第18話:魔法陣の読み方(異世界流)〜システム依存の魔法使いはただの的〜
轟音とともに闘技場の石畳が爆ぜ、もうもうと立ち込めていた黒煙が、吹き抜ける風によってゆっくりと晴れていく。
すり鉢状の観客席を埋め尽くした数千人のプレイヤーたちは、息を呑んでその光景を見下ろしていた。
誰もが、初期装備の布の服を着た小柄な少女――ツムギが、トップギルド『薔薇の騎士団』のマスターであるリンの放った数十発の火炎弾の直撃を受け、一瞬にして消し炭になったと確信していた。
しかし。
煙が完全に晴れた闘技場の中央には、焦げ跡一つ、煤一つすらついていないツムギが、何事もなかったかのように初期装備の『木の棒』を肩に担いで立っていたのだ。
「……な、嘘……!? 私の弾幕を、歩いて……躱した……!?」
純白と真紅の高級ローブに身を包んだリンの美しい顔が、驚愕と純粋な恐怖で引き攣っていた。
彼女の放った『業火の嵐』は、システムによる高度なエイム補正が働いている。ターゲットの現在位置と移動速度をシステムが瞬時に演算し、最適な弾道で追尾するはずだった。
だというのに、ツムギはその場から『ただ歩き出しただけ』で、全ての火炎弾をやり過ごしてしまったのである。
観客席からは、一拍遅れて割れんばかりのどよめきが沸き起こった。
『おいおいおい! なんだよあれ!?』
『当たってない!? いや、当たる直前で全部不自然に曲がったぞ!?』
『ラグか!? サーバーの同期ズレか!? いくらなんでも、布の服の初心者がリン様の魔法を無傷で回避できるわけがない!』
『絶対チートだろ! 運営に通報しろ!』
観客たちの怒号が飛び交う中、最前列で見ていた相沢航太(アバター名:コウタ)だけは、両手で顔を覆ってブルブルと震えていた。
「違う……。ラグでもチートでもない……。あいつは、魔法が飛んでくる軌道を、撃たれる前から完全に分かっていたんだ……。やっぱりあいつ、人間じゃねえ……」
コウタの呟きは、周囲の喧騒にかき消されて誰にも届かなかった。
一方の闘技場の中央。
ツムギは、パニックに陥りかけているリンに向かって、呆れたようにため息をついた。
「だから言ったじゃない。杖を振る前は右肩に力が入るクセがあるって。それに、魔法陣の起点が左に三ミリずれてるから、弾幕の広がり方には『左下』に決定的な死角が生まれるのよ」
「な、何を言っているの……!? 魔法陣のズレ!? そんなもの、システムが自動で生成するエフェクトに過ぎないわ! 私の魔法は完璧よ!」
「完璧ねぇ。システムに全部お任せの『ゆとり魔法』が完璧だなんて、笑わせないでよ」
ツムギは木の棒をブラブラと揺らしながら、一歩、また一歩とリンに向かって距離を詰め始めた。
「このゲームの神様(開発者)はね、変なところだけ異常にリアリティを追求してるのよ。魔法陣っていうのは、ただの綺麗な模様じゃない。大気中のマナ(魔力)を術者の体内に通して、指定した属性に変換し、目標へ射出するための『物理的な回路』なの」
ツムギの脳裏に、かつて異世界で四年間、嫌というほどしごかれた地獄の記憶が鮮明に蘇る。
『いいか勇者! 魔術師の展開する魔法陣の幾何学模様をよく見ろ! 円の歪み、ルーン文字の明滅のタイミング! そこに、次にどんな魔法が、どれほどの速度と角度で飛んでくるかの全ての情報が書いてあるのじゃ!』
『そんなの、飛んでくる一瞬で見切れるわけないでしょぉぉっ!?』
『見切れなければ丸焼きになるだけじゃ! ほれ、三連ファイヤーボール!!』
寝ている時も、食事をしている時も、川で水を汲んでいる時も。
あの宮廷魔術師は、一切の容赦なくツムギに向かって魔法を撃ち込んできた。
システムによる親切な『攻撃範囲の赤床表示』など存在しない、本物の異世界。
そこで生き延びるために、十歳のツムギは血反吐を吐きながら『魔法陣の解読』と『術者の筋肉の収縮を読む』という、常軌を逸した動体視力を身につけたのである。
「術者の呼吸、肩の上がり方、そして展開された魔法陣のミリ単位の歪み。それを見れば、あんたの魔法がどこを通ってどこに着弾するか……弾道予測線が、私の目にはハッキリと見えてるのよ」
「で、でたらめよ……! そんなこと、人間の処理能力でできるはずがないわ!」
リンは恐怖を振り払うかのように、金切り声を上げて後ずさった。
彼女のプライドが、目の前の初期装備の初心者が自分よりも上の次元にいることを、強烈に拒絶していた。
「私はトップランカーよ! この『薔薇の騎士団』のマスター、東山凛よ! こんな泥臭いだけの野蛮人に、私の美学が負けるわけない!!」
リンは両手で杖を天高く掲げた。
彼女の全身から、先ほどとは比べ物にならないほどの圧倒的な魔力が立ち昇る。
純白のローブが風に舞い、杖の先端にはめ込まれた特大の火属性魔導石が、太陽のように眩く輝き始めた。
「これで終わりにしてあげる! 私の持つ最大火力の必殺技! この魔法は、ターゲットを完全にロックオンして、対象が死ぬまでどこまでも追い続ける絶対必中のホーミング魔法よ!」
リンの足元に、直径五メートルにも及ぶ巨大で複雑な魔法陣が三層にも重なって展開される。
上空には、ソフトボール大の超高圧縮された火球が、なんと五十個以上も同時生成された。
闘技場の空気が灼熱に染まり、観客席のプレイヤーたちですら、その熱気に顔を覆うほどだった。
『出たぁぁぁっ! リン様の奥義、【紅蓮の流星雨】だ!』
『あんな数、しかも全部が完全追尾仕様だぞ! 逃げ場なんてあるわけない!』
『今度こそあの初心者、完全にオーバーキルだ!』
観客席が熱狂に包まれる中、リンは勝利を確信したような残酷な笑みを浮かべ、杖をツムギに向かって勢いよく振り下ろした。
「灰になりなさい、成金女ぁぁぁっ!!」
ヒュゴォォォォォォォォォォォォッ!!!
五十発を超える超高圧縮火球が、一斉に軌道を描いてツムギへと殺到する。
空を真っ赤に染め上げる炎の雨。それはまさに流星群であり、システムが指定したターゲット(ツムギ)を寸分の狂いもなく追尾する、回避不能の死の弾幕だった。
しかし。
ツムギはやはり、焦るどころか、その場に立ち止まって小さく欠伸を噛み殺した。
「……必中? ホーミング? バカね。魔法っていう質量の塊が空中で方向転換するには、空気抵抗と慣性の法則っていう『絶対のルール』を突破しなきゃいけないのよ」
ツムギの目が、向かってくる五十発の火球の軌道を、恐るべき処理速度で解析していく。
(第三層の魔法陣、魔力濃度が右側に二ミリ偏ってる。ってことは、全体的な弾道は右カーブを描きながら迫ってくる。……ホーミング魔法の追尾性能(旋回半径)は、火球の速度に反比例する。これだけ高初速で撃ち出された火球なら、急カーブなんて曲がれるわけがない!)
火球がツムギの鼻先に到達する、そのコンマ一秒前。
ツムギは右足を軸にして、コマのようにクルリと体を半回転させた。
同時に、上半身を後ろに大きく反らす。マトリックスも顔負けの、物理法則ギリギリの回避姿勢。
シュゴォォォォッ!!
数発の火球が、ツムギの鼻先数ミリの空間を通り過ぎていく。
システムに「ツムギの現在位置」をロックオンして飛んできた火球たちは、直前でツムギの姿勢が大きく変わったことにより、慌てて軌道を修正しようとする。
だが、ツムギの計算通り、高初速で飛ぶ火球の旋回半径では、急激な方向転換など不可能だった。
ツムギを通り過ぎた火球たちは、空中で強引にターンしようとしてお互いの軌道に干渉し合い、空中でドゴォォォン!と大爆発を引き起こした。
「な、なんだって……!?」
リンが絶叫する。
しかし、ツムギの回避行動はまだ終わっていなかった。
「一、二、三歩進んで、右に半歩」
ツムギはワルツでも踊るような軽やかなステップで、爆発の煙をすり抜けながら前進を再開する。
残りの火球が、獲物を逃がすまいと背後や側面から鋭角にターンして襲いかかってくる。
(背後から来る三発は、私の『首の高さ』を狙ってる。左からの五発は『腰の高さ』。……だったら)
ツムギは歩みを止めず、ただ『しゃがむ』という単純な動作を行った。
背後からの火球がツムギの頭上を通り過ぎ、左からの火球と空中で激突して相殺される。
「よし、次は左に一歩。からの、前転」
爆風を利用して前方にゴロゴロと転がり、起き上がりざまに右へステップ。
炎の弾幕が、ツムギの残像を追うように地面に突き刺さり、次々とクレーターを作っていく。
システムが計算する『追尾の限界角度』を、ツムギは完璧に見切っていた。
火球が曲がりきれないギリギリのライン(死角)へと、常に自分自身の中心軸をズラし続ける。システムによる回避スキル(無敵フレーム)など一切使っていない。純粋な物理演算のハックと、超人的な空間把握能力の賜物だった。
『……嘘だろ……?』
『あいつ、歩いてるだけだぞ……?』
『ホーミング魔法が、全部あいつを避けていくみたいだ……!』
観客席は、もはや怒号すら消え失せ、水を打ったような静寂に包まれていた。
数千人のプレイヤーたちが、信じられないものを見る目で、闘技場の中央で繰り広げられる「ありえない光景」を凝視している。
ただの布の服を着た初心者が、トップランカーの放つ必殺のホーミング魔法を、まるで雨の日に水たまりを避けて歩くような気軽さで、完全ノーダメージですり抜けているのだ。
「あはっ! ぬるい、ぬるいわよお嬢様! あのクソジジイの『五属性混合変則ホーミング弾幕』に比べたら、あんたの魔法なんて一直線に飛んでくるボーリングの球みたいなものね!」
ツムギは炎の雨の中を悠然と歩きながら、大声でリンを挑発した。
その顔には、死の恐怖など微塵もない。
あるのは、リンが身につけている『総額三十万円相当の高級装備』をいかにして傷つけずに奪い取るかという、極限の強欲だけだ。
(あの杖の先の宝石、一発でも打撃を入れたら耐久値が減って市場価値が下がるかもしれないわね。純白のローブも、私の木の棒の汚れがついたらクリーニング代がかかっちゃう。……よし、装備には一切触れずに、HPだけを一撃で刈り取る!)
ツムギの脳内で、レジスターのチャリンチャリンという音が鳴り止まない。
彼女にとって、これは決闘ではない。目の前で暴れている「三十万円の札束」を、いかに綺麗に回収するかという収穫作業に過ぎなかった。
「な、なんで……! なんで当たらないのよぉぉぉっ!!」
リンは半狂乱になりながら、何度も何度も杖を振り下ろし、残りの魔力を全て注ぎ込んで火球を追加生成する。
しかし、焦れば焦るほど、彼女のフォームは崩れ、魔法陣の展開は雑になっていく。
ツムギから見れば、それは「次はここに撃ちますよ」という親切な案内板を出してくれているようなものだった。
「魔法陣の詠唱時間が長すぎるのよ。あんた、魔法を撃つときは足が完全に止まってるじゃない。魔術師の最大の弱点は、詠唱中の『固定砲台』になっちまうことなのよ」
ツムギの冷酷な声が、リンの耳元で響いた。
「え……?」
リンがハッとして顔を上げた時。
炎の弾幕を全てすり抜け、ツムギはすでにリンの目の前――杖のリーチよりも内側、完全に手が届く至近距離にまで肉薄していた。
ツムギの瞳孔が開き、獲物を完全に捕捉した肉食獣のそれになる。
初期装備の布の服が、闘技場の風にバサリと揺れた。
対するリンは、大魔法の詠唱と発動による『硬直時間』の真っ最中であり、システム上、指一本動かすことができない状態に陥っていた。
「あ……ああ……っ」
リンの顔から血の気が引いていく。
自分が信じていたシステム、レベル、ステータス、そして最強の魔法。その全てが、目の前にいる泥臭い少女によって完全に否定され、無力化されたのだ。
「システムのお膳立てがないとまともに魔法も撃てないお嬢様には、いい薬(教育)になったでしょ?」
ツムギは右手に持っていた『木の棒』を、ポイッと無造作に地面に投げ捨てた。
装備を傷つけて市場価値を下げないための、最善の選択。
そして彼女は、右手の親指と中指をこすり合わせ、バネのように強く弾く形――いわゆる『デコピン』の構えを作った。
「さあ、私のライブチケット代(慰謝料)、耳を揃えて払ってもらうわよ!!」
ツムギの強欲と、異世界で培った完璧な体重移動が乗った、恐怖のデコピン。
三十万円の装備をひん剥くための、無慈悲な一撃が、絶望して固まるリンの額へと放たれようとしていた。




