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第42話:トラウマを上回る圧倒的「強欲」〜一千万円の札束が絶望を打ち砕く〜

血のように赤く染まった王都アルカディアの上空。

空間の亀裂から降臨した漆黒の六枚翼――最終破滅存在にして、かつて異世界を滅亡の淵に追いやった本物の『魔王』のコピーデータは、無慈悲に右腕を天へと掲げた。

その手のひらの上に、太陽の光を全て吸い尽くすかのような、禍々しい漆黒の極大魔法球が生成されていく。

空気が軋み、大気中のマナが悲鳴を上げてその球体へと収束していく。それは、ゲームのイベントボスが放つような大技の演出ではない。対象エリア内に存在するすべての生命(データ)を、システムの根幹から強制的に消し飛ばすための、絶対的な『死の宣告』であった。


「に、逃げろォォォッ!!」

「ログアウトだ! 早くメニューを開け!」


城壁の上に立ち尽くしていた数万人のプレイヤーたちは、本能的な恐怖に駆られて逃げ惑い、あるいはシステムメニューから強制ログアウトを試みようとした。

しかし、クロノスが管理者権限で投下したこの魔王空間において、プレイヤーのログアウト機能はすでに強制的にロックされていた。

逃げ場はない。


――カッ!!


音すらなかった。

魔王が振り下ろした漆黒の魔法球は、王都の城壁と平原の境目を中心にして、巨大な半球状の『虚無』を展開した。

爆発の炎や、衝撃波などという物理的な現象ではない。漆黒の半球に触れた瞬間、王都の堅牢な白亜の城壁も、大地も、そしてそこにいた何万人ものプレイヤーたちも、一切の抵抗を許されずに文字通り『空間ごと削り取られるように』消滅したのだ。

断末魔の悲鳴すら上がる暇はない。


『システムメッセージ:プレイヤー【剣士ガルド】が死亡しました』

『システムメッセージ:プレイヤー【魔術師アリサ】が死亡しました』

『システムメッセージ:ギルド【紅蓮の炎】が全滅しました』


空中に浮かぶランキングボードの生存者リストが、滝のような速度でブラックアウトしていく。数万人いたイベント参加者が、たった一撃の開幕攻撃によって、99%以上消し飛んだ。


◇ ◇ ◇


その絶望の余波は、王都の地下深く、大下水道の第4廃棄物処理層にまで及んでいた。


「あ……あ……」


結城紬(アバター名:ツムギ)は、石畳の床に膝をつき、ガタガタと全身を震わせていた。

トラウマのフラッシュバック。かつて魔王の圧倒的な暴力の前に、自分自身の体が引き裂かれ、仲間たちが塵となって消えていった地獄の記憶が、彼女の精神を完全に支配し、金縛りのように肉体を硬直させている。


「ゆ、結城……! おい、上が! 天井が崩れてくるぞ!!」


相沢航太(アバター名:コウタ)が絶叫した。

魔王の放った虚無の攻撃は、地表を抉り取り、その余波として地下空間にも致命的な崩落を引き起こしていた。ツムギたちの頭上を覆っていた脆い岩盤が、凄まじい地鳴りとともに完全に崩れ落ち、数万トンの岩石と瓦礫の雨となって彼らの頭上へと降り注ごうとしていた。

逃げ場はない。防御も不可能。

このままでは、地下にいるツムギたちも確実に圧殺され、デスペナルティの闇に沈む。


(ああ……終わる……。ここで死ぬんだ……。また、あの痛みが……)


ツムギの意識が、暗い恐怖の底へと沈みかけていく。

だが、その瞬間だった。


――『立て、勇者! 死にたくなければ、泥を啜ってでも足掻け!』


脳裏に響いたのは、かつて彼女を地獄の淵に突き落としたブラック上司(クロノス)の罵声だった。

四年間、生き延びるためだけに叩き込まれた、理不尽極まりない戦闘教練。それが、ツムギの『精神』よりも先に、『肉体の反射(サバイバーとしての生存本能)』を強制的に起動させたのである。


「……ッ!!」


ツムギの目が、カッ!と見開かれた。

恐怖で凍りついていたはずの身体が、バネ仕掛けの人形のように弾け飛んだ。


「どきなさい、あんたたち!!」


ツムギは、すぐ横で腰を抜かしていたコウタの襟首を掴み、そのまま全力で蹴り飛ばした。

「ぐへぇッ!?」

吹き飛んだコウタの体は、第4廃棄物処理層の壁際の窪み――先ほど崩落した岩石が寄りかかり、偶然にも三角形のわずかな隙間(空間)を形成している場所へと転がり込んだ。


「リン! デカブツ! そこに入れェェッ!!」

「きゃああっ!?」

「ぬおおおっ!?」


ツムギは立て続けに、東山凛(リン)の背中を押し飛ばし、さらに二メートル超えの重戦士シシオウの膝裏を蹴り抜いてバランスを崩させ、コウタと同じ窪みの中へと強引に押し込んだ。

そして、崩落する天井の岩盤が彼らを押し潰す、まさにコンマ一秒前。

ツムギ自身も、魚のように地を滑るスライディングで、その狭い窪みの中へと飛び込んだのである。


ズゴォォォォォォォォォォォンッ!!!!


鼓膜が破れんばかりの轟音。

巨大な質量が地下室を完全に埋め尽くし、世界が激しく揺れ動いた。

視界は完全に土煙に覆われ、呼吸をするのも困難なほどの粉塵が舞う。


……数秒の、いや、永遠にも感じられるほどの静寂が訪れた。


「げほっ……ゴホッ……! い、生きてる……?」


コウタが、むせ返りながら目を開けた。

彼らが押し込まれたのは、壁と崩落した巨大な岩盤が偶然に作り出した、わずか「1メートル四方」の奇跡的な空間だった。

そのすぐ目の前には、数十トンはあろうかという岩の塊が迫っており、あと数センチでもズレていれば、全員が間違いなくミンチになっていた。


「お、お姉様……! わたくしたち、助かったのですか……?」

リンが、煤だらけの顔でツムギにしがみつく。

「姉御の神がかった判断力……! あの一瞬で、この安全地帯(安置)を見抜くなんて……!」

シシオウも、巨体を縮こまらせながら戦慄の声を上げた。


奇跡ではない。

これは、ツムギが異世界のドブ掃除で培った「マップの構造の完全把握」と、VRMMOの物理演算エンジンの死角である「コリジョン(当たり判定)の抜け穴」を無意識に見切った結果である。

どんな広範囲即死攻撃でも、マップのポリゴンの隙間に潜り込めば、システム上は「攻撃判定が届かない安全地帯(安置バグ)」となる。彼女の生存本能は、それを一瞬で計算し、仲間をそこに蹴り込んだのだ。


だが。


「……はぁっ……はぁっ……」


安置に飛び込んだツムギは、荒い息を吐きながら、両膝を抱えてガタガタと震え続けていた。

肉体は生き延びたが、精神のトラウマは未だ彼女を縛り付けている。

あの絶対的な恐怖のプレッシャーが、上空から依然として降り注ぎ続けているからだ。


「ゆ、結城……。もう、やめよう……」


コウタが、震える手でツムギの肩に触れた。

彼の目には、かつてないほどの怯えと絶望が浮かんでいた。


「あんな化け物、勝てるわけがない。システムのアラートでも『生存確率0%』って出てるじゃないか。運営がイベントを強制終了させるために出した、負けイベントのボスなんだよ。……これ以上ここにいたら、俺たちのアカウントデータ自体がどうなるか分からない。ツムギ、今はもうログアウトができないけど、わざと死んでデスペナルティを受けて、イベントから離脱しよう。逃げるんだ……!」


コウタの提案は、一般プレイヤーとしては極めてまともで、理にかなった判断だった。

魔王の強さは次元が違う。物理無効のチートモンスターとは比べ物にならない、システムそのものを破壊するバグの塊だ。これに立ち向かうのは、自殺行為以外の何物でもない。


「……死んで、離脱する……」


ツムギは虚ろな瞳で、コウタの言葉を反芻した。

そうだ、そうすればいい。ゲームなんだから、一度死ねば安全な街で復活できる。あの恐ろしい魔王のプレッシャーから解放されて、息ができる。痛い思いをして戦う必要なんて、どこにもないのだ。

四年間、決して逃げることが許されなかった異世界とは違う。ここはゲームなのだから。


ツムギの心が、完全に「諦め」へと傾きかけた。

だが、彼女の視線が、ふと空中に浮かび上がったままのシステムウィンドウ――【イベントランキング・スコアボード】に落ちた瞬間。


ピクリ、と。

ツムギの肩が動いた。


『イベント:王都防衛戦(残り時間:30分)』

『現在の生存プレイヤー数:4名』

『第1位:パーティ【ツムギ・リン・コウタ・シシオウ】 防衛ポイント:5,800,000』

『※注意:本イベントの賞金獲得条件は、イベント終了時まで【生存】し、ポイントを保持していること。死亡(デスペナルティ)により途中離脱した場合、獲得ポイントは全額【没収】となります』


ツムギの視線が、その「※注意」の赤い文字に釘付けになった。


「…………え?」


死亡した場合、獲得ポイントは、全額、没収。

全額、没収。

それはつまり。

ツムギがこの地下下水道でドブ泥にまみれながら、スライムの体液を素手で塗りたくり、クロノスの陰湿な嫌がらせを乗り越えて稼ぎ出した、あの五百八十万ポイント(現金換算で一千万円以上の賞金)が。


「パーに……なる……?」


ツムギの口から、掠れた声が漏れた。


一千万円が、パーになる。

大好きな『ギャラクシー・ボーイズ』の全国ツアー、SS席アリーナ最前列のチケットが。

推しのリュウくんのメンバーカラーである真紅のペンライト、両手持ち用の二本が。

ランダム封入の缶バッジを箱買いして作るはずだった、愛の結晶である特大痛バッグが。

遠征先での最高級スイートルーム宿泊と、ファンクラブ限定オンラインミーティングでの「リュウくんからの認知」が。


それら全てを叶えるはずだった、私の、私の一千万円の札束が……。

あの、空から降ってきた黒いバケモノ(魔王)のせいで、奪われる!?


「……」


ゴクリ、と。

ツムギの喉が鳴った。

彼女の脳内で、とてつもない質量を持った二つの概念が、激しく衝突していた。


四年間、血みどろになって刻み込まれた、絶対的な【トラウマ(恐怖)】。

そして。

推しへの純粋な愛と、資本主義の申し子として育まれた、極限の【強欲(カネへの執着)】。


恐怖が囁く。

――逃げろ、殺される。あんな奴には勝てない。痛いのは嫌だ。


だが、強欲が咆哮する。

――逃げれば、一千万円が消える。推しに貢ぐためのカネがゼロになる。

――あのバケモノは、ただの魔王じゃない。私の『口座残高』を掠め取ろうとする、最悪の泥棒(ルビ:クソヤロウ)だ!!


「…………ふざ、けんな」


ツムギの唇が、微かに震えながら動いた。


「ゆ、結城……? どうした? 何か言ったか?」

コウタが顔を覗き込もうとした、次の瞬間。


「ふざけるなァァァァァァァァァァァッッ!!!」


狭い安置の岩穴の中で、ツムギの鼓膜を劈くような、爆発的な絶叫が響き渡った。

それは恐怖の悲鳴ではない。

魂の奥底から湧き上がる、極限の怒りと殺意に満ちた、狂犬のような咆哮だった。


「ひぃぃっ!?」

コウタが腰を抜かして岩壁に張り付く。

ツムギは、ゆっくりと、ユラリと立ち上がった。

先ほどまでのガタガタという震えは、完全にピタリと止まっている。

そして、彼女が顔を上げた時。

そこにあったのは、トラウマに怯える十歳の少女の顔ではなかった。


両目は限界まで見開かれ、白目には無数の血管が血走っている。

そして、その瞳孔のド真ん中には、魔王の放つ絶望のオーラすらも焼き尽くすほどに巨大で、ギラギラと燃え盛る『¥』マークが、完全に再点灯していたのである。


「奪われる……? 私の、私が泥水すすって稼いだ一千万円(推し活資金)を、あんな過去の遺物(バケモノ)に奪われるだと……!?」


ツムギの全身から、先ほどまでの怯えを完全に吹き飛ばす、真っ黒なドス黒いオーラ(金気)がもうもうと立ち昇り始めた。

それはもはや、魔王の放つプレッシャーと同等か、それ以上に禍々しい、純度一〇〇%の『強欲』のオーラであった。


「冗談じゃないわよ! 四年前、タダ働きさせられた挙句に退職金も出なかったあの地獄のブラック労働! その未払い賃金(残業代)を、今ここで一千万円の現金として回収するって決めたのよ! ここで死んだら、私の四年間の青春(苦労)が、本当にただのタダ働きで終わっちゃうじゃない!!」


ツムギは足元に転がっていた『木の棒(光属性の結晶石付き)』を、ガシィッ!と力強く拾い上げた。


「私の推しの遠征費を……! 私の一千万円の札束を……!!」


ツムギは岩穴の隙間から、上空に浮かぶ魔王に向かって、般若のような形相で木の棒を突きつけた。


「奪ってたまるかァァァァァァァァァッッ!!!」


強欲が、トラウマを完全に粉砕し、凌駕した瞬間であった。

命の危険よりも、現金が消えることへの恐怖と怒りが勝る。これこそが、結城紬という少女が「最強の守銭奴」と呼ばれる所以である。


「ゆ、結城……! お前、正気か!? 相手はイベントのラスボスどころか、生存確率0%のバグだぞ! どうやって勝つ気なんだよ!」

コウタが必死に止めるが、ツムギの耳にはもう一切のブレーキがかかっていなかった。


「勝てるかどうかなんて関係ないわ! あいつが私の口座残高(ポイント)を脅かすエラー(泥棒)なら、この手で物理的にデバッグしてやるだけよ!」

ツムギは首をゴキゴキと鳴らし、狂気に満ちた笑みを深めた。

「それに、よく考えたらあいつは『魔王』。つまり、このゲームの最終ボスのコピー。……ってことは、あいつを倒した時の『ドロップアイテム』や『討伐報酬』は、一体いくらの現金(リアルマネー)になるのかしら?」


その言葉を聞いた瞬間。

ツムギの後ろで震えていたリンとシシオウの顔色が変わった。


「あ、魔王の討伐報酬……! まさか、一億円のイベント賞金とは別に、超絶レアなアーティファクトが……!?」

リンの目に、徐々に光が戻り始める。

「姉御……! もしや姉御は、この絶望的な状況ですら、まだ『稼ぎのチャンス(ボーナスタイム)』だと仰るのですか!?」

シシオウが、震える手でタワーシールドを握り直した。


「当然でしょ! 絶望してる暇があったらソロバン弾きなさい! 一千万円の賞金を守り抜き、さらに魔王のドロップ品をオークションで売り捌く! これが私たちの最終目標よ!」


ツムギの圧倒的なまでの強欲と、そのブレない執念。

それが、恐怖で凍りついていた仲間たちの心に、劇薬のような『狂気』を伝染させていった。


「素晴らしいですわ、お姉様! あの魔王すら、お姉様にとってはただの巨大な『歩くATM』に過ぎないのですね! わたくしも、ATMとして負けてはいられませんわ!」

リンが立ち上がり、魔力回復のポーションを一気飲みして杖を構える。


「うおおおおおっ!! 姉御ォッ! 俺のブラック企業で鍛えられた社畜の根性、あの魔王の暴力にどこまで耐えられるか、見せてやりますぜ!」

シシオウが立ち上がり、巨体を震わせて雄叫びを上げた。


「……お前ら、完全に頭おかしいよ。カルト宗教の集団自殺にしか見えないぞ……」

コウタは涙目で頭を抱えながらも、ツムギが投げ捨てた空のポーション瓶を拾い集め、震える足で立ち上がった。

「でも、ここで結城を一人にしたら、俺の胃袋が一生後悔しそうだ。……背中の荷物(アイテム)、絶対に守り切ってやるからな!」


絶望的な生存確率0%の宣告。

だが、岩穴の安置に押し込まれた四人の泥臭いパーティは、誰一人として死を覚悟していなかった。

彼らの目的は「世界を救うこと」ではない。

ただひたすらに、「自分の口座残高(一千万円)を守り抜き、さらにカネを毟り取ること」。


「行くわよ、野郎ども! 私たちの稼ぎを邪魔するクソ魔王を、骨の髄まで換金してやるわよ!!」


ツムギの号令とともに、トラウマを強欲でねじ伏せた最強のカオスパーティが、崩落した岩石の隙間から這い出し、空を覆う絶望の化身へと向かって、泥と汚水にまみれた反逆の狼煙を上げたのである。

魔王降臨。そして、それ以上に恐ろしい「守銭奴の怒り」。

札束を賭けた、アルカディア・オンライン史上最も狂気に満ちた泥臭い総力戦が、今ここに幕を開けようとしていた。

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