第14話ー① 日付が変わる夜
女は一緒にいてくれと言った割に、話しかけてはこなかった。ヘッドホンから、電話口で聞いたトランスビートが漏れている。時折口ずさむが、表情は放心したままだった。
午前零時近くになり、女が突然、鞄を指した。
「その大きな荷物は何ですか?」
すっかり忘れていた。
クラウフの壺を取り出すと、女が覗き込んだ。
「これ、何ですか?」
「僕もよく分からないけど、宗教のありがたい壺らしいんだ」
「へえ」
すぐに興味を失ったように、女は時計へ目を戻した。
二十三時五十九分。
今日中に死にたいという願いは、叶えられなかった。
薬のために待つしかないと、高橋は自分に言い聞かせた。
表示が零時に変わった。
「今日は、一年前、私がレイプされた日なの」
女がぽつりと言った。
「机の写真は、その一週間前に友達と京都へ行ったときのもの。見るたび、戻りたくなるの。何もなかった、普通の日に」
涙が床に落ちた。
「最初は、あいつらへの復讐のつもりで、この日を選んだ。でも、いざ明日だと思ったら、あのときのことが蘇ってきて……昨日のうちに死にたくなった。もう、この日を迎えたくなかったの」
こんな出会い方でなければ、何かできたかもしれない。
いや、今からでも説得すればいい。
下心の混じった正義感を、高橋は押し殺した。
俺は薬を渡すために来たのだ。
「私、今日死ぬために生まれたのかな。あいつらに、あんなことをされるために?」
女は拳を握った。
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、何のため?」
「生まれた理由なんて、初めからあるものじゃない。どう生きるかに意味があるんじゃないか」
何を熱く語っているのだろう。
依頼どおりにすればいいはずなのに。
「思いとどまらせようとしてるの?」
「ただ、思い違いをしたまま死ぬのも、どうかと思って」
「じゃあ、自殺を選ぶのは間違い?」
「……考え抜いて決めたことなら、俺には否定できない」
「もう、決めたの」
女は唇を噛んだ。
「そうだね」
それ以上、言えなかった。
彼女への言葉で、自分の決断も確かめようとしていたのかもしれない。
「どうして、こんな仕事をしてるの?」
しばらくして、女が尋ねた。
「俺も、君と同じだから」
「あなたも、この薬を飲むの?」
「ああ。近いうちに」
「そう……残念ね」
「自分も同じことをするくせに、人の心配かよ」
女は目を伏せた。
「私、あなたに似た人に、ひどいことをしたの」
「ひどいこと?」
「あのとき、まだ処女だった。だから一度でいいから、ちゃんと付き合った人と結ばれたくて。それだけのために付き合って、すぐ別れた」
「その男が、俺に似てる?」
「顔も少し。でも、雰囲気が。今なら分かるけど、すごく優しい人だった」
女は高橋を見た。
「あのときから、男の人が近くにいるだけで怖かった。でも、あなたとはこうしていられる。あの人に似てるからかもしれない」
「君が死んだら、その人は悲しむだろうね」
「そうね……。私、仕返しをしたかったのかも。あいつらの代わりに、誰かを苦しめたかった。ひどい別れ方をしたから」
少しためらい、女は続けた。
「その人の代わりに、あなたに謝ってもいい?」
「俺は、その男じゃない」
「分かってる。私の気持ちの問題だから」
「……それで、少しでも気が済むなら」
女は正座し、何度も頭を下げた。
「ごめんなさい」
高橋は黙って見ていた。
顔を上げた女の表情は、いくらか和らいでいた。
「あなたに会えてよかった。だから、あなたには死んでほしくない。私の分まで生きてほしい。勝手だけど」
「ああ……ありがとう。できれば、そうするよ」
否定するのは、ひどく悪いことに思えた。
「少し寝ます。時間が来たら、起こしてください」
女はヘッドホンをかけ、布団にもぐった。
六時半まで、あと六時間弱。
高橋は横になる気にもなれなかった。
壺を手に取り、紫がかった表面に指を滑らせた。内側を覗くと、縁から底へ続く螺旋模様に吸い込まれそうになる。
クラウフ。やはり、クラインの壺から取った名前だろうか。
出口を探して進んでも、同じ場所へ戻ってしまう。
俺たちも、そんなところを回っているのかもしれない。
生と死も、どこかでつながっているのだろうか。
高橋は苦笑した。
宗教など信じていないくせに。
それでも、壺を机に置き、手を合わせた。
次があるなら、彼女が幸せに生きられますように。




