第53話:常識が通じないなら、物理で殴れ〜見えない判定と野生のスパコン脳〜
無機質な緑色のグリッド線が果てしなく続く、アルカディア・オンラインの最深部【システム・アビス】。
本来ならば整然としたデータが並ぶはずのその空間は、今や完全な狂気と混沌に支配されていた。
『ガガガガガッ……! ピィィィィィィン……!』
耳を劈くような不協和音のノイズを撒き散らしながら、おぞましいバグモンスターの群れが結城紬(アバター名:ツムギ)たちを完全に包囲していた。
テクスチャが剥がれ落ち、内部のポリゴンが剥き出しになった奇形の獣。本来のサイズ設定を無視して数倍に巨大化したゴブリン。
だが、最も恐ろしいのは、彼らの「見た目」ではない。
彼らの放つすべての攻撃が、ゲームという世界の『ルール』を完全に逸脱していることだった。
「ひぃぃっ! まただ! また何もない空間から攻撃が飛んできたぞ!」
相沢航太(アバター名:コウタ)が、重たい荷物袋を抱え込んだまま地面を転げ回って悲鳴を上げた。
彼のすぐ横の空間――何もない虚空を、見えない刃が通り抜け、床のグリッド線を深く抉り取ったのだ。
「ダメですぜ姉御……! 敵の攻撃モーションを見てから盾を構えたんじゃ、もうすでにダメージ判定が俺の体を通り抜けた後だ! 俺のシールドバッシュも、敵のグラフィック(見た目)をすり抜けちまう!」
三十代の重戦士シシオウが、ボロボロになったタワーシールドの陰で血反吐を吐きながら呻く。
「わ、わたくしの魔法も、システムのアシスト(自動追尾)がすべてエラーで弾かれてしまいますわ! 敵の当たり判定が、画面に映っている場所に存在しないなんて……こんなの、どうやって戦えばよろしいんですの!?」
東山凛(アバター名:リン)も、完全に魔力のコントロールを見失い、杖を握る手をガタガタと震わせていた。
攻撃モーションの前にダメージが発生し、敵のグラフィックには攻撃が当たらない。
VRMMOにおける戦闘の前提である「見て、反応する」というプロセスが完全に崩壊している。これはもはや難易度の問題ではない。プレイヤーという存在に対する、理不尽なシステムからの「拒絶」であった。
全滅は免れない。
コウタも、リンも、シシオウも、誰もがそう悟り、絶望の淵に突き落とされかけていた。
……ただ一人を除いて。
「……ふふっ。あーっはっはっはっはっ!!」
空間を埋め尽くすバグのノイズを切り裂くように、腹の底から湧き上がるような、狂気に満ちた高笑いが響き渡った。
「ゆ、結城……?」
コウタが涙目で顔を上げると、そこには、初期装備の布の服を着た小柄な少女が、光属性の結晶石をくくりつけた『木の棒』を肩に担ぎ、最高に楽しそうな、そして獰猛な肉食獣の笑みを浮かべて立っていた。
「モーションと判定がズレてる? 魔法がすり抜ける? システムのアシストが一切通用しない? ……あはっ、最高じゃないの。まるで四年前の、あのクソみたいな異世界の戦場に逆戻りしたみたいで、血が沸き立つわ!」
ツムギは木の棒をバットのようにゆったりと構え直し、首をゴキゴキと鳴らした。
「いいこと、あんたたち。よく聞きなさい」
ツムギは、迫り来るバグモンスターの群れを一切恐れることなく、凛とした声で言い放った。
「システムが用意した親切な赤線や、分かりやすい攻撃モーション、そんな『お膳立て』に頼りきってるから、それが無くなった途端にパニックになるのよ。ゲームの常識が通用しないなら、そんなものは最初から捨ててしまいなさい」
「す、捨てるって……じゃあどうやって戦うんだよ! 敵が見えないんだぞ!」
コウタの悲痛な叫びに、ツムギはニヤリと口角を吊り上げた。
「モーションと判定がズレてる? なら、判定のある『空間』を殴ればいいだけじゃない!」
ツムギが言い放った直後。
頭と胴体が分離したまま宙を浮くバグモンスター、【グリッチ・ナイト】が、ツムギの遥か前方(グラフィック上の位置)で、剣を振りかぶるモーションを見せた。
映像ではまだ剣は振り下ろされていない。
だが、バグによって狂った『実際の攻撃判定』は、すでにツムギの首元へと不可視の刃となって迫っていた。
「見えない攻撃? 笑わせないでよ。風の精霊が放つ『無色透明の真空刃』に比べたら、こんなの殺気がダダ漏れの素人攻撃よ!」
ツムギの瞳孔が、極限まで収縮する。
四年間、異世界という本物の死地で、クロノスの理不尽なシゴキを受け続けた彼女の『超・野生の勘』が完全に解放された瞬間だった。
視覚という不確かな情報など、最初から信じていない。
ツムギが感じ取っているのは、空気のわずかな揺らぎ、電子ノイズの発生源のズレ、床のグリッド線を踏む「見えない質量」の重み。そして何より、相手が放つ純粋な『殺意』。
シュンッ!
ツムギは、虚空に向かって飛んできた不可視の刃を、首をわずかに傾けるだけの最小限の動きで、いとも容易く回避した。
見えない刃がツムギの後方の床を抉り取る。
「グラフィックが1秒遅れてるってことは、お前の『本当の身体』は、映像の2メートル前方に存在してるってことよね!」
ツムギは床を蹴り、何もない虚空――彼女の野生の勘が導き出した『見えないバグの当たり判定が存在する空間の座標』に向かって、渾身の力で木の棒をフルスイングした。
ドガァァァァァァァァンッ!!!!
「ピギィィィィィィィッ!?」
何もない空間を叩いたはずの木の棒が、まるで硬い鋼鉄の塊に激突したかのような凄まじい衝撃音を響かせた。
その直後。ツムギの立っている場所から2メートル後方に表示されていたグリッチ・ナイトのグラフィックが、凄まじいダメージエフェクトとともに大きく吹き飛び、空中でグシャグシャに歪んで青いポリゴンとなって消滅したのだ。
「な、なんだって……!?」
コウタの目玉がこぼれ落ちんばかりに見開かれた。
「見た目の映像を完全に無視して……見えない敵の『本当の位置』を正確に殴り飛ばしたっていうのか!? 予測計算? いや、それにしたって異常すぎる! お前の脳内処理能力、スパコンかよ……!」
コウタの呆れ果てたツッコミに、ツムギは肩をすくめて笑った。
「スパコンなんかじゃないわよ。これはただの『ブラック企業で培った社畜の生存本能』よ。上司の理不尽な無茶振りを躱し続けてたら、いつの間にか見えない攻撃の軌道くらい読めるようになっちゃったのよ」
ツムギの言葉は冗談めかしていたが、その動きに一切の無駄はなかった。
次々と襲いかかってくるバグモンスターの群れ。
巨体を誇る【バグ・スライム】が、ツムギの遥か前方で毒液を吐き出すモーションを見せる。
だが、ツムギはすでに横へ飛び退いていた。彼女が元いた場所の床が、見えない毒液によってジュージューと溶かされていく。
「グラフィックは遅れてるけど、毒液が床に落ちる『物理的な影響(酸の飛沫)』はリアルタイムで反映されてる! そこから逆算すれば、お前の本当の口の位置はここよ!」
ツムギは空中で身を捻り、スライムのグラフィックが向いている方向とは全く別の、何もない空間に向かって強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
ボシュゥッ!という重い音とともに、離れた場所にいたスライムのグラフィックがひしゃげ、毒液を撒き散らしながら消滅する。
見えない敵を殴り、見えない攻撃を躱す。
VRMMOの視覚情報を完全に切り捨て、研ぎ澄まされた六感(という名の異世界のトラウマ)だけで空間を把握し、的確にバグを粉砕していく小柄な少女。
その神がかった、いや、悪魔じみた戦闘機動を前に、絶望していた仲間たちの目に再び強い光が宿り始めた。
「す、凄まじいですわ……! システムが機能しないのならば、己の直感と物理法則のみで敵を圧倒する。これこそが、わたくしが心酔したお姉様の真の力……!」
リンが、煤だらけの顔を輝かせながら立ち上がる。
「姉御……! グラフィックに惑わされるな、見えない重みを感じ取れってことですね! さすがは歴戦の覇王、俺も現実のクレーム対応で鍛えた『相手の怒りの矛先を読む力』をフル稼働させてみせますぜ!」
シシオウも、タワーシールドを構え直し、その両足に力強く力を込めた。
「あんたたち、ボサッとしてないで働きなさい!」
ツムギが、バグモンスターの群れの中で狂舞を繰り広げながら、鋭い指示を飛ばす。
「デカブツ! 敵の姿を見るな! 床のグリッド線を見て! 見えない質量が動けば、必ず床のテクスチャにわずかな歪みが生じるわ。その歪みの進行方向の『1メートル先』に盾を構えなさい!」
「応ッ! 視覚を捨てて、気配と歪みで受ける! 【金剛の構え】ェェッ!!」
シシオウは目を閉じ、床のわずかな変化だけに意識を集中させた。
グリッド線が不自然に歪んだ瞬間、彼は迷わず何もない右前方の空間に向かってタワーシールドを突き出した。
ガキィィィィンッ!!
見えない巨獣の突進が、シシオウの盾に完璧に防がれ、強烈な火花が散る。
「防いだ! 見えない攻撃を、完全にブロックしましたぜ姉御ォッ!!」
「よくやったわ社畜! 次、リン! システムのターゲットロックは切って、マニュアル(手動)照準に切り替えなさい! デカブツが盾で弾き返した衝撃音の出た『空間座標』に向かって、最大火力の範囲魔法をぶち込むのよ!」
「お任せくださいませ! 視界に頼らない、純粋な空間認識による魔力投射……! お姉様のご指導で、わたくしの魔法はさらに上の次元へと至りますわ!」
リンは杖を構え、システムのアシストを自ら強制解除した。
シシオウの盾から衝撃音が響いたその一点の座標に向け、リンの莫大なMPが注ぎ込まれた魔法陣が手動で展開される。
「吹き飛びなさい! 【極大雷光撃】!!」
何もない空間に向かって放たれた稲妻が、見えないバグモンスターの密集地帯を正確に直撃した。
バリバリバリッ!という凄まじい放電音とともに、数メートル離れた場所に表示されていた大量のバグモンスターのグラフィックが一斉に黒焦げになり、ポリゴンとなって消滅していく。
「相沢くん! あんたは私の死角をカバーしなさい! 私が殴り損ねたバグの残骸や、ドロップしたアイテム(質量)を投げつけて、敵の見えない判定を炙り出すのよ! ポーションの供給も一秒たりとも遅らせるんじゃないわよ!」
「わ、わかったよ! もうどうにでもなれ! 俺のソシャゲのデータを守るために、俺は人間砲台になってやるぅぅっ!」
コウタが半ばヤケクソになりながら、インベントリから手当たり次第にガラクタやポーションの空き瓶を取り出し、ツムギの指示する空間に向かって全力で投げつけ始めた。
空き瓶が見えない壁(敵の判定)に当たって砕け散ることで、敵の正確な位置が煙のように浮かび上がる。そこをすかさず、ツムギの木の棒とリンの魔法が粉砕していく。
完璧だった。
システムの常識が全く通用しない理不尽な深淵領域において、四人のプレイヤーは、システム(補助輪)を完全に脱ぎ捨てた『純粋なプレイヤーの泥臭いプレイスキルと連携』によって、絶望的なバグの群れを次々と圧倒し始めていた。
「あーっはっはっはっは!! いいわよ野郎ども! その調子よ!」
ツムギは木の棒を旋風のように振り回し、見えない敵の脳天を正確に叩き割りながら、狂喜の笑い声を上げた。
「このシステム・アビスのバグを一匹駆除するごとに、私の口座残高の安全が確約されていくのよ! 時給一万円の清掃バイト、一切の妥協は許さないわ! 私たちの一千万円と、推しのライブのために、このバグどもを一ピクセル残らず根絶やしにしてやるわよぉぉぉぉぉぉっ!!」
世界の危機という崇高な使命感は、そこには微塵も存在しない。
あるのは、己の稼いだカネを絶対に守り抜くという、最強の守銭奴としての圧倒的な強欲と執念。
ツムギのそのブレない狂気が、恐怖に支配されていた仲間たちを完璧な歯車として機能させ、アルカディア・オンラインの最深部で、かつてないほど泥臭く、そして美しい『ブラック・オーケストラ』を奏で始めていた。
現実世界へのウイルスの侵食を食い止めるための戦いは、システムに抗うプレイヤーたちの意地を乗せて、さらに苛烈な領域へと加速していく。




