウタの中で「結城紬」というクラスメイトに対する認識が、大きく変わり始めていた。
ただのゲーム初心者ではない。かといって、廃人ゲーマーとも違う。
まるで、この理不尽な仮想現実の世界を「自分の庭」のように熟知しているかのような、圧倒的なサバイバル能力。
「お前……ひょっとして、ベータテストとか参加してたのか?」
「さあね。そんなことより、急ぐわよ。時給が下がる」
ツムギは不敵な笑みを浮かべ、さらに険しい岩山を登っていく。
その後も、ツムギの『異世界流・生態系ハック』は冴え渡った。
空から襲いかかってくる『ジャイアントバット』には、岩を二つぶつけ合わせて強烈な高周波の音を鳴らし、超音波探知を狂わせて墜落させる。
道に群生している『毒吐き草』の地帯は、風向きを完璧に読んで、胞子が飛んでこない風上のルートだけをミリ単位で歩いて突破する。
システムが用意したスキルや魔法を一切使わず、純粋な物理法則と生態知識だけで、高レベルの危険地帯をノーダメージで踏破していく。
コウタはただただ、「すげえ……」「ヤバ……」と語彙力を失いながら、ツムギの後ろを安全についていくだけだった。
「よし、到着。ここが目的地よ」
出発から約三十分。
ツムギが足を止めたのは、岩山の頂上付近……マップの最北端に位置する場所だった。
そこは、文字通り『世界の果て』だった。
足元から先は、地面が存在しない。
あるのは、雲海を突き抜けてはるか下層まで続く、垂直に切り立った絶壁。
吹き上げる強風がゴォォォォッと不気味な音を立てており、下を覗き込んでも、底がどこにあるのか全く見えない。
コウタは恐る恐る崖の縁に近づき、下を覗き込んで、ヒィッ! と悲鳴を上げた。
VRギアを通じた圧倒的な高度感が、三半規管を激しく揺さぶる。
「な、なんだよここ! マップの境界線……いわゆる『進入不可エリア』じゃないのか!? 名前も『絶叫の崖』なんて物騒な名前になってるし!」
「進入不可じゃないわよ。この崖の下には、中級者向けの美味しいクエストが盛りだくさんの『商業都市ロンデル』があるの」
ツムギは崖のギリギリに立ち、強風に髪をなびかせながら、満足げに腕を組んで頷いた。
「商業都市ロンデルに行けば、初期村では売っていないレアなアイテムや、高額で取引されるクエストの報酬が手に入る。でも、普通の正規ルートを通って山をぐるっと迂回していくと、現実時間で軽く三時間はかかるのよね」
「さ、三時間!? 遠すぎるだろ! ファストトラベル(ワープ)とかないのかよ!」
「行ったことのある街にしかワープできない仕様よ。だから、初心者はみんな地道に歩くしかないの」
「じゃあ、なんで俺たちこんな崖の上にいるんだよ。三時間かけて山を迂回するルートから外れてるじゃないか」
コウタの至極真っ当な疑問に対し、ツムギは振り返り、最高に邪悪で、最高に強欲な笑みを浮かべた。
「言ったでしょ? 時は金なり。三時間も歩き続けるなんて、時給の観点から言って完全な損失よ。そんな無駄なことはしないわ」
「……え? じゃあ、どうやってロンデルに行くんだ?」
ツムギは言葉を発する代わりに、親指で背後の『絶叫の崖』――底なしの空間を指差した。
そして、コウタの脳がその意味を理解し、拒絶反応を示す前に、あっけらかんと言い放った。
「決まってるじゃない。ここから『飛び降りて』、ショートカットするのよ」
「……は?」
コウタの間の抜けた声が、強風の中に虚しく響き渡る。
「飛び降りるって……お前、バカなのか!? このゲーム、落下ダメージあるんだぞ! 数メートル落ちただけで骨折のバッドステータスがつくのに、こんな雲海の下まで落ちたら即死どころか、アバターが粉微塵になるわ!!」
「大丈夫よ。この世界の重力法則と物理演算のクセなら、体が完璧に覚えてるから。ちょっとした『テクニック』を使えば、HP1を残して生還できるわ」
ツムギはまるで、「コンビニに行ってくる」くらいのテンションで、恐るべき狂気の計画を語った。
「テクニックってなんだよ!? 物理演算ってなんだよ!? 俺はやらないぞ! 絶対にだ!!」
「相沢くん、パーティを組んだ時の約束、覚えてるわよね? 『私が言う通りに動けば、指一本触れさせない』って。ほら、私の手にしっかり掴まりなさい」
「嫌だぁぁぁ! 俺は平和にスライムを狩ってたいんだぁぁぁ!」
逃げようとするコウタの襟首を、ツムギはレベル15の圧倒的な筋力ステータスでガシッと掴んだ。
まるで猫を摘み上げるように、コウタの体が宙に浮く。
「さあ、時給一万円のブルーオーシャンへ、ダイブよ!!」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
クラスメイトの悲痛な叫び声と共に、元勇者の守銭奴中学生は、一切の躊躇なく、底なしの崖下へと身を躍らせた。
常識外れの荒稼ぎツアー、最初の狂気たる『落下ダメージギリギリの崖下り』が、今まさに幕を開けようとしていた。




