第14話ー④ あの笑顔を、もう一度
神戸へと続く橋のふもとの海岸に、高橋は来ていた。
退学届は途中で投函した。チューターの判はなかったが、もうどうでもよかった。
橋の下では、渦潮が生まれては消えていた。
あとは、カプセルを飲むだけだった。
だが、手が止まった。
昨晩の光景が蘇る。女の声。体の震え。閉めた扉の感触。
高橋はえずき、砂浜に両手をついた。
何度試みても、飲めなかった。
握った拳を砂に叩きつけた。
日が傾いても、その場を動けずにいた。
やがて、松野の笑顔が浮かんだ。
もう一度、あの顔を見たい。
勧誘のために向けられた笑顔でもよかった。
高橋はようやく立ち上がり、来た道を戻った。
アパートに着いたのは、深夜零時過ぎだった。
そのまま眠り込み、目覚めると昼を回っていた。
携帯にチューターから留守電が入っていた。
折り返すと、向こうから学生たちの声が聞こえた。
「高橋君か。大学を辞めるそうだな。考え直さないか。ご両親も悲しむぞ。悩みがあるなら、相談に……」
決まり切った言葉に思えた。
それでも、電話をくれたことはありがたかった。
曖昧に相槌を打っているうちに、「それじゃあ、頑張れよ」と電話は切れた。
逃げられるものから、全部逃げたのだ。
大学からも、家族からも。彼女の最期からも。
信念だと思っていたものも、逃げだったのかもしれない。
俺は死にたい人たちと、心中しようとしていただけではないか。
それでも、こんな気持ちのまま死にたくなかった。
今さら格好をつけても仕方がない。
松野美恵子に会いたかった。
あの笑顔を見れば、思い残すことがなくなる気がした。
会った後で、もっと惨めになったとしても。
「斉藤という学生に会ってきましたよ」
天門賛美の会の事務所で、眼鏡の女が変装用のかつらを外した。
「何それ。あの子とは別人みたいな言い方ね」
「ええ、別人でした」
「偽名だったの? 何のために?」
「さあ。どこかのスパイかもしれませんね」
「まさか」
松野は笑ったが、口元はこわばっていた。
「身元を隠したい事情でもあるんでしょうか」
「勧誘だと分かって、本名を教えたくなかっただけかもしれないでしょ」
女はかつらを机に置いた。
「容姿を説明したら、高橋という学生じゃないかと。ずっと大学には来ていなかったけど、最近、友達のアパートの前で会ったそうです」
「高橋……大学には?」
「退学の手続きをしているそうです」
「じゃあ、もう一度、家に行くしかないか」
「その必要はなさそうですよ」
「どういうこと?」
「来たみたいです。高橋君」
松野は監視カメラの映像を覗き込んだ。
斉藤と名乗っていた男が、入口に立っていた。
現れた松野に、いつもの笑顔はなかった。
「来てくれてありがとう。でも、その前に一つ、聞きたいことがあるの」
「何ですか?」
その顔を見て、高橋は悟った。
「偽名を使っていたのね。どうして?」
まっすぐ向けられた視線が痛かった。
高橋はうつむいた。
二人の間に、沈黙が落ちた。
その頃、夕方のローカルニュースでは、二人目の相手の変死が淡々と報じられていた。




