第4話:泥大蛙(マッドトード)への地味でエグいハメ技
苔生した重厚な石の扉が、地響きのような低い音を立ててゆっくりと開いていく。
ギゴゴゴゴゴ……という摩擦音が地下道に反響し、開いた隙間から、これまでとは比べ物にならないほど濃厚な「死」と「泥」の臭いが溢れ出してきた。
ツムギは木の棒を片手に、音もなくその隙間へ滑り込んだ。
扉の向こうに広がっていたのは、ドーム状の巨大な地下空間だった。天井には不気味な赤紫色の発光苔がびっしりと群生しており、禍々しい照明の役割を果たしている。床面は大部分がドロドロの泥沼になっており、足場となる乾いた地面は、壁際と部屋の中央に浮かぶいくつかの小島のような岩礁だけだ。
その中央の最も大きな岩礁の上に、そいつは鎮座していた。
小山のように巨大な、醜悪な蛙のバケモノである。
体長は優に三メートルを超え、全身が粘着性のある黒い泥とイボで覆われている。呼吸をするたびに、喉元の巨大な袋がグチャァ、グチャァと嫌な音を立てて膨らんでは縮んでいた。
そいつの頭上には、赤黒く発光する禍々しいネームプレートが浮かび上がっている。
『泥大蛙 Lv.30』
通常のプレイヤーであれば、この光景を見た瞬間に絶望してUターンするだろう。
レベル1の初期ステータス、しかも装備は布の服と木の棒一本。対するはレベル30の隠しボス。HPの桁が違うどころの話ではない。あちらが少し舌を伸ばしてかすっただけで、ツムギのHP20など消し飛び、初期村の広場へ強制送還されるのが関の山だ。
「……マッドトード。やっぱり、お前だったわね」
しかし、ツムギの顔に恐怖はなかった。
いや、正確には「恐怖を、それ以上に強大な別の感情が塗り潰していた」と言うべきか。
ツムギの脳裏には、四年前――彼女がまだ十歳だった頃の、血みどろの記憶が鮮明に蘇っていた。
『いいか勇者! あの大蛙の酸のツバを浴びれば骨まで溶けるぞ! 気合で躱せ!』
『無理ぃぃっ! あんなの勝てるわけないよぉぉ!』
あれは異世界に召喚されてから数ヶ月後。チュートリアル代わりのゴブリン討伐を泣きながらこなしていたツムギが、宮廷魔術師の命令で無理やり挑まされた初めての中ボス戦だった。
あの時は本当に死ぬかと思った。泥沼を逃げ惑い、全身を打撲し、肺が破れるかと思うほど息を切らした。
だが、絶望的な状況の中で、十歳のツムギは生き延びるために一つの奇跡を起こしたのだ。
『ええい、泣き言を言うな! 弓を引け! 目を狙うのじゃ!』
言われるがまま、涙でぐしゃぐしゃになった顔で放った一本の矢。
それが偶然にも、マッドトードの「右目」に深々と突き刺さったのである。
右の視力を完全に失い、狂乱したマッドトードが壁に激突して気絶した隙に、ツムギたちは命からがら逃げ延びた……という、あまりにも泥臭いトラウマの記憶だ。
ツムギは静かに息を吸い込み、岩礁の上に鎮座する大蛙を観察した。
そして、獰猛に口角を吊り上げる。
「……ふふっ。やっぱり。このゲームの神様(開発者)は、狂ってるくらいに『あの世界』の歴史を忠実にデータ化してるわね」
ツムギの視線の先。
マッドトードの巨大な顔の右側――そこにあるはずの眼球は、白濁して潰れており、大きな十字の傷跡が残っていた。
十歳のツムギが放った矢による古傷。それが、このVRMMOの隠しボスのモデリングに、最初から『仕様』として組み込まれていたのだ。
本来なら「そういうデザインのモンスター」として処理されるだけの要素。だが、異世界での実体験を持つツムギにとっては、これ以上ない『確定した弱点情報』だった。
「右目が完全に潰れてるってことは、右側面から右後ろにかけては完全な『死角』。……よし、時給五万円のボーナスタイムの始まりよ!」
ツムギが意気揚々と一歩を踏み出した瞬間、侵入者の気配を察知したマッドトードが閉じていた左目をカッと見開いた。
『グロルルルルルルッ!!』
空気が震えるような咆哮。同時に、ボスの戦闘開始を告げる重厚でオーケストラ調のBGMが空間全体に鳴り響く。
ズンッ! と巨体が跳躍し、ツムギの目の前の泥沼へと着地した。大量の泥が津波のように押し寄せてくる。
マッドトードが巨大な口を大きく開けた。その奥で、太く長い舌が鞭のようにうねり、ツムギの胴体を真っ二つにしようと射出される。
ヒュバンッ!!!
空気を切り裂く恐ろしい破裂音。
だが、舌がツムギを捉えることはなかった。
舌が発射されるコンマ数秒前、マッドトードの左肩の筋肉がわずかに収縮するのを視認したツムギは、一切の無駄がない動きで右斜め前方へとステップを踏んでいたのだ。
「攻撃モーションがデカすぎるのよ、おデブちゃん」
ツムギはそのまま泥の表面を滑るように駆け抜け、マッドトードの右側面――白濁した右目の完全な死角へと回り込んだ。
マッドトードは標的を見失い、左目で周囲をキョロキョロと探している。右側面にピタリと張り付かれた状態では、首の短い蛙の骨格上、ツムギを視認することは絶対に不可能だった。
「さーて、反撃の時間ね。そーれっ!」
ツムギは両手で握りしめた初期装備の『木の棒』を、マッドトードの右目の古傷に向かって、下から突き上げるように思い切り突き刺した。
グチャッ! という生々しい音。
空中に、小さな赤い数字がポップアップした。
『 1 』
ダメージ、1。
これが、レベル1の初期装備プレイヤーが、レベル30のボスに与えられる物理的限界だった。
『ギ……ギャアアアアアッ!?』
しかし、ダメージ数値に関わらず、マッドトードは古傷をえぐられた激痛に悲鳴を上げ、巨体をビクンと跳ねさせた。
VRMMO『アルカディア・オンライン』のシステムは、部位破壊や急所攻撃による『怯み判定』をリアルに実装している。数値上のダメージはたったの「1」でも、失明した古傷を棒で突かれれば、生物として痛がるのは当然の物理演算だった。
「よしっ! やっぱり怯みモーションが入るわね。これならいける!」
ツムギの頭上に、ボスのHPバーが表示された。
先程の「1」ダメージにより、HPゲージがミリ以下の、顕微鏡で見なければ分からないレベルで減少した。
ボスの総HPは、推定5000。
つまり、この木の棒で、あと4999回突けば倒せる計算だ。
常人なら、その果てしない数字に絶望してコントローラーを投げ捨てるだろう。ワンミスで即死する状況で、五千回の連続攻撃を当て続けるなど、正気の沙汰ではない。
だが、ツムギは笑っていた。狂気に満ちた、とびきりの笑顔で。
「五千回突けば、あの高額ドロップアイテムが手に入る……。換金相場が五万円だとして、一突きあたり十円! 一秒に一回突けば、時給三万六千円の超高待遇アルバイトじゃないの!!」
強欲。
ただその一点のみが、ツムギの精神を常人離れした領域へと押し上げていた。
推しのアイドル『ギャラクシー・ボーイズ』の全国ツアー全通。その莫大な資金を稼ぐための苦労に比べれば、ただの蛙を五千回棒で叩く作業など、ラジオ体操よりも容易い。
『グルァァァッ!』
痛みに狂乱したマッドトードが、盲滅法に暴れ始めた。
太い前足での薙ぎ払い、後脚による踏みつけ、さらには全身の重さを利用した大ジャンプからのボディプレス。
どれも当たれば即死の凶悪な攻撃だ。
しかし、ツムギにとっては「あくびが出るほど見え透いた動き」だった。
「右足に体重が乗った。次は左回転の薙ぎ払いね」
ツムギはマッドトードの右後ろ足の踵にピタリと張り付き、相手が動くのと完全に連動して、ステップを踏む。
マッドトードが左へ回転すれば、ツムギも左へ。ジャンプすれば、影の中へ滑り込む。
システムによる回避スキル(ステップアシストや無敵フレーム)など一切使っていない。純粋な異世界での実戦経験と、敵の骨格・筋肉の動きから次の行動を予測する『野生の勘』だけで、全ての攻撃を数センチの隙間で躱し続けていく。
「はい、大ジャンプの後の着地硬直が三秒! もらった!」
ズウゥゥンッ!! とマッドトードが着地し、泥が舞い上がった直後。
ツムギは滑るように右目の死角へと入り込み、再び木の棒を古傷へと突き刺した。
『 1 』
「一・十・百・千・万! 私のライブチケット代にひれ伏しなさい!」
ポカッ!
『 1 』
「二・十・百・千・万!」
ポカッ!
『 1 』
壮大なオーケストラのボス戦BGMが鳴り響く中、ツムギの『木の棒』がボスの顔面を叩く「ポカッ」「ボコッ」という、あまりにも情けない、気の抜けた打撃音だけが延々と響き渡る。
それはもはや、戦闘ではなかった。
完全な『作業』である。
避けて、潜り込み、死角から木の棒で古傷を突く。
避けて、潜り込み、突く。
ワンミス即死という極限の緊張感の中で、ツムギの動きは機械のように正確無比だった。呼吸のリズムを一定に保ち、筋肉の疲労を最小限に抑える異世界仕込みの歩法。
ゲームのシステムアシストがないからこそ、プレイヤー自身の生身の集中力が全てを支配する。
十分が経過した。
ポカッ! 『 1 』
三十分が経過した。
ポカッ! 『 1 』
一時間が経過した。
ポカッ! 『 1 』
泥大蛙は、自分の右後ろに何かが張り付いていることには気づいているものの、それが何なのか、どうすれば捕まえられるのかが全く理解できず、ただただ盲滅法に暴れ、体力を消耗していった。
ツムギは額に滲む汗を拭うことすらせず、無表情のまま、マシンのように木の棒を突き続ける。
現実のプレイヤーであれば、VR酔いや精神的な疲労でとっくに限界を迎えている時間だ。しかし、四年間、不眠不休で魔王軍と戦わされたツムギにとって、一時間程度の集中など「朝飯前のウォーミングアップ」にすぎなかった。
「……そろそろ、ね」
戦闘開始からおよそ一時間半。
ツムギの視界の端で、マッドトードの赤いHPゲージが、ついに目に見えないほどの一線まで削り取られていた。
ボスの動きは完全に鈍り、息も絶え絶えになっている。泥沼を這いずるだけの、哀れなサンドバッグだ。
「長かったわね……。でも、これで私の推し活資金が潤うわ!」
ツムギは深く息を吐き出し、木の棒を両手でしっかりと握り直した。
マッドトードが最後の力を振り絞り、天に向かって大きく吠えようと顔を上げたその瞬間。
ガラ空きになった右目の古傷の中心――最もダメージが通るであろう急所に向かって、ツムギは渾身の力を込めて跳躍した。
「四千九百九十九、五千ッ!! これでフィニッシュよぉぉっ!!」
体重の全てを乗せた木の棒による、最後の一突き。
グシャァッ!! という鈍い音と共に、木の棒が古傷の奥深くへと突き刺さった。
『 クリティカルヒット! 2 』
たった「2」のクリティカルダメージ。
しかし、それは間違いなく、レベル30の隠しボスのHPをゼロにする最後の一撃だった。
『ギ、ギゲェェェェ…………ッ』
マッドトードの巨体が大きく痙攣し、断末魔の呻き声を上げる。
直後、その巨大な肉体がピキピキとガラスのようにひび割れ、数万の青いポリゴンの欠片となって空中に四散した。
『システムメッセージ:隠しボス【泥大蛙】を討伐しました!』
『システムメッセージ:経験値を獲得。レベルが1から15に上昇しました!』
『システムメッセージ:称号【ジャイアントキリング(金星)】を獲得しました』
けたたましいファンファーレの音と共に、ツムギの全身がレベルアップの眩い光に包まれる。
だが、ツムギはそんなステータス上昇の通知など全く見ていなかった。
彼女の視線は、マッドトードが消滅した跡地――泥沼の上にポツンと残された、ひとつの輝くドロップアイテムに釘付けになっていた。
大人の拳ほどもある、妖しく紫に輝く宝石。
ツムギは泥にまみれるのも構わず飛びつき、その宝石を両手で大事そうに拾い上げた。
『レアアイテム:泥大蛙の魔石(特大) を入手しました』
『詳細:武具の強化や高度な錬金術の素材となる貴重な魔石。市場価値は極めて高い』
「……やった。やったわ」
ツムギの指先が小刻みに震えていた。
トラウマとの死闘を制した感動ではない。純粋な、金銭的歓喜による震えだ。
この『泥大蛙の魔石』は、ゲーム中盤以降のプレイヤーが喉から手が出るほど欲しがる強化素材だ。サービス開始直後の現在、オークションに流せば確実に数十万ゴールド(数万円相当)の値段がつく。
「あはっ……あははははっ! 見たかクソジジイ(運営)! レベル1だろうが初期装備だろうが、泥臭く立ち回ればボスの財宝なんて簡単にひん剥けるのよ!」
ツムギは紫の宝石を頬にすりすりしながら、薄暗い地下ダンジョンで一人、高笑いを響かせた。
「これでライブのチケット代は確保したわ。でも、まだ遠征費とグッズ代が足りない……。次はどのボスをハメ殺してやろうかしら!」
かくして、レベル1の女子中学生による、理不尽極まりない隠しボス討伐は幕を閉じた。
システムの裏を突くのではなく、純粋な物理法則と生態の隙を突いた『実体験チート』。
この日を境に、『アルカディア・オンライン』の運営とトッププレイヤーたちは、常識外れの荒稼ぎを行う「泥まみれの守銭奴」の存在に、大いに頭を悩ませていくことになるのだが……ツムギにとってそんなことは、口座残高が増える喜びに比べれば些末な問題でしかなかった。
「待っててね、ギャラクシー・ボーイズ! 私、稼ぐから! この世界(ブラック職場)の富を根こそぎ奪い取って、必ず会いに行くからねぇぇぇ!」
歓喜の雄叫びが、ボスのいなくなった地下空間に虚しく、そして力強く響き渡っていた。




