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第41話:蘇る絶望(魔王降臨)〜かつての死闘と凍りつく魂〜

現実世界の運営モニタリングルームで、チーフディレクターであるクロノスが、怒りと怨念に任せて【絶対起動禁止フォルダ】のエンターキーを叩き割らんばかりの勢いで押し込んだ、その直後。


VRMMO『アルカディア・オンライン』のメインサーバーは、かつてないほどの異常な負荷と、システムそのものが悲鳴を上げるような強烈なデータロードの衝撃に見舞われた。


王都アルカディア。

地下下水道の大水門が解放され、数万トンの濁流が城壁外の平原を洗い流したことで、プレイヤーたちを苦しめていたモンスターの大群はすでに一掃されていた。

城壁の上に陣取っていた数万人のプレイヤーたちは、突如として訪れた静寂と、眼下に広がる泥まみれの平原を見下ろし、呆然と立ち尽くしていた。


「お、終わったのか……?」

「モンスターが全部いなくなったぞ……! 誰かが水門のギミックを作動させたんだ!」

「ふざけるな、ポイントはどうなった!? 俺たちの一千万円は!?」


プレイヤーたちが空中に浮かぶランキングボードを見上げ、たった一つのパーティ【ツムギ・リン・コウタ・シシオウ】が天文学的なポイントを独占している事実に気づき、暴動を起こそうと武器を振り上げた、まさにその瞬間だった。


――ピタッ。


世界から、すべての『音』が消え失せた。

プレイヤーたちの怒号も、風の音も、城壁の下を流れる濁流の音さえも。

まるで、巨大な真空パックの中に世界全体が閉じ込められたかのような、耳鳴りがするほどの絶対的な無音。


「……え?」

「な、なんだ……? 急に息が……苦し……」


城壁の上にいたプレイヤーたちが、次々と胸を押さえてその場に膝をつき始めた。

VRの体感設定が、システム上の『異常なまでの大気の重圧(プレッシャー)』を読み取り、プレイヤーたちの脳に直接「呼吸困難」の錯覚を引き起こさせていたのだ。

そして、彼らが空を見上げた時。

アルカディア・オンラインの美しい夕焼け空は、まるで巨大なインク壺をひっくり返したかのように、どろりとした『血の色』へと急速に染まり始めていた。


赤ではない。酸化して黒ずんだ、おぞましい鮮血の色。

雲は渦を巻き、天の頂点に向かって巨大なブラックホールのような穴を形成していく。

システムのアラート音が、通常の電子音ではなく、不協和音を伴ったノイズとして全プレイヤーの脳内に直接鳴り響いた。


『WARNING』

『WARNING』

『データロード・エラー。存在してはならない概念の顕現を検知しました』


空中のシステムウィンドウが、バグったように黒と赤の文字で埋め尽くされていく。

そして、空に空いた真っ黒な大穴から、ゆっくりと『それ』が降臨した。


漆黒。光すらも吸い込むような、絶対的な闇で作られた全身鎧。

背中からは、天を覆い尽くすほどに巨大な、六枚の禍々しい黒翼が広がっている。

顔を覆う兜の奥には、生命のすべてを否定し、蹂躙することだけを目的とした、紅蓮の双眸が爛々と輝いていた。


『WARNING:最終破滅存在【?????】が降臨しました』

『全プレイヤーに告ぐ。対象のステータスは計測不能。生存確率は0%です。祈りを捧げてください』


「な、なんだあれはぁぁぁっ!?」

「ラスボス!? イベントの最終ボスなのか!? でも、あのプレッシャー、おかしいだろ! 画面越しなのに、体が震えて動けない……ッ!」


城壁の上の数万人のプレイヤーたちは、空からゆっくりと舞い降りてくるその『存在』を見上げたまま、指一本動かすことができなかった。

ステータスの差ではない。システムが発する『恐怖(テラー)』のデバフですらない。

それは、純粋な『死の概念』そのものが具現化したような、圧倒的な暴力の権化だった。


◇ ◇ ◇


同じ頃、王都の地下下水道、第4廃棄物処理層。


「……」


それまで、ドロップした超絶レア素材をインベントリに詰め込み、札束の幻影に酔いしれていた結城紬(アバター名:ツムギ)の動きが、完全に凍りついていた。

地下深くの空間であるにもかかわらず、地上の異変はダイレクトに伝わってきていた。

いや、ツムギにとっては、視界が血の色に染まるよりも早く、その『魔力の波長』を感じ取った瞬間に、心臓が鷲掴みにされたように止まっていたのだ。


「ゆ、結城……? おい、なんか急に空気が重く……。上から、とんでもない圧が……!」

相沢航太(アバター名:コウタ)が、荷物袋を落としてその場に這いつくばる。


「お、お姉様……! わたくし、息ができませんわ……! 大気中のマナが、全て上空の『何か』に喰い尽くされていくような……!」

トップクラスの魔力を持つ東山凛(アバター名:リン)は、その異常性を肌で感じ取り、恐怖で顔面を蒼白にして震えていた。

シシオウもタワーシールドを構えようとするが、腕に力が入らず、盾が床に滑り落ちてガチャンと鈍い音を立てた。


『ツ、ツムギ……! ヤバい、ヤバいヤバいヤバい!!』

ツムギの右肩に浮かぶナビゲーションAIのエクレア(元・光の大精霊)が、これまでにないほど激しく真っ赤に点滅し、システムのエラー音を狂ったように鳴らし始めた。


『クロノスの奴、完全に頭がイカれたわ! システムの中枢から、とんでもないデータサイズの塊が、地上の王都上空に直接転送されてる! この魔力波長……! この圧倒的な絶望のパラメーター……間違いないわ!』


エクレアのホログラムが、恐怖に顔を引き攣らせて叫ぶ。


『四年前……私たちの世界を滅亡の淵に追いやった、本物の【魔王】の完全コピーデータよ!!』


その言葉が地下室に響き渡った瞬間。

ツムギの両目から、先ほどまでギラギラと燃え盛っていた『¥』マークが、ロウソクの火が吹き消されるように、スゥッと完全に消え失せた。


「…………ぁ…………あ」


ツムギの喉の奥から、空気が漏れるような乾いた音が鳴った。

彼女の視界が、ぐらりと揺れる。

VRMMOの安全な地下下水道の景色が、急速に色褪せ、代わりに彼女の脳裏に、四年間心の奥底に分厚い蓋をして封印し続けていた『最悪の記憶』が、濁流となって溢れ出してきた。


――空は、今日と同じ、血のように赤かった。

――大地はひび割れ、見渡す限りの荒野には、数え切れないほどの仲間の骸(しかばね)が転がっていた。

――焦げた肉の匂い。鼻を突く鉄の匂い(血の匂い)。

――自分の両手は血に染まり、ボロボロになった聖剣は重く、鉛のように冷たかった。


『立て、勇者! お前が倒れれば、この世界は終わる!』


宮廷魔術師(クロノス)の怒声が耳の奥で木霊する。

しかし、目の前にそびえ立つ漆黒の六枚翼の悪魔は、どれだけ魔法を撃ち込んでも、どれだけ剣を突き立てても、傷一つ負うことなく、ただ無慈悲に巨大な闇の刃を振り下ろしてきた。

骨が砕ける音。内臓が破裂するような激痛。

何度も何度も視界が真っ暗になり、その度に不味いポーションを口に流し込まれ、無理やり意識を浮上させられては、また地獄の激痛の中に放り込まれる。

死ぬことすら許されない、永遠にも等しい絶望の連鎖。

十歳の少女にとって、それは狂気以外の何物でもなかった。カネへの執着も、推しへの愛も、そんな余裕すら入り込む余地のない、純度一〇〇%の『生存への恐怖』。


「……あ、いや……」


カランッ。

ツムギの手から、今までどんな敵が来ても絶対に手放さなかった『木の棒』が滑り落ち、石畳の床に転がった。


「ゆ、結城……? おい、どうしたんだよお前……! 顔、真っ青だぞ……!」

這いつくばっていたコウタが、ツムギの異常な様子に気づいて声をかけた。


いつものツムギなら、ここで「ボーナスよ!」と笑い飛ばすか、「ポイントを独占するわよ!」と目を¥マークにして木の棒を振り回すはずだった。

どんなチートモンスターが来ようと、運営がどんな嫌がらせをしてこようと、彼女は決してカネへの執着(前向きな強欲)を忘れることはなかった。


だが、今のツムギは違った。

彼女の小柄なアバターは、まるで極寒の雪山に全裸で放り出されたかのように、ガタガタ、ブルブルと激しい痙攣を起こしていた。

大きく見開かれた瞳孔は恐怖に収縮し、呼吸は浅く、ヒュー、ヒューと過呼吸のような音を立てている。

VRヘッドセットを被っている現実の彼女の肉体からも、滝のような冷や汗が噴き出し、全身の筋肉が恐怖で硬直していた。


「いやだ……。いやだ、いやだ、いやだ……ッ!」


ツムギは両手で自分の頭を抱え込み、その場に力なく膝をついた。


「もう……あいつとは、戦いたくない……。あんな痛い思いは、もう嫌だ……。体が千切れるのも、血を吐くのも、もう二度とごめんだわ……ッ!」


それは、最強の守銭奴プレイヤーとしての顔ではない。

四年間、理不尽な世界で死線を潜り抜け、心をすり減らして戦い続けた、一人の十四歳の少女としての、偽らざる本音の叫びだった。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)。

かつて本物の魔王を前にして味わった究極の絶望が、システムデータとして全く同じステータスと外見で目の前に(地上に)現れたことで、ツムギの精神の安全装置(リミッター)を完全に破壊してしまったのだ。


「お、お姉様……!? しっかりしてくださいませ! いつもみたいに、あの自信に満ちた笑顔を見せてください!」

リンが這い寄り、ツムギの肩を抱きしめるが、ツムギの震えは止まらない。


「姉御……! あんな奴、俺の盾で……俺が絶対に守ってみせますから……!」

シシオウも立ち上がろうとするが、上空から地下まで降り注ぐ魔王のプレッシャーの前に、足に力が入らない。


『ツムギ……! お願い、正気を取り戻して! あんたがここで心を折られたら、本当に終わりよ! クロノスの奴、イベントのセーフティ(死亡時のペナルティ保護)を解除してるわ! ここで殺されたら、ただのデスペナルティじゃ済まない、アカウントそのものが破壊される可能性だってあるのよ!』

エクレアが泣き叫ぶように警告する。


しかし、ツムギの耳には何も届いていなかった。

恐怖。絶望。無力感。

四年間で培った「システムハック」も「泥臭い戦術」も、あの絶対的な魔王の前では、ただの小手先の児戯に過ぎないということを、彼女の魂が一番よく知っていた。


――ズズウゥゥゥゥンッ……!!


その時。

王都の上空に降臨した魔王が、ゆっくりと右腕を天に掲げた。

その手のひらに、太陽の光を全て吸い込んだような、漆黒の極大魔法球が生成されていく。

魔王の開幕の挨拶。

対象エリア内のすべての生命を強制的に消し飛ばす、回避不能の広範囲即死攻撃。


「……あ、あ……」

ツムギは虚ろな目で、天井を見上げた。

このままここにいれば、地下ごと消し飛んで終わる。

自分の稼いだポイントも、レアアイテムも、そして推しのライブに行くための資金も、全てが灰に帰す。

そう分かっていても、トラウマに縛られた足は、一歩も動かすことができなかった。


一億ゴールドの札束の力すらも凌駕する、絶対的な絶望の化身。

かつての魔王のデータが、一切の慈悲もなく、王都アルカディアに向かってその漆黒の破滅を振り下ろそうとしていた。

最強の守銭奴パーティに、真の崩壊の危機が迫る。

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