第52話:バグモンスターの脅威〜常識が崩壊した深淵と理不尽な死の舞踏〜
空間そのものが、ノイズ混じりの悲鳴を上げているようだった。
緑色のグリッド線が格子状に走る、果てしなく広がる無機質な巨大空間――『アルカディア・オンライン』の最深部にして、絶対に立ち入ることが許されない封印領域【システム・アビス】。
本来であれば、ここはゲームの根幹を支えるサーバーのデータが整然と保管されているだけの、静寂に満ちた不可視の領域であるはずだ。
しかし今、結城紬(アバター名:ツムギ)たちが足を踏み入れたその場所は、異世界を滅ぼした『滅びの概念』がバグとして増殖し、すべてのデータを汚染し尽くした地獄の底へと変貌していた。
「ピィィィィィィン……! ガガッ、ザザザザッ……!」
耳を劈くような電子的なエラー音が、空間のあちこちから不協和音となって鳴り響いている。
彼らを包囲しているのは、ファンタジーの常識から完全に逸脱した、おぞましい異形の群れだった。
テクスチャが剥がれ落ち、内部のポリゴンが剥き出しになった奇形の獣。本来のサイズ設定を無視して数倍に巨大化したゴブリン。そして、体が半分壁にめり込んだまま、痙攣するようにスライド移動してくるアンデッドの群れ。
「な、なんだこいつら……。俺たちが今まで戦ってきたモンスターとは、根本的に何かが違うぞ……!」
相沢航太(アバター名:コウタ)は、重たい荷物袋を背負ったまま、後ずさりして喉を鳴らした。初心者のゲーマーであっても、目の前の存在に対する強烈な『違和感』と『拒絶反応』が本能レベルで警鐘を鳴らしている。
「ひるむな、相沢! どんなバケモノだろうと、俺の盾で全て受け止めてみせますぜ! 姉御、指示を!」
三十代の重戦士シシオウが、ひしゃげたタワーシールドを構え直し、前衛に躍り出た。
彼の前方に迫ってきたのは、ゲーム内で最も遭遇率の高い最弱モンスター――青い半透明の身体を持つ、ごく一般的な『スライム』だった。
ただし、そのスライムの身体の表面には、テレビの砂嵐のような黒いブロックノイズが走り、小刻みにブレ続けている。
「たかがスライム一匹、俺の盾で弾き飛ばしてやりますよ! 【シールド・バッシュ】!!」
シシオウは、自信満々にタワーシールドを構え、突進してきたノイズ混じりのスライムに向かって、渾身の力で盾を打ち付けた。
最弱モンスターの質量など、トップランカーである重戦士のスキルにとっては羽虫と同然。本来であれば、触れた瞬間にスライムのほうが弾け飛ぶはずである。
しかし。
ドゴォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
盾とスライムが衝突した瞬間、地下空間全体を揺るがすような、規格外の爆発音が響き渡った。
「なっ……が、ごふぅぁぁぁぁぁっ!?」
シシオウの巨体が、まるで大型トラックに正面衝突されたかのように軽々と宙を舞い、数十メートル後方の不可視の壁まで一直線に吹き飛ばされたのだ。
ガシャァァァン!という凄まじい音とともに壁に激突したシシオウのHPバーが、一撃で90%以上も削り取られ、瀕死のレッドゾーンへと叩き落とされる。
「シシオウさん!?」
東山凛(アバター名:リン)が悲鳴を上げ、慌てて杖を振るう。
「【完全回復】! い、一体何が起きましたの!? 相手はただのスライムですわよ!?」
『ただのスライムじゃないわ!』
ツムギの右肩に浮かぶナビゲーションAIのエクレアが、真っ赤に点滅しながら叫んだ。
『あのスライム、見た目と中身のデータが完全にバグで入れ替わってるのよ! 外見はレベル1のスライムだけど、内部のステータスデータは……【魔王クラス】の超高難易度ボスの数値がそのまま割り当てられてるわ!』
「ス、スライムの見た目で、魔王のステータスだって!?」
コウタが目玉を飛び出させた。
「そんなのありかよ! 見た目じゃ強さが全く判別できないじゃないか! ただのクソゲーどころの騒ぎじゃないぞ!」
「コウタ、ポーションを準備しなさい! 次が来るわよ!」
ツムギの鋭い警告と同時に、バグモンスターの群れの中から、頭と胴体が分離したまま宙を浮いている不気味な騎士――【グリッチ・ナイト】が三体、奇妙なスライド移動で滑るように迫ってきた。
「見た目で判断できないなら、近づかれる前に遠距離からわたくしの最大火力で焼き尽くすまでですわ! 燃え盛れ、紅蓮の劫火! 【爆裂火炎弾】!!」
リンが杖を天高く掲げ、詠唱を完了させる。
杖の先端から放たれた極大の火球が、真っ直ぐに三体のグリッチ・ナイトの中心へと飛んでいく。トップクラスの魔力を持つリンの放つ最大魔法。直撃すれば、周囲の空間ごと灰燼に帰すはずの絶対的な一撃だ。
だが、火球がグリッチ・ナイトに着弾する、まさにその瞬間。
シュンッ!
三体のグリッチ・ナイトの姿が、ノイズとともに一瞬にして掻き消えた。
「え……? 消え……」
リンが呆然と呟いた直後。
彼女の放った極大の火球は、そのまま何もない虚空をすり抜け、遥か彼方の壁にぶつかって空しく爆発した。ターゲットロック機能が、完全に無効化されていたのだ。
「後ろよ、リン!!」
ツムギの叫び声に、リンがハッと振り返る。
リンの背後――完全に死角となる位置に、先ほど消えたはずの三体のグリッチ・ナイトが、バグによる『瞬間移動(座標の強制書き換え)』によって実体化していた。
そして、三体の騎士は、手に持ったサビだらけの長剣を、無慈悲にリンへと振り下ろした。
「させませんわ! 【光の絶対防壁】!!」
リンの反応速度は、トップギルドのマスターに相応しい素晴らしいものだった。剣が振り下ろされるコンマ数秒前に、全方位をカバーする絶対防御の光の障壁を展開することに成功したのだ。
物理・魔法の双方を完全に遮断する鉄壁のシールド。剣は障壁に阻まれ、リンは無傷で済むはずだった。
――ズバァァァンッ!!
「きゃあぁぁぁぁぁぁっ!?」
リンの口から、苦悶の悲鳴が迸った。
光の防壁は、一ミリのひび割れすら起こさずに健在である。それにもかかわらず、リンの肩から脇腹にかけて、深く切り裂かれたような真っ赤なダメージエフェクトが吹き出したのだ。
「リ、リンさん!? 防御魔法は間に合ってたじゃないか!」
コウタがパニックになりながら、慌てて回復ポーションをリンに投げつける。
ポーションの液体を浴びてHPを回復させたリンは、よろめきながら後退し、信じられないというように自分の身体と、目の前のグリッチ・ナイトを見比べた。
「ど、どういうことですの……!? わたくしの防壁は、確かに奴らの剣の軌道を完全に防いでおりましたわ! それなのに、なぜダメージが貫通して……!」
『当たり判定が狂ってるのよ!』
エクレアが、システム内部のデータを解析しながら絶望的な声を上げた。
『あのグリッチ・ナイト、画面に表示されている3Dモデルの動き(モーション)と、システム内で計算されている実際の【攻撃の当たり判定】が、時間的にも空間的にも完全にズレてるの!』
「モーションと判定が、ズレている……?」
シシオウが、回復薬を飲み干しながら前線に復帰し、盾を構えながら冷や汗を流した。
『そうよ! あいつらが剣を振り下ろすグラフィック(映像)が表示される【1秒前】に、すでにリンのいる空間には【斬撃のダメージ判定】が発生していたの! 映像を見てから防御魔法を展開したんじゃ、もう手遅れだったってことよ!』
エクレアの解説に、コウタは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「なんだそれ……。じゃあ、俺たちが見てる敵の動きは、全部フェイク(嘘の映像)ってことかよ! 剣を振る前にダメージを食らって、攻撃を避けたのに見えない判定にぶつかってダメージを食らう……。そんなの、プレイヤーの反射神経もテクニックも、一切意味がないじゃないか!」
コウタの叫びは、悲痛な事実を突いていた。
ゲームにおける戦闘とは、敵のモーション(予備動作)を見て、攻撃が来るタイミングを予測し、防御や回避のシステム的対応を合わせることで成立する。
だが、このシステム・アビスに蔓延るバグモンスターたちには、その『ゲームとしての最低限のルール』すら存在しない。
攻撃モーションが来る前にダメージが発生する。
ターゲットロックをしても、座標が狂っているため魔法が当たらない。
最弱の見た目の敵が、触れただけで即死する威力の攻撃を放ってくる。
これらはもはや、攻略困難な強敵などではない。
プレイヤーがシステムを介して干渉するという、VRMMOの根幹を根底から否定する『理不尽の暴力』そのものであった。
「ダメですぜ姉御……!」
シシオウが、見えない攻撃によって鎧をボロボロにされながら悲痛な声を上げる。
「俺のシールドバッシュも、敵の当たり判定がどこにあるか分からないから、全部空振りに終わっちまう! 敵の攻撃を防ぐことも、こちらの攻撃を当てることもできない! これじゃあ、完全な詰み(サンドバッグ)ですぜ!」
「わ、わたくしの魔法も……。広範囲魔法で一掃しようとしても、バグによる瞬間移動で範囲外へ逃げられるか、魔法の判定自体を『存在しないデータ』として無効化されてしまいますわ……!」
リンも、杖を握る手をワナワナと震わせていた。
トップランカーとして数多の死闘を潜り抜けてきた彼女の誇りと自信が、ゲームのルールが崩壊したこの異常空間の前で、音を立てて砕け散ろうとしていた。
「もうおしまいだ……。俺たちじゃ、どう足掻いたってこのバグの群れには勝てない。世界の終わりだ……俺のソシャゲのデータも、全部消えちまうんだ……!」
コウタは完全に心が折れ、ポーションの段ボール箱を抱え込んだまま、絶望のあまりすすり泣き始めた。
トップランカーの重戦士の盾は通じず。
天才的な魔法使いの攻撃はすり抜け。
常識的なゲーマーの理解を完全に超えた、理不尽極まりない死の舞踏。
バグモンスターの群れは、絶望する四人を完全に包囲し、ジリジリと、その狂った判定の刃を突きつけてくる。
万策尽き、全滅はもはや時間の問題かと思われた。
だが。
その絶望のどん底において。
ただ一人。
「…………ふふっ。あーっはっはっはっはっ!!」
最も小柄で、初期装備の布の服を着ただけの少女――結城紬(アバター名:ツムギ)だけが。
恐怖に震えるどころか、腹の底から湧き上がるような、狂気に満ちた高笑いを上げていたのである。
「ゆ、結城……? お前、どうしちゃったんだよ……。ついにバグのプレッシャーで、脳の処理が追いつかなくなって発狂したのか……?」
コウタが涙目でツムギを見上げる。
しかし、ツムギがゆっくりと顔を下ろした時、その瞳には発狂の兆候など微塵もなかった。
そこにあったのは、四年前の異世界で幾度も死線を潜り抜け、あらゆる理不尽な暴力に抗い続けてきた『最強のサバイバー』としての、極めて冷徹で、そして獰猛な肉食獣の輝きだった。
「発狂? バカ言いなさい。私は至って冷静よ」
ツムギは、自らの手でしっかりと握りしめた『木の棒(光属性の結晶石付き)』を、バットのようにゆったりと構え直した。
「モーションと判定がズレてる? 魔法がすり抜ける? システムのアシスト(自動補正)が一切通用しない? ……あはっ、最高じゃないの。まるで四年前の、あのクソみたいな異世界の戦場に逆戻りしたみたいで、血が沸き立つわ!」
「お、お姉様……? 何を仰って……」
リンが困惑の声を漏らす。
「いいこと、あんたたち。よく聞きなさい」
ツムギは、迫り来るバグモンスターの群れを一切恐れることなく、凛とした声で言い放った。
「システムが用意した親切な赤線や、当たり判定なんていう『お膳立て』に頼りきってるから、それが無くなった途端にパニックになるのよ。ゲームの常識が通用しないなら、そんなものは最初から捨ててしまいなさい」
ツムギの目が、かつてないほどの鋭さを帯びて細められる。
「システムのルールがないなら、私のルール(物理と勘)で殴り殺すだけよ。……あんたたちに、本当の『泥臭い実戦(ブラック労働)』の極意ってやつを、脳髄に叩き込んであげるわ!」
絶望するパーティの中で、ただ一人、世界を救う勇者としての……いや、己の口座残高を一円たりとも減らさせない『最強の守銭奴』としての闘志を爆発させるツムギ。
システムという補助輪を完全に外された究極の理不尽空間で、ツムギの異世界での全経験値が、今ここに完全解放されようとしていた。
バグと物理の、常軌を逸した殺し合いの幕が上がる。




