第19話:渾身のデコピンと敗北〜三十万円の装備を傷つけないための最適解〜
VRMMO『アルカディア・オンライン』の闘技場の中央。
すり鉢状の観客席を埋め尽くした数千人のプレイヤーたちが、文字通り息をするのも忘れて、眼下で繰り広げられる信じられない光景を凝視していた。
トップギルド『薔薇の騎士団』のマスターであり、レベル30間近の最強の魔法使い・東山凛(アバター名:リン)。
彼女が全魔力を注ぎ込んで放った、五十発を超える必中・必殺のホーミング魔法『紅蓮の流星雨』。
それを、初期装備の布の服を着た小柄な少女・結城紬(アバター名:ツムギ)は、まるでステップを踏むような最小限の動きだけで、全て「歩いて」回避してしまったのだ。
「あ……ああ……っ」
リンの口から、絶望の混じった小さな呻き声が漏れた。
ツムギは炎の弾幕をすり抜け、すでにリンの目の前――腕を伸ばせば届く、完全な至近距離にまで肉薄していた。
対するリンは、大魔法の詠唱と発動によるシステムの『硬直時間』に縛られており、指一本動かすことができない。逃げることも、防御魔法を展開することも不可能な、完全な無防備状態だった。
「システムのお膳立てがないとまともに魔法も撃てないお嬢様には、いい薬(教育)になったでしょ?」
ツムギは冷酷な声でそう言い放つと、右手に持っていた初期装備の『木の棒』を、ポイッと無造作に地面に投げ捨てた。
その行動に、リンは一瞬だけ呆気にとられた。
(ぶ、武器を捨てた……!? なぜ!? 私を攻撃するんじゃないの……!?)
リンが混乱する中、ツムギの頭の中では、スーパーコンピューターも顔負けの恐るべき『皮算用』が弾き出されていた。
(木の棒で殴りかかって、もしささくれが『火竜のローブ(推定100万ゴールド)』のシルク生地に引っかかったらどうするのよ。糸のほつれ一つで、オークションでの落札価格が数万ゴールドも下がっちゃうじゃない!)
そう、ツムギが武器を捨てた理由は「手加減」などという生ぬるいものではない。
目の前にいるリンを、一人の対戦相手ではなく『総額三十万円相当の高級装備を着たマネキン』として認識し、商品を一ミリも傷つけずに剥ぎ取るための【最適解】を選んだだけなのだ。
(刃物で斬りつければ血飛沫で汚れる。鈍器で殴れば装飾が凹む。……だったら、一番安全で、なおかつ確実に脳(アバターの急所判定)を揺らして一撃でHPを刈り取れる攻撃手段は……これしかないわ!)
ツムギは右手を顔の高さまで上げると、親指と中指をこすり合わせ、バネのように強く弾く形を作った。
――いわゆる『デコピン』の構えである。
「な、なによそれ……。ふざけているの……?」
「ふざけてる? 失礼ね、私はいつだって『稼ぎ』に対しては全力よ」
ツムギの瞳孔が、スッと細く収縮した。
その瞬間、ツムギの足元から、尋常ではないプレッシャーが立ち昇った。
システムに依存したスキル(発光エフェクト)ではない。純粋な、生身の肉体の使い方を極めた者だけが放つ、闘気のうねり。
異世界で四年間、魔法も聖剣も使えなかったツムギが、魔王軍の強靭な装甲を打ち砕くために身につけた理不尽なまでの物理的打撃術――『発勁』の要理。
それは、大地を踏みしめる足の指先から発生した運動エネルギーを、ふくらはぎの筋肉で増幅させ、腰の捻りで加速し、脊椎を通して肩甲骨へと伝え、最終的に右腕の末端……『中指の第一関節』という極小の一点に、全身の質量の全てを乗せて解き放つという、狂気の武術だった。
(魔法使いの最大の弱点。それは、詠唱中は足が完全に止まること。そしてもう一つ……ステータスを魔力(INT)に全振りしているせいで、物理防御力(VIT)が紙切れ同然だってことよ!)
ツムギは、硬直して動けないリンの無防備な額――純白の肌が露出しているその一点に狙いを定めた。
一切の装備を傷つけることなく、内部のシステム判定(HP)だけを完全に破壊する、最強にして最凶のデコピン。
「さあ、私のライブチケット代(慰謝料)、耳を揃えて払ってもらうわよぉぉぉっ!!」
パァァァァァァァァァァンッ!!!!!!
乾いた、しかし大砲の射撃音のような凄まじい破裂音が、闘技場の中心から巻き起こった。
ツムギの中指がリンの額を弾いた瞬間、圧縮された運動エネルギーがリンの頭蓋(アバターの当たり判定)を貫通し、その後方の空気を円状に歪ませて衝撃波を発生させた。
「あ……がっ……!?」
リンの口から、声にならない空気が漏れた。
彼女の脳裏で、何かがプツンと切れる音がした。
VRの痛覚設定は最低レベルに抑えられているはずなのに、その圧倒的な物理的衝撃の再現度により、視界がぐらりと反転し、脳が強制的にシャットダウンされるような錯覚に陥ったのだ。
リンの頭上に浮かんでいた、HP(体力)ゲージ。
魔法使いゆえに元々低かったその赤いバーが、ツムギのデコピンが命中した瞬間、信じられない速度で減少した。
100%あったHPが、50%を切り、10%を切り……。
『クリティカル・ヒット!』
赤いシステム文字が空中にポップアップすると同時に、リンのHPバーは完全に砕け散り、『0』を表示した。
ステータスの暴力とシステムのアシストを信じ切っていたトップランカーが、初期装備の初心者による「ただのデコピン一発」で、文字通り一撃で沈んだのである。
糸の切れた操り人形のように、リンの身体が崩れ落ちた。
同時に、闘技場の空中に、勝敗の決着を告げる巨大なアナウンスが浮かび上がった。
『DUEL FINISH!』
『WINNER:ツムギ』
――静寂。
数千人のプレイヤーで埋め尽くされた闘技場は、まるで時が止まったかのような、完全な無音に包まれていた。
誰もが、自分の見ている光景を理解できなかったのだ。
最強のホーミング魔法が歩いて避けられ、最強のトップランカーがデコピンで即死した。ゲームの常識が、物理演算という名の理不尽な暴力によって粉々に粉砕された瞬間だった。
『システムメッセージ:特殊条件付き決闘の勝者が確定しました。エスクロー(一時預かり)されていた賭け金とアイテムを、勝者のインベントリへ強制転送します』
システムのアナウンスとともに、倒れ伏したリンの身体から、まばゆい光の粒子が立ち昇った。
『火竜のローブ』が光となって消える。
『ミスリル銀の魔導杖』が光となって消える。
『賢者のティアラ』、『飛翔のブーツ』。
彼女が身につけていた、総額三十万円相当の高級装備一式が、システムによって強制的に剥ぎ取られていく。
全てを失ったリンのアバターに残されたのは、初期設定の際に誰もが着ている簡素な白いキャミソールとショートパンツ(いわゆるインナーウェア)だけであった。
そして。
ツムギの視界には、黄金色に輝くファンファーレとともに、莫大な報酬の獲得通知が流れ込んできた。
『1,000,000ゴールドを獲得しました』
『火竜のローブ(Epic)を獲得しました』
『ミスリル銀の魔導杖(Epic)を獲得しました』
『賢者のティアラ(Rare)を獲得しました』
『飛翔のブーツ(Rare)を獲得しました』
「……あはっ」
ツムギの口から、歓喜の吐息が漏れた。
インベントリを開けば、そこには先ほどまでリンが着ていたピカピカの装備一式と、100万ゴールドの現金データが鎮座している。
彼女はもう、観客の存在など完全に忘れていた。
「あはは……あーっはっはっはっはっ!! やったぁぁぁっ! 大勝利! 完全無欠のパーフェクト・ゲームよぉぉぉっ!!」
ツムギは闘技場の中央で、初期装備の布の服をバサバサと揺らしながら、両手を天に突き上げて狂喜乱舞のステップを踏み始めた。
彼女の頭の中では、再び猛烈な勢いでソロバンが弾かれている。
「100万ゴールドでしょ、それにこの装備一式をオークションの即決価格で流せば……安く見積もっても総額『400万ゴールド』! 現実のお金にして『四十万円』よ! さっきのPK討伐の利益と合わせたら、たった一日で八十万近い現金が……! ひぃぃぃっ、笑いが止まらないわぁぁっ!!」
推しの全国ツアーSS席全通どころか、遠征先の最高級ホテルでの連泊、全メンバーのアクリルスタンド無限回収、さらにはライブDVDの鑑賞用・保存用・布教用・予備用の四箱買いすら余裕で可能な金額である。
強欲な元勇者の顔は、もはや菩薩のように穏やかで、そしてどこまでも邪悪な至福の笑顔に染まっていた。
その光景を見て、観客席のプレイヤーたちはようやく我に返った。
『う、うわあああああああああっ!? リン様が負けたぁぁぁ!?』
『嘘だろ!? なんだよあのデコピン!? 一発でHPが全損したぞ!?』
『チートだ! 絶対チートだ! 運営は何してんだ!』
『馬鹿野郎、あの女が勝ったってことは、賭けのオッズ1000倍だぞ! 俺の全財産がパァだぁぁぁっ!』
悲鳴、怒号、そして破産したプレイヤーたちの阿鼻叫喚が、すり鉢状の闘技場に渦巻く。
その最前列で。
相沢航太は、手すりに突っ伏して、死んだ魚のような目で白く燃え尽きていた。
「俺は……とんでもないバケモノの封印を解いてしまったのかもしれない……。あいつはもう、勇者とかヤクザとかじゃない……。ゲームの経済を破壊する、歩く大災害だ……」
コウタの胃痛は、もはやゲームにログインしている間中、永遠に治らない慢性的なものになりつつあった。
◇ ◇ ◇
喧騒に包まれる闘技場の中央。
歓喜の舞をひとしきり踊り終えたツムギの足元で、気絶していたリンが「うっ……ん……」と小さく呻き声を上げて目を覚ました。
彼女はゆっくりと上体を起こし、自分が簡素な白いインナーウェア一枚の姿になっていることに気づいた。そして、見上げた先には、木の棒を肩に担ぎ、後光(という名の金銭的オーラ)を背負って仁王立ちしているツムギの姿があった。
「あ、貴女……」
リンは額をさすりながら、震える声で呟いた。
通常であれば、ここで敗北の屈辱と装備を奪われた怒りで発狂するか、あるいは復讐を誓って泣き叫ぶところだろう。トップギルドのマスターとしてのプライドを完膚なきまでに叩き潰されたのだから当然だ。
しかし。
リンの瞳に浮かんでいたのは、怒りでも憎しみでもなかった。
彼女の目は、信じられないものを見るように見開かれ、そして……なぜか、妙にキラキラと輝き始めていたのだ。
(……この人、システムに用意された魔法の補正なんて一切頼らずに、ただ『歩く』ことと『指で弾く』ことだけで、私の全てを凌駕してしまった……!)
リンの脳内で、先ほどの戦闘の光景がフラッシュバックする。
炎の雨を無傷で潜り抜ける、無駄の一切ない美しいステップ。
そして、己の肉体だけを信じ、純粋な物理的衝撃の極致を叩き込んだ、あの『デコピン』。
(なんて……なんて圧倒的で、無駄のない、完成された強さなの……!? 私が今まで信じていた『魔法の美しさ』なんて、システムが作ったただのお遊戯に過ぎなかったんだわ……。本当の『美しさ』とは、この人のような……!)
現実世界でお嬢様として育ち、常に頂点に君臨してきたリンにとって、「自分を圧倒的な力でねじ伏せる存在」との遭遇は、彼女の価値観を根本からバグらせるのに十分すぎる衝撃だった。
プライドが高すぎるがゆえに、それが完全にへし折られた時、反発ではなく『強者への狂信』へと変換されてしまったのである。
「約束通り、装備一式と100万ゴールドはありがたく全額没収させてもらったわよ、お嬢様。これに懲りたら、私みたいな『泥臭い初心者』に絡むのはやめることね」
ツムギは冷たく言い放ち、興味を失ったように背を向けて立ち去ろうとした。
しかし。
ガシッ!
「え?」
ツムギの足首を、インナー姿のリンが地面に這いつくばったまま、両手でしっかりとホールドしていた。
「な、なによ。負け惜しみ? お金はもうエスクローから私の口座に振り込まれたんだから、絶対に返さないわよ!」
「違います……! お金なんてどうでもいいですわ!」
リンは顔を上げ、頬を紅潮させながら、まるで神様を崇めるような熱を帯びた眼差しでツムギを見つめた。
「ツムギ様……! 私、分かりましたわ! 私が今までやってきたことは、システムに踊らされただけの浅薄なおままごとでした! 貴女のその、泥臭くも圧倒的で、無駄を削ぎ落とした真の実力……それに比べたら、私の魔法なんてただの児戯ですわ!」
「……はぁ?」
ツムギは完全に面食らった。相手が何を言っているのか、意図が全く読み取れない。
「お願いです、ツムギ様! どうか、私を貴女の弟子に……いえ、舎弟にしてくださいませ! 私に、その真の強さの極意を教えてください!」
「はあああああ!?」
ツムギの素っ頓狂な声が響き渡った。
観客席で見ていたコウタも「ええええええええ!?」と目をひん剥いて叫んでいる。
「いやいやいや! あんた、さっきまで私のこと『下品で野蛮な成金女』って罵ってたじゃない! なんでいきなりそんな慕ってくるわけ!?」
「無知ゆえの暴言でした! どうかお許しください! これからはツムギ様を『お姉様』とお呼びし、生涯お供いたしますわ!」
「いらないわよ! 私、ソロで(相沢くんというアイテム倉庫を利用して)効率よく稼ぎたいだけなの! トップギルドのマスターなんて厄介な身分、ついてこられたら目立って時給が下がるじゃない!」
ツムギは慌てて足を振り解こうとするが、リンはスッポンようにしがみついて離れない。
「ツムギお姉様! 私、お金ならたくさん持ってますわ! 私のギルドの財力と権力、全てお姉様の金策のために利用してくださって構いません! 歩くATMでも、囮でも、なんでもやりますわぁっ!」
――ピタッ。
ツムギの足が、止まった。
「……歩くATM? なんでもやる?」
ツムギの瞳孔が開き、再び『¥』マークが怪しく輝き始めた。
(……冷静に考えてみなさい。この女、レベル30間近の高ステータス。しかもギルドマスターってことは、大量の資金源と情報網を持ってる。コウタ(ただの荷物持ち)より遥かに使える『高級な壁兼回復係兼サイフ』じゃない……?)
ツムギの強欲な脳内コンピューターが、瞬時にリンの「利用価値」を再計算し、最高評価(SSR)を叩き出した。
「……ふぅん。そこまで言うなら、仲間に入れてあげなくもないわよ?」
「本当ですの!? お姉様!」
「ええ。ただし、私と組むなら、一切の常識を捨てること。そして、稼いだお宝の優先権は全て私にある。それでいいわね?」
「はいっ! 喜んでお供いたしますわ、ツムギお姉様!」
リンは満面の笑みで、インナー姿のままツムギの足にすりすりと頬ずりをした。
かくして。
純粋なゲーマーであり胃薬必須の常識人に加え。
プライドをへし折られて洗脳(?)された、高レベルのチョロいお嬢様ATM。
異世界の理不尽な常識を振りかざす守銭奴元勇者のパーティに、また一つ、強烈な個性とカオスが加わってしまったのである。
この恐るべき「泥臭いパーティ」が、ゲーム内のバランスをさらなる次元で破壊していくことになるのは、火を見るよりも明らかな事実であった。




