第31話:1億円のニンジンと目の色が変わる中学生
現実世界、結城紬の自室。
六畳間の壁という壁は、大人気アイドルグループ『ギャラクシー・ボーイズ』のポスターで隙間なく埋め尽くされている。特にセンターを飾るメンバーカラー真紅の絶対的エース・リュウくんのポスターは、四方の壁だけでなく天井にまで貼られており、部屋のどこを見ても彼と目が合うという、ある種の狂気を感じさせる空間となっていた。
紬は今、ベッドの上に正座し、スマートフォンと銀行の通帳を交互に見比べながら、至福のため息を漏らしていた。
「ふふっ……へへへっ……。通帳の残高、三百八十五万四千三百三十円……。夢じゃない、本当に現実の数字なのよね……」
VRMMO『アルカディア・オンライン』の未実装エリアから根こそぎ強奪したレアアイテム群をオークションで売り捌き、それをRMTで現金化した結果である。
中学生のお小遣い月三千円からすれば、天文学的とも言えるこの大金。
紬の頭の中では、すでにこの資金をどうやって推しに還元(課金)するかの完璧なロードマップが出来上がっていた。
「まずは今月末から始まる全国ツアー! 東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、全五公演のSS席チケットは、転売ヤーから札束でぶん殴ってでも買い占める! 移動は全て新幹線のグリーン車か飛行機のプレミアムクラス。宿泊は五つ星ホテルのスイートルーム! そして物販のグッズは、各会場で上限ギリギリまで全種類買い占めて、痛バッグを十個は作るわ! ああ……最高……! 資本主義って本当に素晴らしいわね!」
紬は通帳の印字部分にスリスリと頬ずりをしながら、この世の春を謳歌していた。
かつて異世界で四年間、魔王軍を相手にタダ働きさせられ、泥水をすすって生きてきたあの地獄の日々が、今こうして現金の力によって完全に報われている。彼女の強欲な魂は、これ以上ないほどの充足感に包まれていた。
「よしっ! でも、ここで満足して立ち止まるような三流の推し活オタクにはならないわよ! 推しの輝きは無限大! ならば私の資金力も無限大でなければならないのよ!」
紬はパンッと両頬を叩いて気合を入れ直すと、ベッドの横に置いてあるVRヘッドセットを手に取った。
「さあ、今日も今日とてアルカディア・オンライン(ATM)へ出勤よ! 運営のヘソクリ、まだまだ隠されてるはずなんだから!」
彼女は一切の躊躇なくヘッドセットを装着し、仮想現実の世界へとダイブした。
◇ ◇ ◇
視界が晴れると、そこはいつもの商業都市ロンデルの中央広場だった。
アバター名【ツムギ】となった彼女がログインした瞬間、すぐさま三つの影が駆け寄ってきた。
「ああっ! ツムギお姉様、お待ちしておりましたわ!」
「姉御ォッ! おはようございます! 本日の俺のタワーシールドは、昨日よりもさらに分厚く磨き上げておきましたぜ!」
「……お、おはよう結城。今日も朝から元気そうだな……」
村娘の服を着たトップギルドマスター・東山凛(アバター名:リン)、二メートル超えのライオンの重戦士・シシオウ、そして重たい荷物袋を背負わされたクラスメイトの相沢航太(アバター名:コウタ)である。
リンとシシオウは、ツムギを教祖のごとく崇め奉る狂信者と化しており、その瞳はキラキラと輝いている。対照的に、コウタの顔は慢性的な胃痛とストレスにより土気色をしていた。
「みんな、おはよう! 今日もいい天気ね。絶好の荒稼ぎ日和だわ」
ツムギは初期装備の『木の棒』を肩に担ぎ、満足げに周囲を見渡した。
「さて、エクレア! あんた、ちゃんと仕事してるわよね?」
ツムギが右肩の虚空に向かって声をかけると、パッと光の粒子が集まり、手のひらサイズの妖精ホログラム――ナビゲーションAIのエクレアが姿を現した。
『も、もちろんよツムギ様……! 昨日の隔離宝物庫への不正アクセスログは、全てシステム側の自動修復エラーとして完全に隠蔽しましたぅ……! クロノスの奴、今頃運営ルームで原因が分からなくて胃薬ガブ飲みしてるはずよ……』
エクレアは涙目で報告した。彼女はかつての光の大精霊でありながら、ツムギに過去の黒歴史(全裸で白鳥の湖事件)を握られ、今や完全にシステム側の裏口を開けるための便利ツールと成り下がっていた。
「よくやったわエクレア! ご褒美に後でシステム内で最高級のショートケーキを買ってあげるからね」
『ホント!? やったぁっ! ……って、なんで私がこんなことで喜んでるのよぉ……! 私の大精霊としての尊厳が……!』
エクレアが空中でジタバタと暴れるが、ツムギはそれを無視してコウタに向き直った。
「さあ相沢くん、今日はどこに行く? エクレアの情報によれば、東の砂漠エリアに隠しオアシスがあって、そこに高額で売れる『幻の霊薬』が――」
ツムギが次なる金策プランを語ろうとした、まさにその時だった。
――ファンワォォォォォォンッ!!!
突然、アルカディア・オンラインの空全体が、金と銀のまばゆい光に包まれた。
ロンデルの街を歩いていた数千人のプレイヤーたちが、一斉に足を止めて上空を見上げる。
陽気だった街のBGMがフェードアウトし、代わりに国を挙げての祭典を思わせるような、壮大で勇壮なオーケストラのファンファーレが鳴り響き始めた。
「な、なんだ!? 何が始まるんだ!?」
「空が光ってるぞ! また大型イベントか!?」
コウタも慌てて上空を指差す。
光り輝く空をキャンバスにして、これまでにないほど巨大で派手なシステムウィンドウが浮かび上がった。そして、全プレイヤーの脳内に直接、運営からの公式アナウンスが響き渡る。
『アルカディア・オンラインをプレイ中の全ての冒険者に告ぐ!』
『これより、サービス開始以来最大規模となる超大型公式イベント――【王都防衛戦】の開催を宣言する!』
「王都防衛戦……?」
ツムギが眉をひそめて呟いた。
アナウンスはさらに続く。
『王都アルカディアの周囲に、未曾有のモンスターの大群が押し寄せている。プレイヤー諸君には、他のプレイヤーと協力し、王都の城壁を死守していただきたい!』
『本イベントは全プレイヤー参加型となる。モンスターを討伐するごとに【防衛ポイント】が付与され、最終的な獲得ポイントによって全プレイヤーのランキングが決定される!』
「なるほどね、よくある防衛戦イベントか。ポイント稼いでアイテムと交換するヤツね。面倒くさいし、人が多すぎるところは時給が下がるからパスかな……」
ツムギは欠伸を噛み殺しながら、早々にイベント不参加の判断を下そうとした。彼女にとって、大勢のプレイヤーが群がるイベントは、美味しい獲物を取り合うレッドオーシャンでしかないからだ。
しかし。
次の瞬間、運営のアナウンスが発した言葉が、ツムギの脳天に雷のような衝撃を落とした。
『――なお、本イベントの報酬について説明する』
『上位入賞者には限定の強力な武具や称号が与えられる。そして……見事ランキング第一位に輝いたプレイヤー、またはパーティには、運営からの特別表彰として……!』
ゴクリ、と。広場のプレイヤー全員が唾を飲み込む。
『賞金総額、驚愕の【一億ゴールド】!! 第一位の報酬として、破格の現金換算レートを適用し、実質的な現金報酬を授与する!』
『繰り返す! 賞金総額は一億ゴールド! 一位報酬は破格の現金換算となる! 冒険者諸君、札束……いや、名誉のために奮って参加していただきたい!』
――静寂。
ほんの一瞬だけ、ロンデルの街が完全な沈黙に包まれた。
そして次の瞬間。
「うおおおおおおおおおおおおおっっ!!!」
「い、一億ゴールド!? 現金換算で……い、一千万円だとぉぉぉっ!?」
「マジかよこの運営! 頭おかしいんじゃねえの!? ゲームのイベントで現金一千万バラ撒くとか、どんな大盤振る舞いだよ!」
「絶対俺が取る! ギルドメンバー全員招集しろ! 会社なんて休んでる場合じゃねえ! 人生逆転のチャンスだぞ!!」
広場は、爆発的な狂乱と熱狂の渦に飲み込まれた。
プレイヤーたちの目が一瞬にして血走り、誰も彼もが武器を掲げて「王都へ急げ!」と絶叫しながら、転送ゲートへと向かって猛ダッシュを始めたのだ。
無理もない。ゲームを遊ぶだけで一千万円という莫大な現金が手に入るかもしれないのだ。宝くじよりも現実味のあるその「ニンジン」は、ゲーマーたちの理性を完全に焼き切るのに十分すぎる破壊力を持っていた。
「す、すげえ……! 賞金一億円って、Eスポーツの世界大会レベルじゃないか! アルカディア・オンラインの運営、どんだけ資金力あるんだよ……!」
コウタも信じられないといった様子で、空中のウィンドウを見上げている。
「……」
その横で。
ツムギは、まるで彫像のようにピタリと固まっていた。
「おい、結城? どうした? まさかお前も参加する気か? でも、全プレイヤー参加型ってことは、トップギルドの連中が総動員でポイント稼ぎに来るんだぞ。俺たち四人だけのパーティじゃ、いくらお前が強くても数の暴力には勝てないんじゃ……」
コウタが不安げに声をかけた、その時。
ツムギの体が、ブルブルと小刻みに震え始めた。
恐怖ではない。それは、マグマのように内側から湧き上がる、極限の感情の爆発を抑えきれない震えだった。
「……いちおく……。いちおくゴールド……」
ツムギが、ゆっくりと顔を上げた。
コウタは「ヒッ!?」と短い悲鳴を上げて後ずさった。
ツムギの顔。
それは、もはや人間の少女の顔ではなかった。
両目は限界まで見開かれ、白目にはおびただしい数の血走った血管が浮き出ている。そしてその瞳孔のど真ん中には、地獄の業火のように燃え盛る、信じられないほど巨大な『¥』マークが、バッチリと刻み込まれていたのだ。
「いっせんまんえん……。現金換算で、一千万円……ッ!!」
ツムギの口から、呪詛のような、しかし圧倒的な歓喜に満ちた声が漏れる。
「推しのライブ全通? グッズ全部買い占め? ハッ、そんなのちっぽけな夢よ! 一千万円あれば……! 一千万円あれば!!」
ツムギは両手を天に向かって突き出し、狂気に満ちた笑いを浮かべながら絶叫した。
「推しの所属事務所の株を買って大株主になれる!! リュウくんのソロデビュー企画を私が直接プロデュースできるかもしれない! いや、いっそリュウくんが住んでるタワーマンションの隣の部屋を借りて、毎日推しと同じ空気を吸うことだって夢じゃないわぁぁぁぁぁっ!!」
「い、イカれてる……! 完全にカネの亡者だ! 欲望のスケールが中学生の枠を逸脱して、ストーカーの一歩手前まで行ってるぞぉぉぉっ!!」
コウタが頭を抱えて悲鳴を上げる。
しかし、ツムギの狂気は誰にも止められなかった。
彼女の全身から、かつて魔王と対峙した時ですら見せなかったような、恐ろしいほどの闘気(という名の強欲オーラ)が立ち昇っている。
その気迫に当てられ、周囲の一般プレイヤーたちですら「な、なんだあのガキ……ヤバいオーラ出てるぞ……」と道を空けるほどだった。
「お、お姉様……? なんだか、いつにも増して神々しいオーラが……!」
リンが、ツムギの変貌ぶりに圧倒されながらも、恍惚とした表情で両手を組む。
「姉御ォォッ! その殺気……いや、金気! 俺の胃袋が震えるほどのプレッシャーです! 今日の姉御は、マジでヤバい!」
シシオウも、タワーシールドを構えながら武者震いをしている。
コウタの直感が、最上級の警告アラームを鳴らしていた。
(ダメだ……今日の結城は、本当にヤバい。今までは『効率よく稼ぐ』だったのが、完全に『世界中のお金を全て自分の口座に吸い上げる』モードに入ってやがる……! このままじゃ、このイベント自体が結城一人にぶっ壊される!)
コウタが逃げ出そうと一歩後ろに下がった瞬間。
ツムギの右手が、コウタの襟首を万力のような握力でガシィッ!と掴んだ。
「逃がさないわよ、相沢くん(歩くアイテム倉庫)。一千万の現金がかかった超大型案件よ。当然、フルタイムで残業ありの休日出勤よ。労基なんてこの世界にはないんだから、死ぬ気で働きなさい」
「ひぃぃぃぃぃぃっ! 俺の胃袋がぁぁぁぁっ!」
ツムギは木の棒をバットのように肩に担ぎ直し、血走った目で王都のある方角を睨みつけた。
「行くわよ、野郎ども! 目標、王都アルカディア! そこに群がるモンスターどもは一匹残らず私の『ポイント(現金)』よ! 他の廃人ギルドどもに一円たりとも渡さないわ! この王都防衛戦、私が一人で完全独占してやるんだから!!」
「応ォォォォォォッ!!」
「お姉様についていきますわぁぁぁっ!!」
「俺は行きたくないぃぃぃぃっ!!」
一億円という巨大すぎるニンジンをぶら下げられ、完全に目の色が変わった強欲中学生。
洗脳済みのATMと肉の盾、そして胃薬常備の荷物持ちを引き連れた、最凶最悪のカオスパーティが、賞金総額一億円の公式イベントという巨大な舞台へと、容赦なくその牙を剥き出しにして進撃を開始した。
運営の思惑を根底から粉砕する、泥と汚水にまみれた『必勝法』の幕開けである。




