図書室での不思議(前編)
犬のように伏せて濡れた床に鼻を近づけてみると、どこかで嗅いだことのあるにおいがする。なるほどスポーツ飲料と判別して、安川にも嗅がせてみる。
「そうかも」
次に側の本に目を移す。文庫本サイズのそれを拾い上げて題名を読むと『葉隠』の下巻とある。聞き覚えがあるが、読んだことがないので内容の如何はわからない。安川に問うて武士の教えの本だと知るが、彼女も実際に読んだことはないらしい。
「誰がこんな本を読んでいたっていうんだろう?」
「さっき、声が聞こえた、その人?」
この場にてこの侍の本を、スポーツ飲料を飲みながら読み、おまけにすすり泣くなど、色々とあべこべすぎて人物像が浮ばない。二人してついニンマリとしてしまう。その笑みも、しかし長続きはせず、ならばいなくなったその人物の行方を考え、顔から血の気が引いて背中に寒気が走る。濡れた床に視線を落としたり、天井を見回したり、急にそわそわとする。
「誰か呼んでくる。あの人たちを…」
「深沢君、一人で?」
「じゃあ、一緒に」
二人して図書室を出て一番近くの階段に差し掛かったところで、上の階を調べていた佐久間滋が降りてくる。すぐに呼び止めて、とにかく変な事態だからと説明も不十分にその腕を引っ張り、また図書室へと引き返す。濡れていた床まで滋を案内すると、ところが僅かに水滴を残すのみ。
「あれ?」
「確かに濡れていたのに…」
滋は二人を交互に見つめる。年上をからかった悪ふざけだとも思えない。屈んでよく見てみると、雑巾か何かで拭き取った跡もある。
「この部屋に誰かまだいるってことですか?」
滋は頷く。その表情も硬い。
「うちの隊長を呼んできます。ここで何かが起きたことは間違いないと思うから」
滋は一人で部屋から出ようとするが、
「一人で、ですか?」
安川に呼び止められて、
「では、三人で」
ところが出る前に、深沢はそれまでずっと掴んだままの文庫本に目を落としてこう言う。
「これ、この床に落ちていたんですけど、いまここに置いておいたら、また戻ってきたときには消えていますかね?」
悪い考えでもない。滋は『葉隠』を受け取りパラパラと頁を繰る。読書を好む彼はこの本を一度読んだことがある。その彼曰く、物好きでなければなかなか手に取らない温故知新の難しい書物だそうである。
「ねえ、ちょっと」
安川が何か閃いて二人に近づきこう耳打ちをする。
「この本をここに置いて、ここから離れるふりをして、隠れてここの様子を見てみるっていうのはどう? 何が起きたのか確かめられるかもしれない」
それもまた良策である。そして大胆である。今どきの高校生はなかなか勇気がある。UWに従ってくれているという違いはあっても、気の強さは羽田たちと等しいかもしれないと滋は感心する。その彼も反対するつもりはない。三人は息を合わせて頷く。『葉隠』を濡れていた床に置いたところで出口に向って走り出す。敷居を跨いだところで、また引き返し、高い本棚の陰に隠れて『葉隠』の様子を、息を殺して観察する。待つこと三十秒強、本が置かれた付近の空間に突如として「穴」が出現したと思うと、そこから細い子供の腕が伸び、床の『葉隠』を掴んで「穴」へと引きずり込んでしまうのであった。すぐにその「穴」も小さく萎み、あっという間に消滅する。滋たちは慌てて駆け寄るが、すでに遅い。見事に本だけが消し去られてしまう。
続きます




