第36話:クロノスの介入とデジャヴ〜運営の陰湿な嫌がらせと見覚えのある陣形〜
現実世界の東京都内、高層オフィスビルの一室に設けられた『アルカディア・オンライン』運営統括本部・メインモニタリングルーム。
そこは今、まるで沈没しかかっている豪華客船の艦橋のような、致命的なパニックと絶望の渦に包み込まれていた。
「ディレクター! ダメです、止まりません! パーティ【ツムギ・リン・コウタ・シシオウ】の防衛ポイント獲得速度が、システムの想定上限値を完全に振り切っています!」
「第二位のギルドとのポイント差はすでに三百倍以上! このままでは、イベント終了を待たずに、システムが用意した一億ゴールド(現金換算一千万円)の賞金枠が、彼らたった四人のプレイヤーに全額吸い尽くされてしまいます!」
オペレーターたちの悲鳴めいた報告が飛び交う中、チーフディレクターであるクロノス(元・異世界の宮廷魔術師)は、デスクに両手をつき、血走った目でメインモニターを睨みつけていた。
モニターには、王都の地下下水道で大水門のレバーを引き、鉄砲水によって地上のモンスターを根こそぎ一網打尽にしている結城紬(アバター名:ツムギ)の姿が映し出されている。泥とスライムの粘液にまみれながら、狂ったように高笑いを上げる小柄な少女の姿は、クロノスにとってこの世のすべての悪夢を煮詰めたような存在だった。
「あのクソガキ……! 四年前から何一つ変わっていない! カネへの異常なまでの執着心と、目的のためなら手段を選ばないその泥臭さ! 俺が心血を注いで構築したこの美しい仮想世界を、ただの集金装置(ATM)としか思っていないのか!」
クロノスはギリィッ!と奥歯を噛み鳴らした。
この公式イベント『王都防衛戦』は、アルカディア・オンラインのサービス開始を記念する最大の目玉であり、スポンサーから莫大な協賛金を集めて実現した「一千万円バラ撒き企画」であった。本来であれば、何万人ものプレイヤーが競い合い、トップギルド同士が名誉と札束を賭けて熱いドラマを繰り広げるはずだったのだ。
それが、一人の強欲な女子中学生による「下水道からの水攻め」という、地味で陰湿極まりない物理ハックによって全て台無しにされようとしている。
「このままあいつ一人に一千万円を持っていかれたら、他の数十万人のプレイヤーから暴動が起きる! イベントの公平性を疑われ、ゲームの寿命そのものが終わってしまうぞ!」
クロノスの額から、滝のような冷や汗が流れ落ちる。
すでにナビゲーションAIであるエクレア(元・大精霊)はツムギに弱みを握られて寝返っており、システム側からの「不正」としての検知やアカウント凍結は不可能になっていた。ツムギの行動は、腹立たしいことにすべて「仕様の範囲内(物理演算の応用)」で行われているからだ。
「……こうなったら、もはや手段を選んでいる余裕はない。俺の権限で、直接奴らを排除する」
クロノスは決断した。彼は震える指で、管理者専用のデバッグコンソールを引き出し、強権発動のコマンドを打ち込み始めた。
「ディ、ディレクター!? 何をされるおつもりですか!?」
「ツムギのいる王都地下下水道の座標周辺に、未実装のデバッグ用排除モンスターを強制ポップさせる。奴らの進行を物理的に食い止め、全滅させてポイントの獲得を強制ストップさせるんだ!」
「そ、そんな! イベント中に運営が特定のプレイヤーだけを狙ってモンスターを配置するなんて、明らかな『嫌がらせ(介入)』です! ログを調べられたら大問題に……!」
「構わん! ログは後で俺が手動で消す! 一千万円をあの守銭奴に奪われるくらいなら、悪魔にでも魂を売ってやる!」
クロノスは血走った目でエンターキーを拳で叩き割る勢いで押し込んだ。
彼が選択したモンスターは、推奨レベル40オーバー。本来であれば数ヶ月先の高難易度エリアに配置される予定だった、物理攻撃を無効化する悪夢のアンデッド、【深淵の死霊】の群れであった。
「さあ、絶望しろ結城紬! システムに守られた不死身の化け物どもだ。お前のその薄汚い木の棒で、どうやって生き延びるか見せてもらおうか!」
クロノスの怨嗟の声が、モニタリングルームに虚しく響き渡った。
◇ ◇ ◇
一方その頃。
王都アルカディアの地下、大下水道の隠し機械室。
そこは、天井から降り注ぐポイントの雨(通知ログ)に歓喜するツムギの独壇場となっていた。
「あーっはっはっはっは!! 止まらない! ポイントが止まらないわ! もう五百万ポイント突破よ! このままいけば、終了時間までに二位に百倍以上の差をつけて、ぶっちぎりの完全優勝(一千万円獲得)ね!」
泥水に浸かりながら高笑いするツムギの後ろで、村娘の服を着たリンが「お姉様、輝いておりますわ!」と拍手を送り、シシオウが「俺も姉御の威光の末席に連なることができて幸せです!」と感涙に咽び泣いている。
荷物袋を背負わされたコウタだけが、胃薬を握りしめながら「もう早く終わってくれ……」と祈るように天井を見上げていた。
その時である。
『――――警告。異常事態発生。対象座標に、規定外のデータロードを検知』
ツムギの右肩に不可視モードで浮かんでいたエクレアが、突如として真っ赤な火花を散らしながら、システムアラートの音声を響かせた。
「ん? どうしたのエクレアちゃん。また運営が私のポイントを無効にしようとエラーでも吐いてるの?」
ツムギが余裕の笑みで尋ねた直後。
ピシッ……! ピキピキピキッ……!!
地下室の空気が、急激に、そして暴力的なまでに冷え込んだ。
ツムギたちの膝下まで浸かっていた汚水が、一瞬にしてカチンコチンに凍りつき、壁のレンガに真っ白な霜が張り付いていく。
VRの体感設定を通して、骨の髄まで凍りつくような「死の冷気」が、四人のプレイヤーを包み込んだ。
「ひぃっ!? な、なんだ!? 急に寒く……!」
コウタが両腕を抱え込んでガタガタと震え出した。
「お、お姉様……! なんだか嫌な予感がいたしますわ……。とても強大な、禍々しい魔力の気配が……!」
トップクラスの魔力ステータスを持つリンが、顔面を蒼白にして身構える。
ズズッ……ズズズッ……。
凍りついた下水道の奥の暗闇から、何かが湧き出してくる音がした。
最初はただの黒い影だった。しかし、それらは次第に実体を持ち、ボロボロの黒いローブを纏った、顔のない死神のような姿へと変わっていった。
その手には、禍々しい紫色のオーラを放つ大鎌が握られている。
一体、二体ではない。
狭い水路を埋め尽くすようにして、五体、十体と、次々に【深淵の死霊】が姿を現したのだ。
彼らの頭上には、HPバーの代わりに、プレイヤーに「絶対に戦ってはいけない」というシステム側の警告を示す『真っ赤なドクロマーク』が点滅していた。
「な、なんだあいつら!? ドクロマークの敵なんて、今まで一度も見たことないぞ!?」
コウタが絶望的な悲鳴を上げる。
『ツ、ツムギ! 大変よ! あれ、システム上に登録されてる通常モンスターじゃないわ! クロノスが管理者権限を使って、あんたを殺すためだけに強制転送させてきた、デバッグ用の排除プログラムよ!』
エクレアがパニックに陥りながら、ツムギの耳元で叫んだ。
『レベルは40以上! 物理攻撃は完全に無効化されるし、あの大鎌に触れられたら防御力に関係なく最大HPの半分を持っていかれる割合ダメージ(即死級)のデバフがかかるわ! 早く逃げて!』
「逃げるったって、後ろは行き止まりだぞ! 完全に包囲されてる!」
コウタの言う通り、アビス・レイスたちは、ツムギたちを逃がさないように、入り口への通路を完全に塞ぐ形で陣形を組んでにじり寄ってきていた。
「チッ、クロノスの奴、ついに手段を選ばなくなったわね。一千万円の支払いがそんなに嫌なの?」
ツムギは舌打ちをし、初期装備の『木の棒』を構え直した。
「下がってくだせえ、姉御ォォッ!!」
その時、ツムギの前に巨躯を躍り出させたのは、頼れる肉の盾・シシオウだった。
彼はタワーシールドを構え、全身から闘気を放ちながら、迫り来るレイスの群れに向かって咆哮した。
「運営の理不尽な嫌がらせがなんだ! 現実のクソ上司の無茶振りに比べれば、こんな死霊ども可愛いもんですぜ! ここは俺が食い止めます! 【金剛の構え】ェェッ!!」
シシオウの防御スキルが発動し、彼を黄金の障壁が包み込む。
先ほどのレイドボス・ベヒーモスの直撃すら耐え抜いた、サーバー最強の防御力である。彼がヘイトを稼いでいる間に活路を見出す。それがセオリーだった。
だが。
スゥゥッ……。
先頭を漂っていた一体のアビス・レイスが、シシオウの構えたタワーシールドに大鎌を振り下ろした。
金属と金属がぶつかる音は、しなかった。
大鎌は、シシオウの分厚い盾を、そして黄金の障壁を、まるで空気を切るように『すり抜け』て、シシオウの肩の鎧へと音もなく触れたのだ。
「……え?」
シシオウの口から、間抜けな声が漏れた。
物理攻撃無効。それはつまり、相手からの攻撃もまた「物理的な防御を無視する(防御力貫通)」という、最悪の特性を持っていることを意味していた。
ジュワァァァァッ!!
「が、ぎゃあああああああああああっ!?」
シシオウの悲鳴が地下室に木霊した。
レイスの大鎌が触れた瞬間、シシオウの最大HPがゴリッ!と半分消し飛び、さらに強烈な【呪い(回復量半減)】のバッドステータスが彼の頭上に点灯した。
「シシオウさん!! くっ、【完全回復】ですわ!」
リンが慌てて最高位の回復魔法を詠唱し、緑色の光がシシオウを包む。
しかし、普段なら一瞬でHPを最大まで戻すはずのリンの魔法は、呪いのデバフによって威力を殺され、シシオウのHPバーをわずかに回復させるにとどまった。
「嘘だろ……! あのリンさんの回復が追いつかない!? それに、シシオウさんの防御が全く意味をなしてない!」
コウタが顔面を蒼白にして後ずさる。
「だ、ダメです……! 俺の盾じゃ、こいつらを押し留めることが……! 攻撃が、全部すり抜けて……!」
シシオウは膝をつき、二撃目の大鎌を避けることすらできずに、HPがレッドゾーンへと叩き落とされた。
サーバー最強の重戦士が、たった数秒で無力化されたのである。レベル差と、システムによる『絶対的な相性(理不尽)』の前に、プレイヤーのテクニックは無に等しかった。
「いやだ……いやだ! 死にたくない! 一千万円が……俺たちの一千万円が消えちゃうぞぉぉぉっ!!」
コウタはパニックになりながら、インベントリから手当たり次第にポーションや魔法石を投げつけるが、レイスの群れはそれらをすべて透過し、一切のダメージを受けずにジリジリと距離を詰めてくる。
完全なる絶望。
運営が悪意を持って投下した「絶対に勝てない敵」。
これで終わりだ。ツムギたちはここで全滅し、一億ゴールドの賞金は夢と消える。
クロノスがモニタリングルームで勝利を確信した、まさにその時だった。
「……あれ?」
絶体絶命の危機において。
最後尾に立っていたツムギだけが、コウタのように取り乱すこともなく、シシオウのように絶望することもなく、ただ静かに『首をコテンと傾げていた』のである。
「ねえ、ちょっと待って」
ツムギは初期装備の木の棒をだらんと下げたまま、じっと目を凝らして、迫り来るアビス・レイスたちの『陣形』を観察し始めた。
「ゆ、結城!? 何やってんだよ! 早く逃げる方法を考えないと、本当にデスペナでポイントが全部パーになるぞ!」
「うるさいわね、ちょっと黙ってなさい」
ツムギはコウタをピシャリと黙らせると、ブツブツと独り言を呟き始めた。
「……前方に三体。壁の中に半身を隠して、両サイドから挟み撃ちにしようとしてるのが二体。……そして、私たちの真上の天井に張り付いて、魔法を撃ち下ろそうと待機してるのが一体」
ツムギの瞳孔が、スッと収縮した。
「普通、AIが操作するモンスターは、プレイヤーに対して最短距離で真っ直ぐ突っ込んでくるか、ランダムにターゲットを散らすかのどっちかよ。……でも、こいつらの動きは違う。完全に『統率』されてる。それも、ただ殺すためだけじゃない。相手に『どこにも逃げ場がない』というプレッシャーを与えて、精神的にすり潰すための、極めて悪趣味で陰湿な配置……」
ツムギの脳裏に、強烈なフラッシュバックが走る。
四年前。異世界で魔王軍と戦う前の、地獄の訓練期間。
あの宮廷魔術師は、ツムギの空間認識能力と精神力を鍛える(という名目でいたぶる)ために、召喚した使い魔をけしかけてきた。
その時の使い魔の配置パターンが。
前方に三、側面に二、頭上に一。
「……」
ツムギの唇が、ゆっくりと、しかし確実に、三日月のような獰猛な弧を描いて吊り上がっていった。
「ゆ、結城……? お前、なんで笑って……」
コウタが震える声で尋ねる。
恐怖からではない。先ほどまでの一千万円に対する狂気的な笑いでもない。
それは、長年の宿敵の「手口」を完全に見破った、最高に邪悪で、最高に黒い笑みだった。
「なるほどね……。クロノスの奴、焦りすぎて手動操作に切り替えたわね」
ツムギは木の棒を両手で強く握りしめ、レイスの群れに向かって、一歩、堂々と踏み出した。
「この陰湿な配置パターン。そして、少し遅れて挟み撃ちにしてくる嫌らしい出現タイミング。……間違いないわ。これ、あのクソジジイが私をしごいてた時と、一ミリの狂いもなく『全く同じ陣形』じゃないの」
相手がただのシステムAIのモンスターであれば、ステータスの暴力の前になす術はなかったかもしれない。
しかし、相手の中身が、かつて自分に地獄を見せた「あの男」の思考回路そのものなのだとしたら。
「あーあ。残念だったわね、クロノス」
ツムギは、レイスの群れ――その向こう側にいる運営の神に向かって、挑発的に笑いかけた。
「あんたの考えること(思考の癖)なんて、四年間散々付き合わされた私には、手に取るようにお見通しなのよ」
絶望の淵で、少女の瞳に『¥』マークが再び猛烈な勢いで燃え盛る。
運営による最強の嫌がらせ(理不尽)を、異世界のブラック労働の記憶(実体験)で迎え撃つ。
一千万円を巡る、ツムギとクロノスの直接対決が、ここに勃発しようとしていた。




