第5話:初めての換金と味を占める元勇者
ジメジメとした暗く冷たい地下ダンジョンから、一筋の光が差し込む地上へと繋がる古びたロープ。
結城紬(アバター名:ツムギ)は、そのロープを両手足で器用に挟み込み、まるで木登りをするサルのような身軽さでスルスルと登っていた。
現実世界の肉体はただの中学二年生だが、VR空間のツムギのアバターには、先ほどの『泥大蛙』討伐で得た莫大な経験値が還元されている。レベルは一気に1から15へと跳ね上がり、筋力、敏捷性、持久力といった基礎ステータスが劇的に向上していた。
「ふんっ、よっと!」
地上まで残り数メートルのところでロープから手を離し、ツムギは枯れ井戸の縁に手をついて軽やかに外へと飛び出した。
眩しい太陽の光が網膜を焼く。青く澄み渡った空、心地よいそよ風、そして中世ヨーロッパ風の石造りの街並み。
たった一時間半地下に潜っていただけだというのに、地上はひどく平和で、まるで別世界のように感じられた。
「……ぷはぁっ! やっぱり太陽の光は最高ね。地下はカビとカエルの体液の匂いが充満してて、控えめに言って最悪だったわ」
ツムギは大きく背伸びをして、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
しかし、その平和な風景とは裏腹に、現在のツムギの見た目は到底「プレイヤー」と呼べるような代物ではなかった。
アシッドスライムの感知を逃れるために全身に塗りたくった泥は完全に乾燥してカピカピになり、初期装備の布の服はドロドロの茶色に染まっている。髪には苔が絡まり、おまけにマッドトードの体液まで浴びているため、鼻を突くような強烈な悪臭を放っていた。
はたから見れば、ダンジョンから這い出してきた新種のゾンビか、泥遊びをこじらせた浮浪児にしか見えない。
「うわっ、なんだあいつ!?」
「くっさ! 近く行くなよ、なんか変なバッドステータスもらいそう……」
「NPCの乞食イベントか?」
裏路地を抜け、村のメインストリートに出た途端、周囲のプレイヤーたちが露骨に顔をしかめて道をあけた。
ヒソヒソと指を指してくるプレイヤーたちの視線など、ツムギにとっては何の痛痒もなかった。むしろ、好都合である。
「見なさい見なさい。あんたたちがスライムを叩いて数円の小銭を稼いでる間に、私はこの泥まみれの服の下に『莫大な財産』を隠し持ってるんだから」
ツムギのインベントリ(アイテムボックス)の中には、マッドトードからドロップした『泥大蛙の魔石(特大)』が厳重に保管されている。
周囲の目を引きつけつつも、誰一人として彼女が「隠しボスをソロで討伐した」などとは思っていない。ただの変なプレイヤーとしてスルーしてくれるおかげで、PKによるアイテム強奪の心配もなく、安全に目的地へと向かうことができた。
ツムギが向かったのは、村の中央広場に面した一際大きく立派な建物。
看板には天秤のマークが描かれており、入り口には屈強なNPCの衛兵が立っている。
こここそが、『アルカディア・オンライン』における経済の中心――『公式換金所(RMTセンター)』を兼ねた商業ギルドである。
ツムギが堂々と入り口をくぐろうとすると、衛兵が槍を交差させて道を塞いだ。
『止まれ! ここは神聖なる商業ギルド。貴様のような泥まみれの浮浪者が入る場所ではない!』
「浮浪者じゃないわよ。大口の取引をしに来た優良顧客に向かって、その態度は何?」
『ふん、戯言を。さっさと立ち去らないと――』
衛兵が威圧的に言いかけたその時、ツムギはインベントリから紫色の魔石を取り出し、衛兵の目の前でチラリと見せつけた。
大人の拳ほどもある、妖しくも美しい輝きを放つ極上の魔石。
それを見た瞬間、衛兵のAIプログラムが瞬時にアイテムのレアリティと市場価値を演算し、顔色を一変させた。
『なっ……! そ、それは特大サイズの魔石!? 失礼いたしました、お客様! どうぞ、奥のVIPカウンターへ!』
先程までの高圧的な態度はどこへやら、衛兵はペコペコと頭を下げて道をあけた。
ツムギは鼻で笑いながら商業ギルドの中へと足を踏み入れた。
ギルドの内部は、銀行のロビーのように広々としていた。
多くのプレイヤーたちが、スライムの粘液やゴブリンの牙といった「数円単位」のアイテムを売るために、一般カウンターに長蛇の列を作っている。
ツムギはそんな行列を完全に無視し、ふかふかの絨毯が敷かれた奥のVIP専用カウンターへと直行した。
カウンターの奥には、モノクルのような眼鏡をかけ、神経質そうに帳簿をめくっている初老のNPCが座っていた。頭上のネームプレートには『鑑定士 ドーバン』とある。
(……ドーバン。こいつも懐かしい顔ね。異世界にいた頃、私が命がけで取ってきたレア素材を「傷がついている」とか適当な難癖つけて、相場の十分の一で買い叩いてきた悪徳商人……! あのハゲ頭、絶対に忘れはしないわ)
ツムギは内心でギリッと歯を食いしばりながらも、表面上は余裕の笑みを浮かべてカウンターに手をついた。
「おい、そこのハゲ。鑑定と換金を頼むわ」
『……ハゲとは失礼な。私は商業ギルドの首席鑑定士、ドーバンであ――』
ドーバンが眉をひそめて顔を上げた瞬間、ツムギは無造作に『泥大蛙の魔石(特大)』をカウンターの大理石のテーブルに叩きつけた。
ゴトンッ! という重みのある音とともに、紫色の魔力が波紋のように周囲の空気を震わせる。
『――――ッ!?!?』
ドーバンの目が、文字通り飛び出さんばかりに見開かれた。
彼は慌ててモノクルの位置を直し、震える手で魔石を手に取って、舐めるように観察を始めた。
『こ、これは……間違いない! 泥大蛙の特大魔石! しかも傷一つない、完全な状態の最高級品……! ば、馬鹿な! この村の周辺にこんな素材を落とす魔物は存在しないはず! お主、一体どこでこれを……!?』
「企業秘密よ。で、いくらになるの?」
ツムギが冷たく言い放つと、ドーバンはゴクリと唾を飲み込み、額に脂汗を浮かべた。
高度なAIは、目の前の泥まみれの少女が「ただ者ではない」と判断したのだろう。かつての異世界のように買い叩こうとする素振りは一切見せず、震える声で査定額を提示してきた。
『ほ、本来であれば市場に出回っていない品ゆえ、オークションにかければ青天井ですが……当ギルドで即金で買い取らせていただくならば、特別価格として【8万5000ゴールド】出しましょう!』
「……8万5000ゴールド。つまり、円換算で……」
ツムギは頭の中で素早く計算式を組み立てた。
『アルカディア・オンライン』の現在の公式レートは、およそ10ゴールド=1円。
8万5000ゴールドということは、現実の日本円にして――。
「8500円……!」
ツムギの口から、感嘆の吐息が漏れた。
月のお小遣いが3000円の女子中学生にとって、8500円というのは目が飛び出るほどの大金である。
およそ三ヶ月分のお小遣いが、たった一個のアイテムで手に入ってしまったのだ。
「いいわ。その額で手を打ってあげる。今すぐ私の口座に振り込みなさい!」
ツムギが取引承認のボタンを叩くようにカウンターを叩くと、システムウィンドウが虚空に浮かび上がった。
『システムメッセージ:泥大蛙の魔石(特大)を売却しました』
『8万5000ゴールドを獲得しました』
『オート換金システムが起動します。現在のレート(10G=1円)に基づき、現実世界の指定口座への送金手続きを開始します……』
ピロリンッ!
『送金が完了しました。振込額:8500円』
その瞬間、ツムギの脳内に、現実世界で持っている自分の銀行口座の通帳が思い浮かんだ。
全財産、3330円。
そこに今、8500円が加算されたのだ。
現在の残高、1万1830円。ついに大台の「一万円」を突破したのである。
「うそ……ホントに、現実のお金が増えた……」
ツムギは泥まみれの両手で口元を覆い、感激のあまりプルプルと震え出した。
時給換算してみれば、その異常さがより際立つ。
ログインしてから裏井戸に向かい、マッドトードと死闘を繰り広げ、換金所に直行するまでにかかった時間は、およそ一時間半。
時給にして、約5600円である。
「中学生のバイトどころか、深夜のコンビニバイトの何倍も稼いでるじゃない……! これなら、これならいけるっ!」
ツムギの脳内で、大好きなアイドル『ギャラクシー・ボーイズ』のライブグッズのカタログがものすごい勢いでめくられていく。
「8500円あれば……まずは絶対に外せないツアー公式Tシャツ(3500円)! それに推しのメンバーカラーの公式マフラータオル(2000円)! これで5500円!」
さらに計算は続く。
「残りの3000円で、一つ500円のランダム缶バッジを6回引ける! 推しの『リュウくん』が出る確率は七分の一だから、6回引けば一回は出る可能性がある……いや、もし出なくても現地で他のファンと交換の弾にできる! 完璧、完璧な布陣よ!」
たった一時間半の労働で、夢にまで見たライブの基本装備が全て揃ってしまったのだ。
異世界で四年間、毎日泥水をすすってゴブリンを狩っても、支給されるのはカビの生えたパンと銅貨数枚だったというのに。
「……あははっ! 最高! 最高の神ゲーじゃないの、これぇぇっ!!」
ツムギは商業ギルドのVIPカウンターの前で、周囲の目もはばからず両手を天に突き上げて歓喜の舞を踊った。
ドーバンは「こ、この泥まみれの娘、頭がおかしくなったのか……?」と怯えたように壁際に後ずさっている。
ひとしきり喜びを噛み締めた後、ツムギはギルドを後にした。
一歩外に出ると、一般カウンターの列に並んでいる初心者プレイヤーたちの会話が耳に飛び込んできた。
「おい、スライムの粘液10個で何ゴールドになる?」
「さっき売ったら50ゴールドだったぞ。5円だ、5円!」
「マジかよ、一時間走り回ってスライム奪い合って、たったの5円!? これじゃ電気代のマイナスじゃねえか!」
「でもチリツモだろ! あと千匹狩れば500円になるぞ! 頑張ろうぜ!」
彼らは目を充血させながら、数円のために再び村の外へと走り出していく。
ツムギはその背中を見送りながら、哀れむように、そして嘲笑うように口角を吊り上げた。
「……バカみたい。一時間で5円? そんなの、時給十円にも満たない完全なブラック労働じゃないの。あいつら、自分がどれだけ搾取されてるか気づいてないのね」
ツムギは自分の手のひらを見つめた。
泥大蛙を五千回叩き続けた感触。ミリ単位の死線を潜り抜けた経験。
システムのアシストに頼り、用意されたクエストを真面目にこなすだけの一般プレイヤーたちに、この世界(ブラック職場)の本当の稼ぎ方は永遠に分からないだろう。
「この世界は、私が四年間血反吐を吐いて生き抜いた場所。どこに行けば強いボスがいるか、どこの岩をどかせば隠し宝箱があるか、全部私の頭の中に入ってる」
ツムギは村の広場の噴水へと歩み寄り、顔と腕についた泥を冷たい水で洗い流した。
水面に映る自分のアバターの顔は、現実の自分と同じ十四歳の少女の顔だ。しかし、その瞳の奥に宿る光は、百戦錬磨の戦士のそれであり、同時に血も涙もない守銭奴のそれだった。
「チュートリアルはおしまい。時給5000円なんてもんで満足する私じゃないわ。私の目標は、全国ツアー全通。最低でも五十万円!」
ツムギはパンッと両頬を平手打ちして気合を入れ直すと、噴水から勢いよく立ち上がった。
「見てなさい。他の連中がスライムで小銭を稼いでる間に、私はこの世界の隠し財産を、ボスのドロップ品から運営のヘソクリまで、根・こ・そ・ぎ! 一円残らず搾取してやるんだから!!」
もはや「ゲームを楽しむ」という発想は彼女の頭には1ミリも存在しなかった。
あるのは純粋な強欲と、現金に対する異常な執着心だけだ。
ツムギはインベントリに眠る木の棒を再び取り出すと、村の正規ルートである『はじまりの草原』には目もくれず、次なる隠し財宝が眠る険しい山岳エリアへと、一切の迷いなく歩みを進めるのであった。




