第14話ー② 砕けた祈り
女は眠っている間もうなされ、シーツを握りしめていた。
三時近く、突然起き上がり、部屋を探し回り始めた。
「どうした?」
「私の薬は?」
「あの抗うつ薬か?」
「苦しいの。どこにあるの?」
高橋は立ち上がった。
「待ってくれ。今飲んだら、予定の時間に薬を渡せなくなる」
「じゃあ、今渡して。私を殺して」
「あと少し、待ってくれ」
「いや!」
枕が飛んできた。
女はシーツを引き剥がし、机の写真立てを壁に叩きつけた。
ガラスが割れた。
床に転がった薬瓶へ、女が手を伸ばす。高橋はとっさに取り上げ、ポケットへしまった。
「返してよ!」
女は壺をつかみ、振りかざした。
高橋は顔をかばった。
壺はすぐ脇を通り、机の角にぶつかって砕けた。
女が引き出しからカッターを取り出した。
高橋は飛びつき、手首に押し当てられた刃を、どうにか引き離した。
「何で邪魔するの!」
突き飛ばされ、よろめいた。
女は床の破片を踏んでいた。声をかけても止まらず、血の跡だけが増えていく。
やがて、その場にしゃがみ込んだ。
「もういいでしょう。これ以上、苦しめないで」
「今渡しても、楽に死ねないかもしれないんだ」
落ち着いて言うつもりが、声は震えていた。
「お願い。今、死にたいの……」
安楽に死なせるという約束にこだわって、苦しめているだけなのか。
高橋はカプセルを取り出し、女の口元へ差し出した。
考え抜いたわけではなかった。もう、見ていられなかった。
楽にしてやりたい。
その気持ちに、自分が逃げ出したいという思いも混じっていた。
女はカプセルを見つめ、高橋を仰ぎ見た。
最後の確認を求められている気がした。
今、彼女は生きている。
俺はまた、自分の信念で人を殺そうとしている。
上村の顔が浮かんだ。
あの後に残ったのは、罪悪感だけだった。
もう、やめろ。
消えるなら、俺一人でいい。
手を引こうとした瞬間、女が身を寄せた。
止めるより早く、カプセルを飲み込んでいた。
その場に崩れ落ちる女を前に、高橋は手を差し出したまま動けなかった。
まだ、間に合うはずだ。
そう思った時、女の体が震え始めた。
早すぎる。
苦しげな声が漏れ、口から血があふれた。
薬そのもののせいか、他の薬の影響か。高橋には分からなかった。体がのけぞり、痙攣を繰り返す。
吐き気がこみ上げた。
自分が渡した薬で、人が苦しんでいる。それなのに、恐ろしさしか感じられなかった。
喉から漏れる声を聞くうちに、ついさっきまで話していた相手だと思えなくなった。
高橋は部屋を飛び出した。
階段を駆け下り、何かに追われるように玄関の扉を閉めた。
そこからのことは、よく覚えていない。
気づくと、駅のベンチに座っていた。
始発列車が警笛を鳴らし、ホームへ入ってくる。
静かな住宅街を、奇声を上げながら走る自分の姿だけが、頭に焼きついていた。
ターミナル駅に着くと、高橋は改札へ向かわず、別のホームへ移った。
上村に会いに行った路線だった。その先で線路は海を越え、実家のある島へ続いている。
退学届に、判をもらいに行こう。
それだけを考えよう。
そうしていなければ、自分が何をするか分からなかった。
快速列車の最後尾に乗り込み、向かい合わせの座席に体を投げ出した。
橋へ差しかかると、窓の向こうに黒い海が広がった。
ここから落ちれば、終わるのだろうか。
窓に額をつけた。
開かない窓が、今は自分をつなぎ止めているようだった。
開いたとして、飛び降りられるのか。
生きることも死ぬこともできない。
それでも心のどこかで、誰かの助けを待っている。
生き疲れた人を、安楽に死へ導く。
自分を支えていた、その使命すら果たせなかった。
彼女を苦しめ、見届けることもできずに逃げた。
唇を噛むと、血の味がした。
東から日が差し、海を赤く染め始めた。
乗客たちが窓の外を見ている。
高橋も、その光を見ていた。
今日、俺は自殺を決行する。




