第33話:ブラック労働の記憶と隠しギミック〜王都の地下迷宮とドブ掃除の果てに〜
王都アルカディアの地下に広がる、広大かつ複雑怪奇な大下水道。
地上の白亜の城壁と美しい石畳の街並みとは完全に隔絶された、王都の生活排水と汚水が全て流れ込む暗部にして、最大の不浄地帯である。
当然のことながら、日の光など一切届かない。松明の心許ない明かりだけが頼りの薄暗い空間には、鼻の粘膜を直接殴りつけるような強烈な腐臭と、ヘドロの匂いが充満していた。
「……っ! 汚い! くさい! なんでこんな所にぃぃっ!」
膝下まである茶色く濁った汚水の中を歩かされながら、村娘の服を着た東山凛(アバター名:リン)が、両手で鼻を強くつまんで涙声で悲鳴を上げた。
現実世界では筋金入りのお嬢様であり、ゲーム内でも常に清潔で高貴な魔術師ローブに身を包んでいた彼女にとって、この劣悪な環境はまさに地獄そのものであった。
「ツムギお姉様! わたくし、お姉様のためなら火の中水の中、どこへでもついていく覚悟はありますけれど……このドブ泥の中だけは、精神への継続ダメージが大きすぎますわぁっ!」
「我慢しなさい、リン。一千万円(一億ゴールド)の札束を掴むためには、泥水すするくらいの覚悟が必要なのよ。ほら、足元に沈んでる汚泥スライムの死骸につまずかないようにね」
先頭を爆走する結城紬(アバター名:ツムギ)は、リンの悲鳴を完全に無視して、バシャバシャと豪快な水音を立てながら迷宮のような水路を突き進んでいく。
その顔に嫌悪感は一切ない。むしろ、水を得た魚のように生き生きとしており、汚水を跳ね上げることすら厭わなかった。
「おい結城……! いくらなんでもペースが早すぎるって! ここ、道が複雑すぎて完全に迷路じゃないか! マップアプリを開いても、地下すぎて現在地がエラーになってるぞ!」
重たい荷物袋を背負わされた相沢航太(アバター名:コウタ)が、息を切らしながらツムギの背中を追う。
コウタの言う通り、王都の地下下水道は、何層にも重なり合う立体交差と、無数の分岐路が網の目のように入り組んだ完全なる『迷宮』だった。初見のプレイヤーであれば、開始数分で方向感覚を失い、一生出られなくなるような悪辣なレベルデザインである。
しかし。
ツムギは一切の躊躇なく、右へ左へ、あるいは隠し通路のような細い水路へと、ノータイムで的確なルート選択を続けていた。
『ちょっとツムギ! 私のナビゲーションシステムより早く曲がらないでよ! あんた、どうしてこの下水道の構造が分かるのよ!? ここ、ゲーム内でも未踏破エリアのはずなんだけど!』
ツムギの肩に浮かぶナビゲーションAI『エクレア』すらも、ツムギの異常な空間把握能力に驚愕の声を上げていた。
「どうしてって? 当然じゃない。ここは私の『かつての職場』なんだから」
『は? 職場?』
「そうよ。この下水道はね、私が勇者として異世界に召喚されて、一番最初に任された仕事場(ブラック労働の現場)なの」
ツムギは松明を掲げながら、忌々しそうに、だがどこか懐かしそうに呟いた。
ツムギの脳裏に、四年前の地獄のような記憶が鮮明にフラッシュバックする。
――異世界に召喚された直後、まだ右も左も分からない十歳の少女だったツムギ。
伝説の勇者として歓待され、聖剣を授かり、華々しい冒険の旅に出る。……そんなお約束のファンタジー展開を夢見ていた彼女を待っていたのは、宮廷魔術師による血も涙もないブラック労働だった。
『よいか勇者! 勇者たるもの、まずは王都のインフラを理解し、民の生活の基盤を守る下積みから始めよ! 今日から一ヶ月間、王都地下下水道の清掃、魔物の駆除、および水路の完全マッピングを命ずる!』
与えられたのは、ボロボロの清掃服と、一本の木の棒。そして羊皮紙とペンだけだった。
明かりもない真っ暗な迷宮。首まで汚水に浸かりながら、湧き出るネズミやスライムを泥だらけになって叩き潰す日々。
少しでもサボれば、クロノスの魔法によるお仕置きが待っている。三日三晩下水道に閉じ込められ、腐った泥水をすすって飢えを凌いだこともあった。匂いが体に染み付き、宿屋の亭主に塩を撒かれ、泣きながら川で体を洗った夜。
その過酷すぎる精神的・肉体的虐待の果てに、ツムギの脳内には、王都の地下水路の三次元マップが『ミリ単位』で完全に焼き付けられることとなったのである。
「あのクソジジイ(クロノス)……。勇者の試練とか適当なこと言って、ただ清掃業者の予算をケチりたかっただけなのを、私は後から知ったわ。あの時の私の時給、換算したらたったの『銅貨三枚(30円)』だったのよ! 未成年の不法労働もいいところだわ!」
ツムギがギリィッ!と奥歯を噛み鳴らすと、その殺気(金への執着と怨念)に当てられて、下水道の奥から現れた巨大ネズミのモンスターが「キュゥッ!?」と怯えて逃げ出していった。
「そ、それは酷すぎますわ……! いくらなんでも、十歳の少女にドブ掃除を強要するなんて!」
リンが同情の涙を浮かべる。
「姉御ォッ! その理不尽なブラック労働を耐え抜いたからこそ、今の鋼のような精神力があるのですね! 俺も、会社で上司に理不尽な残業を押し付けられた時のことを思い出して、胸が熱くなりましたぜ!」
シシオウ(三十代社畜)が、謎の共感を覚えてタワーシールドを胸に抱いた。
「まあ、過ぎたことはどうでもいいわ。重要なのは、あの地獄のドブ掃除のおかげで、私はこの王都の『最大の秘密』を知っているってことよ」
ツムギはニヤリと極悪な笑みを浮かべ、さらに水路の奥深くへと歩みを進めた。
そして数十分後。
入り組んだ水路の最奥部、水流がせき止められている巨大なレンガ造りの壁の前で、ツムギは足を止めた。
「着いたわ。ここよ」
ツムギが壁のレンガの一つ――表面にわずかな傷がついたレンガを力強く押し込むと、ゴゴゴゴォォ……という重々しい音とともに、壁の一部が隠し扉のように回転して開いた。
コウタたちが恐る恐る中を覗き込むと、そこにはドブ泥とは無縁の、乾いた空気が漂う巨大な機械室が広がっていた。
部屋の中央にそびえ立つのは、巨大な歯車と太いチェーンで構成された、年代物の制御装置。そして、そこから突き出しているのは、大人が三人で抱え込むほど太い、サビだらけの『巨大な鉄のレバー』だった。
「な、なんだこれ……? 下水道の奥に、こんな巨大な機械があるなんて……」
コウタが呆然と呟く。
「これはね、王都アルカディアがまだ魔族の侵攻に晒されていた古代に作られた、『防衛用大水門』の制御レバーよ」
ツムギは松明を掲げ、巨大レバーの前に立った。
「王都の地下には、有事の際に備えて莫大な水量の地下水脈がせき止められているの。もし城壁が突破されそうになった時、このレバーを引けば……溜まりに溜まった地下水が、隠し水路を通って城壁の外の平原へと、一気に『鉄砲水』となって放出される仕組みになってるわ」
「て、鉄砲水……!? じゃあ、それを作動させれば……」
コウタの顔が青ざめる。
ツムギは瞳孔を開き、血走った目で高らかに宣言した。
「そうよ! 今、城壁の外でウジャウジャと群がってる数万のモンスターどもは、この水攻めで一切の抵抗もできずに濁流に飲み込まれて全滅する! そして、その討伐判定は、ギミックを作動させた私たちパーティが【完全独占】するのよ!!」
「あ、悪魔だ……! 文字通り、何万人ものプレイヤーの努力とポイントを、水に流して全部一人占めにする気だ……!」
コウタが頭を抱えて悲鳴を上げた。一億ゴールド(一千万円)というニンジンを前にしたツムギは、もはや他プレイヤーへの配慮など一ミリも持ち合わせていない。
「さあ、一千万円の蛇口をひねるわよ! 手伝いなさい!」
ツムギは巨大な鉄のレバーに両手をかけ、足を踏ん張って思い切り手前に引っ張った。
しかし。
「……ぐ、ぐぐぐぐっ……! チィッ、ビクともしないわね」
レバーは、数ミリたりとも動かなかった。
何百年間も放置されていた鉄の塊は、完全にサビで固着してしまっていたのだ。
「お姉様! わたくしも手伝いますわ!」
「俺の筋力ステータスを見せてやりますぜ!」
リンとシシオウも駆け寄り、三人で力を合わせて引っ張るが、レバーは微動だにしない。
『ダメよツムギ! このレバー、システム上で【重度のサビによるロック状態】に設定されてるわ! ステータスの筋力によるゴリ押しじゃ絶対に動かない仕様よ! 専用の潤滑油アイテムを持ってこないと……』
エクレアがシステムデータを読み取りながら警告する。
「専用の潤滑油? そんなの街の道具屋まで買いに戻ってたら、防衛戦が終わっちまうわよ! クロノスの奴、相変わらず陰湿なギミックの作り方をするわね!」
ツムギは舌打ちをしてレバーから手を離した。
一刻を争うこの状況で、お使いクエストなどやっている暇はない。地上では、今この瞬間にも他のプレイヤーたちがチマチマとポイントを稼いでいるのだ。
「……こうなったら、現地調達するしかないわね」
ツムギは振り返り、悪魔のような笑みを浮かべてコウタを指差した。
「相沢くん! インベントリに入ってる『アレ』を全部出しなさい!」
「え? アレって?」
「さっき水路を爆走してる途中で倒した、汚泥スライムからドロップした『スライムの体液』よ!」
「はあああ!? スライムの体液!? あんなドブ臭いだけのゴミアイテムを何に使うんだよ!」
コウタが叫ぶが、ツムギは完全に目が座っていた。
「あれだけドロドロで油分を含んでるんだから、極上の『潤滑油』の代用品になるはずよ! 物理演算エンジンが完璧なら、摩擦係数の計算で絶対にロックを解除できるわ! ほら、早く出して! 私の現金が逃げちゃうでしょ!」
ツムギの理不尽な(しかし物理的には理にかなった)要求に、コウタは泣く泣くインベントリから、ドロドロの緑色の『スライムの体液』を大量に取り出した。
バシャァッ!と地面にぶちまけられた体液からは、下水道の臭いを濃縮したような最悪の悪臭が漂う。
「リン! デカブツ! あんたたちもこれを素手で掴んで、歯車の隙間とレバーの根元にビッシリと塗りたくりなさい!」
「えっ……こ、これを……素手で、ですの!?」
さすがのリンも、ドブ臭いスライムの体液を前に顔を引き攣らせた。
しかし、ツムギの「一千万円のためよ! 気合を入れなさい!」という怒号を聞いた瞬間、彼女の中の狂信者スイッチがカチリと切り替わった。
「は、はいっ! お姉様のご命令とあらば、この身が汚物にまみれようとも!」
リンは覚悟を決め、村娘の袖をまくって、両手でドロドロの粘液を鷲掴みにした。
「応ォォォッ! 俺の手に染み付いた会社への恨み辛みごと、歯車に塗り込んでやりますぜ!」
シシオウも雄叫びを上げながら、巨体を屈めて粘液を掬い上げる。
トップギルドのマスター(お嬢様)と、サーバー最強の盾(三十代社畜)が、悪臭を放つスライムの体液を素手で掴み、サビだらけの巨大な歯車に一心不乱に塗りたくっていく。
ツムギもまた、初期装備をドロドロにしながら「もっと奥まで塗り込みなさい! 摩擦係数を極限まで下げるのよ!」とブラック現場監督さながらの指示を飛ばし、自らも手を動かす。
「……絵面が汚すぎる。これが賞金一億円を狙うトッププレイヤーたちのやることなのか……?」
コウタは胃薬をボリボリと噛み砕きながら、その狂気に満ちた「汚水まみれの必勝法」の準備作業を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
数分後。
巨大なレバーの根元と歯車は、スライムの体液によって緑色にテカテカと光り輝いていた。
「よしっ! 塗り終わったわ! 粘液がサビの奥まで浸透したはずよ!」
ツムギはドロドロになった両手を拭うこともせず、再びレバーの前に立った。
「リン、デカブツ、手伝いなさい! 私の合図で一気に引くわよ!」
「はいっ!」
「応ッ!」
三人がレバーに手をかけ、息を合わせる。
『ツムギ! 地上の防衛戦、前衛が崩壊し始めて、正門が突破される寸前よ! 今引けば、モンスターの大群を一番密集した状態で水攻めにできるわ!』
エクレアがシステムログを確認しながら叫んだ。
「完璧なタイミングね……! さあ、行くわよ! 一千万円の蛇口、全開!!」
ツムギの号令とともに、三人が渾身の力を込めてレバーを手前に引き下ろす。
スライムの体液による物理演算のハック(摩擦抵抗の劇的な減少)が、システムで設定された『サビのロック状態』の数値を強引に上書きし、突破した。
――ギギギ……ガコォォォォンッ!!
何百年間も動くことのなかった大水門のレバーが、重々しい音を立てて、ついに奥まで完全に押し込まれた。
その瞬間。
王都アルカディアの地下全体が激しく振動し、ズゴゴゴゴォォォォォンッ!!!という、大地を引き裂くような凄まじい轟音が響き渡った。
「あーっはっはっはっはっ!! 流れろ! 流されろモンスターども! そして全て私の防衛ポイント(札束)へと変わるのよぉぉぉっ!!」
泥とスライムの粘液にまみれた守銭奴少女が、暗い下水道の底で、悪魔のような高笑いを上げる。
地下に蓄えられていた莫大な水量の水脈が、今、開かれた水門を通って、城壁の外の平原へと向かって解き放たれたのだ。
地上で繰り広げられている、何万人ものプレイヤーによる熱狂的な防衛戦。
その光景が、たった一つのギミックによって完全な『理不尽』へと塗り替えられる瞬間が、いよいよ訪れようとしていた。




