第47話:ブラック上司(宮廷魔術師)の言い分〜未払い残業代と法定金利の精算〜
真っ白で無機質な、窓も扉もない正六面体の空間――アルカディア・オンラインの『運営特別ルーム』。
本来であれば、チート行為や重大な規約違反を犯したプレイヤーが呼び出され、ゲームマスターからアカウント永久凍結(BAN)という絶対的な死の宣告を受けるための、恐るべき処刑室である。
先ほどまで、結城紬(アバター名:ツムギ)もまた、自身が荒稼ぎして手に入れた『一億円(現金換算一千万円)』が没収される恐怖に怯え、ガタガタと震えていた。
しかし。
目の前の白い革張りソファに深々と腰を下ろす、目の下に濃いクマを作ったスーツ姿の男――チーフディレクターの『クロノス』の口から発せられた一言が、ツムギの中のあらゆる恐怖を完全に吹き飛ばした。
『久しぶりだな、俺の(・・・・)勇者よ』
その尊大で、人を見下すような、腹の底から神経を逆撫でするような独特の声音。
そして、ツムギを「勇者」と呼んだ事実。
「あんた……。あんたが、あのクソジジイだったの!?」
ツムギの口から、悲鳴にも似た絶叫が響き渡った。
四年前。
現実世界から十歳のツムギを無理やり異世界に召喚し、「世界を救え」という大義名分を盾にして、常軌を逸したブラック労働を強要した張本人。
寝る間も惜しんでドブ掃除をさせられ、毒沼を歩かされ、毎日のように巨大な魔物と死闘を繰り広げさせられた。休日はゼロ、福利厚生ゼロ、労災保険ゼロ。そして何より、魔王を倒して世界を救った直後、「ご苦労だった」の一言だけで、退職金はおろか未払いだった給料の『一円』すら支払わずに、ツムギを元の世界に強制送還した、最低最悪の雇用主(ブラック上司)。
それが、異世界の宮廷魔術師であった。
「……クソジジイとはなんだ、クソジジイとは」
クロノスは疲労困憊の顔で、深々とため息をついた。
「俺はまだ四十代だ。現実世界のアバターに合わせて、少しはマシな外見に調整しているというのに、お前は相変わらず口の減らない下品な小娘だな。少しは成長して、淑やかなレディにでもなっているかと思えば、中身はあの時の守銭奴のままじゃないか」
クロノスは足を組み替え、いかにも「大人の余裕」を装うように、フッと冷笑を浮かべた。
「あの王都防衛戦での戦いっぷり、見させてもらったぞ。相変わらず、下品で強欲な戦い方だな、勇者よ。システムが用意したギミックを悪用し、俺がわざわざ手動で送り込んだ刺客をリスキル(出待ち狩り)で潰し、挙句の果てには魔王の関節の隙間を突いて、未実装のレアアイテムを根こそぎ奪い去っていく。……まったく、お前という奴は、どれだけ俺の作った世界をコケにすれば気が済むんだ?」
クロノスは、かつての宮廷魔術師としての威厳を保とうと、芝居がかった手振りで語りかけた。
自分が『神(システム管理者)』であり、ツムギの生殺与奪の権を握っていることを分からせるための、彼なりのマウントであった。
普通なら、ここで「すみません、調子に乗りました、アカウント停止だけは許してください」と土下座するところだろう。
だが。
「…………」
ツムギは前髪で目を隠すように俯いたまま、ワナワナと肩を震わせていた。
その拳は白くなるほど強く握りしめられ、全身から、魔王の放った絶望のオーラすらも凌駕するような、ドス黒い『怒り』と『金気』がもうもうと立ち昇り始めていた。
「おい、結城紬。聞いているのか。お前のアカウントをどうするかは、俺の胸先三寸で……」
「うるさいクソジジイィィィィィィッ!!!」
バァァァァンッ!!
ツムギは弾かれたように顔を上げ、白い大理石のテーブルを飛び越え、ソファに座るクロノスに向かって文字通りの『猛烈なタックル』をかました。
「な、ぐふっ!?」
ツムギの両手が、クロノスの着ている高級スーツの胸ぐらをガシィッ!と万力のような握力で掴む。
「あ、あんたよくも抜け抜けと私の前に顔を出せたわね!! 自分がどれだけ重罪を犯したか分かってんの!? アカウント凍結ぅ!? ふざけるな、その前にまず、あの異世界で私に強制させた未払い賃金(残業代)と休日出勤手当を、現在の法定金利で耳を揃えて払いなさいよ!!」
「お、おい! やめろ! VR空間とはいえ痛覚設定は……痛い痛い痛い! 首が締まる!」
ツムギはクロノスの胸ぐらを掴んだまま、前後にガクガクと凄まじい勢いで揺さぶり始めた。
クロノスの頭が前後に振られ、三半規管が完全にシェイクされる。
「痛覚設定!? 私が四年間であんたに味わわされた痛みに比べたら、こんなの蚊に刺されたようなもんでしょ! 十歳の子供に、毎日毎日下水道のヘドロ掃除をさせて! スライムの酸で服を溶かされて泣いてるのに『回避行動が遅い!』って丸太で殴って! 挙句の果てには魔王との三日三晩の徹夜バトルよ! 労基署に駆け込んだら、あんた一発で実刑判決でブタ箱行きなんだからね!」
「ぐわぁぁぁ! や、やめ……! 話を聞け……!」
「聞かない! カネの話しか聞きたくない! 私の四年間を時給千円で計算して、一日二十時間労働で三百六十五日、それが四年分! そこに深夜割増と危険手当、さらに魔王討伐のインセンティブと四年分の遅延損害金(法定金利)を上乗せしたら、ざっと見積もっても五千万円は下らないわよ! 今すぐここに現金で積み上げなさい!!」
ツムギの目は完全に血走り、瞳孔のド真ん中には巨大な『¥』マークが業火のように燃え盛っていた。
BANの恐怖など微塵もない。目の前にいるのは、システム管理者(神)ではなく、単なる『悪質な給料未払いの元社長』に過ぎないのだ。
「お、落ち着け! そもそもお前は金に執着しすぎだ! あの時は世界が滅びかけていたんだぞ! 勇者として世界を救うのは、無償の愛と使命感によってなされるべき崇高な行いだろうが!」
クロノスが揺さぶられながらも必死に反論する。
「使命感で飯が食えるか! 使命感で推しのライブのSS席アリーナ最前列チケットが買えるかぁぁっ!」
「だからなんだその『推し』というのは! お前、一億円の賞金を得ておいて、それをアイドルの追っかけ資金に全額溶かすつもりなのか!? 馬鹿かお前は! 俺がスポンサーに頭を下げてかき集めたイベント予算を、そんなくだらない理由で……!」
「くだらないとは何よ! リュウくんの輝きは世界の命運より重いのよ! あんたが私の青春(四年間)をタダ働きで奪ったせいで、私は中学生になっても月三千円のお小遣いで貧乏生活を強いられてるのよ! その落とし前、このアルカディア・オンラインの経済を完全に破壊してでも回収してやるんだから!!」
ツムギの理不尽極まりない(しかしある意味で切実な)怒号が、運営特別ルームに響き渡る。
『やれやれー! ツムギ、もっとやっちゃえー! ついでに私のスイーツ代も巻き上げるのよ!』
ツムギの右肩から、不可視モードを解除したナビゲーションAI『エクレア』が姿を現し、ポンポンと飛び跳ねて煽り立てた。
「エ、エクレア……! お前、大精霊の分際で、運営(俺)を裏切ってこの守銭奴の味方についていたのか! システムの裏口から座標データを流していたのはお前だな!」
クロノスがエクレアを睨みつける。
『当然でしょ! あんた、私をこんな無機質なナビゲーションAIに改造して、毎日毎日退屈なログ監視ばかりさせて! おまけにツムギには私の黒歴史(全裸で白鳥の湖)をバラすと脅されてたんだから、裏切るに決まってるじゃない!』
「おのれポンコツ精霊……! データ化する時に性格パッチを修正し忘れたのが最大の失敗だった……!」
クロノスは頭を抱えた。
かつての最強の部下(勇者)と、かつての同僚(大精霊)。
この二人のタッグは、クロノスにとって文字通り最悪の相性だった。ゲームのシステムを裏からハッキングするAIと、表から物理演算をハッキングするプレイヤー。この二人が組めば、アルカディア・オンラインの経済が崩壊するのは時間の問題である。
「はぁっ、はぁっ……! もういいわ、分かった。あんたがこのゲームの運営なら、話は早いわ」
ツムギはクロノスの胸ぐらをようやく離し、荒い息を吐きながら腕を組んで見下ろした。
クロノスは咳き込みながらネクタイを直し、ソファに座り直す。
「あんた、私がゲームにログインした直後から、私の正体に気づいてたんでしょ。だから私をBANしないで、陰からチマチマとデバッグモンスターを送ったり、魔王を投下したりして嫌がらせをしてたのね」
「……ああ、そうだ。お前のその泥臭く下品な戦い方を見れば、ログだけでもすぐに分かったさ」
「じゃあ、あんたの負けよ」
ツムギは勝利宣言するように、フッと笑った。
「私が一人で王都防衛戦の一億円をもぎ取り、未実装のレアアイテムを山ほど手に入れた。あんたはそれを止めることができなかった。……このまま私をBANすれば、あんたの負け犬の遠吠え(私怨)でプレイヤーを不当に弾圧したってことで、SNSで大々的に暴露して大炎上させてあげるわ。元・宮廷魔術師の天才プログラマー様も、現代のネット社会の炎上の前には手も足も出ないでしょ?」
ツムギの脅迫は、中学生とは思えないほど極悪非道で、かつ現代社会の急所を的確に突いていた。
「……くっ」
クロノスはギリィッ!と歯を食い縛った。
本当に、どうしてこんなモンスターを育ててしまったのか。四年前、もっと素直で可愛らしい勇者として教育しておけばよかったと、今更ながらに激しく後悔した。
「さあ、分かったらとっとと私を元の宿屋に転送しなさい。換金申請の審査、数秒で通す(承認する)のよ。私の口座に一千万円の現金が着金するのを確認するまで、私はここを一歩も動かないからね」
ツムギがソファの肘掛けにドン!と足を乗せ、ヤクザの取り立てのような態度で迫る。
だが。
クロノスは、ツムギのその脅しに対して、なぜか深く、重苦しいため息を吐き出した。
先ほどまでの、焦りや怒りに満ちた表情がスゥッと消え、代わりに、この世のすべての疲労と絶望を背負い込んだような、恐ろしく真剣な顔つきに変わっていた。
「……金、金、金。お前は本当にそればかりだな、結城紬」
「当たり前でしょ。資本主義社会で生きるには金が必要なの」
「そうだな。お前の言う通り、俺の負けだ。お前のプレイスキルと、その異常なまでの執念は、俺が設計したシステムを完全に凌駕した。……だから、お前のアカウントを凍結(BAN)するつもりはない」
クロノスの言葉に、ツムギは一瞬「え?」と虚を突かれた。
「BANしない? じゃあ、何のために私をこんな特別ルームに呼び出したのよ」
「……お前をここに呼んだのは、罰を与えるためではない。むしろ、その逆だ」
クロノスはゆっくりと立ち上がり、両手をズボンのポケットに突っ込んで、真っ白な天井を見上げた。
「お前は疑問に思わなかったか? なぜ、この『アルカディア・オンライン』という最新のVRMMOが、四年前のあの異世界と、地形から隠しアイテム、魔法の物理法則に至るまで、1ミリの狂いもなく完全に一致しているのかを」
「……そりゃあ、あんたが開発者で、手抜きして昔のデータを丸ごと流用したからでしょ?」
ツムギが鼻で笑って答える。
「手抜き、か。……そう思ってくれるなら、まだ良かったんだがな」
クロノスは、ツムギを見据え、氷のように冷たく、重い声で告げた。
「結城紬。お前が魔王を倒し、元の世界へ帰還した後……あの異世界がどうなったか、知っているか?」
ツムギの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
クロノスの目には、かつてないほどの深い悲哀と、取り返しのつかない後悔の色が浮かんでいた。
「魔王は倒れた。だが、魔王が世界中に撒き散らした『破滅の呪い』は、大地のマナを完全に枯渇させてしまった。……お前が救ってくれたあの世界は、お前が去ったわずか半年後に、マナの枯渇(世界の寿命)によって、完全に『崩壊(消滅)』したんだよ」
「……え?」
ツムギの瞳から、強欲の光がスッと消え去った。
自分が血反吐を吐いて救ったはずの世界が、滅んだ。
その事実が、脳の処理速度を一時的にシャットダウンさせる。
「滅びゆく故郷を、俺たちにはどうすることもできなかった。大地は割れ、空は砕け、人々は次々と消えていった。……だから俺は、最後の手段に出た」
クロノスは、両手を広げ、この純白の運営ルーム全体を示すように言った。
「俺は、残された最後のマナを全て使い、あの異世界の『全情報』を、草の根一本、人々の記憶、物理法則のすべてに至るまで、完全に『データ化』した。そして、次元の壁を越えて、この現代地球のネットワークサーバーへと送信し、仮想現実という箱庭の中に、無理やり保存・再現したのだ」
「……それが、アルカディア・オンラインの正体……?」
エクレアが、信じられないというように口元を押さえた。
「そうだ。このゲームは単なる娯楽ではない。俺たちの故郷の、最後の『避難所』なんだよ」
クロノスの告白。
それは、単なるゲームの枠組みを越えた、あまりにも壮大で、そして悲痛な真実であった。
ツムギは言葉を失い、ただ目の前の元・宮廷魔術師を見つめることしかできなかった。
「だが……問題が起きた」
クロノスは、再び胃薬の空き瓶を強く握りしめ、顔を苦痛に歪めた。
「世界をデータ化する際、俺は大きな過ちを犯した。……異世界を滅亡に導いた『滅びの概念』、つまりシステムの根幹を食い破る致命的なバグの塊まで、一緒にデータ化して、このサーバーの最深部に保存してしまったんだ」
運営特別ルームの空気が、急激に重く、冷たくなる。
「そして今、その『バグ(滅びの具現化)』が、ゲームの最深部で暴走を始めている。このままでは、ゲームのサーバーが内側から食い破られるだけではない。ゲームサーバーを通じて繋がっている、現代の地球のインターネット網、インフラ設備、金融システム……そのすべてに『滅びのウイルス』が侵食し、この現実世界すらも物理的に崩壊させてしまう」
「な……っ」
ツムギは、息を呑んだ。
「お前を呼んだ理由はただ一つ」
クロノスは、深々と、ツムギに向かって頭を下げた。
あの傲慢だった男が、プライドを完全に捨て去り、一人の少女に懇願する。
「結城紬。……もう一度だけ、俺たちの世界を、そしてお前の生きるこの世界を、救ってはくれないか」
かつての戦友からの、悲痛なSOS。
世界の真実と、現実世界をも巻き込むシステム崩壊の危機。
あまりにも重すぎる使命が、一千万円の札束に浮かれていた女子中学生の肩に、再び重くのしかかろうとしていた。
しかし。
クロノスは、結城紬という少女の『本質』を、まだ完全に理解していなかった。
「……つまり」
沈黙を破ったツムギの顔は、世界を救う決意に満ちた勇者のものではなかった。
前髪の奥で、カッと目を見開き、これまでにないほど恐ろしい夜叉のような形相で、クロノスを睨みつけていたのである。
「ネットが死んで、金融システムが崩壊するってことは……。私がこれまで血と汗と泥水すすって稼いだゲームの売上(一億円のデータ)が、銀行の口座ごとパーになるってことぉぉぉぉぉぉぉッ!?」
「……え? あ、いや、まあ、結果的にそうなるが……」
「ふざけんなクソジジイ!! 世界がどうなろうと知ったこっちゃないけど、私の推しのライブ資金(一千万円)をゼロにしようとするバグだけは、絶対に、絶対に私が物理で粉砕してやるわぁぁぁぁぁぁっ!!!」
世界の危機よりも、銀行口座の残高。
最強の守銭奴の怒りが、次元を超えて臨界点を突破した瞬間であった。




