第51話:最高の仲間(という名の歩くATMと肉の盾)〜時給一万円の深夜清掃バイト〜
現実世界での自室。スマートフォンに表示されたネットバンキングの残高『10,004,520円』という圧倒的な数字をその目に焼き付けた結城紬(アバター名:ツムギ)は、一切の躊躇なくVRヘッドセットを被り直し、再び『アルカディア・オンライン』の世界へとダイブした。
――視界が光に包まれ、次に目を開けた時、彼女は商業都市ロンデルの石畳の上に立っていた。
魔王討伐の余韻が残る街は、まだお祭り騒ぎの熱気に包まれている。夜空には花火のような魔法が打ち上げられ、広場では多くのプレイヤーたちがジョッキを片手に勝利の美酒を浴びるように飲んでいた。
しかし、ツムギの足取りに浮かれたところは微塵もなかった。彼女の背中からは、世界の危機を救う高潔な勇者のオーラではなく、己の全財産を脅かす存在に対する「純度一〇〇%の殺意と強欲」が、黒い炎となって立ち昇っていたのである。
「待たせたわね、野郎ども」
ツムギが裏路地にひっそりと佇む冒険者御用達の酒場『赤イノシシ亭』の分厚い木製ドアを蹴り開けると、円卓を囲んでどんよりと沈み込んでいた三人の仲間たちが、一斉に顔を上げた。
「「「お姉様!!(姉御!)(結城!)」」」
相沢航太(アバター名:コウタ)、東山凛(アバター名:リン)、そして重戦士シシオウの三人が、弾かれたように椅子から立ち上がる。
彼らは、ツムギが突然運営の特別ルームへ強制転送されてからというもの、生きた心地がしていなかった。一億円という莫大な賞金を手にした直後の強制呼び出し。常識的に考えれば、バグ利用や不正行為によるアカウント永久凍結(BAN)と賞金没収という、最悪の処刑を待つだけの時間だったからだ。
「ゆ、結城! 無事だったのか!?」
コウタが胃薬の空き瓶を握りしめたまま、ツムギに駆け寄る。
「アカウントは!? ポイントは!? まさか、全部没収されてレベル1からやり直しなんてことに……」
「バカ言いなさい。誰が私の一千万円を手放すもんですか」
ツムギは鼻を鳴らし、円卓の上座にどっかりと腰を下ろした。
「あのクソ運営の言いがかりなんて、全部理詰めでハネ退けてやったわよ。私が稼いだポイントも、魔王からドロップしたレジェンダリーアイテムも、すべて仕様の範囲内だって認めさせたわ。私の口座の数字は、一円たりとも減ってないわよ」
「おおおおおっ!! さすがはお姉様ですわ!」
リンが両手を胸の前で組み、うっとりとした表情でツムギを見つめる。
「運営のトップすら言葉でねじ伏せる……! 姉御の交渉術、まさに現代の覇王! 俺も現実の会社で、それくらい強気に有給申請を通してみたいものですぜ!」
シシオウも感極まって男泣きをしている。
「でも、ただ無罪放免で帰ってきたわけじゃないわ」
ツムギはニヤリと、獲物を狙う肉食獣のような笑みを浮かべた。
「あんたたちに朗報よ。あの運営のトップから、直々に『追加の高額アルバイト(特別任務)』をもぎ取ってきたわ。報酬はなんと、さらに一億ゴールド(一千万円)よ!」
「「「えええええええええええええっ!?」」」
三人の驚愕の声が、喧騒に包まれた酒場の中に響き渡った。
ただでさえ天文学的な賞金を手にした直後に、さらに一億円の追加報酬。コウタの常識的な脳内処理は完全にパンクし、リンとシシオウは歓喜のあまり肩を組んで踊り出しそうになっていた。
「ま、待てよ結城! いくらなんでも話がうますぎるだろ!」
コウタだけは、持ち前の慎重さ(という名のツムギへの警戒心)を発揮し、身を乗り出した。
「運営が直々に、そんな大金を払ってまで依頼してくるバイトって、一体なんなんだ? 王都防衛戦の魔王よりもヤバい敵が出てくるとか、そういう裏があるんじゃないのか?」
コウタの指摘は、極めて鋭かった。
ツムギの脳裏には、先ほどクロノスから聞かされた絶望的な真実がよぎる。
――このゲームの正体が滅びゆく異世界のデータであること。
――魔王の残した『滅びの概念』が自立したバグとして増殖し、システムの最深部で暴走していること。
――このままバグが現代地球のクラウドネットワークに漏れ出せば、インフラから金融機関まで、すべてのシステムが崩壊し、現実世界が終わること。
(……そんなバカ正直に『現実世界が滅ぶから地球を救いに行くわよ』なんて説明したら、こいつら絶対にパニックになるわよね)
ツムギは心の中で舌打ちをした。
コウタは「ネットが死んだら俺のソシャゲのデータが!」と泣き叫ぶだろうし、リンは「すぐに東山財閥の全IT技術者を動員してサーバーを物理的に保護させますわ!」と現実世界で大騒ぎを起こすだろう。シシオウに至っては「住宅ローンがチャラになるなら逆に世界が滅んだ方がマシでは……?」と、社畜特有の危険な悟りを開きかねない。
説明するのも面倒だし、余計な混乱を招いてデバッグ作業の効率が落ちるのだけは避けたかった。
「……裏なんてないわよ。ただの『お掃除バイト』よ」
ツムギは、あくまで軽い調子で、しかし有無を言わせぬ圧を込めて嘘をついた。
「運営がね、この前のイベントの負荷のせいで、システムの奥底に『不要なゴミデータ(バグ)』が溜まりすぎちゃって困ってるらしいの。でも、運営の権限じゃ直接手出しできないエリアだから、プレイヤーである私たちに物理的にそのゴミを掃除してほしいって頼んできたのよ」
「ゴミ掃除……? システム内部のバグを、プレイヤーが武器で殴って消すのか?」
「そうよ。このゲームの物理演算なら可能らしいわ。時給換算で一人当たり数百万ゴールドにはなる、深夜の超高額清掃バイト。……どう? やる? やらない?」
ツムギの挑発的な視線に、三人は顔を見合わせた。
「やりますわ! お姉様が行くと言うのなら、火の中水の中、たとえシステムの裏側であろうと、わたくしはお供いたしますわ!」
リンが杖を掲げて即答する。
「深夜の緊急メンテ作業……! 現実のIT現場なら地獄ですが、ゲームの中で姉御と一緒なら天国ですぜ! このシシオウ、肉の盾として存分にこき使ってください!」
シシオウも、ひしゃげたタワーシールドを胸に当てて深く頷いた。
「お前ら、チョロすぎるだろ……」
コウタは深い溜め息をついたが、彼とて、ここで自分だけが降りるという選択肢はないことを理解していた。
「……分かったよ。俺も行く。お前のその『お掃除』が、絶対にただのモップがけで終わるわけないってことくらい、俺の胃袋が一番よく分かってるからな。回復アイテムの補充は済んでるぜ」
「上等よ! さすがは私の最高の仲間(歩くATMと肉の盾とポーション係)ね!」
ツムギは満足げに立ち上がり、円卓を囲む三人の肩をバンバンと叩いた。
「さあ、出立の準備はいいわね? エクレア! 現場への入り口(裏口)を開けなさい!」
『了解よ! まったく、私という高貴な元・大精霊を、勝手にバイトの現場監督みたいに扱って……後で絶対に特大ショートケーキ百個、奢らせるんだからね!』
ツムギの右肩から飛び立ったエクレアが、酒場の奥にある、普段は誰も使わない埃を被った地下貯蔵庫への扉の前に移動した。
エクレアが両手を掲げ、ナビゲーションAIとしての管理者権限を強制的に起動させる。
バチバチバチッ……! ジジジジジッ……!!
地下貯蔵庫の扉のテクスチャが、まるでテレビの砂嵐のように激しく乱れ始めた。
木製の扉は消え失せ、代わりにそこに現れたのは、周囲の空間そのものを侵食するような、禍々しい紫黒色の光を放つ『巨大な亀裂』であった。
亀裂の奥には、ファンタジー世界であるアルカディア・オンラインの美しい景色など一切ない。ただ、無数の『1』と『0』の数字が滝のように流れ落ち、時折、耳障りな電子ノイズが漏れ出してくる、完全なる『プログラムの深淵』が広がっていた。
「な、なんだこれ……! 扉の奥が、文字通りバグってるぞ……!」
コウタが後ずさり、顔面を蒼白にする。
「ただの空間ではありませんわ……。ここから漏れ出してくる空気だけで、わたくしの魔力が……いえ、存在そのものが削り取られそうな、恐ろしい冷気を感じます……」
リンも杖を握る手をガタガタと震わせた。
そこは、アルカディア・オンラインの最深部。
運営ですら手出しができない完全隔離空間、【システム・アビス(深淵領域)】への直結ゲートである。
異世界を滅ぼした本物のバグが、今まさにこのゲートの向こう側で増殖し、地球のネットワークへと溢れ出ようと爪を研いでいるのだ。
「ビビってんじゃないわよ。所詮はただのデータ、ただのゴミの集まりよ」
ツムギは、誰よりも先にその禍々しい亀裂の前に立ち、インベントリから一本の武器を取り出した。
それは、魔王を討伐した際に手に入れた伝説のアーティファクトでもなければ、運営の刺客から奪った未実装のレア武器でもない。
チュートリアルの初期村で拾い、先ほどの魔王のコアを粉砕した、あのボロボロの『木の棒(光属性の結晶石付き)』であった。
「いいこと? このゲームのサーバーが壊れたら、私の銀行口座の一千万円も、あんたたちの全財産も、全部パーになる。……これは、私たちの『資産防衛戦』よ。相手がバグだろうが神だろうが、私の口座残高を脅かす奴は、この棒で一ピクセル残らず物理で粉砕してやるわ」
ツムギの目に、再び巨大な『¥』マークが業火のように燃え盛る。
世界の危機という壮大な事実を伏せたままでも、彼女が放つ「一千万円を守る」という極めて世俗的で強烈な執念は、三人の仲間たちに、どんな勇者の演説よりも強い覚悟を植え付けた。
「行くわよ、野郎ども! 時給一万円の深夜バイト、タイムカードを切るわよ!!」
「「「応ォォォォォォォォォッ!!」」」
ツムギを先頭に、コウタ、リン、シシオウのカオス極まる四人のパーティが、禍々しいノイズを放つシステム・アビスの亀裂の中へと、迷いなくその足を踏み入れた。
――視界が紫黒色のノイズに包まれ、無重力空間のような奇妙な浮遊感の後、彼らはドスッと硬い無機質な床の上に降り立った。
そこは、空も大地もない、四方八方が緑色のグリッド線で囲まれた、巨大な仮想空間の底。
しかし、その整然とした空間は、すでに異形の怪物たちによって完全に埋め尽くされていた。
『ギャガガガガ……! ピィィィィィィィィッ!!』
響き渡るのは、モンスターの咆哮ではない。耳を劈くようなエラー音だ。
そこにいたのは、見た目は最弱のスライムなのに、大きさが家ほどもあり、全身から即死級の毒素を撒き散らしている【バグ・スライム】。
頭と胴体が分離したまま宙を浮き、攻撃モーションすら見せずに見えない剣撃を飛ばしてくる【グリッチ・ナイト】。
常識的なゲームのシステム(当たり判定やステータス)が一切通用しない、理不尽の塊のようなバグモンスターの群れが、ツムギたち侵入者に気づき、一斉に襲いかかってきた。
「な、なんだこいつら!? ステータスが見えない! それに、動きが……瞬間移動してるぞ!?」
コウタが絶望的な悲鳴を上げる。
「お姉様! わたくしのホーミング魔法のターゲットが合いませんわ! 敵の当たり判定が、見た目の場所に存在していません!」
リンが放った魔法が、バグモンスターの体を『すり抜け』て壁に着弾する。
運営の想定すら超えた、ゲームシステムの崩壊。
トップランカーであるリンやシシオウですら、このルール無用の敵の挙動の前には手も足も出ず、瞬く間に包囲網を狭められていく。
だが。
絶望する仲間たちの中で、ツムギだけは、むしろ目を烂々と輝かせていた。
「モーションと判定がズレてる? 魔法がすり抜ける? ……あはっ、最高じゃないの」
ツムギは木の棒を構え、一切の怯えも見せずに前へと踏み出した。
「システムのアシスト(自動補正)が効かないなら、自分の目で見て、自分の手足で殴ればいいだけ。……四年間、あのクソジジイに理不尽な死地に叩き込まれ続けた私にとって、こんな『システムのルールが通じない泥沼の殺し合い』こそが、最高の日常なのよ!」
最強の守銭奴勇者と、世界を滅ぼすバグの群れとの、一切の妥協のない死闘。
現実世界のネットワーク崩壊のタイムリミットが迫る中、ツムギの異世界での全経験値と、泥臭いサバイバル術が、ついにシステムの中枢で完全に解放されようとしていた。




