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第3話:裏井戸の隠しダンジョンと、ミリ単位の生存戦略

ヒュウウウウウッ、という風を切る音が耳元で鳴り響く。

薄暗い井戸の底へと向かって、ツムギの小さな体は真っ逆さまに落下していた。


常識的に考えれば、何の命綱もなく数十メートルもある井戸の底へ飛び込めば、待っているのは「落下死」によるデスペナルティである。VRMMO『アルカディア・オンライン』においても、落下ダメージの計算式は現実の物理法則とほぼ同等に設定されているはずだった。

しかし、ツムギの顔に恐怖はない。

彼女の目は、暗闇の中でもハッキリと周囲の環境を捉えていた。


(右の壁面に突き出たレンガ……それから、左の壁に垂れ下がっている朽ちかけた太い縄。よし、位置は昔と一ミリも変わってないわね!)


ツムギは落下しながら、空中で器用に体を捻った。

まず、右足のつま先で壁面の出っ張ったレンガを蹴り、落下の勢いを殺す。その反動を利用して左側の壁へと跳躍し、そこから垂れ下がっていた古い縄を両手でガッチリと掴んだ。

ギギギッ! と縄が軋む音と共に、摩擦熱で手のひらが熱くなる。VR特有の痛覚設定(初期設定では現実の10%程度)が作動し、ジリッとした痛みが走るが、異世界で骨を折ったまま走らされていたツムギからすれば、蚊に刺された程度の刺激でしかない。


ズルズルと縄を滑り降り、地面まで残り数メートルのところで縄から手を離す。

空中でクルリと前転の姿勢を取り、足から着地。そのまま勢いを逃がすように石畳の上をゴロゴロと転がり、音もなく膝立ちの姿勢でピタリと静止した。


「ふぅ……着地成功。十歳の頃はここで足を滑らせて、顔面から泥水に突っ込んだのよねぇ」


ツムギは布の服についた埃を払いながら立ち上がった。HP(体力)バーは1ミリも減っていない。ノーダメージである。

彼女が降り立ったのは、冷たく湿った空気が漂う地下空間だった。

壁や天井には、うっすらと青白く発光する苔が群生しており、完全な暗闇ではない。しかし、その光が照らし出すのは、無数の人骨が転がるぬかるんだ通路と、奥から漂ってくる強烈な腐敗臭だった。


ピロンッ、とツムギの視界の端に、真っ赤なシステムウィンドウがいくつもポップアップした。


『警告:現在地の推奨レベルを大幅に下回っています』

『警告:強力なモンスターの気配を検知しました。直ちに引き返すことを推奨します』

『デスペナルティに関する注意喚起:死亡した場合、所持金の10%を喪失し……』


「はいはい、うるさいうるさい」


ツムギは鬱陶しそうに手でスワイプし、警告ウィンドウを全て閉じた。

自身のステータス画面を呼び出す。

レベル:1

HP:20/20

職業:初心者

装備:布の服、木の棒

所持金:0ゴールド


どこからどう見ても、チュートリアルすら終えていない最弱のプレイヤーである。

対して、この『裏井戸の隠しダンジョン』は、本来ならレベル30以上のプレイヤーがフルパーティを組んで挑むような高難易度エリアだ。ツムギのHPや防御力なら、モンスターに軽く小突かれただけで即死(ワンパン)である。


「でも、死ななきゃいいだけの話でしょ。私が欲しいのは経験値じゃなくて、一番奥にいる隠しボスが落とす高額ドロップアイテムなんだから」


ツムギは木の棒を握り直し、歩みを進めた。

目指すは推しのライブの全国ツアー全通。そしてグッズの完全制覇。五十万円という大金(リアルマネー)を稼ぐためには、ここで足踏みをしている暇はない。

ズチュ、ズチュ……と、ぬかるんだ土を踏む音が地下道に響く。

しばらく進むと、通路が少し開けた広間に出た。

ツムギはピタリと足を止め、すぐさま壁の物陰に身を隠した。


広間の中央。青白い苔の光に照らされて、巨大なゼリー状の物体が三体、うごめいていた。

体長は2メートル近くある。色はドス黒い紫色で、体の中からボコボコと不気味な気泡を立てている。


『ポイズン・アシッドスライム(Lv.26)』


モンスターの頭上に浮かぶ赤いネームプレートを見て、ツムギの顔がサッと青ざめた。

ゲームのシステム的な恐怖ではない。ツムギの脳裏に、四年間の異世界生活の中でもトップクラスに最悪な『トラウマ』がフラッシュバックしたのだ。


『ほれ勇者! 魔物の恐ろしさをその体で学んでこい!』

『いやぁぁぁ! 熱い! 服が溶けるぅぅ! 誰か助けてぇぇぇ!』

『ガハハハハ! 勇者のくせに下着姿で泣き喚くとは情けないぞ!』


十歳のあの日、宮廷魔術師(クソジジイ)に蹴り落とされた酸の沼。

初期装備の服は瞬く間に溶かされ、皮膚を焼く激痛に泣き叫びながら、下着一丁で逃げ回った屈辱の記憶。あの時に嗅いだ、鼻の粘膜を焼くような強烈な酸の匂いが、このVR空間でも完全に再現されていた。


「……あいつらだけは、本当に大っ嫌い……!」


ツムギはギリッと歯を食いしばり、震える膝を両手で押さえつけた。

普通のプレイヤーなら、レベル1でレベル26のモンスターに遭遇した時点で回れ右をして逃げ出すだろう。戦おうにも、木の棒で叩いたところでダメージは「1」も入らず、逆に酸で棒が溶かされて終わる。

だが、ツムギの眼差しは逃げを打っていなかった。

彼女の『強欲』が、トラウマによる『恐怖』を上回ったのだ。


「あの広間を抜けないと、ボスの部屋には行けない。……やるしかないわね。時給五千円(予定)のためよ」


ツムギはその場にしゃがみ込むと、足元のぬかるんだ泥を両手で掬い上げた。

そして、その冷たくて臭い泥を、自分の顔、腕、足、服の隙間にまで、ペタペタと躊躇なく塗りたくり始めたのだ。

傍から見れば発狂したとしか思えない奇行である。しかし、これこそが異世界で培った絶対の『生態系知識』だった。


「アシッドスライムには目も耳もない。奴らが獲物を感知する手段は二つ。地面から伝わる『振動』と、獲物が発する『体温』よ」


泥を全身に塗ることで、一時的に体表温度を周囲の環境と同じレベルまで下げる。

さらにツムギは、初期装備の粗末な靴を脱ぎ捨て、裸足になった。靴底の硬い素材は、石を叩いて不要な振動を生み出してしまうからだ。

準備を終えたツムギは、泥まみれの姿でゆっくりと物陰から立ち上がった。

大きく深呼吸をして、心拍数を極限まで落ち着かせる。


一歩、足を踏み出す。

着地するのは、石畳の上ではない。壁際から床に向かって伸びている『発光苔』の上だけを、ミリ単位の精度で見極めて足を乗せる。スポンジのように柔らかい苔が、ツムギの体重による振動を完全に吸収する。

音もなく、気配もなく。

ツムギは三体の巨大なアシッドスライムの間を縫うように歩き始めた。


ズチュ……ズチュル……。

スライムたちが不規則に動き回る。

ツムギとスライムの距離は、わずか数十センチ。

酸の強烈な匂いが鼻を突き、スライムの体から発せられる熱気すら肌に感じる。もしあと数センチ横にずれれば、ツムギの体は酸に取り込まれ、HP20など一瞬でゼロになるだろう。

VRギアを通じた現実の肉体は冷や汗でぐっしょりと濡れているはずだ。しかし、アバターであるツムギの表情は、氷のように冷徹で無感情だった。


(右のスライムが収縮期に入る……左のスライムは触手を伸ばすモーション……。通れる隙間は、今ここ!)


ツムギはスライムの生態リズムを完璧に読み切り、まるでダンスを踊るかのような滑らかな足さばきで死地を通り抜けていく。

そして、約二分後。

ツムギは何の判定も受けることなく、アシッドスライムの群れを完全にスルーし、広間の反対側の通路へと到達した。


「……ふぅっ。ちょろいもんね」


通路に入った途端、ツムギはニヤリと悪党のような笑みを浮かべ、全身の泥をパパッと払った。

システムに頼った隠密スキル(ステルス)ではない。純粋な物理的・生物学的な理屈を用いた、プレイヤースキルという名の『実体験』の暴力である。


しかし、休む間もなく次の難関が待ち受けていた。

通路の先から、松明の赤い光と、甲高い耳障りな声が聞こえてきたのだ。


『ギャッ! ギャギャッ!』

『グルルル……』


ツムギが壁の影から覗き込むと、そこには五匹の小鬼がいた。

緑色の肌、醜く歪んだ顔。手には錆びた鉄の剣や、粗末なクロスボウを握っている。


『ケイブ・ゴブリン(Lv.28)』


これまた序盤のプレイヤーにとっては悪夢のような存在だ。集団で連携を取り、遠距離と近距離から波状攻撃を仕掛けてくる賢いモンスターである。

先程のスライムとは違い、彼らには視覚と聴覚がしっかりと備わっている。泥を塗った程度で誤魔化せる相手ではない。さらに通路は見通しが良く、身を隠すような障害物もほとんどなかった。

通常のプレイヤーであれば、仲間の盾職(タンク)にターゲットを取らせ、魔法使いが遠距離から攻撃する……という戦術を取る場面だ。


「ソロのレベル1じゃ、一発殴られたら終わりね。しかもクロスボウ持ちがいるから、走って強行突破しようとしても背中に矢が刺さってゲームオーバーよ」


ツムギは冷静に状況を分析した。

だが、やはり彼女の顔に諦めの色は一切ない。

ツムギは通路の奥……ゴブリンたちの上、天井付近へと視線を向けた。

地下道の天井には、鍾乳石のようにゴツゴツとした岩肌が広がっており、ところどころに小さな出っ張りや窪みがある。


「ゴブリンの生態系その2。あいつらは首の骨の構造上、真上を見上げるのが極端に苦手なのよ。視野角は前方に広く、上方は完全に死角になってる。……ま、異世界で奴らの巣穴からこっそり財宝を盗み出す時に、嫌ってほど学んだんだけどね」


ツムギは持っていた木の棒を、犬のように口にくわえた。両手を完全に空けるためだ。

そして、通路の壁面にあるわずかな窪みに指を引っ掛け、まるで熟練のロッククライマーのような身軽さで、スルスルと壁を登り始めた。

現実のツムギは運動神経こそ良いものの、ただの中学二年生だ。しかし、このVR空間では、脳のイメージと肉体の連動がダイレクトに行われる。異世界で四年間、毎日生死の境を這いずり回っていたツムギの『筋肉の記憶』は、アバターの動きとして完璧に再現されていた。


天井に到達したツムギは、両手両足の四肢を岩肌の出っ張りに引っかけ、ヤモリのように張り付いた。

そのまま、ゴブリンたちの頭上を這って進んでいく。

下からは、ゴブリンたちの下品な笑い声と、獣臭い体臭がリアルに伝わってくる。

距離にして約三メートル下。もし一つでも岩を掴み損ねて落下すれば、五匹のゴブリンのど真ん中に落下し、文字通りミンチにされるだろう。


(指先からつま先まで、常に三点で体重を支える。息は鼻からゆっくり吐く。……おっと、この岩は少し脆いわね。荷重をかけすぎないように……)


システムによるオートクライミング機能など使っていない。完全な手動操作(マニュアル)である。

ツムギは一切の音を立てず、ゴブリンたちの真上を通過していく。

ゴブリンの一匹が不意に鼻をクンクンと鳴らし、周囲を見回した。

ツムギは天井に張り付いたまま、呼吸を止めて石像と化す。

ゴブリンは仲間と顔を見合わせ、「ギャ?」と首を傾げた後、再び下を向いて歩き出した。ツムギの言う通り、彼らは決して「真上」を見上げようとはしなかった。


ゴブリンの群れを完全にやり過ごし、通路の反対側まで到達したツムギは、静かに床へと着地した。

口にくわえていた木の棒を手に取り、ペッと息を吐き出す。


「よし、第二関門も突破。昔取った杵柄ってやつね。……まあ、こんな杵柄、普通の女子中学生は一生使う機会なんてないんだけど」


少しだけ自嘲気味に笑いながらも、ツムギの足取りは軽かった。

強力なモンスターたちが徘徊する死地を、レベル1の初期装備のまま、一切の戦闘を避けて(システムに頼らず物理法則のハックだけで)突破していく。

運営が想定したルートを完全に無視した、あまりにも理不尽で、あまりにも鮮やかな攻略法だった。


さらに地下深くへと進む。

やがて、通路の突き当たりに、苔生した巨大な石の両開き扉が現れた。

扉の表面には、不気味なカエルのような怪物のレリーフが彫られている。


『システムメッセージ:これより先は【ボスエリア】となります。現在のレベルでは――』


ツムギはまたしても警告ウィンドウをノールックで叩き割るように消した。

この扉の向こうにいるのは、裏井戸の隠しボス。

そして、そいつを倒せば、序盤では絶対に手に入らない高額換金アイテムが手に入る。


「ふふっ……ふふふふっ!」


ツムギは両手を石の扉につき、肩を震わせて笑い声を漏らした。

瞳の奥には、トラウマを完全にねじ伏せた、ギラギラと輝く『¥』マークが燃え盛っている。


「待ってなさい、ボスガエル。あんたの命(ドロップアイテム)は、私の『ギャラクシー・ボーイズ』の遠征費として、立派に昇華させてあげるからね。……さあ、搾取の時間よ!」


ツムギは渾身の力を込めて、重厚な石の扉を押し開いた。

時給数万円の一攫千金を賭けた、レベル1の元勇者による、理不尽極まりないボス狩りが幕を開けようとしていた。

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