第49話:現実世界へのウイルスの侵食〜バグの脅威と深夜の清掃バイト〜
商業都市ロンデルの裏路地にひっそりと佇む、冒険者御用達の古びた酒場『赤イノシシ亭』。
超大型イベント【王都防衛戦】の熱狂と、その直後の魔王降臨という異常事態を経て、街のプレイヤーたちは未だに騒然としていた。しかし、ツムギのパーティメンバーである三人は、喧騒を避けるようにこの薄暗い酒場の円卓に集まり、重苦しい沈黙の中でグラスを傾けていた。
「……遅い。結城のやつ、強制転送されてからもう結構な時間が経つぞ」
相沢航太(アバター名:コウタ)は、胃薬の空き瓶をテーブルの上で弄りながら、不安げに天井を見上げた。
「やっぱり、あの水門ギミックの悪用とポイント独占が運営の逆鱗に触れて、アカウント永久凍結(BAN)の処刑を受けてるんじゃ……。俺たちの稼ぎも全部没収されるかもしれないぞ」
「縁起でもないことを仰らないでくださいませ、相沢様!」
東山凛(アバター名:リン)が、机をドンと叩いて立ち上がった。
「ツムギお姉様が、あの程度の運営の難癖で屈するはずがありません! きっと今頃、運営のトップを理詰めで論破し、慰謝料までふんだくっているに決まっておりますわ!」
「いや、いくら姉御でも、システムを握る『神』を相手にそこまでは……。もし姉御がBANされたら、俺はこれから誰を盾にして生きていけばいいんですか……」
三十代の重戦士シシオウが、主を失った忠犬のように肩を落としている。
三人が三様の不安(と異常な信頼)を抱えながら待っていると、酒場の入り口のドアがギィィッと音を立てて開いた。
「ただいまー! 待たせたわね、野郎ども!」
「「「お姉様!!(姉御!)(結城!)」」」
入り口に立っていたのは、初期装備の布の服を着た小柄な少女――結城紬(アバター名:ツムギ)であった。彼女の右肩には、ナビゲーションAIのエクレアがホログラムとして誇らしげに浮かんでいる。
ツムギの顔には、アカウント凍結の恐怖など微塵もない。それどころか、かつてないほどに目をギラギラと『¥』マークに輝かせ、両手に仮想の札束を握りしめているかのような、極限の強欲オーラを放っていた。
「ゆ、結城! 無事だったのか! 運営に呼び出されて、どうなったんだよ! ポイントは没収されなかったのか!?」
コウタが慌てて駆け寄る。
「没収? バカ言いなさい。あのクソ運営の言いがかりなんて、全部ハネ退けてやったわよ。一億円(現金換算一千万円)の賞金は、一円たりとも渡さないわ」
ツムギは鼻を鳴らして円卓の椅子にどっかりと腰を下ろし、店主に水差しを要求した。
「それどころか、あんたたちに朗報よ。あの運営のトップから、直々に『追加の高額アルバイト(特別任務)』をもぎ取ってきたわ。報酬はなんと、さらに一億ゴールド(一千万円)よ!」
「「「えええええええええええええっ!?」」」
三人の驚愕の声が酒場に響き渡った。
ただでさえ天文学的な賞金を手にした直後に、さらに一億円の追加報酬。コウタの常識的な脳内処理は完全にパンクし、リンとシシオウは「さすがはお姉様!」「一生ついていきます!」と平伏する始末である。
「でも、結城……。運営が直々にそんな大金を払ってまで依頼してくるバイトって、一体なんなんだ? 何かヤバい裏があるんじゃないか?」
コウタが本能的な危機感を覚えて尋ねる。
「ヤバいなんてもんじゃないわよ。端的に言うと……このゲームのサーバーが、今まさに『物理的に崩壊』しようとしてるのよ」
ツムギがさらりと言い放ったその言葉に、酒場の空気が凍りついた。
「……え?」
その時である。
ツムギが店主に注文した水差しを運んできた酒場のNPCの動きが、突如としてピタリと停止した。
ジジッ……ジジジジッ……!
NPCの顔面のテクスチャが、まるで古いテレビの砂嵐のように乱れ、目と口の位置が不気味にズレ始めた。彼女が持っていた木のトレイが、重力を無視して空中に浮かび上がり、次の瞬間、ポリゴンの欠片となってパリンッと砕け散ったのだ。
「ひぃっ!? な、なんだ!? NPCの顔がバグってるぞ!」
コウタが悲鳴を上げて後ずさる。
「これだけじゃありませんわ! 壁のレンガや、窓の外の景色まで……色が毒々しい紫色に変色しております!」
リンが窓の外を指差す。王都の美しい夜景が、まるでウイルスに侵食されるように、ジワジワと禍々しい紫黒色のブロックノイズに覆われ始めていた。
『クロノスの言っていた通りね……! 最深部に封印されていたバグが、メインサーバーの階層にまで漏れ出しているわ!』
エクレアが真っ赤なシステムアラートを点滅させながら、緊迫した声で解説を始めた。
『いい、みんな聞いて! このアルカディア・オンラインのシステムは、ただのゲームデータじゃないの。クロノスが四年前の異世界から丸ごと持ち込んだ、世界の『全情報』なのよ! そして、その中には、異世界を滅亡させた【滅びの概念】までが、バグの塊として混入してしまっていたの!』
「滅びの概念……?」
シシオウがタワーシールドを構えながら呟く。
『ええ。本来ならシステム・アビスという絶対に誰もアクセスできない深淵領域に隔離されてたんだけど、先ほどの魔王降臨と、ツムギがそれを物理で粉砕したことによる莫大なデータの負荷がトリガーとなって、バグの隔離壁に致命的な亀裂が入ってしまったのよ!』
エクレアは、空中に巨大な地球とネットワークの立体ホログラムを投影した。
『このバグは、ゲームのグラフィックを崩壊させるだけじゃないわ。アルカディア・オンラインのサーバーは、現代地球の巨大なクラウドネットワークと直結してる。この【滅びのウイルス】がゲームの枠を食い破って外部のインターネットに流出すれば……』
ホログラムの地球が、真っ赤なウイルスに次々と覆われていく。
『交通機関の制御システム、電力網、通信インフラ、そして金融機関のデータベースに至るまで、あらゆるデジタルデータが『死の呪い(バグ)』に感染して、物理的にシャットダウン(崩壊)するわ。……つまり、現実世界(現代社会)の完全な終わりよ』
「な、なんだって……!?」
コウタが両手で顔を覆った。
「ゲームのバグが、現実世界を破壊する!? そんなSF映画みたいな話、信じられるかよ! 第一、そんなヤバい状況なら、運営がサーバーの電源を引っこ抜けばいいだろ!」
『それができないのよ! ウイルスの進行が早すぎて、今サーバーを強制停止させたら、ネットワーク全体にバグの破片が飛散して、最悪のパンデミックを引き起こすわ! 解決するには、システムの内側(ゲームの世界)から、ウイルスの根源である【コア】を物理的に破壊するしかないの!』
あまりにもスケールが大きすぎる『世界の危機』。
つい数十分前まで、イベントのポイント争いで一喜一憂していた中学生たちにとって、それは背負いきれないほどの重い現実だった。
「……終わった。俺たちの平穏な生活が……」
コウタは絶望に打ちひしがれ、椅子に深く沈み込んだ。
だが。
そんな絶望的な空気を、ドンッ!!とテーブルを叩く激しい音が吹き飛ばした。
「あんたたち! 何よそのお通夜みたいな顔は! 世界が滅ぶとかネットが死ぬとか、そんな抽象的なことでビビってんじゃないわよ!」
ツムギが、仁王立ちになってコウタたちを怒鳴りつけた。
彼女の目には、世界の終末に対する恐怖など一ミリも存在していない。あるのは、己の財産を脅かす不条理に対する、烈火のごとき怒りと執念だけだった。
「いいこと!? ネットが死んで、金融システムが崩壊するってことはね……。私がこれまで血と汗と泥水すすって稼いだゲームの売上(一億円のデータ)が、銀行の口座ごと完全にパーになるってことなのよぉぉぉぉぉぉッ!!」
ツムギの悲痛な、そして極めて世俗的な絶叫が、バグりかけた酒場に響き渡った。
「私が四年間、あのクソジジイの下でタダ働きさせられた末に、やっと手にした一千万円よ!? 推しの『ギャラクシー・ボーイズ』の全国ツアー全通チケットも、スイートルームも、痛バッグも、全部その口座の数字にかかってるのよ! それがバグのせいで引き出せなくなるなんて、そんなこと絶対に、絶対に許せるわけないでしょ!!」
「ゆ、結城……お前、世界の危機よりも自分の口座残高の方が心配なのか……」
「当たり前でしょ! 世界がどうなろうと知ったこっちゃないわ! でも、私の推し活資金を奪おうとする泥棒は、この手で一ピクセル残らず物理で粉砕してやるわ!」
ツムギの、あまりにもブレない強欲と執念。
しかし、その身も蓋もない理由こそが、恐怖で固まっていた仲間たちの心に、奇妙な『現実味』と『発破』をかけることとなった。
「……そ、そうですわね。お姉様のおっしゃる通りですわ」
リンが、ハッとして顔を上げた。
「金融システムが崩壊すれば、わたくしの東山財閥の莫大な資産もすべて電子の藻屑……。それでは、お姉様の推し活を資金面でサポートするという、わたくしのATMとしての使命が果たせなくなってしまいますわ! そんなバグ、絶対に許せません!」
お嬢様のプライドが、妙な方向へ火を噴いた。
「姉御ォォッ! その通りですぜ!」
シシオウも、タワーシールドを床に叩きつけて立ち上がった。
「銀行のシステムが止まったら、俺の毎月の給与振込も、ボーナスも、三十五年の住宅ローンの引き落としも、全部どうなるか分からないってことじゃねえですか! そんなことになったら、俺は現実世界で本当に首を吊るしかなくなります! 世界のためじゃねえ、俺のギリギリの生活を守るために、そのバグ野郎をぶっ殺してやりますぜェェッ!!」
三十代社畜の、あまりにも生々しい生活の危機感。
カルト信者たち(ATMと肉の盾)が、それぞれの極めて個人的な理由で、最高潮の闘志を燃やし始めた。
「お前ら……完全に狂ってる……。でも……」
コウタは胃薬の瓶を握りしめ、深くため息をつきながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「ネットが死んだら、俺の集めたソシャゲの限定キャラ(課金データ)も全部消えるってことだよな……。それは……絶対に嫌だ。俺の青春のすべてがかかってるんだからな!」
世界を救う高潔な勇者など、このパーティには一人もいない。
口座残高、財閥の資産、住宅ローン、そしてソシャゲの課金データ。
己の「カネと欲望」を守るためだけに集結した、最も泥臭く、最も世俗的な四人のプレイヤー。彼らの闘志は、どんな正義の心よりも強く、熱く燃え上がっていた。
「よし! 全員の利害が一致したわね!」
ツムギは満足げに頷き、木の棒を肩に担ぎ直した。
「これは世界を救うためのボランティアじゃないわ! 時給一万円(成功報酬一億円)の、深夜の緊急清掃バイトよ! エクレア、あのバグの塊がいる隔離領域への裏口は開けるわね!?」
『任せなさい! 私のナビゲーション権限をすべて使って、最短ルートのゲートを開くわ!』
エクレアが空中で回転し、酒場の壁に向かって両手を突き出した。
バチバチバチッ!
システムが強制的に書き換えられ、酒場の壁に、禍々しい紫黒色の光を放つ『巨大な亀裂』が口を開けた。
その奥からは、通常のモンスターとは比較にならない、データそのものを腐らせるような恐ろしい冷気とノイズが漏れ出している。
「さあ、行くわよ野郎ども! 私たちの稼いだカネを脅かすバグ野郎に、物理演算の本当の恐ろしさを叩き込んでやるわ!」
「応ォォォォォォッ!!」
「お任せくださいませェェッ!!」
「俺のソシャゲのデータを守るためにぃぃっ!」
ツムギの号令とともに、カオス極まる四人のパーティが、世界の命運(と己の口座残高)を賭けた最終決戦の地、システム・アビスへと迷いなく足を踏み入れた。
運営の尻拭いをさせられる理不尽な状況であっても、札束という絶対的なニンジンがある限り、彼女の進撃が止まることはない。
現実世界へのウイルスの侵食を食い止めるための、泥とバグにまみれた究極のデバッグ作業が、今ここに幕を開けようとしていた。




