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縁、八

 なぜかこの日の東海林は、どこか元気がなかった。仕事帰りなので疲れている? それとは少し違う。なにか、どこかぼんやりとしていた。


「今日はなんか疲れてます?」

 お茶をテーブルに置いた百合に、東海林は慌てて笑顔を作った。

「いいえ……あっ、今日はしっかりと相手を決めようと思ってきました!」

 やっぱり何かあったんだと、どこか無理しているような感じがした。

「あの……お相手を紹介するにあたり、もう少し……いや、もっと東海林さんの事を知りたいと思っています。だから何でも話して下さい」

 百合は、それ程強くない目力で東海林を見つめた。

「えっ……あっ、今日の僕変ですか……」

「変というか……どこかいつもと違います……」

 東海林の唇が微妙に震えた。

「か、彼女に……会ったんです……」

「彼女?」

「あっ、昔お付き合いしていた……まぁ元カノってやつです」

 そう言うと、一口お茶を飲んだ。


「会社の昼休みに……ランチを食べに出かけたんです……昔、あっ、だいぶ昔に付き合っていた彼女なんですが、道でばったり会って。あっ、結婚したのは噂で知っていたんです……今日は隣に結婚相手の方がいて……で……」

 少し黙り、お茶を再び一口飲み、話し始めた。

「彼女は高校生の頃、演劇部で主役とかやるような子で、男子からも女子からも人気があって。僕はそんな彼女に惹かれました。だから付き合えた時はもう嬉しくて……今でもその時の事はよく覚えています」

 徐々に声のトーンが上がっていた。

「子供の頃から僕はとても現実的で、野球選手になりたいとか、そんな夢を持った事は一度もなかったんです。そのせいか、将来女優になりたいって夢を持っている彼女が、何だかとても眩しくて……」

「舞台で何か演じるって凄いですよね。私なんてそんな度胸はないですよ」

「僕もです。自分は誰かを応援する側だからって、いつも彼女を励ましていました。オーディションに通ったら一緒に喜んで……落ちたら一緒に悲しんで……夢に向かってキラキラしている彼女が大好きでした……」

 そう話す東海林の表情は、きっと誰の目からみても、この彼女の事をずっと想ってきたのだと感じさせるものだった。

「高校を卒業して……僕はそのまま大学へ進学しました。でも彼女は海外へ留学したりして、どんどん演劇にのめり込んでいきました。いつの間にか、付き合ってるのか、付き合っていないのか? 分からなくなって……社会人になってもそんな状況が続いていて……」

「自然消滅、みたいな?」

「はい。気が付いたら……僕は他の女性と付き合い始めて……」

「でも、ずっと彼女の事は気になって?」

「ちゃんと別れた訳じゃないですからね……でも、昔の話です。だから、彼女が結婚した事を知った時、ああそうか……そんな年だもんなって思って……」

「じゃあ、その彼女は女優さんにはならなかったんですか?」

「いいえ。大スターにはなっていませんが、舞台女優としてずっと頑張っていたようで、最近はテレビドラマにも出ているようです」

「そう、凄い……夢を叶えたんですね」

「はい」

 東海林は自分の事の様に嬉しそうな顔をした。


「それで僕は勝手に、彼女が俳優とか、演出家とか、同業者の人と付き合って結婚をしたんだろうと思っていたんです……でも……」

「でも?」

「……相手の方は、製薬会社で働いている普通のサラリーマンらしいです……彼女、凄く幸せそうに笑っていました……」

 どうやら、東海林の元気がないのはこの事のようだ。

「昔、たまに彼女とケンカになった時、僕には分からない事? そう、住む世界がちがうとか、そんな事で言い合いになったりして……やっぱりうまくいかないかもって……なんでしょうか……平凡な自分と夢を追う彼女との間には、結婚という道はないと勝手に決めつけていました」

「じゃあ、彼女と結婚する気はなかったんですか?」

「……心のどこかで、彼女との事は青春の一ページのような恋で、結婚は他の人とするんだろうなって……そんなふうに思ってたとこあるんですよ……」

「割とクールなんですね」

「クール? いいえ、臆病だっただけです……だって、僕は今日、後悔したんです。彼女を応援して、ずっとそばにいるべきだった……そうしたら、隣にいるのは僕じゃなかったのか? なんて思ってしまったんです。馬鹿ですよね……」

 彼女と彼女の隣にいる男性の後ろ姿を見送った時、忘れていたはずの気持ちが溢れた。でも、それと同時に、自分も前に進まなくてはいけないと思い、ここへやって来たのだ。

「何言ってんでしょうね、ダメですよね……」

 力なく、悲し気に笑う東海林を前に、百合はその気持ちが分かる様な気がして、思わず言ってしまった。


「実は私、バツイチなんです」


 東海林はきょとんとした。

「今の東海林さんのお話を聞いていて、私も同じような気持ちになった事がありまして……」

 その話は、男性に話すには些か戸惑う内容だが、百合は続けた。

「私、不妊治療をしていたんです。でも元夫は突然、他に好きな人が出来たと……」

「……そ、それは辛いですね……どうして……いや、その……」

 東海林は言葉を選び始めた。

「あっ……いいんです。もう吹っ切れましたから今は」

 吹っ切れたのかどうなのか、実は分かってはいない。でも離婚して一年程は、友達にこの話をする時、やっぱり泣いていた。

「その時の私は、腹が立つとか、そんなんじゃなくて、さっさとその女性と別れてほしかったんです」

「……ご主人を許せたんですね」

「許すとか許さないとかじゃなくて、私は早くしないと、年齢の事もあるし、焦っていたんです。とにかく子供を授かりたい一心で……」


 百合は子供が大好きだった。三人くらい産むつもりだった。結婚したのが二十七歳だったので、二人で頑張れば何とかなると思っていた。マイホームも一人目の子供が生まれて、その子が幼稚園に入る頃には買えたらいい……その為に独身時代からコツコツと貯金をしていた。

「私は、いつの間にか、元夫が子供を作る相手にしか見えなくなっていて……一日中、そのことばかり考えて……いつも、辛いのは自分ばかりだと思う様になって……」

 その頃の百合は、友達とも会わず、引きこもりの状態が続いていた。

「治療がうまくいかなかったので、気分転換に旅行でも行こうかって、そう夫が言っても、治療費で大変なのに、呑気なこと言わないでよ、なんて……噛みついて」

 東海林は百合の話を、小さく頷きながら聞いていた。

「まぁ結局、別れを告げられて離婚しましたけど。私、家を出て行く日、捨て台詞みたいにこう言いました。その若い女と再婚して、私の間には授からなかった子供を作って幸せに暮らして下さい、お幸せに! って」

「……恨み節も出ちゃいますよね」

「はい……。でもその時……あの人、私に言ったんです。僕がいま心を寄せている人は、君よりもずっと年上で……だから、こんな事言うのも何だけど、子供を授かる確率は少ないと思うって……」

 前は、友達にこの辺まで話すと、泣いて声にならなかった。特に、元夫が自分よりずっと年上の女性と……という所が一番辛くて泣けた。でも今ではさらっと話せるようになった。と思っていたが……。

「元夫は私に、授からないなら仕方がない、ふたりで生きていくのもそれはそれでいいじゃないかって……そう言ってくれた事があったんです。でもあの人が私を憐れんで、無理してそう言っているような気がして、その言葉を信じる事が出来ませんでした……もう絶対に子供が欲しくて……あの頃、あの人の優しい言葉も耳に入らないくらい……おかしくなっていました」


 離婚したのは三年程前だった。実家に出戻り再就職して、忙しくしているうち、徐々に離婚の傷は癒えていたが、さっきの東海林の話じゃないが、後悔したのは確かである。

「私、あの人の事が大好きでした。だから結婚した時、凄く幸せで。だから子供もすぐに授かって、楽しく暮らせるんだろうなって思っていて……でも、五年間の結婚生活は、自分の嫌な部分や、ダメなとこばかりしか思い浮かばなくて……そりゃ他の人に取られるわって……」

「百合さん、そんなふうに思うのは、よくないですよ……」

 東海林は、とても気を遣う様な顔で百合を見た。

「そ、そうですか? そ、そうですよね! やっぱり浮気する奴が悪いですよね! あっ、浮気じゃないか、本気だったか……すみません、なんか……」

 その後、やはり少しだけ百合は泣いてしまった。涙が、右の瞳から一筋、流れた。


「そんな私が誰かの結婚相手を探すなんて笑っちゃいますけど、でも、失敗したからこそアドバイスできる事もあるかもしれないので……」

 すぐに笑顔を作り、さっと涙を親指で拭った。

「いいえ。蝶子さんもそうでしたけど、いつも親身になって話をしてくれて。僕なんてあんまり人に自分の事を深く話しませんが、蝶子さんには、少しですが話せたんですよね……そして今、百合さんにも」

「そうですか……嬉しいです」

 百合は、久しぶりに自分の離婚について話した時、大丈夫だと、もう立ち直ったのだと思っていたのに、まだ涙がでてしまう自分に驚いた。でもそれと同時に、自分も東海林と一緒に立ち直らなければいけないと感じた。

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