第50話:世界の危機より銀行口座〜消えゆく残高と守銭奴の決断〜
真っ白で無機質な正六面体の空間――VRMMO『アルカディア・オンライン』のシステム最深部に位置する【運営特別ルーム】。
そこで語られた真実は、一人の女子中学生の背負うにはあまりにも巨大で、あまりにも絶望的なものであった。
「俺は甘かった。データ化された『滅びの概念』は、ゲームのシステムの中で独自の進化を遂げ、自立したウイルス(バグ)として増殖を始めてしまった。俺の管理者権限すら受け付けない、完全なブラックボックスの中でな。……そして今、そのバグの塊が、隔離領域の壁を破り、ゲームのメインサーバーへと侵食を開始しようとしている」
チーフディレクターであり、かつて異世界の宮廷魔術師であったクロノスは、両手で顔を覆い、絞り出すように語った。
「このままでは、ゲーム内がバグのモンスターで溢れ返り、すべてのデータが消去される。それだけじゃない。アルカディア・オンラインのサーバー群は、現代地球の巨大なクラウドネットワークと直結している。もしバグが外のネットワークへ流出すれば……」
クロノスの言葉に、ツムギの右肩に浮かぶナビゲーションAIのエクレアが、息を呑むような音を立てた。
現代社会は、あらゆるものがネットワークで繋がっている。
この『滅びのバグ』は、単なるプログラムの不具合ではない。触れたデジタルデータを根源から腐らせ、連鎖的に崩壊させる異世界の呪いなのだ。それがクラウドサーバーを通じて外部へ流出すれば、どうなるか。
クロノスは、絶望の未来図を淡々と口にする。
「まず、交通網の管制システムが麻痺する。航空機は行き先を見失い、列車は制御不能に陥って衝突するだろう。次に電力網がダウンし、世界中の都市が暗闇に沈む。通信インフラは沈黙し、医療機関の生命維持システムすら停止する。そして最後には……すべてのデータベースが塵と化す。これはもうSF映画の中の絵空事ではない。数日、いや早ければ数十時間以内に現実に起こる、現代社会の終焉だ」
クロノスは、深く頭を下げた。
自分が生み出したゲームが、結果として現実世界を滅亡の淵に追いやろうとしている。その責任の重さに、彼の精神はすでに限界を迎えていた。
「……」
結城紬(アバター名:ツムギ)は、腕を組んだまま、静かにクロノスの言葉を聞いていた。
前髪が目元を隠し、その表情は窺えない。
世界が滅ぶ。都市が暗闇に沈む。人類がパニックに陥る。
あまりにもスケールが大きすぎる話に、中学生の彼女は理解が追いついていないのか、それとも恐怖のあまり声が出ないのか。
クロノスもエクレアも、ツムギが怯えて泣き出すのではないかと固唾を飲んで見守っていた。
やがて、ツムギはゆっくりと顔を上げ、小さく口を開いた。
「……つまり、ネットが死ぬってこと?」
その声音は、ひどく冷静で、まるでテストの確認事項を尋ねるような平坦なものだった。
クロノスは、そのあまりにも端的な要約に一瞬戸惑いながらも、重々しく頷いた。
「そうだ。あらゆるネットワークが破壊される。現代社会は終わりだ」
その言葉が、純白の空間に落ちた、次の瞬間。
バチィィィィィンッ!!!!
ツムギの瞳孔が限界まで見開かれ、その両目の中に、地獄の業火のごとく燃え盛る巨大な『¥』マークがバチバチと点灯した。
「……ネットが死んだら、銀行のシステム(オンラインバンキング)も止まるじゃないッ!!」
「えっ?」
クロノスが間抜けな声を上げた直後、ツムギは白い大理石のテーブルを跳び箱のように飛び越え、クロノスの高級スーツの胸ぐらをガシィッ!と万力のような握力で掴み上げた。
「ふざけんなァァァァァァァァッ!! 私がこれまで血と汗と泥水すすって稼いだゲームの売上が、パーになるってことぉぉぉぉっ!?」
「ぐはっ!? お、おい、結城紬! 首が……首が締まる!」
「うるさい! インフラが止まるとか交通網が麻痺するとか、そんな壮大で抽象的なことはどうでもいいのよ! 一番の問題は、私の口座残高よ!!」
ツムギはクロノスを激しく前後に揺さぶりながら、血の涙を流さんばかりの形相で絶叫した。
「王都防衛戦で一億円(現金換算一千万円)を稼いで、さっきようやく換金申請をして、私のリアル口座に振り込まれたばっかりなのよ!? せっかくの私の全財産が、銀行のサーバーごとバグに食われて消滅したら、ただの『エラーデータ』になって一円も引き出せなくなっちゃうじゃないのよぉぉぉっ!!」
「お、お前……! 世界が、現代社会が終わると言っているのに、心配なのは自分の預金残高なのか……!?」
クロノスは揺さぶられながら、ツムギのあまりにも常軌を逸した価値観(強欲さ)に戦慄した。
「当たり前でしょ! 一千万円よ! 月三千円のお小遣いで生活してる中学生が、四年間異世界でタダ働きさせられた末にようやく掴み取った、血と涙の結晶よ! 『ギャラクシー・ボーイズ』のリュウくんの全国ツアーSS席、五つ星ホテルのスイートルーム、メンバーカラーのペンライト五セット、特大痛バッグ! 私の人生のすべての夢と希望が、その口座の数字に詰まってるのよ!!」
ツムギはクロノスをソファに叩きつけ、仁王立ちになって天を仰いだ。
「世界のため? 人類のため? そんな無償のボランティアなんか知ったこっちゃないわ! でも、私の推し活資金を奪おうとする泥棒だけは、絶対に、絶対に許さない!!」
ツムギの背後から、魔王の放った絶望のオーラすらも赤子のように思えるほどの、ドス黒く、そして極めて世俗的な『強欲のオーラ(金気)』がもうもうと立ち昇り始めた。
世界を救うためでも、仲間を守るためでもない。
ただ純粋に、「自分の口座の残高」を守るためだけに。最強の守銭奴勇者は、最終決戦への参加を己の魂に誓ったのである。
「ふざけんな、絶対阻止するわよ!!」
ツムギの咆哮が、運営特別ルームの壁を震わせた。
『……ホント、あんたって清々しいくらいブレないわね……』
右肩に浮かぶエクレアが、ツムギのあまりの強欲っぷりにドン引きしながらも、半ば呆れたように感心した声を漏らした。
クロノスもまた、ソファの上で乱れたネクタイを直し、フッと自嘲気味な笑みをこぼした。
「……ハッ。そうか。世界が滅ぶより、自分の推し活の資金が消える方が、お前にとっては余程の大事件というわけか。……俺が四年間鍛え上げた勇者は、とんでもないモンスターに育ってしまったようだな」
「当たり前よ。資本主義社会で生き残るには、金への執着こそが最強の武器なのよ」
ツムギはクロノスを冷ややかに見下ろした。
「やってやるわよ。あんたの手出しできないその最深部のバグ、私が直接物理で殴り潰して(デバッグして)やる。……その代わり、タダ働きは二度とごめんだからね。報酬は弾むわよ」
ツムギの突きつける強気の要求に、クロノスはもはや逆らう気すら起きなかった。
「ああ。この事態を収拾できたら、デバッグの協力報酬として、今回の賞金以上の莫大なゲーム内通貨(換金可能データ)を、お前の口座に確実に振り込むと約束しよう」
「言ったわね? 言質は取ったわよ! エクレア、今の会話、システムログに録音録画してるわよね!」
『バッチリよ! これでクロノスのクソジジイも逃げられないわ!』
ツムギは満足げに頷き、システムメニューを開いた。
「よし! じゃあ、一旦ログアウトして、現実の口座にちゃんと一千万円が振り込まれてるか確認してから、仲間(手駒)を呼び出すわ!」
「なっ!? お、おい結城紬! 一分一秒を争う事態なんだぞ! ログアウトしている暇など……!」
「カネの確認を怠る奴はビジネスで死ぬのよ! それに、現実の札束の重みを感じた方が、私のモチベーション(殺意)も限界突破するからね! すぐ戻るわよ!」
ツムギはクロノスの制止を完全に無視し、ログアウトのボタンを勢いよくタップした。
彼女のアバターが光の粒子となって、運営特別ルームから消え去る。
◇ ◇ ◇
――現実世界、現代の日本。
結城紬(14歳・中学2年生)の自室。
築年数の古いアパートの一室、四畳半の狭い部屋。壁には彼女の生きる希望である『ギャラクシー・ボーイズ』のポスターが所狭しと貼られ、机の上には数百円単位でやりくりしている家計簿(お小遣い帳)が広げられている。
「……ぷはぁっ!」
ベッドの上に横たわっていた紬は、頭に被っていた最新型のVRヘッドセットをガバッと外し、荒い息を吐きながら身を起こした。
ゲーム内の泥とスライムの臭いは現実にはないが、極度の緊張と興奮で、彼女のパジャマは汗でぐっしょりと濡れていた。
「スマホ! スマホスマホスマホ……!」
紬はベッドの枕元を這いずり回り、愛用のひび割れたスマートフォンを掴み取った。
震える指でネットバンキングのアプリを開き、パスワードと生体認証を突破する。
画面が切り替わり、口座残高が表示される。
紬の目は、画面に釘付けになった。
『普通預金残高:10,004,520円』
「……あ……あ……っ」
紬の口から、空気が漏れるような音が鳴った。
元々口座に入っていたお小遣いの貯金四千五百二十円に加えて。
アルカディア・オンラインの換金システムから振り込まれた、紛れもない『10,000,000円(一千万円)』の数字。
夢ではない。ゲーム内のデータでもない。
現実世界における、絶対的な価値を持つ『法定通貨』。
貧乏中学生が、自らの知恵と執念、そして泥臭いブラック労働によって掴み取った、人生逆転の札束の証明。
「一千万円……。一千万円……!!」
紬はスマホを両手で大切に、神の啓示でも受けたかのように胸に抱きしめ、ベッドの上でゴロゴロと転げ回った。
「買える! これでリュウくんのグッズが全部買える! ファンクラブのVIP会員になれる! ライブの最前列で、リュウくんから直接ファンサ(認知)をもらえるかもしれないのよ!!」
紬は壁に貼られたリュウくんの等身大ポスターに向かって、泣きながら語りかけた。
四年間、異世界で毎日死の恐怖に怯えながら魔物と戦い、ポーションという名の泥水をすすって生き延びた。元の世界に帰ってきたら、今度は現実の貧乏生活が待っていた。
だが、そのすべてが、この一千万円という圧倒的な数字によって報われたのだ。
しかし。
その歓喜の絶頂の中で、紬の脳裏に、先ほどのクロノスの言葉が冷水のようにぶっかけられた。
『……ネットが死んだら、銀行のシステムも止まる。現代社会は終わりだ』
紬は、胸に抱きしめていたスマホの画面を、もう一度見つめ直した。
10,004,520円。
この数字は、あくまで銀行のサーバーに記録された『電子データ』に過ぎない。
もし、アルカディア・オンラインの最深部で暴走しているあの【滅びのバグ】が、現実世界のネットワークに侵食し、金融機関のデータベースを破壊してしまったら。
この一千万円は、空の彼方に消える雲のように、一瞬にして『ゼロ』になってしまう。
「…………冗談じゃない」
紬の瞳の奥で、再び冷たく、そして激しい怒りの炎が燃え上がった。
「ふざけないでよ……。私が四年間、地獄を見て稼ぎ出したこの結晶を……」
紬はベッドから降り、部屋の中心で仁王立ちになった。
「ただのプログラムのバグ風情に、奪われてたまるもんですか!!」
彼女は再びVRヘッドセットを手に取り、頭にしっかりと装着した。
恐怖はない。迷いもない。
あるのは、己の『推し活(人生)』を守り抜くための、最強の守銭奴としての絶対的な覚悟だけだ。
「待っててね、リュウくん。私、ちょっとだけ……世界を(ついでに)救ってくるから」
ポスターの推しに別れを告げ、紬はベッドに横たわった。
そして、スイッチに指をかけ、深く息を吸い込む。
「リンク・スタート!!」
意識が光の奔流に包まれ、結城紬は再び、己の口座残高と世界の命運を賭けた最終決戦の地、アルカディア・オンラインへとダイブしていった。
彼女が向かうのは、世界を救う高潔な戦場ではない。
仲間(歩くATMと肉の盾とポーション係)を酒場に呼び出し、時給一万円(成功報酬一億円)の深夜の緊急清掃バイトを強制するための、最も泥臭い交渉のテーブルである。
カネの恨みは恐ろしい。それを体現する最強の女子中学生の逆襲が、いよいよシステム・アビスの扉をこじ開けようとしていた。




