第21話:蘇る徹夜のトラウマ〜地揺らしの巨獣と五百万ゴールド〜
商業都市ロンデルの朝は早い。
現実世界からダイブしているプレイヤーたちの多くは、学校や仕事前のわずかな時間を惜しんでログインし、アイテムの整理やデイリークエストの消化に奔走している。活気に満ちた石畳のメインストリートには、様々な装備に身を包んだアバターたちが行き交っていた。
そんな喧騒の中、街の中央広場にある噴水の縁に腰掛け、優雅な朝のティータイムを満喫している奇妙な三人組がいた。
「ツムギお姉様! 本日の朝食はいかがでしたか? もしお気に召さなかったようであれば、すぐに別の星付きシェフNPCをギルドの権力で叩き起こしてまいりますわ!」
村娘の粗末な服を着た金髪縦ロールの美少女――元トップギルドマスターの東山凛(アバター名:リン)が、目をキラキラと輝かせながら、隣に座る小柄な少女の肩を揉んでいた。
「うーん、悪くはなかったわね。でも、昨日の夜に食べた『ドラゴンステーキ』の衝撃に比べたら、今朝の『霊鳥の卵のトリュフオムレツ』は少しパンチが足りなかったかしら」
「申し訳ありませんわ! 明日の朝は、もっと希少な食材を仕入れておきます! お支払いは当然、全てこの歩くATMのプライベート口座から引き落としますので、お姉様の資産は一円たりとも減りませんわ!」
「よろしい。あんた、ホントに話が早くて助かるわ」
初期装備の布の服を着た結城紬(アバター名:ツムギ)は、満足げにふんぞり返り、リンが淹れた食後の高級ハーブティーをズズッと啜った。
自分の腹は一切痛まめず、他人の金で食う極上のバーチャル飯。これほど美味いスパイスはこの世に存在しないだろう。ツムギの頭上には、目に見えない後光(という名の守銭奴オーラ)が差しているようにすら見えた。
「……お前ら、朝からよくそんな脂っこいもん食えるな……。俺、もう胃薬のアイテムが手放せないよ……」
三人組の最後の一人、相沢航太(アバター名:コウタ)は、噴水の反対側で青白い顔をしながら【胃腸薬(下級)】というバッドステータス回復アイテムをボリボリと噛み砕いていた。
本来なら楽しくファンタジー世界を冒険するはずだったのに、気がつけば強欲なクラスメイトの荷物持ちにされ、さらには洗脳されたお嬢様が嬉々として金を貢ぐという、教育上極めてよろしくない光景を延々と見せつけられているのだ。ストレスでHPの最大値が減っていくような錯覚すら覚えていた。
「相沢くんも遠慮せずにATMのお金で食べればよかったのに。せっかくタダなんだから」
「タダより怖いものはねえって、ばあちゃんが言ってたんだよ! 俺は自分でスライムを狩って稼いだ50ゴールドの黒パンで十分だ!」
コウタが涙目で叫んだ、まさにその時である。
――ファンワォォォォォォン……ッ!!
突如として、アルカディア・オンラインの空全体が、血のような赤色に染まった。
陽気だった街のBGMがブツリと途切れ、代わりに心臓の鼓動を急かすような、重厚で緊迫感のあるオーケストラの音楽が世界中に鳴り響き始めた。
ロンデルの広場にいた数千人のプレイヤーたちが、一斉に空を見上げる。
「な、なんだ!? イベントか!?」
「空が赤いぞ! システムアラートが鳴ってる!」
コウタも慌てて立ち上がり、上空を指差した。
赤い空をキャンバスにして、巨大なシステムウィンドウが、まるで神の掲示のように浮かび上がったのだ。
『全プレイヤーに告ぐ。大型アップデート【第一弾】が実装されました』
『これより、ロンデル南西の荒野エリアにて、本作初となる【高難易度レイドボス】の討伐イベントが解放されます』
そのアナウンスとともに、空中に巨大なモンスターの3Dホログラムが投影された。
それは、文字通り「動く山」であった。
体長は優に三十メートルを超え、四本の丸太のような極太の脚が大地を踏みしめている。全身は鋼鉄よりも硬そうな黒褐色の岩殻に覆われ、巨大な頭部からは、天を突くほど長大で鋭い二本の牙が伸びていた。
恐竜のトリケラトプスと、巨大なイノシシを悪魔合体させたような、圧倒的な暴力の権化。
画面の端に、禍々しいフォントでそのボスの名前が表示される。
『地揺らしの巨獣 推奨討伐人数:100人〜』
「う、うおおおっ……! なんだあいつ、デカすぎるだろ! 推奨人数百人って、マジのレイドボスじゃねえか!」
「すげえ! ついにお出ましだぜ! トップギルドの連中がこぞって参加する大イベントだ!」
広場のゲーマーたちが熱狂に包まれ、武器を掲げて歓声を上げる。
未知の強敵、大人数での共闘。これぞまさにMMORPGの華である。コウタでさえ、その圧倒的なスケールのモンスター映像を見て、ゲーマーとしての血が騒ぐのを感じていた。
「おい結城! すげえのが来たぞ! 俺たちレベルじゃ絶対足手まといになるだろうけど、見学くらいは――」
コウタが興奮気味に振り返り、ツムギに声をかけた。
しかし。
コウタの言葉は、途中でピタリと止まった。
「……え? 結城……?」
先ほどまで、他人の金で食う飯の美味さを熱く語っていたツムギの姿が、そこにはなかった。
正確に言えば、アバターはそこに存在しているのだが、彼女の「生気」が完全に抜け落ちていたのだ。
カラン……。
ツムギが常に持ち歩いていた初期装備の『木の棒』が、力なく手から滑り落ち、石畳の上を転がった。
彼女の顔面は、真っ白を通り越して土気色になっており、大きく見開かれた両瞳は、空に浮かぶ『地揺らしの巨獣』の姿に完全に釘付けになっていた。
ガタガタ、ガタガタガタガタッ。
ツムギの小柄なアバターが、まるで極寒の雪山に放り出されたかのように、激しく震え続けている。
「お、お姉様!? どうされましたの!? 顔色が最悪ですわ!」
リンが慌ててツムギの肩を抱きとめた。しかし、ツムギの震えは止まらない。
「あ……ああ……。あいつだ……。あいつが、なんでここに……」
「結城? お前、どうしたんだよ。ゲームのモンスター見て震えるなんて……」
コウタが心配そうに覗き込むが、ツムギの耳には二人の声は全く届いていなかった。
彼女の脳内を支配していたのは、四年前――彼女がまだ十一歳になったばかりの頃に異世界で経験した、地獄の底を煮詰めたような『最悪のトラウマ』の記憶だった。
『――よいか勇者! あのベヒーモスは大地を喰らい、無限に体力を回復する厄介な魔獣じゃ! 貴様の剣で、奴の体力が尽きるまでひたすら斬り続けろ!』
『む、無理だよぉ……! あんなの山じゃん! 剣なんて通じないよぉ!』
『馬鹿者! 泣き言を言う暇があるなら手を動かせ! 後方支援はワシがやってやるから、前衛で死ぬ気でタゲを取れ!』
宮廷魔術師の怒声。
降り注ぐ岩石の雨。踏み潰されれば即死という極限のプレッシャー。
何より絶望的だったのは、その『戦闘時間』だった。
ベヒーモスのHPと防御力は、当時の異世界においても完全に規格外だった。
一撃当てても、針で突いたほどのダメージしか入らない。しかし、少しでも手を休めれば、奴は瞬く間に傷を再生してしまう。
結果として何が起きたか。
――三日三晩。
七十二時間連続、不眠不休でのエンドレス戦闘である。
十代前半の子供に、睡眠も食事も与えず、ただポーション(不味い)だけを喉に流し込んで強引にスタミナを回復させながら、化け物の前で剣を振らせ続けたのだ。
泥と血と汗にまみれ、幻覚を見ながら、自分の腕の感覚すら消失していく中、ただ「ここで死んだらクソジジイに怒られる」というブラック企業顔負けの強迫観念だけで、ツムギは三日間戦い続けた。
最後に奴が倒れた時、ツムギは歓喜する余裕すらなく、そのまま泥沼の中に倒れ込んで丸二日間昏睡状態に陥った。
肉体的・精神的疲労の極致。
それが、結城紬という少女にとっての『地揺らしの巨獣』という存在だった。
「いやだ……。いやだ、いやだ、いやだ……ッ!」
ツムギは頭を抱え込み、噴水の縁にうずくまった。
「なんで……なんでまたあいつと戦わなきゃいけないのよ……! 三日間お風呂にも入れなくて、全身が岩の破片で傷だらけになって、腕が上がらなくなってもポーション飲まされて無理やり立たされて……! あんなブラック労働、もう二度とごめんだわ!!」
「ゆ、結城!? 落ち着け! なに言ってるか全然分かんないけど、ゲームだぞ!? 三日間風呂に入れないってなんだよ!」
「お姉様! しっかりしてくださいませ! あんな醜い豚の化け物、このわたくしの魔法で……!」
パニックに陥るコウタと、必死に励まそうとするリン。
しかし、PK相手にどれだけ非道な立ち回りができようと、魂に刻み込まれた本能的なPTSD(心的外傷後ストレス障害)は、そう簡単に拭えるものではなかった。
どんなにレベルが上がろうと、どんなに大金を稼ごうと、十歳の頃に植え付けられた恐怖は、ツムギの理性を完全に麻痺させていた。
「帰る……。私、ログアウトする……! もうお金なんてどうでもいい……推しのアクスタはメルカリで中古で買うから……! ゲームなんてアンインストールしてやるぅぅぅっ!」
かつて魔王を討伐した勇者が、完全に心をへし折られ、システムメニューから『ログアウト』のボタンを押そうと震える指を伸ばした。
もう何もかも投げ出して、現実の布団に引きこもりたい。その一心だった。
だが、その指がボタンに触れる直前。
上空のシステムウィンドウに、新たな文字が追加で表示され、女性のアナウンス音声が広場に響き渡った。
『なお、本レイドイベントにおける【初回討伐報酬】についてお知らせします』
『見事、ベヒーモスをこのサーバーで最初に討伐したパーティ、またはギルドには、特別報酬として以下のアイテムおよび報奨金が授与されます』
「……ん?」
ログアウトボタンを押そうとしていたツムギの指が、ピタリと止まった。
『特別報酬その一:超高額レアリティ・アーティファクト【巨獣の心臓】。こちらは公式オークションにて、最低落札価格の保証対象アイテムとなります』
『特別報酬その二:討伐ギルドへの運営からの特別報奨金――【5,000,000ゴールド】』
アナウンスが終わった瞬間。
ロンデルの広場は、先ほどのどよめきを遥かに超える、爆発的な狂乱の渦に包み込まれた。
「ご、ごひゃくまんゴールドォォォォッ!?」
「現金換算で五十万円だぞ!? おまけに超高額の確定レアアイテム付き!?」
「おい、やばいぞ! ギルドメンバー全員招集しろ! 今すぐ仕事休んでログインさせろ! このボーナスは絶対に俺たちがいただく!!」
周囲のプレイヤーたちが目の色を変えて(中にはリアルで会社に電話をかけながら)、南西の荒野へと向かって猛ダッシュを始めた。
コウタも信じられないといった顔で空を見上げている。
「す、すげえ……。ゲームのイベントで現金五十万円バラ撒くのかよ、この運営。頭おかしいだろ……。なあ、結城、これ……」
コウタが視線を下に向けた時。
彼は、この世の物理法則を無視した『奇跡』を目の当たりにした。
先ほどまで、「怖い」「帰る」「アンインストールする」と涙目でガタガタと震え、胎児のように丸まっていたはずの結城紬が。
――スッ、と。
まるで背骨に鋼鉄の芯が入ったかのように、音もなく、直立不動の姿勢で立ち上がっていたのだ。
「……え? 結城……さん?」
コウタが恐る恐る声をかける。
ツムギはゆっくりと振り返った。
その顔面は、相変わらず土気色で青ざめていた。明らかにトラウマによる吐き気と恐怖は継続している。膝もわずかに笑っている。
しかし。
その大きく見開かれた両目の瞳孔の中だけは、地獄の業火のようにギラギラと、そして強烈な輝きを放つ、巨大な『¥』マークがバッチリと刻み込まれていたのだ。
「……五百万、ゴールド……」
ツムギの口から、呪詛のような、あるいは祈りのような声が漏れた。
「現金換算で、五十万、円……。おまけに、最低落札保証付きのレアアイテム……。合わせれば、ざっと……100万円……?」
ツムギの脳内スーパーコンピューターが、トラウマという名のエラーコードを強引に上書きし、猛烈な勢いで利益計算を弾き出し始めた。
(100万円……100万円あれば……!! 『ギャラクシー・ボーイズ』の全国ツアー全通どころか! アリーナ最前列のプレミアチケットを転売屋から札束でぶん殴って買い取ることも可能! 全メンバーのアクスタ、全種のペンライト、ファンクラブの永久VIP会員権! それら全てを買っても、まだお釣りがくる……っ!!)
恐怖? ある。死ぬほど怖い。今でもベヒーモスの匂いを思い出しただけで吐きそうだ。
三日三晩の徹夜? 絶対にやりたくない。
しかし。
そんなチンケな『精神的トラウマ』など、彼女の中に眠る絶対的な『強欲(カネへの執着)』の前では、朝露のように消え去る運命にあった。
「……ふふっ。あははははっ!」
ツムギは、地面に転がっていた『木の棒』を足の甲で器用に蹴り上げ、右手でガシッとキャッチした。
そして、顔は青ざめたまま、口元だけを三日月のように歪ませて高笑いを上げたのだ。
「あーっはっはっはっは!! 現金百万円の山が、向こうから歩いてやってきたわぁぁっ!! 誰がログアウトなんかするものですか! この私が、百万円のネギを背負った豚を逃がすわけないでしょうがぁぁぁっ!!」
「い、イカれてる……! 完全に恐怖より物欲が勝った! 人間の防衛本能が、カネの力でバグりやがった!」
コウタは頭を抱えて絶叫した。
「さすがはお姉様! 恐怖など微塵も感じさせないその雄叫び、痺れますわ! わたくしも、お姉様と百万円のために全力でサポートいたします!」
リンは完全に状況を勘違いしたまま、杖を掲げて熱狂している。
「聞く耳持たねえ! カルトの教祖と信者だ、もう誰にも止められねえ!」
ツムギは木の棒をバットのように肩に担ぎ、ギラついた視線を南西の空へ向けた。
三日三晩のトラウマ? 上等だ。
あの時はタダ働きだったから辛かったのだ。今回は違う。この棒を一振りするたびに、確実に『現金』がチャリンチャリンと口座に振り込まれていくのだ。
時給が発生する労働であれば、元勇者(ブラック企業の元エース社畜)の結城紬に、越えられない壁など存在しない。
「行くわよ、相沢くん、リン! あの百万円の豚肉を、他の廃人ゲーマーどもに奪われる前に、一番美味しいところ(弱点)から根こそぎ切り刻んで、換金所へ叩き込んでやるわ!!」
「俺は行きたくないぃぃぃぃっ!」
阿鼻叫喚のコウタの襟首をガッチリと掴み、ツムギは南西のレイドエリアに向かって猛ダッシュを開始した。
トラウマという巨大な壁を、純度100%の「強欲」で物理的に粉砕した少女。
彼女の前に立ち塞がる『地揺らしの巨獣』は、果たして本当に恐怖の対象なのか、それとも哀れな「超大型ATM」に過ぎないのか。
トップランカーたちがひしめく死地の荒野で、常識外れの泥臭いレイド戦の幕が、今、切って落とされようとしていた。




